Ⅰ. はじめに
筆者は本プロジェクトの一環として、これまで東海第二原発が立地する東 海村の政治構造、とりわけ住民の多くがなぜ原発を受容しているのかを考察 してきた(渥美2015、2016)。 本来本稿において明確な結論を出すべきであるが、まだまだ検討すべき課 題が多く、総括的な論考を書き上げるには至っていない。本稿は、地域社会 学における代表的な原発立地自治体の政治研究である中澤秀雄氏のローカル レジーム論を検討するとともに、ローカルレジームの観点から東海村の政治 史を再考察しようと試みたものである。Ⅱ. 原発レジーム論を巡って
1. ローカルレジームの4類型 原発立地自治体の政治構造に関しては、中澤秀雄氏がローカルレジーム理 論を駆使した新潟県巻町(2005年に新潟市と合併)と柏崎市の比較研究東海村政治史再考―
「ローカルレジーム論」の視角から
目 次渥 美 剛
Ⅰ. はじめに Ⅱ. 原発レジーム論を巡って Ⅲ. 東海村の経済―社会構成の変化とローカルレジーム Ⅳ. 存続する原子力レジーム Ⅴ. 原子力レジームの今後 Ⅵ. 結びに代えて(中澤、2005)が最もすぐれたものであるといえよう。1 中澤氏はアメリカ で都市政治研究に使用されたローカルレジーム論を咀嚼して、日本の地方政 治研究に適応可能な類型論を構築した。すなわち、表1に示した2行2列の4 類型である。2 表1 日本におけるローカルレジームの類型設定(中澤秀雄氏作成) 中澤氏の論述に従って説明を加えていく。内部/外部の軸は、商工業者が ローカルレジームの末端に連なることによって与えられる事業の機会や直接 発注(small opportunities)の供与が、自治体の「外部から行われるか内部 から行われるのか」3 によって区分されている。一方、正当性調達/非調達 の軸は、「市民からの協力の様式」であり、「市民からみて正当性を確保し ているかどうかという軸」4 であるという。これはやや曖昧な規定である が、本稿では重要な政策課題が選挙で争点化され、市民が投票行動を通じて 政策決定に関与しうるか否かと解釈しておこう。 次に、中澤氏の4類型について具体的に検討していくことにする。以下は 中澤氏の著書の36−42頁の記述を筆者の責任で要約したものである。 (1)名望家レジーム これは「世話と地元利益供与による地域支配という組織原理」を持ち、 「日本の村落社会の伝統的な構造を保持している」タイプである。中澤氏は 1950年代頃までを想定し、地主−小作関係に似たパトロン−クライアント 関係を基軸にして、small opportunitiesが名望家自身の財布によって提供さ れたと考えている。 このレジームは以下の特徴を有している。 ①資源を持たない地方政府の能力は低い ②統治連合を構成するのは名望家ないし経済的に成功した土着層である ③統治連合内でのゲームは非公式な「根回し」や「接待・供応」をルールと して営まれる 出典)中澤2005、37頁。
(2)地域開発レジーム 1960年代に入り本格的な成長主義と地域開発の時代になると、small opportunitiesの供給を可能にするのは中央省庁からの補助金や、誘致した企 業からの収入に代表される外部資源へと変貌し、地域開発レジームが各地で 成立することになる。このレジームでは開発が成功する限りにおいてである が、 ①地方政府の能力は著しく増大し、 ②それに伴って統治連合も「商工派」に変容し ③ゲームのルールとしては、法体系を有効に利用しながら自らの経済的・人 口的集積を高め、都市空間を更新してゆくことが重要となる。すなわち、 どの自治体でも人口増、雇用拡大、地元企業への経済波及効果という3点 セットを追求するようになるのである。 (3)原発レジーム 中澤氏によって地域開発レジームの「変種」と位置づけられるのが「原発 レジーム」である。原発レジームが成立する背景として、いくつかの世界的 な事故を通じて原発立地の潜在的リスクが明らかになったこと、および潜在 的リスクを埋め合わせるための選択的誘因の提供システムとして「電源三 法」が成立したことが指摘されている。 このレジームの至上命題は「潜在的リスクの大きさから受ける強い反対を 押し切ること、複雑さを増した法体系のもとで計画をあたかも自動機械のよ うに進めていくこと」5 であり、レジームは閉鎖的・排他的なものになりが ちである。そして、 ①地方政府でなく中央政府の能力が「国策」として直接地元に介入してくる ②地元から見れば別格と言えるほど巨大な経済力である電力会社が統治連合 に決定的な影響力を持ち、 ③建設が法体系のもとでスケジュール化し規程路線となるなかで、そこから もたらされると予測されるsmall opportunitiesをめぐる政治ゲームが展開 する といった特徴が生まれてくる。結局、地元の自立性は著しく制約され、有力 者たちは単なる受益ゲームのプレーヤーと化してしまうことになる。 用地選定から漁業権譲渡交渉、公開ヒアリングと、一連の手続きを経てい くなかで、原発立地は既成事実化され、行政スケジュールに従って「自動機
械のように」進んでいく。電源三法をはじめとする優遇措置で自治体財政は 富裕化し、地元では新規雇用に対する期待が高まり、原発への異論を唱える ことは困難になってゆく。「潜在的リスクに対する不安感を口にすることに は大きな制裁が伴うようになり、選挙においては必ずしも争点にならないよ うな政治文化が醸成されていく」6 のである。 中澤氏は、多くの「地域開発レジーム」が企業誘致のために自治体財政に 負担をかけた末失敗に終わったのに対して、その変種である「原発レジー ム」は財政に大きな余裕をもたらし、少なくとも1990年代前半までは成功 したレジームであったこと、ただし原子炉建設終了後は建設需要の低迷と財 政の縮小が生じ、問題点が噴出することを指摘している。7 (4)内発型発展レジーム 中澤氏は地域開発レジームにかわって、内発型発展レジームが成立するこ とを期待しているようである。湯布院町、ニセコ町、長浜市といった「むら おこし」「まちおこし」の成功例が列挙され、「自らの地域内の資源を見つ め直し、それらを有機的に組み合わせて地場産業を再構築した」8 と評価さ れている。だが他の3類型のような統治連合の性質や政治ゲームの性格に関 する記述はなく、宮本憲一が提示した内発的発展の4原則(宮本憲一、 1989:chap.5)が紹介されているに過ぎない。長いので要約的に紹介すると、 ①大企業や政府の事業としてではなく、地元の技術、産業、文化を土台と し、地域内市場を対象に地域住民が主体となる地域開発 ②環境保全、福祉・文化・人権といった諸価値を目的とした開発 ③付加価値があらゆる段階で地元に帰属するような地域産業連関の構築 ④住民参加の制度化 ということになる。矢沢修次郎氏の書評論文(矢沢修次郎、2006)でも指 摘されているように、この類型は現実には未だ存在していない、規範的意味 を持つ点で他の3類型とは異なる位相にあるとみるべきであろう。 (5)レジーム間の移行 これまでの要約からも明らかであるが、このローカルレジームの4類型は マクロな社会経済状況の変化に対応して移行するものと考えられている。す なわち、①名望家レジーム→地域開発レジーム→原発レジームという移行の コースと、②名望家→地域開発→内発型発展というコースの二つが想定され
ている。中澤氏は著書の第4章「巻・柏崎の対照的選択とレジーム移行」9 において、具体的にレジーム移行の問題を考察している。 新潟県巻町と柏崎市は、ほぼ同時期(1960年代後半)に原発計画が表面化 したにもかかわらず、その後は極めて対照的な経緯をたどることになった。 中選挙区時代の衆議院新潟3区に位置し、田中角栄の出身地に近接する 柏崎市の場合、ローカルレジームは①のコースをたどり、ついには原子炉7 基が立地する世界最大規模の原発都市となった。一方、巻町は政争の町とし て知られ、原発建設もいわば政争の道具とされるなかで停滞し、やがて反対 運動の高揚のなか住民投票が実施され反対派が勝利、その後の曲折を経て 2003年についに原発建設計画が白紙撤回されるにいたった。巻町は原発レ ジームの形成に失敗した事例であり、中澤氏は住民投票にみられる民主主義 への要求に内発型発展への移行の可能性を見出したが、長年にわたる政争は 町民を疲弊させ、今後の町づくりに関する十分な議論もなされぬまま、 2005年に新潟市との合併が行われ巻町は消滅、内発型レジームの成立も実 現しなかった。結局巻町は②のコースの実現に失敗した事例となったのである。 2. レジーム類型論の問題点 これまでできるだけ中澤氏の論旨に忠実な紹介を心掛けてきたが、氏のロ ーカルレジーム論にはいくつか指摘すべき問題点が存在する。以下、筆者の 見解を手短に述べる。 (1)small opportunitiesの提供について これまで見てきたように、レジームの類型化においてsmall opportunities が誰から誰に提供されるかは、きわめて重要な問題とされている。しかし small opportunitiesを商工業者に提供される「事業の機会や直接発注」に限 定するのは適切ではあるまい。開発レジームや原発レジームにおいては、誘 致された企業等によって提供される雇用先、就業機会が最も重要である。多 くの住民に就業機会を提供することがレジームへの支持獲得と安定につなが る。また、特に原発レジームに見られる、交付金その他による施設整備その 他の便益供与も無視できない。住民各層に対する経済的機会・便益の提供様 式、あるいはより単純に生活機会の提供様式として、再定義することが望ま しい。
(2)名望家レジームの多様性 中澤氏による名望家レジームの記述はやや一般的に過ぎるのではないか。 農村地域を例にとると、戦前に巨大な寄生地主が存在し、激しい小作争議が 展開された地域と、在村中小地主がむらをまとめてきた地域とでは統治連合 の構成もゲームのルールも異なるであろう。都市の場合でも、地場産業の事 業主によって市政が実質的に運営されている場合、財閥系の大企業が大きな 影響力を持つ事例など、多様な下位類型を設定しうるであろう。 なお、中澤氏の著書では、巻町の名望家レジームは極めて詳細に分析され ており説得力に富んでいるが、比較対象の柏崎市については十分検討がなさ れていない点がある。柏崎市には、中澤氏が強調する石油精製以外にも、 1924年創業の北日本製菓(現ブルボン、現在も柏崎市に本社がある)、 1932年に操業を開始した理研(現リケン)のピストンリング工場など、戦 前からかなりの工業集積が見られたが、それらがローカルレジームに与えた 影響は考慮されていないのである。 (3)原発レジームについて 中澤氏の著書は東日本大震災以前に出版されたものであり、「原発レジー ム」に対する記述には、福島第一の事故を踏まえて再検討されるべき点もあ るだろう。しかし、今なお多くの原発立地自治体で早期の再稼働を求める請 願が可決されている現状を見ると、このレジームの強固さを再認識せざるを えない。「原発レジーム」の類型設定の意義は失われていないのである。 しかし「原発」以外にも、「中央政府の能力が『国策』として直接地元に 介入」し、「計画をあたかも自動機械のようにすすめていく」10 事態は枚挙 に暇がない。国際空港建設、米軍や自衛隊の基地・演習場、ダム建設等々で ある。思えばわれわれが実施した八ッ場ダムの場合にも、原発レジームと酷 似した「ダム建設レジーム」というべき町政の構造が形成されていた(桜美 林大学産業研究所、2010)。「原発」に限定せず、「地域開発レジーム」の 変種(発展型?)として、地元の脆弱な経済的社会的基盤に付け込む形で成 立する「国策遂行レジーム」をローカルレジームの一類型として設定するこ とが可能であり、必要ではないだろうか。
3. 東海村―原発レジームの典型か? さて、われわれが研究してきた東海村の政治構造を理解するために、ロー カルレジーム論は有効な理論たりうるであろうか。それを次章で検証してい くわけであるが、いくつか事前に論点を整理しておきたい。 ①東海村は正確に言うと「原発の村」ではなく「原子力施設の村」である。 「原発レジーム」より「原子力レジーム」と表現するのが適切である。む しろ原研に代表される研究施設が主な雇用先になっている(次章参照)。 ②村には原子力関連の研究所、工場、施設以外には目ぼしい雇用先はなく、 日本で最初に成立した「原子力レジーム」の村であるといえる。したがっ て「原子力レジーム」の典型例と見ることができそうだが、果たしてそう か。検証が必要である。 ③にもかかわらす、1999年のJCO臨界事故以来、当時の村上達也村長が脱 原発の立場に転じ、議会でも原発批判派が台頭するなど、福島第1原発事 故以前に村内から「原子力レジーム」を動揺させる動きが顕在化してい た。 これらの点を踏まえて、次章では東海村におけるローカルレジームの変遷 を経済―社会構成の変化と関連させて検証していく。
Ⅲ.東海村の経済―社会構成の変化とローカルレジーム
1.東海村成立直後まで――純農村における名望家レジーム 戦前の茨城県は在村中小地主層地主層による名望家支配が強力に行われた 地域として知られているが、後に東海村となる、那珂郡の村松村と石神村の 両村もまた例外ではなかった。11 農地改革から合併に至る両村の政治情勢は 今回明らかにできなかったが、その後も強固な保守の政治基盤となっている ことから、一定の変化あったにせよ、地域代表的な性格を持つ有力農民によ る名望家支配が継続していたとみてよかろう。 村松村と石神村は1955年3月に合併し東海村が成立した。1954年12月末 の両村の人口は、村松村6,493人、石神村4,611人12、1955年国勢調査時の人 口は11,583人、世帯数1,880世帯13 であった。 当時の東海村の産業構造を1955年国調で確認しておこう。就業者数5,734 人中農業従事者が4,306人、実に75.1%を占めている。同年の農林業センサスによると農家戸数は1,515戸であり、うち835戸(55.1%)は専業農家、農 家率は80.6%に達し、まさに純農村というべき状況であった。 しかし東海村の農業は決して恵まれたものではなかった。『東海村統計 書』平成23年版(ネット公開)によると当時村内の耕地面積は田4.71㎢、畑 12.94㎢であり、畑が非常に多く麦やさつまいもがおもな産物で、一戸当た りの平均経営面積も単純計算で田29.7アール、畑72.6アールに過ぎず、今後 の農業発展に展望を見出しがたい状況にあったのである。 こうした状況下で行われた第1回目の村長選(1955年4月)は、前村松村 長川崎義彦が2,870票を獲得し当選、元石神村長の根本時之助は2,014票で次 点、赤須広一は207票で3位であった。14 川崎と根本はその後14年間、村長 の座を激しく争うことになる。 2. 原子力研究施設の立地∼発電開始 後付の地域開発レジーム(1956∼70) 東海村が成立して一年もたたない56年1月、新聞記事で茨城県の米軍演習 地が新設される日本原子力研究所(原研)の候補地となっていることを知っ た川崎は、米軍演習場の北隣である村松地区の松林に研究所を誘致すること を思いつき、早速茨城県に働きかけを開始した。当時村議会は合併後初の選 挙中で、川崎は議会に諮らず独断で行動を開始したのである。15 当時原研の立地を巡っては政府内で複雑な権力闘争があり、結局当初有力 視されていた横須賀市武山地区ではなく東海村に決定した背景には、茨城県 の積極的関与とともに、茨城県政界と深い人脈を有していた当時の国務大 臣・原子力委員長正力松太郎の暗躍があったことが明らかにされている(朝 日新聞取材班、2014、第1章:茨城新聞社編集局編、2003)。 選挙後初の議会で川崎から原研誘致の構想を明かされた村議たちは驚いた が、反対はなく、満場一致で誘致が決定した。当時の村議は、「村長は貧乏 な村から脱却できると思って原子力に飛びついた」「村長の言うことに全く 抵抗せず、誘致の話はスラスラと進んでいった」16 などと回想している。 村は県と協力して啓蒙活動を開始し、「研究所が建てば就職先が増える」 と繰り返し、村には「研究所が来れば豊かになる」17 という空気が充満し た。川崎が誘致に動いて3か月もたたない4月6日には、原研の東海村設置が 決定された。 しかし性急な原研誘致には疑問の声が無かったわけではない。医師であり
前石神村長だった石川亨は『東海村報』に寄稿し原子力に浮かれる村民に警 鐘を鳴らし、原研と村民との会合でも放射能汚染の可能性を質したが、出席 していた原研常任理事に「私は東海村の村民の方々よりも原研の研究員が国 家的に大切だと考えますので、外に心配があるようでは、私ども責任者は原 研を開設するわけにはまいりません」18 と反論されたという。 原研の建設は順調に進み、翌年8月27日、原子炉は臨界に達した。9月18 日には原子炉1号炉の完成記念式典が行われたが、二日後川崎が市長を辞職 する。原発誘致費として30万円(当時の年間議員報酬の約15倍)を議会の 承認を得ずに使用したことがわかり、追及されたためである。19 出直し村長選挙に川崎は再び立候補し、元石神村長の根本時之助(原子力 推進派)と前石神村長の石川亨(原子力慎重派)の三つ巴の争いとなった。 結果は根本が2,281票を獲得、2,104票の川崎を抑え僅差で勝利し、石川は 1,138票にとどまった。20 村長選挙の直後、1957年初秋にはすでに東海村に日本初の原発を建設す る計画が進行しつつあった。主導したのは、当時原子力委員長に復帰したば かりの正力松太郎であった。正力はかなり強引な手法で、英国産原子炉の輸 入による早期の原発稼働を目指していた。 彼が東海村への原研立地に賛成したのも、広大な村松海岸なら「発電炉も 置ける」広大な国有地・県有地が確保できるからであった。21 正力は早期に 原子力商業発電の実現という業績を引っ提げて首相となることを目論んでい たという。22 一方、東海村側から原発を積極的に誘致したという証言はなく、原発誘 致、反対派双方とも「よくわからない」「発電所の計画は、知らない間に進 んだような気がする」23 というのが実態であるという。原発の誘致について は村は受動的であり、その結果が地域に何をもたらすか、明確に予測できた 者はいなかったようである。 結局59年には東海発電所基礎工事が開始された。工事は難航し、ようや く66年には発電所操業にこぎつけたが、英国製の原子炉は性能に問題が多 く、しばしば操業停止の事態となった。 しかし原子力関連施設従事者の流入により、村の社会構成は大きく変化し た。国勢調査によると、1955年に11,583人だった人口は60年には16,565人、 65年には18,960人と増加を続け、原子力関連従事者の流入を示唆している。 産業構造も大きく変化した。55年に75%強を占めていた農業従事者は減
少を続け、1965年には約35%にまで構成比が低下、一方サービス業(当時の 分類では原研等の研究者や職員はここに分類される)が急増した。建設業が 顕著に増加したのも原子力関連施設の建設需要に対応したものである。な お、製造業従事者の多くは日立市への通勤者と考えられる。 表2 東海村の産業構造の変化(主要産業のみ) 1955−65 原研誘致は川崎村長の独断で開始されたと言えるが、村の誘致運動はたち まち国と県の思惑に飲み込まれた。村政そのものは地域対立を含んだ旧態依 然たる農村型の政治が続き、1961年の村長選では川崎が根本を破って村長 に復帰、65年には根本が、69年には川崎が当選という状況であった。その 間に国主導で英国製原子炉の輸入による商業発電の構想が進められ、村は主 体性を発揮しえないままずるずると開発型レジームへの移行が進行したと言 えよう。むしろ、固有の意味での地域開発レジームの存在を確証するのは困 難かもしれない。 村では原研等の研究者・技術者の家族ぐるみの移住と子供の村内就学を促 進し、さらには新住民と地元住民の融和を計る意図もあり、特に教育環境の 充実に力を入れてきた。24 新住民との関係が深まる中で原子力に対する不安 も薄らいでいったことが1968年に村が実施した村民意向調査からもうかが える。25 出所)国勢調査 㻡㻘㻣㻟㻠 㻠㻘㻜㻟㻢 㻣㻘㻠㻡㻜 㻟㻘㻢㻤㻤 㻝㻘㻞㻤㻠 㻤㻘㻠㻠㻜 㻞㻘㻥㻟㻠 㻝㻘㻞㻤㻟 㻞㻘㻜㻡㻝 㻣㻡㻚㻝㻜㻑 㻝㻚㻥㻞㻑 㻡㻚㻡㻟㻑 㻟㻚㻞㻠㻑 㻥㻚㻞㻝㻑
3. 人口の急増と原子力レジームの確立(1971∼97) 東海村で原子力レジームが確立する画期となるのは、1971年に開始され た緑ヶ丘団地の造成と72年の村議選ではないだろうか。2015年に作成され た『東海村人口ビジョン』(初版)では、70年代の2回の人口流入のピーク をそれぞれ緑ヶ丘団地、南台団地の造成・分譲に伴うものと分析している。26 特に70年代前半の年間2,000人ほどの人口流入は、東海村の社会構成を大き く変えるものだったと言えるだろう。 表3 東海村の人口動態(昭和30−57年) 出典)『東海村統計書』平成23年版(ネット公開)
表4は65年∼80年の産業構成の変化を示したものであるが、極めて残念な ことに、国勢調査では東海村の1970年の産業構成を知ることができない。 表4 東海村産業別就業者数の変化(65−80年) この間の変化としては、農業就業者の急減・構成比の低下と、製造業就業 者の急増がある。製造業については、日立等周辺都市への通勤者の増加も考 えられるが、1970年代から80年代初頭にかけて、三菱原子燃料、住友金属 東海工場(JCOの前身)、原子燃料工業東海事業所等、核燃料関係の工場が 相次いで稼働を開始したことも当然影響しているであろう。27 そして原発の 稼働により、電気ガス水道業従事者が急増したことはいうまでもないことで ある。 こうした住民の社会経済構成の変化を背景に、1972年の村議選では、原 研職員3人、動燃2人が当選、定数22のうち5名を原子力関係者がしめると いう事態になった。ただしその中には元村役場職員や労組出身者が含まれて いる。76年には動燃職員が3名となり、22議席中6名を占めるに至ったので ある。28 さらに74年からは電源三法交付金により村の財政に余裕が生じ、以後都 市基盤整備が進むとともに、原子力関連事業所を顧客とする商工業者も増加 して、多くの村民が直接間接に原子力に関連する経済的利益を受けるように なっていく。29 そして、78年には東海第二原発が操業を開始し、村の原子 力・原発への依存は決定的になる。原子力レジームはここに完成した。81 年の村長選は川崎義彦の引退に伴い須藤富雄と黒沢欣一郎の争いとなり、
須藤が勝利した。以後須藤は無投票当選を重ね、4期連続16年の長期政 権を維持することになる。80年代に東海村の原子力レジームは安定期に入 ったと言えよう。 4. 相次ぐ事故と東日本大震災―動揺する原子力レジーム 1997年、須藤村長は引退を表明、常陽銀行ひたちなか支店長を務めた村 上達也氏を後継者に指名した。ところが選挙直前に動燃工場爆発事故が発生 し、村上氏は「原子力安全対策の強化」を公約して立候補した。しかしこの 時点では須藤氏後継の性格が強く、「村内にある原子力事業所の労組を含 め、百近い団体から推薦や支持を集め」30 共産党推薦候補に一万票以上の大 差をつけ当選した。村上氏は議会議事録等で就任当時の言動を確認しても原 子力との共存と市政の合理化・効率化を主張しており、原子力レジームのリ ーダーたりうる資質を有していたといえよう。 その村上氏が脱原発の態度を明確にするきっかけとなったのは、99年、2 名の死者を出したJCO臨界事故の体験であった。31 それ以後、原発推進派が多数を占める村議会と村上氏との対立は先鋭化し ていく。すでに1998年、当時の原電社長は東海3号炉建設を表明、村議会の 原子力推進会派に根回しを開始していた。2000年12月の村議会では動燃出 身の議員らが村の『第4次総合計画案』を批判し、修正動議を可決させて「原 子力事業所のさらなる充実を目指す」との文言を加えることに成功した。32 JCO事故の2年後、2001年の村長選では、県職員を対立候補に擁立する動 きがあったが、「事故のときの対応が村民に評価されているということで」 擁立は見送られ、村上氏は無投票で再選を果たした。33 しかし2005年、3期目の選挙は、もと日本原子力研究所所員の高野秀機氏 と那珂医師会長で県医師会推薦の尾形孝氏が原子力推進の立場から立候補 し、三つ巴の激戦となった。 村上陣営は県電力総連や自民党県連副会長の支持を取り付けたが、高野陣 営は前回村上氏を推した核燃料サイクル開発労組、村職員組合などの支持を 得た上に、当時村上氏と対立関係にあった沢畠俊光県議が支部長をつとめる 自民党県連東海支部の強力な支持を得ており、村上陣営は苦戦を強いられ た。結局、開票結果は村上氏9,860票、高野氏9,299票、尾形氏1,888票とな り、原発推進派の分裂に助けられ、村上氏が僅差で三選を果たす結果となっ た。34
2009年には村上氏は民主党の単独推薦をえて立候補、原発推進派の元県職 員坪井章次氏は自民党県連の原発推進派村議の支持を得ていたが、党派色を 出さず「村民派」名乗って選挙戦を展開した。結果は村上氏10049票、坪井 氏9281票で、またも接戦の末村上氏が勝利、4選を果たしたのである。35 村上氏は東日本大震災後さらに原発への批判を強め、2011年10月には当 時の細野原発担当大事と会見し、東海第二の廃炉を求めるにいたった。これ に対して村議会から批判の声が上がったが、3か月後の2012年1月の村議選 は原発慎重派が1名増え、原発推進派と慎重派が拮抗する結果になった。村 上氏によると、原発推進派が10名、東海第二の廃炉を主張するもの8名、中 間派が2名とのことである。36 村上氏は2012年2月には「脱原発をめざす首長会議」世話人に就任37 し、 退任後も積極的な発言を続けている。今や反原発のシンボル的存在となった 感があるが、村上氏は決して「反原子力」を主張しているわけではない。東 海村はすでに2005年に「高度科学文化研究都市構想」を発表していたが、 震災後の2012年12月には『東海村と原子力の将来像 ∼“TOKAI原子力サ イエンスタウン構想”∼』を発表した。38 これらは東海村に立地する原子力 関連研究施設を拠点として、村づくりを進めていこうという野心的な構想で ある。村上氏はこう語っている。 「端的に言えば、エネルギー供給源として原子力を使うことは、もう無理 だろうと。しかし、たとえばがんの放射線治療とか、原子力を利用して価値 を生み出す分野はほかにもたくさんある。実際、東海村にはJ―PARCといっ て、陽子加速器を使って量子ビームを打ち出す研究施設もあるんですよ。」39 しかしサイエンスタウン構想の中心に位置づけられていた日本原子力研究 所のJ―PARCで、2013年5月に放射性物質漏えい事故が発生する。この事故 でも事故連絡の遅れ等、安全意識の欠如が指摘され批判が巻き起こった。こ の問題に関して、これまでの原子力関連事故との性格の相違を村上氏は強調 しているが、その弁明は説得力に欠けるように思われる。40 サイエンスタウ ン構想は出だしから躓きを見せることになったのである。41
Ⅳ. 存続する原子力レジーム
村上村長の下での脱原発の試みにもかかわらず、原子力レジームは依然と して存続しており、レジームのほころびを修復し強化しようとする試みも存在する。 村内外の脱原発を目指す支持者からの出馬要請にもかかわらず、2013年7 月村上氏は5選不出馬を表明、2010年から副村長を務めていた山田修副村長 を後継者に指名した。山田氏は県庁から出向してきた人物であるが、財政や 産学連携製作に明るく、人柄も良いと村内の評判も高かったという。一見順 当な選択に見えるが、山田氏擁立に動いたのは村上氏だけではなかった。茨 城県北部の有力議員である、自民党の梶山弘志氏(茨城4区)と民主党の大 畠章宏氏(茨城5区)が手を握り、山田氏擁立に動いていたのである。42 両氏は、原発と深い関係を有する政治家である。梶山氏は、商工族の実力 者として知られた故梶山静六元自民党幹事長の子息として知られているが、 旧動燃職員という経歴を持つ。大畠氏は当時民主党幹事長を務めていた実力 者であるが、日立製作所の労組出身であり、かつては東海第二原発の建設に もかかわった技術者であった。43 この二人が党派の垣根を越えて山田氏擁立 に動いた意味は大きい。 山田氏は原発については「中立」の立場を表明したが、選挙戦の実態をみ ると村上前村長の後継という印象は薄い。山田氏の選対本部長は、東海村を 含む那賀郡区選出の県議で、梶山弘志氏の元秘書であった下路健次郎氏が務 め、事務所開きには反村上派村議が顔をそろえた。共産党は山田氏の姿勢は 脱原発ではないとして、元北茨城市議の福田明氏を擁立したが、結果は山田 氏11,758票、福田氏3,238票で山田氏が勝利した。大差がついたが、投票率 は過去最低の51.38%にとどまった。 山田新村長は就任後も原発については慎重な態度をとり続けており、自治 会単位での意見交換会を開いて意見を聴取している。44 一方村議会では、2016年2月の選挙で原発批判派が議席を減少させ、原発 再稼働派が定数20議席のうち12議席を獲得、勢いを増している。さらに2017 年は村長選挙の年である。山田村長が原発について態度を明確にしない場 合、再稼働派が対立候補を擁立する事態も想定され、今度の村長選は村政の 今後左右する重大な選挙になるであろう。
Ⅴ. 原子力レジームの今後
まず東海村の社会経済構成の現状を確認しておきたい。2015年国調の産 業・職業に関する集計結果はまだ公表されていないので、年報33号に掲載した表を再掲する。 表5 東海村の主要産業従事者数 表6 東海村の主要産職業従事者数 これらの表から明らかなことは、かつて農家中心であった東海村の地域社 会が、いまやホワイトカラーが多数派を占め、とくに学術研究、専門的・技 術的職業従事者の多さが際立つ社会に変容したということである。そして研 究職・専門的技術的職業従事者の多くが原子力関連の事業所に勤務している 以上、原子力レジームは東海村において強固な社会的基盤を有していると言 わざるを得ない。 しかしこの点に東海村の特殊性があるともいえる。『東海村の原子力』 (2016年版)所載の「原子力関係事業所概要」によると、東海村で働く原 子力関連産業従者は3,100人ほどであるが、東海第二原発職員はそのうち約 300人に過ぎない。村上前村長が主張するように、原発なしでも東海村はや っていける。電源三法との関連では、東海村では2013年から東京電力の石 炭火力発電所が稼働しており、原発とは比較にならないにしても交付金や発 (2010年『国勢調査』より作成) (2010年『国勢調査』より作成)
電所からの固定資産税が期待できる。また、東海村は水戸市のベットタウン 化してきており、原発と利害関係のない若い層の流入も期待できる。ほかの 多くの原発レジームに比べて、脱原発レジームを構想する余地は残されてい るのではないだろうか。 Ⅵ. 結びにかえて これまで、中澤氏のローカルレジーム論に依拠して東海村の政治史を考察 してきた。ローカルレジーム論にはかなりの有効性があるというのが筆者の 率直な感想である。東海村の場合、名望家レジームと地域開発レジームの移 行を明確にできなかったが、これは、筆者の力不足によるものであろう。 また、今回は各レジームにおける統治連合の具体的な分析に踏み込むこと ができなかった。議会事務局や選管で収集した資料や複数のインフォーマン トから得た貴重な情報を整理しきれなかったのは大変残念であるが、今後の 課題にしたいと思う。 最後に、調査でお世話になった東海村の方々に改めて御礼申し上げます。 どうも有り難うございました。 中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム 新潟県巻町と根源的民主主義の 細道、1994−2004』、ハーベスト社、2005年。 中澤前掲書、37頁。 同上、36頁。 同上、37頁。 同上、40頁。 同上、41頁。 原発立地が自治体財政にもたらす効果については(三好ゆう、2009、2011、 2012)が福井県を事例に分析を行っている。 中澤前掲書、42頁。 中澤前掲書、175−203頁。 中澤前掲書、40頁。 (注) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
『東海村史 通史編』663−4頁。 『茨城県統計書』昭和24年版 『村史』771頁。 『村史』766頁。 朝日新聞取材班(2014)『それでも日本人は原発を選んだ 東海村と原子力ム ラの半世紀』、朝日新聞出版、30頁。 同上、34頁。 同上、37頁。 同上、69頁。 同上、70頁。 『村史』767頁。 朝日新聞取材班前掲書、62頁。 同上、58−60頁。 同上、159−160頁。 茨城新聞社編集局編(2003)『シリーズ 臨界事故のムラから④ 原子力 村』、那珂書房、93−95参照。 『村史』819頁。 『東海村人口ビジョン』(初版)7頁。(PDF版) 東海村に立地する原子力関連事業所の沿革については、『東海村の原子力』 (2016)を参照。 当選議員の職業、主張等は村役場選挙管理委員会保存の記録により確認した。 茨城新聞社編集局編(2003)の90−102頁に具体的な興味深い事例が紹介され ている。 『朝日新聞』、1997年9月15日、茨城面参照 JOC事故については、村上達也・神保哲生(2013)『東海村・村長の「脱原 発」論』(集英社新書)の第2章で、村上氏が当時の状況を詳細に回顧してい る。JCO事故が住民に与えた影響については、藤川賢(2016)「JCO臨界事故 と東海村の経験―福祉原発事故とのかかわり―」が大変参考になる。 前掲『それでも日本人は原発を選んだ』274−6頁。 村上・神保前掲書、108頁。 『朝日新聞』2005年9月4日朝刊35ページ(茨城首都圏版)、同9月12日朝刊17 ページ、同2009年9月11日朝刊35ページ(茨城版)参照 『朝日新聞』2009年6月13日朝刊27ページ(茨城版)、9月11日朝刊35ページ 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35
(茨城版)、9月14日朝刊25ページ(茨城版)参照 村上・神保前掲書、118−119頁。 その経緯については、村上・神保前掲書、127−129ページ参照。 『東海村と原子力の将来像 ∼“TOKAI原子力サイエンスタウン構想”∼』 2012年12月、東海村 村上・神保前掲書、121−122頁。 村上・神保前掲書、123−126頁。 2015年1月16日にはJ−PARC実験施設で火災が発生したが、放射能漏れはなか った。(『朝日新聞』2015年1月17日朝刊29ページ、(茨城版) 以上の記述は『朝日新聞』2013年9月1日朝刊37ページ(茨城版)および前掲 『それでも日本人は原発を選んだ』278−282頁に依拠している。 大畠氏の経歴については『東京新聞』2014年11月28日朝刊の記載による。 『朝日新聞』2013年9月10日朝刊37ページ(茨城版)参照 『東海村の原子力』(2016)40頁。 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 参考文献(著者50音順) 朝日新聞取材班(2014)『それでも日本人は原発を選んだ 東海村と原子力ムラの半 世紀』、朝日新聞出版 渥美剛(2015)「東海第二原発と東海村―地域産業構造及び政治過程の考察―」 『桜美林大学産業研究所年報 第33号、111−123頁、桜美林大学産業研究所 渥美剛(2016)「原発受容の論理を巡って」『桜美林大学産業研究所年報 第34号、 桜美林大学産業研究所、39−48頁、桜美林大学産業研究所 茨城新聞社編集局編(2003)『シリーズ 臨界事故のムラから④ 原子力村』、那珂 書房。 桜美林大学産業研究所編(2010)『八ッ場ダムと地域社会』、八朔社。 東海村史編さん室編(1993)『東海村史 通史編』、東海村。 東海村(2015)『東海村人口ビジョン』(初版) 東海村(2016)『東海村の原子力』 中澤秀雄(2005)『住民投票運動とローカルレジーム 新潟県巻町と根源的民主主義 の細道、1994−2004』、ハーベスト社。 藤川賢(2016)「JCO臨界事故と東海村の経験―福祉原発事故とのかかわり―」 (『地域放射能汚染の解決過程に関する事例比較研究』第5章、三井物産環境委飢
饉2012年度研究 研究成果報告書)。 宮本憲一(1989)『環境経済学』、岩波書店。 三好ゆう(2009)「原子力発電所と自治体財政―福井県敦賀市の事例―」、『立命館 経済学』58(4)、43−63頁。 三好ゆう(2011)「原子力発電所所在自治体の財政構造―福井若狭地域を事例に―」、 『立命館経済学』60(3)、383−414頁。 三好ゆう、2012「原子力発電所と福井県美浜町財政」、『桜美林論考 桜美林エコノ ミックス』3号、 51−64頁。 村上達也・神保哲生(2013)『東海村・村長の「脱原発」論』、集英社新書。 矢沢修次郎(2006)「書評と紹介 中澤秀雄著『住民投票運動とローカルレジー ム』」『大原社会問題研究所雑誌』576号、61−63頁。