「柔道試合審判規定」の在り方に関する研究 : 「国際規定」と「講道館規程」に対する実践者の認識を通して
99
0
0
全文
(2) の主観をなるべく排除したいことがあると考え. を行う者が多いため、特に「講道館規定」によ. られた。ただし、選手では、指導者や審判員に. る審判との相違にわずらわしさを感じているか. 比して、延長戦による体力消耗の激しさからそ. らであると捉えられた。. れに対してやや否定的な傾向にあった。. ⑤「審判員ライセンスと段位」の関連につい. IV.結論および今後の課題. ては、全体的には柔道経験は審判員にとって必. 以上の各論における実践者の認識を踏まえた. 要不可欠であるとすう傾向にあり、特に指導者. うえで、今後の試合規定の在り方に対する結論. および審判員では「審判技術と選手時代の技術. をいえば、現場での混乱を避けるためには、実. は関連している」と捉える傾向が、選手よりも. 践者がr中心となる規定」を明確に認識するこ. やや強かった。. とが重要となろう。そして、r中心となる規定」. ⑥「礼法」については、基本的には伝統維持. とはやはり「国際規定」にならざるえず、それ. の傾向が認められたが、一方でr審判員が正面. に対していわば「周縁となる規定jが「講道館. に背を向けても失礼にならない」やr国際規定. 規定jとなろう。これらが有機的に連関するこ. のように立ち姿勢で服装を直す方が良い」など. とが望ましいが、現行の「講道館規定」は「国. の項目では、やはり便宜上の必要から多くの者. 際規定」に近似しつつあり、その存在意義が分. が肯定的であった。. かりにくくなっている。. ⑦「ブルー柔道衣」については、全体的には. ただし、今回の調査結果を通して、例えばr技」. 賛否両論であるが、国内での導入については特. や「礼法」への考え方については戦前来の競技. に指導者層を中心に、普及に関わる経済的負担、. 観が根強く継承されており、試合規定の在り方. そして、誤審にはつながらないという理由から、. に対する実践者の認識は、今目なおも複層的で. 現時点では「不要」で落着していると捉えられ. あることが確認された。その点も踏まえ、以下. た。. のような筆者の意見を提示したい。それは、「国. ⑧両規定の在り方についてのr総論」として、. 際規定」は競技者として最も力を発揮できる年. r講道館規定と国際規定の両方があって良い」、. 代(高校生∼30才程度まで)に対して、しかも. 「国際規定のみで良い」、「国際規定はスポーツ. 高度な柔道を目指す者に対して採用すべきもの. としてのものであるため、伝統的な教育として. であり、少年柔道や学校体育の授業、一般の市. あるべき講道館規定を改訂せよ」、という3項目. 民大会等の「大衆のための柔道競技」では、従. の中から1項目を選択させたが、全体的には過. 来の「講道館規定」の考え方にもとづいた柔軟. 半数を超えるものはなく、意見の分かれる傾向. 性のある規定を設け、より多くの実践者が試合. にあった。ことに、r両規定があって良い」への. に参加できるように工夫する必要があろうとい. 選択者数は、「30才以上」では他項目に比して. うものである。しかしその具体化については、. 最も少なく、「30才未満」では他項目に比して. 今後の課題である。. 最も多かった。この結果は、r30才以上」では、. 主任指導教員. 千駄 忠至. 高校部活動、大学部活動、その他社会人に対す. 指導教員. 永木 耕介. る指導者でかつ、B常的に「国際規定」で審判.
(3) Ffl'* L r. -. ! ;Al l. **.. !i. : E J. : J q) E. r. , C >4 1. :. : E J iC tt i. )k ;k p"*. ;. = I. jC l. : C. = f t. '. j i. Fpt o)*"*. 4 ・-;. M05303D. ; c-.
(4) 目次 1.研究の動機および目的………一一一……一一一一………一一一一一一一一…一 1. H.方法一…………一…一一…一……一………一一一一………一…一一一…一…4 1.r講道館規定」と「国際規定」の相違点一一一一一…一一一一一一一一一一…5 1)「体重制に対する考え方」一…一…一…一一一…一…一一一一一一……一…一…一・6. 2)「技評価のポイント化に対する考え方」一…一…一……一一一一一15 3)「罰則のポイント化に対する考え方」………一…一…一一………20 4)「審判員制度に対する考え方一特に段位との関係から一」一一一一一一24 5)「礼法に対する考え方」一…………一…一………一…一一…一…一…・28 6)「ブルー柔道衣に対する考え方j一…一一………一一一一一…一一…一一・29. 2.質問紙法による実践者の認識の把握……一…………一一……一…一32 1)質問紙の作成……………一…一……一一一一一一…一一一一…一……一・32. 2)調査対象・時期…一…一…………一一一…………一一…一…………32 「本調査用・質問紙j一一一……………一一…………一一一一一……一一一33. 皿.結果および考察一一一一…一一…一一一………一一…一一一……一一一一一37 1). 「体重制」について一………一…一…一一一一…一…一一一…一…一一一一39. 2). 「技評価」について一……一…一一一…一一………一一一……一一……一45. 3). 「罰則」について………一一一一……一……一一一一一…一一一一一一…一一一一57. 4). 「旗判定と延長戦(ゴールデンスコア方式)」について一一一一一一……66. 5). 「審判員ライセンスと段位」について一一一…………一一一一一…一一70. 6). 「礼法等の違い」について一一一……一一一一一一一…一一一………一一75. 7)「ブルー柔道衣」について……一一……一…一一・……一…一一一……・一80 8)「総論」として…一………一一・一一一一…一………一一一一……一一一…84 1V.結論および今後の課題…一…一一一…一…一一……一一…一一……一…一一一…88 参照文献一覧…一………一一…一…一…………一…一一…一一一……一一一一一一・92.
(5) 1.研究の動機および目的. 平成18年現在、目本において使用される柔道の試合審判規定には、主に「国際柔 道連盟試合審判規定」(以下、r国際規定」という)とr講道館柔道試合審判規定」(以下、 「講道館規定」という)の2つが在るn。. これら2つの規定は、大会の種類や性格によって使い分けられているが、例えば「目. 本に試合審判ルールが2つもあるのが原因で試合で戸惑いがある」(金当国臣、柔道新 聞・平成2年6,月10日付2面)と述べられているように、これらの「相違」が選手と審 判員、さらに指導者や観衆に困惑やわずらわしさをもたらしてきたのが実情である。. 筆者は現在、日常的に大学柔道部の指導に当たって各種の競技大会に選手を参加さ. せ、また、審判員も務めている。そのような立場から、何故に日本において2つの規 定が存在し続けているのか、そして、2つの規定が併用されることによる「困惑やわ ずらわしさ」を解消するにはどのように在ればよいのか、そのことを考えてみたい、 というのが本研究の動機である。. 「国際規定1は、1951(昭和26〉年にヨーロッパを中心に発足した「国際柔道連盟j (lntemati・na1Jud・Feder孤i・nl以下、「IJF」と略記)2》によって1967(昭和42)年に制定された. 1〉その他には、日本で初めて明文化された試合規定である「武徳会柔術試合審判規定」が明治32. でん 年に制定されているが、その制定を担ったのは、「日本傳講道館柔道」(以下、「柔道」という) の創始者である嘉納冶五郎(以下、「嘉納」という)であり、翌年の33年に制定された「講道館 規定jとほぼ同じ内容であった(ちなみに、「講道館規定」当初の正式名称は、「講道館柔道乱捕 試合審判規程」であった)。また、「警察柔道試合審判規定1や、旧・高等専門学校において流布. した寝技重視の審判規定など、いわばローカル・ルール的なバリエーションも存在してきたが、 それらの基本となっているのはやはり「講道館規定!である。なお、明治15(1882)年に江戸期の. 柔術諸派(主に、天神真楊流と起倒流)をもとに柔道を興した嘉納(万延元(1860)年生一昭和B (亜938)年没〉は、東京大学卒業後、東京高等師範学校長および文部省参事官を長く務めた教育. 界のエリートであり、また、明治42(1909)年からはアジア初のオリンピック委員を務め、目本 の体育界にも多大なる貢献を為した人物である。. 2)なお、日本のIJFへの正式加盟は翌年の1952(昭和27)年である。. 一1一.
(6) ものであるが、当初からしばらくの問は、「講道館規定」に則ったものであった1)。. そして、詳しくは本論において後述するが、これらの規定に相違が生じた基本的な 原因は、戦後のオリンピックに象徴される柔道競技の国際化により、他の競技スポー. ツ種目と同様、異文化間における競技者が共通に理解しうる試合規定がHFによって 求められたからであると考えられる。また、ことに1990年代に入ってからのIJFは、 「ダイナミックな柔道」をスローガンとし、テレビ・新聞等のメディアや観衆に対す. るアピールを意識してきたことも関わっていよう。1997(平成9)年、主要な国際大 会では競技者の一方がrブルー柔道衣ユを着用すると決定されたのもその一例である (だが、日本では現在もブルー柔道衣の着用は認められていない)。. 今日では、IJFへは187の国・地域が加盟しており、目本はその一つの加盟国であ る。「体重制」、「技評価のポイント化」、「罰則のポイント化」、「ブルー柔道衣」、「ゴ. ールデンスコア(延長戦)方式1等々、IJFが提案するr国際規定」の改訂について、. これまで日本は総意としては反対してきた。そして、「講道館ルールは本来の柔道を. 守るためにあるユ2)というのだが、一方では日本国内からも、「柔道が世界的に発展 した今、ルールを一つに統一すべきではないか」3)や、「国際ルールに一本化した方. がよい14》という声も出されてきた。つまり、日本における実践者の2つの規定に対 する捉え方は決して一様ではなく、交錯してきたのである。そして、「講道館規定」. も明治時代から一定不変であったわけではなく、細かな改訂5)が続けられ、ことに平. 成7年には「国際規定」にかなり近づくように改訂されている。. 1)「国際規定」が制定されるまでの世界選手権(第1回・1956年∼第5回・1967年)や東京オ リンピック(1964年)では「講道館規定」がほぼそのまま適用され、また、当初の「国際規定」 は「講道館規定!をほぼそのまま英訳したものであった。. 2)嘉納行光、柔道新闘・平成8年1月1目付1面、日本柔道新聞社.. 3)徳、柔道新聞・平成7年11月10日付1面、日本柔道新聞社.. 4)正木照夫、柔道新聞・平成8年1月20目付6面、日本柔道新聞社。 5)なお、「審判規定」の内容が改められた場合、斯界では通常、「改正」と呼ぶ。本文中におけ. る「引用文」が「改正」としている場合はもちろんそのまま使用するが、筆者自身が表現する場 合には、「改訂」もしくは「改変」とする。その理由は、「変化」したという事実に筆者の価値判 断をはさまず客観的に表現するためである。. 。2一.
(7) このような情況に対する筆者の問題意識は、これまで、「国際規定」にしても「講 道館規定」にしても、時々の改訂に際しては斯界の中枢部における考え方によるのみ で、例えば何らかの調査によって現場での実践者の意見が吸収され、それが反映され るなどの手続きがとられることはなかった、という点にある。「改訂」は、いわゆる 「上意下達」方式によってなされてきたといえる。筆者は基本的に、柔道に限らずス. ポーツにおけるルールの改訂は、実践者の二一ズ(求め)を十分に考慮したうえで為 されるべきものであると考える。さらにいえば、若い競技選手と年配の指導者や審判. 員との問には、規定に対する考え方にズレがあるようにも思われる。そのようなズレ を把握したうえで、規定のよりよい在り方を模索する必要があろう。. 以上から本研究の目的は、「国際規定」と「講道館規定」に対する実践者(選手、審. 判員、指導者)の認識・考え方の把握を通して、規定のよりよい在り方を考究するこ とにある。. 。3一.
(8) II.方法. 先述の目的を達成するための研究方法として、本研究では以下の手続きをとる。 ①事実・現象としての「講道館規定」と「国際規定」の主な相違点を抽出する。. ②それらの相違点を生じさせてきた、規定に対する考え方としての理由・背景につい てあらかじめ検討し、整理する。. ③上記の①および②にもとづいて質問紙を構成し、実践者へのアンケート調査を行う。. 一4一.
(9) 1.「講道館規定」と「国際規定」の相違点 平成18年現在に至るまでの、事実・現象としての「講道館規定」と「国際規定」 の主な相違点1)は、次の表1に示すものである。. 表1.「講道館規定』と「国際規定』の主な相違点 講道館規定(明治33年∼) 体重制. 国際規定(昭和42年∼). 昭和25年;学校柔道の課題 和27年;全国青年大会で実施 和39年;東京オリンピック以降に定着 たが、体重制無しで行う試合も多い. 昭和42年∼;体重制が前提となり、細分化 進められた. 技評価. 大正期∼現在1一本→技あり→有効. 昭和48∼現在;一本→技あり→有効→効果. 罰 則. 昭和56年∼現在;「教育的指導」有り. 平成2年∼;「教育的指導」の削除. 極的戦意の欠如1計5回で反則負け. 寝 技. 抑え込み時問130秒→一本. 極的戦意の欠如;計4回で反則負け. 抑え込み時間;25秒→一本. 25秒→技あり. 平成9年∼) 20秒→技あり. 20秒→有効. 15秒→有効. 10秒→効果 ブルー柔道衣. 不許可(平成18年現在まで). 平成9年∼義務づけ. 勝敗判定. 個人戦;戦後∼主に旗判定による. 個人戦;平成14年∼延長戦による. 審判員制度. 段位による資格条件有り. 段位による資格条件無し. 礼 法. 正面への礼の義務づけ. 正面への礼の義務づけ無し. 1)ここに挙げた相違点以外にも、「積極的戦意の欠如(消極的柔道)」や「標準的な組み方」筆. に対して罰則が与えられるまでの時間の長短(すべてにおいて「国際規定」の方が短い)や、「国. 際規定」における通称・「5秒ルール」(場内の外枠を示す赤畳に両足を着けて5秒以上停止した. 者に対する罰則)等、細かな相違点はまだある(ただし、「5秒ルール」は2006(平成18)年の 改訂で廃止された)。ここに挙げた相違点は、次節で述べるように、特に相違に根深い背景があり、. かつ、実践現場における問題として取り上げられることの多いものである。. 一5一.
(10) では次に、上記の各々の相違点を生じさせてきた、規定に対する考え方としての理 由・背景についてあらかじめ検討し、整理しておく。. 1)「体重制に対する考え方」 「体重制1とは、試合・競技において選手の体重を区分する制度であり、それは戦 後に新しく導入され実施されたものである’)。. ただし、戦前に「体重制」の発想が全く無かったわけではない。創始者の嘉納は「体. 重制」について、「軽量の者から希望があれば、体重制の試合をしてもよいが案外軽 量の者が強く、希望する者がいないからやらないのだ」2)、「体重制もわるくはない が、身体の小さい、目方の少ない日本人から、体重制にしてほしいといってはいけな. い。身体の小さい目方の少ない目本人が一番柔道は強いんだからな」3)と述べていた という。もちろんこれらの発言から嘉納の「体重制」に関する考え方のすべてを知る. ことはできないが、少なくとも「体重制」の発想自体は戦前にすでにあったこと、し. かし一方で、「案外軽量の者が強い」というように、柔道の強弱は体重によって決定. 1)なお、断っておくが、「体重制!にっいては正規の「国際規定」あるいは「講道館規定」に おいて明記されているのではなく、試合競技の運用に関する「コード」において定められている. ものである。IJFによる「スポーツコード(ORGANAIZINGANDSPORTINGCODEORGANIZATON RULES)」は、「国際柔道連盟規約と国際柔道連盟試合審判規定とともに、世界選手権大会、およ. び国際柔道連盟の責任と主催のもとで開催される全ての大会の運営を拘束する文書である」とさ. れるように、行事予定、年齢別、体重別、試合時間、試合方法などの運営面が規定されたもので. ある。これが初めて規定されたのは昭和42(1967)年であるが、日本の全柔連がこれに倣って r柔道大会・試合運営要領」を規定したのは、平成4(1992)年とかなり後になってからである。. 鮫島元成(1998)競技団体の組織化と発展.競技柔道の国際化一カラー柔道衣までの40年一.不 昧堂、PP.25−27。. 2)発言の時点は不明;小谷澄之、柔道新聞・昭和36年1月1日付6面、目本柔道新聞社. 3)東京高等師範学校柔道部出身の小谷澄之が昭和8年に嘉納に随伴して欧州で指導を行った際. の発言;工藤一三、柔道新聞・昭和35年9月20目付2面、日本柔道新聞社.. 一6一.
(11) づけられるものではない、と判断されていたことがわかる。この点について永木らは、. 嘉納はやはり江戸期の柔術以来継承されてきた、「柔よく剛を制す」あるいは「小よ く大を制す」という技術原理にもとづき、「体重制」の採用には踏み切らなかったの. であろうと推察しているn。つまり、「体重制」は、小さな者や力の弱い者でも大き な者やカの強い者を制することができるという柔道の根本的な技術原理に抵触するも. のであるがゆえに、戦前ではその導入・採用に対する反対意見が支配的であったと考 えられる2)。さらにこの考え方を補強するのは、すでに戦前の「全目本選士権大会」. 等ではすでに「年齢別」や「技術レベル別1に区分した試合が行われていたにもかか わらず、「体重制」は導入されなかったという点であろう。. このように、戦前における「体重制」の導入・採用は慎重を期すべき大きな問題で あるとされていたのだが、戦後においてそれが押し進められていった理由には、以下 で述べるように大きくは二つあるとみられる。. 一つは、戦後直ちにGHQ(連合国軍総司令部)によって禁止された「学校柔道」が 昭和25年に復活許可されるに際して、「今後は柔道を競技スポーツとして行うこと」. が制約され、そこでは早くも「体重制の採用」が一っの課題として挙げられたことに. よる。もう一つは、昭和39年の東京オリンピックでの柔道競技採用という出来事に よるものである。. 終戦直後の昭和20年、柔道、剣道、弓道等のr武道」はGHQによってr軍事技 術(Militarya貢s)」であり、かつ、「軍国主義または超国家主義養成の温床1とみな され、学校という公教育機関で行うことは全面禁止となった。しかしその後、主に柔. 道界と文部省は学校柔道復活へ向けて地道な運動を展開し、昭和25年5月に復活が. 1〉永木耕介・入江康平(2002)戦後柔道の「体重制1問題にみる競技観の諸相.武道学研究 Vo1.31,No。1,PP2−3.. 2〉補足しておくが、明治15年の柔道の創始以降、嘉納による柔道界の統率力は絶大なもので あった。例えば、嘉納が没する昭和13年までに講道館への直接の入門者は12万人に至っており、. 間接の門人はすでに明治末頃には全国に数十万人在ったが(老松信一(1976)柔道百年.時事通 信社,pp.90−93)、その間において、嘉納の柔道に対する考え方(思想)への反駁はほとんどみら. れない。また、組織的な内部分裂も起こってはいないことから、彼による統率力も強大さは明ら かであろう。. 一7一.
(12) 許可されることになる。その際、当時の文部大臣・天野貞祐は、GHQ総帥のダグラ ス・マッカーサー(DouglasMacAfthur)に対して、次のような請願書を提出している1)。. r終職直後、文部省が戦時色を彿拭するために、學校における髄育の教材から除外し、. これまでのその實施を中止してまいりました柔道は、その後文部省において、各種の. 資料にもとづき研究の結果、現在の柔道は、完全に民主的スポーツとしての性格、内 容をそなえ、その組織も民主的に運螢され健全に襲達しっっあって、もはや過去のよ うな軍國主義との連關性において、取り扱われるような懸念がなくなりましたので、. 學校スポーツの一教材として實施することはさしっかえないとの結論に達しました。. 進駐軍關係者において柔道を愛好される方々が増加しつっある今日、貴當局において もこのことの事實であることは、既におみとめくださっていることと存じます。(以 下、略)… ユ. そして、この前文でいうようなrスポーツとして行う」ためのr実施方法」として、 以下に示すように、「体重制」が記されたのである(傍、点・筆者)。. (二)実施方法にっいて. 1.段別の外に体重別、年令別の試合も実施するようになった。 2.儀礼的なものは殆どなくなり、スポーツとしてたのしく行われるように なった。. 3.戦時中行ったような野外で戦技訓練の一部として集団的に行う方法を全 面的に廃止した。 4.当身技、関節技等の中で危険と思われる技等を除外した。 (三)審判について. 1.誤審防止の徹底を期し主審の他に二名の副審をおき合議制にした。. 2.完全に勝敗が決しなくても技術、態度、体重等を勘案して判定勝ちを認 めるようになった。 (四)一般人の関心について. 1)大滝忠夫ほか(1951)学校柔道。不昧堂、pp。57−58。. 一8一.
(13) 1.新しい柔道に対する一般人の関心が高くなって観衆が多くなった。 2.特に女性の観衆が多くなった。. 3,明るい気軽なふん囲気をつくってきた。. (五)競技会について. 1.試合が戦前のように勝敗にとらわれなくなったので、ふん囲気が明朗に なった。. 2.競技設備や掲示報導の方法等を改善し、観衆の便宜を考慮するようになった。 3.出場者ならびに観衆に対して各種の儀式、作法等を強制しなくなった。 (六)柔道界の組織について. 1.柔道をスポーツとして愛好する人々によって民主的組織が結成された。. 2.役員ならびにその選出法、組織の運営は民主的になされた。 3.全国団体である全日本柔道連盟が、新たに、アマチュア団体である目本 体育協会に加盟している。. この際新しい柔道を学校スポーツ教材として實施することは適当な措置であると信 じますので、その實施をおみとめくださいますことをお願いいたします。. 一九五〇年五月十三日 文部大臣 天野貞祐 マッカーサー元帥殿. このように、戦前では行われることのなかった「体重制jが、柔道を競技スポーツ 化するための具体的な方法の一っに挙げられた。補足しておくが、日本で「体重制」. が採用された公式な大会は、昭和27年の文部省主催による「全国青年大会」からで あり、つまりこの請願書が出された昭和25年の時点では、「体重制」は未だ実際には. 一9一.
(14) 普及しておらず、「今後の課題」として挙げられたものであった1)。. では、もともと「体重制」の発想はどこから来たのであろうか。それは、すでに戦 前にオリンピック種目であったレスリングとボクシングから来たものといえる。特に レスリングと柔道は素手で組み合うという競技形態が共通しており、例えばすでに明. 治期において海外で活躍した幾人かの柔道家はレスラーとの異種格闘技戦を行ってお り、互いに肌を合わせて接触していた2)。. そして、例えばアメリカでは、rボクシングやレスリングが世界的に体重別になっ. ている以上、同一形態の柔道を分ける意見が出るのは当然である。目本の柔道が体重 別なしで試合しているということを不合理に考えている」3)と報告されているように、. 戦後の早い時期においてすでに種々の大会にr体重制」(主に四階級制)が採用されて いた。つまり、競技スポーツであるならば、「体重制」は競争条件の平等化という点. 1〉なお、永木によれば、この請願書の「実施方法について」のうち、「年令別」の試合はすで に戦前の昭和5年に行われた第1回・全日本選士権大会から実施されており、「当身技、関節技等. の中で危険と思われる技等」もすでに戦前から除外されたものであった。また第三項に挙げられ. ている「三人制による審判」にっいても、昭和4年に行われた初の天覧試合で採用されており、 第三項の「判定勝ち」の決し方についても正式には規定されていなかった。このような事実から、. 永木は、「特にルール面については、すでに戦前に実施されていたものや、その時点では未定のも. のが混在しており、その多くが当時において全く新しく改善されたとはいえないもの」であり、. したがってこの請願書は、GHQに対するいわば「便法」として提示された面があるとしている。. 永木耕介(2006)嘉納柔道思想の継承と変容一国際化に伴うr教育的価値1と「競技化促進」の 相克一.筑波大学大学院・人間総合科学研究科・博士論文(体育科学),pp.146−153。. 2〉例えば、講道館創設当初から嘉納を支えた高弟で、明治36年にアメリカに渡り当時の大統 領であったセオドア・ルーズベルトに柔道を教えた山下義紹は、アメリカ海軍兵学校の正課に柔 道が採用される際(明治37年)にルーズベルトの要求に答え、レスラーとの試合に応じている。 また、同じく高弟であった富田常次郎も明治38年にアメリカでレスラーとの試合を行っている。. なお、レスリングと並んで、ボクシングとの異種格闘技戦も世界を渡り歩いた柔道家によって数. 多く行われた。また下るが、東京高等師範学校柔道部出身の小谷澄之(後に十段)は、昭和7年 にレスリングの日本代表選手として第10回・ロサンゼルスオリンピックに出場している。. 3)伊集院浩、柔道新聞・昭和27年4月30日付3面、日本柔道新聞社.. 一10一.
(15) から当然の如く求められたものであった1)。. そして、目本では昭和30年頃から柔道競技のオリンピック参加が問題となり、さ らにr体重制の採用jが後押しされていくことになる。柔道競技のオリンピック参加. を提案し、また、そこでの「体重制の採刷を課題としたのは、やはりアメリカであ った2)。その背景には、柔道をよく知る日系人や軍人などによってアメリカの柔道熱 が盛り上がっていたこともあるが3)、当時、10Cの中心的メンバーにアメリカのブラ ンデージが在り(昭和20年から副会長、27年∼48年まで会長)、アメリカが10Cに直結し. た政治力を有していたこともあろう。. そして、1959(昭和34)年に第18回オリンピック大会が東京で行われることが決 定し(10C総会・ミュンヘン)、1960(昭和35)年に柔道が正式種目に取り上げられる ことが承認(10C総会・ローマ)、そして1961(昭和36)年に、東京オリンピックでの 体重制採用が承認された(UF総会・パリ)。. 「体重制」が初めて採用された東京オリンピック (1964・昭和39年)では、体重 区分は3階級(軽量級・中量級・重量級)であったが、っづく1972(昭和47)年のミュ. 1)なお、例えば昭和30年の時点では、イギリスに柔道を定着・普及させた第一人者である小 泉軍治が、「英国はじめヨーロッパ柔道連盟では体重制は認めない。しかし、イタリーやドイツで. は体重制を希望している」(小泉軍治、柔道新聞・昭和30年3月1目付2面、目本柔道新聞社) と述べているように、体重制の導入については欧州でもしばらく意見が分かれていたようである。. ちなみに小泉軍治の経歴は次のとおりである。もともと(嘉納と同じく)天神真揚流柔術を修行 した小泉は、1905(明治38)年に渡英、その後アメリカに渡ったが、1910(明治43)年から再び ロンドンに滞在し、以来、1975(昭和40)年に79才で死去するまで当地で柔道指導を続けた。1918 (大正7)年には谷幸雄とともに「武道会」(当初は「ロンドン武道館」と呼称)を創設している。. そして嘉納は、1928(昭和3)年に「武道会」を訪れ、小泉と面会している。1933(昭和8)年、. 嘉納に随行してf武道会jを訪れた小谷澄之は、「ロンドンには小泉、谷両先輩のように、英国婦 人と結婚されて長年この地で柔道の指導をされていた関係で、正しい柔道が普及していた」(傍点 ・筆者、小谷澄之(1984)柔道一路一海外普及につくした五十年一.ベースボール・マガジン社, p.39)と述べている。. 2)伊集院浩、柔道新聞・昭和27年4月30目付3面、日本柔道新聞社. 3)前掲、小谷澄之(1984)、pp.30430.. 一11・.
(16) ンヘンオリンピックと1976(昭和51)年のモントリオールオリンピックでは5階級 (軽量級・軽中量級・軽重量級・中量級・重量級)となって、徐々に細分化されていった1)。. また、昭和31(1956)年に東京で第1回が開催された「世界選手権大会」では、第4 回大会(昭和40・1965年)からオリンピックに倣い3階級が採られたが、昭和42(1967). 年の第5回大会から5階級となり、昭和52(1977)年の第10回大会からオリンピッ クに先行する形で7階級となった(オリンピックでは昭和55・1980年のモスクワ大会から7. 階級を採用)。また、「無差別級」については、世界選手権大会をはじめとして今目(平. 成18年現在)に至っても残存しているが、オリンピックでは、10Cの競技全体に対す る縮小政策のなかで、無差別級に勝つものは重量級の選手が圧倒的に多いという理由. により、1988(昭和63)年のソウル大会以降、廃止された2)。そのように、大会の運 営面からも無差別級の試合の存在意義が問われて現在に至っている。. 以上のような「体重制」の導入・採用の過程で、日本は対外的には反対の立場をと. った。例えば昭和47年のIJF総会(ミュンヘン)では、かって第3回・世界選手権の 監督であった松本芳三を中心とした日本代表団は次のように提案している。. 「柔道の技術は、体重無差別を建て前として構造化されている。体重無差別による. 形と乱取が柔道の二大練習方式であり、この練習成果を競い合うのが試合本来の立場. である。したがって、HFの世界選手権試合などで体重別制を細分化することは、柔 道技術の本質を大きく変える危険性があり、技術の進歩を遅らせることになろう。ま た優勝者の増加は、体重無差別の建て前を弱くさせる。(中略)現在における柔道の. 試合は無差別が本体となり、各国ではこれに体重別、階級別、年齢別などの試合が段 階的、方便的に併用されて、それぞれの効果をあげている。問題は体重区分の細分化 によって柔道試合のあり方が、レスリングのような体重別制本位の傾向に移り、柔道 の優れた特性を失うのではないかとする点にある。」3). 1)なお、昭和43(1968)年のメキシコオリンピックでは、開催地における体制の不備という理 由から柔道競技は実施されなかった。. 2)小俣幸嗣(1998)競技システム.競技柔道の国際化一カラー柔道衣までの40年一.不昧堂,P.159, 3)松本芳三(1975)柔道のコーチング.大修館書店,pp.374−375.. 一12一.
(17) しかしながら、永木の研究によれば、このような反対意見は目本柔道界の総意とは. 言い難いものであった。つまり国内では、昭和30年代を中心に「体重制の採用」に ついての賛否両論が渦巻いていた。永木は、昭和27年から発刊された「柔道新聞」 を中心に、「体重制」に対する意見を「保守型」、「折衷型」、「革新型」の3類型に分. 類し、検討している’)。その結果、東京オリンピックが開催されるまでの昭和30年 代において出された意見の総出現数が多く、また、「体重制」に反対する「保守型」、. およびその中間的な「折衷型」も出現している一方で、数的には「体重制」の導入・ 採用に積極的な「革新型」が最も多かったことが明らかにされている(図1参照)。. 25 . 〆∼♂譜■!∼/∼. 年. 図1.各類型からみた「体重制」に関する意見の出現数(「柔道新聞」による). r革新型」の意見は、やはりr体重制」がもつ合理性に依拠したものである。例え ば、岡部平太は、「カは則ち体重である」として、「精密に体重を測って、一人宛綱引. きをやらせて見ると三キログラム体重に差がある場合、百人やらせて九十五人までは. 体重の重い方が勝つ」2)といい、他にも重量挙げや相撲を例に挙げて、体重制は合理 的であると主張している。また、東京教育大学教授であった大滝忠夫は、昭和28∼35. 年までの全日本選手権をはじめとする通算991の国内試合を体重の大小から統計的に. 1)永木耕介(2006)嘉納柔道思想の継承と変容一国際化に伴う「教育的価値」と「競技化促 進」の相克一。筑波大学大学院・人間総合科学研究科・博士論文(体育科学),pp.325−335。. 2)岡部平太、柔道新聞・昭和27年8月20目付3面、日本柔道新聞社.なお岡部は、大正2∼6 年の間、東京高等師範学校柔道部に所属。後にアメリカヘ留学し、医学博士号を取得している (後に八段)。. 一13一.
(18) 分析し、「大の勝ちが49%、小の勝ちが27%、引分けが24%となり、大の勝率は断然 群を抜いて高い」1)として、体重制を支持した。. また、明らかな反対意見を唱える「保守型」では、「『術』であるから体重制の要な. し」2)や、「柔道は芸術なり一柔道の本質を無視した体重制を採用したことは、柔道. をことさらに非芸術化し、代下りに質の低下を招来するものとして絶対反対を叫びた い」3)などというように、基本的には戦前来の考え方を継承し、「柔よく剛を制す」. にもとづく芸術的な技の追究が求められた。また、r保守型」における別の視点から 発せられた意見として、(体重制は)「精力善用に制限を加えるj4)というものがある。 せいりょくぜんよう じたきょうえい. 戦前に嘉納は「精力善用・自他共栄」という教育的理念を唱えた。「精力善用」とは 「心身の力を善いことへ向けて最も有効に使用すべし」というものであり、「自他共. 栄」とは「お互いに助け合い譲り合いながら向上すべし」という平和思想にも結びつ くものであった(なお、今日でもそれら「八文字」は柔道のスローガンとして受け継がれてい. る)。そして、それらの理念は畳の上の柔道実践へ向けられただけではなく、生活諸 般に活かすことが最大の目的とされた。そして、このように「生き方への活用」を(畳 の上での勝敗よりも)重視する「精力善用・自他共栄」論に立脚すれば、体重制は、「お. 互いに学び合うべき相手を体重区分によって制限する」ことになり、柔道を行う価値 を減少させることになる、というわけである。すなわちこの種の意見は、「競技」と いう枠内における単なる勝ち負けを超越し、広い視野における教育的な価値観から「体 重制」に反対するものといえる。. だが、先に述べたように、UFを中心に「体重制」は確立されていき、また図1に 示したように、目本国内でも、「体重制」が既成事実となった東京オリンピック以降 は、それに関する意見も全般に減少して今目に至っている。しかしながら今日でも、. 例えば目本一の強者を決定する「全日本選手権」などは「体重無差別」で行われてお り、先に示したようなr保守型」が全く消滅したともいえない情況にある。特に国内. にあっては、これまでにも体重の軽い者が重い者に勝っというケースを賛美し支持す. 1)大瀧忠夫、柔道新聞・昭和36年9,月10日付4面、日本柔道新聞社.. 2)松本尚山、柔道新聞・昭和28年2月1目付1面、日本柔道新聞社. 3)広田秀一、柔道新聞・昭和36年6月1目付2面、日本柔道新聞社. 4)西文雄、柔道新聞・昭和29年1,月1目2面、目本柔道新聞社.. 一14一.
(19) る傾向には根強いものがある。例えば、昭和34年の全目本選手権での猪熊功選手の 優勝は、「体重制を必要としないことを証明した」1)といわれ、また同様に、昭和44 年の同大会での岡野功選手の優勝は、「久しぶりの柔よく剛を制すである」2)といわ. れ、そして、平成2年の同大会の優勝決定戦は体重130kgの小川直也選手と71kgの 古賀稔彦選手で争われたが、その結果準優勝した古賀選手は「古賀はよくがんばった。 軽量級のいい刺激になる」3)と評されたのである。. 以上のことから、「体重制に対する考え方」は、いわゆる「革新型」と「保守型」. が交錯し、それらが膠着した状態で今日に至っていると考えられる。本研究ではその 点について検証しておきたい。. 2)「技評価のポイント化に対する考え方」 すでに表1にも示したように、今目の「国際規定」と「講道館規定」の「技の評価」 にっいての相違点は、「国際規定」には「効果」があって、「講道館規定」にはそれが. ない、という点である。「効果」とは、技の評価の最下に位置するものであり、それ を有する「国際規定」では、最上に位置する「一本」から、「技あり」→「有効」→ 「効果」へと下る4段階評価となる。したがって、「効果」を有さない「講道館規定」. の3段階評価に比してよりr細分化」されており、元来「一本」しかなかった技の評 価はより「ポイント化」されているということになる。では、そのように技の評価が 細分化され、ポイント化されてきた経緯をみてみよう。. 「講道館規定」では、明治33年にそれが制定されて以降、「一本」とは「完全・十 分なる技1のこととされてきた。そして、例えば「投技」の「一本」では、「大体に いきおい おいて仰向けに、相当のはずみまたは勢を以て、相手を投げる」という条件も、今 目に至るまでほとんど変化せずに維持されてきた4)。. 1)広田秀一、柔道新聞・昭和34年5月20目付2面、日本柔道新聞社.. 2)広田秀一、柔道新聞・昭和44年5月20日付4面、日本柔道新聞社. 3)神永昭夫、柔道新聞・平成2年5月10日付2面、日本柔道新聞社.. 4)なお、柔道の技術体系はr投技、固技、当身技」の3種類から成っており、試合競技でr投 技」とともに用いられてきた「固技」については後述する。. 一15一.
(20) そして「技あり」も、すでに明治33年の規定に顕れており、そこでは「投技にし て十分の一本と見なし難きも技として相当の価値ありと認められるべきとき」と条件 づけられている。より詳しくいえば、「技あり」とは、「一本」に対する「八分∼九分」 (いわば80%∼90%の完成度)の「技」のことである1)。そして、明治33年の規定当初. において注目すべきは、「不十分なる技(技ありのこと;筆者注)幾回あるも審判者が. 『合して一本』と掛声せざる前、試合者何れかに於て十分なる一本の勝を得たるとき は其前に於て得たる不十分なる勝は総て効力を失ひ消滅するものとする」(傍点・筆者). と示されているように、「技あり」を何回取ってもそれが審判によって認められない. 時は「一本」とはみなさず、勝ちには至らない、とされていたことである。つまりこ. のことから、柔道においてはr一本」こそが勝敗を決定づけるものであり、如何にそ れが重視されていたかが知れる2)。. そして、大正14年の規定改訂において、「技あり2回で一本」とされた。その理由 について、詳細は判明しないが、大正時代には学校間対抗試合等が盛んとなって全般 に試合数が増加したことから、便宜上、「八分∼九分」・の技を2回取れば「十分」(っ まり、r一本」)とみなすようになったと推察される3)。だが、そこでも重要なのは、「技. あり」が「一本」の半分の評価(っまりr五分」)では決してなかったことである。つ まり、「技あり」とは定量化されたポイントではなく、あくまで「一本」に迫るもの. であり、技の質を評価するものであったのである。なお、戦後の昭和26年の規定改 訂に至るまでは、「技あり1回」では確かな勝ちは得られなかった。言い換えれば、. 1)嘉納治五郎(1916)柔道審判規定解説.柔道2(6),嘉納冶五郎大系2所収,本の友社,p.403,. 等1なお、以下において、嘉納が遺した著述のほとんどを収録した「嘉納冶五郎大系」について は、「大系」と略記する。. 2)なお、大正14年の規定改訂に至るまで、「試合者の優劣は2回の勝負にて決すこと」(つま り、「二本勝負」)が原則とされていた。その理由にっいての詳細は判明しないが、柔術時代から. 引き継ぐ「武術としての真の実力」を試すという意味で、「二本」取ることが求められたものと考. えられる。尾形敬史(1998)審判規定の変遷.競技柔道の国際化一カラー柔道衣までの40年一, 不昧堂,P.44.. 3)なお、後述する嘉納の考え方からもうかがえるように、大正14年の規定改訂より以前にも、 便宜上から「技あり2回で一本」とされるケースは概ね定着していたようである。. 一16一.
(21) 戦後の昭和26年の規定改訂から1回の技ありの取得が「優勢勝」に結びつくことが 明記されたのであるが、その規定(第31条)でも、r但し、『技あり』をとってもそ の試合者が見苦しい試合をしたときは必ずしも『優勢勝』とはならない」(傍点・筆者). とされていた。この「見苦しい試合をしたとき」という点にっいては、「罰則規定」. とも関わるため後項において述べるが、戦後初の規定改訂である昭和26年の時点か ら、「技ありを取れば勝ちになる」という、「技のポイント化」がなされ始めたといえ る。. 次に、「有効」についての考え方は、以下のように、嘉納による大正5年の「柔道 審判規定解説」1)によく示されている。. わざ 「九分の業の後にさらに八分か九分の業が掛れば合せて一本とするのがもちろん当. 然であるが、最初六分の業があってその後また六分や七分位の業があったならば、そ の二本を合せて一本とすることは出来ぬ。」. ここでいう「九分の技」とは先述のように「技あり」のことで、「六分∼七分の技」. というのが「有効」のことである2〉。ここでも示されているように、「技あり」はあ. くまで「一本」にほぼ近い技であるから「2回で一本」であるが、その下位の「六分 ∼七分の技」(っまり、r有効」)は「一本」へは結びつかない「技」であるとして、そ. れらは明確に区別されていた。そして、現行(平成18年現在)に至るまで、r『有効』. は何回取っても一回の『技あり』に及ばない」ということは一貫して不変であり、そ の点では嘉納による「技の質的評価」に関する考え方が継承されていることになる。 そして、「国際規定」では、すでに述べたように、「有効」の下位に「効果」が設け られている。「効果」の導入は、「国際規定」が制定されてから5年後の、昭和48(1973). 年、第8回・世界選手権の総会(スィス・ローザンヌ)で決定してから以降である。「効. 果」の導入経緯について調査した尾形によれば、「効果」を「宣告ジェスチャーする ことは、スポーツ委員会で多数の反対意見があり、総会でも多数の棄権票がありなが. 1)嘉納治五郎(1916)柔道審判規定解説.柔道2(6),大系2,p.403.. 2)なお、このr有効」は、昭和50年の規定改訂まではr技ありに近い技」と表現されていた。. 一17一.
(22) ら、僅か一票の差で決定され」たという1)。さらに、それを受けた目本では、r『効果』. 程度の技の効果は、複雑な総合判定を行わなければならない試合においては、その一. 要素にしか過ぎないという場合もあるので、明示することは弊害が多いとの結論に達 し、国内では採用しないことにした」(傍点・筆者)2)。このような経緯からうかがえ. るのは、「国際規定」には勝敗を目に見える形で決定づけたい(っまり、できるだけ客. 観化したい)という志向性があり、その背景にはやはりレスリングやボクシングのポ イントによる勝敗の決定方法が影響しているように思われる。つまりそれは、競技ス ポーツとしての柔道競技の捉え方といえる。そして、「講道館規定」では、先述のよ うに基本的には「一本」を中心とした「技の質的な評価」にこだわってきたのである が、やや異なる視点からうかがえるのは、先に示した、「『効果』程度を問題とせずに、. 複雑な総合判定を行わなければならない」という点である。このr複雑」というもの の中には、昭和26年の規定においても示されていた、「見苦しい試合をした時」とい う試合態度の問題が含まれており、この問題をさらに拡大して捉えれば、やはり嘉納. 時代から重視されていた、「人間教育としての柔道であるべし」という価値観にも関 わるであろう。つまり、勝敗の決着のみが試合の目的ではなく、試合は教育の一手段 である(したがって、r効果」という些末な技の評価に囚われない)という価値観が作用し ていると捉えられるのである。. さらに言及しておけば、この捉え方の違いは、表1でも示した、「旗判定か、延長 戦か」という勝敗の決定方法の違いともっながる。従来から「講道館規定」では、時 問内に勝敗が着かない場合(極論すれば、r一本」を取れない場合)には、r引き分け」と. いう決着の付け方が存在してきた。っまり、何が何でも勝敗を決定するという強い志 向はなく、その理由は、やはり「試合は教育の一手段」であり、結果としての勝ち負. けよりも、「試合から何を学んだのか」の方が重要であるという考え方によろう。だ. が、ことに戦後では、競技スポーツとして行う以上、時問内においてできるだけ客観 的な形で勝敗を決することが求められ、先のr(試合者の態度・精神も含めた)複雑な総. 合判定」を審判員が行うという、「旗判定」が用いられてきたのである。しかし、三. 1)尾形敬史(1998)審判規定の変遷,競技柔道の国際化一カラー柔道衣までの40年一,不昧 堂,p。70.. 2)試合審判規定研究委員会議事録・昭和48年12,月24目付.. 一18一.
(23) 人の審判員による「旗判定」という方法によっても、以前として主観が作用する面を 払拭できないということから、「国際規定」では「延長戦」(ゴールデンスコア方式と呼 ばれ、試合者のどちらか一方がポィントを奪った時点で競技が終了する)」の採用に至るわけ である。. また、ここで「固技」としての「寝技」の評価法の相違について述べておく1)。「固. 技」,は「抑え込み技、関節技、絞技」の3種類から成っているが、そのうち、「関節 技、絞技」についてはケースは少ないが立った状態で施される場合もある。そして、 立った状態で施される技群(つまりr投技」と、希ではあるがr関節技、絞技」)をその現 象面から「立技」と呼ぶのに対して、寝た状態で施される技群(っまり、「抑え込み技、. 関節技、絞技」)が「寝技」と呼ばれてきた。そして、「関簿技、絞技」には「一本」 の判定しかない(技を掛けられた者がr参った」の合図をするか、試合続行不能に陥った場合. にのみ「一本」となる)が、「抑え込み技」はそれが施されている時間の長さによって、. 投技と同様、「講道館規定」では「一本、技あり、有効」、「国際規定」ではそれらに. プラスして「効果」で評価される。そして、すでに表1に示したように、「国際規定」. の方がそれら各々の時間が短縮されている。「国際規定」が「抑え込み」時間を短縮 している理由には、完全な「抑え込み」に入れば逃れることが難しいため「講道館規. 定」のr一本が30秒」では長すぎるとの判断があり、またそのことには、抑え込み が長時間に及べば「見る側が退屈する」という点や、全体の試合時間を短縮したいと いう運営上の問題も考慮されているように思われる。だが、かっての日本では「寝技1 の時間を無制限にとる(っまり、どちらかがr参った」するまで)といったローカル・ル. ールも存在しており、ことに旧・高等専門学校における対抗試合では「寝技」が重視 され、このことが「寝技」の技術開発・向上に多大な貢献を為してきたといわれてい る。「寝技」が重視された理由には、技術の向上が「立技」に比べて早い、「一本」が. 取りやすい、そして、始めから寝ているので投げられることがない、などがあった。. 現行の規定では、「寝技において試合者双方の動きが止まった場合には『待て』とな って立たせる」.ことになっており(この点では現行のr講道館規定」とr国際規定」に大き. な違いはない)、そのことに対して、「もっと寝技の時間を長くとってほしい」という. 1)なお、先にも触れたように、柔道の技術体系はr投技、固技、当身技」の3種から成ってい るが、試合競技では危険性の点から当身技が除かれ、r投技、固技」の2種で行われている。. 一19一.
(24) 選手による声を、筆者もしばしば耳にレてきたところである。したがって、以上のよ. うなr抑え込み時間」やr寝技の攻防への時間」に対する今目の実践者の捉え方につ いても本研究で検証しておきたい。. なお、現行の「国際規定」でも、以上で述べた「寝技」・r立技」を問わず、「『有 効』は何回取っても『技あり』に至らず、『効果』は何回取って,も『有効』に至らな. い」となっており、その点では、「講道館規定」と同じく、嘉納時代の技の質的評価 法に従っている。ただし、これまでにも、例えば一時期ヨーロッパから、「一本」を14. 点、「技あり」を7点、「有効」を5点、r効果」を3点とし、「有効」を3回とれば「一 本」相当の15点となって(また、r効果」を5回とれば同じくr一本」相当となって)試合. が終了するという「ポイント累積制」の考え方が発想されたこともあった’)。また、. 日本においても、「スコアの累積も賛成論が多い。.よほどカの差がないと一本で勝て. ないのが最近の競技柔道である。『効果』二つで『有効』と累積するのはそれなりの. 意味がある』2)という意見も出されている。このように、嘉納時代からの技の質的評 価法が今後も維持されるのかについては、予断を許さない情況となっている。. 3)「罰則のポイント化に対する考え方」 「罰則」には様々な種類があるが、今目の試合競技の場において、最も頻繁に試合 者に与えられるのは、「積極的戦意の欠如(消極的柔道)1 対する罰則」である3)。. そして、今日ではこのr積極的戦意の欠如(消極的柔道)に対する罰則」について、 「講道館規定」と「国際規定」に相違が生じている。すでに表1に示したように、「講. 道館規定」では、最初に与えられる「教育的指導」は「罰則」扱いではなく、2回目 以降から「指導」という「罰則」としてカウントされ、順次、累積されて「注意」、 「警告」、そして計5回で「反則負け」に至る。それに比して現行の「国際規定」で. は、「罰則」としての「指導」から始まり、「講道館規定」よりも1回少ない計4回で. 1)柔道新聞記者(無記名)、柔道新聞・昭和63年9,月10日付2面、目本柔道新聞社. 2)徳、柔道新聞・平成9年4月1日付1.面、日本柔道新聞社.. 3)もちろん、あらためて断るまでもなく、その他の罰則の主なものには、武術としての基本的 な技術特性から生じる、「危険な技や行為に対する罰則」がある。. 一20一.
(25) 「反則負け」に至る1)。. このr積極的戦意の欠如(消極的柔道)に対する罰則」は、一見、細かな違いのよ うにみえるが、先述したように実際に試合現場において多発され、かつ、それが勝敗. に結びつくケースも多いため、選手と審判員にとってはかなりの違いとして認識され ているように思われる。したがって、本研究ではこの点についても今日の実践者によ る認識を検証しておきたい。. 遡って、r積極的戦意の欠如(消極的柔道)に対する罰則」は、戦前のr講道館規定」. では明文化されたことはなく、したがって明確な「罰則」として扱われたことはなか った。つまり、試合中に逃げ回ったり、一向に攻撃を仕掛けないなどといった行為や. 態度は、r暗黙」のうちに戒められていたと思われる。この点について文化的な背景 から考察するなら、江戸時代の柔術において形成されていた「恥を知れ」という武士 的観念が柔道へと継承されたものであり、それをいちいちルールとして明文化するま でもない、ということであったのだろう。. そもそもこの種の「罰則」は、先項でも触れたが、昭和26年の講道館規定の改訂 における「見苦しい試合をしたとき」という条項から始まったといえる。繰り返すが、. その規定から1回の「技あり」の取得が「優勢勝」に結びつくことが明記されたので あり、「但し、『技あり』をとってもその試合者が見苦しい試合をしたときは必ずしも 『優勢勝』とはならない」(第31条;傍、点・筆者)とされたのであった。つまり、r見. 苦しい試合をしたとき・・」という条項は、当時において技のポイント化による「優 勢勝」が多くなる傾向に対し、そのような「勝ち方」への「歯止め」として必要であ った(具体的にいえば、「技あり」を取ったからといってその後逃げ回るような戦い方を許さな. いためのr罰則」であった)、と解釈できる。しかしながら結果的に、この条項の設定 がその後の「罰則」のポイント化を進めることになる。なぜなら、ますます客観的な 「勝敗の決定」が求められるという流れの中で、「技あり」だけでなく、「有効」とい. う技評価によっても「優勢勝」が認められるようになり、それに対応して整合性をも. 1)なお「国際規定」では、平成15(2003)年の改訂から「注意」、r警告」という呼称は無くな. り、すべての「罰則」は「指導もしくは反則負け」の2種に絞られており、この呼称の相違とそ れによる罰則の重みの相違もしばしば実践者に戸惑いを生じさせている。. 一21一.
(26) たせるためには、r見苦しい試合をしたとき」という表現では曖昧すぎ、r罰則」も評. 価・段階づけられる必要が生じていったからである1)。そして、しばらくの議論を経 た後に、昭和33年の規定改訂で、「警告」がr技あり」と同等、「注意」が「有効」(た. だし、当時に用いられた表現はr技ありに近い技」)と同等と明記され、「注意1回は、優 勢勝判定の資料となるj(第31条)とされた2)。. このように、昭和30年代に規定された、「技と罰則」の評価関係とそれらのポイン ト化は今目へと受け継がれ、もはや定着しているが、その後もしばらくの間、それら について反対意見が出されている。以下にその代表的なものを挙げておく。. r本来、柔道の勝負は『一本』または無勝負(引き分け)の二種しかなかったもの だが、多勢の選手によってトーナメント法が採用されるにおよんで、『判定勝ち』が. 必要となってきた。『技あり』は一本に少しう足りないが、技の効果(歩合い)を見 るために宣告するようになった。だが、『技あり』を幾つとっても一本にならなかっ. た時代もあった。そののちに『技あり』二つで『合わせ技』という奇妙な『技』をつ くったのである。(中略)口を開くと、『一本尊重』という人は多い。たしかに『一本』. の冴えを失なってきた。最近の柔道はおもしろくもおかしくもないという不評を買っ. た。その原因は、何といっても審判規定である。無理をし、危険をおかして、一本を とらなくても、柔道の勝負には勝てるからである。この弊害はどの試合にも随時随所 にはっきり現れている。(中略)一本が理想ではなく、技ありが理想である、とする 規定の改悪や、技ありと警告を合わせて『総合勝ち』などというバカげた規定をつく って得意然としているのは情けない。」3)・. 1)ただしここで断っておくが、「見苦しい試合をしたとき」として当時特に問題視されていた. のは、相手の攻撃から逃れるためにr場外に出ること」であり、一定の時間、攻撃動作をとらな いこと、つまり積極的戦意の欠如に対するr教育的指導」が問題視されたのは、後になってから である。. 2)ちなみに、昭和36年の「準改正」でr技あり」と「警告」を合わせて「一本」とみなす 「総合勝」が明記された。. 3)黙雷、柔道新聞・昭和45年6月1日付1面、目本柔道新聞社.. 一22一.
(27) r僅差だ、有効だと審判される今の規定では選手も、効果や有効、場外など考えて 思いきりのいい、文字通りの熱戦激闘という壮絶な試合は出来ないのではなかろうか。. 何が何でも勝負をつければいい、試合のための試合という審判の点数かせぎのための 試合では、何の味も魅力もなくなり、柔道の本質をだんだん失っていくと私は思う。」1). そして、冒頭でも触れたように、「国際規定」が制定された昭和42(1967)年当初. は、ほぼ完全にr講道館規定3に依ったものであったため2)、先述のr講道館規定」 における「技と罰則」の評価関係とそれらのポイント化ももちろん「国際規定」に導. 入された。そして今日の「積極的戦意の欠如(消極的柔道)に対する罰則」の相違点 となっている「教育的指導」は、「国際規定」では昭和49(1974)年からその表現が. 用いられるようになり、「講道館規定」でそれが明記される昭和56(1981)年よりも. 実は早かった。この点については、国際大会において技によるポイントを先取した選 手がその後守りに入って攻撃しないというケースが多く生じたこと、また、先に触れ たように目本では、いわば「恥」の領域であるこの種の罰則を強いて明文化すること に抵抗があったからであろうと思われる。. だがその後、「国際規定』では平成2年(1990)の改訂で「教育的指導」は無くな り、それを犯した1回目から「指導」として罰則化された。その理由の詳細は不明だ が、おそらく外国人の選手・審判にとって「教育的指導」の意味が十分に理解されず、. 他の「罰則」と同様に「ダメなものはダメ」とはっきり規定した方が分かりやすい(っ まり合理的である)という意見が勝ったからであろう。尾形は、「国際規定」で「教育. 的指導」が削除された理由への考察を通して、r(国際規定では)反則は反則として位. 置づけ、(中略)そこには、審判員の裁量や教育的な配慮が入り込む余地はなく、極 めて合理的・単純である」3)と結論づけている。. そして、このように「罰則」のポイント化がなされてきた結果、特に「技の評価」. 1)武田力、柔道新聞・昭和50年11月10日付2面、目本柔道新聞社. 2)「国際規定」の原案作成は、当時IJFのスポーツ理事であった目本人・川村禎三(後に九段). が行い、昭和42年のソルトレークのIJF総会で承認された。. 3)尾形敬史(1998)審判規定の変遷.競技柔道の国際化一カラー柔道衣までの40年一,不昧 堂,P。83,. 一23。.
(28) との整合性について、合理的な観点からは大きな問題が残されていることになる。つ. まり、すでに先項でみたように、r技評価」が質的評価であるのに対して、r罰則」は 累積評価(っまり、量的評価)となっていることである。その点からいえば、一時期に. ヨーロッパから発想されていた、r有効を3回取れば(あるいは効果を5回取れば)、合. 計ポイントが一本相当となって試合が終了する」という評価法もある意味では説得力 があり、無視できないものがある。 さらに、現行の「技の質的評価法」の点から付け加えておけば、「一本」、「技あり」、 「有効」、「効果」’. いった評価はもちろん審判員が判定を下すものであるため、当然. ながら、その判定が正確なものかどうかが厳しく問われることになる。つまり、現行 の評価法では、片方の選手が「有効」をたとえ数回取っても、他方の選手が「技あり」. を1回でも取れば、「技あり」を取った選手が勝ちとなるため、時々の判定において、 r技ありなのか有効なのか」(また同様に、r有効なのか、効果なのか」)がシビアなもの. となるのである。このようなことから、特に戦後では判定の客観化をはかるために副. 審を伴う三人審判員制(主審1名、副審2名)が採られ、また、主な国際大会では「誤 審」等の間題に対応するための「審判諮問委員(JURY)制度」1)が導入されるなど、 努力が払われてきた。日本(全目本柔道連盟)でも、平成18年度から国民体育大会(於. ;兵庫県)等ではこの「JURY制度」に近いものが試行されているが、国際大会での その制度の導入に比べれば、かなり遅れているといわざるえない。また、IJFでは「国 際規定」制定当初の昭和42(1967)年から「公認審判員制度」が導入されているが、. 日本でのその導入も平成2年になってからとやはり遅かった。この辺りの審判員制度 に対する考え方の相違についても次項で確認しておきたい。. 4)「審判員制度に対する考え方一特に段位との関係から一」 ここでは特に、審判員制度に関わるもののうち、審判員を何らかの客観的な手続き. によって公認する、「公認審判員制度」を中心にみておきたい。というのは、日本の. 1)r審判諮問委員(JURY)制度」の機能は、①審判員の申し出により相談に応じる、②審判員 の重大な過失に対してこれを助ける、③諮問委員会の意見に沿って、審判員がその責任において 最終的に決定する、というものである。小俣幸嗣(1998)競技システム.競技柔道の国際化一カ ラー柔道衣までの40年一,不昧堂,pp.139441,. 。24璽.
Outline
関連したドキュメント
高(法 のり 肩と法 のり 尻との高低差をいい、擁壁を設置する場合は、法 のり 高と擁壁の高さとを合
出来形の測定が,必要な測 定項目について所定の測 定基準に基づき行われて おり,測定値が規格値を満 足し,そのばらつきが規格 値の概ね
計量法第 173 条では、定期検査の規定(計量法第 19 条)に違反した者は、 「50 万 円以下の罰金に処する」と定められています。また、法第 172
新設される危険物の規制に関する規則第 39 条の 3 の 2 には「ガソリンを販売するために容器に詰め 替えること」が規定されています。しかし、令和元年
・分速 13km で飛ぶ飛行機について、飛んだ時間を x 分、飛んだ道のりを ykm として、道のりを求め
海洋のガバナンスに関する国際的な枠組を規定する国連海洋法条約の下で、
第76条 地盤沈下の防止の対策が必要な地域として規則で定める地
従って,今後設計する機器等については,JSME 規格に限定するものではなく,日本産業 規格(JIS)等の国内外の民間規格に適合した工業用品の採用,或いは American