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嘉南大[シュウ]事業をめぐって : 中島力男さんよりの聞き取り資料をもとに

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Academic year: 2021

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(1)97. 嘉南大別事業をめぐって -中島力男さんよりの聞き取り資料をもとに松田吾郎Ⅰ (平成9年9月19日受理) はじめに. を見ながら帰ったためである。現在も元気でいられるの. 嘉南大洲事業については既に小稿を発表したが(1)、 1996年7月に台湾台南の嘉南農田水利会を訪問したと. は、当時足を使ったから、即ち内臓が丈夫だからと言わ れる。. ころ、顧問の徐欣忠さんを紹介して頂き、いろいろお話. 昭和19年、 39歳の時に国民兵として応召され、 20年. をお伺いし、また嘉南大洲を実地に見せて頂いた。その. 8月31日に召集解除となり、台南に帰った。中国から. 際に、徐さんより日本統治時代嘉南大別組合の職員で水. 国民政府が来て、台湾人が嘉南大洲を引き継いだが、甘. 利技師であった中島力男さんを紹介して頂いた。 97年. 庶被害があったので、日本技術者が協力させられた。嘉. 3月9日、 4月30[]、 10月14日の三回に渡り、中島. 南大別から中島さん、台中高等農林専門学校(中山大学). さんより当時の嘉南大別事業に関する貴重なお話しを聞. 教授の玉井トラ太郎さん(後の愛媛大学農学部長)、糖. かせて頂ける機会を得ることができた。そのお話しは水. 業試験場長の沢田兼吉さん(終戦後、宇都宮大学学長)、. 利技師として活躍された時期の生きた資料であり、私が. それに台湾製糖、塩水港製糖から合計5人を糖業復興専. 前稿で用いた文献資料には見られない、豊富で貴重な内. 門委員として任命された。. 容であった。本稿では中島さんの口述資料をもとに嘉南. 中島さんは中華民国政府から嘉南大別潅慨の技師とし て永久留用とされていたが、ご家族がさきに日本に帰っ. 大iJII事業の実態について述べようとするものである。 本稿の紙面を借りて中島さんに心よりお礼を申し上げ る次第である。. ていて、連絡がないので、昭和21年12月20日台湾か ら引き上げ、 22年1月12[]にEl本に帰られた。帰って 見ると、農地改革で農地は没収されていた。. 1中島力男さんの時歴 中島さんは明治38年4月に大分県に生まれ、現在92. 昭和22年から35まで年大分県長州中学校教諭として 教鞭をとられた。. 歳。大正13年に東京農大に入学し、昭和2年に卒業後、. 昭和52年に嘉南大別に行かれて、挨拶をなされた。. 渡台し、新高製糖会社に入社した。当時、同会社は大日. それがきっかけで、嘉南農田水利会は中島さんの功績を 記念して嘉南大別珊瑚樺の堤防近くにある同大釧創設者. 本製糖と合併される状態であった。大倉が大株主であっ たが、株を放して、大日本製糖の委任経営を受ける予定 であった。. の八田輿-さん(2)のお墓の横に同氏のお墓を作られて いる。. 昭和4年に嘉南大洲組合に入り、同5年5月1日、西 勢(永康庄大湾)監視所の農業指導に当たった。同7年 3月17日に北港主任となった。同地域には監視所が26 あり、潅慨区域は2万7千甲歩(1甲歩は約1ヘクター ル)であった。同12年6月には、嘉南大柳組合本部へ 転勤した。同14年に技師となった。同17年には嘉南大 別の仕事をしながら、台南農業学校で講義を行った。当 時は農業水利に関する参考書、また潅概の仕方、計画に ついて書いた本は全くない時期であったので、農業水利 学を作らなければならないと考えておられた。 農業指導のため各監視所を回る時は自転車を乗って遠 回りをしながら、区域を覚えたそうで、地球なら一回り はど回ったと言われている。 1年の間、 10日間も仕事 を休んだことがなく、台南から虎尾へ行って、帰る時は. 中島力男さんご夫妻 (1997年4月30日ご自宅で撮影). 終列車であった。現場では来た道は通って帰ったことは なく、中島さんは時間的観念がないとまで言われていた が、それは監督区域の水利状況、実行小組合の活動状況 *兵庫教育大学第2部(社会系教育講座). 2嘉南大判建設前の同地域の状況 (1)降雨の偏り.

(2) 98. 台南州は降雨に偏りがあった。台南の降雨量は年間. ので、屋根は糞でふき、地べたで床も何もない所に水が. 1700-1800ミリ(あるいは1800-2000ミリと言われた). 入って来ないようにしただけものであった。そこに皆寝. あったが、 1月∼5月まではほとんど無く、この期間は lOOミリ以下で、 7-8月に雨が多く、 8月末から雨が. 起きし、外で大きな釜で豆・芋を炊いて食べていた。製. 降らず、特に9月以降はほとんど降らず、 100ミリ以下. 中島さんは昭和2年に嘉義の製糖会社の農場に居り、 その後昭和7から10年に北港の主任になった。牛車に. であり、これが同地域の農業上の致命的弱点であった。 さらに川の勾配の急な所と緩やかな所があった。川の 勾配が急な所では一度にどっと水が出てきてしまって、 氾濫するのと同時に、あとは乾燥してしまってどうにも ならなくなる。つまり川の状態は少しの工事では水を取. 糖会社は彼等に砂糖きび栽培の手伝いをさせた。. 乗っておった時、 「中島さん」 「中島さん」と農民から呼 びかけられた。彼等は四五年前まで農場に出稼ぎに行っ ていた人々で、その多くが北港の海岸から嘉義郡大林圧 に移住していた。. り入れることができるような生やさしいものでは無かっ. 子守をする人がいなかったし、当時は子供が5歳や6. た。坤酬(清代以来のため池)は山手にはあるにはあっ. 歳になっても学校にやっている者は少なかったから、子. たが、普及していなかった。また、勾配の緩やかな所は. 供を連れて出稼ぎに行った。この小屋で遊ばせておいて、. 3000分の1で、水が流れないし、雨が降ったら排水が. 親は農場で働いて仕事が終わるとその小屋に帰って寝泊. 悪かった。 従って嘉南大洲の水利の基本は排水にあり、排水を完. まりした4-5歳までの男の子は裸同然の状態であっ. 壁にしてから給水を行うというシステムをとった。. で問題にならない程の価値の低いものであった。. た。当時はこれらの人々は土地はあっても養魚池や砂地. しかし、一方6、 7、 8月頃は雨が多く洪水になるこ. 中島さんが北港にいたころの海岸地帯では避砂防止に. とさえしばしばであった。嘉南大別を造る前に最大降雨. 萱、ぐみ、ダルベリアが植えられていた。しかし嘉南大. 量が3日間に550ミリを記録したことがあった。それを 基準に排水計画を作ったと言われる。嘉南大別建設後に. 洲通水後、作物栽培がはじまると不思議なもので季節風 も強く吹かなくなった。. はまた2EI間に六百数十ミリということがあった。 100 ミリ雨が降ると水深3寸3分から2尺(約9-60cm)に. 附近に6-8キロにわたって防風林を作り、部落のどこ. なるO従って、ただ水路を作るだけではいけない。大き. にでも植えられた。その木は木麻黄と呼ばれ、挿し木で. な河川には防水堤防を作った。また海岸には防潮堤防を. はなく種を蒔いて植えられていた。成長が早く4から5. 作った。 3尺(約90cm)になると高い潮は入る。こう. 年で2から3メートル以上になった。同12年にできあ. した防潮堤、護岸堤防は昭和4、 5年頃にはどこにでも. がったが、終戦になって、全て伐採された。当時取締規. あり、嘉南大別組合が金を出して作った。 また濁水漢の汚泥も凄く、台中の方では雨が降ると4. 則を作り、防風林組合を組織していたらそのようになら なかったかもしれないが、戦争前は人手も無く、考えも. キロ四方水びたしになった。その護岸堤防を嘉南大洲の. 及ばなかったから、終戦後あっと言うまに切り倒されて. 建設前に、鉄線の網龍に石を詰めて作った。. しまったと言われる。. (2)厳しい季節風. また昭和12年頃から防風林を作る計画がでて、海岸. (3)飲料水の確保が困難. 冬に北風の季節風が強く吹くので作物が出来ない。こ. 台湾西海岸は海が隆起してできた土壌であり、また満. の時期には作物は豆類、芋類しかできなかったが、あま. 水渓の土砂が沈澱してできた所であった。同地域は井戸. りに乾燥した時には砂が飛ぶだけでなく芋苗を植えても 苗などが吹き飛ばされた。砂が多く飛ぶので眼の悪い人. を掘ることは難しかった。大正時代から煉瓦を積み、坂. が多かったと言われる。ガジュマルの木は等を立てたよ. なかった。従って飲料水・潅概用水に困り、 「不毛の地」. うに南に枝が向いていた。 4月中頃、季節風が無くなる. とさえ言われていて、農民は芋と雑穀(豆類)を常食と. と音がしなくなって、寂しくなると言われるくらい強い 季節風が吹いた。家の戸はきちっと締めておかなければ. した。またこの井戸は雨が降った時、その土塀を高くし ておかないと使いものにならない。従って井戸の代わり. ならず、ひどい所では風避けのために戸にかんぬきを入. に、ため池を作るところもあり、これらの水を汲んで生. れてあり、弾薬庫の廻りは土手で囲われていたといわれ. 活していた。. る。. 季節風の強い地域は養魚池、砂地で生産力が低かった. を置き、重石を置いて作ったが、地下水になかなか達し. しかしこうした井戸やため池の水は塩分や石灰分を含 んでいたために、一回、沸かしてから更にもう一回沸か. から、昭和の初めころは皆製糖会社の農場等へ出稼ぎに. してお茶にして飲まなければならなかった。. 出た。製糖会社では出稼ぎ者を受け入れる為に小屋を建. 新高製糖会社や総督府はボーリングして水道式にして いたが、大部分の所では水道はなかった。昭和5-6年. てていた。小屋といっても雨露をしのぐための簡単なも.

(3) 嘉南大別事業をめぐって-中島力男さんよりの聞き取り資料をもとに. 99. 頃までは、役所所在地の内地人の大部分は水汲みを雇っ. 当初嘉南大別の建設にあたっては官個漢と亀重漠を対. ていた。水を汲んで配達する商売人もいたし、洗濯だけ の商売もあった。. 象としていたが、亀重渓は不適であった。官佃漠はオラ ンダ時代の坤釧跡があり、小さい川をせき止めていた。. また、嘉義、台南市等では水道があったが、石灰分が. この官田渓をせき止めて珊瑚揮、即ち、烏山頭ダムを作. 多く含まれていた。このように台湾では全体的に飲料水. り、また濁水渓から引水する計画に変えて実施した。 (3). の質がが悪かった。嘉南農田水利会の徐欣忠さんの家は 台南の安順にあるが、この地域は非常に飲料水の質が悪. (2)建設計画. かった。昭和4年8-9月に嘉南大柳組合が同地域に測 量に行った際、人夫を雇って、トロッコで台南の水道の. 相当の人員を投入し、まずは地形測量を行い、地図に 等高線を引き、図上計画を立てた。大正9年からさらに. 水を運んだ。昭和5から20年まで嘉南大別の安順管理. 人を集めて平板測量し、それから水路計画を立てた。な. 所では飲料水の購入のために1カ月5円の特別補助金が. かなか簡単にはいかない。宮田渓流域の降雨量だけでは 必要水量の10分の1にも足らないと解っていたから、. つけられていた。バスが普及してからはバスで飲料水を 運んでもらった。台南は港、丘陵地、拠点都市であった が、同市の水道は、大正年間にでき、曽文渓の上流から 水を取っていた。 (6)交通か不便である 終戦までは製糖会社の鉄道が重要な交通手段であった。. 魯文漠からトンネルを抜いて水を官佃漠に入れることに した。 嘉南大洲の潅概計画を立てるにあたっては、明治31 年から総督府が行っていた降雨量統計、特に曽文渓の水 の取り入れ量の計算、即ち、取り入れ可能水量、降雨量 の各統計があったので、これを基礎的参考資料として、. 砂糖きびの運搬の際、牛車を通す道路がほとんど完備し. 嘉南大士肝工事を行った。そうでなければ工事はできなかっ. ていなかった。台南州だけで製糖会社の工場が12あっ. た。潅概面積は八田輿-さんが最初に計画した当時から. たが、鉄道を100キロもたない工場がなかった。鉄道の 積み込み場へ牛車で砂糖きびを運んで機関車に積み運ん. 烏山頑系統10万甲歩(1甲歩は約1ha)、薗水渓系統 5万3千甲歩、合計15万3千甲歩であった。ただ15万. だ。この鉄道があったから資材を嘉南大別に運ぶことが. 甲歩は見込みの数値であり、現実には区域内には低湿地. でき、同大訓ができたOというのもコンクリート用の砂. も多く、すぐには土地改良できなかったために通水当初. 利を採集するには、海岸地域の川には砂利はどこにもな く、砂ばかりであり、遠くから製糖会社の鉄道を使って. の濯概面積は15万甲歩無かった。. 運んだ。鉄道は製糖会社が違っても、どこかでつながっ. (3)配水計画. ていた。それがあったから嘉南大洲ができた。また海岸. 烏山頭の水を各農地に送る方法は、烏山頭の水を三回. 地域の砂には塩分が含まれており、しかも粉状であった. 入れ替える、即ち、貯水量の三倍の水量を取り入れる計. のでコンクリートには使えない。従って砂も山麓の河川. 画であった。集水面積は珊瑚揮(烏山頑ダム) 1000甲 歩の6倍、即ち6000甲歩であった。. から鉄道を使って運搬しなければならなかった。鉄道の 維持はたいへんで、枕木は相思樹が作われた。これらの. 烏山頑ダム送水路の送水量は最大毎秒70トン、毎秒. 鉄道は軽便鉄道であった。 さらに嘉南大別附近の水を使うと塩分があるから、コ. 1トンの水は24時間で1へクタ-ルに8メートル64セ ンチメ-トルたまる.毎秒70トンになると汽船が通れ. ンクリートには使えず、水も全て山手の川から鉄道を用. るほどの水深になる。決壊した時には凶器のようになる. いて運んだ。. から管理がたいへんである。例えばダムの補修、底洗い には常に危険がともなった。幹線水路では毎秒50トン. 3嘉南大判建設計画. から60トン流せる。水路が壊れたら、海になる。北幹. (1)建設のきっかけ. 線の水速は毎秒15尺何寸(1尺は約30センチ、 1寸は. 嘉南大洲の建設は大正7年に発議されたが、これは米 騒動がきっかけとなったものであった。米騒動の当時、. 約3センチ、従って秒速約5メートル)、人間が落ちた. 日本の農民は自分の持っている米を売り、ベトナム、ビ ルマの米、即ち外米を買って食べていたそうである。内. 性が洗濯して水にされわれたりしていた。. 閣は米増収のためには補助金をいくらでも出すと言い、 台湾総督府は地方長官会議を開いて、どこでも米の増産. 幹線相互に川の下を暗渠で通すことができた。. できるところを申告せよという命令をだした。八田輿-. 北港に居た時にはポンプや暗渠を8回使った。現在、海. さんが嘉南大別15万甲歩、桃園大洲2万2000甲歩を計. 岸地域では、烏山頭の水が足らなくなると、農民が勝手. 画し、大正9年に公認された。. にボーリングするために、地盤沈下して耕地にならなく. ら上がりきらない。よく台湾人が死んだものである。女 濁水渓と北港漠では、水が足らなくなると烏山頑及濁 また北港渓にポンプをっけて水を入れた。中島さんが.

(4) 100. なっている所があるとのことである。. 烏山頭の貯水量百万立方尺(1立方尺は約27.8リッ トル、百万立方尺は2780万リットル、重量27800トン)、(4) 作付の時どれだけ水をだしたかを記録している。また 濁水漠の水量、取入可能量、どれだけ送ったか、北幹線 にどれだけ送ったかをも記してある。. 考案し、その組み合わせも考えだした。水は3分の1し かないから、水均姑の思想からこうなった。もともと山 手の小さい川附近では、現地の人は甘庶、雑作、陸稲な どの輪作を行っていた。その実績を研究所の成果とドッ キングして行った。 作物輪作は作物の病菌、害虫を根絶でき、地力の維持 にもつながった。同じ作物を作っていくと作物が特殊な. (4)建設に対する農民の意識. 樹液をはくことによっていろいろな病気もでる。例えば. 中島さんは昭和4年から嘉南大別で勤め、最初、佳理. すいか、しょうが、トマト、なす、じゃがいも等は連作. に居た。ある時、魯文漠の洪水の警戒に出たが、行くと. ができない。ところがこれも二年に一度、三年に一度の. きも帰る時も水浸し。防水堤防が50件、 60件も壊れた。 しかしそんな時でも農民は警戒に出てこない。通水開始. 割合で水を入れ稲を栽培すると、その次の年から連作が できるようになる。これを「いや地病」 (連作を嫌う病. の前年であるが出て来ない。排水に困った。それは嘉南 大別の建設は税金を取るたけであって、自分達のために. 気)という。これは地力の維持から言って当然必要なの である。地力の経済的利用、連作が可能となる。もう一. しているのではないという「民族的」な意識があり、地. つは雑草の根絶ができることである。一度、水稲作をす. 主も反感を持っていた。ところが通水開始になり、自分. ると、雑作時に畑地に生えていた雑草は枯れてしまう。. 達の田が壊れるとなると、みんな警戒に出てきた。. 水稲を二年続けると水田には雑草が残るが、また雑作を. また三年輪作で1給水区を150甲歩とし、そのように. すると雑草はなくなる。雑草の根絶という点から言って. 土地を区画する時に最初は農民は素直に聞かず、反対が. も、雑草を刈ったり、燃やしたりしなくても根絶でき、. 多かった。. 輪作は非常に便利であった。. 給水路は南北幹線水路と支線、分線水路を合わせたも のの長さが約9600キロメートル、小水路の長さが9000 キロ、排水路の長さが7000キロメートルあった。幅1. (6)蓬莱米. mの給水路をつくるのにその両側各5m幅の田地をっ. して作られたものである。明治32、 3年頃から品種改. ぶしたが、この小水路に対しては用地代(保讃金)は全. 良した。台湾の在来米は脱粒しやすい。日本の水稲農業. 蓬莱米は台北で磯永吾氏によって日本の米を品種改良. 然出さず、提供させた。地上物代も土地代も払わなかっ. は、種蒔きして45日たってから苗を植付した。それと. た。ただ免租地(税金を納めない土地)にし、水路の用. 同じやり方をすると台湾ではうまくいかなかった。 13. 地だけにした。最初反対は大きかった。中島さんは昭和 4年9、 10月から一つの小区域の工事を受け持った。. 日∼20日に苗をやる(田植えする)と、日本の「神力、. 翌年5月1日までに完成しなければならない。その際、 農民からここは悪いからこちらへ通してくれとか、ここ はこうしてくれという要望があったが、土地は出さない. 旭」と同じ稲を作ることができた。台北の草山の百姓が 偶然、日本の米と同じものを作ることができたことから 始まった。毎日試験したところ13日くらいででき た(5). というのは無かった。自分達の田のこちらへ水路を通し くれという要望があった。 11月から翌年2月までの4. (7)大斐種. 箇月で仕上げた。 1600甲歩あったが、用地代を払わな. これは昭和2年頃から普及してきた大きい品種の甘煮. いし、地上物の代金も払わない。その両側の田から土を 取った。農民は文句を言ってもしようがないから言わな. である。その前の甘煮というのは大きいものではなくて. かった。全部新しい水路であった。境に排水路がある。. 江戸時代川崎あたりまで作っていた。その当時の品種は. 排水路がなければ輪作ができない。給水路だけではでき. 穂がでなかった。穂の出ない葺は交配ができなかった。. ない。水を送るためには水門を作らなければならない。. 日本人が南洋(特にジャワ)に行ってオランダが作って. 日本のしのぶ竹(女竹。しの竹)のようなものであった。. 3つの区画には水門が必ず一つあった。 3区画に1水門. いた新品種の大車種を盗んで来たものである。多くの日. でいいときも、 2つ必要な時もある。幹線水路から支線、 分線水路に分かれる分岐点には必ず水門が無ければなら. 本人が一人せいぜい五本か十本づっ持って帰ってきたも のである。二節あれば芽が出た。ジャヮに行った女学校. なかった。. の先生が夜に盗んできたという話も聞いた。昭和2年頃 から急増した。それが外交問題で困るようになったから、. (5)三年輪作 三年輪作即ち、水稲、甘庶、雑作の組み合わせは八田 輿-さんの独創ではなく、台北の中央研究所の研究者が. 台南に糖業試験場をっくり、品種改良したものが大垂種 のおこりである。品種改良により新品種がたくさん出て きた。嘉南〇〇号とかF台湾〇〇号とかいうものがたく.

(5) 嘉南大別事業をめぐって一中島力男さんよりの聞き取り資料をもとに. 101. さんでてきた。その結果、ずいぶん砂糖の生産高が変わ. 看天田というのは雨が降った時に天を見て水稲作をする. り、増産できるようになった。(6). ということからきた名称である。土質は粘土質で排水の 悪い所で、また石灰分が多い関係から長い間に地面下に. (8)雑作 雑作では甘藷、落花生、黄麻(豆・米の袋)、陸稲、. 岩盤ができていた。従って看天田改良というのは深耕土、 即ち深さ90センチメートル(3尺)以上鋤起こすこと. 棉、緑肥等が作られた。. である。普通、人力では出来ないから大正7年頃からイ. 甘薯(芋)栽培は農民的欲望のあらわれである。台湾 人にとっては芋が主食であった。よく芋を作った。生の. ギリスの業者が来て視察して、これを鋤起こすにはイギ. 芋を煮て食べるのではなく、切り干しにして水で洗って. 等ではスチームプラウを用いており、台湾でもこれが使. 煮て食べた。芋は切り干し芋にすると三井物産などの商. われた。 1回に幅3尺、深さ3尺の土を鋤起こした。. 社が買い集める。日本に輸出して焼酎の原料にした。. 500-800メートルの間隔、道路から道路の間に800メー. 黄麻は昭和7、 8年頃から神戸の小泉製麻が台南に工 場をもって奨励して作らせようとした。その用途は豆米. あったために、もし通路がしっかりしていなかったら、. 袋(麻のようなもの)であった。原料の黄麻は外からも. 角材を並べて通した。スチームプラウは蒸気機関車であ. 輸入していた。しかし、黄麻を出荷するまでには皮を剥. るから、それに必要な石炭、水は牛車で運搬された。個. いで池に一週間程漬けて、腐らせて皮を落とさなければ. 人ではできないから、製糖会社に頼んでやらせた。甘庶. ならならず、そのために浸水池が必要であった。その問. が1甲歩6万斤∼7万斤(1斤-600グラム。 36-42ト. 題があって不便であった。. ン)はどしかできなかったのがスチームプラウで鋤起こ. 陸稲は昭和6年頃までは田舎で見たが、中島さんの記 憶では昭和9、 10年以後はあまり見なかったといわれ. すと18万斤(108トン)くらいできるようになった。. S。. もすべて鋤起こしてしまうので、鋤起こしをする前には. リスではダイナマイトでやったと言っていた。アメリカ. トルの間隔に通れるようにした。 80トン馬力の機械で. ただ1筆1筆ごとの田土を鋤起こすことはできず、畦畔. 緑肥、即ち田苦というのは気温がある程度高くなり、. 必ず州の土地改良課の人が来て、現地の状況、畦畔の状. そして水分が多くないと発芽もしないし、生育もしない。 従って、台湾では台中以北では気温も足らないし、緑肥. 況を測量した。鋤起こしができてしまえば皆もとの状態. にすることは無理で、台中以南で栽培された。真夏の間. な看天田改良は製糖会社にとっては利益があり、農民も. に返した。農民から特別に工事費を取らない。このよう. だけ出来、しかも成長の速いものである。水稲の前作に. 1、 2年耕作が不便でもいいじゃないかということで、. 鋤込みをして植えられた。地力維持のための中間作であっ た。従って水稲の前に中間作(緑肥)が植えられるので、. 州が製糖会社に委託して行わせた。多くやったのが明治 製糖、塩水港製糖であった。看天田の深耕は製糖会社に. 米の二期作と同じサイクルになっていた。この田背の説. よって行われたが、深耕後、最初は水稲耕作し、あとは. 明は『台湾農家便覧』 (台湾農友会、昭和19年)に出て. 輪作を行った。 1度岩盤を切ってやると非常に収量が多. いる。成長は非常に速く2ケ月少しあれば2-3メート. くなった。スチームプラウは1回だけの使用でよかった。. ルに成長する。緑肥は非常に価値があった。. 昭和9年頃になると、スチームエンジンからドイツ製の 今の自動車式のガソリンエンジンを用いたヒースプラウ. (9)強塩地改良 土壌に塩分が多いことから、米等の栽培に失敗はなかっ. 大日本製糖、明治製糖などの製糖会社は各々の相当たく. たかということが当然問題となる。しかし、前述のよう. さんの農場でそれを用いた。昭和11年以降多くなった。. に防潮堤を要所に作ったし、潅概を行ったので、失敗は. これはスチームプラウのような大仕掛でなく簡単にでき. なかった。塩分地改良は塩分を洗い流すために水を入れ、. たからである。. を用いた。簡単な(小型な)機械であった。新高製糖、. 排水する。上から水を居れて浸透させ、下から塩分を吸 い上げる。毛細管現象を利用した。上に物を作って、水. (川耕地整理・小作関係. を入れるとできる.下杏(口湖の西)に自動排水門を作っ. 嘉南大洲組合は実際に耕地整理について問いかけたこ. た。潮がきて排水を海に出せないときも、潮が入らない ようにした。潮を引いた時に開けて水を排水した。 3尺. とも、議論をしたこともない。また耕地交換についても. 間隔で32門か36門の自動排水門をっくった。内地から. おっしゃる。そして業佃改良事業でいう書類契約をし. 多数の見学者があったと言われている。. て、 3年契約をすることについては、披等は簡単にした. したらいいとは言っていたが、中島さんは見ていないと. かもしれないが、書規契約でなくても間違うことは無かっ. (10)看天田改良 嘉南大別組合の協力によって看天田改良が行なわれた。. た。耕地が削られることもあったが取り上げられて困る ということはなかった。たとえ耕地が取りあげられても、.

(6) 102. 農民はどこ-行って地主に頼んでも耕地を貸してもらえ. 土木技師は水路を専門に管理し、水を公平に分配して. た。誰にでも借りれた。さらに小作料は業個協調会では いくらいくらの金銭にせよと言ったが本当は作物の作り. 送った。水を幹線から支線に分ける所に水路監視所5 5. 分けで、大概の所では半々であった。肥料代も半々、種. 費用の徴収は州の税務課(官)に頼んだ。したがって. 代は問題になったとは聞かず、地主が出した。甘煮の種 はたくさんいるので、主に農民が製糖全社から買った。. 人件費も出したし、出張費も出していた。みんな徴収し てくれたので、組合には関係がなかった。. そうでなかったら自分で別に甘煮の苗園を持たなければ. 烏山頑支所では水の運営、機械の管理を行った。林内. いけなかった。今年7-9、 10月に植える甘庶であっ. ヶ所があり、各々に監視員がいて水を分けていた。. 支所では濁水渓から水を取り入れ管理した。. たら、正月あたりから植えても良い。 10、 11月に刈り. 電話交換台は6ヶ所、全体で凡430ヶ所あった。監視. 取って苗にした。業佃協調は考えた程には実質上効果が. 所、事務所の各係、本部の各係(係長)、各郡部の主任. 上がっていない。嘉南大洲区域内は山林がなく、燃料が. まで全部持っていた。しかも専用電話であったために、. 無かったから、甘庶を刈り取ったあとに残った根を燃料. 命令が迅速に伝達された。嘉南大洲事業の進展に大きく. にした.甘煮の根を地主と農民は分けていた.. 貢献した。. 4嘉南大別組合の組織. ②水利の充実. 大正9年に計画がはじまった際は公共坤訓官佃渓坤釧 組合という名称であったが、同10年に公共埠釧嘉南大 別組合と名称が変更された。この組合の組織について中. 1.潅概計画 (所要水量) 何月何日から潅概を始め、どの水路即ち、各幹線、支. 島さんが詳細に述べられた。. 線、分線別に、各給水区別に潅概計画を立てた。濁幹線. ①嘉南大洲の組織. 1900立方尺(約52820リットル) /秒。烏山頑2000立. 水利運営組織は用水に対して連絡が迅速であった。 課係長 総務「指導技師. 慧禁。技師)辛. i. 水利技師 庶務 調査技師 土木技師丁林務砂防 調査技師 設計師 電話 営繕. 徴収州税務課 烏山頭支所長(技師) 林内支所長(技師) 別電話交換台6ヶ所-専用電話430ヶ所 十郡 各郡部長(郡守). 水利一潅概監視所116ヶ所 土木一水路監視所55ヶ所 庶務 用地. 方尺(約55600リットル) /秒。全部計画し、 1年間に どれだけ水量がないといけないかはわかる。それを変更 するのは自由にできないようにしてある。 く水量- 1日消失水量一見込有効雨量) 水量は1日の消失水量(田に入って毎日なくなってい く水量、蒸発したり浸透したりする水量。水深でだして ある)から見込有効雨量を引いたものである。それをも とに1日毎秒どれくらい各給水区に水をいれたらいいか を計算してある。水門に量水表をっけてあって水位、水 門の幅、いくらづっ落ちているから1立方尺について何 秒という早見表がつけてある。ただやってみて足る足ら ないはその人の腕次第であった。 (綿密な実測により計算) (非常節水の対策) 例えば1週間に7日分の水がいるものを3日しか給水 しない。一時しのぎしていく。そのときには水路毎に止. 以上の組織になっていたが、専務理事は組合の最高責任. めてしまう。そこに水が流れておったら関係者も農民も. 者であった。配水計画は管理者の裁決を得なければ決ま. 言う事を聞かないから鍵をかけて止めてしまう。毎日の. らなかった。計画を全部承認してから後の、日々に送る. 水量を減らして給水するということはしない。そのよう. 水量の変更も実際の所管は水利技師(係長)であるが、. なことをしたらどこにもいかなくなる。一定量の水を流 さないと田に行きわたらなかった。. 水利課長に言い、それから専務理事に言って、専務理事 の決裁がなかったら、一つも変更する事はできない。こ れが厳格にできたからうまくいった。 1秒間に何立方尺 の水が配水しているかがわかっていなければできない。. く分水量の確実) く予定水量の変更) 例えば、下の方の水路が決壊したので上の方の水路か. 綿密な計算が行われていた。職員の指導訓練も非常に力. ら水を送る量を減らす際、 1日に何回も調節したってう. を入れていた。 水利技師即ち、水利の係長は116ヶ所の潅概監視所の. まくいくものではない。烏山頭ではその日の正午に変更 するのが普通、出来ない場合は午後4時に変更する。 4. 指導、水の運営、農業の仕方の監督を行う責任があった。. 時に変更しても、下の水路に影響してくるのは明日の夜.

(7) 嘉南大iJII事業をめぐって-中島力男さんよりの聞き取り資料をもとに-. 103. 8時、 9時になるということは多くあった。給水を増や. 職員の指導というのが事業がうまくいくかどうかの根本. すのも同じ。下にまで影響を与えるには時間がかかる。. であった。今まで何も経験のないところから始める。. 烏山頭で水量を変更した場合、電話で各支線、給水区等 に何時に変更するよう命令する。 (降雨による調整). また実行中組合を利用していくことが重要であったた めに、中島さんはなるべく組合員と接触できるようにま た田舎の職員に連絡することができるように、毎月一回. 嘉南大洲区域の主なところの50数ヶ所が連絡してく る。雨量の観測は普通、測候所では12時である。測候. 郡部で監視員の会議をするように提案したが、皆が嫌がっ. 所から連絡がくる。嘉南大別における雨量の報告は午前. を開いているが、そうでないところはできない。. てできなかった。うまくいっているところは集まり会議. 7時。すぐ報告する。配水量を変更する場合、決裁を受. 中島さんが27歳の時、配下に26監視所があり、 26. け、各給水区等に連絡。迅速にしなければ水を無駄に流 すことになる。. 人の部下がいた。郡主任9人のなかで中島さんが一番若 く、給料は低かった。各実行小組合、監視所では実行中. く潅概計画は常務理事の裁決). 組合長を集めて会議し、各小組合で事業計画を発表し、. く所要水量変更は専務理事). 金を納める。乾燥期になると、水路の測量をやって翌年. 潅概計画、変更は理事長(常務理事)の決裁がいるo 各給水区取入水量. ・旬報. 各水門の分水量 各放水路又放水門の水量. の潅慨のために補修もさせなければならない。中島さん に責任がかかってくる。家ができたり、道路との関係な ど、実際潅概していると具合の悪い所では、小水路の位 置を変更をしなければならなくなる。しかし勝手にさせ ると乱れてしまうので監視所が行った。. 各給水区、各水門、各放水路、放水門ごとに旬報があっ て、何日にはいくら水が入って、いくら出したかを報告 した。それをもとに統計をとり、将来の計画をたてた。 く潅慨管理所(監視所)). く給水区実行中組合). i. i. 導水路一幹線一支線-分線一中水路-小水路 I_-. 吉昭mis /6。禁転図=コっ旨導の資料 耕作者台帳作製. 監視員. 水路監視員. ‥-. _. 」. 水利組合実行中組合 (1996年7月上旬徐欣忠さんからの聞き取り). 昭和3年から4年末に1給水区-150甲歩単位に1実. 潅概管理所では農業の指導をするために資料として登. 行小組合が作られた。地主・農民が全員加入し、耕作者. 記所と同じように土地台帳写を持ち、それに1/600平. 名簿も作られた。全体で1900程あり、 1実行中組合の. 面図を持っていた。普通の農業団体とか農務課はこれが. 組合員数は30人∼50人であった。各組合で1人組合長. ないから指導が徹底しなかった。中島さんも作付面積を 指導する際、これらの資料を持って行い、何を作付し、. が選ばれた。組合長の選び方は例えば昭和4年に永康の 近くの大湾では、郡守が出てきて会議を開き、規約を審. どうしたかを記入し、面積を計算した。だから嘉繭大洲. 議して決めた。組合長の大部分は保正、甲長であった。. で行った統計は間違いが無かった。この事が指導上うま. 組合長の仕事は金を集めること、経理すること、郡単位. くいった根本的原因であった。. の連合会に費用を支払うことであった。. (各郡部毎に毎月監視員会議:指導の為). 嘉南大洲では小さい水路については指導をするが、金. 毎年、烏山頑で嘉南大別職員を集め潅概計画と事業の. はださない。実行小組合で小水門ごとに金(水租、工事 費等)を出しあった。その額は-甲あたり、五円、八円. 進め方について講習を行った。常に技術的指導を行った。. などまちまちであった。水粗の徴収は州の税務課が担当. く毎年2日∼3日間潅概基本計画の講習等). 職員は採用したからと言ってそのままほったらかしにし. し、嘉南大洲組合は関与しなかった。工事費は税務課が. ては置かなかった。. 市町村に委託して徴収していた。その費用は農民の負担. 烏山頑支所には烏山頭の管理、はかの幹線の管理を行っ. になっていたが、彼等はあまり不満を言わなかった。組. た。幹線には水路監視員がおった。全体で150箇所監視. 合会議(総会)が年1回行われ、会計報告し、予算、決. 所が置かれ、各監視所には職員一人、補助員二人乃至三. 算報告を行った。足らないときは補助金をもらう。組合. 人置かれていた。本部職員が監視員の指導を行うことが. 長は経理をすることになっていたが、できないから、監. 重要な仕事であった。二年に-匝‖ま技術的指導を行うた. 視員が指導した。それでもできない時は、共同の管理組. めに監視員を集めて講習したり、代わる代わる集めて講. 合をつくって経理担当の人を配置して徴収させた。この. 習したりした。できるなら毎月一回づっ郡で、監視員の. 問題はたいへん大きな問題であった。補修費、作り替え. 会議を開いた。監視員の会議には必ず、中島さんがでた。. たりするときの原料費もいる、郡単位で北港郡なら北港.

(8) 104. 郡の実行小組合連合会を作ってそこで全て経理して行っ. 主任になっていた昭和7年当時にはlOO甲歩、 200甲歩. m. の養魚池がたくさんあった。水稲作を1回もしないもの. 水害の時などに、被害報告を中島さんのところへ言っ. もあった。養魚池は個人所有のものもあったが、部落共. てくるが、被害はその日と次の日とでは違う。中島さん. 有という観念が強かった。 150甲歩、 200甲歩の養魚池. が集めた小水路の被害報告は正確、土木課は不正確であっ. を輪作に変えるとすると資本がいる、水路を作らなけれ ばいけないし、圃場水路もつくらなければいけないし、. た。例えば水柴が落ちた時、ポンプを用意して補修した。 電話申請してあとで書類を出した。ある程度「バッハ」 をかけておかないと実際上はやれない。実行中組合の指. 地均しもしなければいけいLということでなかなか謡が. 導は大きな問題。これによって実際の仕事がうまくいく. り、 9年には輪作を行うようになっていた。養魚池開墾. かいかないかに関わる大問題である。実行中組合が嘉南. 資金は台湾地主が出したり、貸したりした。地主は金貸. 決まらなかった。しかし昭和8年になると大部分なくな. 大別運営の原動力である。監視員がどのように実行中組. しから借りても賃したであろうと思われる。当時の一般. 合員を動かしていくかはその人の腕次第であった。. 的な金貸しは籾屋(米屋)で土壁問と呼ばれていた。ま. 度々、中島さんは実行小組合へ行って潅概計画を伝え た。水の配分がうまくいかないから専任の管理人をおく. た製糖会社は甘煮を作るという条件なら金を貸した. ただ、凡そ十五万甲歩の原野のような土地が急に開墾. かどうかを諮ったところ、組合では管理人を置くことに. されて三年輪作が出来るようになると思われたことが間. なった。専任の管理人には農民ではない農業労働者がなっ. 違いであった。しかし昭和8、 9年頃から15万甲歩の. た。当時台南の農村人口の3分の1くらいはこうした農. 面積で三年輪作できるようになった。. 業労働者であった。農家の手伝いをして生活している。. 昭和10年か11年にEl本勧業銀行の検査課長が水杯の. 彼等の持っ農具は鍬、鎌だけであった。苦力と呼ばれて. 視察をしたいというので中島さんに案内を依頼した。昭. いた.製糖会社の甘煮刈り取り、植付などを行っていた。. 和7年頃までは同地域では稲はあまりできていなっかた ために、 「これから先は内の銀行では金を貸してやって. 彼等は自分の家から自転車に乗ってやって来て、交替で 出て毎日給水を管理した。その方が水を経済的に使用で きた。また昭和8、 9年当時、男1人日給50銭ぐらい. はいけないところ、金を出しても何にも利用できること. であった。組合役員と監視員によって決められた。中に. じゃないですよ、現在はこのようによくなっていますよ」. は他へ出稼ぎに行くより日給がいいから管理人をやらせ. と説明されて、 「これは大変だ。すぐ改善しなければ」. はない」と言ったが、中島さんが現地を案内し、 「冗訣. てくれというものもあった。専任の管理人は毎日監視所. と言って帰られた。北港だけでなくて他でも同じであっ. に来て監視員より指示を受けた。 50銭の価値はどれく. た。水林は海岸までかなりあるところだから、開墾は手. らいかというと、当時白米1斗の値段が2円50銭。彼. 間がかかった。しかし台湾人だからこそあれだけ早く開 墾できたのである。何故なら利益に聡いからこちらから. 等の一般の労賃は能力主義によって苦力頑より支払われ ていたが、女は32銭とか35銭、男は48銭とか55銭と. 言わなくても、あれはよくいった、これはよくいったと. かであった。日給50銭というのは当時としてはいい給. いう情報が広まり、自分でもやってみようということに. 料であった。従って成り手が多かった。. なった。 EI本人よりも行動が早い。台両州では嘉南大till. 農事実行中組合と嘉南大別の給水区実行中組合とは同. 通水後、 4-5年で輪作ができたが、日本内地ではあれ. じではない。農事実行中組合は基盤がはっきりしていな. だけ早くはできなかったと思う。その一つの要因は台湾. い。. 人には米が出来ることへのあこがれ、生活程度の向上を 願うこともあったので早くできた。. 5嘉南大洲建設後の地域状況 (1)三年輪作 三年輪作で米:甘庶:雑作-5万甲: 5万甲: 5万甲 の予定通りいかなかった原因は海岸地帯の見込み違いと 製糖会社の契約栽培にあった。 茂野信一さんの論文によると昭和8年には土地改良を 要するものが6万3000甲歩、原野1万3000甲歩、塩分 地1万9000甲歩、養魚池5000甲歩、排水不良地1000 甲歩、官有地7000甲歩、丘陵地1000甲歩、製糖会社直 営地2万甲歩と言われている(9)。 昭和5、 6年頃だったらこのような数字が出たかもし れない。 8年になればなかった。中島さんが北港で水利. また、三年輪作ではなくて水稲作を認めた安渓訓など の特殊地域もあったが、これは水稲以外の作物でも出来 るのだが、水稲を作っていたことを一つの既得権として 言うから、嘉南大別組合がそれを安易に認めてやっただ けである。しかし北港郡の北渓訓では毎年水稲を作って いたのであるが、輪作地にしてくださいという要望がで てきた。従って昭和9年か10年には変更している。そ の後、他の所でも変更したところがあった。 (2)製糖会社の契約栽培 製糖会社の社誌をみればわかるが、台湾総督府は日本 では砂糖がなくて困っているということで、製糖会社に.

(9) 嘉南大別事業をめぐって一中島力男さんよりの聞き取り資料をもとに-. 105. 甘庶買い付け地、栽培地の確保を許可した。製糖会社は. もしており、篤農家として表彰されて、大日本農会(農. 我先に土地を確保していった。好い場所は稲ができやす い所であったが、大正2、 3年頃までに土地を確保して. 大などを経営していた任意団体)の梨本宮守正王殿下の 額なども掲げていた。紀長自身は馬に乗って農場を回っ. いた。台湾製糖、明治製糖は高雄州などいいところを確. ていた。総督府農務課長(その後台南州知事、台湾電力. 保していた。大日本製糖(藤山愛一郎の父雷太が社主、. 社長)今川淵(ll)氏が職掌柄、紀長を応援し、紀長がやっ. 虎尾に本社)などはいいところを確保できなかった。 地域的に言うと嘉義以北は甘煮栽培にはよくないとこ. ていけるようにと大E]本製糖に無理に押しつけたO当時 の大日本製糖の社長は藤山雷太さん(藤山愛一郎(12)の. ろであった。これらの地域はもともと芋、豆類を作って. 父)であった。甘庶品評会で甘煮生産のレコードを作っ. いた。同地域に遅れて入ってきた製糖会社の経営は困難. たり、いいこともあったが、やがて収支がつり合わなく. であった。. なった。 3300甲歩に職員を置き、交際費がいった。肥 料だけを扱うもの、作付だけをするもの、刈り取りだけ. 製糖会社は農民と契約栽培し、直営農場をもった。こ れらの農場を特別に扱ったことが三年輪作どおりにいか なかった根本問題である。. をするもの、人夫を集めるものなどに対する人件費等い. これに先立ち、後藤新平が民政長官の時、新渡戸稲造. 代等の借金が多くなり、紀長は農場を徐々に縮少し、昭. ろいろな雑費がかかった。製糖会社からの前貸金、肥料. が発案して製糖会社の区域制を決め、製糖を奨励した。. 和7年頃には600甲歩になっていた。この農場は製糖会. 明治28年まで台湾では土地に対して税金がかかったり、 かからなかったりであまり税負担がなかった。しかし明. 社から借りた土地であった。製糖会社は資金をっぎ込ん だがあまり成績が上がらなかったのではやく整理しよう. 治30、 31年当時から土地に税金がかかるようになり、. とした。しかし知事は聞きつけて「冗談じゃない。お前. 台湾人は税金が取られるのが嫌だから、斗六という地域. 達は紀長を利用するだけ利用して、紀長は今大変な状態. では憎まれものの未亡人(陳氏芳)がおったから、土地. だ。紀長はどれだけ努力して、どれだけ功績をあげたか。. に陳氏芽という憎まれものの名前を書いた。それがはやっ て、その名称の土地が6400甲歩にまでになっていた。. 勝手にすることは出来ないではないか」と怒ったという。 その後終戦前には300甲歩ぐらいになってしまっていた。. 本人(陳氏芳)にとっては自分の土地ではないから税金. こうしていくらかの土地は残ったが、働くだけ働いて終. を納めようにも納められないから、台南州は税金分は陳. わったという有り様で、全く気の毒なことであった。製. 氏芳名義の土地から小作料をとってやるということにな り、台南州最大の地主陳氏芳ができた。製糖業が奨励さ. 糖会社から利用された形であった。 北港郡の製糖全社の土地は砂地で、それほど良くなく、. れた頃から、政府が、原野とか地主がいない土地とか、. 飛砂とか、なかなか耕作手が無かった。それが紀長にや. 或は登記されていない土地を製糖をやるという条件で製. らせて甘庶生産が出来るようになった。紀長は製糖会社. 糖会社に払い下げた。製糖会社には輪作が強制されず、. の指導に依ったから輪作をやらなかった。もし紀長に輪. また普通の組合員も輪作しなくても処分されることも忠. 作をさせておけば損失は無かったであろうし、製糖会社. 告も受けることもなかった。製糖会社が輪作をしなかっ. にとってもはやく利益を上げられていたと思う。製糖会. たことが経営の上では大きなマイナスであったと思うし、. 社が輪作をやらなかったことが大きな罪過であり、紀長 自身も経営上損失を被ったと思う。. 嘉南大別区域で製糖会社の耕作地は1万甲歩あり、嘉南. 甘煮の収穫は製糖会社の係員が糖度計によって糖度を. 大別にとっても三年輪作事業に支障をきたした。 おそらくは政治的な考え方があったから、砂糖を重要. 計り、一番経済的にいい刈り取り時期を決めた。それに. 視し、砂糖だけは輪作しない方がよいということにした. よって、ここは何月何日、ここは何月何日と刈り取りE]. のだと思う。製糖会社が初めから輪作をやっておれば楽. を決めた。糖度計は昭和2年頃から使われはじめた。 1. であったと思う。はっておいても輪作をやるのであるか. 度違っても歩留りが大きく違った。. ら。恐らくは自分の直営農場では輪作をしなくても処罰. 甘煮買い取り時の価格は耕作時の契約で決められてい. を受けることはないから我が侭をしてきたのと、自分の. た。いろいろな奨励金があったが、千斤(600キログラ ム)でいくらと決められていた。買入価格は年によっ. 原料を得られなくなるのではないかと心配し、直営農場 で甘煮を連作し、輪作をしなかったのだと思うoただ昭 和1 6、 17年頃になると海岸地帯ではいくらか三年輪. ては変動しないが、時期によって変わった。ただ砂糖価 格が変動しても、契約時の価格で買い入れられた。砂糖. 作をするところもあったが、それまでは製糖会社の直営. は国際商品で国際価格があったが、今E]程敏感には影響. 農場では三年輪作は行われなかった。. しなかったと思う。農民は製糖会社と契約栽培をすると. 例えば製糖会社の直営農場と同じもので紀長農場(10) という甘庶栽培農場があって、最盛期3300甲歩あった。. 金が借りられる。肥料代も借りられ、製糖会社から安く. 大日本製糖の北港製糖所管内にあった。紀長は水林庄長. の指示もあった。製糖会社は肥料で儲けていたと思う。. 肥料を買い入れることできた。また会社から肥料散布量.

(10) 106. 金利も計算していた。農民にとっては収穫して清算した 後には手取りの金はあまりなかったが、現金がなくても. 嘉南大別の方では事業効果の調査を行った。街・庄役 場の勧業が持っている統計を嘉南大別の方から行って、. 金を借りれたのが農民には魅力であった。製糖会社が甘. それを写して事業効果の報告にした。街庄勧業が持って. 庶刈り取り人夫の手配、積み込み、運搬等を請負に出し. いた資料は作付面積、収量、価格というような内容であっ. ており、会社が支払い、農民はお金を出さなかった。も. た。それは嘉南大洲だけで調べたものでは信用ならない. ちろん農民から天引きされたでしょうが。請負業者、刈. という意味で街圧の資料を参照したのであろうか。実は. り取り業者がいた。製糖全社が予め貨物列車を配置して. むしろ街庄役場の方が嘉南大洲によく聞きに来たのであ. いた。そこへ刈り取り業者が甘煮を運び入れた。また製. る。組合の方は調査マンを持っているし、資料も持って. 糖会社が区域を決めたからうまくいった。新渡戸稲造氏. いた。. の功績である。だから農民は砂糖を作りたがった。左翼. 組合の方では価格、収量の調査は行わなかったが、組. が一時、製糖会社の区域制を攻撃したが、それは実状を. 合がもし調査するとなると、簡単にできた。場所が指定. 知らないだけのことであった。. され、どこどこの田を調査するということになると、収. (3)米作政策・調査. 穫時に籾を稲米袋に入れる時に袋の数を数えるから、間 違いがない。甘煮については製糖全社の方が検量してい. 嘉南大柳は米騒動がきっかけとなり、米の増産のため. るからまたこれもまた間違いが無い。. に大正7年に建設が発議されたが、昭和5年、嘉南大洲 が全般的に通水開始した時期においては日本では米が余 る時代になり、台湾でたくさん米を作らせることに批判 がでていた。 総督府が出す統計は我々嘉南大洲が出した作付面積な. (4)嘉南大別事業の効果 米の収穫量は昭和13-16年にかけて11万石(1石は 約180.4リットル)から65万石に増加し、昭和16年に は85万石、約8倍になり、甘産も同期間に13億8千万. どの統計を使っていない。それは総督府・州が米の増産. 斤から59億斤に増加した。. をしてはいけないという通達が出されていたからである。 当時、嘉南大洲ではその(総督府統計の)通りの米の作. 嘉南大洲の建設費は約6000万円と言われるが、建設 費以上の収入を2、 3年で回収できた。. 付面積統計を出しておったかどうかわからない。 昭和13年12月になって、総督府から電話で、 「貴族. 例えば北港郡は昭和7年填までは貧相な部落であった が、昭和10年頃になると部落の状態が皆変わってきた。. 院議員の何人かが明日、明後日に嘉南大別に視察に行く. 当初は竹の家であった。竹を切ってきて穴を開け、組み. から、米の生産を抑制したような実績はないかどうか、. 立て、箱(壁)をこしらえて両側から砂糖きびの薬をは. それを見に行く」との連絡が来て、びっくりした。今ま. さんで造ったものである。砂糖きびの葉は根元を上に糞. では米の増産を認めないと言われてきた。しかるに米が. 先を下にして箱につけ、雨が滴り落ちるようにした。屋. 足りなくなってきてから、貴族院議会で始めて台湾で米 の生産を抑制した傾向があると指摘された。 「その視察. 根も同じようにした。竹の柱、葺屋根の家というのは専. に行くから、そのような事が無いように言ってくれ」と. 持っておりさえすればすぐに出来た。その当時いい家と は土角の家であった。冬の間に土を練って、固め、升型. 言われた。中島さんは「分かりました」と答えたが、内 心びっくりしていた。 昭和5-10年頃まで総督府でははっきりした報告を していたかどうか分からない。 嘉南大別から作付面積、収穫量の報告を総督府には出. 門の職人がいなくても、 5、 6人の人手がおり、道具も. に大きく切り、乾かして積み重ね、上から梁を通し、柱 も建て、中に煉瓦を施した家である。家の中には何も装 飾が無く、これも簡単な家であった。昭和10年頃から 萱の屋根、竹の柱の家が少なくなり、煉瓦造りの家になっ. さなかった。嘉南大別では毎月の水稲、甘庶、雑作の調 査したものはとってあったが出すということは無かった。. てきた。煉瓦造りと言っても彼等の造りは簡単で、両側. ただ事務概況報告はずいぶんさせられた。事務概況報告 とは作付面積、収穫量、財政状況如何という報告であっ. うなものであった。即ち、昭和10年頃から煉瓦造りの 家になり、農民の生活も豊かになった。. た。中島さんは毎年議会が始まる前にはそのような統計. また、嘉南大洲区域では昭和7、 8年頃から就学率も. 資料を出せといわれるので、各年の資料を参照して書い. よくなり、終戦当時には90数パーセントになった。昭. て総督府に送ったが、総督府がそれを議会に送ったかど うかは分からない。特に昭和5-10年頃は分からない. 和12、 13年頃から公学校6年卒業後進学する実践女学 校とか家政女学校とかいうようなものが郡役所の所在地. し、総督府からも視察には来なかった。当時拓務省から. に1学年1学級ずつぐらい出来はじめていた。嘉南大洲. 視察に釆たこともあったが、彼等がどのような報告をし たのかは分からない。. が出来てから、同地域は非常に豊かになった。昭和10. に煉瓦を積立てそれに木をわたし、上は瓦でくくったよ. 年以降、同区域は台湾の中でも豊かな地域となっていた。.

(11) 嘉南大別事業をめぐって-中島力男さんよりの聞き取り資料をもとに-. 107. 地主の子弟が割合多く中学に行くようになった。そし. あった。総督和こは言わなかった。将来ここにダムを作. て一番いいのが医者、その次は歯医者であった。台湾人 が大学を出ても役所で採用されないから、医者となった。. れば、烏山頭ダムは50年、 100年後も問題ではないと 考えていた。話題に出すとすぐ新聞記者が取り上げてし. 岩手医大とか昭和医大に入学したものが多かった。歯科. まって意味をなさなくなってしまうから。八田輿-さん. 大学や薬尊を出たものも多かった。中島さんの知ってい. も考えていた。八田さんは50年後には潅概はいらない。. る所では兄は医者になり、弟は漢方薬の薬局をしたとい. 人工降雨で解決するとまで言っていた。. う例があった。大正何年か頃までは小学校を出て医学校 に入った。中学も出ていないのに医者になった。東京で. 現在、曾文渓ダムが出来てから烏山頑に水を送り、二 年輪作になった。高雄あたりにも工場用水を送っている。. 私立中学に編入できたのではないか。それから台湾から. 7億3000万トンの水量がある。. 東京の中学校に入り、医者になったり、歯医者になった りして帰ってきたものがいた。日本人女と台湾大男(医. (6)戦後国連が提唱する「台湾方式」. 者)が結婚したのが多い。その後には農大出の台湾大男 に日本人妻がついて来たりした。. 農林省農政局にいた水之江正照さんから、我国農業技 術者が未開発国(地域の)開発協力事業に参加する際に は、国連は台湾方式の開発計画をとるということが基本. (5)終戦までの新規事業計画 昭和17-18年当時、斗六では鉄道より山手に、在来 の坤別がある所、全然水利施設無い所が合計約5万甲歩 あった。嘉南大洲の方で事業を拡張して潅概工事をしよ. 計画であった。その基本計画とは嘉南大洲の潅概、排水、 三年輪作方式のことである、と聞いた。 (7)八田輿-さんについて 中島さんはご自分の人生観に大きな影響を与えた方の. うという計画があり、既に技術者、事務員も送ってあっ. 一人に八田興-さんをあげた。次のような八田さんの言. たが、戦争のために実施しないで終わった。. 糞が印象に残っている。 「この事業は私のしたことになっ. また組合は今後の方針として輪作の変更について考え ていた。即ち、昭和24、 5年頃戦争終了後、所により. ているが、資材と機械と人を集め、設計書ができればだ. 三年輪作を水稲と甘煮・雑作の二年輪作にしたらどうか. れにでもできることである。問題はこれができてから後、 どのように運営していくかという事業が問題である。利. と考えていた。また、全体的に二年輪作-の変更も考え. 用がどんなにうまくいくかどうかが問題である。こんな. ていた。これを行うにはどのような準備がいるのか。例 えば水路の断面を大きくするとか、水門の数を多くする. ダムの寿命は50年しかない。その際は当分、コンクリー トでもなんでもいいから十尺っめば、 2億か2億5千万. とか、排水路をどうするとか、またどのような段取りを. トンになり水量が増える。そしてそんな心配をする必要. していくのか、その方法はどうするのか、いろいろなこ. もない。 50年後は人工降雨である。」と言われた。八田. とを考えていた。将来しなければならないから考えてお. さんは先見の明があったと中島さんはおっしゃた。. こうというのが当時の組合首脳部だけの考えであった。 この間に、台南州知事が自己の手柄を急ぐので、戦争で. (8)中島さんにとっての嘉南大柳事業. 食糧不足であるから、この際3年輪作を2年輪作にして はどうかと提案していた。しかし、中島さんは「一度3. 昭和52年に中島さんが嘉南大洲を訪問されて述べら れた挨拶の言葉に中島さんの同事業に対する思いが凝縮. 年輪作を壊してしまったら、後の収復をどうするのか」 「将来に対しては我々も計画を持っているが、今はその. されている。 「私は嘉南大洲こ本当に青春を捧げてきた。 もし今後、私の子孫が日本において死に絶えることがあ. 時期じゃない。今、 3年輪作を壊したら後の方法はつき. ろうとも、私のした水利にたいする実質的やり方は曽文. ませんよ。」と言った。このような事は知事が変わった. 渓の水がある限り永遠に続き、曽文漠の水を使ってお国. 後には必ず起きた。今川知事の後の一番瀬佳雄(13)さん. の人々の食糧生産を行っていけることを思うと私は光栄. の頃から出た。一番瀬さんが「時に、君、前の知事から. に思うし、感謝感激に耐えない」と。. 申し送りを受けている。」 「拓務省管理局長川村直岡(14) さんから言われていると聞いた。」と言った。 ただ、将来2年輪作にしなければならないとは考えて. おわリに 我々歴史学者は文献学から当時の社会を再構成しよう. いたが、州の言ったことをそのまま聞いていたらひどい. と努める。しかし、文献資料には資料批判が必要なこと. 目にあうと考えていた。. は言うまでもない。特に現代史となるとまだご健在の方. 将来烏山頑ダムが埋まり、貯水量が減った場合にどう するのかということも考えていた。具体的には、現在の. が多く、その方々の口述資料というのは十分に資料的価. 曾文渓ダムの50メートル程上流にダムを作ろうと考え ていた。ただそれは中島さんなど一部の者だけの計画で. 値があることも多言を要さない。前稿は全て文献資料に 基づいた論考であったが(15)、それに対して中島さんか ら丁寧に、当時の実態を証言してくださり、前稿を批判.

(12) 108. して頂いた。感謝に堪えない。本稿はそのご批判に答え て前稿を考え直したものではなく、その点は今後の課題. とアメリカへ2回同行した。嘉南大別完成後、総督府 土木課技師となり、厚東で河川改修工事、新竹で発電. にしたいが、中島さんの口述資料は、述べてきたように 文献資料にはない豊富で、貴重な内容に富んだものであっ. 工事を担当した。典型的な土木技師であったが、昭和. た。本稿は中島さんの口述資料をできるだけ正確に記録. (9)茂野信一「小作問題より大観する嘉南大別事業」 (1). に止めておくことによって、今後、文献資料と相照らす. (2X3) (『台湾の水利』第3巻第4、 5、 6号、昭和8. ことによって、嘉南大別事業研究の進展に寄与せんとす. 年7、 9、11月). るための基礎的記録なのである。. 31年に亡くなった、と言われる。. (10)紀長: 『改訂台湾人士鑑』 (台湾新民報杜、 1937年、 同書は株式会社日本図書センターより1989年に『台. 註. 湾人名辞典』と改名されて復刻された) 68頁に、 「水. (1)拙稿「嘉南大別事業について」 (『台湾史研究』第1. 林庄長、嘉南大洲組合会評議員。 (現)台南州北港郡. 2号、 1996年3月). 四湖庄鹿場。 [経歴]明治二十四年北港郡水林庄水林. (2)八田輿-さんの事績については、古川勝三『台湾を. 四八八二生ル。早クヨリ国語ノ普及ヲ感シ四書ノ修得. 愛した日本人八田輿-の生涯』 (青菜図書、 1989年). ヲ終リテ国語講習会二依り国語ヲ研究ス。明治三十七. を参照されたい。. 年ヨリ同四十三年マテ糖廊経営。大正十年ヨリ高陽農. (3)註(1)参照。古川氏によると、烏山頭堰堤1273メート、. 場ヲ経営シ今日尚継続中ナリ。庄長就任ハ昭和五年十. 給水路総延長1万6000キロメートル。珊瑚輝の貯水能. 二月ヨリニテ保正聯合会長、水燦林拓殖株式会社監査 役、州税調査委員クリシコトアリ。昭和三年産業功労. 力1億5000万トン。烏山頑水系、濁水渓水系合計の潅 概面積15万ヘクタールと言われる。. 者トシテ緑綬褒章ヲ下賜サレタル外、総督、知事ヨリ. (4)註(3)において示したように、古川氏は烏山頑の貯水. 表彰サルルコト一再ナラス。大日本農会総裁梨本宮守. 量を1億5000万トンとし、私の計算とは合わない。. 正王殿下ヨリ農事改良功労者トシテ表彰サレクル-緑. (5) 『台湾農家便覧昭和19年版』台湾総督府農業試. 綬褒彰拝受ト共二氏筆生ノ光栄卜云フへシ」と述べら. 験場、 948・49貢によると、蓬莱米は大正11年 (1922)に磯永吉氏が技術的根拠をっかみ、大正12年 (1923)から普及し、同15年(1926)に台湾総督伊揮 多善男が命名したと述べられている。. れている。 (ID今川淵: 『改訂台湾人士鑑』 19頁に、 「従四位動三 等。専売局長。 [経歴]明治十九年七月十八日福井県 福井市手寄上町七八二生ル。同四十五年七月東京帝大. (6)同上『台湾農家便覧』 148貢によると、清代台湾で. 法科大学政治科ヲ卒業シ、大正二年十二月高等試験ニ. は竹庶が栽培され、 1ha当収量1.8-2.4万kg、歩留. パス。翌三年二月府属二任セラレ民政部通信局二勤務。. 7%、明治29年(1896)から-ワイよりローズバン. 同六年庶務課長トナリ、同十三年五月欧米各国へ出張. プーを入れ、 1ha当収量2.4-3万kg、大正6、 7年. ヲ命セラル。昭和三年九月専売局参事トナリ、同七年. (1917、18)からジャワ島から瓜畦細萱種を入れ、 1h. 三月台南州知事二抜擢サレ、同十一年二月台北州知事. a当収量3.6-4.2kg、歩留9 -10%、やがて蓬莱米栽. 二転任シ、令名噴々良二千石トシテノ職責ヲ全ウセリ。. 培が水田地方に進出したために、甘庶作は対抗策とし て大正12、 13年(1923、 24)から瓜哩大童種を入れた。. 同年十月府専売局長二栄転。」と述べられている。ま. lha当収量6万kg、歩留12-13%であった、と言わ れる。 (7)中島力男さんのお請によると、嘉南大柳専務理事. た、中島さんのお話によると、専売局長退職後の今川 淵氏は台湾電力株式会社の副社長になったとのことで ある。. (後の理事長)には昭和19年から終戦まで高橋秀人氏. (12)藤山愛一郎: 『改訂台湾人士鑑』 523頁に「大日本 製糖、日本金銭登録機、集成杜各株式会社々長、東京. がなっていた。高橋氏は広島県出身で、第-高等学校、. 商工会議所議員、武蔵中央電気鉄道株式会社代表取締. 東大法学部に進み、高試に合格した。昭和13年かあ るいは14年に台湾総督府審議官なり、退職して3年. 役、南進公司、共同信託、日華生命保険国華徴兵保険、 朝鮮農事各株式会社取締役、ナニ-ビルヂング株式会. 位してから、昭和19年に嘉南大洲理事長となり、終. 社監査役。 (覗)東京市芝区白金今里町十四。 [経歴]. 戦まで同職を担当していた、と言われる。 (8)中島力男さんのお話によると、技師長には昭和15. 氏-貴族院議員藤山苗太ノ長男ニシテ明治三十年五月. 年から21年12月まで白木原民治氏がなっていた。白. 遊ス。現時大日本製糖、日本金銭登録機、集成杜各社. 木原氏は大分県出身で、鹿児島県第七高等学校、九州 帝大工学部を卒業後、嘉南大洲組合に入り、幹線係長. 長ノ外、前記諸会社ノ重役クリ。 [家庭]父雷太(文 久三)」とある。. を勤めた.八田輿-さんのよきパートナーで、八田氏. (13)一番瀬佳雄: 『改訂台湾人士鑑』 17日に、 「正五位. こ生ル。勇二慶応義塾大学政治科二学ヒ、後欧米ヲ漫.

(13) 嘉南大別事業をめぐって-中島力男さんよりの聞き取り資料をもとに一. 勃六等、殖産局農務課長。 [経歴]明治二十八年六月 六日東京市二生ル。大正九年七月東京帝国大学法学部 英法科ヲ卒業セシモ、在学中大正八年十月既こ高等試 験行政科合格。帝大卒業後直チニ農商務省二入り、大 正十四年五月大阪府工業組合監督官ヲ命セラレ、昭和 九年二月拓務省管理局地方課長チニ昇進。昭和十年五 月総督府殖産局農務課長ヲ命セラレテ渡台、今日二至 ル。」と述べられている。 (14)川村直岡: 『改訂台湾人士鑑』 60頁に、 「正五位動 四等、台南州知事。 [経歴]明治二十五年九月二十日 鹿児島県二生ル。大正二年三月東京市神田区私立東京 中学卒業。同九月第一高等学校第一部甲類二入学。大 正五年七月同校卒業。同年九月東京帝大法科大学政治 学科二入学ス。同八年七月十一日卒業。氏ハ在学中大 正七年十月こ高等試験行政科二合格シ、卒業ト共二拓 殖局属(八年七月十一日)ニ任セラル。大正十年三月 府事務官(七等十級)ニ任セラレ、・・・・昭和七年四月 二十一日州事務官(三等二級)ニ任セラレ、台南州内 務部長二任セラル。昭和九年九月総督府事務官二任セ ラレ高等官二等二叙セラレ総督府審議室二勤務。同十 年一月八日動四等二叙セラレ瑞宝章ヲ授ケラル。昭和 十一年十月十六E]台南州知事二栄転O同十二年三月台 南州地方米穀統制組合聯合会々長二推サル」と言われ ている。 (15)註(1)に同じ。. 109.

(14) 110. 嘉南大別平面図 1:400000. (出典:台湾省文献委員会『台湾之水利問題』台湾研究叢刊第4種、 1 9 5 0年より).

(15)

参照

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