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は「懇等の言葉」であり得るか
荒 牧 典 俊
( 大 阪 大 学 ) §1
いわゆる南北雨停の複雑な惇承過程を経て停承された原始併殺経典の諸 惇罫本は,原始併教思想そのものを研究するという目的のためには,どの ような資料的債値と限界を有するかという原始併殺資料論,どのような方 法によって研究されるべきであるかという方法論の嘗然の掃結として,現 存資料の中に「樟零の言葉」が停存するか,停存するとすればどのように して確認されるかということは,これまでの諸皐者によって研究され壷さ れてきたといって過言でない。吾園においてはきわめて早く宇井伯需博士 によって「原始俳教資料論」(1922,li'~p 度哲翠研究第二」 1965 所枚),「併設思 想研究』 1943などが出版されて資料論が確立され,和辻哲郎博士の「原始 俳教の宜践哲皐』1
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木村泰賢・景山哲雄誇「併陀ー その生涯と数読と数圏』 1928)の原始併教理解を無批判に踏襲しているところ が少くないのではないかと思う。どうしてそのようなことになるか。ここ には根本的な敏陥があるのではなかろうか。ここにおいてわたくしが根本 的な依陥であると考えるのは,これまでの原始{弗敬思想の研究においては 膨大な敢に及ぶ散文経典のみがもっぱら研究封象とされていて,少数なが ら惇存する韻文経典がほとんどまったく研究されなかったと考えられるこ とである。原始イ弗典の中でも散文経典だけを研究している限り,殿密に資 料論・方法論を誼用して研究したところで既成概念や法数項目が見出され るのみで,それらの起源や護達過程を解明することができないし,そこに は「樟辱の言葉」も存在しないという結論にならざるを得ない。散文経典 についてのみ宇井博士の結論は正しい。それに劃して難解であるけれども 韻文経典を正しい資料論・方法論にもとづいて研究してみると,それらが 最初期の併敬敬圏において惇持された古層経典であり,それらを前史とし ておそらくアショーカ王治世後半頃から出家長老教固によって散文経典が 陸績創作され停承されたであろうことが考えられてくる。もとよりこれら の諸貼については詳細な論誼が必要であるが,本稿はその場所ではない。 ここでいささか論じたいことは,しからば韻文経典を正しL、資料論・方法 論によって新古層へ分析していったときに確認されるであろう最古層経典 - 2 - Attadal).手asutta(Sn 935-954)は「穆隼の言葉」であり得るか (荒牧典俊)が「揮牢の言葉」であり得るのでなかろうかということである。ここ十年 来機曾あるごとに韻文経典を新古層へ分析することを試みてきて,現在わ たくしが到達しつつある結論は, Suttanipataの Atthakavaggaにふく まれるいくつかの韻文経典が最古居経典であろうということである。その 中でもとくに第十五経 Attada:gq.asuttaは,(勿論それだけが,というの ではないが)その第一人稿で自己自身の根本の宗教睦験を説法し濁自の修 行方法を宣言しているという経典形式からしでも,「樟傘の言葉」であるに ふさわしいのではないか。(cf.V. V. Gokhale, Gotama
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s Vision of the Truth, Aめ1arLibrary Bulletin,vol. 30, 1966, p. 107)以下,本稿ではAttada:gq.a -suttaが「揮辱の言葉」であり得るか,どうかを確認するための(あくまで も)一つの試みを試みてみたいと思う。§ 2
ところである経典が「樺傘の言葉」であるかどうか,ということは言語 皐的・文献皐的・思想史的・哲皐的などなど可能なかぎりの方法によって 論詮されなくてはならないが,さしあたり最初の俣読提言として次の二貼 を考察したい。第ーには,叙事詩 MahabharataのSantiparvanやジャ イナ古経などにも停承される苦行者文皐のガーターの原惇承に依操するこ とを確認した上で,にもかかわらず揮辱濁自の思想が読かれているかどう かを考察し,第二には,そのような樺傘濁自の根本思想がつづく諸層の韻 文経典において漸次に展開して五誼・六慮・四諦・縁起などの俳教教理が 成立していく過程をあとづける。ただし木稿では第ーのテーマだけを,許 された頁教の範囲内において略論し,第二のテーマについては別稿に期す ることとする(「東洋翠術研究」 23-1所牧拙稿参照)。 それではAttada:gq.asuttaの諸ガーターはどの程度まで苦行者文皐のガ Attada存i;lasutta(Sn935-954)は「縛牢の言葉」であり得るか (荒牧典俊) - 3ーーターの原惇承に依擦し,どのような併教濁自の根本思想を説いているか。 ここではAttadal.).qasuttaの全二十のガーターの中から,この経典の附加 部分でない本来部分に属していたと考えられる五ガーターだけを取上げ, 逐一考察してし、くこととする。 さてこの経典において揮零は「わたくしがどのように世間を厭い捨てる 心をおこしたかを読こう」(Sn935)と述べて世間を厭い捨てる不安を苦行 者文皐の詩句によってうたっていくが,次の詩顕にはかれら苦行者の不安 と修行を批判する思想が観取される。 Sn 937 samantam asaro loko disa sabba samerita/ icchaJ!l bhavanam a抗anonaddasasiJ!l anosita平// 無限の過去以来あらゆる方向の世間的存在から世間的存在へとつき動 かされて輪廻轄生している一ーし、かなるところにおいても世間的存在 は根抵的にうつろい寅質がない。どこかにわたくしのアートマンが安 住するところがないものかとさがしてみたが,わたくしが見たのは, いい加減なところに安住している人々ばかり。 この詩頚は,かの有名な法華経の火宅の聖職の源流ともなるジャイナ古経 Uttarajjhayana(Utt)に惇えられるガーターに依接するのではないか。 jaha gehe palitammi tassa gehassa jo pahu/ sarabhal.).qi:l.l.).i ninei asarai:μ avaujjhai// (Utt9. 22)
evam loe palitammi jarae mara♀e:ga ya/
appal.).ai:μ taraissami tubbhehii:μ a:gumannio//(Utt9. 23)
誓えば家が燃え上っているとき,その家の主人は永遠の賞質の債値あ
る費物箱を運び出して責質の債値なきものは放置しておく。そのよう に世間的存在が老と死によって燃え上っているとき,わたくしは,汝 さえ同意するならば〔汝自身の〕アートマンを救済するであろう。 ジャイナ古経が老死する世間的存在の内にある永遠不獲の宜質たるアート マンを救済することを主題とするのに劃して, 「梓隼の言葉」は「あらゆ るところにおいて世間的存在は永遠不襲の寅質をもたなし'J と宣言する。 6句の“disasabba”は二つの古注轄ともに nominativeに理解してい るが, Sn939の用例と同じく accusativeの副調的用法である。したが って“samerita”も“samerito”と改めるべきである。さて詳論は別稿 に譲るが,ジヤイナ教の根本戒律を宣言する Mahaviraの言葉が Ayara-i:tga(λ.y) 1. 1, Dasaveyaliya 4など慮々に停承されている。その最古態 を停存すると考えられる Ay1.1に無限の過去以来輪廻して轄生してきた 神々乃至地獄の存在の存在形態を“sabbaodisao sabbao anudisao”と する特異な用法が見出される。ここの“disasabba”は,そのような特 異な用法を承けているのであり,「〔紳々乃至地獄の存在の〕すべての輪廻 的諸存在を遇して」の意味に理解されるべきである。 c-d句は難解で、ある が,ひとまず次の如くに考える。 Suyagadai:tga(Siiy) 1. 2. 2.17との劉麿 関係が指誼されている Sn810にいう。 patilinacarassa bhikkhuno bhajamanassa vivitta-1τ1-asanarp/ samaggiyam ahu tassa tam yo attanarp, bhavane na dassaye// 人里を遠く離れた坐慮に坐して比丘がひっそりと自己自身の内に集中 して修行しているにしても,もしも自己自身のアートマンを〔何らか の騨定の位などの〕定住庭に示現することがないとするならば,それ こそ,かれが和合{骨伽に属していることである,とよぶ。 “bhavanam attano”とは,理手まが究極的には否定した atmanが存在し Attadal).<;lasutta (Sn935-954)は「樗隼の言葉」であり得るか (荒牧典俊) ー 5ー
つつある限り,そこに存在しているような定住慮ではないか。「atmanが 存在しているような〔静定の位などの〕定住慮をさがし求めたが」というの であろう(λy,1.5. 5. 4の“etthavib昌labhaveappa早arμ no uvadarμsejja”の 用例を参照)。 難語“osita(ava・syu・)は, ひとまず Suy1.14. 4にみら れる「師のもとにとどまって静定などを修行しつづける」という意味での “osana”によって理解しておきたL、。それが syu司という語の「鳥など があるコースに沿って飛んでいく」という原義にも副う。 「中途半端な騨 定の位にとどまって修行していないような者を見出さなかった」とでも詳 したし、。しからば Sn937は,苦行者文亭において輪廻的存在の内なる atmanを救済することが読かれていたのに劃して, atmanが存在してい るような騨定の位は“osita”であると批判していることとなろう。 揮辱は,つづいてあらゆる衆生が生きんがために衝突しあいながら輪廻 轄生しているのみならず,それから解脱しようとした苦行者たちまでが論 争して敵劃しあっていることに絶望してしまい,絶望の極に達したところ で,ふとかれらすべての存在の深奥なる心臓に一本の矢が突きささり,か れらを街き動かしていることを護見したという。 Sn 939 yena sallena oti.Q.早odisa sabba vidhavatij tam eva sallam abbuyha na dhavati na sidati//
その心臓に突きささった矢のエネルギーによって突き飛ばされて,あ らゆる人々はあらゆる方向の世間的存在へと輪廻轄生しつづけてし、く。 いまもしも,その矢をさえ引抜いてしまうならば,もはや輪廻韓生し つづけることはあるまし、。もはやはでしない輪廻の洪水の中で浮沈し つづけることはあるまい。 - 6 - Attada1;u;lasutta (Sn 935-954)は「樗傘の言葉」であり得るか (荒牧典俊)
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かれの〔輪廻の〕主植である〔深層〉意識が〔深層において〕執著している ところへと〔深層の〕執著あるひとは, 普悪の行局〔の蓄積〕とともに 〔輪廻縛生して〕L、く, 云々というこのことが欲望あるひとのことであ る。 というように輪廻の根本原因が深層の執著であり欲望であるということが 見られ, それが中期ウパニシャ y ドを経てMahabharata (
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の哲事 思想へと設達してL、く。またジャヤイナ古経にも「欲望の矢」が輪廻をl脅 大させると考えられている。s
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6) 欲望とは矢だ。欲望とは毒薬だ。欲望とは毒蛇の毒の如くだ。欲望こ そが無数〔の苦悩〕をもたらし,欲望こそが輪廻を増大させる。 欲望の矢を引抜いていなし、からこそ,衆生は欲望で員理がわからなく なって,老死の刑練の中を輪廻轄生することとなる,し、かんとも兎れ 難く。 しかしウパニシャツド以来の停統においても,苦行者の停統においても, 欲望は,主としてさまざまな欲望の封象に封する欲望であり, とくに五種 の認識能力の封境に劃する欲望であると考えられていて,理毛主におけるよ うに「深奥の心臓に突きささった矢」のような最深層の欲望であり,輪廻A
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(Sn 935-954)は「蒋隼の言葉」であり得るか (荒牧典俊) 7-的存在を街ぎ動かしていく原動力であるとは考えられていなかった。たし かに Ay
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2. 5. 4∼5などにみられる“saqidha−” “saqidhi,”MBh 12. 195. 12, MBh 12. 199. 6などにみられる“abhi−も しくは pratisaqidhi”が,揮傘の読かれるような最深層の欲望の源流で はないかと考えられるが,いまだ樟辱におけるように明確には輪廻の原動 力として考えられていないし,ましてそれを放捨ずる自由が人間には聞か れていて,それを放拾するためにはL、かなる修行をするべきかということ は考えられていない。ここでも樟零は百尺竿頭の一歩を徹底させていると いってよし、。 さてつぎの Sn940は, tattha sikkhanugiyanti という散文の序詞によって導入されている。“anugiyanti”とは,師の教 えもしくは他者の言葉などを,そのままの語句によってであれ,その意味 内容を改捷しないようにしてであれ,もしくは補足するようにしてであれ, 再詠することであり, Sn940以下が僻弟子による附加であることを暗示 している。いま詳論を省くが, Sn945を除く, Sn940-Sn 947がその附 加部分に相賞すると考える。ここではSn945だけを取上げる。この詩頚 が「樟辱の言葉」であることは,次層以後の韻文経典によって誼明される であろうからである。 Sn 945 gedha耳1bri.imi mahogho ti ajava1p. bri.imi jappana1p./ 忌rammai:ia平 pakappanaヰlk忌mapa副主oduraccayo// わたくしは言う,はてしない輪廻の洪水であるのは,衆生の深層に潜 在する欲望である。わたくしは言う,あちこちへ向う激流であるのは - 8 - Attada!].,;lasutta (Sn935-954)は「縛等の言葉」であり得るか (荒牧典俊)そのときどきの衝動的な欲望である。そこに流れる漂流物であるのは, いつまでも世間的存在でありたいと意思し構想するときの劃象存在で ある。ああ,まことに欲望の底なしの泥沼を渡りきることは難しい。 いったし、Kathakasarμhita9. 2に最古の閲読が見られ Satapathabrah -mal.J.a
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8.1
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1∼
10に最も詳細に惇設される 「Manuと大洪水の物語」 (辻直四郎「古代インドの説話」 1978, p. 17£.参照)が,おそらく「洪水 (aug -ha, Pali ogha)」概念の源流となるであろう。さらにJ
aiminiyopani号ad -brahmal.J.a 1. 10. 5, Svetasvataropani号ad1
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5にみられる「洪水」概念 も,苦行者文亭の「洪水」と無関係でなし、。しかしそれらヴューダ文献に おける「洪水」概念は,カオスの海において祭儀を執行することによって コスモス(の水)が創造されていくことを説明するコスモス創造設話を背景 にもつのであって,いまだ苦行者文皐におけるように輪廻の警鳴になって いない。それではそのようなヴューダ文献に見られる「洪水」概念はL、か にして輪廻の警職へ護達していくかということは,この時期の思想史の根 本問題である輪廻思想の成立・展開などの問題とともに別に考察されるべ きであり, いまは直ちに論ずることができない。 ここでは唯, MBh 12. 169. 17, MBh 12. 227. 11f.にみられる「洪水」概念こそが前者から後者へ の護達の中間段階であり,ここにこそ問題解決の糸口が見出されるべきで あることを指適するにとどめる。とくに MBh12. 227. 11f.の「洪水」概 念は次下に論ずる苦行者文皐における「洪水」概念の直接の典操であると 考えられる。ところでジャイナ古経であると原始併典であるとを間わず, 苦行者文皐の「洪水」概念の原型であるのは, Utt23. 69f.及び Suyaga-tjanga1
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3. 31∼
32に倖えられるつぎのような警H訟である。 jaramaral.J.a vegel).atμ vujjhama1.J.a1.J.arμ p匂 il).atμ/ AttadaI).c;lasutta (Sn 935-954)は「稼隼の言葉」であり得るか (荒牧典俊) - 9ーdhammo divo paigha ya gai sara♀am uttamarp.//(Utt23. 69) a手早avarp.si mahoharp.si navii viparidhiivai/ jarp.si goyama-m-iirutj.ho kaharp. piirarp. gamissasi//(Utt23. 70) ja u sassiivil).i: niivii na sii piirassa giimil).i/ ja nirassavil).i niivii sii u piirassa gami平i//(Utt23. 71) sariram ahu niiva
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jive vuccai niivio/ sarp.saro a手早avovutto jarp. taranti mahesil).o//(Utt23. 73) 老死の濁流に押流されている生物たちにとって島であり着地であり目 的地であり最高の時依慮であるのは, 宗教的員理(dhamma)である。 大洪水の海の上を舟が漂流しているとき, ゴータマよ, そこに乗って いる人は,いかにすれば彼岸に渡るであろうか。もしも渇流が漏水し てくるような舟であるならば,彼岸に渡ることはない。もしも濁流が 漏水しない舟であるならば,彼岸に渡る。 身瞳のことを舟とよび,生命ある〔アートマン〕のことを水夫とよび, 輪廻のことを〔洪水の〕海とよぶのであり, 仙たちは渡っていく。 その〔洪水の海〕を偉大な聖 ジャイナ古経や原始併典における「洪水」概念は,ほとんど例外なくこの 警轍にもとづいているのであり, 「洪水」 とは老死する生物たちの輪廻全 瞳を意味する。 しかるに樺傘はここで宣言して樟等調自の「洪水」思想を 提出する。「わたくしが大洪水であるとよぶのは深層の欲望である。〔あち こちの)激流であるとよぶのは〔そのときそのときの〕衝動的欲望である。 〔さまざまな〕漂流物であるのは〔さまざまに〕構想された掛象物である。. …」上述の詩煩 Sn 939においてあらゆる輪廻的存在を街き動かしてい く原動力たる最深層の欲望が見出されたのを承けて, この詩頚は輪廻の大 洪水そのものがその本質において深層の欲望であると宣言し, - 10 - Attada早g.asutta(Sn935-954)は「蒋隼の言葉」であり得るか それを激流 (荒牧典俊)に相賞する衝動的欲望と漂流物に相嘗する構想された劃象物をも構成要素 とすると因子分析している。しかもそのことによって次下に読かれるよう うな最深層の欲望を滅査させて輪廻の洪水から良質に解脱して自由になる ための樟辱濁自の稗定修行が導出される。しからばその最深層の欲望を減 量させるには,どのような静定修行がなされるべきであるか,が,つぎの Sn 949の主題である。 Sn 949
yam pubbe tam visosehi paccha te mahu kiiicanam/ majjhe ce no gahessasi upasanto carissasi/ / 無限の過去以来欲望にかられて善悪業を積重ね漏水して水びfこしにな った世間的存在を干上らせてしまうがよし、。未来においていかなる世 間的存在をも志向しないようにするがよい。いまここの現在において し、かなる世間的存在をも執著して離さないということのないようにす るのがよい。そうなるように稗定において思惟しつつ静寂なるままに 修行していくがよし九 上述で注記したように MBhのMo
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adharma章の古層部においても, ジャイナ古躍の中の古層経典である Ayにおいても,輪廻の最深層の根 操として「〔いつまでも世間的存在でありつづけようとする〕深層の欲望 (abhiーもしくはprati-)sarp.dhi」が読かれていて,それが樫辱の「最深層 の欲望(の矢) gedhaもしくは tal)ha」の源流であるのではないかと考え られるが,前者 Mok号adharma章は「最高なるもの para」「不滅なる聖 音ak卒ara」などとよばれる「ブラフマン brahman」の員理を睦得する ことを主題とし,後者 Ayは「業 karman」を減量させることを主題と Attadai;u;!asutta(Sn 935-954)は「得傘の言葉」であり得るか (荒牧典俊) -11ーしていて,揮辱のように「最深層の欲望」を減量させることこそが解脱の 自由に達するための要諦であると考えていなし、。 ところで轄牢はここで 「最深層の欲望」を減量させるための静定の修行として「無限の過去以来 輪廻の洪水の汚水が身世存在に漏水してきているのを干上らせよ,未来に おいてし、かなる存在をも所有しないようにせよ,現在において最深居の欲 望を放拾せよ」と説く。このように過去・未来・現在の三時の輪廻的存在 に謝する「最深層の欲望」を減量させょとし寸表現の源流は,ジャイナ古 経 Ayにあるであろう。
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1.4. 4. 3)ある人にとって過去においても存在せず,未来においても存在しない, とするならば,そのような人にとってどうして中央の現在において存 在するであろうか。 そのような人こそ智慧ある人であり究者であり 〔善悪業の〕貴行をやめてしまった人である・・ ここである人にとって何が過去・未来・現在において存在しないのか,と いうことが問題になるが,注籍者
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は二解をあげる。第一解は, 直前の文章からつづいていると考えて, 「さとりの知孟♀a
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読むが存在 しないと解するが,前文で Ay1. 4. 4. 2が終りここから Ay1. 4. 4. 3が はじまって段落があることを無覗している。第二解は,それぞれ享受した 快柴を想起すること,享受したい歓喜を願求すること,享受しつつある喜 悦に愛著することがないと解する。可能な解揮ではあるが,わたくしは前 後の文脈が「業karman
」の減量を主題とし,つづく文章にも「業が存在 しないことを見る」と読く故に,上文も「業が過去・未来・現在に存在し ない」ことを意味すると理解しておきたい。しからば揮零はSn9
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にお いて,過去・未来・現在におけるあらゆる「業」を減量させるべく苦行す - 12 - Attadat).c;lasutta (Sn 935-954)は「樟寧の言葉」であり得るか (荒牧典俊)ることを否定して,そうではなくして次備に過去・未来・現在のあらゆる 時における「個盟存在(名色) namariipa」と設かれるような最深層の輪廻 的存在に劃する欲望を放拾するようにせよ,そのように稗定の修行をせよ, と説いていることとなる。ここでも揮傘は,古停の苦行者の思想を縫承し ながら,しかも濁自の稗定修行を提唱しているといってよいであろう。因 みに SnAghakavaggaの諸経よりも後に初期俳教教固において編纂さ れたと考えられる「法句経 Dharmapada」には Ayの上引文により忠賓 な形で,しかも梓隼濁自の思想を述べたつぎのような詩頚が見られる。 yassa pure ca paccha ca n
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atthi kiiicanarμ/ akiiicanarμ anadanarμ tam aharμ briimi brahmal.).atμ/ / (Dhp 421 : GDhp 34 : Uv 33. 29A) ある人にとって過去においても未来においても現在においても,いか なる〔輪廻的〕存在も所有されていないとするならば,いかなる〔輪廻 的〕存在をも所有せず,いかなる身世的〔もしくは個睦的〕存在をも所 有しないそのような人をこそ,わたくしは波羅門であるとよぶ。 ここにおける円、かなる〔輪廻的〕存在をも所有せず,し、かなる身睦的〔も しくは個瞳的〕存在を所有しなし、」ということが, Sn 1094にみられるよ うに梓傘の根本思想の要約であることを考えるならば, Ay1. 4. 4. 3にも とづいて Sn949がつくられ,さらにそれにもとづいて Dhp421がつく られたという停承閥係が傍誼されることともなろう。ところでつぎに,こ のような梓傘濁自のi
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atthi mamayita:qt/ asata ca na socati sa ve loke na jiyyati// このように修行していって過去・未来・現在のし叶、なる時においても 「{固睦存在」(名色 namarupa)を「わたくしのもの」として所有す ることがなくなるならば,ありし日の世間的存在が喪われたからとい って悲嘆することもなく,またそのような人はこの世間にありながら 年老いることもない。 ここでとくに論ずるべきことは,二つである。第ーは“yassan’
atthi mamayitarp.”とし、う詩句の奥様であり, 第二は“namarupa”なる揮 等以後の併殺思想の根本概念がどこに由来するか,である。まず第一, “yassa n'atthi mamayitarp.”なる語句は Ay1. 2. 6. 2のつぎのような 語句を典擦とする。 esa parinna pavuccai kammovasanti / je mamaiyamairp. jahai se jahai mamaiyarp. / se hu ditthabhae mm;iij
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-yarri/(Ay1.2. 6. 2) つぎのことこそが, 〔あらゆる〕業を寂滅させる完全な良知である。 「わたくしのものである」と思って所有する所有意識を放拾するなら ば,そのような人は「わたくしのものである」と思って所有する所有 物を放拾する。ある人にとって「わたくしのものである」と思って所 有する所有物が存在しないならば,そのような人はまことに〔世間的 存在の〕不安を見た沈献の聖者(牟尼 muni)である。 Ay 1. 1がジャイナ教の根本戒律であるあらゆる生物に劃する完全な不殺 生戒を宣言し詳論したのにつづいて, Ay1. 2は,さまざまな生物に劃す る殺生の原因となる所有物の獲得及び蓄積を放拾することを主題としてい - 14 - Attadal).<tasutta (Sn 935-954)は「樗傘の言葉」であり得るか (荒牧典俊)る如くで,上引Ay1. 2. 6. 2はその結論部にあたるであろう。 Ay1. 2に おいて「わたくしのものである」と思って所有する所有物は,たとえば, jiviyarp. puq.ho piyarp. iha-m-egesirp. maI).aVaI).arp. khettavatthu mamayama手昌平am(/
λy
1.2. 3. 3) この世間においである人々は土地や財産を「わたくしのものである」 と思って所有しているからこそ,かれら一人一人の個人的生活が大切 になるのである。 とL、うように「土地や財産」,さらには「父母,妻子,親類縁者」(Ay1.2. 5.3のparigrahaをλy
1.6. 4. 3のparigrahaと比較されたし、)から「個人的 生活」までをふくんでいると考えられ,それらをすべて放拾して出家する ことを説いていると考えられるが, 樟傘は Sn950においてそれを究極 にまで内面化して輪廻的存在の最深層にある「あらゆるときの個瞳存在 namarupa」を所有することなく騨定において放拾せよと説くのである。 ここにも樗傘における思想、の徹底的な内面化が認められる。つぎに第二, 「個睦存在namarupa」なる根本概念はどこに由来するか。はやく Rgveda 讃歌に先駆的に現れ Atharvavedaで Rgvedaの Puru号asuktaと結合 するようになって以来, BrahmaI).a,Upani~ad 文献においてコスモス創 造哲皐の根本概念となる「個睦存在 namarupa」が,他方でまた原始併 殺の根本概念でもある故に,従来から Oldenberg,Liiders, Gondaなど 各世代の代表的ヴェーダ謬者も,この根本概念が前者から後者へどのよう に関係するかを問題にしつづけてきた,しかしその具睦的な思想史的関係 は杏として解明されざるままに残されているといわねばならぬ。のみなら ず,そのような根本概念が中期Upani号ad以後,併殺以外には突如として みられなくなり, Mahabharataの Mo同
adharma章にもジャイナ古経 にもあとづけられず(MBh12. 308. 118の“namariipatva”は併殺の影響をうけ Attadal).~asutta (Sn935-954)は「樟傘の言葉」であり得るか (荒牧典俊) ー15ーているのではなかろうか。),初期 Vedanta亭,派においてふたたび根本概念 として取上げられるに至るという思想史的事宜もいまだ充分には理解され ていないのではなかろうか。いまここで直ちにそのような大問題を論ずる ことはできないが,ここでは唯中期 Upani号adの一つ Mul).q.akopani号ad にみられる「個瞳存在」が「樟辱の言葉」における「{固髄存在」の源流であ るのではないかということを考えておきたい。Mul).q.akopani号ad(Mu叫U) は,一言にしていえば Brhadaral).yaka−や Chandogyopani担d以来の ウパニシャツド諸哲亭思想を一つのまとまった哲率瞳系へと集成し,以って Mahabharataの Mok号adharma章にみられる原初サーンキャ思想の源 流となったウパニシャッドだということができるが,まさしくその段階の ウパニシャツドが最初期傍教思想にいくつかの根本概念を提供したと考え られる。 Mu♀q.Uの哲亭瞳系は,つぎの三項に要約することができるであ ろう。一,ヴェーダ祭儀文化の全瞳を「最高ならざる串間」であると批判 し, 「最高なる亭問」としてブラフマン郎フ。ルシャ郎アートマンなる不滅 の民理を知る知を読く(とくに Mu吋U1.1. 4-1.1.5)。二,不滅のフ。ルシャ から「生気 pral).a,思考 manas,すべての認識能力 indriya,空・風・ 火・水・地〔の元素]が生じ」,天地の聞の日月・山河などなどの高物が流 出するが, そこにおいてフ。ルシャは「あらゆる生物の内なるアートマン sarvabhutantaratman」である(Mul).c;lU2. 1. 3f)。三,「森材にあって〔租 霊祭などを行う〕信心と苦行が同一であると思惟して修行し……乞食行を 行ずる人々が……プルシャに時ーする」(Mul).c;lU1.2. 11)が,とくに「OM 〔という聖音〕を唱えながら〔フ。ルシャ朗ブラフマン即アートマンなる〕アー トマンを稗定において思惟していく(Mul).c;lU2. 2. 6)。かく「稗定において 思惟していくとき,知が澄明になり心が清浄になって……アートマンを見 る」(Mu早c;lU3.1.8)。そのとき - 16 - Attada!).gasutta(Sn 935-954)は「穆傘の言葉」であり得るか (荒牧典俊)
yatha nadyal]. syandamanal]. samudre 'starμ gacchanti
namaru
ρe vihaya/tatha vidvan
namaru
ρad
vimuktal]. parat pararμ puru号amupaitidivyam/ / (Mu吋U 3. 2. 8)
あたかも河川が,〔それぞれに〕流れてきて「個鰻存在」を放拾するこ とによって大海に鴎滅するように,そのように員知ある人も「個盟存 在」より解脱して自由になることによって最高なるものよりも最高な
る天上界のフ。ルシャへと蹄ーする。
わたくしは, Mm:iqUが Mok号adharma章における原初サーンキャ思想 の源流となり,したがってジャイナ古盤や「樫傘の言葉」に直接的に先行 するであろうという思想史的位置を考え,ここに述べたような哲準値系に もとづいて「騨定において思惟していって〔最後に〕個瞳存在を放拾するこ とによって解脱して自由になる」と読くことを考えるとき,揮年がまさし くMuI)qUから「個睦存在」なる根本概念を導入して,静定において「わ たくしのもの」と思考される所有を放捨しては放拾していって究極におい て「個位存在」を放捻せよと読くことも,十分にあり得ると考える。少く とも現存の文献によって考える限り,それがもっとも確からしいといわざ るを得ぬ。 以上,略論してきた如くであるとするならば,つぎのように結論するこ とができるであろう。インド古代祭儀文化が堕落して漸次に「輪廻の洪水」 の様相を深めてきたときに,祭儀共同盟の外へ出て森林において
OM
を 唱えつつヴューダの根源の同一律の員理upani号adを思惟する哲人達が出 現し,つづいてかれらが祭儀において殺生すること,少くともそれを肯定 Attadal).<;1.asutta(Sn 935-954)は「縛傘の言葉」であり得るか (荒牧典俊) ー 17ーしていることを批判して,いかなる生物をも殺生しないことを根本戒律と する苦行者群が出現していたが,轄毛主はまさしくそのような思想情況の中 に出現し,かれら雨者がとくに殺生の可否をめぐって聖母論抗争しているこ とに紹望したところから,稗定において思惟してあらゆる所有を放拾し究 極において「個瞳存在」を消滅させよ,すなわちそれに執著する「最深層 の欲望」もしくは「自我意識」を放拾することによって「個睦存在」を消 滅せざよ,と読いたのであった。このような樟傘濁自の稗定の修行は,静 定において思惟しつつ個睦存在から解脱することを説くが祭儀文化を肯定 するのでもなく,すべてを放拾しきって修行することを読くが苦行主義的 な否定でもない中道であるということもできるであろう。ここに論じた