24願系無量寿経 : その実践倫理をめぐって
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(2) . 4願系無量寿経 --その実践倫理をめく っ て 朝山幸彦:2. 24願 系 無 量 寿 経. 朝. --その実践倫理をめぐって--. 山. 幸. 彦. 「無量寿経」 が阿禰陀仏の誓願とその成就としての浄土を説き 人々 がそこへ往生 して目覚めた , 人になる事を勧める意図をもつ事は云うま でもない。 五存七欠といわれるシナ訳の各無量寿経には, 訳経時の事情を背景として, 新たな意図も加えられなければならなかっ た. 24願系には特にその傾 向が見られる。 それで実践倫理を貫ぬく論理を通 して, それを検討し, 新たな意図のためにどの様 な問題が生じたかを明らかにしたい. 先ず24願系の先後関係から検討する。. 無量寿経群の中で, 24願系が48願系36願系より原始的であることは既に定説である, 24願系は初 期無量寿経と言われているが, 「大阿綱陀経」 と 「平等覚経」 とがあり, 訳経時代は一応, 平等覚 )とされている 内容上から見るならば 大阿綱陀経の方がより原初的形態を持 2 経の方が古い1 つ) 。 , とさ れて い る。 そ こ で そ の 事 を 確 め て お き た い.. A. 法蔵菩薩に授記を与えた世自在王仏について, 大阿鋼陀経と平等覚経との記述を比較すると, 大阿綱陀経では出来事と説法の内容を述べるだけで, 世自在王仏への評価は一切 しない。 平等覚経 では同じく出来事と説法内容を述べる外に, 世自在王仏に対して 「天上天下の雄にして, 経道法の 中で勇猛の将なり。 仏諸天及び世人民のために, 経講道を説き, 能く過 ぐる者な し」 と一定の評価 k h を与える。 Su ava t節穴山a(以下S。 V。 と略す) で世自在王仏に如来の十号を与えて評価するのと軌を 一にする。. 大阿鋼陀経が世自在王仏を讃える歎仏傷がないのに対して, 平等覚経は歎仏傷が増広されている。. )が あ り そ れ は48願 系36願 系に も 増 広 さ れ て いる。 しか し, 大 阿 綱 陀 経 に は 平 等 覚 経 に な い129文 字3 ,. ) 南傑博士は歎仏掲に対校するだろうと云 髪 その当否は別としても, 大阿爾陀経の12 9文字には世. 自在王仏に関する記述はない。 従って彼仏に対する評価もない。 それに対して平等覚経の歎仏偶に は世自在王仏を讃えることと法蔵菩薩が誓願の実践に努力する保 証者として世自在王仏を位置づけ 5 ) て い る. そ して 大 阿 綱 陀 経 に は なく, 平 等 覚 経 だ け が独 自 に 加 え て い る 1o6 文 字 が 歎 仏 傷 の 直 後 に あ る が, そ こ では 「世 鏡 王 如 来 至 真 等 正 覚 己」 と して S。 V. が 与 え て い る 十 号 の 中 の 如 来 と 至. 真等正覚の2号が与えられている。 この様に世自在王仏に関して, 大阿綱陀経と平等覚経との態度 は 異な り, 平 等 覚 経 の 考 え方 は S。 V。 に 近 づ い て い る と 見 る こ と が で き る.. B, 次に平等覚経になく, 大阿綱陀経だけが述べている126文字の内容について, 平等覚経にない 新しい内容であるかどうかを調べる必要がある。 そこで, 平等覚経の歎仏傷及び106文字が比較の 対象となる。 (以下は大阿綱陀経を大経, 平 等覚経を平 経と略す) 1.(大経) 我, 仏を欲求し (平経) 我をして仏となる時, 願わく ば 法王の如く生死を過度 し 解脱しない者なからしむ , , (第4傷).
(3) . 朝山幸彦:24願 系無量寿経--その実践倫理をめぐって--. 2,(大経) 菩薩道をなす (平経) 壇施と意の調伏と戒と忍及び精進と是の如き三昧定と智慧とを最上とす (第5傷) 3,(大経) 我をして後に仏となっ た時, 八方上下の諸の無央数の仏の中で, 最も尊く智慧あり勇 4 孟なり (平 経) 我 仏 と な っ た 時, 及 ぶ 者 な か ら しめ (大正. 361 P.280下) No .. 4.(大経) 頭中に光明あって仏の如 し, 即ち光明の所焔は極まりなし (平経) 光焔は一切を沼 して此の諸数国に遍くする (第7傷) 5,(大経) 所居の国土は自然七宝 で極めて自ら軟好 である (平経) 我をして世の雄となり, 国土を最第一とする (第8傷), 国は泥垣界の如 し (第8侭) 6,(大経) 我後に仏となっ た時, 名字を教授し皆八方上下の無央数仏国に聞こえ我の名字を聞知 しな い 者 な く. 7.(大経) 無央数の天, 人民及び蛸飛嬬動の類で我国に来生する者は悉く皆菩薩阿羅漢となさ し むる. (彼等は) 無央数で諸の仏国に勝れる. 是の如き者をいかに得べきか否か (平経) 我当さに常に慾哀して一切 人を度脱せ しめ, 十方の往生者はその心ゞ虎に して清浄, 己 に来たりて我国に至り, 快楽を喜び安穏なり (第9傷)◆ 以上の様に下線の部分は対比 しうる. 大阿綱陀経の第6要素を除いた総ての要素が, 平等覚経に見 い出される. 第6要素は, 平等覚経の第17願に 「我名をして八方上下無央数仏国に聞えしめ」 とあ るから, 大阿嫡陀経だけの 主張 ではない. 亦第3要素は, 平等覚経で総てを言い尽 していないが, )で 「無量清浄覚と名づく 最尊にして智慧勇猛 とある 上掲の両文を比較 して全同で 他の個所6 」 , . な い こ と は 認 め ざる を 得 な い. そ れ は 述 べ る 立 場 を 異 に して い る こ と に も 依 る. 大 阿 綱 陀 経 で は 求 道 の 側 か ら1, 2 の 要 素 しか な く, 3 ~ 7 の 要 素 は 仏 と な っ て 後 の 事 が述 べ ら れ て い る. そ れ に 対. して平等覚経の歎仏傷は求道して, 利他の願いを成就しようと精進する立場で述 べて いる. この平 等覚経の立場は利 他の精神を強調する S. V. に よ り 近 い. 上 の 対 比 に よ る と, 両 経 は 同 じ様 な 要 素について発言 しながら, 大阿補陀経より平等覚経の方が詳細でかつ発展的に述 べていることが明 ら か で あ ろう.. C, 大阿鞘陀経になく平等覚経に見られる106文字は, 48願系になって初めて増広される重誓傷と S. V. の第5章に近い関係を持つ. 両文を対比する. 1,(平経) 法蔵比丘はこの唱を説いて (S. V. ) 彼 の 法 蔵 比 丘 は 世 自 在 王 如 来 の 面 前 に お い て, こ れ ら の 詩 句 に よ っ て (chap . 5). 2 .(平経) 世鏡王如来至真等正覚己を讃え (S. V. ) (如来を) 讃えて (chap . 5) 3.(平経) 発意 して無上正真道正覚を欲求す (S. V. ) 私 は こ の 上 な い 正 し い 覚 り を 現 に 覚 り た い (chap. 5). 4.(平経) 我この願をたて, 多陀掲仏の如きを所有せる者なり (S. V. ) この様に勝れた最上の願いが (かなえられ) ないならば (中略) 私は最上の生け る者とはなりません (第1侭) 5.(平経) 願っ て悉くこれを得て 6.(平経) 人の勤苦生死の根本を抜き, 悉く仏の如くせしむ (S. V. ) 多 く の 貧 しい 人 に 多 く の 財 が与 え ら れ な い な ら ば, 苦 しみ に 陥 っ た 人 を幸 福 に な. し得ないならば (第2傷) 7,(平経) 唯ために経を説き 2.
(4) . 朝山幸彦:24願系無量寿経--その実践倫理をめぐって--. 8,(平経) 施行すべき所は苦 しみをして決を得しめる (S. V。 ) 最高の人となり, 苦 しみ悩む人々の宝となる (第8傷) 9,(平経) 我仏となっ た時, 及ぶ者なからしめ (S. V. ) 私が覚りを得た後に (中略) 比べるものなき最高の生 ける者とはなりません (第 . 10. (平経) 仏に願っ て我のために諸仏国の功徳を説くを我当さに奉持 し (S. V. ) 願わくは他の如来たちの仏国土のみごとな特徴や装飾や配置を説明 して下さい 。 そ れ を 聞 き さ え す れ ば私 ども は 一 切 の み ごと な す が た を 完 成 す る で し ょ う (chap 5) 。. (平経) 当さに那中に住 し 11, (平経) 願いをとって仏となり, 国亦是の如し 12, (S. V. ) 願いと力を成就して精英の人となるであろう (第9傷) 両経は第5, 7, 11要素を除いて総て対応する. 大阿鋼陀経には歎仏傷がないから第1, 2要素は )とだけあり法蔵菩薩 ない. 亦大阿綱陀経には, 法蔵菩薩が 「仏になりたいと欲して菩薩道をなす」7 の 願 行 の 目 的 が明 言 さ れ て い な い.. それに対 して平等覚経は第6, 8要素に見られる様に願行の目的が 「人の勤苦生死の根本を抜き」 「(人の) 苦 しみをして (解) 決を得しめる」 と明記されている 後期のS V では第2傷に苦 . 。 . しみ に 陥 っ た 人 を 幸 福 に した い と し, 第 8 傷 で は苦 しみ 悩 む 人 た ち の 宝 と な り た い と して, 法 蔵 菩. 薩の願行の目的が明言されている. それ故平等覚経はS. V. に近く, 大阿補陀経はより原初的 で あ る と 云 いう る。. D. 大阿爾陀経より平等覚経がS. V。 に 近 い 関 係 に あ る こ と は本願文の対比によって決定的とな る.. 「大阿爾陀経」 1, 無三悪趣 ・ 2, 女人成仏 3, 国土厳飾 4 , 聞名歓喜. 「平等覚経」 1, 無三無趣. Sukhavati▽yuha. l, 無 悪 趣. 筋 ) 女人成仏 17. 間名歓喜. 5 , 聞名為道 6, 作善作菩薩. 19. 聞名為道. 7, 臨終来迎 8 , 不更悪趣. 18. 臨終来迎 2. 不更悪趣. 9, 悉皆一色 10, 他心智通 11 . 無淫眼痴. 3. 悉皆一色 7, 他心智通. Q 9 ) 聞名熟善根 回. 臨終来迎. 2, 不更悪趣 3 , 悉皆一色. 10. 無有愛欲. 9. 他心智通 1 ) 無執着想 ( 0. 13, 供養諸仏 14, 飯食自然. 22, 供養諸仏. 21, 供養諸仏. 15 ・ 三十二相. 21, 三十二相 24, 説経行道. 2〇 , 三十二相 低め 説一切智. 8, 神足智通. 5, 神足智通. 14, 寿命無量. 15 , 寿命無量. 12, 敬愛無憎. 16, 説経行道 17. 神足智通. 23. 飯食自然. 18, 勝智経道 19, 寿命無量. 3.
(5) . 朝山幸彦:24願系無量寿経--その実践倫理をめぐって--. 20, 声聞無量 21. 巻 属長寿. 12 . 弟子無量. 12. 声聞無数 14. 春属長寿. 22. 宿命智通. 15 , 春属長寿 5. 宿命智通. 23. 頂中光明 24, 見光作善. 13. 見光作善. ( 3 1 ) 光明無量. 4. 天人無異 6 , 天眠智通. 4. 天人無異 7. 天眠智通. 9 . 天耳智通 11, 必至減度. 8, 天耳智通 11, 必至減度. 16 . 莫有悪心 20. 必至補処. ( 1 6 ) 無不善名. 6. 宿命智通. 回 必至補処. 上掲の対比によっ て, 大阿綱陀経と平等覚経とは同じ2 4願でありながら, 極めて異なっ た願の様相 を 呈 して い る. ④ 大 阿 綱 陀 経 に あ る 第 2, 3, 6, 12 , 18 , 23の 各 願 が平 等 覚 経 に な い. S. V.. でも同 じ様に大阿補陀経の第3, 6, 12 , 18 , 23に相当する願がない. ◎大阿鋼陀経の願の配列順 序に対 して平等覚経は不揃いとなり, 平等覚経の順序はS. V。 の 順序に近い. 平等覚経の第1, 18 , 2, 3, 10 , 24 , 13 , 4, 11 , 16は S. V, と 配列 順 序 が 一 致 して い る. ⑮ 大 阿 鞘 陀 経 に な い 順 で平 等 覚 経 に 見 ら れ る 第 4, 6, 9, 16 , 20の 各 順 は S. V. に 見 い 出 さ れ る. ④ ~6〉の 事 実 か. ら大阿綱陀経より平等覚経の方がS. V. に近い関係にあると云いうる. そこで大阿縮陀経の第2 願が平等覚 経になく, S. V. に見い出されるが, この女人成仏の思想は平等覚経の成就文に 「女 ) とある 人の往生者は則ち化生 して皆男子となる」8 . E, 最後に大阿綱陀経になく, 平等覚経や後期無量寿経にある往勤傷に関 して検討する. 往勤傷は 東西南北十方に仏国土があっ て, それらの仏国土から菩薩達が遣わされ, 無量覚を稽首礼し若しく は華をもって供養するという内容で始まる. ところが平等覚経の往勤傷の直前に, 東方の 「無央数 仏国から恒水辺の流砂の如き 数の諸仏が各々無央数の菩薩達を遣わ して, 無量寿仏に作礼し聴経し 9 ) て歓喜 し去る」 (取意) と云うことが , 西南北四角下上の各方角 についても繰返し述べる. それに 対して大阿爾陀経では,.東方四角上方について同じく述べるが, 西北南下については方角 だけを出 して, 繰返しを略している. 平等覚経 では西北南下の各方角について増広 し, その上往勤傷が加え られている, この事実は平等覚経に往勤傷 があるため, 西北南下にも増広 したと考えられ, 平等覚 動ゞ往勤掲に適 しい様に整備さ れたと見ることができる. 経 平等覚経の全体の大部分は大阿鞘陀経と遂字類似 しているが, 以上のA~Eの事実によっ て大阿 揃陀経はより原初的であり, 平等覚経はS. V. に近い関係にあり, 大阿補陀経より後の成立であ ると 云 いう る. 2. 無量寿経群の中で, 24願系は実践道と して作善を強調 し, 道徳的傾向をもつ点で特異な位置を占 める様に思われる. 24願系は醜訳とともに世俗的倫理を詳 しく説く三毒五悪段があるが, 三毒五悪 0 )も 人々 に 作 善 を 勧 め 作 善 の 意 義 を 強 調 して い る そ れ は24願 系 と 宋 訳 に しか な 段 を別 と して1 , , .. い10種の善を勧めることによ っても伺える. 浄土に往生を欲する人に 「不殺生, 不愉盗, 不邪淫, 1 1 ) 不妄語, 不飲酒」 (取意) の在家的五戒と 「不両舌, 不悪口, 不筒語, 不 禽欲, 不眠患, 不邪見」 (取意) の通仏教的十善戒が説かれている. 更に 「当さに孝順を作すべし」 「当さに至誠に忠信を な す べ し」 と 言わ れ, 最 後 に 「作 善 は 後 世 に そ の 福 徳 を 得 ろ を 深 く 信 ず べ し」 と いう. こ の 最 後 の 4.
(6) . 4頭系無量寿経--その実践倫理をめぐって-- 朝山幸彦:2. 信は十善戒を中心とする諸善を行う前提となるもの である 作善が後世その福徳を得ろを信ず ると 。 は善因善果の因果 律を信ずることである。 諸善の実践は善因善果の論理によって基礎が与えられて いる。 そして作善は後世の福徳によって意義づけられている, 十善戒を中心とする諸善は浄土往生 を欲する者に必要な 事柄として説かれた。 従っ て十善戒等の諸善は浄土往生のために意義ある善で もある。 作善は後世の福徳によっ て意義づけられていると同時に浄土往生のために意義ある事柄と 考 え ら れて おり, 二 重 の 意 義 づ け が な さ れ て い る。 後 世 の 福 徳 と は 浄 土 往 生 であ ろう か ら 二 重 の ,. 意義づけであっ ても, 究極的には浄土往生のために意義あるものと統一されうるが, 作善の意義づ け が二 重 で あ る こ と は 注 意 す べ き であ る. こ の 往 生 の 正 因 の 中 で 「当 さ に 孝 順 を な す べ し 当 さ に , 至 誠 に忠 信 を な す べ し」 と 云 う が, こ れ は S V , Ti b。 訳 に は な い。 孝 と 忠 と は 儒 教 の 説 く 徳 。 .. 目であり, 五常五倫の中にも見られる。 実践道の中に儒教の徳目が含められていることは, 24願系 無量寿経を見る見方において, シナ的変容を念頭におかなければならない ところ で十善戒等の諸 . 善は具体的 でかつ 道徳的 である。 十善戒等を往生の正因とするのは, 24願系3 6願系独自の主張 であ る. この事から24願系の道徳的傾向の一端が伺われよう. 24願系の中 でも原初的である大阿綱陀経 がより道徳的傾向が強い. それを願文の比較によっ て見る。 大阿綱陀経には作善を説く 願が三種あ る。 ④第24願 「(前略) 我光明を見れば慈心と作善なきことなし (後略)」。 ◎第5願 「若 し前世 に悪を作したならば, 我の名字を聞き, 我国に来て生まれんと欲する者は即ち便ちに正 しく返っ て 自らを悔過 し, 道を作 し, 善を作せば(中略)我国に生まれること心において願われるままである」 ⑮第6願 「善男子善女人をして, 我国に来たりて生れんと欲すれば, 我を用っ ての故に善を益作し, 若しくは分壇布施をし (中略) 我国に来たりて生ま れし者は菩薩となる」 とある これに対して平 。 等覚経 では(のに相当する第13願がある. ◎に相当する第19願があるが, 「善を作せば一 の部分がな い。 ⑮に相当する願はない。 故に作善を説く願は一種 しかない. 更に両経の24願の中で道徳的意味 をもつ順を挙げると, 大阿綱陀経では第4願莫不慈心, 第7願斉戒清浄, 第11願無有淫決之心 無 , 有限怒愚凝者, 第12願心相敬愛, 無相嫉憎とある. 平等覚経では第16願莫有悪心, 第18願浄潔心 で ある. 大阿綱陀経の方が内容的にもより道徳的であろう。 平等覚経の願の内容はより宗教的に改変 され, S, V. の傾向に近いと云いうる。 大阿鋼陀経がより道徳的であることは, 釈尊が阿綱陀仏 、 の本願と浄土を語ろうとした時, 五端相を現わ したとされる部分の訳出の仕方においても確めうる 。 S。 V. 第2章 で釈尊の姿を見て, アーナンダが 「釈尊の清浄なる外観は, 内面が目覚めた人の境 地, 自己に勝てる境地, 内外一切の存在の様相を了智した叡智の境地にあるからであり 正 しく目 ,. 1 2 ) 覚め た 人の 事 を 思 いつ め て い る か ら で あ ろう 」 と 推 察 す る 釈 尊 は (以 下 s V 和 訳) 「そ の . . . 通 り だ け れ ど, こ の 意 味 を 神 々 か あ る い は 目 覚 め た 人達 が, あ な た に 告 げ た の か そ れ と も あ な た 。 が自 分 自 身の 自 ら 考 察 す る 判 断 力 に よ っ て (pratyatmamlmansainanena) その様に知 っ た の か」 と 。 ア ー ナ ンダ は 師 に 云う 「師 よ 神 々 がこ の 意 味 を 私 に 告 げ た の でも な く, 世 尊 目 覚 め た 人 た ち が そ う したの でも あ り ま せ ん. ま こ と に 師 よ 自 分 自 身 の 自 ら 考 察 す る 判 断 力 に よ っ て こ の 様 に 思 っ た の. 3 1 ) です 」 この部分に相当する大阿綱陀経では■-仏は賢者なる阿難に言っ た。 「今我に間うは諸の 天神があっ て汝に教えたのか. 若しくは諸の仏が汝に教えたのか。 汝自らの 善意より出でて仏に問 うたのか」 阿難は仏に目して言わく 「諸天神が我に教えることあるな し。 亦諸仏が我に教えて 仏に 4 ) 問 わ しめ たの でも な い。 我 自 らの 善 心 に よ り 仏 の 意 を知 り, 仏 に 問 う の み1 」 と あ る。 s。 v。 で. 自らの考察する判 断力と言う が, 大阿綱陀経では, 「自らの善意」 「自らの善心」 と道徳的意味で 訳 出さ れ て い る。 他の シナ 訳, Ti b. 訳に は見られな い 訳 出 で あ る。 無 量 寿 経 群 の 中 で 大 阿 綱 陀 経 が. 特に道徳的傾向をもつのは, 道徳的意図があっ たことを思わしめる 。.
(7) . 朝山幸彦:24願系無量寿経--その実践倫理をめぐって-- 3. 24願系における実践道としての往生の 正因にも道徳的性格が伺 われる. 「世間の人々 で若 しくは 善男子善女人の 阿綱陀仏国に往生を願欲する者」 には, 三種の別 があり, 作徳の大小によ って分け 1 5 ) られている. 作徳の最 上なる第一輩者 は 「家を去り妻子 を捨て愛欲を断ち」 とあるから出家者の 往生の正因である. 実践道の中心をなすのは 「菩薩道を作す」 とある, 24願系は六波羅蜜を知って いるか ら 「菩薩道」 は布施, 忍辱の利他行と戒, 精進, 禅定, 慧の自利行とである. 菩薩道は大乗 仏教共通の修行道である。 心は 「慈心をも って精進し, 貧慕なく眼怒せず」 という. 慈心は仏教共 通の慈悲心であり, 貧慕なく眼怒せずとは 原始仏教以来説かれている三善根の不禽, 不眠憲に当る. それに心の不浄を慎 しみ身の過りをいさめる斉戒清浄と不淫戒等を云う. この様に細部にわたり諸 善 の 規 定 が 見 ら れ る. S. V. や Tib. 訳 で は 「多 量 の 善 根 を 植 え る」 と いう だ け で 細 部 に わ た る. 規定はしなかっ た. これら出家道としての通 仏教的諸善の実践と 「至誠に願っ て阿鋼陀仏国に往生 を欲し, 常に至心に断絶せずに念ずる」 ことによって, 来迎があり出家者の 浄土往生が可能と考え られていた. 浄土往生をするには諸善を行う だけでなく, 浄土往生を願っ て常に心からそれを念ず ることが必要とされている. それは常に心で浄土往生を念ずると念ずる内容が次の 生でそのまま実 1 6 ) 現するという考え方 に立っている. 善を作せば善果 としての福徳 が得られるとする業報の考え方 とは異なる. しかし菩薩道を中心とする諸善の実践をも説くのであるから, 善因善果の因果律に立 つ作善と正念が次生を規定するという 二つの考え方が組み合わさ れている. 正念が次生を規定しう るためには作善の力 が必要であると見るなら ば両者は統一されている. この往生の正因の仕組みは, 浄土往生を欲 して菩薩道を中心とする諸善の 実践を積み上げながら, 意識において断えず浄土往生 への 念を形成してゆくとその 念が次生に実現されるとなっ ている. この浄土往生の考え方の 前提に は生についての 特有な見方がある, 現世の生が終る と復た別な生をとるという輪廻転生である. 善 を作せば善果と しての福徳を得るという考え方 は, 因果律の基盤をもっ ている. 輪廻転生説には論 理的基盤はない. 論理以前の前提であっ た. 浄土往生はその輪廻からの離脱を意味する. ところで -往生行と して挙げ られている菩薩道は本来それだけで覚りに至る. それが出家者の浄土往生の実 践道に組み込まれている. S. V, 等他の 無量寿経では入れられていない. それは菩薩道がそれだ けで覚りに至るのに対して浄土往生は不退の位にまでしかゆかぬことの矛盾に気 づいたからであろ 1 7 ) 4願系では全く言われな う. それ故菩薩道に代って 「多量の善根を植える 」 とだけ云う. 善根は2 か った概念である. 善根は善ならば総て を含みうる内容を持つ. それ故細部にわたる諸善の 規定は 必要 でなくなる. S. V. 等他の無 量寿経が菩薩道を往生行に組み 込まないのは, 在家中心となっ っ た こ と に も 依 る. S. V. Tib. 訳 で は 純 粋 に 善 根 の 多 少 に よ っ て 往 生 の 正 因 を 三 種 に 分 け た.. それに対 して24願系や魂訳では, 出家道在家道の違いによ って第一輩者と第二, 第三輩者とした. 出家道だから作善は多く第一輩者とする, 在家道だから第二, 第三輩者とするという考え方に立っ ていた. 以上, 24願系の第一輩者の実践道は出家道的性格を持ち, 作善得福の考え方に 立って, 諸 善 を 細 部 にわ た り 規 定 して い る こ と が伺 え る. 1 8 ) 中 輩 者 は 「家 を 去 り 妻 子 を 捨 て 沙 門 と な っ た り しな い一 人 で あ る か ら 在 家 者 で あ る が, 「分 壇. 布施をし, 焼香」 等をする 人であるから, 作善の比較的多い 人に言われた往生の正因である. 浄土 往生への願い をも っ てその様な在家的実 践をする人で, 心に 「慈心をもって精進 し, 膜怒せず愛欲 の 念すらも断じ一 心の不浄を慎しみ身の過りをいさめ る 「斉戒清浄」 等の通仏教的実 践を行ない 「往生を欲すること一日一夜断絶 しないなら一 化身が見え浄土往生する という. 中輩者においても, 浄土往生を欲して在家的諸善を実 践しつつ, 意識において往生の念を形成することが次生を決める 6.
(8) . 4願系無量寿経--その実践倫理をめぐって-- 朝山幸彦:2 と いう 仕 組み に な っ て い る。 と こ ろ が若 しそ の 人 が 「施 与 な どの 善 を 実 践 し な が ら も, 心 中 に 疑 が. 生じた場合直ちに浄土往生はできない」 という, 心中の疑には 「分壇布施と諸善を作すは後世その 福徳を得ろを信ぜず」 という。 従って中輩者の浄土往生行の前提として上の事柄の信 が必要と考え られていた, 分壇布施や作善の得福を信ずることは浄土の存在や浄土往生への信と同じ程度に重要 性を持っていた。 分壇布施は作善の一種と見なされ, 浄土の存在は浄土往生の信に含みうるとすれ ば, 24願系が信において最重要とするのは作善得福の信と浄土往生への信とである。 上掲の引用個. ) 9 所に相当するS. V。 の第41章 では 「幸あるところという 世 界に生ま れることに疑い を(Vi。 漁 協a) 生 じ. として疑が浄土往生への疑だけにしぼられている。 24願系では浄土往生への疑の外に少なくとも作 善得福への疑を問題にする。 何故作善得福への疑も問題としなければならないのかという疑問が起 る。 そ れ は24願 系 が 作 善 得 福 の 観 念 を重 視 して い た こ と に も 起 因 す る が, そ れ と と も に24願 系 と S.. V。 とでは経典成立時の事情が違う か, 24願系の訳経時に特別の意図があっ たかの どちらかであろ う。 この中輩者が浄土往生への疑念を改めた時 「我, 斉戒作善の益を知らずを悔い, 今当さに阿爾 陀仏 国 に往 生 す べ し」 と して 作 善 の 益 を知 ら な か っ た こ と が 最 後 ま で 問 題 に さ れ て い る。 従 っ て 中. 輩者でも作善は大きな意義を持っていたと云えよう。 ところで中輩者とされるのは 「信がないから 作徳は至心ならず, 故に中輩者となす」 という. その信は 「仏語, 仏の経, 分壇布施, 作善は後世 その 福 徳 あ る こ と, 浄 土 に 往 生 す る こ と」 の 信 で あ る と いう. そ の 様 な 信 が な い と, 徳 を 実 践 して も 心 か ら で は なく, 従 っ て 作 善 が心 か ら な さ れ る の は 上 記 の 信 が あ っ て は じめ て 有 意 味 で あ る と さ tsadosena) それを (;無 量 の 善 れる. S。 V。 でも 「 (浄 土 往 生 へ の) 疑 い の 筈 に よ っ て (vi ciki. 2 0 ) 根等) 総て全く絶滅して しまう 」 というから, 浄土往生への 信があっ てはじめて善根を積む意味 も あ る と す る。 S。 V. で は 作 善 が 後 世 そ の 福 徳 あ る を信 ず る こ と は 問 題 に な っ て い な い. 確 か に S. V. 第41章 で は 「と ら わ れ る こ と の な い 目 ざ め た 人の 智 慧 に 惑う こ と な く, ま た 自 分 の (植 え. 2 ) 1 た) 善の根を信 じている求道者たちは云々 」 と云う が, 自分の (植えた) 善根の信と作善得福の 信とは全たく同一内容の信を云う とは思えない。 善根はそれが根となって善果をもたらすという意 3 ) 2 )で善因善果の 因果関係に立 た概念であるが 阿綱陀経の用例2 でも明らかな様に, 福徳とは 味2 っ , 別に立てられている概 念である, 福徳は善根を植えた結果もたらされる, とすれば福徳は果の側に 属 す るの に 対 して, 善 根 は 因 の 側 に 属 し, 善 果 は 約 束 さ れ て い る が, 未 だ 果 と して 現 わ れ て い な い. 面を指す. 自分の (植えた) 善根を信ずるとは因の側に立つ信であり, 作善得福の信は因果の両側 に立っ信であろう。 善根はその結果性を前面に出さないのに対して, 作善得福はその結果性を前面 に出し報償性を強調する面を持つ。 それ故, 後にも指摘する様に作善得福にはその福に世俗的な長 寿や非 浄土教的上天などを加えて, 作善の益を説こうとする。 作善得福の観念には福徳にひかれて 善を作す面が出てくる。 それは行為に対する執着であり, その執着に基づいて果報が生ずることに b なる. S。 V。 Ti 。 訳が云う善根には後世の福徳による意義づけはない. 作業得福の報償性の強調 は24願系の信仰内容にも関わる問題である。 作善の一種の布施行に限って言うならば, 24願系では. 4 2 ) 「分 壇 布 施 に 後世 報 償 あ る を.信 じな い」 の は 悪 で あ る が, s。 v, に よ る と 「分 け 与 え ろ を 喜 び b- nvi bhagarata) 心解放さ れて施 し (muktatyagab) 法 と 財 と を 分 与 す る を 喜 び (danasa (sa巾vi 1 2 5 ) ’ hagarata dharmami sabhyam) 施 した 物 を 各 ま な い (dane matsarino)」 こ とが理想 と さ れ て い. る. 24願系が布施の報償を問題とするのに対して, S. V. では布施の報償への執着がないのが理 想とされている. 以上, 中輩者の往生の正因は在家的諸善を説き, 作善得福なる善の因果律を重視 して い た こ と が伺 え る.. ) 2 6 第三輩者 は 「分壇布施を用いる所なく, 亦焼香等能わず」 というから在家でも善を多く出来な い人の往生の正因である。 心は 「貧慕なく眼怒せず」 の二善根と 「慈心にして精進し, 斉戒は清 浄」.
(9) . 朝山幸彦:24願系無量寿経--その実践倫理をめぐって--. という. これらの通仏教的諸善を実践する人は, 浄土に 「往生を念欲 し, 昼夜十日断念しない」 な らば浄土往生するという. 第三輩者においても 「願って阿綱陀仏国に往生を欲 し」, 在家的諸善を 実践しつつ, 意識において浄土往生の 念を形成 してゆくと次生が念の通りに決まるという仕組みに な っ て い る。 中 輩 者 と の 違 い は 諸 善 の 規 定 が少 な い こ と で あ る。 と こ ろ が若 し疑 い を も ち 「作 善 は. 後世当さにその福を得ろを信ぜず, 阿綱陀仏国に往生するを信じない」 ならば, 直ちに浄土往生は でき ないという. その場合 「我諸善を作す益を知らずを悔い, 今当さに 阿綱陀仏国に往生すべし」 と念ずる様になることが必要とされる. 第三輩者においても浄土往生への念とともに作善の益を知 ることが最後まで問題とされる. これは作善得福の観念が支配的であっ たことを示す. 以上, 第三 4 輩者の往生の正因は在家的諸善を説き, 因果律の善の面を重視 していたことが伺われる. これら2. 2 7 ) 願 系の 往 生 の 正 因 を S, V. Tib. 訳 の そ れ と 比 較 す る と 出 家 中 心 の 諸 行 往 生 で あ る と 云 え る. 24願 系 が 善 の 因 果 律 に 立 つ 作 善 得 福 の 観 念 を 中 心 に して い る の に 対 して, S. V. Tib. 訳 は 念の. -という考え方を中心にして展開している. 24願系の往生の正因では作善得福 内容が次生を規定する を説いて, 因果律の善の面だけを問題にすれば事足りた. そして作善得福の観念は浄土往生と同じ 程度に重視された. 作業得福の観念を信ぜしめ, 作善を強調する立場からは作善が多ければ多い程 よ い と い う 事 に な る. 何 故 な ら 福 が 多 い か ら で あ る. そ れ 故 福 の 多 さ が 問 題 に さ れ る. そ こ で24願. 系では徳の大小が関心事であっ た。 徳の大小によって往生の正因が分けられていることは既に見た. それのみならず, 徳の大小は浄土に生まれた人々にまで及ぼされる. 前世の作善の多かっ た浄土往 2 8 ) 生者には所居の舎宅が随意であり, 作善の少なかっ た浄土往生者には不随意である とする. この 世 でな した 善の 多 少 が往 生 後 の 人々 を も 規 制 して い る. S. V. に よ る と 浄 土 の 人々 は 前 世の 作 善. の多少にかかわらず, 総て平等に描かれている. 徳の 大小は諸仏の願にも及ぼされる. 諸仏の光明 に 所 照 の 遠 近 の あ るの は 前 世 に 菩 薩 で あ っ た 時 に 願 わ れ た 徳 の 大 小 に よ っ て, 諸 仏 と な っ た 時, こ 2 9 ) れ を受 け て 光 明 に 同 等 でな い こ と が あ る と す る. s. v, で は 過 去 の 願 い の 力 に よ っ て (purva- 3 0 ) prapidhanadhisthanena) 1 ヴィ ヤ ー マ な い し数 百 千 億 百 万 ヨ ー ジ ャ ナ の 光 と な る と い う。 s. V. で は 諸 仏 の 願 い の 力 が 基 準 に な っ て い る の に 対 して, 24願 系 で は 願 い の 徳 が 基 準 と な っ て い る.. 菩薩の願いは実践成就されて仏となるのであるから, 願いの徳の大小を問題にすることは実践され た 善 の 大 い さ を問 題 と す る こ と で あ ろ う. こ の 様 に24願 系 で は 徳 の 大 小 が重 要 で あ っ た. そ れ は 善. 因善果の因果律に立っ作善得福の観念に強く支配されていることを示 している. 徳を問題にする態 度は阿爾陀仏にも及ぼされる. 「阿鞘陀仏が六波羅蜜の菩薩行を行なって功を積み, 徳を累ねるこ. 3 1 ) 3 2 と 長 い 間 で あ っ た 」 と 云 い, 「阿 縞 陀 仏 は 願 わ れ る 所 の 徳 重 く, 其 の 人 作 善 の 故 で あ る )」 と し,. 更に阿綱陀仏の仏国土が勝れているのは 「阿鞘陀仏 がもと菩薩の時に精進し, 徳を重ねたことの致 3 3 ) す 所 で あ る 」 と い う. 阿 鞘 陀 仏 を 作 善 得 福 の 立 場 で 見 て, 徳 の 面 を 強 調 して い る. S. V. では. この様な見方はしない. 三毒五悪段 であるが, 阿鋼陀仏を作業得福の立場で見て, それが恩の 思想 と結びつけ られるに至る. 「我等をして度脱を得 せ しめるのは皆これ仏の前世 で求道の時, 勤苦し て学問し, 精明の致す所であり, 恩徳は普く覆い施行せられる所の福徳と相禄が高大であるからで 3 4 ) あ る 」 と いう. s. V, で は 利 他 の 精 神 に 基 づ い た 願 い を 建 て, 勝 れ た 仏 土 を 努 力 して 作 っ た と. いう点に力点がある. 24願系が作業得福を強調するのは, 作業得福の観念で解釈された阿綱陀仏の 成 道過 程 に そ の 範 を 見 た と も 考 え ら れ る. こ の 様 に 徳 の 大 い さ を 問 題 に す る の は24願 系の 特 色 で あ. る. 徳の大いさは作善得福の考え方の延長である. 作善得福の延長 であるから因果律の善の面だけ を問題にしている考え方である. 因果律の善の面を現在仏としての阿綱陀仏に適用するには前世の 求道時を見なければならない. その場合は阿綱陀仏の偉大性を説明するに適 しい論理となる. しか し人間の前世にまで適用すると, それは人間の現在の幸不幸の境遇の成り立ちを説明する論 理とな 8.
(10) . 朝山幸彦:2 4願系無量寿経--その実践倫理をめぐって--. る。 阿難が言うには 「今世の世間の貧窮者が貧窮困苦で面目醜悪であるのは, 前世 で人であっ た時 , 痴貧無智で慈哀を肯せず, 施貸は後に報償を得るを信ぜず, 作善は後世当さにその福を得ろを信ぜ ず, 衆の悪を作 した (等) により, 今世に人となって貧賎となり形状も醜となる それは前世の身 . の 作さ しむ る 所 で あ り, そ の 狭 罰 を 受 け て い る。 今 世 の 帝 王 が 尊 好 で あ り, 面 目 潔 白 で あ る の は ,. 前世で人となっ た時, 作善し経道を信受 し, 恩を布き徳を施 した (等) により, その善福を得て命 終 っ て か ら徳 に 随 っ て 悪 道 に お ち ず, 今 世 に 人 と な っ て, 王 家 に 生 ま れ 尊 貴 に な り 衆 は 共 に 敬 い , 3 5 ) 事 え る 様 に な る 」 (取 意) と いう。 こ の 個 所 は 浄 土の 人々 の 面 類 が 最 も 勝 れ 皆 端 正 で あ る こ と ,. を言おうとする一節 であるが, 用いられている論理は善悪の因果律である 今迄見られた善因善果 。 の 面 だ け で なく, 悪 因 悪 果 の 面 も 語 ら れ て い る も し浄 土 の 人々 の 面 類 が 最 も 勝 れ て い る こ と を 言 .. おうとするならば, 作善をして福を得た面目潔白なる王のみを出して, それより勝さっているとす る 方 が勝 れ て い る こ と を 表 わ す こ と に な ろ う。 そ こ でこ の 個 所 は 作 善 の 益 と と も に 作 悪 得 禍 の 現 実. を示そうとする意図が含められており, 善悪因果の業報思想を説こうとするものである 業報思想 。 を説かなければならなかっ たのは24願系の成立時もしくは訳経時に業報思想を信 じさせな ければな らない事情にあったから である。 業報思想は24願系と魂訳以外の無量寿経群には全く説かれていな 6 ) い。 と こ ろ で 因 果 律 を 前 世 に 及 ぼ す こ と は 釈 尊 を は じめ と す る 仏 教 者 が厳 しく 排 除 した 3 亦 この 。. 個所では前世に作善の者は王となるが, 極めて世俗的な福徳 が示されている。 前世に作善をした者 は 「経道を信受 して」 とあるから浄土にこそ 往生すべき であっ たろう 福徳に浄土教的限定がなか 。. 3 7 } っ た た め に 福 と し て 王 と なる の であ っ た。 亦 前 世 に 作悪 の 者 で も, 24願 系 の 願 に よ る と 「聞 名 し,. 浄土往生を欲する人は目悔して道を為すなら」 浄土往生するとされる この救いの願があるにも拘 。 わ ら ず, 全く 救 い なく 描 か れ て い る こ と は, 願 文 と 矛盾 す る も の で あ り 浄 土 往 生 を 語 る の で は な , く, 業 報 思 想 を 説く こ と で あ っ た. しか しこ の 個 所 は 原 本 に な い も の を シナ で増 広 した と 推 定 でき る, そ の 理 由 は(①S。 V. Tib。 訳 唐 訳 宋 訳 に な い ◎ 仏 の 所 説 で は な く 阿 難 の 言 と さ れ そ れ 。 , ,. が極めて大幅である. ⑳この個所の前後は浄土の人々の容姿について述べているが 唐突にこの世 , の人の事が割り込む形になっている。 ◎ 「恩を布き, 博く愛 し義に順じ, 慈仁にして嘉与す」 とい う シナ的表現が見られる。 ◎因果律を現世の成り立ちの説明に用い, 付加せられたとされる三毒五 悪 段 に しか な い 論 理 の 用 い 方 で あ る こ と に よ っ て であ る こ の 推 定 を 傍 証 す る も の と し て 24願 。 。 ,. 系がシナの儒教や道教の表現を用いている個所が, 三毒五悪段を除いても, 5個所以上ある これ 。 らの事実から24願系がシナ訳される時に原本にない要素を加えたことは明らかである 大阿綱陀経 。 の訳経者が道徳的意図を持って悪因悪果の業報思想を加えたと云ぇよう。 因果律の悪の面を説くこ とは浄土往生とは無関係 であるが, 防悪のための世俗倫理を説くには有効 であっ た 。 4. 作善得福の福に浄土教的限定がなかったことは, 三毒五悪段に至 っ て顕著である 作善後の福と 。 して長寿を得るとか上天するという. 第一悪段によ れば 「人能く自らその中において一心に意を制 し身を端 し行ないを正 しく して独り諸善を作し, 衆悪を為さずば, 身独り度脱してその福徳を得て 8 ) 長寿を度世を上天を泥垣の道を得べし3 」 という。 作善の福徳として長寿, 度世, 上天, 泥垣の道. ) 9 が言わ れ, 浄 土 往 生 で は な い。 長 寿 を 得 る と は シナ の 神 仙 思 想 の 影 響 で あ る と 云 わ れ て3 い る。 中 村 博 士 に よ る と 阿 鋼 陀 経 で は 浄 土 の 生 き と し 生 け る 者 は 寿 命 が無 量 で 限り が な い と さ れ て い る の に , 0 ) 長 寿 と は 限 界 の あ る こ と で 矛 盾 す る と 指 摘 さ れ て い る 度 世 上 天 も 神 仙 家 の 用 語 で あ る4 と 云 わ , . れる. こ れ らの 福 徳 は S。 V。 Ti b. 訳 で は 全 く 言 わ な い。 三 毒 五 悪 段 で は こ れ らの 福 徳 を 五 回 繰. 返している。 ところ で 「諸善を作すと身独り 度脱してその福徳を得て長寿ないし泥垣の道を得る」 9.
(11) . 4願系無量寿経--その実践倫理をめぐって-- 朝山幸彦:2 と いう が, 作 善 の 結 果 の 福 徳 を 得 る の は そ の 人 独 り だ け に 限 ら れ て い る と 考 え て い る, こ の 考 え 方. ) 4 1 は既に指摘されている 様に利己主義に陥る恐れがある. そこで利己主義に対する若干の 反省の跡 がない訳ではない. 「財色に 縛束されて解脱なく 厭足を知らず, 己れに厚く して言争いを欲 し, 省録 4 2 ) せ る 所 な し 」 と して, 己 れ に 厚 く す る こ と を い さ め て い る. 亦, 積 極 的 に 人の た め に 施 し, 人 の. 4 3 ) ため耐えよとも言う. 「人よく自ら度脱して転じて相 扶けよ 」 とも云う. しかし作善 得福の論理 が陥りやすい利己性に対 して論理的な 反省は認められない. これに対 してS. V. は徹底 した利他 主義である. 善悪因果の業報思想は自己の行為の結果は 必らず自己に帰するという 意味で厳 しい側. 4 4 ) 面 を も っ て い た. 「行 い に よ っ て 苦 か 楽 の 処 に 行 き, 人 に 代 っ て は 貰 え な い. 行 為 の 善 と 悪 と は 4 ) 5 変化して 悪 の 場 合 は 肴 と 悪 所 と が予 じめ 厳 然 と 待 っ て い る 」 と す る. 従 っ て 一 片 の 悪 も 許 さ れ. , ない厳しい倫理となる. これは作善 をすれば浄土往生することを説くのではなく, 善悪因果の業報 思想を説くものである. 三毒五悪段の中心的主張は善悪因果の業報思想を説くことであった. 第一 悪段によれば 「強き者は弱きを服し, 転じて相刺 し賊とす. 自ら相い殺傷 し更に相い食い啄む. 作 善を知らず, 悪逆に して道ならず. 其の狭罰を受けるは 道の自然なり. 当さに趣向に往きて神, 明 らかに記識す. 犯したろを貰さ ず, 転じて相い承続す. 故に貧窮下賎乞旬孤独あり (中略) 尊貴豪 富それに高才に して明達 で智慧あり勇猛であるのは, 皆前世の宿命で善を作 し慈孝にして布施 し恩 4 ) 6 ・ 徳 あ り 」 と あ る. こ れ は 善 悪 因 果 の 業 報 思 想 を 説 く も の で あ り, そ れ を 人 間 の 前 世 に 及 ぼ し て,. 現在の境遇の説明に用いている. 既に述べた宿作因説に陥っている. この中で人間の善悪の行為を 神 が記識して, 神は許さず, 善悪の行為の結果を承けさ せるという様に, 神を考え業報の 完遂をさ b. 訳 で は 説 か な い. S. V. で は 諸 天 は 業 に 支 せ る 監 視 者 と して い る. こ の 様 な 神 を S. V. Ti. 配された存在と考えている. 亦, 孝と恩はシナ的思想である. この様に三毒五悪段 では善悪因果の 業報思想を説く が, それは現実の 悪を防ぎ作善を勧めるの に有効と考えたからであろう. 浄土思想 のみでは現実の実践を説くの に不充分という 認識があっ たからである. そこで浄土往生を説きなが らも, 浄土の百歳の作善よりはこの 世の一日一夜の作善の方が勝れていると して現実の実践を意義 づけている. 「汝等ここに於いて 諸善を益作し, 恩を布き徳を施 し, 能く道と禁忌を犯さず, 忍辱 し精進し一心に して智慧を持ち, 展転 して復た相い教化 し, 善を作し徳 を作し, この如き法を経て 慈心に専一 し, 斉戒は清浄にして一日一夜なれ ば阿爾陀仏国に ありて善を作すこ と百歳に於けるよ 4 7 ) り 勝 れる 」 と いう. こ こ で 「汝 等 (若 曹) 」 に 対 して 六 波 羅 蜜 の 菩 薩 道 が 説 か れ て い る. 三 毒 五. 悪段の汝等は在家的人々 である. とすれば往生の正因において菩薩道は出家者 に配当された実 践道 であっ たから, 往生の正因の考え方と三毒 五悪段とでは一 致していない. そ して三毒五悪段にシナ 4 8 ) 的 表 現 が極 め て 多く 見 ら れ る こ と は 既 に 藤 田 博 士 の 指 摘 さ れ た と こ ろ で あ る. こ れ らの 事 実 か ら. 三毒五悪段は善悪因果の業報思想を説く ためにシナで付加され たと考えられる. 特に原初的な大阿 綱陀経が道徳的意図をもち, 浄土往生のみでは現実の実践を説くの に不充分であるという判断に立 したので っ て, 現実の実践を強調する ため, 業報 思想の悪因得禍の面 を加えて, 三毒五悪段を付加 あろう. 少なくとも大 阿綱陀経に三毒五悪段 があることによ って, 現実の実践は強調され, 作善の 現実的意義 づけが行われ得た. その論理的 基盤は善悪因果の業報 思想である. この業報思想はS. V. Tib. 訳 に 至 っ て, そ の 支 配 力 を 失 な ぅ 様 に な る. S, V. 第17章 に よ る と 諸 天 が 各々 の 所 住 に 住 す る の は 業 の 結 果 で あ り, 業 の な さ し む る と こ ろ で 思 量 で き な い も の で あ る が, そ れ よ り も っ と 大切 なの は 目 覚 め た 人 た ち の 力 (adhisthanam) の 不 思 議 さ で あ り, 善 根 を 植 え た 人々 の 自 在 力 4 ) 9 (取 意) と いう. 業 の な さ し む る と こ ろ を 見 る よ り も 目 覚 め た 人 ih) の 不 思 議 さ で あ る (Vibhat た ちの 力 や 善 根 を 植 え た 人の 自 在 力 を 見 る べ き こ と を 問 題 と して い る. 業 は 否 定 さ れ て い る の で は な く, 三毒 五 悪 段 の 様 に 業 を 重 視 す る 態 度 で は な い. そ れ の み な ら ず, S. V. の 第10章 に よ る と, 10.
(12) . 朝山幸彦:24願系無量寿経--その実践倫理をめぐって--. 求道者法蔵は多くの人々 を彼等にとって願わ しい豪商や資産者等の豪族の家族 (kul a) に立たしめ 0 )という 三毒五悪段に見られる作善によ て貴富な者となり 作悪によ て不幸な者となると た5 っ っ 。 , いう業報思想とは全く 異なる考え方 である. 求道者法蔵の利他心と誓願の実践によっ て業報思想は 乗り越えられていると見るべきであろう。 往生の正因においても, 24願系 の業報を中心とする考え . 方 か ら, S。 V. Tib. 訳 で は 正 念 が 次生 を 規 定 す る と いう 考 え 方 に 中 心 が移 っ て い る. そ れ は 諸 善 行 の 規 定 か ら, 心 の 内 部 の 在 り 方 へ と 移 行 して ゆ く こ と で も あ っ た. そ れ 故 S. V. Tib. 訳 で. は豊かな人間像 が描かれ, かつ存在には自体というものがなく生ずることもないと心の認容を深め ることを中心とした諸法が幾重にも説かれる。 しかし後期の無量寿経への展開は後の機会に検討し たい .. 注 1 23~228 平等覚経は後漢月支国の支婁迦識訳, 訳経時A. . 大阿禰陀経は呉月支国の支謙訳, 訳経時A. D. 2 D. 147~186. 2 7~2 05 , 藤田宏達, 原始浄土思想の研究 P. 16 3, 大正N o ,362 P. 300下. P, 301上. 4 9 . 南像文雄, 鷲文和訳仏説無量寿経 P.3 361 5. 大正N o . 6. 大正No ,361 7. 大正N o .362 8. 大正No .361. P. 280下 P, 281上 P. 300下 P. 283上. 9. 大正No ,361 P. 287下. 1 0. 藤田博士によれば三毒五悪段はシナで付加されたと云ゎれる. 藤田宏達前掲書 P. 1 98~205 11. 大正No o .362 P. 311上, 大正N .361 P. 293上 も par A Ashi kaga sukhavat ivyロha p. 3 (以 下 A本 と 略す) 12. edi t . 13, A 本 P. 3 14. 大正No ,362 P. 300上 中 15, 大正N o .362 P. 309下 ~P. 310上, 大正No .361 P, 291下 ~P. 292上. 16 38 . 中央公論 昭和49年5月号, 服部正明論文 P。 3 17, A本. P, 42 18. 大正N o .362 P. 310上 中下, 大正No .361 P, 292上 中 19, A 本 P. 57~58 20. A 本 P, 60 21, A 本 P. 58. 22, 中村元監修, 新仏教辞典P. 3 21 2 3, 「不可以少善根福徳因縁得生彼国」 24. 大正N o o .361 P. 292上 中 .362 P. 310上 下, P. 312中, 大 正N 25. A 本 P, 53. P. 294中. 26. 大正N o .362 P, 310下, P. 311上, 大正No .361 P, 292中下. 27 37 , 仏教思想史論集 早島鏡正論文 P。 1 28, 大正No .362 P. 308上 中, 大正No .361 P. 289下 ~290上 29, 大正No .361 P. 282上 中 .362 P. 302下 ~P, 303上, 大正No 30, A 本 P, 27 31. 大 正No .362 P. 302中, 大正No ,361 P 3 3下 32. 大正No 0 大正N 3 6 2 o . .361 , . 33, 大正No o .362 P, 308上, 大正N .361 34, 大正No o ,362 P. 313上, 大正N .361. P, 281下 P. 283中 P. 289下. P. 294下 35, 大 正N o .362 P. 304中 下, 大正No .361 P. 284上 中. 3 6, 舟橋一哉 業の研究 P. 2~9 37. 大阿禰陀経第6願, 平等覚経第1 9願. 11.
(13) . 朝山幸彦:24頭系無量寿経--その実践倫理をめぐって-- 38. 大 正N o .361 P. 295下 .362 P. 313下 ~314上, 大正No. 2 39, 中村元, 東西文化の交流 P. 17 40. 藤田宏達, 前掲書 P. 2 0 1 1 41, 中村元編, インドの倫理思想史 P. 2 42. 大正No o .361 P. 297中 .362 P. 315中, 大 正N 43, 大正N o .361 P. 295上 .362 P. 313中, 大正No. 4 7 4. 中央公論昭和49年5月号, 梶山雄一論文 P, 31 45. 大正N o o .362 P. 312中, 大正N .361 P. 294上 正N P 大 46, 大正No 6 2 3 1 3下 3 o .361 P, 295下 . , , P 2 3 1 5下 大正N 47. 大 正N 3 6 o o .361 P. 297下 . , .. 0 1 48 . 藤田宏達 前掲書 P.198~2 49. A 本 50, A 本. 12. P. 34 P. 25. (本 学 講師 ・ 岩 見 沢分校).
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