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中央学術研究所紀要 第19号 074ジーン・リーブス「他の諸伝統から学ぶ-未来における形而上学的仮定と態度」

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Academic year: 2021

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我々はこの宿命論の考え方にすでに出合っているし﹀おそらく誉自分自身のなかで宿命論を感じた経験を持った 時さえあったであろう。宿命論とは、未来はあらかじめ完全に規定されていて、すでに完全に解決済みで、閉じら れているという確信である。事の成り行きは、我灸がどうこうしようと何んら関係がないという確信である。将来、 起こるものは起こるべくして起こるのである。

こ”宿命論という言葉憾他にも胴いら紅為蕊皇そば澱定論としてす雲琵心出来事砿他書にょ尋壷1代

義︶、自由である。︵訳注2︶ 論、理解¥又は一仮定︵前坦論、理解、又は、仮定︵前提︶と結びついているといえる。その三つとは、決定論、アテンポラリズム︵無時間主 上で、その三つの態度を宿命論、静寂主義、希望とする。︵訳注1︶これらは、それぞれ異なる三つの形而上学的理 私の真に信ずるところでは、未来に関わる人類のとりうる態度は、三つしかありえないと思う。議論をす上める

他の諸伝統から学ぶ

⋮!⋮未・来に関わる形而上学的仮定と態度i1I

ジーン・リーフス

篠崎友伸訳

−74−

(2)

他の|調伝統から学_扉

蕊鮒篭需恥ごLて健権ん必少L前”出来事今御出蕊事亙肱そ個請桑俳に止尋てl完余に魂嘩さ紅てぃ易

という見方である。それは宿命論的態度の信条的な側面であり、宿命論的態度を保一証する形而上学的理論の一つで 決定論には科学的、心理学的、哲学的、宗教的など種々ある。これらを規定している条件は物質的なもの、幼児 期、形而上学的諸原理又はある種の神性として理解されるが、どの場合も未来は、閉じられており、解決済みであ り、原理的には過去と何も異っていないのである。決定論というものは、明らかに、すべてのものは世界の始まり において完全に規定されているというものである。他の決定論では、現在の諸条件が未来を規定し、ほんの直前の 諸条件が現在を規定するというのである。もちろん、ほんの直前の諸条件がそれ以前の諸条件によって規定されて いるので、それ故、論理的に始まりにもどるのである。この様に、どちらの場合も、あらゆるものが始めに決まっ てしまっているし、世界は初めに決められた有限な可能性を使い切っていく様なものである。 次に﹁アテンポラリズム︵無時間主義︶﹂とは、機能的には決定論とあまり違わないが、しかしいつも決定論と とは異っているし、原則的には現実には確かに違うのである。アテンポラリズムでは、時間は究極的に幻想である。 リアル 前にも後にも時間は実在しないのだから、当然、未来は前もって規定できるはずがない。常にただあるのである。 未来は規定できない、というのは、ある意味で未来は存在しないということである。未来はたんなる幻想である。 それ故、我々の目的は時間の中での出来事の成り行きに影響を与えることではなく、むしろ、時間の幻想を超越す ある。 る道を思い出すことにある。 宿命論が決定論と結びつくという意味では、アテンポラリズムは宿命論とつながらないが、しかし、このアテン ポラリズムは宿命論とつながらないが、しかし、このアテンポラリズムは、あまり良い言葉がないのだが、﹁静寂

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主義﹂の態度を意味している。この静寂主義とは世界をあるがままに受け入れる態度である。ここでは世界の変革 を追求するかわりに、その他の実在を内面的に実現しようとするのである。 第三番目の態度は、歴史や未来に希望を見い出すものである。希望とは時間と重要な関わりをもつものである。 あ 未来は創造されうるものであり、ある程度開かれているということでもある。更らには、我々がいかに在り何をす 熟僻艇I菖繊訓雪鍵盤繍蝿僻卿博庵#雪庭繊霜誉飾L電岬薩帆岨膳為至奮崎健瀕締為凝難鯉鵬縦腫獄L尋 蝋1割霊的結鴎壷鵜稀陰すという鋤であ篇。訓講望﹂必見打に典愚なら躍寸べて画耀鎧物︵隻物︺は創造誉 れたというだけでなく、ある程度、現実に関わる歴史の創造者でもある。それ故、存在するとはいつも他者に対し あ て存在することである。自分がいかに在り、どう成るか、ということが無数の人々に影響を与えるのである。 ﹁現実的希望﹂とは、因果律や相互依存性のもとに成り立つのだが、完全な、又は、絶対的な決定論にはならな い。物事の多くは我々の統制のもとにはない、ということや、目前の未来はちょっと前の過去と必然的にとても似か よっていることも、この﹁現実的希望﹂の態度は認めている。このことは、我々個人の生活、キリスト教徒や仏教 徒としての集団生活、人類としての生活にも妥当である。人類は地上の生命を支配しつつある。しかし、一方、台 風、水害、ひでり、地震、その他、毎日知らされる﹁自然による﹂災害から解かる様に、多くのことが人類の支配 のもとにないということも事実である。個人生活はもとより社会生活においても、人間の成し遂げられることには 多大な限界があることも皆認識している。我々自身過去の産物であり、過去の比重が我点に重くのしか坐っている ことも認めている。別の言葉で言えば、現実的希望にとっては、存在するとは他者に対して存在するだけでなく、 お 他者に負うて存在していることを認めることである。我灸は未来の創造者であるばかりか、過去の被造物であり、 相続人でもある。 −76−

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他の諸伝統から学ぶ 希望と腫物事か好転するよう期待することではない。希望とは楽観主義的であるとも言えるが、.必らずしもそ うでない。希望とは個灸の密り方にかかっているのであり、その在り方が重要であると認めることである。個食の 在り方によって良い方に行くか、悪い方に行くかどうか、未知のままである。同じく個人によって、又は、集団に よって、より良い世界を、又は、より悪い世界を築くかどうかも未知のままである。 ﹁希望の態度﹂に対する形而上学的信条はいろいろ論じられる。未来には創造性、新奇、自由がある程度開らか れている。ある与えられた状況における、自由や創造性の可能な程度は極端に小さいかも知れないが、しかし、決 してゼロではない。絶対的決定論と対照するならば、形而上学的自由の理論では、未来はほんのわずかしか規定さ れていないのである。それで、世界は累積的であり、常に過去にあった以上のものである。アテンポラリズムと対 照するならば、この態度では時間とか継続とかは究極的実在するのである。かつ、過去と未来は根源的に異なるも のであり、それは過去がいま完全に規定されてはいるが、未来は部分的にまだ規定されていないのである。アテン ポラル・リァリティーズ︵無時間的実在︶が存在するのか、永遠の実在が存在するのかは別として、この時間的世 界それ自身は究極的に実在するし、重要である。 ここに一記しておきたいことがある。もし神や究極的実在に関しての我々の思考が﹁希望の態度﹂と一貫している ならば、あるいは、もし神や仏が世界を経験しているとするならば、他の人々に対しての承ならず、その究極的実 在に対しても我々の生活や行為が重要な関わりを持つということを認めるべきである。被造物に自由と創造性を許 認し、且つ、神にあらゆる生起の決定権を許すことは、以前はどうであれ、もはや、両者を両立させることはでき ないのである。我々が何をし、何に成るかに従って、すべて、神の実在も影響を受けざるを得ない。神の影響は我 々のものよりも、より大きな範囲であるし、神の経験は人間のものと相当に異なっているにちがいないのだから、

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ほう 神は人間の行為の結果を喜こばれたり苦しんだりされることが想像できる。その意味で、歴史と世界はすべてを包 含する実在にとって究極的に重要でなければならない。もしそうであるならば、我々は有限な歴史と関係を持つの 桑ならず、少なくとも永久に神に対して関係があるといわねばなるまい。 態度と見解あるいは信条とは同じではない。あることを信じていても、その告白した信条に対して、知的には反 する奥深い感情を抱くことがある9事実、人々は知的には決定論を信じていながら、なお希望を抱いたり、自由を 信じたりして、運命論的絶望感の経験をするものである。思想と態度との間には、必らずしも、一貫性は成り立た ないのである。しかし、少なくとも思想上では両者は密接に関連している。というのは、思考は生活では実現さ れえない一貫性を追求する。例えば、思想と態度との一貫性であるが、宿命論と決定論、静寂主義とアテンポラリ ズム、そして、自由と希望との間の一貫性を追求するのである。 ﹁私の﹂未来、更らには﹁我々の﹂未来、そして、﹁唯この未来という三者間に機能的相違がある。原則的主 張としては、未来は開らかれていると言いつつ、自分自身の未来については、すでに完全に規定されていると考え ていることもある。アテンポラリズムの理論を奉じて、歴史は究極的に重要でないと信じる一方で、他者に対する 自分の立ち振る揃の大切さを感じている人もいる。ある人は、一方では決定論を知的に信奉し、また一方で自分の 生活や経歴をとても真剣に考えているのである。 要するに、この議論の意図するところは、希望は学ぶことを可能にするということである。これは大結論という のではないが、しかし、我々は自分の伝統と結ばれているので、他の伝統から真に学ぶのは不可能であるという見 のではないが、しかし.垂 解と対照的な見解である。 もちろん、我々すべ︸ てが、特定の伝統ないし、諸伝統に根ざしていることは事実である。しかし、人間は木の −78−

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他の諸伝統から学-ぷ 第一に認識すべきこととして皇主要な諸宗教伝統は長い間:他の宗教的菅文化的諸伝統との出会による受益者 であった。例えば、仏教は数十世紀の間、種友の文化圏で変化せず静止の状態にあったのではなかった。むしろ、 生きた動的な伝統であった。伝播された国や文化で、そこの諸宗教伝統と出会う中ですばらしく豊かに実らしてき たのである。このことは、仏教のような偉大な宣教伝統の象ならず、わりあい士着の宗教伝統にも言える。例えば、 道教伝統の発展は、仏教に学ぶことなしには考えられない。西洋のトーマス・アクウィナスや東洋の王陽明は、過 去の偉大な学者であるが、ギリシャのアリスト学派を背景としてのアクゥィナスや大乗仏教の影響下にあった王陽 明がそうであったように、異なる文化伝統の偉大な統合者でもあった。ここでの私の論点は、他の諸宗教伝統に学 ぶというあり方が、宗教伝統自身の未来を創造する時にも、その伝統を生き生きと保持する時にも、重要であった し、これからも重要であるにちがいないということである。 ﹁学び﹂には、根源的変革や対話へもたらすものから、あるいは、表面的な学びで終ってしまうものまで、ピン 様に一生ひとつの場所に根を張っているのではない。我灸はむしろ私の家にある植物のようなものである。その植 はんしょく 物はもとの土壌に古い根を保持しつつ、新しい土壌へと新しい根を張らして繁殖するのである。 それは真の対話、そこで互いに出合い成長するという対話が少なくとも可能であるということを意味している。 しかし、この様な真の対話は簡単でなく、多くの諸問題を乗り越えなければならない。それらは、個人の相違、心 理的な防衛、文化的、知的相違、経験や思考の相違、言葉の相違等である。これらの相違は容易ではない、不可能 ましいことなのであろうか屡 ではない轡 これまでの議論では他の諸宗教伝統から真に学ぶことは両能であるということである諺それで峰そのことは望

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学びということは究極的には個人的なものであるが、一民族としての集団的学びによって文化的学習や文化的変革を創造 するのであるということを認識するのが重要である。文化的変革には、自己自身の伝統を捨て去ることを必然的にせしめるで あろうか。答えは﹁イエス﹂であり、また、﹁ノー﹂であると思う。﹁イエス﹂というのは、成長、発展、あるい は変革には、常にある過去を捨て去り、その上に新たなものを築くことであるからである。学ぶことは、どんなに わずかであっても、新しいもの、以前には無かった、あるものに成ることである。同様に、他の諸宗教伝統との出 合いにより、常に自分自身の伝統に変革をもたらし、今まであったものではない何か違ったものを生ぜしめるであろ う。しかし、これはその伝統を捨て去るということではない。何故ならば、まさに伝統そのものが、発展、変革し てきたからである。あらゆる宗教伝統は、その様な学びを育翠、又は、少なくとも許容する要素が深いところにあ つ、その限られた実践を通して、普通の人々も自分の世界への知覚︵パーセプショシ︶を広ろげ豊かにすることが る。これらの少数者も大切である。しかし、普通の人達の学びこそ、奨励すべきことである。他の伝統を学び、か 統の研究や実践に一生かけ専念する人もあるが、そういう人はその道の専門家になるであろうし、いつも少数であ 的な知識であったが、それが次の探究心を生み出し、より豊かな経験と理解を深めていったのである。﹁他の﹂伝 身の体験でもあり、又、私の知人の多くの人々の体験でもあるが、他の伝統に関して、はじめは相対的に見て表面 く理解することを望んでいるのであろうが、学ぶための糸口をどこかに象つけ出さなければならないからだ。私自 な学び方に対して、軽べつするのが普通であるのだが、そういう批判はときには誤りである。当然、人々はより深 からキリまである↑︾旅行者にありがちな?表面的にしか学ぼうとしない〒又、他の伝統をす↑へて悪く受けとるよう ●●●●■● できる。世界を他者が見る様に正確に見ることは、だれもできないが、他者が見る様に世界を見ようとすることに よって豊かになるであろう。 −80−

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他の諸伝統から学ぶ 諸文化や諸宗教伝統に対する篇その様な態度は相対主義を意味するであろうか。ここでも答えは一イエス﹂であ り﹁ノー﹂である。すべての経験は、その主体、コンテクスト、及び、その対象に対して相対的である。つまり、 私の経験は、部分的には﹁私が誰れであり﹂、﹁私が何を経験するか﹂、また﹁理解と枠組︵フレーム・オブ・レ ファレンス︶という私のカテゴリー﹂、の産物である。それは部分的には、その経験が生起したコンテクストの産物 である。例えば、同じ人に会うにも韓国での会議で出合うのと、ヨーロッ・︿の防空壕の中で出合うのとでは経験は 違ったものになる。そして、私の経験は部分的には、その対象の産物でもある。その対象とは、時には、他者、景 色、ある種の宗教的実践であったりする、私の経験のむかうところのものである。経験するとは、縁︵相依︶の中 にいるということであり、その意味で、あらゆる経験は必然的に相対的である。しかし、経験が相対的であること は、すべての経験や信条が同じように有効で、善、又は、真実であるとは必らずしも言えない。相依性だからといっ て、経験、信条、実践において、より良いもの、より悪いものは何かと判断を禁ずるわけでもない。 偉大な諸宗教伝統はある程度、今ある諸文化の諸構成要素である。﹁アジア﹂の諸宗教、つまり、インド、中国、 宗教教伝統に学んだ賜物である辱 ものであったり、現代の出合いや対話に無用なものになろう。 ると信じるそうでなければその伝統は生きた伝統として存在していなしであろう義一︵一まり葦過去に凍結された 日本の文化伝統は、中国や西洋の文化との出合いを抜きにして考えることはできないが、そういう日本で、多く の諸宗教間対話が行なわれていることは偶然の出来事ではないと思う。日本個有のものと現在考えられている多く のものも、中国文化や西洋文化から摂取してきたものであるが、日本はまぎれもなく日本的でありつづけてきたの である。というのは、日本文化伝統は長い間、生きてきたし、今も生きている。その生命力は部分的には、他の諸

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日本の主要三国で発展してきた諸伝統を特に言及できることは偶然ではない。偉大な諸宗教伝統にとっては、部分 的には、特殊な諸文化を超越しうるのである。このことは仏教、キリスト教、イスラムの、偉大な宣教宗教の場合 にも明らかである。しかし、これは又、特殊な文化伝統により近いとされ得る宗教伝統においても多分に真実であ る。例えば、神道とか道教という宗教伝統である。それらの宗教伝統は、他の宗教伝統から学ぶことにより、部分的 に、その特殊な文化伝統を超越してきた。少なくとも時には、それらの諸宗教伝統は大きな文化に処すべく批判的 判断を用いることにより学んできた。その過程において、諸文化も諸宗教伝統も変遷してきた。 私の判断では、今日の諸宗教間の対話や学び合いが、どこへ導いてくれるのか、我々は知らないし、知り得ない。 キリスト教は仏教やアジアの文化との出合いの結果として、将来には、今とは大へん違ったものになっていると確 信している。しかし、仏教化されたキリスト教、キリスト教化された仏教、又は、両者の新しい綜合とか、両者の 結合とかが、現われるかどうか、我灸はわからないし、知り得ないであろう。 ここに希望がある。我々のひとりひとりが学びや変革を引き受けていくならば、相互啓発しないよりも、すばら しい未来が開らかれるであろう。自分の伝統の歴史というのは、生きた伝統に形を与えてきたものだが、その歴史 に勇気づけられる。その生きた伝統は過去から新しくあるが、それはあなたと私の様な人灸が常に他から学んでい るからである。宗教的対話を深めることによって、我為の知識や信条の象ならず、態度や実践までもが影響を受け るからである。 訳注 −82−

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他の諸伝統から学‐県 2、アテンポラリズム︵巴目冒︶﹃皇の日︶を無時間主義と訳出した。著者は、禅仏教の時間理解はこの形式に属すると言う。 1、静寂主義︵名−2⑩日︶とは、十七世紀末頃、西洋に起った宗教的神秘主義の一つである曇自我を滅却し︾世俗的関心から身を 引き、神や神性を黙想する宗教的態度に特徴がある。敬虚的、非世俗的、僧院主義の仏教には、この傾向が見られるという。 ︵この論文のタイト雄は、次の通りであるc一︶ 肖為四コ目己函坤○ヨ○計画四,弓計画・]ご○己m恥 冒①国呂稲旨巴宙の旨弓貫○コの四aショ冒号の弓○君囚a辱昂司匡目﹃の

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