• 検索結果がありません。

台北高等商業学校卒業生の動向に関する一考察

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "台北高等商業学校卒業生の動向に関する一考察"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

台]ヒ高等商業学ヰ交卒業生の動「句に関する−考察

横井香織

はじめに 台湾総督府高等商業学校は,1919(大正8)年に内地人を対象とした商業専門教育を施す学 校として設立された。本稿は,日本統治期の台湾において唯一の商業専門学校であったこの 高等商業学校を取り上げ,卒業生の動向を検討することによって,当時この学校が果たした社 会的機能を考察しようとするものである。 先行研究において,台湾総督府高等商業学校(以下,台北高商)(1)の重要性を指摘したのは, 中村孝志氏であった。氏の研究は,台北高商が南進要員養成機関として機能することを期待さ れ,それが大正南進期と歩調を合せて進んでいったことが指摘された画期的なものであった(2)。 中村氏の研究を踏まえたとされる陳例甫氏の研究では,台北高商が理論と実践を兼ね備えた 国策専門学校で,「南進第一線」の学校であったと位置付けられている(3)。しかし中村氏の研究 は,大正南進期と台湾との関係を明確にすることに主眼が置かれ,台北高商に関しては,当局 者の意図によって南支南洋で活躍する人材の養成が期待されていたことを述べるにとどまって いる。陳例甫氏の研究でも,台北高商の教育課程や事業の紹介など概説的なものだけで,学 校の存在価値に関わる問題に関しては分析されていない。 そこで本稿では,台北高商の卒業生の動向を分析することによって,中村氏が指摘したように, 南進要員養成機関としての役割を果たした学校であったのかどうか,実態を明らかにするととも にその存在意義を考察する。台北高商の卒業生の動向を分析し存在意義を考察することは,台 湾教育史研究の空白を埋めるというだけでなく,卒業生が活躍した台湾の商業・経済界の活動 を解明する上でも重要な意味をもつと考えられるからである。 1.台北高商の入学生 (1)台北高商の生徒募集 台北高商は,「本島ノ内外二於テ商業二従事セムトスル男子二須要ナル高等ノ教育ヲ施ス」 ㈹ことを目的として,1919(大正8)年に設立された。最初の入学試験は1919(大正8)年5月下 旬に実施された。入学資格は,中学校または商業学校卒業者で,中学校卒業者には国語,漢 文,作文,英語,数学の検定が,商業学校卒業者には商業算術,商事事項,英語,商業簿記, 銀行簿記の検定が行われた。試験会場は台北の総督府内で,内地から47名,台湾島内から 48名の受験者があり,40名が選抜されて入学を許可された。当初は入学者を内地人に限って いたが,1920年1月になって教育令が改正された結果,本島人生徒の入学を許すことになっ た。 表1は,入学者の出身学校の推移を示したものである。この統計からわかるように,台北高商 設立の翌年から9年間は,内地でも入学試験を実施しており,入学者数の50%以上を内地学 校出身者が占めていた。 −41−

(2)

表1台北高商入学者の出身学校の推移 入 学 年 次 入 学 試 験 地 受験 者 数 入 学 者 数 中 学 校 卒 業者 商 業 学 校 卒 業 者 そ の 他 内 地 他 台湾 島 内 内 地 他 台 湾 島 内 19 19 (大 8) 台 北 10 1 40 *40 1920 (大 9) 台 北 ・東 京 196 45 21 23 1 192 1 (大 10 ) 台 北 ・東 京 ・大 阪 ・福 岡 235 61 24 26 8 3 19?2 (大 11) 台 北 ・東 京 ・福 岡 220 54 19 21 5 9 19 23 (大 12) 台 北 ・東 京 ・福 岡  ム 184 53 15 20 10 8 19 24 (大 13) 台 北 ・東 京 ・福 岡 2 28 81 30 22 10 18 1 1925 (大 14) 台 北 ・東 京 ・福 岡 3 35 81 37 22 7 15 1926 (大 15) 台 北 ・東 京 ・福 岡 324 88 41 23 7 17 192 7 (昭 2) 台 北 ・東 京 ・福 岡 396 82 39 22 4 17 192 8 (昭 3) 台 北 ・東 京 ・福 岡 3 55 80 36 23 7 14 192 9 (昭 4) 台 北 244 81 29 32 5 15 1930 (昭 5) 台 北 203 80 23 39 4 14 193 1 (昭 6) 台 北 172 76 27 26 4 19 193 2 (昭 7) 台 北 149 83 29 34 1 18 1 1933 (昭 8) 台 北 179 85 19 39 2 25 1934 (昭 9) 台 北 205 85 19 43 1 22 19 35 (昭 10 ) 台 北 174 79 2 1 34 4 20 19 36 (昭 11) 台 北 227 82 14 46 1 2 1 1937 (昭 12 ) 台 北 252 79 _ 15 42 3 19 1938 (昭 13 ) 台 北 183 76 15 43 1 17 1939 (昭 14 ) 台 北 252 84 14 49 5 16 1940 (昭 15) 台 北 375 132 20 74 6 32  − 注1)入学生の人数は何れも『台北高等商業学校一覧月の名簿で確認。 注2)大正8年度入学生の内訳は不明であるため,中学校卒業者に掲載した。 しかし表2にあるように,島内の中学校数が増加し,島内で台北高商人学資格を持つ学生が 台北高商開校当時の5倍以上になった昭和4年以降は,台北のみで入学試験を実施し,入学 者の過半数を島内学校出身者が占めるようになった。 台北高商設立に深く関わった,当時の民政長官下村宏は,かつて次のように述べている。 台湾統治の根抵が同化にあると云ふことは今回の教育令にも明かであって(中略)同化政 策よりして,内地人定着の如何なる価値を有するかに就いては,今事新しく述ぶる迄もな いことであり,内地人定着の必要より其の子弟を台湾に於て教育する必要あることも亦た普 然の帰結である。(中略)そこで台湾内部に於て高等普通教育,実業教育,専門教育を修 め得る様にすることは目下の急務であって,中学校,女学校を設け近く工業学校商業学校 を置き,又進んで医学専門部高等商業等を開設したのも皆この目的に出るものである(5)。 下村は,同化政策の一環として,内地人定着のための教育制度の確立を説いたのである。彼は, 地方官会議をはじめ庁長会議,商工学校開校式などあらゆる公の場で教育の重要性を指摘し た。 第一に教育のことであります。要とする所は縁ありて台湾に教育を受けたる子弟は,なるべ

(3)

く此の土地で攻学の途を輿へ,此の土地で職を得ることにする。内地の激烈なる競争試験 に落第するは感心しない。又本島人に対しては同じく成るべく本島内に於て相当の実業 教育の途を啓いて,島内に於て夫々其の途を得せしめ,尚普通教育或は実業教育専門 的の教育を通じて,大体同化の趣旨を貫徹することが根本である(6)。 この,渡台した内地人子弟の教育は台湾の教育機関で行うという下村の教育方針が,実質的に 実現した,つまり台北高商が台湾における内地人の専門教育学校として定着したのは,昭和4 年頃と考えてよいであろう。さらに昭和10年代に入ると,商業学校も増設され,台北高商入学生 に占める商業学校出身者の割合は増加した。 表2_台湾における中学校商業学校卒業者数 入 学 年 次 中 学 校 数 中学 校 卒 業 商 業学 校 数 商 業 学 校 卒 業 卒 業 者 数 計 1 9 19 (大 8 ) 2 13 0 2 1 3 0 1 9 2 0 (大 9 ) 2 12 4 2 1 3 1 3 7 1 9 2 1 (大 10 ) 2 13 7 2 7 0 2 0 7 1 9 2 2 (大 日 ) 8 1 7 0 2 1 1 1 2 8 1 1 9 2 3 (大 12 ) 8 2 1 8 2 1 1 7 3 3 5 1 9 2 4 (大 13 ) 9 2 3 6 2 13 4 3 7 0 1 9 2 5 (大 14 ) 9 2 18 2 . 5 7 2 7 5 1 9 2 6 (大 15 ) 9 4 9 6 2 7 5 5 7 1 1 9 2 7 (昭 2 ) 1 0 5 2 8 2 10 1 6 2 9 1 9 2 8 (昭 3 ) 10 6 2 6 2 1 1 1 7 3 7 1 9 2 9 (昭 4 ) 10 6 3 6 2 1 3 1 7 6 7 1 9 30 (昭 5 ) 10 6 6 7 2 1 4 7 8 14 1 9 3 1 (昭 6 ) 10 7 3 6 2 1 5 5 8 9 1 1 9 3 2 (昭 7 ) 10 7 9 2 2 19 1 9 8 3 1 9 3 3 (昭 8 ) 10 7 9 3 2 1 8 2 9 75 、1 9 34 (昭 9 ) 10 8 7 3 2 2 12 10 8 5 1 93 5 (昭 1 0 ) 10 8 8 7 2 1 8 8 10 7 5 1 9 3 6 (昭 11 ) 1 1 8 6 8 3 1 9 7 10 6 5 1 9 3 7 (昭 1 2 ) 12 8 8 8 4 2 0 6 10 9 4 19 3 8 (昭 1 3 ) 14 9 8 0 5 2 13 1 19 3 19 3 9 (昭 1 4 ) 17 1 2 3 3 7 3 6 2 15 9 5 1 94 0 (昭 1 5 ) 1 7 16 16 8 3 3 2 19 4 8 19 4 1 (昭 1 6 ) 19 1 7 6 0 8 5 3 1 2 2 9 1 19 4 2 (昭 1 7 ) 2 1 1 9 6 7 8 7 7 8 2 7 4 5 19 4 3 (昭 1 8 ) 2 1 2 1 4 7 8 8 9 9 3 0 4 6 注)『台湾省五十一年来統計提要』(1946年)より作成 (2)入学に関わる事項 ①入学者の年齢 台北高商の入学資格は,中学校卒業者または商業学校卒業者であったので,中学校や商業 学校を順当に卒業した後に台北高商に合格したとすれば入学時には16歳ということになる。し かし開校当初は,入学者の年齢の幅は大きく,20代後半の者も少なくなかった。その傾向は大 ー43−

(4)

正15年頃まで続いたが,昭和期に入ると第1学年の平均年齢はほぼ18歳前後に落ち着いた (6)。 ②学費 大正11年度の学費総額は245円であった。内訳は,授業料40円,旅行積立金50円,校友 会費10−円,教科書・学用品費25円,武道用具10円,被服費110円であった(8)。旅行積立金 が割高であるのは,3年次に南支南洋や満鮮方面に長期旅行を実施したためである。 2.卒業生の動向 (1)就職地 台北高商は「南支南洋我市場」をうたい文句に,南方で活躍する人材を育成することを使命と していた。3年間の学生生活を終えた台北高商卒業生は,台湾島内はもちろん,内地,南支南 洋各地で就職した。表3は,1930(昭和15)年段階の本科卒業生就職地別統計である。卒業生 1326名中約63%が台湾島内に,約7%が南支南洋方面に就職した。内地に就職した卒業生 は約14%で,本籍を内地に持つ者の85%は内地に戻らず(9),翻耐性朝鮮,南支南洋 などに活躍の場を求めたことになる。本籍地と就職地との関連性はほとんど見られない。

表3本科卒業生就職地

卒 業 年 度 台 湾 内地 中国 満 州 朝 鮮 南 洋 そ の 他 不 明 死 亡 合 計 19 22 (大 日) 13 5 1 1 2 22 1923(大 12) 19 5 2 1 1 9 37 19 24 (大 13) 25 1 1 2 5 43 19 25(大 14) 28 8 4 1 1 1 6 49 19 26 (大 15) 2 9 12 3 5 49 1927(昭 2) 30 11 5 1 3 2 3 55 1928(昭 3) 4 2 11 2 3 1 2 16 77 19 29 (昭 4) 73 1 1 7 5 1 3 25 125 19 3α昭 5) 78 9 8 4 1 3 2 17 122 193 1(昭 6) 6 5 20 9 6 1 5 22 12 8 1932(昭 7) 40 7 4 1 13 65 1933(昭 8) 50 5 4 4 3 66 1934(昭 9) 34 9 5 3 1 7 59 1935(昭 10) 5 2 10 2 5 1 2 5 77 1936(昭 11) 5 1 8 3 1 2 11 76 1937(昭 12) 45 10 3 3 1 4 66 1933(昭 13) 58 10 1 3 3 75 1939(昭 14 ) 50 8 3 3 1 65 194α昭 15) 49 12 2 1 6 70 計 83 1 182 67 44 13 23 4 16 2 1326 注1)『台北高等商業学校卒業生名簿』(1930年10月),『台北高等商業学校一覧昭和14年度』 より作成

(5)

(2)就職企業・会社等の種別 次に,卒業生の就職業種を検討する。 表4によると,卒業生の就職業種として最も多いのは総督府及び官公庁で全体の26%,次に 銀行・保険関係で11.4%と続く。また,総督府の台湾経営と密接な関わりのある製糖業や電力 関係(電気e器具工業と表記)に就職したものも多かったb ここで表4の数字を基に,表4に表記しきれなかったデータを補足して内容をさらに細かく見 ていくと,次の5点にまとめることができる。 ①総督府及び官公庁への就職率が高いという状況は,内地の高商には見られない台北高商の 特徴であった(10)。特に総督府への就職者は,第2回卒業生から毎年見られ,鉄道局,専売局, 殖産局を中心に財務局,内務局など多岐に及んでいる。中には,総督官房調査課に就職し,南 支南洋調査を担当する卒業生もあった。また,1930年の段階で,課長,係長,あるいは駅長な ど管理職に就いているものも少なくなかった。 表4本科卒業生就職業種別統計 1922 19 23 1924 1925 1926 1927 1928 192 9 1930 193 1 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 合 計 本 科 卒業 生 22 37 43 4 9 49 55 77 125 122 128 65 66 59 77 76 6 6 7 5 65 70 1326 総 督 府 ・官 公 庁 4 8 1 1 11 14 2 7 3 1 44 5 1 17 2 9 16 21 20 18 17 5 4 2 2 :粥6 (台 湾 島 内就 職 者 ) 4 7 9 9 12 25 27 39 J氾 15 28 13 17 19 17 17 制 教 員 2 3 5 1 2 11 6 4 1 1 1 1 2 40 金 融 ・保 険 5 6 7 9 12 10 5 8 9 11 5 6 8 10 8 7 12 7 6 15 1 製 糖 業 1 2 3 3 2 1 1 2 4 2 2 1 2 3 4 4 2 5 44 食 料 工 業 1 1 1 1 1 4 1 2 2 5 19 電 気 ・器 具 4 3 2 3 2 4 3 4 4 4 3 1 2 6 2 3 3 3 8 64 化 学 工 業 1 2 1 1 1 1 3 4 3 1 2 3 5 2 :氾 紡 織 ・窯 業 1 1 2 2 3 1 2 1 1 1 1 1 17 雑 工 業 1 1 1 3 鉱 業 1 1 4 1 2 2 1 1 3 2 7 5 4 6 9 3 52 印 刷 業 1 3 3 1 2 1 11 物 品 販 売 2 1 1 1 3 7 9 2 2 7 6 7 3 3 6 4 2 8 74 雑 商 業 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 3 15 農 業 1 1 1 2 2 1 1 2 2 3 3 19 交 通 運 輸 1 1 1 1 5 1 2 3 6 3 4 2 5 4 2 5 9 6 61 水 産 業 1 2 2 2 1 1 2 2 13 そ の 他 2 4 5 5 3 7 4 8 13 8 4 2 1 5 3 2 6 4 1 87 自営 2 3 4 4 1 5 10 4 2 2 3 4 4 3 2 2 3 58 軍 関 係 1 1 5 3 2 1 1 1 1 16 在 学 1 2 2 3 4 7 9 9 37 不 呪 4 1 1 6 17 10 12 4 2 5 1 5 4 2 1 6 81 死 亡 2 5 5 5 4 3 10 10 8 10 9 1 2 4 6 3 1 88 注1)『台北高等商業学校卒業生名簿』(1930年10月),『台北高等商業学校一覧昭和14年度』より作成 注2)企業・会社の分類は『台湾銀行会社一覧』による −45−

(6)

②銀行・保険など金融関係では,台湾銀行への就職者が最も多く39名,台湾商工銀行が23 名と続いた。内地の状況からすると,一般的に高商から商業や金融関係への就職者の割合が 多い。台湾でも同様のことがいえる。ただし,台北高商出身者の特色としては,国策的金融機関 である台湾銀行への就職者が多いこと,台湾における地場銀行の中心的存在であった台湾商 工銀行への就職者が多いことを指摘できるだろう。なお台湾銀行では,1942(昭和17)年現在 で,南支南洋の支店・出張所に派遣された卒業生は6名であった(11)。地場銀行であった台湾 商工銀行では,1942年現在で,28支店中11支店の長が台北高商出身者で占められていた (12)。 ③準国策会社である台湾銀行(39名),台湾電力株式会社(42名),台湾拓殖株式会社(16名) への就職者は全体の7.3%で,総督府や官公民その他台湾島内の教員など,総督府と関連 の深い就業先へ就職した卒業生とあわせると,全体の32.3%を占めた。 ④物品販売代理業は,三井物産のような大手企業は別として,その約8割は台湾島内の中小 規模の商店であった。しかし,中には有馬商会に就職してジャワへ渡った者や南洋倉庫シンガポー ル支店,スラバーヤ支店に派遣されて,南洋で活躍する者もいた。 ⑤教職に就いた者は40名で,母校の教官になった者は講師も含めると4名,商業学校や工業 学校の教師になった者は23名で,その多くは台湾島内の商業学校で教鞭をとった。 おわりに 先行研究で指摘されていたように,台北高商は,台湾島内はもちろん,南支南洋方面で活躍 する人材を育成するための専門教育機関であるという看板を掲げていた。開校以来台北高商 で教鞭をとり,1937(昭和12)年からは学校長の職にあった遠藤寿三は,台北高商の使命を次 のように述べている。 本校は,南進の基地と称せられる台湾に於て,本島の内外,殊に南支南洋に活躍すべき 有為の青年を養成すべき使命を帯びて,広く全国から生徒を募集することになった。(中 略)蓋し南方発展は我が国の伝統的国是であり,南方に於ける先人の活躍は,自己を滅却 して国家の為めに献身するの精神の発露であった。而して本校は,この精神を以て進ん で南方の経営に当るべき人材の養成に努めて来たのである(13)。 こうした使命を達成するべく,南方開発に必要な知識の教授や,校内に設置された南支南洋経 済研究会をはじめとする各種機関で南支南洋に関する調査・研究活動が展開された(14)。台北 高商の学生たちは,専門的な教育を3年間受けた後に,内地には戻らず台湾島内や南支南洋 方面に活躍の場を求めた。 しかし,卒業生の就職地や就職業種の分析からは,「南支南洋我市場」といううたい文句とは 異なる結論が導き出される。前項で考察したように,昭和15年度までの本科卒業生の就職地は, 圧倒的に台湾島内が多く,台湾総督府及び総督府関係の企業・会社への就職者は全体の 32.3%,台湾島内就職者の5割を超えている。また,昭和15年段階では,官公庁における課 長・係長,銀行や企業の支店長・課長クラスの役職に就いた者も少なくなかった。当時の記録か ら考察すると,官公庁の部長・局長クラスは,そのほとんどが内地から派遣された帝国大学出身

(7)

者で占められていたのに対し,事実上の実務担当責任者のポストに高商出身者が置かれたと 考えてほぼ間違いない(15)。とすれば,台北高商は,結果として台湾島内の商業・経済活動を 支えた中堅層の育成に貢献したといえるのではないだろうか。・もちろん,うたい文句そのま草に, 南支南洋で活躍した卒業生も存在したが,それは少数であった。 また,台北高商の果たした社会的役割として次のような点も指摘できる。すでに述べたように, 台湾総督官房調査課に就職し,総督府の南洋調査活動に貢献した卒業生がいた。特に昭和初 期,調査課は台北高商出身者を主体として構成され,原口竹次郎の指導のもとで『南洋年鑑 昭和四年版』を編纂した(16)。他にも台湾銀行や満鉄東亜経済調査局,台湾拓殖などで南支南 洋調査という職務に就いた卒業生があった。こうした点から,実数としては多くないが,台北高 商は,南方地域を専門とする優秀な調査員を輩出し,台湾における南支南洋調査活動を推進し たという側面ももっていたといえる(17)。さらに,母校や台湾島内の商業学校の教員となって,台 湾の商業教育を支えていたことも付け加えておく。 台北高商は,南進要員養成機関として機能することを期待されながら,その実態は台湾島内 の商業・経済活動を支える中堅層を養成する専門学校であった。掲げられた看板とは異なる結 果となったが,島内唯一の商業専門学校が台湾に及ぼした影響は大きかったことは,これまで 述べてきた通りである。今後は,台北高商の教育活動の詳細を明らかにするとともに,島内の商 業・経済界や南洋調査機関などとの人的交流を中心とした研究を進めていくことが課題であると 考えている。 注 (1)設立当時の学校名は台湾総督府高等商業学校である。その後,1926(大正15)年に台南 高等商業学校新設により,台北高等商業学校と改称された。 (2)中本博志「『大正南進期』と台湾」(『南方文イ田8号,1981年) (3)陳倒甫「台北高等商業学校沿革」(『台北文献』95号,1991年) 「台湾輿日本之学術『南進』」(『台湾風物』47−3,1997年) 「台湾輿近代日本之東南亜研究」(『台北文献』123号,1998年) (4)『台湾総督府高等商業学校一覧大正11年度』1923年 (5)下村宏「台湾教育令に就て」(『台湾時報』3号,1919年) (6)これは下村が全島各庁庶務課長会議において述べたものである。(『台湾時報(東洋協 会)』109号,1918年) (7)入学者の年齢に関するデータは大正11年度版から毎年刊行された『台北高等商業学校一 覧』による。 (8)注(句に同じ (9)内地に本籍地をもつ者は,1204名で卒業生の9割を越えていた。九州出身者が最も多く, 468名,次に中国・四国,中部と続いた。これらのデータは『台北高等商業学校一覧』による。 (10)例えば,山口高等商業学校の場合,第22回までの卒業生4493名のうち官公庁への就 −47−

(8)

職者は,6.1%であった。(『山口高等商業学校一覧第35年度』)彦根高等商業学校の場合 も昭和14年度末の統計で,卒業生総数の13.7%であった。(『彦根高等商業学校一覧昭 和15年』)長崎高商や大分高商でも同様の傾向が見られる。 (11)大園市蔵F台湾人事態勢と事業界』新時代社台湾支社,1942年 (12)注(11)に同じ (13)遠藤書三「台北高等商業学校の使命」(『台湾教育』484号,1942年) (14)台湾総督府文教局『台湾の教育』1930年 なお,台北高商の学科目や校内各種機関の活動については,別の機会に詳細を明らかにし たい。 (15)前掲『台湾人事態勢と事業界』による。 (16)原口竹次郎は台湾総督官房調査課を整備拡充し,南洋調査の専門機関として確立させ た人物である。原口に関しては後藤乾一氏の研究に詳しい。(後藤乾一『原口竹次郎の生涯』 早稲田大学出版部言987年)なお,昭和初期に調査課の調査員として,『南洋年鑑昭和四 年版』の編集に関わった卒業生は7名で,最も多くの卒業生が調査課で活躍したのがこの時 期であった。 (17)台湾における南洋調査及び総督府と台北高商との関わりについては,拙稿「日本統治期 台湾における南洋調査活動の展開」(『現代台湾研究』第17号,1労9年3月)を参照された い。

参照

関連したドキュメント

・HSE 活動を推進するには、ステークホルダーへの説明責任を果たすため、造船所で働く全 ての者及び来訪者を HSE 活動の対象とし、HSE

3.仕事(業務量)の繁閑に対応するため

3 指定障害福祉サービス事業者は、利用者の人権の

対策等の実施に際し、物資供給事業者等の協力を得ること を必要とする事態に備え、

(Ⅰ) 主催者と参加者がいる場所が明確に分かれている場合(例

夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額

い︑商人たる顧客の営業範囲に属する取引によるものについては︑それが利息の損失に限定されることになった︒商人たる顧客は

(※1)当該業務の内容を熟知した職員のうち当該業務の責任者としてあらかじめ指定した者をいうものであ り、当該職員の責務等については省令第 97