の写本系統に関する試論
巻十四を事例として
Engishiki
: Using Scroll 14 as a Case Study
美
式
』
は
律
令
の
施
行
細
則
集
で
あ
り、
官
人
の
職
務
遂
行
上
の
諸
規
定
を
(( (、古代から中世を通じて公事の典拠として重
(( (が、徳川家康が諸法度を定めるに際
(( (など、近世に至っても規
(( (に及び、内
服
裁
縫
を
司
る
役
所
に
関
す
る
規
定
を
収
め
る
巻
十
四(
縫
殿
式
)
は、
模造に際して参照され、記述内容の検証が化学的な方法でおこなわれて
い
る。
し
か
し
な
が
ら、
最
も
基
礎
と
な
る
本
文
に
つ
い
て
は
未
だ
に
い
く
つ
か
の問題を抱えている。というのも、国史大系など『延喜式』活字本の底
本には江戸時代に刊行された流布版本(享保八年本)が使用されるもの
の
、
そ
の
底
本
や
版
本
刊
行
に
至
る
ま
で
の
経
緯
は
詳
ら
か
で
は
な
い
(( (。
ま
た
近
年
、
虎
尾
俊
哉
編『
訳
注
日
本
史
料
延
喜
式
』
〔 集 英 社、 二 〇 〇 〇 ~ 一 七 年 〕で
は
五十巻が揃った写本のなかで比較的善本とされる国立歴史民俗博物館所
蔵土御門家旧蔵本が底本として使用されているが、巻十四を含むいくつ
かの巻には古写本が存在しており、古写本を措いて近世写本を底本とす
ることの妥当性が明確には示されていない
(( (。必ずしも古写本が原形を伝
えているとは限らないものの、巻十四についていえば、古写本により文
字を補っている箇所もある。
『延喜式』が多分野で活用されている現在、
歴
史
学
の
立
場
か
ら
は
信
頼
の
お
け
る
本
文
を
提
示
す
る
必
要
が
あ
る
が、
「
校
訂
本の作成にあたっては、写本系統の確定なしの、恣意的な校訂は許され
ない
(( (」と問題が提起される如く、まずは古写本と近世写本の関係、近世
写本間の優劣関係などを巻毎に検討し、その上で写本系統の全体像を見
通すことが肝要であろう。
そこで本稿では、多分野で活用される巻のうち、古写本と近世写本が
共
に
伝
存
す
る
巻
十
四
を
取
り
上
げ
、
諸
写
本
の
異
同
の
検
討
を
通
し
て
『
延
喜
式
』
の写本系統の素描を試みる
(( (。
第一節
巻十四の写本
行
論
に
先
立
ち、
『
延
喜
式
』
巻
十
四
を
有
す
る
諸
写
本
に
つ
い
て
略
述
し
て
お
きたい
(( (。
一 古写本江
戸
時
代
以
前
に
遡
る
古
写
本
と
し
て、
『
延
喜
式
』
五
十
巻
を
全
備
し
た
も
の
は現時点で発見されていない。最もまとまって伝存する東京国立博物館
所蔵九条家旧蔵本は、取り合わせ本のため書写年代に開きがあるが、概
ね
平
安
時
代
か
ら
鎌
倉
時
代(
十
世
紀
~
十
四
世
紀
)
に
か
け
て
の
写
本
で
あ
る
((1 (。
『
延
喜
式
』
の
写
本
の
な
か
で
も
最
古
級
の
も
の
と
し
て
注
目
さ
れ
る
が、
巻
十
四
を含む計二十三巻分を欠いている。九条家より分かれた一条家にも平安
時
代
末
期
な
い
し
鎌
倉
時
代
の
書
写
と
み
ら
れ
る
写
本(
五
巻、
巻
一
~
五〈
四
時
祭
式
上
下・
臨
時
祭
式・
大
神
宮
式・
斎
宮
式
〉)
が
伝
わ
っ
て
い
た
が、
昭
和
二十年(一九四五)三月、空襲により灰燼に帰した
((( (。一条家には巻子本
とは別に、二十冊よりなる冊子本(巻十三〈中宮式
・
大舎人式
・
図書式〉
欠、二巻分を一冊とする)も伝来していたが、巻子本と同様に戦災で焼
失
し
た
と
さ
れ
る
((1 (。
公
家
で
は
他
に、
天
理
大
学
附
属
天
理
図
書
館
所
蔵
三
条
家
旧蔵本(鎌倉時代中期書写)が知られるも、巻十二のみ、それも中務式
の残闕である
((1 (。また、
『延喜式』は政務や儀式の典拠としてのみならず、
神
祇
の
面
で
も
重
用
さ
れ
た
所
以
か、
巻
八(
祝
詞
式
)
や
巻
九
・
十(
神
名
式
上
下)といった特定の巻のみが伝存する傾向も見受けられる
((1 (。したがって
巻十四を有する唯一の古写本は、天野山金剛寺所蔵本(以下、金剛寺本
と略称
((1 (する)ということになる
((1 (。
金剛寺は大阪府河内長野市に所在する真言宗御室派の名刹である
((1 (。平
安時代末期に八条院(暲子内親王)の祈願所となり、彼女の所領はのち
に大覚寺統へと伝領され、南北朝時代には天皇や上皇の仮在所、特に南
朝
方
の
拠
点
と
な
っ
た。
こ
の
頃、
学
僧
禅
恵
が
教
学
に
関
わ
る
多
く
の
書
物
を
招来している。
『延喜式』が金剛寺に伝わった経緯は詳らかではないが、
醍醐寺や真福寺など真言宗の寺院は往々にして古写本を蔵しており、本
写本もまた古くから金剛寺に伝存した可能性がある。あるいは天皇や上
皇の仮在所となったことが史料を引き寄せる契機となった
((1 (か、禅恵の如
く後人の収集にかかる典籍の一つに『延喜式』が含まれていたか、など
いくつかの解釈が可能であろう。
金
剛
寺
に
伝
わ
る『
延
喜
式
』
は
巻
九(
神
名
式
上、
首
尾
欠
)・
巻
十
二
(
中
務
式
残
闕
)・
巻
十
四・
巻
十
六(
陰
陽
式
)
の
四
巻
で
あ
る。
大
正
七
年
(一九一八)
、古文書整理の際に巻九の第十八紙から第二十二紙が発見さ
れ、その後、昭和十一年(一九三六)に同巻の第一紙から第十七紙およ
び巻十二・巻十四・巻十六が発見された。いずれも字姿や料紙の風合い
から、平安時代末期の書写とみられている。
巻十四は首尾を完存し、十八紙よりなる。天地墨界縦罫が引かれ、一
行の字数は二〇字前後である。旧表紙は翻して貼り直され、第一紙との
紙継部分に
「行宗」
という墨書がみえる
((1 (。また、
紙背の紙継部分には所々
に墨印が捺されている。かかる特徴や本文の筆致は巻十六とよく似てい
る。本文には朱墨でヲコト点や声点、合符、傍訓が施されており、追筆
(
補
入
や
訂
正
)
が
ま
ま
見
え
る。
ヲ
コ
ト
点
と
は
漢
文
を
訓
読
す
る
際
の
符
号
の
一種で、漢字を正方形に擬し、その四隅や中央に「・」などの形の符号
を付して読み方を示す。本写本には左下から右廻りで四隅をテ
・
ニ
・
ヲ
・
ハ、中央をノと読ませる明経点が用いられている。巻末には次の奥書が
存する(読点は筆者による。以下同じ)
。
大治二年七月十二日、以秘本
移点了、
(花押)
本文に先行して訓点などを書き写すことは不可能であり、この奥書は本
文
が
大
治
二
年(
一
一
二
七
)
七
月
以
前
の
書
写
に
か
か
る
こ
と
を
示
し
て
い
る。
また朱点については、巻十二に次のような奥書がある
(11 (。
朱点故允亮朝臣説也、墨点者故□
〔師ヵ〕□□□
〔説□
也□
但ヵ〕至于朱墨相通之処者、依朱不点墨、
本定也、す
な
わ
ち、
明
法
博
士
で
あ
り、
「
中
古
之
名
儒、
法
意
之
達
者
也
(1( (」
と
評
さ
れ
た
惟宗(令宗
(11 ()允亮(?~一〇〇九)の説(訓み方)を朱点で、故某の説
を
墨
点
で
示
し、
両
説
が
相
通
じ
る
箇
所
は
朱
点
の
み
を
付
し
た
旨
を
記
し
て
い
る
(11 (。この奥書には年紀がないが、田島公氏は「故
・允亮朝臣」という表記
から、允亮が死去してからそれほど経っていない頃の奥書ではないかと
推測している
(11 (。巻十四は「移点」のみ伝え、それが允亮の説か否かは不
明
で
あ
る
が、
巻
十
二
と
巻
十
四
の
加
点
状
況、
仮
名
や
注
記
の
筆
致
は
似
て
い
る
(11 (。なお、允亮は遅くとも寛弘四年(一〇〇七)には河内守として同国
に
赴
任
し
て
お
り
(11 (、「
允
亮
朝
臣
説
」
は
允
亮
が
赴
任
後
に『
延
喜
式
』
を
講
じ
た
ことで継承されたか、あるいは京で允亮に学んだ明経家や学僧等により
金剛寺に継承されたか、そもそも「允亮朝臣説」が書き込まれた写本が
金剛寺にもたらされた、などの可能性が考えられる
(11 (。
二 近世写本 ①土御門本慶長年間以降のいわゆる近世写本としては、まず国立歴史民俗博物館
に
蔵
さ
れ
る
田
中
教
忠
氏
蒐
集
土
御
門
家
旧
蔵
本(
資
料
番
号
は
H
―
七
四
三
―
七
四。
以
下、
土
御
門
本
と
略
称
す
る
)
が
あ
げ
ら
れ
る
(11 (。
土
御
門
本
は
陰
陽
道
な
ら
び
に
天
文
道
を
家
職
と
す
る
土
御
門
家
に
伝
来
し
た
写
本
で、
土
御
門
泰
重
(
一
五
八
六
~
一
六
六
一
)
が
一
条
家
よ
り『
延
喜
式
』
を
借
用
し
て、
元
和
三
年
(
一
六
一
七
)
か
ら
翌
年
に
か
け
て
書
写・
校
合
し
た
も
の
で
あ
る。
第
一
冊
に
序
および巻一を収め、以下一冊に一巻を充てた全五十冊からなる。第十四
冊
は
墨
付
が
二
十
四
丁、
字
詰
め
は
半
丁
九
行(
十
丁
裏
の
み
八
行、
後
述
)、
一
行十七字~十九字である。朱書(一部は墨書)でヲコト点や合符、
句点、
傍訓、傍書を記す。蔵書印はない
(11 (。
②近衛本土御門本との近似性が指摘されている写本に、京都大学附属図書館所
蔵近衛家旧蔵本(請求番号は近衛本/二〇三/エ一。以下、近衛本と略
称する)がある
(11 (。これは五摂家の筆頭たる近衛家に伝来
(1( (した写本で、紙
質等から土御門本より後に書写されたと考えられている
(11 (。巻十六を除く
四十九巻分四十九冊に、上表文・目録・歴運記を収める一冊を加えた全
五十冊からなる。第十四冊は墨付が二十五丁、字詰めは半丁九行、一行
十七字~十九字である。朱でヲコト点や合符、句点、傍訓、傍書を記す
ほか、
所々に墨による文字の訂正がみえる。一丁表に
「近衛本」
「近衛蔵」
「陽明蔵」印が捺されている。
③藤波本宮
内
庁
書
陵
部
所
蔵
藤
波
家
旧
蔵
本(
函
架
番
号
は
二
一
七
・
四
七
三。
以
下、
藤波本と略称する)もまた、土御門本との近似性が指摘されることがあ
る
(11 (。神宮祭主および神祇大副を世襲した藤波家に伝来した本写本は、巻
十
を
欠
く
四
十
九
巻
分
四
十
九
冊
よ
り
な
る。
本
文
の
書
写
年
代
は
未
詳
で
あ
る
が、第一冊から第五冊の五冊は藤波季忠(一七三九~一八一三)が安永
十年(天明元年、一七八一)に校合した旨の識語を有している。巻十四
に相当する第十三冊は、墨付が二十二丁、字詰めは半丁十行、一行十五
字~十七字。朱のヲコト点や合符、句点、傍訓、傍書は土御門本とほぼ
同量である(後述)
。一丁表に「藤波家蔵書」印が捺されている。
④貞享本宮
内
庁
書
陵
部
は、
藤
波
本
の
ほ
か
に
も『
延
喜
式
』
の
写
本
を
蔵
し
て
い
る。
一つは、穎川雅昶の懇望により坊城俊方が貞享五年(一六八八)に書写
し
た
写
本
(11 ((
函
架
番
号
は
四
五
七
・
一
一
六
。
以
下
、
貞
享
本
と
略
称
す
る
)
で
あ
る
。
各巻一冊の五十冊、および上表文・目録・歴運記一冊の全五十一冊より
なる。第十四冊は墨付二十七丁、半丁八行、一行十九字。遊紙には塙家
の蔵書印である「温故堂文庫」印、塙保己一が創設した学問所の「和学
講談所」印が捺されている。二十七丁裏に、
右者穎川氏雅昶頻依懇望数冊
遂書写所与之、急之条粗誤可有之矣、
貞享五年太郎月末八、参議左大弁従三位藤原俊方
重而一校加之、正本異説繁多、殊朱等先後誤有之、追而加
校合者也、
と
の
奥
書
が
あ
り、
「
正
本
」
に
「
異
説
」
が
非
常
に
多
い
た
め、
再
度
校
合
を
お
こ
なった旨が記されている。本文には「印本」
(版本)
、「中本」
(林読耕斎
旧蔵の中神守筋本ヵ
(11 ()、「京本」
(京極宮家本、
存否不明)による校合のほ
か、朱標目が書き込まれている。
⑤壬生本い
ま
一
つ
は、
壬
生
家
旧
蔵
本(
函
架
番
号
は
F
一
〇
・
二
八
七。
以
下、
壬
生
本
と
略
称
す
る
)
で
あ
る
(11 (。
江
戸
時
代
初
期
に
書
写
さ
れ
た
と
み
ら
れ
る
冊
子
本
(全二十一冊)で、
巻一から巻八、
および巻十三を欠き、
一冊に二巻(巻
十四のみ一冊に一巻)
を充てている。巻十四を収める冊は墨付二十六丁、
半
丁
九
行、
一
行
十
七
字。
一
丁
表
に
小
槻
宿
禰
家(
壬
生
家
)
の「
禰
家
蔵
書
」
印が捺されている。本文には版本によると思われる校合が「イ本」とし
て書き込まれている。
⑥慶長本江
戸
時
代
初
期
の
写
本
と
し
て
は
他
に、
国
立
公
文
書
館
に
存
す
る
所
謂
慶
長
写
本
と
称
せ
ら
れ
る
冊
子
本(
請
求
記
号
は
特
一
〇
二
―
〇
〇
〇
八。
以
下、
慶
長
本
と
略
称
す
る
)
が
あ
る。
も
と
江
戸
幕
府
の
文
庫
で
あ
る
紅
葉
山
文
庫
に
収
蔵
さ
れ
て
い
た
も
の
で、
一
冊
に
一
巻
を
充
て(
た
だ
し、
巻
十
三
・
十
八
・
十
九
・
二
十
四
・
四
十
一
・
五
十
の
六
巻
分
を
欠
く
)、
上
表
文・
目
録・
歴
運
記
を
別
冊
と
し
て
加
え
た
全
四
十
五
冊
よ
り
な
る。
『
駿
府
記
』
慶
長
十
九
年
(一六一四)四月五日条に、
群
書
治
要
・
貞
観
政
要
・
続
日
本
紀
・
延
喜
式
自
二御
前
一出
二五
山
衆
、
一可
レ令
レ抜
下公家・武家可
レ為法度之所
上之旨被
二仰出
、
一とあり、
徳川家康が五山より能書者を集め、
諸法度の参考資料として『延
喜式』等の書写を命じたことが知られる。また『本光国師日記』同年十
月三日条には、
延
喜
式
全
五
十
巻、
内
十
三・
廿
四
弐
冊
不
足、
箱
ニ
入、
如
レ本
御
城
ヘ
上
ル、
と
見
え
る
の
で、
家
康
の
手
許
に
は
慶
長
十
九
年
以
前
に
書
写
さ
れ
た『
延
喜
式
』
が
あ
り、
そ
れ
は
当
時
よ
り
巻
十
三
・
二
十
四
の
二
巻
分
が
欠
け
て
い
た
と
考
え
ら
れる
(11 (。巻十四にあたる冊は、天地墨界縦罫を有する墨付が二十五丁、半
丁が九行、一行の字詰めは十八字で、ヲコト点や合符、句点、傍訓、傍
書、返り点等がみられる。一丁表に「紅葉山本」印
(11 (が捺されている。
⑦林家本国立公文書館所蔵林羅山旧蔵本(請求記号は特〇六六―〇〇〇七。以
下
、
林
家
本
と
略
称
す
る
)
は
、
慶
長
本
の
転
写
本
と
推
測
さ
れ
て
い
る
(11 (。
二
、
三
巻
分
を
一
冊
と
し
た
二
十
冊
よ
り
な
る(
巻
十
三・
巻
二
十
四
を
欠
く
)。
巻
十四は巻十五(内蔵式)とともに第八冊に収められている。墨付五十八
丁、
(
一
丁
~
二
十
二
丁〈
縦
罫
な
し
〉
は
巻
十
四、
二
十
三
丁
~
五
十
八
丁〈
縦
罫あり〉は巻十五に相当する)
、半丁十行、一行十八字、朱訓点等あり。
一
丁
表
に
「
林
氏
蔵
書
」
印
を
、
五
十
八
丁
裏
に
林
家
の
私
塾
を
始
ま
り
と
す
る
「昌平坂学問所」印を捺す。
⑧梵舜本・⑨梵舜別本天理大学附属天理図書館には、二種の『延喜式』が蔵される。いずれ
も
梵
舜(
一
五
五
三
~
一
六
三
二
)
等
の
筆
に
よ
る
冊
子
本
で、
四
十
六
冊
本
と
二十四冊本とがある。四十六冊本(吉一六―八。以下、梵舜本と略称す
る)は巻九
・
十
・
十三
・
二十四を欠く。第四十六冊(巻五十相当)には、
右五十巻遂一見畢、
莫出窓外矣、
従三位侍従卜(花押)
と
い
う
梵
舜
の
兄
吉
田
兼
見
の
子
孫
で
あ
る
兼
雄(
一
七
〇
五
~
八
七
)
の
識
語
がある
(11 (。巻十四を写した第十一冊は墨付二十二丁、半丁十行、一行十五
~
十
七
字。
ヲ
コ
ト
点
や
句
点
等
は
な
い
が、
僅
か
な
が
ら
朱
墨
に
よ
る
訓
点
や
切
点
が
確
認
さ
れ
る。
一
丁
表
に「
隠
顕
蔵
」
印・
「
吉
田
文
庫
」
印
を
捺
す。
一
方、
二
十
四
冊
本(
三
二
八
・
一
―
イ
一
九。
以
下、
梵
舜
別
本
と
略
称
す
る
)
は
第二十六冊(巻四十九
・
五十相当)に、
右延喜式五十冊遂全部之功、此内予
十一冊書畢、尤可謂至宝者也、
元和二年十一月十一日
神龍院梵舜(花押)
元和二、十一、七書写校大方了、
享保十九年八月日、遂一見之畢、
卜(花押)
と
い
う、
元
和
二
年(
一
六
一
六
)
に
書
写
し
た
と
の
梵
舜
自
筆
の
奥
書
と
享
保
十九年(一七三四)に一見したとの兼雄の識語がある。梵舜本と同じく
巻
九・
十・
十
三・
二
十
四
を
欠
く。
巻
十
四
は
単
独
で
一
冊
に
書
写
さ
れ
て
お
り、
墨
付
二
十
二
丁、
半
丁
十
行、
一
行
十
五
~
十
七
字。
一
丁
表
に「
隠
顕
蔵
」
印・
「月明荘」印・
「岡田真之蔵書」印が捺されている。
⑩前田本前
田
育
徳
会
尊
経
閣
文
庫
所
蔵
本(
以
下、
前
田
本
と
略
称
す
る
)
は
巻
十
三・
巻二十四を除く四十八巻四十八冊に、上表文・目録・歴運記の一冊を加
え
た
全
四
十
九
冊
よ
り
な
る。
佐
伯
有
義
氏
は、
「
書
写
の
年
代
詳
な
ら
ね
ど、
紅
葉山本の副写であると思はるゝ、松雲公の時か或はその以前に写された
も
の
」
と
述
べ、
書
写
年
代
を「
松
雲
公
」
す
な
わ
ち
前
田
綱
紀(
一
六
四
三
~
一七二四)が存命中かそれ以前と推測している。また、皇典講究会・全
国
神
職
会
校
訂『
校
訂
延
喜
式
』
の
解
説
は「
誤
字
脱
字
等
楓
山
文
庫
本
類
似
し、
缺巻も亦同じきより推察すれば、楓山文庫本に拠りて書写したるか、若
しくは、
それと系統を同じくするものならむ」と、
楓(紅葉)山文庫本、
つまり慶長本との関係を示唆している。第十四冊は墨付二十五丁、半丁
九行、一行十八字であり、かかる体裁は慶長本に共通する。
⑪島原本東
京
大
学
史
料
編
纂
所
所
蔵
松
平
忠
房
旧
蔵
本(
請
求
記
号
は
貴
四
五
―
〇
二。
以下、島原本と略称する)は、巻十三を東京大学総合図書館所蔵尾張家
旧蔵本(九条家が所持していた巻十三を写したもの)を写していること
に
特
徴
が
あ
る。
各
巻
一
冊
の
全
五
十
冊
よ
り
な
り、
第
一
冊
に
巻
一
と
上
表
文・
目録・歴運記が合綴されている。第十四冊は墨付が二十三丁、半丁が十
行、
一行は十八字の字詰めである。朱による訓点、
傍書等があり、
「イ本」
に
よ
る
校
訂
が
書
き
込
ま
れ
て
い
る。
一
丁
表
に「
和
学
講
談
所
」
印・
「
新
宮
城
書
蔵
」
印・
「
地
誌
備
用
図
籍
之
記
」
印
が、
二
十
三
丁
裏
に「
尚
舎
源
忠
房
」
印
と
「文庫」
印が捺されており、
本写本はもと島原藩主松平忠房
(一六一九
~一七〇〇)の蔵書であり、その後は和学講談所、新宮城(丹鶴城)主
水野忠央(一八一四~六五)を経て、内務省地理局地誌課の手に渡った
ことが知られる。
⑫京博本近年、田島公氏により京都国立博物館所蔵本(以下、京博本と略称す
る)が紹介された
(1( (。これは江戸時代前~中期の写本
(11 (で、五十巻四十九冊
(
巻
十
三・
十
四
を
合
綴
)
に
上
表
文・
目
録・
歴
運
記
の
一
冊
を
加
え
た
全
五
十
冊よりなる。巻十四を収めた冊は墨付が六十三丁(一丁表~三十七丁裏
は巻十三、三十八丁表~六十三丁裏は巻十四に相当する)
、半丁が九行、
一行の字詰めは十七字程度である。墨による傍書や傍訓、
朱による訓点、
句点、
合符、
文字の訂正が施されている。巻十四の校合には「官本」
「イ
本」が用いられている。原蔵者を示す印はない。田島氏は、本写本を諸
写本や版本が校合に用いた「京本」すなわち京極宮所蔵本である可能性
を示唆している。しかし、例えば
(衆僧法服条において貞享本が「納服
漆
韓
櫃
四
合
」
の「
服
」
字
の
下
に
挿
入
符
を
付
し、
「
浅
中 京」
と
傍
書
す
る
も、
京
博
本
に
は
該
当
す
る
文
字
は
記
さ
れ
て
い
な
い。
そ
の
他
の
箇
所
に
つ
い
て
も、
「
京
本
」
に
よ
る
校
異
と
京
博
本
の
本
文
と
は
必
ず
し
も
一
致
し
て
い
な
い。
こ
の
ような齟齬は、巻五を取り上げて『延喜式』の写本系統を検討された小
倉
慈
司
氏
に
よ
り
す
で
に
指
摘
さ
れ
て
お
り
、
氏
が
述
べ
る
よ
う
に
、
本
写
本
は
「京極宮所蔵本そのものとは考えない方が良い」と思われる
(11 (。
⑬弥勒院本小倉氏は前述の検討のなかで、西尾市岩瀬文庫所蔵法隆寺弥勒院旧蔵
本(資料番号は一〇九―四七。以下、弥勒院本と略称する)を参照され
て
い
る
(11 (。
こ
れ
は
江
戸
時
代
前
期
の
写
本
と
さ
れ
て
お
り
(11 (、
五
十
巻
お
よ
び
上
表
文
・
目録・歴運記を収めた全十九冊よりなる。巻十四は巻十三・十五ととも
に
一
冊
に
ま
と
め
ら
れ
て
い
る(
た
だ
し、
巻
十
三
と
巻
十
四
・
十
五
と
で
は
筆
跡
が
異
な
る
)。
巻
十
四
を
写
し
た
箇
所
は
四
周
単
辺
で
無
界
、
二
十
二
丁
、
半
丁
十行、一行十八字。冊末尾に無辺の「法隆寺弥勒院」印あり。
管見に及んだ巻十四を有する写本は以上の通りであるが、無窮会専門
図書館所蔵神習文庫本(井上頼
囶
旧蔵、江戸時代前期の書写)は同館が
閲覧休止中につき調査がかなわなかった。
第二節
写本系統の検討
本節では、前節で取り上げた諸写本を比較し、その異同をもとに写本
系統を検討する。
一 古写本と近世写本との関係まず古写本である金剛寺本には、大治二年(一一二七)に「秘本」を
も
っ
て
訓
点
等
を
書
き
写
し
た
旨
の
奥
書
が
あ
る
。「
秘
本
」
は
あ
く
ま
で
も
「
移
点
」
に
用
い
た
と
記
さ
れ
て
い
る
こ
と
か
ら
推
す
と、
「
移
点
」
に
先
行
す
る
本
文
の
書
写
に
は「
秘
本
」
と
は
別
の
写
本
が
用
い
ら
れ
た
の
で
は
な
い
だ
ろ
う
か。
ま
た、
(衆
僧
法
服
条
に
お
い
て「
糸
四
両
二
分
」
に
朱
で「
小
或
本
」
と
傍
書
し、
「
本
無小字」と頭注を記している。金剛寺本が参照した「秘本」にすでに書
き込まれていた注記か、あるいは金剛寺本が「秘本」とは別に校合に用
いた写本であるかは判断しかねるが、いずれにせよ、これは金剛寺本の
親本や「秘本」とは別に「糸小四両二分」と書かれた「或本」が存在し
たことを示唆している。なお、近世写本はいずれも「小」字を記してい
ない。
虎尾氏により、近世写本は同一の祖本から派生したことが指摘されて
いる。この点については、
(寮神祭条の土御門本(一丁表裏)を例示す
ると、
本文を写す
金剛寺本の親本
金剛寺本
「或本」
「秘本」
訓点を写す 冊数 欠巻 墨付 半丁の行数 一行の字詰め 土御門本 (0 冊 なし (( 丁 ( 行 ※ ( (( 字~(( 字 近衛本 (0 冊 ※ ( 巻 (( (( 丁 ( 行 (( 字~(( 字 藤波本 (( 冊 巻 (0 (( 丁 (0 行 (( 字~(( 字 貞享本 (( 冊 ※ ( なし (( 丁 ( 行 (( 字 壬生本 (( 冊 ※ ( 巻 ( ~ (・(( (( 丁 ( 行 (( 字 慶長本 (( 冊 ※ ( 巻 ((・((・((・ ((・((・(0 (( 丁 ( 行 (( 字 林家本 (0 冊 ※ ( 巻 ((・(( (( 丁 (0 行 (( 字 梵舜本 (( 冊 巻 (・(0・((・(( (( 丁 (0 行 (( 字~(( 字 梵舜別本 (( 冊 ※ ( 巻 (・(0・((・(( (( 丁 (0 行 (( 字~(( 字 前田本 (( 冊 ※ ( 巻 ((・(( (( 丁 ( 行 (( 字 島原本 (0 冊 なし (( 丁 (0 行 (( 字 京博本 (( 冊 ※ (・ なし (( 丁 ( 行 (( 字 弥勒院本 (( 冊 ※ ( なし (( 丁 (0 行 (( 字 【表 1】『延喜式』巻十四の近世写本の体裁 ※ ( 上表文・目録・歴運記(( 冊)を含む ※ ( ( 巻分を ( 冊に収める(ただし巻 (( のみ ( 巻 ( 冊) ※ ( 数巻分を ( 冊に収める ※ ( (0 丁裏のみ ( 行
縫殿神一座
」(一丁表)
木綿大八両酒二斗米糯米各一斗
大豆小豆各五升鰒五斤腊乾魚海藻各
六斤
【図1】土御門本 1丁裏とあり、一丁裏の一行目は行末を数字分空けて改行している。本条は縫
殿寮に座す三神
(11 (を祭る日次や料物を定めており、共通する料物を記す著
酒神(同丁四行目以下)の記述方法をみると、
著酒神一座
五色薄絁各二尺木綿大一斤鮮物
直酒
四斗米三斗糯米一斗大豆小豆各五升
鰒五斤腊乾魚海藻各六斤物忌童女装束
絹一疋
夏 料紫絹三丈調綿二屯
冬 料とあり、文の途中で改行する必然性は見出せない。これは近世写本の祖
本
の
段
階
で
生
じ
て
い
た
特
徴
で
あ
ろ
う。
お
そ
ら
く、
「
糯
米
各
一
斗
」
が
行
末
に記され、若干の余白があったために改行と誤解して転写されたものと
考えられる。そして行取りや一行の字数に小異はあるものの、管見の近
世写本すべてが同様に改行しており、その祖本が同一であることを示唆
している。
それでは、古写本と近世写本の関係はどうであろうか。本文を比較す
ると、一見して明らかな異同は標目である。金剛寺本には
(神今食中宮
条・
(新嘗小斎祭・
((斗帳条・
((裁縫功程条・
((三年雑物条・
((仕女養
物条を除き、条文の内容を示す標目がみえる。一方、近世写本の標目は
(寮神祭条のみであり、さらに金剛寺本が「神座」とするところ、近世
写本の異同が次のように分かれる。
「
神
祭
」
…
土
御
門
本・
近
衛
本・
藤
波
本・
壬
生
本・
慶
長
本・
前
田
本・
弥
勒
院
本(
京
博
本
は「
神
祭
」
と
記
し、
「
神
」
に「
夏
」
と
傍書する)
「夏祭」…
貞享本
なし
……
林家本・梵舜本・梵舜別本・島原本
本条は縫殿寮に座す神を祭る日次や料物を定めており、内容を示す標目
と
し
て
は
多
く
の
写
本
が
採
っ
て
い
る
「
神
祭
」
が
適
し
て
い
る
。
各
々
が
「
神
座
」
を「神祭」と正して転写するということも可能性としては排除できない
が、複数の写本が同様の書写態度であったとは限らず、近世写本の祖本
段階ですでに「神祭」と正されていたと推測するのが妥当であろう。ま
た、貞享本には
(神今食御服以降にも標目が存在するが、各条の内容を
括るための標目だけでなく、金剛寺本にはない、条文中の要語を適宜掲
出したと思われるものも存在している。かかる標目は版本のそれに一致
しており、別系統の写本か版本により補われたものと考えられる。
(新嘗祭小斎服条において管見の写本すべてが「緋紐料四条貲布六端
一丈二尺、
(註略)山藍五十囲半」としており、
「五十」の下に「四」字
を脱落していると思われる
(11 (こと、
((裁縫功程条では青摺布一端の製作に
かかる労働量を「長功日少半」と、この箇所のみ「少」字を用いてい
る
(11 (ことなどからすると、金剛寺本および近世写本は同一の祖本に発してい
るとの印象を受ける。特に土御門本や近衛本、藤波本はヲコト点を丁寧
に転写しており、古体を伝えているようでもある。しかしながら、金剛
寺本がそのまま転写されて近世写本の祖本になったとは考え難い。いま
金
剛
寺
本
と
土
御
門
本
や
近
衛
本、
藤
波
本
と
を
比
較
し
て
み
る
と、
土
御
門
本
以
下
三
本
に
は
金
剛
寺
本
に
な
い
朱
点
が
多
々
存
在
し
( 表 3)、
ま
た
金
剛
寺
本
に
は
存
在
し
な
い
字
句
が
三
本
に
み
え
る
場
合
も
あ
る
( 表 2― 6・ 33・ 48・ 50・ 52・ 62・ 71・ 76・ 77・ 79・ 91)。
例
え
ば
((雑
染
用
度
条
に
つ
い
て
金
剛
寺
本
と
土御門本とを比較してみると、
金剛寺本
一斗七升薪六十斤浅紫綾一疋
綿紬糸紬 東絁亦同紫草五
」(第九紙)
斤酢二升灰五斗薪六十斤羅一疋
用度 同帛絞
紗一疋紫草五斤酢六合灰一斗二升薪六十斤纈
帛一疋紫草五斤酢一升灰二斗五升薪六十斤
糸一
絇
紫草五斤酢三合灰一斗薪卅斤貲
布一端紫草七斤酢八合灰一斗薪六十斤葛布
一端紫草七斤酢六合灰一斗五升薪六十斤滅紫
土御門本
(略)一斗七升薪六十斤
浅紫綾一疋
綿紬糸紬 東絁亦同紫草五斤酢二升灰五斗
薪六十斤
帛一疋紫草五升酢一升五合灰五
斗薪六十斤
羅一疋
用度 同帛絞紗一疋紫草五斤
酢六合灰一斗二升薪六十斤纈帛一疋
紫草五斤酢一升灰二斗五升薪六十斤糸
一
絇
紫草五斤酢三合灰一斗薪卅斤貲
布一端紫草七斤酢八合灰一斗薪六
十斤葛布一端紫草七斤酢六合灰一斗五
」(十四丁表)
升薪六十斤
滅紫(下略)
という具合に、金剛寺本では浅紫の「帛一疋」の染材に関する一文が脱
落している
(11 (。脱落したのは十九字、ほぼ一行分であり、金剛寺本が親本
を転写する際に(あるいはその祖本の段階で)一行分見誤ったのであろ
う。本条には三十六もの染色について、概ね綾・帛・羅・糸の順に対象
別
に
要
す
る
染
材
と
そ
の
量
が
あ
げ
ら
れ
て
い
る。
ま
た、
「
羅
一
疋
」
の
染
材
に
つ
い
て「
用
度、
帛
に
同
じ
」
と
注
記
し
て
い
る
こ
と
か
ら、
「
綾
一
疋
」
と「
羅
一疋」の間に「帛一疋」が脱落していると推測できても、染材の分量を
意によって補うのは容易ではない。ところが、金剛寺本は
(年中御服条
の
「
半
臂
十
領
(
註
略
)
料
」
に
お
い
て
「
絹
八
疋
、〈
別
四
丈
八
尺
、〉
糸
一
両
一
分
、〈
別
三
銖、
〉
汗
衫
十
領、
〈
藍
四
領、
葡
萄
六
領、
十
一
月
一
領、
十
二
月
二
領、
並
用
レ白、
〉」
を
脱
落
し、
傍
書
で
補
っ
て
い
る。
金
剛
寺
本
は「
秘
本
」
あるいはその他の写本を用いて校合を行ったものと思われるが、当該箇
所
に
つ
い
て
書
き
入
れ
が
な
さ
れ
て
い
な
い
の
は、
「
秘
本
」
等
も
こ
の
箇
所
が
脱
落しており、
異同と認識されていなかったためではないだろうか。なお、
当該箇所を脱落させているのは金剛寺本のみである。とすると、まず
((
雑染用度条に脱落をもたない祖本が存在し、そこから金剛寺本(あるい
はその祖本)と近世写本の祖本とに分かれたと想定できるのではないだ
ろうか。
二 近世写本の関係