「さざなみ軍記」試論 : 書き手の<成長>と作品世界の変貌をめぐって
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(2) ﹁さざなみ軍記﹂前半部分において、六波羅での未来を奪われて. じ日の午後_ L以降)へかれらの促しによって変貌する。﹁さざなみ軍. ば、﹃作品﹄一九三l年八月発表分Q新版全菓第二巻四〇貢六行目﹁同. 出会い(﹁逃亡記﹂寿永二年八月二1日と二二EI]の日記。初出でいえ. のは'者き手の実際行動や観念の営みから切り離された、見るとい. 指摘している。長谷川の指摘のように'殊に第7部の記述に顕著な. 淡泊にすぎるのも、一つにはこれによるのでな-てはならない﹂と. l面はこの﹁眼﹂であって、貴公子自身の賦彩がいづれかといへば. 既に長谷川鉱平が﹁﹃さざなみ軍記﹄の筆録者である若き公達もt. m尻. 記﹂前半をへこの二人の登場を指標として、前後に二分することに. う目の機能の突出である。日記に捉えられたものは'書き手の生き. 当てもな-逃亡する書き手は、やがて、宮地小太郎・泉寺の覚丹と. 無理はないだろう。小太郎・覚丹の登場するまでを第一部へ登場以. 積み上げて行-べき根拠を喪失するという'作品内世界の現実と対. これは、書き手が六波羅で続いた筈の未来を奪われた結果、生を. 属目の世界を映す鏡それ自体の機能が浮き出ている。. るということと接点を持たない。そこでは、書き手に与えられた'. 後を第二部と呼ぶことにする。 それでは'後半部分はどうか。文武両道に長けた覚丹も、実直な. 役割を十分に担い得るまでに(成長)した書き手の姿も'既に﹁西. 武士たる小太郎の姿も、またへ覚丹の補佐を得て一軍の将としての. 海日記﹂において出現していた。﹁早春日記﹂連作は、それをさらに. は'希望を抱いてゐる人にとってだけ必要﹂(﹁逃げて行-記録﹂寿. 風景も、己との関係を切断されて意味を持たない。﹁日付といふもの. 応しているOこのように現在の基盤を失った者にとっては、眼前の. 軍記﹂全体を二分することを提唱しているのだが)へ作品内部の論理. 日付が意味を持たないと同様、眼前に推移して行く事象も意味を喪. 永二年七月二七日)なように、確たる未来を持てない者にとって'. このように見てみてると、梅本が説-ように(梅本は、﹁さざなみ. 具体的な場で再確認するわけだ。. に沿って、﹁西海日記﹂と﹁早春日記﹂連作との間に'もう1つの区. ことではな-'一ノ谷の合戦を経て児島を戦略的根拠地に定めるま. 必然性を持ち得ないために、土地は景観そのものとして目に映じる. 対応する何ものもない。逃亡する先々の固有の地名も書き手内部に. しっかりと整理・統合されないし'書き手の観念の中にもへそれに. 作中に記述される土地の名も、書き手自身の地理的感覚の内部に. 失しているのだ。. 切りをおいてもよいだろう。﹁さざなみ軍記﹂後半部分の内へ﹁西海 日記﹂を第三部、﹁早春日記﹂連作を第四部、﹁続さざなみ軍記﹂を. での、既に一人の武将として(成長)した書き手とその部隊の活躍. 第五部と名付けよう。第四部では、書き手の(成長)の過程を追う. が記される。そして、第五部では、平家一門のためというよりも、. だ T V .' J. 意味を失った風景と'未来のない時間を漂うことしか許されない. 覚丹の理想とする一個の独立地帯を築-べく努める書き手の部隊の 様相が描かれることになる。. 28.
(3) の記述の背後に浮かび上がってくるのは'皮膚を剥がれたように. がったものの地平に限定され'回想する自己の意識の動きを対象化. 過去を回想しても、あ-までも、それは﹁現在﹂の意識に浮かび上. 全ての物語が終わった眺望点から見えて-る﹁現在﹂を捉えると. して捉えることはない。. 書き手の(生)は、慌ただしい逃亡の日々の中に消えてゆ-。日記. 痛々しい'外界を映す機能だけが突出した書き手の姿である。もち ろん、書き手とて一個の生きた存在である以上、眼前の絶望的状況. そのことは、自己を引き離して眺めるもう一つの自己を持たない. いったことは、日記という形式を採用する以上、出現しないのは当. で、即日的な自己の内に自己を(あるいは日記の記述を)限定して. 然である。だがへこの日記の記述には、日記を書きつつある﹁現在﹂. 1応そのように理解されるのだが、私には、第l部にみならず、. しまっていることを意味するOそれは、書き手から観念的要素へ形. から目を逸らしたいという欲望と無縁でない。書き手の精神の均衡. このような日記の記述には、大きな欠落があるように思われる。そ. は、あり得たかも知れない六波羅での生活という過去を幽かな支え. れは、日記を書-ことのメタレベルへの言及だO絶望的状況の中を. できるだろう。観念が現実を何らかのかたちで超出しようとするも. 而上的要素が排除されていることとl繋がりのものと捉え格ことが. に固定された書き手の意識を超える要素が完全に欠如しているの. 平家1門とともに敗走する書き手は、日記を書-という行為にどの. のならば、書き手は'そうした現実を超出する可能性を予め奪われ. だ。. ような意味を見出しているのかへあるいはへ書き手に日記を書かせ. ているといってよい。現実を超出し'否定するためには'最低限、. としへ希望とも呼ぶには余りにも惨い部隊からの逃亡という夢に. るエネルギーが何に由来するのかといった要素が、この日記には完. よって、ようや-保たれるのである。. 全に欠落しているのである。書き手は'記録するという営為を顧み. て、あるべきものを求めて論理を構築してゆ-ことが必要だ。しか. 自己の行為と認識を距離を置いて眺めてみること、さらには、目に. し、書き手の思念は、自己を相対化したり、観念を紡いだりする方. した現実を否定的媒介として、所与の現実から観念の世界へ反転し. そもそも日記を書き記すという行為は'過ぎ去って行く日々の断. ることも'また、日記を書き記すことの意味について触れることも. 片を整理し秩序を与えることだ。またへどのような書-という行為. 向には進まない。先に述べたように'書き手の意識は'常に﹁現在﹂. 蝣+-*''. であれ、書-という行為は読み手を求める。読み手の措定は'書-. にあり、﹁現在﹂を超えようとはしないのだから。. もっとも、観念の頒域へ向かう端緒が皆無ではないoLかしへ端. というコミュニケーション行為の意味を問わずには済まない。とこ. たとえば僧侶が﹁私達一門の階級の変態﹂(﹁逃げて行-記録﹂寿. 緒は端緒の内に留まり、それ以上に立ち入った思弁は展開されない。. ろが、この﹁さざなみ軍記﹂として記された日記には、書き手が日. し、また、その記述が書き手の反省意識へと転回するこ・Lもない.. 記を書-という行為によって何かを捉えなおそうとする形跡もない. 29.
(4) き手が次の社会のありようを想像することはない。あるいはへ平家. 永二年七月1八日)であるに過ぎないと洞察しても、そこから'書. ののすべては、三郎次の斬られた首が辿る即物的な物理運動に等し. 前の事物を意味づけることをなし得ない書き手によって描かれたも. したゆえに獲得した、無私の目によって捉えられているからだ。目. 催させたというほどに鮮烈であり得たのは、患味づけることを放棄. Q. 一門が結束しないことが嘆かれ、また、一門の女性が娼婦に身を落. 意味づけるという行為は、基本的に、いま生きている自己を中心. い。意味以前の即物的な世界がそこに出現する。. としている事実も記される(﹁逃亡記﹂寿永二年八月二二日)がへそ の事実は観念の中に掬い上げられては来ない。脱走への願望は漏ら される(﹁逃亡記﹂寿永二年八月二〇日)が、その具体的なイメージ. -素朴な次元にとどまっている。そうした素朴な次元にある疑念を. 書き手は素朴な疑問や疑念は提示するけれども、それらはまさし. の作中人物と対比したとき、第1部に登場する、書き手に身近な人. けないのは必然である。第二部以後の泉寺の覚丹や宮地小太郎以下. を喪失した書き手が、書き手の周囲の人々との間で密接な関係を築. 中心は書き手の自己にあるといってよい。その中心となるべき自己. に据えて、その中心から世界の秩序を構築することである。意味の. 積み上げてtl個の観念や思想を紡いでゆ-にはほど遠いo日記を. 物像が暖味であるのも、その結果である。. は何もない。. 排除と同一の方向を示すものであり'自己省察と観念的に積み上げ. 書くことのメタレベルへの言及が欠如しているのも、観念的要素の. て'即日的に生きる一個の無垢な記録装置であったのだ。その無垢. 手は'作品内世界の現実に生きる行動者ではな-'能動性を奪われ. 以上のように見て-れば明らかなように'第一部において'書き. こうして、観念的領域へのベクトルが作品から排除された結果、. てゆ-能力を、予め、書き手は与えられていないのである。. 作品の表層に立ち現われて-るのは'即日的に生きる書き手が捉え. を示すものであると評してよいだろう。明確な描線で縁取られた鮮. は、観念的要素を欠落させることによってより1層際立つ。一切を. 明な映像は、書き手にとって意味を喪失したがゆえに捉えられたも. 奪われた書き手が見る世界は、意味によって固定される以前の様相. 観念が偏差をもたらして外界認識を歪めへ見えな-させるという. た'奇妙に鮮明化した外界の映像とへその記述の向こうにある書き. ことは十分にあり得る。否、われわれはわれわれ自身の偏差を通し. のであった。意味を付与することができないにもかかわらず、いや、. 手の冷静と言うには痛々しい目の機能なのである0. てしか外界を分節できない。そのように考えてみれば、観念や夢想. それゆえに、明瞭に見てしまう書き手の日の逆説的在りようが'﹁さ. それが'第二部以降へ覚丹・小太郎の出現と、かれらの促しによっ. ざなみ軍記﹂第1部の魅力の源泉であるわけだo. てへ書き手は一人の武将へと(成長)する。意味を喪失していた風. の能力を書き手から奪い取り、偏差の指標ともなる観念的要素を排. 生々しい映像を記述することが可能になったともいえよう。冒頭近. 除することによってへ観念や理念の内部に整理・統合される以前の、. -三郎次の頚が捻切られる場面が'復員直後の大岡昇平に吐き気を. 30.
(5) き手たちの部隊という中心から捉えられる。. 貴は、書き手の部隊の戦略的必要の観点から眺められる。世界は書. 書き手は'﹁逃亡記﹂連作の末尾近-(寿永二年八月二l日へ一一二. ^O PS. 日)で、忠実な部下宮地小太郎と、補佐役泉寺の覚丹を加えた偵察. 確たる見通しも持てないままに時間を稼ぐか、あるいはへ失われ. 抜こうとするタイプである。書き手は、見習うべき存在に、ようや. に登場したへいまある状況を基点として、それを行動によって生き. 部隊の隊長に任じられる。小太郎と覚丹の二人は'かつて、敵の側. た過去を再現することがいまだに可能だと信じる程度の現実認識し. -出会うのである。書き手は'武将として取るべき行動を覚丹に示. 〓. か持たない-これが、書き手の周辺にいる平家一門の人々である.. され'覚丹に支えられて、7人の武将として成長する.. いうことである。六波羅でのあり得た生活、あるいは、部隊からの. るということは'換言すれば、唆味で実現性のない夢を放棄すると. 覚丹や小太郎のように、所与の現実を生の出発点に据えて行動す. そして、潰えた六波羅の過去に槌ることしかできない平家7門への. に生きてゐたいのか自分でも分からない﹂と生への執着を語る老臣. 絶望は、書き手自身へも降り懸かるものだ。他方へ﹁どうしてこんな. 宇治大納言のことば(﹁逃亡記﹂寿永二年八月一八日)も、また'書. 顧によって、辛うじて自己を支えることから、覚丹を主軸とする﹁私. 大雑把に言えば、書き手の(成長)とは、六波漣という過去の回. 逃亡や室の津(柄の津)の少女との恋愛は、実現することのない空. な時代の支配者となりつつある源氏に属する者たちである0第7部. たちの部隊﹂-書き手を中心に築き上げられた人間関係-の現. しい夢の系譜に属するものである。書き手は、こうした空しい夢の. では'既にへ書き手は、圧倒的な平家方を敵に回して、燃え盛る屋. 在へと中心を移動させた結果、出現してきたものなのである。羽鳥. き手自身のものでもあった筈だ。六波羅的なものに未来がないとす. 根の上で果敢に矢を射って戦う二人の土民(﹁逃亡記﹂寿永二年八月. 徹哉が指摘するように、書き手は、第二部以降、小太郎・覚丹を中. れば'書き手が六波羅的なものを否定する存在を呼び込むことで'. 二〇日)を目にLへ遡れば、木曽の家来鳩尾五郎と名乗った荒武者. 軸にした主従関係の中に入り込んで行-.平家7門の中では稀薄な. 系譜を自らの内部から放逐しょうと努める。それは、現在の自己の. (﹁逃げて行-記録﹂寿永二年七月1七日)に驚いていたOかれらは. 人間関係の中にあった書き手は、この﹁私たちの部隊﹂との出会い. 現実に目を向けることと表裏1体の関係にあるo. いずれも粗末な身なりで所作も粗野だが、平家7門の人々とは対照. 以来へ部下たちとの濃密な人間関係の網目の中に自らを投じて行-0. 生の方向を見出そうとするのは必然であろう。しかし'書き手が見. 的に、絶望することよりも行動することによって生きようとする存. それを象徴するように'作中には'固有名詞で呼ばれる、活気に溢. 出し得る、没落する六波羅的なものの対極にあるのは、いまや新た. 在であった。自ら戦況を打開する能力を失い、形骸化した文化的権. (5). 威に依存する平家一門の中に'そのような存在を書き手は見出せな. 31.
(6) かについて疑問を差し挟まざるを得ない。. 機を持たない場合、その(成長)が果たして十全なものであるか否. していえば、いまある現在を全肯定し、それを否定・相対化する契. 己の基点をお-ことを(成長)といえばいえよう0ただしへ先取り. 垢な記録装置の位置を捨てて'現実の諸関係に関わり'その中に自. かれらとの関係の中に自己を定めようとしたことの証明である。無. ること自体、それぞれの個性を書き手が認めたということであり'. れる部下たちが登場する。かれらを固有名詞を以て呼ぶことができ. まま﹁庶民﹂と等価とすることはできないだろう。事実へ作中に登. 点において共通するものがあったというべきであって'それをその. 前の事態に絶望して悲嘆に暮れるのではな-て、現実に就-という. れば、﹁庶民﹂が示す行動様式と、小太郎・覚丹のそれとの間に'眼. 能力と戦略的視点、そして、それを実行する行動力であった。とす. 人から期待されたのは、一部隊の指揮者として相応しい状況把握の. が最も身近に感じ取ったのはへこの二人である。そして、かれら二. 小太郎や覚丹にも共通することだ。いやへ具体的存在として書き手. 場する﹁庶民﹂らしき存在は、六波羅的なものに憧れる一方では権. いまある現実と向き合うということは'書き手の立場に立てば'. かと思えば、戦機を敏感に感じ取って、いち早-姿を隠して戦乱を. るいは、見込みのない脱走を計る(﹁逃亡記﹂寿永二年八月二二日﹂). 力に脅え、また、弱まった権力に対しては陰口を平気でロにし、あ. 平家方の一部隊の指揮者であり'武装集団の長という支配者の側に. 避けようとする(﹁早春日記﹂寿永三年正月三〇日)Iこのように、. ≡. あるという現在の位置を肯定し、そこに自らの意志と行為の起点を. 置-ということである。それは'木村東吉や羽鳥徹哉が指摘するよ. う、不定形なものとして作中に捉えられていた苦だ。. 打算的でもあれば短慮でもあり、あるいは先見的な智恵も持つとい. (蝣サ). うに、武将としての自覚であり、武将の目の獲得であると評きなけ. に変化はない。書き手は部隊から逃亡して、﹁庶民﹂の中に身を埋め. /被支配の関係の中で支配する側に書き手がいるという現実的要件. 事実、書き手は﹁庶民﹂へと﹁階級移行﹂するのではないO支配. この辺りの変化を庶民性の獲得というように評価する向きがあ. るわけではない。あるいはへ支配/被支配の関係を逆転させるよう. ればならない。. る。所与の現実を絶対的与件として'そこに全ての起点を置-こと. なダイナミズムも作中には認められない。. るにもかかわらず﹁徒労を恐れず可能な限りのことを尽し'そこに. は、被支配者の側の目を獲得し、支配者としての書き手の内部に組. そのような書き手の場で、﹁庶民﹂と関わるとすればへその可能性. /・J・I. ﹁庶民﹂的と呼べる。木村東吉が指摘するように'捕虜の境涯にあ. を﹁庶民﹂的姿勢というならば、書き手が獲得したものは'確かに. 安んずる生き方を捕虜の木工に学んだ﹂といってよいだろう(﹁西海. する機能として、そうした﹁庶民﹂的なものを取り込んだ形跡は、. み込むことにあるかも知れない。だが、自己の階級的位置を相対化. だがへいまある現実を積極的な行動によって生きようとするのは、. 日記﹂寿永二年九月二八日)0. 32.
(7) ﹁逃亡記﹂寿永二年八月一七日に次のような記述があった。. 日記の記述には認められない。. ることにそのまま繋がる。そして、その書き手は'支配/被支配の. 関係を明瞭に捉える目を持ちながらも、結局は、それを自己の内部. 先述したように、敗北しっつある平家一門において、既に全ての. に組み込んで'そこから支配者としての自己を照らし出すことはし. ). ないのであった。眼前の世界の﹁現在﹂に固定されるべ-設定され. る. 私は彼等の欲望こそ笑止なものであることを知ってゐる。し. 拠. かし私達の階級は'彼等のさういふ欲望を利用しな-ては、彼. に. た書き手の目は'過去に得た認識と現在の自己とを観念の上で対比. 出. し、自省する機能を奪われてしまっていたのである。. 初. に、規則や制度によって傷つき、そして彼等自ら苦しむのであ は. 等を支配することはできない。彼等は私達階級を支持するため. 用. ものが失われ尽-そうとしていたからこそ、書き手は冷めた目で移. 引. り行-事態を書き写すことができた。換言すれば'六波羅の地を追. (. いやられた書き手は'未来という画布に何ものも描けなかったから. 。. いるが'こうした事態把握の洞察力が、後の書き手の行動や思想を. 引用中にある視点は、支配される側の目に転化する可能性を持って. こそ'現在に対する透徹した目を確保することができたのであった。. る. こともない。この支配/被支配の関係を明敏に捉える目は、書き手. 決定するものでもないし、また、そこから支配される側に転移する. 書き手の父の所業(﹁逃げて行-記録﹂寿永二年七月一七日)との間. (﹁早春日記﹂寿永三年二月一九日)と、三郎次を身代わりに立てた'. 児島において'豪族大橋の楠根一族を威嚇して従わせる書き手. して存在するのは、平家の一部隊の指揮者としての現実、支配者・. 被支配者であった。ところが、今、書き手にとっての絶対的与件と. あり、自らの意思で状況に関わることを遮られているという点では. に等しかった書き手は'所与の絶対的条件の中で都弄される弱者で. も確たる帰属意識を持ち得ず、単に逃亡を重ねることが生きること. ところがへ部下との濃密な人間関係の内部で、﹁私の部隊﹂の存立を. に、どれほどの隔たりがあるか。書き手が平家の一部隊の指揮者で. 相対的強者としての自己を基点にした現実である。そして、﹁庶民﹂. 第一義とする論理を生きようとするとき'書き手の目はかつてあっ. ある以上へ対﹁庶民﹂関係においては相対的な強者であり、たとえ. に学んだと評された姿勢は、支配/被支配の関係を自己の内部に問. に内面化されない。事実、﹁早春日記﹂連作では、書き手たちの部隊. ば児島においては支配権力そのものである。﹁さざなみ軍記﹂は、支. いかけるのではな-'支配者としての自己を無傷なままに、現在あ. た無垢な目ではあり得ない。かつてへ逃避行を共にする平家1門に. 配権力が没落してゆ-物語であった。しかしへその没落してゆ-平. る秩序を肯定させるのだ.ここから'支配/被支配の権力関係の獲. も'やはりへこういう﹁彼等﹂の心性を利用することによって児島. 家の軍勢が、支配/被支配の関係の中において'強者=支配権力で. 得によって現実を額略した者がへその権力関係の中に新たな生きる. に要害を築-ことになるのである。. いうとき、それは、書き手が'支配者としての現在の状況を肯定す. あることに変わりはなかった。だから、所与の現実から出発すると. 33.
(8) ある。書き手は与えられた関係の中で'覚丹に指示された武将の役. べき自己の場を発見し、権力関係を維持する物語へと変貌するので. 書き手の魅力が失せて行-のも必然であろう。. なおかつ、書き手自身の場を相対化する機能が作用しないとすれば、. もし、﹁早春日記﹂連作以降に新たな要素が加えられるとすれば、. 筈だ。しかし'そうした自己の行動を対象化し'そして、それを超. えへどのように具体的な行動の世界で生きるかという問題であった. それは、書き手が獲得した(成長)を、書き手自身がどのように捉. このように見てきたとき、﹁早春日記﹂連作以降にあるのは、覚丹. て計られるべきことがらとして意識され'実際に計量される。. 割を演じ、全ての現象は書き手とその部隊の現実的利害の上に立っ. から与えられた治者を演じることによってへようや-所与の現実を. Lへ覚丹を中軸とする主従集団内部での役割を演じるという'所与. このように六波羅という'もはや再現され得ない過去の夢から離脱. このように書き記すとき(﹁早春日記﹂寿永三年二月一九日)、書き. 信頼し、彼の言ふ通りこの1角の地を城砦化するつもりであるO. でにその判断に狂ひのあったためしがない。今後とも私は彼を. る。彼は星の運行など見な-ても容易に未来を判断し'今日ま. 私は覚丹の神秘に近い智謀には一も二もなく敬意を払ってゐ. える観念の領域に'書き手は足を踏み入れようとはしないのである。. の現実を受け入れて、そこから出発することへの移行の物語なので. 手は書き手自身の生を生きるよりも、覚丹に与えられた生を生きる. 書き手の(成熟)だとか(成長)だとか言われているが'実質は、. 生きることが可能になった書き手の物語である。. あるoそして、その時、書き手の目には、(成長)の自覚IJ逆にい. 識者の地点に留まっていた書き手は、武装集団の支配者であり、支. の書き手たる主人公の平家の公達に代わって作品の軸となるべき存. るともいえる﹂との指摘があるように、おそら-'これまでの日記. ﹁作品は前半の少年の感懐から後半の覚丹の達観へと展開してい. て'書き手自身は、自らの行動の意味を深-問わない。. だし-変化する状況の中を、書き手は、覚丹の指示に従って行動し. にすら見える'というのは過言であろうか。﹁早春日記﹂連作の慌た. 木偶のような印象を与えられ、もはや作中での意義を失ったかよう. えば(成長)に伴って喪失したものの姿は見えてこない。 四. 第四部﹁早春日記﹂連作にあるのは、lつの武装集団の主従関係. 配者としての役割を生きる行為者に変貌する。ここに登場する人物. 内部にあって、その現在を疑わずに生きる書き手である0かつて認. たちは、覚丹や小太郎(小太郎の死後は、小太郎的な役割を果たす. て行動者という覚丹の心中がどのようなものに支えられているの. 在は、この覚丹であろう。しかし'書き手を操る、鋭い認識者にし. 意味で自足した状況を書き手は生きるのであり、そこに新たな書き. の合戦後の﹁早春日記﹂連作において頻出するのは'覚丹が﹁寿永. か、その行動を支える原理にも書き手は到達しないようだ。一ノ谷. (9). れ、部下たちも、書き手を相対化するような機能を持たない。その. 存在が登場する)を始め、書き手の現実支配の協力者として設定さ. 手の変貌を見ることはもはや不可能である。支配者の場にあって、. w.
(9) は、日記を書-という行為の意味も問わず、また、目に留めたもの. あるいは、さらに新たに後を追うべき人物を登場させるしかない。. 作中に範とするべき人物の域に到達してしまえば'作品は終わるか、. 主人公の(成長)を描-教養小説的枠組みから言えば、主人公が. 超える契機を失わせる。. から観念を積み上げて行-能力も予め奪われて'属目の事物を映し. 記﹂を営々と書き続ける姿である。先に述べたように日記の書き手. 出して行-能力しか付与されていなかったし、その姿勢は﹁早春日. という物語が行-べき方向を見失ったということを意味しよう。主. 覚丹の得た認識を拒絶したことは'7両において'主人公の(成長). 人公は、覚丹の認識に到達するように造型されてはいなかったので. の教える方向に自己の生き方を定めた書き手が記す内容は、部隊の. あった。覚丹を主人公の外に放り出したとき、作品は別の方向を模. 記﹂連作以降も変化しないoそのため、﹁早春日記﹂連作では、覚丹. ﹁寿永記﹂を覗き見る(﹁早春日記﹂寿永三年二月二〇日)ことにな. 索しなければならな-なるだろう。. 行動の記録という様相が濃-なっていた。書き手が'覚丹の留守に. る。これはへ書き手が踏み入れなかった観念的領域で問われなけれ. なし得ない。覚丹が敗北する陣営にあることを目覚しへそうした現. すなわち、覚丹が﹁寿永記﹂に綴る思想を、書き手は自らのものに. 堪えられないとして﹁寿永記﹂を読むことを半ばで放棄してしまう。. を書き綴るという覚丹のニヒリズムを読んだ書き手はへその認識に. ところが、敗北を必至と認識しながら、平家方に留まり'﹁寿永記﹂. を欠いてしまったことの証明のようにも思われる。この辺り、﹁寿永. 至れば、もはや、物語がこれまでの書き手によって綴られる必然性. 取り込もうとする試みであろうか。皮肉な言い方をすれば、ここに. 化する能力を失っているとき、書き手を外側から捉える目を作中に. 筆させようとする行為であるD書き手自身が'書き手の現在を相対. 楠根の妹(﹁続さざなみ軍記﹂寿永三年四月四日、五日)に日記を代. るのが、弓削(深須)の九部(﹁早春日記﹂寿永三年三月四日)や、. このように書き手が自己を相対化することを拒絶した次に出現す. 在の営為を相対化して虚しいとする認識の高みにあるのに比して、. ばならない地点に'作品が至ったことを示唆しているようだ。. 覚丹を理想と仰ぎながら、覚丹の持つニヒリズムという自己相対化. 記﹂の出現も含めて、作者の筆は揺れ動-ようである。. 踏み外さなかったという意味では、確かにへ先行する叙述を裏切っ. 沿った行為であり、作品の冒頭から設定されていた規短を書き手が. するということで文学に関わる自己を支えようとした姿勢を、虚構. げる倫理的課題を否定することもできなかった井伏が、外界を記録. の奔流に加わることもできず'かといって、プロレタリア文学が掲. ﹁さざなみ軍記﹂当初の設定が、プロレタリア文字全盛期にへそ. 五. の機能には無縁なのである。日記を書き記しながらへ日々を記録す るという行為を意識化しなかった書き手は'やはりへここでもへ観. てはいない。しかし、その結果、書き手が観念の頚域に入り込んで、. 念の領域へ立ち入ることを拒絶する。作品冒頭からの設定の内法に. そこで、自己の現在をどのように認識するかというへいま、ここを. 35.
(10) け、しかし、自己内部に語るべき何ほどのものも所有していなかっ. 世界へ転移させたものだということができよう。観念的なものを退. るものであった。一般にへいまある所与の現実を絶対として受け容. て、多-の井伏文学の主人公が与えられた位置とは'根本的に異な. 平家のt部隊の指揮者という支配する側に位置しているのであっ. ﹁さざなみ軍記﹂という作品世界の現実的条件は'書き手が既に. れることは、必ずしも、支配する側の論理を作品が肯定することで. はなかったというべきであろうか。初出誌の前書きに、﹁兵乱に追は. はない。作中存在自体が'支配者に翻弄されるという点において'. た井伏にとって、外界の事象を写し取るという姿勢しか選択の余地. ﹁彼は文学少年であったのだらう﹂(﹁逃亡記(四)﹂)などと記され. れて帝都を逃亡した文学少年(?)の日記﹂(﹁逃げて行-記録﹂)、. さらに、井伏が常に、傍観者・語り手としての﹁私﹂を用意して、. の書き手は、支配する側にあるのである。. それが、基本的に作品世界の当事者ではな-て、媒介者として働い. 既に支配者の論理に対する反措定たり得る。だが、﹁さざなみ軍記﹂. に書き記すという行為を選択することで、作家としての自己の位置. てきたことを想起したい。すなわち、井伏文学においては、現実の. ているのは'そうした文学に携わろうとする井伏の反映であると思. を定めたのであった。そういう井伏の作家としての態度を虚構の世. 支配機構から一歩身を引いた媒介者の存在が'作品世界を一元的に. われる。そのとき、井伏は'現実に対して無力であるがゆえに、逆. 界で実験してみたという点で'﹁さざなみ軍記﹂の書き手は、井伏の. ら、1人の行動者へと変貌したことは、書き手にとっての(成長). 書き手が記録装置としての位置を脱却して'覚丹を理想としなが. 分節させないように機能し'部分部分の語りを相対化していた。. 投影であったといえる。 だが、﹁さざなみ軍記﹂後半へ書き手は作品内部の論理に従って(成. ではあったが'そのことは、作品内世界の現実から距離を置-ため. 長)し、現実世界の行動者となりおおせる。ここから'書き手と井 伏との承離が始まる.井伏は表現者として、認識の領域に留まる存. に無垢な書き手を必要とした井伏文学の枠の外に'﹁さざなみ軍記﹂. の書き手を追いやってしまったのである。表現者・記録者として文. いま'ここにある現実と向き合うことから、与えられた作品世界内. 学に関わる姿勢を、井伏自身が選択したにもかかわらずへそのこと. 在である。ところが、やがて'書き手は、行動者へ(成長)するo. き手は'武装集団の長として、現実世界の支配者としての位置を動. 部を生きる書き手の変貌は始まったのだが、その現実において、書. への反省意識を欠いた書き手を設定し、さらに、作品後半では、そ. 記﹂の書き手は井伏から離れてしまったといってよいだろう。そこ. こうとはしないし、支配/被支配の関係を転覆するダイナミズムも. そして、その書き手は、もはや知れない明日に脅えるような存在. によって歴史に関わろうとする覚丹の姿を点綴することであった。. から表現者・記録者の場を作中に回復しょうとした試みが、﹁寿永記﹂. の書き手が現実の支配者の側に居直ることによってへ﹁さざなみ軍. ではない。また、観念の鋳域へ踏み込まなかった結果、自己を相対. #^J. 化して捉える契機も用意されなかったのである。. 36.
(11) だが'一人の日記の書き手によって綴られてきた物語の枠組みは、 いまさら、改変を受け付けない。この書き手以外に日記を代筆させ. たと評せよう。. 書き手は'覚丹の認識を自己のものとすることもできない。傷を負っ. 資料叢書﹃井伏鱒二・深沢七郎﹄有精堂・l九七七年二月に. 辺﹄早稲田大学出版部二九六九年三月。のち'日本文学研究. (1)東郷克美﹁井伏鱒二﹃さざなみ軍記﹄論﹂(﹃軍記物とその周. 注. て書き手が筆を執れな-なったという(﹁早春日記﹂寿永三年三月四. る試みも放棄された。観念的要素を書き手から排除していたために、. 日)のほうもはや作品世界の現実が井伏の手を離れてしまったこと. 再録)0. (2)梅本宣之﹁﹃さざなみ軍記﹄論﹂(﹃帝塚山学院短期大学研究年. を象徴するかのようである。. 報﹄三八号二九九〇年一二月)。以下に引-梅本の論はすべて. ﹁早春日記﹂連作に続いて﹁続さざなみ軍記﹂が試みられるが、 それは、書き手を置き去りにして、覚丹が理想とする小王国を築-. これによる。. (3)長谷川鉱平﹁井伏鱒二論﹂(﹃近代日本文学研究﹄昭和作家論. という、新たな現実を創出してゆ-覚丹の物語へと変容するようだ。 覚丹においても'必然の敗亡を見据えるという﹁寿永記﹂執筆の動. (4)大間昇平﹁私の文学手帖﹂、7九四六年13月二一日の項(﹃群. 上・小学館・l九四四年四月)0. る行為に取って代わられ、多忙を理由に覚丹は﹁寿永記﹂の筆を執. 一五・岩波書店二九八二年二月による)0. 像﹄1九五三年五月。のち、﹁疎開日記﹂と改題O﹃大岡昇平集﹄. 機は'児島に一つの独立王国めいたものを築-という理想を実現す. らない(寿永三年四月四日)。﹁早春日記﹂連作が終わりに近づ-に. き手の物語は'確かにへ当時の行-当てを失った井伏の心緒を描-. (8)注(6)に同じ。. (7)注(5)に同じ。. (まえださだあき・兵庫教育大学). (﹃井伏鱒二研究﹄渓水社二九八四年七月)0. (-)木村東吉﹁﹃さざなみ軍記﹄文体考-その写実性と人間愛-﹂. 品論の現在-﹄H・東京大学出版会二九八六年七月)0. (5)羽鳥徹哉﹁さざなみ軍記[井伏鱒二]﹂(﹃日本の近代小説-作. 連れて、小王国を築-べ-奔走する群像が描かれるという気配が濃 厚になる。それは、書き手の(成長)というテーマから、新たな現 実の創出というテーマへ移行したことを意味しているだろう。 書き手は'支配者としてある現在の自己を正当化する論理を(成. に相応しい設定であっただろうが、物語の主人公は、作品内部の現. (9)注(-)に同じ。. 長)によって手にしてしまったのである。存在の根拠を喪失した書. 実を生きた。そこに'所与の現実を基点として思考し'行動すると いう井伏の認識をそのまま押し当てたとき、それは、﹁さざなみ軍記﹂ という1個の作品の中では'支配者の論理を肯定することに緊がっ. 37.
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