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井上円了の仏教改良と真宗大谷派

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問題設定   井 上 円 了 は 真 宗 大 谷 派 (以 下、 大 谷 派) の 寺 院 に 生 ま れ、 宗門の給費生として大谷派の教師教校および東京大学哲学 科で学んだが、卒業後は宗門からも自坊からも離れ、私立 学校哲学館を中心とした独自の教育活動に従事した人物と して知られている。そうした活動に至った経緯について、 明 治 四 四 年 (一 九 一 一) に 行 わ れ た 親 鸞 六 五 〇 回 大 遠 忌 の ために円了自身が記した文書があるので引いておこう。 私しは昔し東京大学在学中、其当時の宗教界の状態を 見て、悲憤憤慷に堪へざることありて、仏教の頽廃已 に斯くの如きに至りたる以上は、到底一宗一派の内部 にありて、其復興を謀るの無功なるを知り、宜く局外 に出でゝ、大に活動せざるべからずと思ひ、大学卒業 の際、其意見を本山当局に上申し、文書を以て再三往 復の結果、其承諾を得、是より睡手一番大に奮起して、 世間に立ち、俗人となりて、専心一意、教育の事業に 尽瘁し、以て仏教の外護となりて、其頽勢を挽回せん ことを誓ひ、自ら非僧非俗道人と号し、独力経営によ りて、哲学館を創立することに至りまし た。 ( )1

《研究論文》

井上円了の仏教改良と真宗大谷派

親鸞仏教センター嘱託研究員 

 

  谷

  川

  

  

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  円了は、当時廃仏毀釈の動きやキリスト教の進出によっ て 逆 風 に あ っ た 仏 教 界 の 状 況 を 憂 い、 「一 宗 一 派 の 内 部」 から仏教を復興するのは困難であると考えた。そして本山 に訴えつつ、最終的に「俗人」となって教育活動を行 い、 「仏教の外護」となることを選んだわけである。長男であ った円了は当然ながら幼い頃から寺を継ぐことを期待され ており、また次世代の宗門を担う人材としてエリート教育 を受けた立場にあった。それにもかかわらず、寺からも宗 門からも離れるという決断を行ったのは、仏教界全体の復 興のためだった、ということになる。   近 代 仏 教 研 究 者 の 吉 永 進 一 は、 「仏 教 の 近 代 化 と は、 仏 教 が (日 本 の) 寺 院 か ら 出 て い く 過 程 だ と 言 っ て も い い」 と述べているが、円了の歩みを見ると、まさしくその典型 例にも見えてくる。実際、関連資料を手がかりに円了と真 宗大谷派の具体的な関わりをまとめた森章司によれば、哲 学館創立後数年を経ると、両者の間で「公的な接触はほと んどなく」なり、また大谷派における白川党の宗門改革運 動などにも円了は直接的に関与することはなかっ た。この 点 に 関 し て 森 は、 「最 早 寺 院 を 継 ぐ 意 志 も な く、 ま た 大 谷 派僧侶としての意識も薄れ、一大谷派教団という枠から離 れた、より大きな一仏教者としての立場に立っていたのだ ろ う」と述べている。先の引用にも示されているように、 円了は「一宗一派」の利害を超え、いわば通仏教的立場か ら「仏教」そのものを再興しようとしたのだと、差し当た りは言うことができるだろう。竹村牧男も、著作活動とと もに仏教公認教運動などを通して諸宗派の連合を促した円 了 の 活 動 を 評 し て、 「円 了 自 身 は、 実 家 の 寺 を 捨 て ま し た。 しかし一寺院を捨てつつ、何万という寺院を救ったといっ ても過言ではないほどでしょ う」という仕方で表現してい る。   しかしながらその一方で、円了自身は真宗への信仰心を 生涯持ち続けてもいた。先に見たように、円了は親鸞を明 らかに意識した「非僧非俗道人」という号を好んで用いて い た。 そ し て 哲 学 館 の 経 営 を 退 き、 「修 身 教 会」 運 動 と い う社会教育活動に従事した後半生になると、真宗への思い は一層強まり、著作や講演を通じて真宗の「信仰告白」を 紙 面 に 何 度 か 発 表 し て い る。 た と え ば 晩 年 の 著 作『活 仏 教』 (一 九 一 二) の 末 尾 に も 付 録 さ れ た「余 が 信 仰 の 告 白 と ( )2 ( )3 ( )4 ( )5 ( )6

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来歴の一端」では、次のように言われている。 余の宗教的信仰は依然として真宗を奉じ、終始を一貫 して替ることなし、如何に公平に諸宗教諸宗派を審判 して見ても、信仰の一段に至りては、真宗の外に未だ 余が意に適するものを発見せず、是れ十歳以前家庭に 於て受けたる教育の仏縁が、内より自発せしによるな らん歟、嗚呼快哉南無阿弥陀 仏。   つまり円了においては、日本の仏教界を広く復興すると いう通仏教的志向とともに、寺院で生まれ育った「仏縁」 にもとづく真宗への特別な信仰心という二つの側面が共存 していたのである。そうであるならば、円了と真宗ないし 大谷派教団との関わり合いについては、単に仏教界全体の ために宗門・自坊を「捨てた」と考えるだけでなく、円了 自身の根本的な意図を明らかにしながら、その結節点をよ り詳細に考え直す必要があるのではないか。   そこで本論考であらためて検討するのは、円了が哲学館 を創立する以前の過程である。先に引いた文章で円了は、 「大学卒業の際、其意見を本山当局に上申し、文書を以て 再 三 往 復 の 結 果、 其 承 諾 を 得 (略) 独 力 経 営 に よ り て、 哲 学館を創立することに至りました」と述べていたが、この 文章は注意深く検討しなければならない。というのも、近 年発見された資料によって明らかになったことだが、最初 の上申で計画されていたのは、実は後の哲学館とは異なる 学校であった。円了が当初本山に訴えていたのは、真宗大 谷派を母体とした新しい仏教教育を行う学校の設立だった のである。しかしその上申は本山からは認められなかった。 結 果 と し て 円 了 は 計 画 を 変 更 し、 「独 力 経 営」 に よ る 私 立 学校哲学館を創立することになる。このような経緯がある ならば、円了が大谷派を離れて「俗人」となって哲学館を 創立する決断に至るまでには、葛藤を含んだ一定のプロセ スが生じていたはずであり、また何らかの軌道修正が行わ れたはずである。しかしながら、従来の研究では資料上の 制約もあり、この点に十分な注意が向けられてこなかった。   そこで本論考では、円了が哲学館を創立するまでの過程 を明らかにする基礎作業として、宗門の給費生として東大 で学んでいたころの言論活動に光を当ててみたい。円了は ( )7

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当初、どのような思いをもって宗門に関わっていたのか。 そしてこの際鍵となるのは、仏教の改革あるいは改良とい う視点である。以下では東大在学中の円了が大谷派の機関 紙『開導新聞』などで発表していた諸論考を取り上げ、さ らに、円了らが上申した新しい学校経営の計画をその延長 線上に位置づける。それにより、若い頃の円了の、大谷派 および日本仏教全体に対する立ち位置を明らかにすること を試みたい。そしてそれを通して、後に展開される哲学館 を中心とした円了の仏教改良のプログラムを理解するため の一助としたい。 第一節   真宗大谷派の教育改革   井 上 円 了 は 安 政 五 年 (一 八 五 八) 、 現 在 の 新 潟 県 長 岡 市 の 大谷派寺院の長男として生まれた。少年期は近隣の私塾で 漢学を学び、新潟学校第一分校において洋学を学んだ。そ の頃、円了の学業の優秀さが目に留まり、大谷派が新たに 設立した教師教校英学部に入学するよう、本山から命を受 けることになる。大谷派と井上円了との関係を理解する上 で教師教校への入学は重要であるので、この学校の背景を 中心に当時の大谷派の動きを確認しておきたい。   さて明治前半期の仏教界は、新政府が推進していた宗教 政 策 (神 仏 分 離 令、 大 教 院 制 度、 教 導 職 制 度 等) や キ リ ス ト 教 の進出によって、大きな打撃を受けていた。新しい時代に おける存在価値を政府や国民に示すことができなければ、 仏教そのものの存続が危ぶまれるような状況にあって、各 宗派は様々な改革を試みていた。とりわけ東西本願寺では、 新時代を担う人材育成によって宗門の危機を乗り切るため、 近代的な宗門教育制度をいち早く模索してい た。その際ひ とつの軸となったのが、新しい学問の導入である。これに ついて、早い段階での大谷派の動きとして注目すべきは、 明 治 元 年 (一 八 六 八) に 開 設 さ れ た 護 法 場 で あ る。 護 法 場 は、幕末期以降あらためて脅威となっていた儒学や国学者 の排仏論、およびキリスト教や西洋近代科学など新たな思 想の流入に対抗するため、それらを研究することを目的に 設立された教学機関である。そこでは伝統的な宗乗・余乗 以 外 の「外 学」 (国 学・ 儒 学・ 天 学・ 洋 教) の 専 門 的 な 研 究・教育が行われてい た。いわば外敵に対して自らの正当 ( )8 ( )9

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性を主張することが護法場の使命だったわけだが、しかし それは同時に別の効果を生じさせることにもなった。柏原 祐 泉 が 指 摘 す る よ う に、 「護 法 場 が も っ た 一 面 の 開 明 的 な 学問研究の中から、やがて宗務機構の改革を求める声が育 つ」ことになったのである。つまり近代初頭の大谷派にお いては、護法のための対外的な学問研究が契機となって宗 門のあり方を反省的に問い直すという動きが生じ、それが 実際の宗務改革にも繋がったのであ る。   さて、宗門内での「開明的な学問研究」は、護法場が廃 止された後に学寮を背景とした貫練場に一部引き継がれる ことになったが、それも含めて近代的な僧侶教育・学問研 究 は、 「教 校 制 度」 と し て 再 編 さ れ て い く こ と に な る。 教 校制度とは、僧侶教育および一般信徒への布教を目的とし た教育施設の全国的な組織化を目指したものであり、大教 院 (全 国 の 神 官 や 僧 侶 を 総 動 員 し て「教 導 職」 に 任 命 し、 「敬 神 愛国」などの神道的・儒教的道徳の教化を行う国家の機関) が廃 止 さ れ た 明 治 八 年 (一 八 七 五) 以 降、 仏 教 各 宗 派 で 同 様 の 制度が整備されていった。江島尚俊によれば、教校制度は 明治五年に発布された学制と、大教院制度および教導職制 度を下敷きにして創られ、大教校・中教校・小教校という 三教校を、本山と各地方を結んで形成するヒエラルキー構 造から形成されたものであ る。   中でも大谷派において特徴的なのが、三教校の枠外に設 置された「教師教校」および「育英教校」であった。前者 は「各府県下中小教校ヘ派出セシムル教師ヲ成立セシメン カ 為」に設置され、後者は「俊英抜群ナル者ヲ精選シテ入 学セシメ伝灯ノ真教師タラシメンカ 為」に設置されたもの である。いずれも次世代の宗門を担う教育者や指導者を育 成する機関であり、そこでは明確に宗乗・余剰とは異なる 近 代 的 な 学 問 (「外 学」 あ る い は「普 通 学」 ) が カ リ キ ュ ラ ム に組み込まれてお り、二つの教校は「学制において規定さ れていた専門学校や当時すでに設置されていた師範学校を 想起させる構 想」であったとも言われる。なお、大谷派の 教校制度の形成に深く関わった石川舜台、渥美契縁らが護 法場を中心になされた寺務改革にも関わっていたことから もうかがえるよう に、新しい宗門教育制度それ自体が、宗 門改革の要素を含むものだっ た。   こうした教校制度が整備されつつある頃、長岡で洋学を ( )10 ( )11 ( )12 ( )13 ( )14 ( )15 ( )16 ( )17 ( )18

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学んでいた井上円了に、大谷派の教師教校英学部に入学す る よ う 本 山 か ら 命 が 下 っ た。 円 了 は 明 治 一 〇 年 (一 八 七 七) 九 月、 地 元 を 離 れ て 京 都 で 学 ぶ こ と に な る。 そ の 時 点 で円了は将来的に宗門の教師になることが期待されていた が、しかし長岡時代すでに十分な英語の学習を終わってい たため、わずか半年ばかりで教師教校を離れることになる。 続 い て 円 了 は、 宗 門 の 給 費 生 と し て 明 治 一 一 年 (一 八 七 八) に 東 京 大 学 予 備 門 に 入 学、 明 治 一 四 年 (一 八 八 一) 東 京大学文学部哲学科に入学することになる。なお、円了が 東京大学で哲学を学ぶことになる背景にも、当時宗政の中 心にあった石川舜台のねらいがあったと考えられる。石川 は 明 治 五 年 (一 八 七 二) に 東 本 願 寺 法 主 現 如 (大 谷 光 瑩) ら とヨーロッパの視察に行き、近代文明と宗教との関係を調 査した他、当地の近代的な学問による宗教研究の方法論も 学んでい た。大谷派では円了以降にも清沢満之らの給費生 を東京大学に留学させており、それは近代的な宗門教育制 度の一部に組み込まれたものだった。それゆえ、教師教校 および東京大学での円了の学びは、護教場から続く近代的 学 問 (外 学) の 吸 収 と 宗 門 改 革 へ の 志 向 の 延 長 線 上 に あ っ たものと考えることができる。そしてそのように考えると、 後に本論考で確認するように、仏教教育を行う新たな学校 の設立を求める動きが円了を中心とする大谷派の東京留学 生たちの中から生じたことも、ある種の必然性を帯びたも のであることも理解できるだろう。 第二節   仏教改良の主体としての真宗   さて、大谷派の給費留学生として最初に東京大学で学ぶ ことになった円了には、当然のことながら、新しい時代の 宗門を背負わなければならないという意識が働いていたと 考えられる。というのも円了は、大学本科に入学した明治 一四年の秋からすぐに言論活動を行っているのだが、特に 最初の二年間 (大学一~二年次) は大谷派の機関紙『開導新 聞』 に 積 極 的 に 論 考 を 発 表 し て い た か ら で あ る。 「主 客 問 答」 [投 書] (明 治 一 四 年 一 〇 月 ~ 一 一 月) 、「耶 蘇 教 防 禦 論」 [投 書] (明 治 一 五 年 一 月) 、「僧 侶 教 育 法」 [講 演] (明 治 一 五 年 八 月) 、「宗 教 編」 [投 書] (明 治 一 五 年 一 〇 月 ~ 一 二 月) と い った論考がそれにあたるものだ。 ( )19 ( )20

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  大谷派の関係者を主な読者として想定したこれらの論考 は、従来の円了研究では取り上げられることが少なかった が、例外的に高木宏夫と三浦節夫が注目してい る。特に三 浦 は こ れ ら 円 了 の「初 期 論 文」 の 内 容 を 紹 介 し、 そ こ に 『仏 教 活 論 序 論』 の 原 型 を 見 出 し て い る。 ま た、 「僧 侶 教 育法」で主張される「自由討究」の必要性などは、哲学館 創立の「原動力」となっているとの興味深い指摘もある。 しかしとりわけ本論考が注目したいのは、三浦が提起する 「円了が初期論文をどのような立場で執筆していたの か」 という問いである。三浦はこの時期円了が大谷派の給費留 学生であったことと、終生にわたって真宗信者であり続け たことを考慮しつつも、その信仰が「教団からの束縛を脱 し た 随 意 信 仰 (開 放 主 義) 」 を 堅 持 し た も の で あ っ た と 指 摘 す る。 そ の 上 で 三 浦 は、 初 期 論 文 の 中 に 円 了 独 自 の (解 放 主 義 的) 真 宗 信 仰 の 萌 芽 を 見 出 し、 最 終 的 に こ れ ら の 論 文 が「通仏教の立場に重きを置いて執筆」されたものとみな してい る。本論考でもこの時期の円了が通仏教的立場を重 視していたと考えているが、しかしながら、それとは異な る側面も無視できないのではないか。言い換えるならば、 三浦と高木が指摘するように、この時期の円了の議論は、 たしかに『仏教活論序論』などに見られる通仏教的立場を 先取りしてはいる が、しかしそこには同時に、真宗に対す る明確なコミットメントも見出すこともできる。それゆえ 本 論 考 の 関 心 は、 こ の 時 期 の 円 了 の 言 説 と『仏 教 活 論 序 論』の頃との連続性を見据えつつ両者の差異にも着目し、 その意義を見出すところにあ る。それをふまえ、以下では 『開導新聞』に投稿された諸論考に見られる代表的な論点 を取り出してみよう。   まず円了は「宗教編」において、自分自身の立場を次の よ う に 述 べ て い る。 「余 は 白 面 の 一 寒 生 な り。 つ と に 身 を 教 法 に 帰 し、 幸 い に 命 を 本 山 〔東 本 願 寺〕 に 奉 じ、 東 西 師 を 求 め、 朝 夕 学 を 修 め、 い ま だ か つ て 一 日 も 寧 居 安 臥 せ ず」 (「宗 教 編」 『選 集』 二 五・ 七 〇 四 頁) 。 こ こ に は 本 山 の 命 を受けた給費留学生として学問を修めているという、円了 の自負が表れている。ただし、ここで用いられている「教 法」 と い う 表 現 に は 注 意 が 必 要 で あ る。 「宗 教 編」 に お い て「教法」は、ただちに真宗大谷派の教えを指すのではな く、 「宗 教」 や「仏 教」 と い う よ り 大 き な カ テ ゴ リ ー と し ( )21 ( )22 ( )23 ( )24 ( )25

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て も 用 い ら れ て い る。 す な わ ち、 「教 法」 は「無 教 者」 に 対しては「宗教」全般というニュアンスをもつ場合があり、 他 宗 教 に 対 し て は「仏 教」 全 般 と い う ニ ュ ア ン ス を も つ (さ ら に 仏 教 中 の 他 宗 派 に 対 し て は「自 宗 派」 と い う ニ ュ ア ン ス を も つ) 場 合 が あ る。 つ ま り、 「わ が 教 法 の 敵 手 を 論 じ て そ の 大 小 前 後 の 別 を 示 す」 (「宗 教 編」 『選 集』 二 五・ 七 一 八 頁) と い う 仕 方 で 用 い ら れ て い る の で あ る。 そ し て 先 に も 触れたが、この時期の仏教界は廃仏毀釈に代表されるよう な政府の宗教政策やキリスト教の進出、そして近代科学の 流入などによって危機に瀕しており、それゆえ円了の議論 も、無教者や科学者、他宗教者らに対して「仏教」を擁護 するという意図をもつものであった。その意味で円了は、 当初から真宗大谷派という「一宗一派」だけを担うという よりは、通仏教的視点に立って仏教界全体を論じていたの で あ る。 実 際、 「宗 教 編」 に お い て 円 了 は、 当 時「本 山 の 門戸に迫り末寺総会議を強願するもの」があることを聞い た が、 「本 山 の 事 務 あ る い は 弊 害 な き に あ ら ず と い え ど も、 昨 今 の 憂 い こ れ よ り さ き に し て か つ 急 な る も の あ り」 (「宗 教 編」 『選 集』 二 五・ 七 〇 五 頁) と し て 本 編 を 執 筆 し た と 述 べ ている。一宗派ではなく仏教界全体を憂い、その立て直し をはかるという姿勢は、円了に限らず明治前期の仏教界に とっては一般的なものだっ た。しかしその上で、円了が真 宗へのコミットメントを明確化する場合があるとすれば、 それはどのような場面なのか。このことは踏み込んで考え る必要があるだろう。   さ て 話 を 戻 す と、 『開 導 新 聞』 に 掲 載 さ れ た 諸 論 考 で 円 了が強調していたのは、僧侶の目的は「自ら教法を信ずる に と ど ま ら ず し て、 な お こ れ を 人 に 伝 え 世 に 弘 む る に あ る」 (「宗 教 編」 『選 集』 二 五・ 七 〇 八 頁) と い う こ と だ っ た。 布教こそが僧侶の目的であるという主張がことさらになさ れたのは、当時は非仏教徒にも理解できるようなかたちで 仏教の存在価値を示すことが求められていたからである。 そ し て そ う し た 布 教 の た め の 手 段 に は、 「理 論」 と「実 行」の二つがあると円了は考えていた。この二つの手段は 「互 い に 相 離 る べ か ら ざ る も の」 (「宗 教 編」 『選 集』 二 五・ 七 一 三 頁) で あ り、 「理 論 実 行 の 二 者 を 兼 有 す る」 (同 上) ことが肝要であるとされる。そしてこの場合の「理論」と 「実行」は、いずれも仏教に固有のもの (伝統的な教理や修 ( )26

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行 な ど) を 指 す と い う よ り は、 他 者 (非 仏 教 徒) に も 理 解 可 能なものでなければならなかった。それゆえ仏教の道理を 証 す る に は「哲 学 上 よ り 論 ぜ ざ る べ か ら ず」 (「宗 教 編」 『選 集』 二 五・ 七 〇 五 頁) と さ れ、 ま た 仏 教 に 基 づ い た 実 践 は、 人々を「安心立命」へと導き、国家社会の問題に積極的に 関わらせるものでなければならないとされ る。   この時期の布教が対外的に仏教を弘めることであるとす ると、一つの誤解を解いておかなければならない。幕末か ら明治初頭の仏教界では「護国即護法」というかたちで展 開 さ れ た「排 耶 論」 が 流 行 し た が、 円 了 は「教 家 〔僧 侶〕 の目的はヤソ教を防御するにあり」といった単純な主張を 「大 い な る 誤 り」 (「宗 教 編」 『選 集』 二 五・ 七 〇 九 頁) と し て 批判している。キリスト教を排除すれば仏教が弘まるとい うわけではないので、目的と手段を取り違えてはならない ということだ。円了はキリスト教の「宗風の正しさと品行 の 美」 (「主 客 問 答」 『選 集』 二 五・ 六 九 〇 頁) を 高 く 評 価 し、 さらに「耶蘇教防禦論」という論考では、仏教者のキリス ト教への「恩」ということすら言われてい る。こうした論 調は、しばしば明治中期の排耶論の代表者とみなされる円 了のイメージからすると意外であるかもしれない が、実際 は『真理金針』などにも明確に表れる議論であり、このイ メージには修正が必要である。   それでは仏教者にとって「第一の敵」となるものは何か。 円 了 に よ れ ば、 そ れ は「無 教 者」 、「排 教 者」 で あ る。 「宗 教はただ愚民を導くの機械にして、いやしくも学術に従事 す る も の に い た り て は 不 要 の 具 な り」 (「主 客 問 答」 『選 集』 二 五・ 六 七 二 頁) と い っ た、 知 識 人 た ち の 考 え に こ そ、 仏 教者は抵抗しなければならない。ここで想定されているの は、円了在学中に東大で総理をつとめ、哲学館創立にも協 力した加藤弘之や慶應義塾を創設した福沢諭吉など、明六 社の知識人たちが有していた宗教観であっ た。彼らは科学 的な「実験」に基づき、文明にとって有用な知=「実学」 を広めるという使命を担っており、その観点から「実学を 講じ真理を究め、人民の頑愚を開き宗教の空論を排して、 斯民をして一日も早く文化真域に達せしめんことをつとめ ざ る べ か ら ず」 (「主 客 問 答」 『選 集』 二 五・ 六 七 七 頁) と 主 張 していた。それゆえ仏教者にとって重要となるのは、知識 人たちの実学観・宗教観に抗して、宗教の真理性と社会に ( )27 ( )28 ( )29 ( )30 ( )31

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と っ て の 有 用 性 を 示 す こ と で あ っ た。 宗 教 は 決 し て「空 論」ではなく真理を含み、またどんなに学識のある人物で も「生 死 定 ま り な く、 禍 福 期 す べ か ら ず」 (「主 客 問 答」 『選 集』 二 五・ 六 八 二 頁) と い う こ と に 変 わ り は な い。 だ か ら こ そ宗教は万人にとって不可欠なものであると円了は主張す る。そしてこの場面では、キリスト教は仏教の敵ではなく 「朋友」となる。こうした議論を展開するためには、近代 科学を学び、さらにはそれらを原理的に批判しうる哲学の 学びが求められる。このように、布教のための「理論」は、 主に知識人に対して最も必要とされているのである。   それでは「実行」はどうなるのだろうか。反宗教的な知 識人に抗する場合にはキリスト教は仏教の朋友となりうる が、しかしキリスト教は欧米の宗教であり、日本人の「人 心を結合」するにはやはり仏教が適していると円了は主張 する。それゆえ仏教を日本人に弘めることが必要となるが、 その際、国内に布教しているキリスト教との競争対立は避 け ら れ な い。 こ こ で 円 了 が 主 張 し た の が、 「彼 法 〔キ リ ス ト 教〕 の短を挙て之を誹謗し (略) 我法 〔仏教〕 の長を揚て之 を 誇 張 す」 と い っ た、 理 論 的 な 反 駁 の 無 効 性 で あ る。 「他 を 誹 謗 す る と き は 却 て 吾 誹 謗 を 招」 く こ と に な り、 ま た 「耶蘇教は狭くして浅し仏教は深くして大なり」と唱えて も、難解なものより、信じ易いものの方が選ばれる可能性 があるからであ る。後に円了は『真理金針』などの著作で キリスト教の理論的な反駁を行っているため、この主張は 覆されることになるが、しかし少なくともこの段階では注 意 深 く 避 け ら れ て い る。 そ し て ま さ し く こ の 点 に お い て 「実行」が求められることになる。   円 了 は キ リ ス ト 教 (あ る い は 他 宗 教) に 対 抗 す る に は、 「言論を以てせずして只徳行を以てするこそ教家の教家た る所業」であるとする。キリスト教は「宗風の正しさと品 行の美」を有しているが、この点に関して仏教は極めて劣 っていると円了は言う。仏教が日本人にふさわしい宗教で あ る と し て も、 「教 法 自 由 の 今 日」 に お い て は、 キ リ ス ト 教を禁じることも仏教を強制することもできない。それゆ え国民の心に仏教を弘めるには、何よりも仏教の「弊習を 一洗」しなければならないという。   寺院僧徒の風俗品行にいたりては、ヤソ教に三舎を ( )32

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譲 ら ざ る を 得 ず (略) わ が 仏 教 の ご と き は 数 百 年 来 改 良を加えず、悪弊の生ずるはもとよりそのところなり。 ゆえに今日の要務はその風俗を改め品行を正すにあり。  (「主客問答」 『選集』二五・六九〇頁)   こうして「悪弊」を改めて、僧侶の徳行を高めるという、 仏教「改良」の必要性が主張されることになる。そしてこ こ に 至 り、 円 了 は「釈 教 〔仏 教〕 中、 何 宗 を 選 ん で そ の 法 を 一 定 す べ き や」 と 問 い、 「最 海 内 に 遍 布 し 人 心 を 得 た る もの」として「浄土真宗」こそがそれに当たるべきだと述 べている。さらに「その教法についてこれを論ずれば、も っ と も 方 今 の 自 世 に 適 す る も の は 真 宗 に し く は な し」 (同 上) と も い い、 真 宗 が 仏 教 改 良 の 中 心 と な る べ き で あ る と いう自説を展開するのである。なお、なぜ真宗が適してい るのかということについて、円了は後の議論を先取りする かたちで、次のようにも述べてい る。すなわち、釈迦当時 の 仏 教 は「宗 哲 〔宗 教 と 哲 学〕 両 学 を 混 同」 し て い た が、 時 間 が 下 る に つ れ て 両 者 は 分 化 し、 「真 宗 に 至 て 始 て 宗 哲 両学相分る」として、真宗に「理論を去て実徳を本とし単 純 の 宗 教 と な る」 可 能 性 を 見 出 し て い る。 『仏 教 活 論 序 論』 な ど で 円 了 は、 仏 教 を「知 力 情 感 両 全 の 宗 教」 (『仏 教 活 論 序 論』 『選 集』 三・ 三 五 八 頁) と 規 定 し て い る が、 そ の 際、 「情感」によって人々を感化するという側面は真宗が担う ものとされる。真宗が有する「単純真正の宗教」という側 面は、東大在学中から注目されていたのである。   さ て 以 上 の よ う に、 「理 論」 と「実 行」 と い う 二 つ の 側 面から『開導新聞』に投稿された円了の諸論考を整理した が、それは端的に次の一節にまとめることができるものだ。   今日の 活動社会 0 0 0 0 は日に進み月に移り、駸々として一 時もとどまることなく、実験ますますその妙を尽くし、 理論ますますその真を究む、また昔日の比にあらず。 しかして、僧家ひとり旧風を固守するの理あらんや。 世間は 活社会 0 0 0 なり、 活眼 0 0 をもって教法を弘むるにあら ず ん ば、 そ の 隆 盛 を 期 す べ か ら ず (略) あ あ、 わ が 教 海に遊ぶの徒、よろしく頑眠を破り活眼を開き、精神 を育し気力を養い、 外には理論を研磨し内に実行を勉 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 励し、活社会と並び立ちて永くその勢いを争うべし 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。 ( )33

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 (「宗教編」 『選集』二五・七一五~六頁〔強調引用者〕 )   円了は、近代という変化してやまない社会を「活社会」 (な い し「活 動 社 会」 ) と 呼 び、 そ の 変 化 を 見 据 え る ま な ざ しを「活眼」と呼ぶ。近代社会=活社会に仏教を弘めるた めには、僧侶たちが活眼をもたなければならない。それは つまり、旧風・弊習を排して、近代社会に応じた新しい理 論を学び、近代社会に適した実行を身に着けなければなら ないということだ。円了は、僧侶たちに活社会における覚 醒 を 求 め た。 そ れ こ そ が、 後 の「仏 教 活 0 論」 (あ る い は「 活 0 仏 教」 ) な ど に も 引 き 継 が れ る 円 了 の 仏 教 改 良 論 の 骨 子 で ある。そしてこの時期の円了は、仏教改良の主体となるべ きは真宗であると考え、まずはそれを宗門関係者たちに訴 えたのである。 第三節   本山への「上申」   円了が大学一・二年次に『開導新聞』に発表した諸論考 は、 「理 論」 と「実 行」 二 つ の 面 か ら の 仏 教 改 良 を 主 に 真 宗大谷派の関係者らに訴えたものであった。しかしこうし た改良は、実際にはどのように進めることが出来るのか。 ここにおいて明確に表れてくるのが新しい教育の必要性で ある。   本論の冒頭で示したように、円了を中心とした大谷派の 東京留学生たちの中から「他日学団を組織し、学校を経営 しよ う」という計画が立ち上がり、新しい学校設立の上申 が本山になされた。その詳細は長らく明らかになっていな かったが、近年、東洋大学が所蔵している井上円了の自筆 ノートの一部に、この時の上申書の下書きが見つかったの で あ る。 下 書 き の 中 に は「哲 学 館」 「仏 教 館」 と い う 文 言 があり、この資料を発見・翻刻した三浦節夫の言うように、 これが「哲学館創立の原点」であることは間違いないだろ う。しかしその一方で、この上申が認められなかったこと により、計画は変更を余儀なくされた。結果的に円了は大 谷派から離れて独力経営で哲学館の創設を行った。そうで ある以上、ここには何らかの軌道修正があったのではない か、というのが本論考の関心である。そのことを明らかに するため、以下では大谷派留学生たちの学校経営への志願 ( )34 ( )35

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を、 前 節 で 見 た 円 了 の 仏 教 改 良 論 (お よ び 大 谷 派 の 宗 門 教 育 改 革) の 文 脈 に 位 置 づ け、 そ の 展 開 と し て 理 解 す る こ と を 試みる。以下では上申書の内容を詳しくみることにするが、 その前に、この計画に加わった大谷派の東京留学生たちに ついて確認しておきたい。   先に見たように、大谷派では宗門内の俊英を選抜して、 教師教校、育英教校といった新設された学校で学ばせ、さ らにその延長線上に給費留学生の制度を形成していた。そ の中でも東京大学に留学した最初の学生が円了であり、そ れに続いて清沢満之、今川覚神、柳祐信、稲葉昌丸、柳祐 久らがそれぞれ東京大学の本科および選科へと進んだ。円 了に続いた留学生たちは「万事井上円了氏を手本とせ よ」 と い う 命 を 受 け、 「知 識 を 研 き 親 睦 を 厚 う す る 為」 に 樹 心 会という大谷派の東京留学生を中心とした集まりを開催し ていた。彼らは給費生として共に東京で学ぶ中で将来につ いて話し合い、そこから新たな学校経営の計画が立ち上が った。そしてこの計画を中心的に進め、上申書を書いたの が円了だったのである。   そ れ で は 上 申 書 (下 書 き) を 検 討 し て み よ う。 ま ず、 こ の下書きが書かれた正確な日付は不明だが、翻刻を行った 三浦によれば、円了が大学四年であった明治一七年の秋で あ る と 推 測 で き る と い う。 別 の 資 料 で は、 「明 治 一 八 年 の 春」に留学生たちが「将来の方針につき協議」したとの記 録もある が、おそらくは円了が大学を卒業する明治一八年 六月に合わせて、前年の秋頃から計画が進んでいたと考え るのが妥当であろう。   こ の 上 申 書 は、 「修 学 の 科 目 并 に 将 来 の 目 的 に 付 奏 上 申 候」と題され、当時東大の本科および選科に在学していた 大谷派の留学生六名による上申というかたちを取っている。 留 学 生 た ち は そ れ ぞ れ「普 通 の 学 科」 (伝 統 的 な 宗 乗・ 余 乗 で は な い 近 代 的 な 学 問) を 専 修 し て お り、 こ れ ま で 学 ん で き た科目や将来目指すべき目的が示されている。まず冒頭に は次のような一節がある。   僧侶の教祖に対し本山に答ふるの義務、布教伝道の 目的を達するに外ならす。其目的を達するに二種の方 法あり。一は実際にして、一は理論なり。すへて学問 上の研究は此理論に属 す。 ( )36 ( )37 ( )38 ( )39 ( )40

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  僧 侶 の 義 務 は 布 教 で あ り、 そ の 方 法 は「実 際」 と「理 論」に分かれるという、円了が「宗教編」などで展開して いた議論がそのまま示されている。この事にも表れている ように、この学校設立の上申を中心的に進めたのは円了で あ り、 そ の 内 実 は、 「理 論」 と「実 行」 (「実 際」 ) を 軸 に 仏 教の布教を進めていくという、円了の仏教改良論の延長線 上に位置づけることができるものと考えられる。そしてと りわけ学校の設立は「理論」に大きく関わるものであり、 以下に示されるのは、ある意味では大谷派の改革的な宗門 教育の流れを引き継ぎつつもそれを大きく超えていくよう な、 き わ め て 近 代 的 (か つ 通 仏 教 的) な 仏 教 教 育 機 関 の 構 想である。   さて続いて上申書では、理論には「自教の性質を研修す る」 い わ ゆ る「内 務 の 事 業」 と、 「自 他 の 関 係 を 論 究 す る」いわゆる「外務の事業」の二つがあるとされている。 大 谷 派 で は こ れ ま で「内 外 の 両 学」 (つ ま り「宗 学」 と「外 学」 ) を 教 授 し て い た が、 教 学 機 構 全 体 の 中 で は 主 に 育 英 教 校 と 教 師 教 校 と い う 二 つ の 教 校 が、 「西 洋 の 学 問」 (つ ま り「外 学」 ) を 担 当 し て き た と い う。 し か し 時 と 共 に 大 谷 派 の教校制度も変化して「諸教校中一として西洋学を講究せ し」学校はなくなった (大谷派の教校制度は頻繁に改正され、 明 治 一 七 年 の 時 点 で す で に 育 英・ 教 師 教 校 は 廃 止 さ れ て い た) 。 そ こ で「泰 西 の 諸 学」 を 専 修 す る 東 京 留 学 生 六 人 は、 「外 務の学制を起すの旧謀再興せる」という大任を担っている とされている。外務の事業を担当するものは、近代的な学 問を学びながら、自宗教と他の学問領域や他宗教との関係 を明らかにすることで布教に貢献するという、きわめて大 きな役割を有しているということだろう。   そして上申書では、外務の事業で明らかにすべきことと して、次の八条を定めてい る。 第一   宗教総体の性質 第二   宗教と道徳との区別 第三   宗教と理学哲学との異同 第四   宗教と政治法律との異同 第五   仏教と理学哲学との関係 第六   仏教と政治法律との関係 第七   仏教と耶蘇教との関係 ( )41 ( )42

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第八   仏教と日本現今社会との関係   「此 八 条 は、 今 日 教 家 の 一 組 織 を 構 成 す る に 欠 く へ か ら さるものにして、我か宗門中未た其設けなし」とされるも のだが、これらの解明こそが「教法今日の興隆を期す」た めに不可欠と主張されるものである。この八条を通して目 指されているのは、仏教を「宗教」として規定しつつ、哲 学や科学、政治や道徳といった諸領域との関係を明らかに するといったことである。そのためには、哲学、科学を中 心とした普通学の専門的な習得が必要となる。そこで六人 の留学生たちは、それぞれ東京大学で、仏教全般とドイツ 哲 学 (井 上 円 了) 、 イ ギ リ ス 哲 学 (清 沢 満 之) 、 物 理 学 (今 川 覚 神) 、 進 化 論 (稲 葉 昌 丸) 、 倫 理 政 治 (柳 祐 信) 、 ギ リ シ ア 哲 学・ 東 洋 哲 学 (柳 祐 久) と い っ た 領 域 を 分 担 し て、 専 門 的な研究を行っていると本山に伝えられている。さらに上 申書では、六人が大学での学習を終えた後には、それぞれ が 自 身 の 専 門 分 野 と 重 ね る か た ち で 仏 教 の 諸 学 (華 厳 天 台、 倶 舎 唯 識、 仏 学 理 学〔仏 教 科 学〕 、 宗 学 等) を 学 ぶ こ と が 計 画 されている。これにより、仏教の真理を解明し、キリスト 教 に 対 抗 し つ つ 政 治、 道 徳、 社 会 事 情 を 解 き 明 か し、 「実 際の布教を思考する」ことが目指され、これこそが「仏者 今日の急務」であると上申書は述べるのである。   そして最終的に主張されるのが、六人全員が学業を修め て 大 学 を 卒 業 し た 際 に、 「仏 教 哲 学 の 両 館」 を 本 山 の 力 で 東 京 に 設 立 し、 「旧 時 の 僧 侶 中 内 外 の 学 を 兼 修 す る も の 尽 く此館に相会し、宗教の真理を講究して、外は耶蘇教諸学 に対して其駁撃を防き、内は仏者僧侶世俗に対して其奉信 を起し、即ち此館を以て僧侶学の中心日本教会の標準とな さん」ことを訴えたのである。つまり哲学と科学を中心と した近代的学問を通して仏教の真理を明らかにしつつ、仏 教の学びそのものを深め、さらには信仰を起こしてキリス ト教や俗世間に向かうことが目指されたのである。これが 仏教館・哲学館構想の内実であった。こうした学場は、円 了 の 構 想 か ら す れ ば、 「実 験 ま す ま す そ の 妙 を 尽 く し、 理 論ますますその真を究む」といった「活社会」に生きる僧 侶たちに、社会の変化に対応しうる「活眼」を与えること を目的としたものであるとも解釈できるだろう。つまり、 「外には理論を研磨し内に実行を勉励し、活社会と並び立

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ちて永くその勢いを争う」ような僧侶を養成することが目 指されているのである。   そして注目すべきは、この学校が「僧侶学の中心日本教 海の標準」とされているように、真宗大谷派という一宗一 派を超えた仏教界全体の教場として構想されているという 点である。この上申書の文面だけでは、実際に入学者とし て想定されていたのが大谷派の僧侶だけなのか、それとも 他宗派や俗人までもが含まれていたかははっきりしないが、 少なくとも仏教館・哲学館のねらいは、日本の仏教界全体 を改良するような通仏教的視野を有するものだったことは 間違いないだろう。ただしこの時期の円了は、真宗大谷派 こそが、仏教改良の中心であるべきだと考えていた。それ ゆ え 上 申 書 で は、 「是 れ 未 た 仏 教 中 他 宗 他 派 の 着 手 せ さ る 所にして、我宗独り此外務開館の設あるに至らは、又我本 山の栄なり」と言われるのである。円了は「宗教編」で真 宗僧侶に対して次のように述べていた。   ああ、わが僧侶つとめよや、方今世間、理学法律日 を追って盛んなりといえども、これを防ぐに方あり、 これを導くに術あり、またいずくんぞ憂うることをせ んや。その方術とはなんぞや。曰く、学識なり。その 学識とはなんぞや。曰く、ただにわが法の教理宗体を 究むるのみならず、内外東西の学を講じて、よく時勢 を観察するの識見を開かざるべからず。  (「宗教編」 『選集』二五・七二〇頁)   近代社会において仏教の脅威となるような科学や法律に 対して、なによりも僧侶は学識を身につけなければならな い。 し か も そ れ に は 伝 統 的 な 宗 乗・ 余 乗 だ け で な く、 「内 外東西の学」こそが重要である。それによって「時勢を観 察 す る の 識 見」 を 身 に 着 け る こ と。 言 い 換 え れ ば、 「活 眼 を 開 き 偏 見 を 去 り て、 今 日 の 社 会 を 見 る」 (同 上) こ と。 こうした根本的な態度をまずは真宗僧侶が身に着けるよう にすすめ、それを通して日本仏教界全体を改良することを 円了は考えていた。そしてその具体的な手段として考えた のが、大谷派の新しい学校だったのである。

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むすびに   以 上 の よ う に 本 論 考 で は、 『開 導 新 聞』 で 展 開 さ れ た 円 了の仏教改良論を整理し、その延長線上に学校経営の計画 を位置づけ、その意義を考察してきた。これにより、冒頭 で示した円了自身の回想とは、やや異なる事態が生じてい たことが明らかとなった。つまり円了は、当初から仏教界 全 体 を 憂 い て お り、 「到 底 一 宗 一 派 の 内 部 に あ り て、 其 復 興を謀るの無功なる」という視点を有していたが、しかし そ の 時 点 で は 必 ず し も「局 外」 に 立 っ て「俗 人」 と し て 「仏教の外護」となろうと考えていたわけではなかったの である。むしろ円了は真宗こそが仏教改良の主体となるべ きと考え、まずは宗門人に覚醒を求めていたのである。た だし学校設立の上申は本山から認められず、円了は結果と して独力経営によって哲学館を創設することになる。その 経緯については稿を改めて論じなければならない。   ただ最後に、哲学館以降の円了と大谷派教団との関わり の一端について指摘しておきたい。本山に提出された上申 書に記されていた学校の名前は、 「哲学館」 「仏教館」とい うものだった。つまり「哲学館」という名称はこの段階で 存在しており、最終的に円了は、その名を冠した学校を創 設することになった。円了の親友であった棚橋一郎によれ ば、私立学校哲学館は「僧侶が余りにどうも地獄極楽に固 り込んでしまつて居つて、本当の僧侶学をやつて居らんか ら如何にも残念だ、だから少し哲学思想を彼らに与へたら ば、余程世の中の利益になるだらうと思ふ、斯ういふもの を起さうと思 ふ」という円了の思いから創設されたものだ という。上申書で計画されていた「仏教哲学両館」が「僧 侶学の中心日本教海の標準」として計画されていたものだ とすると、哲学を教授して「本当の僧侶学」を興そうとし た哲学館は、明らかにその上申書の計画を引き継いだもの だと言えるだろう。ただし哲学館の経営母体は大谷派では なく、どこの宗派にも属していなかった。それゆえ実際の 哲 学 館 に は 仏 教 各 宗 派 の 僧 侶 (お よ び 俗 人・ 居 士) が 入 学 し て お り、 「本 当 の 僧 侶 学」 は 仏 教 各 宗 派 の 僧 侶 に 教 授 さ れ た。そうして輩出された僧侶たちがそれぞれの場所で、何 がしかの「仏教改良」に貢献したとすれば、円了の理想は ( )43

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一定程度実現されたと言うことができるだろ う。   とはいえ、やはり哲学館には大谷派の僧侶が多く入学し ていた。白川党の改革運動があった頃には、哲学館学生宗 教 家 の 内 の 五 分 の 一 を 占 め、 「大 谷 派 僧 侶 に 属 す る も の は、 館内員に二百人、館外員に二千五百 人」にのぼっていたと いう。そのため円了は大谷派の二七〇〇人の学生に向けて 白川党の運動に協力するよう求めた。円了自身はこの時す でに「俗人」であるという意識があったため、大谷派とい う「一宗の興廃、一宗の安危に関する一大事」に直接関与 することはなかった。しかし自らの理想とする教育を通し て仏教を改良することを願っていた円了は、哲学館の教育 を受けた大谷派の学生が白川党の改革運動に関わることを 望み、そうした学生たちによる大谷派の改良を願っていた と考えられる。   本論で見てきたように、円了は大谷派の教校制度に含ま れた改革への志向をいわば徹底化し、それによって宗門か ら離れることにもなった。しかし彼自身は既存の宗門を全 面 的 に 否 定 す る の で は な く (こ の 点 は 円 了 の 門 下 生 た ち に よ る「新 仏 教」 運 動 と は 大 き く 異 な る) 、 あ く ま で も そ の「改 良」を求めた。つまり自身が理想とする教育を、たとえば 大谷派の学生たちに与え、それを通して間接的に大谷派を 改良すること。こうした間接的な宗門改良はもちろん他宗 派にも適用されるものだが、これこそが円了による仏教改 良の根本的なねらいであり、また円了にとっての宗門との 理想的な関わり方だったのではないだろうか。 【凡例】   『 井 上 円 了 選 集 』( 東 洋 大 学、 一 九 八 七 ~ 二 〇 〇 四 ) か ら の 引 用 は、 著 作 名 を 記 し て『 選 集 』 と 略 記 し、 巻 数・ 頁 数 の 順 に 漢 数字で示した。 【註】 井 上 円 了「 宗 祖 大 師 の 御 遠 忌 に 際 し て 平 素 の 所 信 を 自 白 す 」『 宗 報 』 大 御 遠 忌 号、 一 九 一 一 年〔 『 宗 報( 六 )「 宗 報 」 等機関紙復刻版』一四、東本願寺出版部、一九九四年〕 、三 八五頁。 た だ し 三 浦 節 夫 に よ れ ば、 円 了 が 本 山 に 対 し て 正 式 に 還 俗 の 届 を 出 し た か ど う か は 確 認 さ れ て い な い。 三 浦 節 夫 『井上円了』 、教育評論社、二〇一六年、一三八頁。 吉永進一「はじめに」 (大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎 ( )44 ( )45 ( )1 ( )2 ( )3

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編) 『近代仏教スタディーズ──仏教からみたもうひとつの 近代』 、法藏館、二〇一六年、ⅷ頁。 森章司「井上円了と真宗大谷派教団」 『東洋学研究』第二 二号、東洋大学東洋学研究所、一九八七年。 同上、四三頁。 竹村牧男『井上円了──その哲学・思想』 、春秋社、二〇 一七年、一三〇頁。 井上円了「余が信仰の告白と来歴の一端」 『東洋哲学』第 一九編第一一号、一九一二年、四二頁。 近 代 に お け る 本 願 寺 派 の 教 育 制 度 に つ い て は、 以 下 に 詳 しい。 『龍谷大学三百五十年史』通史編上巻、本願寺資料研 究所編、二〇〇〇年。 『増補改訂本願寺史』第三巻、本願寺 出版社、二〇一九年。 護 法 場 に つ い て は 以 下 を 参 照 し た。 大 谷 大 学 百 年 史 編 集 委 員 会 編『 大 谷 大 学 百 年 史〈 通 史 編 〉』 、 大 谷 大 学、 二 〇 〇 一年。 柏 原 祐 泉『 近 代 大 谷 派 の 教 団 ─ ─ 明 治 以 降 宗 政 史 ─ ─ 』、 真宗大谷派宗務所、一九八六年、二六頁。 「護法場で外学にふれた所化たちは、宗門や学寮のあり方 が、 時 代 の 流 れ に 取 り 残 さ れ つ つ あ る こ と を 強 く 感 じ る よ うになっていった。また、本山当局や学寮の講者の中には、 外 学 を 積 極 的 に 学 び、 外 部 と の 交 流 を 活 発 に す べ き と 主 張 す る 者 と、 そ れ ま で ど お り の 組 織 や 学 び の あ り 方 を 守 ろ う と す る 者 と の 間 で、 意 見 の 違 い が 目 立 っ て き た 」。 『 大 谷 大 学百年史〈通史編〉 』、前掲書、四六~四七頁。 江島尚俊「明治初期の僧侶育成改革と大教院」 『大正大学 綜合佛教研究所年報』 、第三三号、二〇一一年。および、同 「 明 治 前 半 期・ 真 宗 大 谷 派 に お け る 高 等 教 育 制 度 」『 佛 教 文 化学会紀要』第二二号、二〇一三年。 大 谷 大 学 真 宗 綜 合 研 究 所 編『 真 宗 学 事 資 料 叢 書 六   條 規 学則集一・二』 、大谷大学真宗綜合研究所、一九九一年、一 〇九頁。 同上、一〇二頁。 大 谷 派 の 二 つ の 教 校 の カ リ キ ュ ラ ム に つ い て は、 森 章 司 「 井 上 円 了 と 真 宗 大 谷 派 教 団 」、 前 掲 論 文、 に ま と め ら れ て いる。 江 島 尚 俊「 明 治 前 半 期・ 真 宗 大 谷 派 に お け る 高 等 教 育 制 度」 、前掲論文、一四六頁。 「『 厳 如 上 人 御 一 代 記 』 で は、 空 覚 と と も に 護 法 場 で 寺 務 改 革 を と な え て い た 人 物 と し て、 寺 務 所 開 局 に 際 し 議 事 と な っ た 渥 美 契 縁 や 石 川 舜 台 ら の 名 が 挙 げ ら れ て い る( 略 ) こ れ ら の 人 々 は、 護 法 の た め に 外 学 研 究 や 教 育 に 尽 力 す る 師 の 姿 に 直 に 接 す る 中 で、 あ る べ き 宗 門 や 学 寮 の あ り 方 に つ い て の 思 い を、 自 ら の う ち に 育 ん で い っ た の で あ ろ う。 後 に 宗 政 を 担 う こ う し た 人 々 を 育 成 し た 点 に お い て も、 こ の 時 期 の 護 法 場 が 果 た し た 役 割 は 大 き か っ た 」。 『 大 谷 大 学 ( )4 ( )5 ( )6 ( )7 ( )8 ( )9 ( )10 ( )11 ( )12 ( )13 ( )14 ( )15 ( )16 ( )17

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百年史〈通史編〉 』、前掲書、五八~五九頁。 石 川 の 宗 政 に つ い て は 以 下 に 詳 し い。 多 野 頼 俊「 石 川 舜 台と東本願寺」 『講座近代仏教』第二巻、法藏館、一九六一 年。 お よ び、 中 西 直 樹『 明 治 前 期 の 大 谷 派 教 団 』、 法 藏 館、 二〇一八年。 石川舜台「観教時様」 『報四叢談』第八号、一八七五年。 『開導新聞』については以下に詳しい。安藤州一「開導新 聞の発行」 『現代仏教』第一〇五号、一九三三年。安藤州一 によれば、 『開導新聞』は大谷派の機関紙『法の燈火』を改 題 し て 明 治 一 三 年 七 月 に 発 刊 さ れ た も の で、 編 集 兼 印 刷 人 は 江 村 秀 山 で あ る。 な お 江 村 は「 哲 学 館 の 三 恩 人 」 の 一 人 で あ る 寺 田 福 寿 の 友 人 で、 真 宗 大 谷 派 の 留 学 生 と し て 寺 田 と と も に 大 阪 慶 應 義 塾 で 学 ん だ 人 物 で あ る。 そ の 意 味 で 『開導新聞』もまた、護法場以来の大谷派の改革の流れに位 置 づ け ら れ る も の で あ る。 「 寺 田 福 寿 師 小 伝 」『 阿 弥 陀 経 通 俗講義』 、哲学書院、一八九四年。 高 木 宏 夫「 井 上 円 了 の 宗 教 思 想 」『 井 上 円 了 の 世 界 』、 東 洋 大 学 井 上 円 了 記 念 学 術 セ ン タ ー、 二 〇 〇 五 年。 三 浦 節 夫 「 井 上 円 了 の 初 期 思 想 ─『 真 理 金 針 』 以 前 ─ 」『 近 代 仏 教 』 第一三号、二〇〇七年。および、三浦節夫『井上円了』 、前 掲書。 三浦節夫『井上円了』 、前掲書、一三〇頁。 同上。 高 木 宏 夫 は こ の 時 期 の 円 了 の 諸 論 文 を、 『 仏 教 活 論 序 論 』 などに先行する「仏教失権回復期」の論考として位置づけ、 宗 派 内 に 限 ら れ た も の で は あ っ た が「 時 宜 に 適 し た 影 響 力 が あ っ た 」 の で は な い か と 推 測 し て い る。 高 木 宏 夫「 井 上 円了の宗教思想」 、前掲論文、八六頁。 な お、 高 木 は 円 了 の 宗 教 思 想 の 背 後 に 真 宗 が あ っ た こ と に 注 目 し て お り、 そ の 点 で 本 論 の ア プ ロ ー チ に 対 し て 重 要 な示唆を与えている。 「井上円了の宗教思想と行動との間で 最 も 深 い 関 係 が あ っ た の は、 本 人 が 語 っ て い る よ う に 真 宗 で あ っ た。 青 少 年 期 に は そ こ か ら 離 れ よ う と し な が ら、 東 京 大 学 の 哲 学 科 に 入 り、 学 生 時 代 か ら 文 筆 活 動 を 通 し て 仏 教 の 新 し い 時 代 に ふ さ わ し い 展 開 を 試 み て い る。 そ れ は キ リ ス ト 教 と 比 較 す る た め に、 ヨ ー ロ ッ パ の 近 代 哲 学 中 で も 進 化 論 を 用 い た た め に、 来 世 の 極 楽 浄 土 を 説 き「 愚 夫 愚 婦 の宗教」とよばれさげすまされていた真宗の僧侶を含めて、 各 宗 派 の 僧 侶 が 近 代 哲 学 の 用 語 に よ っ て 来 世 願 い の 宗 教 の 現 実 か ら、 大 乗 仏 教 の 原 点 に 帰 る 形 で 近 代 化 し て 仏 教 の 見 直しをしてゆく結果となった」 。高木宏夫「井上円了の宗教 思想」 、前掲書、一〇七頁。 中 西 直 樹 は、 明 治 期 の 仏 教 界 の 全 体 を、 通 仏 教 的 結 社 活 動 が 活 発 に な る 前 半 期 か ら、 最 終 的 に 宗 派 へ と 回 帰 し て い く後半期へという大きな動きの中で描いている。本論考は、 こ う し た 中 西 の 明 治 仏 教 史 の 記 述 か ら 大 き な 示 唆 を 得 て い ( )18 ( )19 ( )20 ( )21 ( )22 ( )23 ( )24 ( )25 ( )26

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る こ と を 述 べ て お き た い。 中 西 直 樹『 新 仏 教 と は 何 で あ っ たか』 、法藏館、二〇一八年。 「 宗 教 編 」 は、 円 了 が 郷 里 の 新 潟 で 行 っ た 講 演 の 一 部 を 『開導新聞』に投稿したものだが、文章化されていない箇所 に つ い て は 文 末 に 目 次 が 示 さ れ て お り、 そ の 全 体 的 な 内 容 を窺い知ることができる。 土屋詮教『日本宗教史』 、自修社、一九二五年。 「耶蘇教の徒数百年の間能く飢寒を忍び刑戳を侵し千辛万 苦 を 経 て 始 て 人 心 に 其 世 に 益 あ る を 感 せ し む れ は な り 吾 教 徒 は 之 れ に 反 し 安 眠 逸 居 し て 以 て 彼 艱 苦 の 余 沢 を 蒙 り 幸 に 今 日 の 抗 火 の 難 を 免 か る ゝ こ と を 得 た り 豈 耶 蘇 教 に 向 て 其 恩 を 謝 せ さ る へ け ん や 」。 井 上 円 了「 耶 蘇 教 防 禦 論 」『 開 導 新聞』第一八八号、 (『 「宗報」等機関紙復刻版二三   開導新 聞   ( 二 )』 ( 真 宗 大 谷 派 宗 務 所 出 版 部、 一 九 八 九 年 )、 七 〇 五頁。 た と え ば 近 年 で あ れ ば、 西 村 玲 が「 こ の 時 期〔 明 治 期 〕 の 排 耶 論 の 代 表 と さ れ る 井 上 円 了 の『 真 理 金 針 』 全 三 篇 」 を取り上げて「仏教排耶論の思想史的展開」を論じている。 た だ し 西 村 は、 円 了 の 仏 教 改 良 論 の 本 意 が 明 確 に 表 れ て い る『真理金針』 「続篇」以降をあつかっておらず、それを含 め ば 議 論 の 組 み 立 て は 変 わ っ た も の と 思 わ れ る。 西 村 玲 「 仏 教 排 耶 論 の 思 想 史 的 展 開 ─ ─ 近 世 か ら 近 代 へ ─ ─ 」『 近 世仏教論』 、法藏館、二〇一八年。 明 六 社 の 知 識 人 た ち の 宗 教 観 に つ い て は 以 下 に 詳 し く ま と め ら れ て い る。 比 較 思 想 史 研 究 会 編 著『 明 治 思 想 家 の 宗 教 観 』、 比 較 思 想 史 研 究 会、 一 九 七 五 年。 ま た 筆 者 は 以 前、 加 藤 弘 之 の 宗 教 観 に つ い て、 彼 の 仏 教 批 判 と そ れ に 続 い て 生 じ た 一 連 の 論 争 を 題 材 に 論 じ た こ と が あ る。 長 谷 川 琢 哉 「真理と機──仏教因果説論争からみる清沢満之の思想と信 仰」 『近代仏教』第二五号、二〇一八年。 井 上 円 了「 耶 蘇 教 防 禦 論 」『 開 導 新 聞 』 第 一 九 〇 号、 (『 「 宗 報 」 等 機 関 紙 復 刻 版 二 三   開 導 新 聞   ( 二 )』 ( 真 宗 大 谷派宗務所出版部、一九八九年) 、七二一頁。 以下は同上、七二一頁の記述による。 『清沢満之全集』第一巻、法藏館、一九五三年、五八八頁。 こ の 資 料 を 発 見 し た 三 浦 節 夫 は、 著 書 の 中 で 上 申 書 下 書 き の 解 説 と 翻 刻 を 行 っ て い る。 以 下 本 論 で は 三 浦 に よ る 翻 刻を参照する。三浦節夫『井上円了』 、前掲書、一四〇~一 四六頁。なお、引用に際して片仮名を平仮名に改めた。 『清沢満之全集』第一巻、前掲書、五七九頁。 同上、五八〇頁。 三浦節夫『井上円了』 、前掲書、一四九頁。 『清沢満之全集』第一巻、前掲書、五八八頁。 三浦節夫『井上円了』 、前掲書、一四〇頁。 こ の 時 期 目 ま ぐ る し く 変 遷 す る 大 谷 派 の 教 育 制 度 に つ い て は、 以 下 の 文 献 で ま と め ら れ て い る。 江 島 尚 俊「 明 治 前 ( )27 ( )28 ( )29 ( )30 ( )31 ( )32 ( )33 ( )34 ( )35 ( )36 ( )37 ( )38 ( )39 ( )40 ( )41

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半期・真宗大谷派における高等教育制度」 、前掲論文。 以下は、三浦節夫『井上円了』 、前掲書、一四二頁以下に 基づく。 『思想と文学』第二巻第三冊、一九三六年、六九頁。 「新仏教」運動に代表されるような、哲学館出身者たちに よ る 仏 教 改 革 運 動 は、 こ の よ う な 円 了 の 仏 教 改 良 の 延 長 線 上 で 理 解 す る こ と が 可 能 で あ る と 思 わ れ る が、 こ れ に つ い ては稿を改めて論じることにしたい。 井 上 円 了「 教 界 時 言 の 余 白 を 借 り て 哲 学 館 出 身 大 谷 派 僧 侶諸君に檄す」 『教界時言』第三号、一八九六年、四二頁。 ( )42 ( )43 ( )44 ( )45

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