298 人 工 知 能 29 巻 3 号(2014 年 5 月) 1.研究環境の重要性 「人はみないずれ死ぬのだから,そして,それがいつ なのかはわからないのだから,思いわずらうことなく愉 しく生きよ」という家訓をもつ姉妹が,江國香織さんの 小説「思いわずらうことなく愉しく生きよ」に出てくる. 研究生活においてもまさに然り,学生時代も含めて,研 究者が研究に使える時間は限られているのだから,思い わずらうことなく研究を愉しむのが研究者本人にとって も,また研究者を有する組織,つまり大学や企業,ひい ては社会にとって肝要だ. では,そのためにはどうすればよいのか.わずらいの 種を片端からつぶして回るか,わずらわされないよう自 分の精神を鍛えるか……どちらもかなり困難だ.そもそ も簡単に解決できることなら,わずらわされたりしない だろう.最もシンプルな解決策は,思いわずらうことが できるだけ少ない環境で研究することではないだろう か.人は環境に大きく影響を受ける.もちろんどんな環 境においても自分のペースを崩さず力を発揮できる人も いるが,多くの人にとってやはり環境の影響は大きいだ ろう.例えば,研究室のメンバ全員が化学の研究をして いるなか,たった一人で人工知能研究に取り組むのは大 変だろう.研究について深い議論ができない,行き詰ま っても相談できる相手がいない,そんな孤軍奮闘は辛い. もちろん,同じ環境でも人によって相性があり,また 同じ人でもそのときの状況によってベストな環境も変わ る.競争しながらお互い切磋琢磨するような環境が良い のか,落ち着いてそれぞれがマイペースで研究に取り組 む環境がよいのか,人それぞれだ.先ほどの例でも,人 工知能研究のエキスパートとして自身を確立していれ ば,化学分野の研究者とコラボレーションして新たな研 究分野を開拓し挑戦するチャンスが得られる,やりがい のある環境になる.そのときどきにおいてベストな環境 を見極め,柔軟に対応していくことが大事であろう. 2.環 境 の 模 索 自分にとって心地良い研究環境,思いわずらうことが できるだけ少ない研究環境を見極めるためには,まず他 の研究環境を知っていなければ難しい.特に海外の研究 環境を知ると,自分にとってなじみ深い日本の環境を客 観的に分析できるようになる.それまで当たり前に思っ ていたことがそうでなかった,ということは往々にして ある. 少し目を向ければ,そういったチャンスはたくさん転 がっている.学生であれば,海外の大学や企業でのイン ターンシップへの参加は貴重な経験になるだろう.多く の海外企業でサマーインターンを募集しているし,中に は通年でインターンを採用しているところもある.長期 滞在することでより深く現地の状況を知ることができ, ひいては日本の環境の理解にもつながるし,改めてその 良さに気が付くこともあるだろう.また小さくても研究 トピックを新しい環境でやり遂げたという事実は,その 後の自分に大きな自信を与えてくれる. 長期滞在が難しい場合には,国際会議に参加したつい でに先生のつてを頼って海外の大学の研究室を見学させ てもらったり,サマースクールに参加するのもよいだろ う.博士号取得後であれば,ポスドクとして海外に滞在 すると,その後の研究環境を模索するうえでも,自分の キャリアを考えるうえでも貴重な経験になる.物おじせ ずいろいろなところに飛び込めば,多様な環境を身をも って体験できる.そしてその経験が,より良い環境を得 るチャンスにつながるのだ.
3.Microsoft Research Asia の研究環境
筆者が博士後期課程修了後に Microsoft Research Asia に入るきっかけとなったのは,博士 2 年生のときに 11 か月参加した当社でのインターンシップであった.もと もと 6 か月の予定が,研究環境にほれ込み期間延長をお 願いしたのである.一体どんな環境だったのか? それ は研究プロジェクトを限られた期間内に完成させ,国際 会議に論文を投稿するという,同じ目標に向かって真剣
思いわずらうことなく愉しく研究せよ
*1Enjoy Research in Your Best Environment
荒瀬 由紀
Microsoft Research AsiaYuki Arase Microsoft Research Asia.
[email protected], http://research.microsoft.com/en-us/people/yukiar/
著者紹介 ▼ 2006 年大阪大学工学部電子情報エネルギー工学科卒業,2007 年同大学院情報科学研究科博士前期課程修了,2010 年同 博士後期課程修了.博士(情報科学).同年,Microsoft Research Asia に入社し,Natural Language Computing グループ研究員 となる.言換え表現抽出,日英統計的機械翻訳,Web データマイニングに関する研究に従事. 世界の
AI
,日本のAI
世界のAI
,日本のAI
〔第 25 回〕 シリーズ特集 *1 本タイトルは江國香織さんの小説「思いわずらうことなく愉 しく生きよ」から着想したものである.299 思いわずらうことなく愉しく研究せよ に,一心不乱に取り組む同年代の学生がわんさかいる, というものであった. 同年代のインターン仲間から研究についての鋭い指摘 を受けたり,関連研究を紹介し合ったりというのは,想 像していた以上に刺激的だった.また研究はうまくいく ときもあれば,もちろんそうでないときもあるので,辛 いときに支え合える仲間がいるというのは心強い.また 自分達が第一線で研究しているという自覚が得られたの も,筆者にとって大きかった.各国から集まってくるイ ンターンが切磋琢磨する環境にいることで,自分が研究 分野のエキスパートを目指さなければいけないという感 覚が実感をもって感じられるのだ. 中国からのインターン生は,自分にとってのより良い 環境探しに非常に自覚的で,かなり早い段階からキャリ アについて真剣に考えている.学部の頃から著名国際会 議論文を読んでおり,どの大学・企業のどのグループが 自分の分野をリードしているのか把握しているのだ.早 い場合には学部 3 年生ですでに国際会議・論文誌に論文 を投稿しており,卒業後は分野をリードしている大学の 博士課程への進学を目標にしている.その大学が海外で も全く尻込みせず果敢にチャレンジするし,その手段と して数学オリンピックや国際プログラミングコンテスト に参加したり,活発に研究活動をしている企業のイン ターンシップに参加する.自分にとってベストな環境に 身を置く,というゴールが明確だからこそ,迷いも少な いのだろう.キャリアプランニングの早い・遅いが問題 ではなく,自分の将来を自分で制限せず多様な可能性を 考えている点が彼らの強みだ.その姿勢からも非常に刺 激を受けた. 就職してからは,コンピュータサイエンスのあらゆる 分野のエキスパートがそろっていて,自由に議論できる という点にも感謝している.現在は自然言語処理に取り 組んでいるが,統計学,機械学習の知識も多分に必要と なる.そういったときに,その分野を専門としている社 内研究者に気軽に相談・議論できるのは,効率のためだ けではなく,自分の専門性を深め,広げるうえで非常に 有効である.自分が解こうとしている問題が,見方を変 えると実は別の問題と非常に近かったという発見もたび たびあるのである.目からウロコが落ちるような新たな 発見や,問題としている事象に対する理解が深まる刺激 が日々あるというのは,長く続く研究生活においてメリ ハリとなり,モチベーションを維持してくれる.長期ス パンで研究を考えるようになった今のほうが,環境の重 要性は高まっているかもしれない. 4.お わ り に 本稿では,研究活動を行ううえでの環境に目を向けて 議論した.多種多様な研究環境があることを知り,自分 にベストな環境に身を置くことが,研究を愉しく行うた めには重要である. 最後に少し話題がずれるが,先日とある大学で講演す る機会を得た際,多くの学生が「ぼんやりとした不安」 を抱えていることに驚いた.研究室の先輩誰も就職活動 に苦労していないのに,「進学すると就職できないので はないか」といった不安を抱えていたり,これまで自分 も成果を出しているにもかかわらず,「成果が出ないの ではないか」という不安にかられている.どんなに良い 環境にいても不安なほうばかり見ていては,大事な「愉 しい」という気持ちを見失ってしまう.不安よりも,研 究職について活躍している先輩,自分が努力して得た成 果,などの事実に目を向け,ぜひ研究活動を愉しんでほ しい.