新型コロナパンデミックと現代社会
― 新型コロナウイルスとソーシャルディスタンシング(social distancing)に関する社会学的試論 ―1.はじめに
コロナウイルスという極めて微細な存在が 地球全体を揺るがしている。この小さな寄生 体が行使する破壊的な影響力のもとで地球上 の数十億の人間たちが奮闘する姿は、スク リーンの中の映画ではなく現実の風景として 広がっている。2019 年 12 月に中国の武漢市 で最初に報告された新型コロナウイルス感染 症は、2020 年 10 月 28 日現在まで、全世界的 に累積感染者 43,827,724 人、死亡者 1,165,466 人を記録しており、日本国内では 98,116 人の 感染者と 1,730 人の死亡者を生んだ(厚生労 働省 2020)。2020 年 10 月現在、まだ確かな 治療薬とワクチンが生産されていない中で、 このような人命被害がこれからどれほど増加 するのかも予測できない状況が続いている。 新型コロナの感染が拡散するパンデミック 状況の中で、伝染を遮断するための行動様式 として全世界的に要請されている実践が「ソー シャルディスタンシング(social distancing)」 である。ソーシャルディスタンシングとは、 ウイルスを伝播させる飛沫が直接的に届かな いように物理的な距離を置くことを意味し、 パンデミックのもとで一つの規範的様式と なっている。このような行為様式の実践が強 く要請される中で、人々が集まることができ る大多数の社会的空間は閉鎖もしくは回避さ れ、「非対面」が社会生活の基本的な方式と なっていく。人々であふれる満員電車と密閉 されているオフィスを避けて在宅勤務が要請 されており、会議も飲み会もパソコンの画面 を通じて非対面に行われる。大学の講義はほ とんどオンライン講義に代替され、キャンパ スには寂寞感が漂っている。商店街の店は営 業の停止ないし短縮を要請される反面、アマ ゾンやネットフリックスなどのオンライン サービス業者は新型コロナ禍の中でむしろ前 例のない好況の波にのっている。人々で賑わ う食堂で外食をする代わりにその食堂の料理 をスマートフォンのアプリで注文して家で食 べる。街ではウーバー配達員が自転車やバイ クにのって各家庭に食べ物を配達することに 勤しんでいる。スーパーのレジの前には一定 の間隔を置いて待機するように誘導するた め、床に標識を貼っており、ほとんどの窓口 において店員たちは透明な仕切りの向こうで 対応する。不可避な対面相談などは、予約制 を徹底して人が密集しないようにし、町の狭 いパン屋さんは入口で店に入る顧客の数を制 限する。ソーシャルディスタンシングのもと で日常になっているこのような風景は、以前 早稲田大学社会科学部 助教 呉 獨立とは全く異なる新しい生活、かつては経験し なかった驚くべき経験とみなされているよう に見える。新型コロナ禍の中で我々は次のよ うな叫びをあまりにも頻繁に聞いている。コ ロナはすべてを変えた!コロナはすべてを変 えるだろう!しかし、果たしてこれは揺らぎ ない真実の叫びであるのか。 本論文が提起する基本的な問題意識は、社 会学的な見地からみるとパンデミックがもた らしている状況は現代社会そのものと通じる 部分を有していることであり、したがってパ ンデミック下のソーシャルディスタンシング といった、新しく驚くべき(もののようにみ なされる)生活様式は、実は、それほど新し いものではなく、驚くべき未来へ私たちを導 いていくものでもないかもしれない、という ことである。かといって、全てはそのままで あり、何も変わることはない、と言うつもり はない。社会は常に変化するモノであり、特 定の出来事によって、その変化は予想より もっと突然のものになったり、その反対のも のになったりもする。新型コロナは、確かに 一つの「契機」として受け入れられているよ うに見える。今まで人間社会が歩んできた発 展の軌跡について省察し刷新していく一つの 契機として新型コロナに向き合うこと、おそ らくそれは、今私たちが取るべき最善のこと かもしれない。そうするためにも、まずはコ ロナと私たちの現代社会との関係をさらに明 確に考えてみる必要がある。本稿は、新型コ ロナウイルスによるパンデミックと現代社会 との関係に関連して、社会学理論の視点から 試論的にアプローチしようとする一つの試み である。 以上の問題意識に基づいて、本稿で扱う議 論の内容は次のようなものである。本稿で は、まず、「非人間」行為者について注目して いる社会科学内の動きを概観し、ウイルスと いう行為者の基本的な性質について検討す る。そして、「距離化」という、現代社会の根 幹をなしている問題に関する社会学的意味と 関連して、パンデミック下のソーシャルディ スタンシングが露呈する「社会」認識の意味 を論ずる。それとともに、現代社会の中で生 きていく人々が置かれている実存的状況がパ ンデミック下のソーシャルディスタンシング を通じて要求されているものとオーバーラッ プするものであることを主張する。それを踏 まえて、最後には、新型コロナによるパンデ ミックのもとで、新しい(もののように見え る)認知的かつ規範的要求が私たちに投げか けるいくつかの問題―関係の問題、監視社会 への憂慮、格差の問題、人間価値の諸側面に 関する問題―について検討する。
2.「非人間」行為者への注目
21 世紀の社会科学において、最も注目され てきたテーマの一つはおそらく「非人間」で あろう。科学技術、特に情報通信技術は、す でに人間の社会的な生を構成する主要な要素 になっており、さらに複合的かつ多様な方式 で人間と結びつけられていく。この「非人間」 と人間との関係(相互作用)を考慮せず 21 世 紀の社会現象を説明することは不可能である か、もしくは非常に空虚なことになってしま うか、であろう。そして、このような「非人 間」は科学技術とその加工物にとどまるモノではなく、「自然」にまで拡張されるモノであ る。近代的な産業社会の発展の中で人間が自 然に排出したあらゆる公害物質は、自然と人 間との関係をさらに致命的な形で可視化させ ている。全地球的な気候変動のなか、我々は、 毎年記録を更新している猛暑と寒波、暴雨な どを経験している。そしてそれに伴う大規模 な災害が地球上のあらゆるところで発生しつ つある。重金属、マイクロプラスチック、放 射能物質などは動物/植物を通じて人間に 戻って来て、人間の身体と生命に致命的な脅 威を与える。もはや自然は人間に対する受動 的な対象であることを辞めたのである。技術 と自然のような、いわゆる「非人間」の領域 は、今や人間社会に重大な変化をもたらし、 社会的な意味を付与する存在になっており、 対象(客体)ではなく「行為者(主体)」とし ての市民権を要求までに至っている。これが 抽象的な言説の羅列ではないことは、東日本 大震災と福島原発事故からも如実に経験した ことである。近代的人間が構築してきた構造 とシステムは、コントロールできない様々な 形態の問題がブーメランになって舞い戻る再 帰的過程と自己対面するようになったのであ る(Beck 1994:6)。チャクラバーティ(D. Chakrabarty)の表現を借りて言うならば、 これは、自分自身の生存にとって脅威となる 「破局」として戻ってきたブーメランである (Chakrabarty 2009)。 最近流行している「人新世(Anthropocene)」 という言葉も、同様の文脈で理解できる。「人 新世」という言葉は、ノーベル化学賞を受賞 したクルッツェン(P. J. Crutzen)と生態学 者であるステルマー(E. F. Stoermer)によっ て初めて用いられた。2000 年に彼らが発表 した短い寄稿文の中で初登場したこの用語 は、人間の活動が地質学的変化要因となって 作用する時代を指す新造語である。クルッ ツェンとステルマーは、人新世の人間は「巨 大な火山噴出、予期せぬ伝染病、大規模の核 戦争、小惑星の衝突、新たな氷河時代…(略) …のような重大な破局に匹敵する変形力を地 球システムに加える」と述べている(Crutzen & Stoermer 2000:17-18)。これは「地質学的 な時間における明らかに新しい段階(※1)」と して、気候変化と生態問題による破局の可能 性を露骨に経験しながら生きるようになった 時代を意味することでもある。クルッツェン を中心にして本格化した人新世議論(※2)は、 以後人文・社会科学の様々な分野へ素早く拡 散し、多彩な検討と研究作業が進められてい る(※3)。人新世の論者たちは、人新世の時期 (※1)アーリ(J. Urry)は次のように述べている。「石炭、ガス、石油といった化石燃料が現在のエネルギー使用の 8割を負っている。この化石燃料を燃焼させる技術、そして熱エネルギーを転換させる技術が、過去 300 年 間の世界経済と社会が体験した最も重要な変動であった。…(略)…しかし、このように気候を変化させる 石炭、石油、ガスなどの炭素資源に対する急速な搾取を通じて、西欧のエネルギー転換者たちは地球の軌道 を規定し地質学的な時間における明らかに新しい段階を触発させることができたのである。」(Urry 2016:41) (※2)クルッツェンは『ネイチャー』誌を通して人新世概念の議論を本格的に展開して以来、ステファン(W. Steffen) と共同で発表した 2003 年の論文、人新世に関連する著述活動および、多数の同僚研究者たちとの共同研究を 通じて学術的議論の場における人新世議論を導いてきた(Crutzen 2002;Crutzen & Steffen 2003;Crutzen 2006;Steffen et al. 2007;Steffen et al. 2011)。
(※3)代表的には、人新世概念の科学的な受容の可能性を論じるザラシーヴィッチ(J. Zalasiewicz)と彼の同僚た ちの議論(Zalasiewicz et al. 2008;Zalasiewicz et al. 2014)、人新世の諸問題に対する解決策を模索するムーア (Moore 2016)、ハラウェイ(Haraway 2016)などの議論を参考することができる。以外にも、政治学 (Biermann and LÖ vbrand 2019;Dryzek and Pickering 2018)、地理学(Castree 2014a;2014b;2014c;
Lorimer 2015;Yusoff 2018)、人類学(Tsing 2015;Van Dooren 2014)、社会学(Lidskog and Wateron 2016) などで様々な研究結果が発表されている。
的区分に関する多少の異見は存在するもの の(※4)、人間の活動が地球システムに甚大な 影響を及ぼすことで(人間行為能力の惑星的 影響力)、その結果が深刻な状況として戻っ てくることには意見の一致を見せている。人 新世の議論において、近代の人間中心的な企 画は「破局」の原因として見なされ、それゆ え非人間、非生物、非西欧の立場に立って現 在の危機を理解する方法が模索される。彼 (彼女)らは、人間と「非人間」の間に境界線 を引くことは、もはや実質的に不可能である と主張する。 人間と非人間に関する二分法的な区分を排 除し脱人間中心的な視覚を求める声は、社会 学理論においても一つの「知的気候変動 (Castree et al. 2014)」を引き起こしてきた。 社会学理論において人間中心主義は、その学 問の始まりと脈を共にする、根深いもので あった。伝統的な社会学理論は、人間の社会 的行為に主な価値を付与し、非社会的・非人 間的対象は、非行為者として、「客体」として 無視してきた(※5)。 このような理論的限界を克服しようとする 動きは、「非人間」の行為性と体系性に積極的 な意味を与えてきた科学技術社会論(STS) 及び、システムと環境のコミュニケーション に注目する(ルーマン流の)システム理論の 中で展開されてきており、ドゥルーズ(G. Deleuze)とデランダ(M. Delanda)などが提 起するアッサンブラージュ(assemblage)概 念(Delanda 2016)(※6)、社会理論の「行為 者的偏向」(Reader 2007:580)に対抗する ハーマン(G. Harman)の客体(対象)指向存 在論(object-oriented ontology)(※7)などの 哲学的な議論を背景として新しい理論的パラダイ ムを提示している。非人間行為者に対する理 論的な関心は、 2000 年代以降、新唯物論 (New Materialism)的社会理論へ収束してい る。新唯物論的アプローチは、事物、技術、 自然などの「非人間」を人間社会と分離して 独立に存在できないモノとして捉える。この ようなアプローチは人間、動物/植物、事物、 機械、地質学的力など、人間と非人間の多様 な関係から世界が構成されている、という「関 (※4)例えば、クルッツェンは産業革命を人新世の始まりとして捉えているが、ザラシーヴィッチは核実験が初め て行われた 1945 年を注目する。また、農耕生活が確立される新石器時代まで遡る見解も存在する(Ruddimann 2013)。 (※5)もちろん、伝統的な社会学理論が「非人間」を全的に無視したと言うことは正当ではないかもしれない。人 間中心的社会理論において先駆者の位置を占めているとも言えるヴェーバー(M. Weber)でさえ、実際に、 社会学が「社会的行為」とだけに関係するものは決してないと述べていた。ヴェーバーは、決して(非社会 的)構成要件が他の構成要件に比して有している重要性に関して言及していることではないと強調する (Weber 1976:12)。しかし、他方では、積極的に非社会的行為、あるいは「非人間」に対する説明も、そし てそれらと社会的行為との相互関係に対する説明も追求しなかったことも否定はできない。その意味で、伝 統的な社会学理論は、自然のような「非人間」に対する養育権を全的に自然科学へ帰属させたこと(少なくと も、それを放任したこと)の嫌疑から自由ではない。 (※6)ドゥルーズは次のように述べている。「アッサンブラージュとは何であるのか。それは数多くの異種的条件 から構成される多様な特性を貫いてそれらの連結、関係を作り上げる。そして、その唯一の単位は共通の機 能にある。アッサンブラージュは共生であり、共感である。それは血縁関係ではなく、同盟と合金であり、 世襲や血統ではなく、伝染/流行病、風である。」(Deleuze & Parnet 1996:84)
(※7)ハーマンは「対象」を認識の客体という狭小な観点から開放させ、多様な存在者たちを広範に包括する核心 概念として再構成しながら、それの存在論的独自性を強調する哲学的観点を提示してきた。ハーマンによる と、対象は「それを構成する要素や、それが他の事物に与える効果へ完全に還元できない、何らかのモノ」と して定義される(Harman 2017:43)。もちろん、ハーマンの客体(対象)指向存在論は、(「客体」の行為ま で含めて)「行為」中心的な観点に対する批判を提起している点においては、新唯物論やアクターネットワー ク理論(ANT)とは異なっている。
係的存在論」を強調する。人間と非人間は分 離不可能なモノである。自然のような「非人 間」は死んでいる存在ではなく、行為する「生 きている存在」として人間と関係する。つま り、「非人間」は人間の予測と意図とは無関係 に行為するモノであり、ときには人間の社会 と文明を破壊することもできる存在である。 自然がそうであるように、「非人間」は人間の 企画に無関心である。人間を脱中心化させよ うとする試みは、ラトゥール(B. Latour)を 中心に展開されているアクターネットワーク 理論(Actor-Network Theory、以下 ANT)で さらに急進的な形で示されている。脱人間中 心主義を追求するポストヒューマニズムは、 概ね多様な生命体及び自然との共生を指向す るなか、理論的には人間と非人間の非対称的 な関係を受け入れる(Midgley 1983;Wolfe 2010)。つまり、人間と非人間の相互性は非 人間の人間に対する対応関係より、人間の非 人間に対する対応の方に中心が置かれている ものとして扱われているのである。しかし、 ANT では、人間と非人間は非対称性が否定 され、完全に対称的な関係になる。すなわち、 人間と非人間は同等な行為者としての資格を 与えられることになる(※8)。
3.行為者としてのウイルス
このように、非人間に「行為者」としての 市民権を与えようとする試みは積極的に行わ れてきており、現に地球の上で行われている 非人間の力に対する人間たちの経験は、その ような試みに経験的な正当性を与えているよ うに見える。 新型コロナ禍の中で舞台の前面に登場して いるウイルスは、それが一つの「非人間」行 為者として人間にどのように関係するのかを 如実に見せている。実際に、生物学者を中心 にして細菌のような微生物やウイルスの行為 能力については持続的に主張されてきた。例 えば、マーギュリス(L. Margulis)は、熱と 光、磁場などを感知・識別し、それに対応す るための選択などを遂行する微生物の行為能 力を見せながら、そのような原始的生命体に も「感覚(sensation)、選択(choosing)、 心(mind)」の能力が備わっていると主張す る(Margulis 2016:300)。また、マネー(N. Money)も、人間以外の生命体が所有する「知 性」に注目しながら、脳や神経細胞を持たな いカビでさえ生存過程の中で自身の学習能力 を見せていることを提示しており(Money 2020:106)、分子生物学者のソンペイラック (L. Sompayrac)は、ウイルスについて、明確 な自分の論理を持って動いている「考える存 在」とまでも述べている(Sompayrac 2013: 5)。これら生物学者たちの主張は、もちろん ウイルスのような「非人間」が人間と同一の 形で高度な行為を遂行することを意味しては (※8)社会理論として ANT の急進性は単にここにとどまることではない。既存の社会理論の根幹を転覆するように 見える ANT の(大胆で難解な)企画をここで紹介することは、筆者の能力を超えることではあるものの、少な くとも一つだけは言っておく必要がある。ANT は人間と同等な・・・非人間というアプローチを超えて、人間/ 非人間という区分自体をアプリオリに前提しないことである。つまり、人間/非人間は区分されていないま ま(区分される必要もなく)いずれも行為者(actor)あるいは行為素(actant)へ収束され、関係(network) を通じて社会・・を発現させる存在たちである(ラトゥール 2019)。いないものの、生存のために環境を識別し、 判断し、決定する行為能力は人間と同様なも のであることを提示する。このような行為能 力について「原型的行為能力(proto-agent)」 と呼んでいるカウフマン(S. Kauffman)の概 念を借りて言うならば、ウイルスは一つの「原 型的行為者(proto-agency)」である(Kau-ffman 2012:140-149)。 DNA または RNA で構成されているウイルス はカプシド(capsid)という蛋白質の殻で包 まれている粒子として存在する。2019 年末、 中国の武漢からはじまった急性呼吸器疾患の 原因になるウイルスは、2002 年の重症急性呼 吸器症候群(SARS)の発生因子として特定さ れた SARS コロナウイルス(SARS-Cov)の新 しい変種として、比較的変異しやすい RNA ウイルスに属する(※9)。ウイルスは、増殖す る点で生物としての特徴を見せてはいるもの の、その内部に酵素を持たないため自ら代謝 作用ができないこと、そして宿主がないと自 ら増殖できない点においては生物としての地 位が否定される。ウイルスは生命体と非生命 体の間にある不確定的な存在とも言えるもの である(※10)。ウイルスが自身を増殖(複製) するためには宿主を感染させ、宿主細胞内の 蛋白質合成器官を使用しなければならない。 ウイルスは宿主を変化させ(感染)、猛烈な自 己複製を通して自ら変化する。ウイルスが生 存するためには、絶対的に宿主に依存するし かない。すなわち、ウイルスは他者との「関 係」を絶対的に求める寄生体としての性格を 有する存在である。このような「関係」的寄 生体としてウイルスが見せる特徴は、それ自 体、非常に興味深い存在論的対象とも言える であろう。また、ウイルスは非可視的で確率 的な形を取っている不確実性と関わりながら 存在する。ウイルス伝染の媒介になる飛沫 は、そのような不確実な存在のありようを克 明に見せている。飛沫は確かな境界を持って いないと同時に明確な単位も有していない。 それは空気の中に散らばることもできるし、 何かに取り付いているかもしれない。非可視 的な不確実性の中では、存在の有無・・よりは 多少 ・・ がもっと重要になる。つまり、感染する、 感染される、という問題においては、単純に あるかないかではなく、どれほど多いまたは 少ないのかが重要な問題として提起されるの である。また、ウイルスの伝播は線を通じて ネットワークの方式で行われる。一つの個体 (個人)から他の個体(個人)への伝染は線で 繋がるネットワークをなす。この連結は直接 的であり感染という強力な影響を引き起こす が、同時にこのネットワークを通じて行われ る交換関係は非可視的で不確定的である。新 型コロナ禍の中で馴染みの言葉になっている 「感染経路」という表現にはこのようなウイ ルス伝播の性質がそのまま盛り込まれている とも言える。伝播を防ぐために施される「封 (※9)今回の新型コロナウイルスは RNA ウイルスの中のニドウイルス目コロナウイルス科のベータコロナウイル ス属に位置する SARS コロナウイルスに属するものであって、公式のウイルス名称は「SARS-Cov2」と命名 された。ちなみに、「COVID-19」という名称は、2019 年末に中国の武漢地域で初めて報告された、「SARS-Cov2」 が原因となって引き起こされる急性呼吸器疾患を指す病名として、2020 年2月 11 日に世界保健機関(WHO) によって発表された用語である。 (※10)これとの関連で、最近ジジェク(S. Zizek)が使用した「生物学的カリカチュア」という表現は印象深いもの である(ジジェク 2020:33)。
鎖」は、実は特定の空間(地域)の内部と外 部を繋いでいる線・を遮断することに近い意味 である。 以上で言及したウイルスの性質に対応して 発現されていることが、まさに非可視的で不 確定的なものに対する不安、感染-複製-伝 染の基盤となっている「関係」に対する恐怖 及び接触による線形的伝播の遮断である。そ して、現にこれは、「ソーシャルディスタンシ ング(social distancing)」という人間の認知 的かつ規範的行為様式で凝集して現れている のである。
4.「ソーシャルディスタンシング(social
distancing)」と社会学的距離化
新型コロナのパンデミックの中で、「ソー シャルディスタンシング」が最も声高に求め られる行為の様式となっている。「ソーシャ ルディスタンシング」はウイルウスの感染を 防ぐために日常のほとんどの相互作用におい て物理的な距離を置くことを意味する。対面 的な相互作用の場面はできる限り非対面的な ものに置き換えられ、対面的な相互作用が不 可避な場合には直接的な接触を避けることが 要求される。人と人が対面するあらゆる場面 で、マスクと仕切り、そして互いに手を伸ば しても触れ合えない程度(およそ1~2m) の間隔が置かれる。(本稿の冒頭で描写した ように)在宅勤務、ネット会議、オンライン 授業が日常化しており、必要な物品の買い物 はネットショッピングサイトを利用し、外食 の代わりに配達サービスを利用して食べ物を 注文する頻度が増加している。家の外に出か ける瞬間からマスクの着用が一つの義務のよ うになっており、入る商店ごとに、床に一定 の間隔で表示されている待機線に沿って動く ことを強いられる。社会的な空間での日常生 活は物理的な距離に対する常時的認知とその 「距離を確保しろ」という規範的な要求で満 たされていく。このような距離化への要求 は、パンデミックの時期を生きている人々に、 社会的な関係の維持と喪失という二つの側面 全てにおいて、極めて直接的で直観的な形の 心理的不安を誘発させている。このような不 安は表面的には個人と個人の「ディスタンシ ング(距離化)」として表出しているが、その 裏面で働いているさらに重要なメカニズムは 個人と社会の「ディスタンシング」にある。 つまり、現在要求されている「ソーシャルディ スタンシング」は、単純に表面上の「物理的 な距離」を超えて「距離化」という社会学的 概念が投げる議論と関連させて考える余地が あるのである。 社会学において「距離化」の問題は現代社 会を分析する際におけるより根本的な思惟と 関連するものであった。これに関してはジンメル (G. Simmel)やデュルケム(E. Durkheim)、 マルクス(K. Marx)などの初期社会学者た ちの議論まで遡ることができる。社会学的に 「距離化」という概念は抽象的な性質の現代 社会を究明することにおいて核心的な意味を 内包する。ジンメルは、現代の都市的生に関 する分析及び貨幣に関する議論を通じて具体 性の喪失と「距離の増大」という状況の中に 置かれている現代人の姿を提示しており、 デュルケムもまた、分業が発達する現代社会 における個人と個人の距離、個人と社会の距離に関する豊富な議論を提供している。これ ら古典的な社会学者たちの議論において「距 離化」の問題は、現代社会が「抽象的」に変 化していく過程における基本的なモーメント としてみなされるものであり、そのような「抽 象性」において重要な要素をなしているもの である(※11)。 現代社会において「距離化」が引き起こす 「抽象化」は、悪魔と天使の顔を同時に持って いる。それは否定と肯定のいずれの側面も内 包する。それは現代人を憂鬱にさせるウイル スでありながら、同時に現代人を社会の中で 生きていけるようにするワクチンでもある。 現代社会が露呈する総体的な距離化における 否定的な側面の典型は、おそらくマルクスが 語っていた「疎外」の状態であろう。現代人 はあらゆるモノから遠ざかる。以前の神から も遠くなり、彼(女)らをめくる事物からも 遠くなり、他人からも遠くなる。その結果、 結局自分自身からも遠ざかることになってし まう。このような距離化、つまり疎外は、現 代世界のあらゆる解体現象と結びついて破片 化する社会像へ導いていく。自分が属する社 会から遠ざかってそれが自分の社会として受 け入れがたいものとなり続ける、つまり社会 への自己同一化を欠乏した破片化した社会の 中で、人間は「川の真ん中で櫓を失ったまま 下流へ流される」境遇に陥ることになる (Taylor 2001:149)。このような状況に置か れている現代人の反応は、ますます「批判と 疑問を提起する能力を喪失」することに導か れる(Zijderveld 1970:86)。この状況では、 個々人は具体的な特質を失われやすくなる。 個人と社会の距離化は、個人と社会が密着し て個々人を「質」として区分する社会に終焉 を告げる。抽象化した社会の中で個人は量と して還元され、相手が具体的・・・にどのような人 であるのかについての答えを見出すことが難 しくなる。人々は互いに「特質のない人間」 (Musil 1996)になっていく。ジンメルは貨幣 が発達すればするほど、人間を質として区分 することが一層困難になると見た(Simmel 1983:489)。このような社会は異質的な個人 を前提としているにもかかわらず、人々は個 性が失われた時代を生きていく。これはま た、標準化及び規格化として描写される時代 の姿でもある。ベンヤミンの「オーラの喪失」 (Benjamin 1969)、マルクスの「後光(halo) の喪失」(Marx 1972)、ヴェーバーの「脱呪 術化」(Weber 1958)、などは、いずれもその ような社会の一面を物語っている。このよう な社会における人間は、伝統的な意味では社 会の外にいる存在である。このことは、デュ ルケムが提示したアノミー的状況にさらされ やすい存在であることを意味する(※12)。つ まり、社会が与える「聖なる天蓋」(Berger 1990)は消えてしまい、個々人は社会から付 与され確認される具体性を失ったまま、抽象・・ (※11)「抽象性」という概念が現代社会を修飾する一つの鍵概念になれることを明示的に提示したのは、誰より もザィデルフェルト(Zijderveld 1970)の功によるところが大きいものの、現代社会の「抽象的」な性質に関 する注目はデュルケム、ヴェーバー、マルクス、ジンメルなど、ほとんどの古典的社会学者たちの議論の中で 読み取れる共通の姿勢であった。現代社会の「抽象性」に関わる社会学的な議論に関しては呉(2019)におい て概略的に参照できる。 (※12)デュルケム(1973;1979;1984;1992)の議論のほかに、代表的な議論としてはジンメル(1983)、マルクス (1976)、バーガー(1973)、パーソンズ(1967;1977)も参照できる。
的な個人 ・・・・ として生きていくことを強いられる のである。 しかし、「距離化」は現代人が社会を生きる ために必須不可欠な免疫力として求められる ものでもある。人格的な関係よりは機能的な 関係による相互作用が中心になる現代社会 は、人間が依存すべき他人の数を増加させる と同時に、「人間活動の背後に存在する人格 体」を 諸 機 能 の 後 ろ に 遠 ざ け る(Simmel 1983:376-377)。このような関係の中で個々 人は他人からも、そしてそのような関係の中 で遂行する自分の役割からも適当な距離を維 持しなければならない。そうしない場合、日 常の相互作用は壊れやすくなり、外的にも内 的にも不必要な干渉と衝突によって耐え難い 状況へ陥りかねない。つまり、「有機的な連 帯」の状況に置かれている人々が互いに自然 に、円満な関係を結びながら生きるためには、 このような「距離」が必須ということである。 「距離化」がもたらす具体的な特性の喪失は、 一方では疎外とアノミーを引き起こす危険性 を有するものの、他方では個々人の具体的な 特質を無視した代償として全ての人を公正に 扱う客観的な公正性を得る。人間は特定の性 質と地位に関連して把握されることなく、た・ だ一人の人間 ・・・・・・ として把握されるため、全ての 個人は同等な価値を持つことになる(Simmel 1983:540-545)。これは、いわゆる民主的平 等化の礎になるものであり、「公正性への一 般的な期待」(Berger et al. 1973:50-56)を発 生させるものでもある。また、これは人間と しての個人に対する尊重(dignity)(※13)、普 遍的権利概念の強調、及び市民的秩序の可能 性などの肯定的な要素とつながって、現会社 会の個々人における可能な連帯の重要要素を 構成する部分でもある。 現に求められている「ソーシャルディスタ ンシング」において「ソーシャル(社会的)」 という形容表現を社会学的にどう解釈すべき かに関しては、確かに慎重な議論が必要な部 分がある。しかし、少なくともそのような表 現が「語られている」現象そのものを通じて 垣間見ることができる集合意識(ないしは集 合的無意識)は「社会」に対する一つの非常 に明瞭な認識の傾向を示しているようであ る。ソーシャルディスタンシングという規範 的要求が今受け入れられていることにおい て、その正当性の根拠は極めて明確である。 それは、ウイルスの感染というリスクに対す る恐怖と不安である。そのとき、「社会的」と いう言表の中に存在する「社会」とは、ウイ ルスに感染する可能性の脅威であり、感染可 能性を有する接触で満ちている、つまりリス クの空間(あるいは関係)である(※14)。「社 会生活」は感染の危険を冒して遂行しなけれ ばならない危険な行為に転換している。 (※13)バーガーは「名誉(honor)」と「尊厳(dignity)」を対比して論じながら、社会からの「距離化」は一方では 「名誉」の概念を衰退させているものの、他方では「尊厳」の概念を前面に登場させたと主張する(Berger 1970)。 (※14)「社会」をどのような存在としてみなすべきかの問題は、社会学の内部でも非常に多様なスペクトルを見せ る論争の対象であり続けてきた。本稿でその論争を詳しく論じることは不可能であるが、社会の構成員を危 険から守る、安全を保障する空間として「社会」をみる立場が、伝統的な社会理論の一軸をなしてきたことは 間違いない。「近代的」社会に対する肯定的な要素に着目する社会観は基本的にこのような立場の含意を (部分的であれ全体的であれ)共有する。この立場においては、新型コロナのパンデミック下で現れる、「リ スク」としての「社会」認識は相当に当惑させる現象として見えるものである。
「距離化」に関わる社会学的議論が描き出 す社会像において核を握っている部分は、社 会が個人の前に強力に現前していた、かつて の「リバイアサン」の姿を捨てて、見えない 「とあるモノ」として退いているかのように 変貌したという点である。しかし、見えない 抽象的な社会はウイルスによって不安とリス クのネットワークとして具体化する。私たち を感染させ、直接に命を脅かす社会は、その 意味では再び「リバイアサン」の強力な姿を 回復したようにも見える。ただし、巨大で可 視的な怪物の姿ではなく、非可視的で、どこ にいるのか分からないので絶えず不安を抱か せるウイルスの姿で現前しているのである。 玄関の戸を開けて外に出かけることは私にも 危険であり、他人にも危険である。それゆえ、 私たちはただ家の中にこもることを強要され る。それは他人を守ることであり、私の生命 を守ることでもある。大澤が指摘しているよ うに、全地球的に広がっているパンデミック 状況の解決のためには「最も包括的で強い連 帯が必要なとき」にもかかわらず、「連帯に とってもっとも重要な基礎的な手段、近く いって触れあうという手段を奪われる」(大 澤 2020a:7)という状況になっているので ある。感染への恐怖とともに、ウイルスが私 たちを分断させ破片化させる結末へ導いてい くという懸念が付きまとう。このような現在 の様相は、前述した「距離化」の否定的な側 面だけを、ひたすら私たちに課しているよう に見える。そして新型コロナによるパンデ ミックはこれを規範的にまで正当化している ように見えるのである。
5.パンデミックと現代人
しかし、ここで我々は次のようなことを見 逃してはならない。つまり、パンデミック状 況の中で「ソーシャルディスタンシング」が 強要されている今の状況は、現代社会の個人 が経験する実存的状況と通底している点であ る。 現代社会は、実に多様性が爆発する社会で ある。科学技術の目覚ましい発展は現代人 に、物理的または認知的な移動がいつの時代 よりも自由にできる環境を提供した。現代人 は常にどこかに向かって移動する、あるいは 移動するために待合室に腰をおろしている 人々である。移動とは基本的に移動の対象 (目的地)を前提とする。すなわち、現代社会 の個人は移動できる多数の居所が存在するこ とを認知しながら生きている存在である。そ してこのような認知は単に物理的な空間を超 えてアイデンティティのレベルでも行われ る。どこでも移動できるのであり、その選択 権、決定権を手にしている現代人は、自分の 手にある多様な選択肢ほど可変的で気が多い 存在でもある。社会の「多元化」として表現 される現代的状況の中で人々は、自分たちが 置かれる多様な居所でそのつど必要な役割と アイデンティティを求められるようになり、 それらの役割とアイデンティティを何ら問題 なく装うことができる時に限って、社会生活 を成功的に営為できるようになる。おそら く、役割とアイデンティティを装う・・、という ことは現代人における最も特徴的な行為規範 であろう。自分が遂行すべき多様な役割の 中、特定の一つの役割に没頭しすぎるとその他の役割を難なく成し遂げることに支障をき たす。教室での教師の役割から抜け出ること なく、そのまま家に帰って配偶者との相互作 用でそれを持続させようとすると、「ここは 学校でもないし、私はあなたの学生じゃな い!」という憤りに遭うだけであろう。おそ らく、それは日常の相互作用を破綻に導いて いくかもしれない。それゆえ、与えられた 様々な役割を「ほんとう」の自分自身と同一 視することは、現代的な状況では一種の毒に なる。結局そのような役割は自分自身と 同一視されるよりは、舞台で行われる演技 のように装わなければならない・・・・・・・・・・。ゴッフマン
(E. Goffman 1961)の言う「役割距離(role distance)」は役割からのそのような距離確 保を意味する。この役割距離は現代社会の 人間のみに限るものではないものの、それを 「本格的、直接的、意識的、さらには能動的に 経験する者」は、まさに現代人である(Kim 2011:284)。常に様々な舞台を経験しながら、 各自身の本来の姿から距離を置いて生活しな ければならない、それゆえ不断に不慣れな状 況を経験する現代人の実存的状況は「異邦人 (よそ者)」という言葉で含蓄できるであろ う(※15)。異邦人は常に不慣れな状況に置か れている、距離を置いている者である。異邦 人の行動において最も重要な規範は「無関心」 とも言えるものである。特に、ゴッフマンが 提示する「儀礼的無関心(civil inattention)」 はこのような異邦人の行動規範を適切に表現 している。儀礼的無関心は社会的な空間の中 で現代人が互いにあたかも関心がないように して振舞うことを意味する(Goffman 1971: 219)。このような無関心は、実際に他人に対 して何の関心も持っていないことを意味する ものではない。むしろこれは、反対に、常に 周囲に対して、他人に対して神経を尖らせて いることを要求する無関心である(※16)。不 慣れな状況、異質的な他人に囲まれている状 況の中で、他人から自分を守り、また自分が 他人にとって危害ではないこと、危害を加え る意思がないことに絶えず気を配りながら見 せなければならない。 このような姿は、現に新型コロナのパンデ ミック状況の中で、人々に要請されている新 しい生活様式とオーバーラップする、まさに その姿である。新型コロナパンデミックとい う非日常が続いている状況(常時的不慣れな 状況)の中で、現に人々は、不安を避けるた めの必然的な距離化と絶えずに気を配る無関 心への要求の中で生活している。つまり、新 型コロナのパンデミック状況は、現代社会に おける(望むと望まざるにかかわらず置かれ ている)個人の実存的位置を克明に見せる一 つの契機となっていると言える。その意味 で、「ソーシャルディスタンシング」に代表さ
(※15)異邦人としての現代人について社会学的に豊富な議論を提供しているキム(Kim Kwang Ki)は次のように 言及している。「『本来性(authenticity)』の追求は『自由』の追求であると同時に『真実』の追求である。こ の点で本来的な自己を追求する現代人の姿は、それと同一のものを追求する異邦人の姿と正確に一致する。 そしてそれら両者を生んだ外的条件も正確に一致する。なぜなら異邦人の目には、社会は『非本来性』で満 ちている場所として映されており、そのような自覚が目を立てれば立てるほど彼(女)はその世界の外側に 目を逸さなければならないからである。世界の外側に立つ者は本来性を追求する者であり、その点におい異 邦人と現代人は正確に同一人である」(Kim 2011:287)。ちなみに、社会学の領域で行われてきた異邦人にて 関する研究についてはキム(2004)に議論の要点が良く整理されている。 (※16)その意味で、キムは「儀礼的(市民的)気配り」と表現している(Kim 2011:293)。
れる新しい(もののように見える)生活様式 が私たちに露呈している状況は、「新しいけ れども新しくないもの」と表現した方がさら に的確な表現になるかもしれない。それは 「新しい」変化ではなく、すでに経験したもの、 経験しているもの、あるいは経験すると決め られている変化の一つの局面と言うべきもの かもしれない。もちろん、それが引き起こす 結果は、予想できるかできないかとは関係な く「変化」として私たちが経験する社会的な 生の一部になることは確かであり、それを否 定することはできない。 新型コロナのパンデミックは、抽象的に なって、まるで消えたように見える社会を極 めて具体的な形に引き戻した。再び拘束力を 回復したように見える社会は、個々人を文字 通りに身動きもできないようにしている。 (実際に、それは私たちを家に閉じこもらせ ているのである!)このことは、確かに、パ ンデミックによってさらに深刻化するかのよ うに見える個人主義とも猛烈に葛藤するもの である。しかし、個人主義との葛藤を引き起 こしているといっても、その反対(つまり集 合主義的の方向)に行くこともできないよう にしている点では、出口がなさそうに見える こともまた事実である。その意味では原子 化、破片化の極端な危険性に直面しているこ ともまた否定はできない。もちろん、これが 現代社会の根底に置かれているモーメントと ある種の共通点を持っているとするならば、 社会学的な距離化に両価的な意味が置かれて いたように、その展開が必ず破局に向かって 走るだけではないという希望もまた否定され てはならないかもしれない。
6 新しいけれども新しくない:新型
コロナのパンデミックが投げかけ
る諸問題
以上の議論は次のような問いについて、多 少懐疑的なアプローチに私たちを導いている ように見える。つまり、新型コロナは果たし て、今まで私たちが享受してきた日常の生活 様式に対する終焉を意味するのか。新型コロ ナ禍を克服して回復すべきだと叫ばれている 日常的生活様式とは果たして何を意味するも のか。それはマスクをつけずに、対面的な相 互作用が当然視される生活を意味するのか。 もし、そのような表面的な側面で見るならば、 新型コロナが私たちの日常生活に対して突然 の終焉・・を告げたという言明は正しい。そして そのような意味で、その日常を表面的・・・・・・に回復 することを望むことは(それが可能であれ、 そうではないであれ)それ自体、あげつらう 理由はどこにもないであろう。しかし、今考 えなければならないことは、そのような皮相 的な側面にとどまる部分ではないかもしれな い。新型コロナによる現在の状況が私たちに 提示しているものが、どのような意味と可能 性の明暗を示しているのか、明確に直視する ことが何よりも必要な作業になるであろう。 新型コロナのパンデミックによるソーシャ ルディスタンシングは、確かに人々を孤立さ せる要素を有しており、この状況が長期化す ればするほど孤立は日常的なものになってし まう危険が存在する。大澤は次のように指摘 する。「接触ということが基本的に禁じられ るならば、それは、人間の自己認識とコミュ ニケーションの前提条件を否定していること」になり、「この時、すべてのコミュニケー ションが不毛であると言わざるを得ない」(大 澤 2020b:25)。さらに、新型コロナのパンデ ミックにおけるソーシャルディスタンシング は、一つの規範的・・・な行為様式として認知され ることによって、人々をして孤立の日常化を 受容するようにさせる側面がある。孤立の反 対側に存在した豊かな社会的関係、個々人の 「保護膜」になってくれるかのように・・・・・思われた 社会的関係は剥き出しの「リスク」と化した。 その中で、「孤立」は打破すべき対象から、(不 可避ではあるものの、身の安全のためには) 受け入れなければならない対象として変貌し た。社会的な関係に抱かせた期待、互いの体 温を感じながら築きあげる絆への希望は、文 字通りに生命を脅かす要素となってしまっ た。しかし、ここでよく考えなければならな いことは、我々はそのような「社会的関係」 が「保護膜のようなもの」になることを望み ながら、そのような関係を構築(ないしは再 構築)することを熱望しただけであって、実 際にそのような関係で充満している世界を生 きてきたわけではないという点である。個人 主義の深刻化、コミュニティの崩壊、人間関 係の破片化などで点綴される描写は、何一つ 新しいものではなく、私たちの時代の社会像 そのものである。新型コロナのパンデミック がしたことは、失われたからまた取り戻した いと望んだ・・・、消えたから再び築きあげたいと 熱望した ・・・・ 、 「保護膜」への幻想・・を取り払う契機、 そのような幻想の不在を認識させる契機を提 供したことである。 現代社会を生きる人間にとって、日常生活 はすでに「距離設定」であふれていた。多様 性が爆発する社会、アイデンティティが爆発 する社会で人間は自分の本来の姿を維持し難 い危険性に、常に晒されている存在である。 その意味で、現代人は異邦人の別の呼び名に 過ぎなかった。様々な集団の人々と出会い、 様々な役割を果たしながら、そのつど異なる マスクをかぶって自分を変えなければならな い日常の中で、ほんとう・・・・の自分自身を温存さ せること、自分の本来生を維持することは相 当な疲労感を伴うものである。現代人の生 は、他人及び自分を取り囲んでいる多様な社 会的環境から自分自身の本来生を揺さぶる、 外部からの感染を避けることに他ならない。 新型コロナが呼び起こしたのは、日常的な社 会関係の中で私たちが常にかぶってきた非物 質的なマスクが物質的なマスクに置き換えら れたことだけかもしれない。 もちろんこれを、何の意味も持たない変化 として言い切ることはできないであろう。新 型コロナが呼び起こしている変化において、 決して軽くない意味を持っている部分は、そ れが「関係」に対する既存の幻想を(望まな くとも)捨てて現代社会のありようを直視で きる契機を与える点にある。そこでウイルス という存在が見せる、伝染のネットワーク・・・・・・と しての性質は社会像に関する重要な意味を内 包する。ウイルスの伝染が見せる線形的な ネットワークの位相幾何学は、伝統的な社会 とは異なる現代的な社会での「関係」の様相 に対する抽象的な認識を経験的な次元に引き 下げる契機になり得る。ネットワーク(網状) として繋がっている行為者は、互いに絶えず 再規定しながら依存する「関係」を形成する ことになり、その関係は、不安定で可変的で
はあるものの、常に直接的に結びつくという 特徴を有する(※17)。 ソーシャルディスタンシングは(大澤が懸 念したように)人間関係一般を不毛にするだ けのものとして捉える必要はない。ネット ワークの基本的な属性はあくまでも「関係」 に置かれている。しかも、アクターとアク ターの間の直接的な関係がより重要視される 点が重要である。例えば、インターネットに よる非対面的な講義は、教師と学生の間に紛 れもなく物理的な距離は存在しているもの の、周囲の学生たちを気にする必要なく教師 と学生がダイレクトにコミュニケーションで きる可能性を提供する。既存の講義室で教師 と学生が1対多数という構造を強要されたと すれば、非対面的な状況では基本的に、学生 は教師の講義を1対1として対面することに なる。単にそこでは「暖かい体温」を感じら れないだけである。(しかしよく考えてみれ ば、今日の社会において暖かい体温を通じて 交感すべき関係は極めて限定的であり、いわ ゆる社会生活・・・・においてはなおさらそのような 関係は前提されていない、また前提される必 要もない。)つまり、ソーシャルディスタンシ ングは関係の断絶を意味するものでもない し、そうする必要もない。形式の変化に敏感 すぎる必要はない。「ソーシャルディスタン シング」の形式的な条件によって不可能にな るつながり(または絆)だとしたら、それは、 そのような条件の有無とは無関係に、すでに 形成され難い、脆弱なつながり(または絆) であることを意味するだけである。コミュニ ティの復活/再生を声高に叫ぶ多くの試みが、 期待通りの成果を収めることなく壁にぶつか るのは、単純化していうと、そのような幻想 を捨てられなかったことから起因するとも言 える。 ソーシャルディスタンシングにおいて、む しろ懸念すべき要素は、これが伝染の抑制と いう名のもとで強化させている監視社会への 移行可能性である。例えば、中国の場合は、 スマートフォンカメラの顔認識などの技術が 政府によって、ウイルス感染が疑われる人の 把握、移動経路の追跡、接触者の特定にまで 活用された。またイスラエルでは、対テロ戦 に備えて用意した監視技術までコロナウイス ル感染者の追跡に使用された。ハラリ(Y. N. Harari)が警告するように、国家によるこの ような監視テクノロジーの使用は、パンデ ミック状況が終わった後にも持続する、恒常 化の危険性を持つ(Harari 2020)。つまり、 例外的な状況への対応のために不可避に導入 された「監視社会」が、通常の状況に戻って も消えることなく持続され、国家による莫大 な監視権力の行使が恒常化する恐れがあるの である。このような「例外状況が規範的なも のに変貌する可能性」(Beck 1997:59)は明 らかに個々人の自由と人権に対する重大な危 険性を内包するものである。しかし、この点 においてもネットワークの性質が内包する (※17)それとともに、安定的で持続的に、その中に入ることだけで何も気にしなくて良い、つまり領土的に「一緒 にいる」ことは網を繋いでいる線と線の間の空白に置かれることになる(ラトゥール(2019:250)はこの空 白をネットワークのメタファーにおける重要な特徴の一つとして提示している)。それは走っているバスの 窓越しに見える手に届かない風景のように存在するだけである。それが幻影ではないとしても、そのような 「関係」を掴むためには車を止めてそとに出る必要がある。しかし(残念ながら)私たちはバスの運転手では なく乗客として存在しているだけである。
「関係」指向性が重要な役割を発揮できると いう主張にも注目する必要がある。例えば、 強化しつつある監視社会の危険性に対して、 大澤はモニタリング民主主義の可能性に言及 している。大澤は、ベンヤミンが『暴力批判 論』で提示した「神的暴力」に注目しながら、 これが全体主義への転化を抑制する力になり 得ると主張する。神的暴力とは、権力の場所 を「不断に更新させる」力のことで、「民主主 義の限界、民主主義がその内部に孕んでいる 自己否定的過剰性(疎外)と相関して機能」 する力である。大澤は神的暴力に関する議論 を踏まえて、新型コロナのパンデミックとい う例外状況で行われた「監視社会」的な統制 をモニタリング民主主義によって解決するこ とも考えられると主張する(大澤 2020a:21-32)。つまり、「監視」の問題も関係的要素を 考慮した「相互監視」というモデルで対応す ることで克服する可能性が存在するのであ る。 ソーシャルディスタンシングという新しい (あるいは新しく見える)生活様式がもたら す否定的な側面は、他にも様々な角度で指摘 できる。その中で新しい「格差」の問題は確 かに深刻な問題である。ベック(U. Beck)は 「貧困は階級的であるがスモッグは民主的で ある」と言いながら、リスク社会では危険の 地位と階級の地位が必ずしも一致することで はないと主張する(Beck 1997:77)。確かに、 ウイルスは階級的な地位を問わずに平等に人 間を見ているかもしれない。しかし、新型コ ロナのパンデミック状況の中で、ソーシャル ディスタンシングができる職群とそれができ ない職群との間には明確な線が引かれてい る。在宅勤務が可能な人は一部のホワイトカ ラーに限られており、もし、非対面的な作業 環境の造成が加速化すると、それによって職 を失う労働者も少なくないであろう。一部の 業種は新型コロナによってむしろ活況を呈し ているものの、対面的なサービスを中心にす る業種においては止むを得ず廃業に至ってい るケースが続出している。ソーシャルディス タンシングは、それを可能にするために「ディ スタンシング」が不可能な労働者たちを必要 としており、そのような労働者たちは、その 新しい生活様式 ・・・・・・・ とは距離・・がある人々である。 そしてこれは、単に経済的な不平等の問題に とどまらず、感染の危険にもっと多く、もっ と簡単に晒されるという点で生命の不平等へ 直結する問題でもある。しかし、このような 新しい ・・・ 格差の問題は、相変わらず新しくない 「格差」問題の延長線上に存在する問題とも 言える。もちろん、そうであるからこそ、今 まで解決策を模索してきたように、これから も続けて、解決するために力を尽くしていか なければならない課題であることは言うまで もないであろう。 新型コロナのパンデミックが現代人に提起 する精神的かつ哲学的な側面の問題はさらに 根本的な次元で熟考すべき問題であるかもし れない。アガンベン(G. Agamben)が指摘す るように、外在的なコロナウイルスは「生き ること」だけを重視する価値を強調してしま う側面がある。他者は私の命を脅かす存在で あり、社会も私の生命を脅かす存在である。 その中で取られるソーシャルディスタンシン グは「生きる」ための選択肢であり、またそ れだけが唯一の目的となる選択肢である。ア
ガンベンは、現代社会における「剥き出しの 生」だけを重視する風潮について批判的で あった(※18)。現代社会、特に資本主義社会は 基本的に労働という価値を最優先に置きなが ら人間を見る。これは労働できる肉体、健康 な肉体への価値を強調することにつながる。 このような現代資本主義世界において、死は 無用のものであり、死に近づくにつれて人間 の価値は切り下げられる(※19)。つまりアガ ンベン的に言うならば、「剥き出しの生」だけ を重視する典型的な社会が、まさに現代資本 主義社会である。「剥き出しの生」だけが重 視される社会は、全ての他者が脅威であり、 全ての他者が敵になる社会である。そのよう な側面で現代資本主義社会は、感染の回避と 感染症の恐怖にとらわれている社会に似てい る。つまり、新型コロナがもたらしたソー シャルディスタンシングという新しい(と思 われている)生活様式は、現代資本主義社会 が追求する人間価値の諸側面に関する問題提 起を剥き出しに・・・・・露呈しているとも言えるもの である。
7.終わりに
新型コロナのパンデミックは、非人間行為 者が私たちの生にどれほどの影響を与えられ るのかを、ごく短時間で圧縮的に見せている。 また、新型コロナによるソーシャルディスタ ンシングは、「ソーシャル(社会的)」という 言説が称する意味に関する変化の一側面を提 起するものとして理解することもできる。こ れらは社会学(ないし社会科学)において理 論的に非常に示唆的なアジェンダを提供して いるように見える。もちろんこれは、理論的 な次元の示唆にとどまるものではなく、極め て実践的な生の問題とも直結する論題である。 しかし、一方で、新型コロナによって引き 起こされている現在の出来事が、私たちを全 く新しい生き方へ導いているのかと問いかけ ると、それに対しては簡単に「そうだ!」と 言い切れないと言った方が適切な答えになる のであろう。というのは、私たちが生きてい る社会は、おそらくカミュ(A. Camus)が『ペ スト』で描写している「オラン市」のような 劇的な舞台まではないとしても、その根底で、 すでにパンデミックとある程度の特徴を共有 しているからであり、その中で生きている私 たちはすでに感染を回避し、距離を置きなが ら安全を確保する生き方に慣れていったから である。その意味で「われわれはみんなペス トの中にいるのだ」という声の響きは決して 軽いものではないかもしれない(カミュ 1969:375)。 もちろん、本稿で述べようとしたものは、 「変化」そのものを全て否定するものではな い。ただし、私たちの生活、行動様式を底か らひっくり返す変化、それゆえ今までとは全 く異なる方向に向かう、新たな社会像を描き 出す変化が進んでいるとは言い難い。「ある べき社会的なもの」に対する幻想を取り払う と、私たちは、以前と大きく異なる社会を生 (※18)アガンベンは、「私たちの社会はもはや剥き出しの生以外の何も信じていない」と言いながら、「剥き出しの 生-剥き出しの生を失うことへの恐怖-は人間たちを結びつけるもの」ではなく「人間たちの目を見えなく させ、彼らを互いに分離するものである」と主張する。そして彼は、「生き延び以外の価値をもたない社会と はどのようなものか」と問いかける。(アガンベン 2020:20) (※19)現代資本主義社会において高齢者に関する評価の切り下げは、この意味では極めて当然な帰結とも言えるで あろう。きることになるとは思われない(※20)。非対 面的「関係」だとして「関係」の本質すべて が変わると過度に懸念する必要はないかもし れない。 言うまでもなく、このような出来事が導く 影響を評価することは簡単ではない。経済的 な影響は想像以上に、実に深刻なものになっ ていくように見えるのであり、またそれが有 する非対称的な性質はさらに深刻な問題を提 起する。つまり、変化に脆弱な社会層におけ る影響は一層深刻なものになるだろう。しか し、このような諸問題は、現代社会が持続的 に露呈してきた「リスク」の一般的な属性か ら遠く離れているものではかく(だからとし て重要ではないことを意味するものではない ものの)、驚くべき・・・・ものでもない。むしろ、新 型コロナによるしかじかの変化や影響が、「新 しく」「驚くべき」「どうしようもない」もの であるという認識は、それを見つめる私たち の目を曇らせる恐れがある。つまり、誰もど うしようもない突発的な変化、特殊性だけを 強調すると、それとともにその結果に対する 「不可避性」を強調しすぎることになるかも しれない。このような強調が責任の対称性に つながると、結果的に、もしかしたら、誰か には免罪符として作用することになるかもし れない。 本稿は新型コロナウイルスによって、一つ の規範的な社会的実体として浮き彫りになっ ている「ソーシャルディスタンシング」に関 連する意味を社会学的な観点を中心に検討し ようとした試論的な議論であった。新型コロ ナウイルスは、それがもたらしている社会的 な出来事とともに社会学的な分析の対象とし て様々な問題提起をしていると同時に、それ 自体が社会学的な分析のための理論的思惟に おける一つの「方法」としての可能性を提供 するものでもある。今後、新型コロナ禍がど のように展開するのかは相変わらず予測がつ かない。しかし、一つ確かなことは、現に私 たちが生きている社会的生の方式と社会を捉 えることにおいて、コロナが意味深い議論の 場を開いている点であろう。
参考文献
・アガンベン, ジョルジョ(2020)「説明」高桑和巳訳『現代思想5? 感染/パンデミック』48(7):20-21. ・大澤真幸(2020a)「不思議なことだけが危機をこえる:連帯・人 新世・倫理・神的暴力」『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』 河出書房新社. ・_________.(2020b)「ポストコロナの神的暴力」『大澤真幸 THINKING-O 016:コロナ時代の哲学』左右社. ・呉獨立(2019)「抽象的現代社会における社会統合の『ありよう』」 『福祉社会へのアプローチ(久塚純一先生古稀祝賀)』上巻: 149-173. ・カミュ,アルベール(1969)『ペスト』宮崎嶺雄訳,新潮社. ・厚生労働省(2020)「新型コロナウイルス感染症の現在の状況と厚 生労働省の対応について(令和2年 10 月 28 日版)」)https:// www.mhlw.go.jp/stf/newpage_14491.html ・ジジェク,スラヴォイ(2020)「監視と処罰ですか?いいですねー、 お願いしまーす!」松本潤一郎訳『現代思想5-感染/パンデミッ ク』48(7):27-37. ・ベンヴェヌート,セルジョ(2020)「隔離へようこそ」高桑和巳訳 『現代思想5-感染/パンデミック』48(7):14-17. ・ラトゥール,ブリュノ(2019)『社会的なものを組み直す:アクター ネットワーク理論入門』伊藤嘉高訳,法政大学出版局.・Beck,U.(1994)“The Reinvention of Politics”. in U. Beck, A. Giddens, and S. Lash eds.,Reflexive Modernism. Cambridge: Polity.
・_________.(1997)Risk Society. tr. by Sungtae Hong,Seoul: Saemulkyol.
・Benjamin,W.(1969)Illuminations. New York:Schocken Books. ・Berger, P. L.(1970)“On the Obsolescence of the Concept of
Honor”. European Journal of Sociology, 11(2):339-347. ・_________.(1973)“Sincerity and Authenticity in Modern Society”.
The Public Interest,(31):81-90.
・_________. (1990)The Sacred Canopy:Elements of a Sociological Theory of Religion. New York:Anchor Books. ・Berger, P. L., Berger, B. and Kellner, H.(1973)The Homeless
Mind:Modernization and Consciousness. Harmondsworth: Penguin Books.
(※20)ベンヴェヌート(S. Benveuto)は次のように語っている。「つまるところ、このエピデミックのもたらす効果 は、このようなことがなかったとしても優勢となっていたはずの一つの傾向を強化するものとなることだろ う。オフィスを避けて家で仕事をする『リーモートワーク』ないし『在宅勤務』は、その傾向を示す一面にす ぎない。」(ベンヴェヌート 2020:16)