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犯罪処理過程における領民の諸負担を通してみた仙台藩刑事法の研究

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犯罪処理過程における領民の諸負担を通してみた仙

台藩刑事法の研究

著者

吉田 正志

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犯罪処理過程における額民の諸負担

を通してみた仙台藩刑事法の研究

課題番号 10620001 平成1 0年度∼平成1 2年度科学研究費補助金(基盤研究(C) (2)) 研究成果報告書 平成13年3月 研究代表者  吉 田  正 志 (東北大学大学院法学研究科教授)

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は し が き 本報告書は、平成1 0年度より平成1 2年度までの3年間に、 「犯罪処理過程における 額民の諸負担を通してみた仙台薄刑事法の研究」と題する研究課題に対して与えられた科 学研究費補助金による研究成果をまとめたものである。 【研究組織】 研究代表者 :吉 田  正 志 (東北大学大学院法学研究科教授) 【研究経費】 平成10年度: 1, 600千円 平成11年度: 1, 100千円 平成12年度:  800千円 計     3, 500千円 【研究発表】 (1) 学会誌等 ① 吉田正志「(仮題)仙台藩法令集」 (東北大学法学部法制資料調査室研究資 料 29、 1999年3月) ② 吉田正志「御用記録書」 (東北大学法学部法制資料調査室研究資料 3 0、 2000年3月) (2) 出版物 ① 吉田正志『藩法史料叢書』 3・仙台藩 上(創文社. 2002年2月予定)

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ー1-本   論 はじめに いうまでもなく、治安の維持はあらゆる国家がまず第1に果たすべき責務であるが、近 代国家においてはそれに必要な人的・物的負担は最終的には国家自体によって担われる。 国民はその国家の行う犯罪処理に一定の協力を期待されることはあるにしても、経済的も しくは労力的負担を強いられることは必ずしも一般的でない。 わが国の近世国家も、犯罪処理は原則的に「御用」として、国家、すなわち幕府・藩に よって遂行された。ところが、その処理過程を子細に検討すると、近代国家と異なり、領 民に対して様々な経済的・労力的負担が強制されていることに気付く。具体的に一例を挙 げれば、犯罪発生地で犯人の死刑執行をする場合、その刑場の設営にその地域の額民が動 員されたり、死刑執行人に付与される手当がその地域の頗民より徴収されることがあった ●1。それらの額民の諸負担は単なる協力といったものでは決してなく、 「役」、すなわち義 務としての性格を有していたといってよい。 では、なぜわが国近世国家においては額民に対してかかる負担が課せられたのであろう か。現在までのわが国の近世刑事法研究は、このような問いをほとんど発していない。な るほど、わが国近世刑事法に関する研究はきわめて豊富である。しかし、その大部分はそ の制度的側面に解明の力点をおいたものであり、犯罪処理過程における領民の経済的・労 力的負担の観点から刑事法を分析した研究はほとんどないといってよい。牢における拘禁 費用を誰が負担するかを示した研究は若干存する●2ものの、これらとてその意味にまで立 ち入って考察を加えたものでない。本研究は、この問いに対して、仙台藩を素材として接 近せんとするものである。具体的には、仙台藩における犯罪処理の全過程、すなわち①犯 罪発生に伴う捜査及び被疑者の逮捕、 ②裁判所への護送, ③審理、及び④刑の執行の各段 階において、領民がいかなる経済的・労力的負担を負わされたかの実態を明らかにすると ともに、その持つ意味を考察する。このことは、単なる制度史的刑事法史研究を乗り越え、 嶺主・嶺民関係を基軸に見据えた国家史の一部を構成し得るであろう。 *1拙稿「仙台藩の所晒ならびに所仕置について」 (『法学』 60-2、 1996年) 31頁以下参 照。 *2代表的なものとして刑務協会『日本近世行刑史稿』上(1943年) 340貢以下、をあげ ておく。

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ー2-第1節 犯罪捜査段階 Ⅰ 犯罪捜査機関 仙台藩刑事法史研究としては、高柳真三「仙台藩の刑法及び刑事裁判」 ●3が現在のとこ ろ最もまとまったものであり、その他いくつかの研究がなされている●4ものの、これを超 えるものはない。 この高柳論文によれば5、犯罪捜査機関としては、町奉行の配下に町横目・町同心がお り、同心の下に日明し、さらにその下に「稜多・ジウ・乞食小屋主」がおり、また同心や 目明しが在方に出張した場合に召使う同心手先、御小人目付の手先である日明小方などが いたすらものしまりやく 存したとされる。なお、在方の支配を担当する郡奉行・代官・大肝人の下には、徒者締役 と呼ばれる者のいたことも指摘される。本研究の問題関心は、かかる諸捜査機関の活動に 領民がいかなる負担を伴いつつ関わったかである。以下、城下と在方とに分けて考察する。 (1) 城下 ① 城下については、これをさらに武士居住地と町人居住地との2つに分ける必要があ る。前者における主たる犯罪捜査機関は目付であり、その下に小人目付●6などが配されて いた。本研究は町人・百姓-彼らは仙台藩では凡下と称された-の諸負担を対象とするも のなので、武士がいかなる負担を負ったかについては割愛するつもりであるが、ただ、武 士居住地・町人居住地双方に設置された辻番所●7についてのみ簡単に触れておきたい。 辻番所がいかなる経緯で設置されたのかは不明であるが、享保8年にはすでに武士居住 地に120カ所余の辻番所が存在したようである●8。各辻番所には3名の番人がおかれ、そ ・3 『宮城県史』 7・警察(1960年)。なお、鎌田浩「高柳真三『仙台藩の刑事裁判』校 訂補証」 (『専修法学論集』 75号、 1999年)参照。 ・4手塚豊「刑法局格例調考一仙台藩刑法の一研究-」 (『法学研究』 24-8、 1951年、のち に『明治刑法史の研究』 (中) (慶鹿通信、 1985年)に収録)、山田野理夫『仙台行刑小 史』 (宮城刑務所、 1956年)、手塚豊「仙台藩格例一附・伺書決議案-」 (『法学研究』 30 _6、 1957年、のち前掲『明治刑法史の研究』 (中)に収録)、毛利一意「近世刑事裁判の 諸手統一仙台評定所『官令』による詮議・評定の考察-」 (『北見大学論集』 21号、 1989 年)、高倉浮『仙台薄犯科帳』 (今野印刷, 1995年)。なお、史料集として高倉浮『仙台 藩刑罰記』 (自費出版、 1988年)がある。 *5 高柳・前掲論文、 81貢以下。 ・6 ただし、彼らの活動地域は武士居住地のみに限られたわけでない。たとえば、宝永7 年(1710) 6月11日の判決によれば、堤下の茶屋が女を抱えて客の相手をさせていた ことを、 「隠し目付両人、商人之体二仕参」って摘発している(高柳真三博士旧蔵「仙 台藩御仕置留」上、 ュl号)。 辛 7江戸では、武士居住地に設けられた施設を辻番と呼び、町人居住地のそれは自身番と 称されたが(平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』 (創文社、 1960年) 623頁以下)、仙台 城下では共に辻番所がその名称であった。 ・8 以下、 『仙台市史』 1・本編1 (1954年)、 119貢以下参照。

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ー3-の番人は武士が禄高に応じて供出した。具体的には、 1000石以下は2人組合で1日1夜、 1000石以上は1日1夜、 4000石以上2日2夜、 7000石以上3日3夜、 1万石以上5日5 夜、 1万4000石以上7日7夜、 1万7000石以上9日9夜、 2万石以上11日11夜、とい う定めであった。 江戸では、武士層が困窮するにつれて辻番の負担が大きくなり、ついには自家の家臣を 番人として差し出すことが稀になり、町人を雇って番人とする傾向が強くなったようだが ●9,仙台城下の辻番所については、このような様子は見られない。仙台藩においても家臣 団の窮乏化は時代を下がるにつれ深刻になっていくので、あるいはこの辻番負担は厳しい ものだったかもしれない。 ② 次に町人居住地である。これについては、イ)町奉行,ロ)同心、ハ)目明し、ニ) 辻番所、の順にみていきたい。 イ) 町奉行 仙台藩の町奉行がいつ設置されたかについては明らかでないが、おそらく仙台城下町が 建設されると同時に設置されたのではあるまいか。政宗時代の慶長11年(1706) 5月5 日に町奉行と町人双方へ蛙が出されている●10が、それによると、当時町奉行は3名で、 各自受け持ち地域が決められていたようである。それぞれの受け持ち地域で生じた事件は それぞれの町奉行が処理し、複数の受け持ち地域にまたがる事件は3名が相談して処理す るよう命じられている。また、町人は毎月1日・15日と節句に町奉行へ礼として挨拶に 行くことになっており、とくに年始においては1間につき永楽銭10銭を持参することに なっていた。町奉行はこの年始のほか礼銭・礼物をいっさい取ることを禁じられた。さら に町奉行は、 1年に1度、 1間につき1人の人足を使用できた。もちろんこれらの町人の 負担は、決して犯罪捜査に直接係わる負担ではなく、城下町を支配する町奉行と町人との 一般的・定量的な役負担であるが、一応念頭においてよいことであろう。 なお、 2代忠宗のころに町奉行の定員は2名になったらしいが、この役負担がいつまで 存続したかについては不明である。また、役所としての町奉行所が建設されたのは幕末の 嘉永ころであり、それまでは町奉行に任命された者の私宅が町奉行所であった'll。その 経費は、人件費を除きすべて町内積立金(日掛銭、 1戸あたり1日1厘)の利子をもって 充当され、総経費は1年に約30両だったとされる●12。 ロ) 同心 次に、この町奉行に付属した同心であるが、慶安2年(1649) 6月14日に岩淵権左衛 門書次が町奉行に任命された際の記事に、町同心30人を15人ずつ両町奉行へ付けるとあ *9平松・前掲書、 626貢註(8)、石井良助『江戸の町奉行』 (第1江戸時代浸筆) (明石 書店、 1989年) 47・8頁「6 辻番のこと」参照。 * 1 0 「貞山公治家記録」巻21、同日条(『仙台藩史料大成・伊達治家記録』2 (宝文堂、 1973 年)、 536・7頁。以下、 「治家記録」の引用はすべて本書各巻により、巻数一貫数のみ 記す)。 *11前掲『仙台市史』 1、 123頁。 *12 高柳・前掲論文、 80頁。

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-4-り●13、ここではすでに30名の同心が存在したことが知られる。そしてこの同心定員は、 以後50名、あるいは56名という変遷をたどったようである●14。 同心が町人居住地の犯罪捜査や被疑者の逮捕をその主任務としたことは間違いないが、 それ以上のことを教えてくれる史料は少なく、不明な部分が多い。。ただ、貞享2年(1685) の「御決断帳」によれば、不届きがあって身柄を拘束されていた武士が逃亡した際、その 捜索・逮捕に町同心が動員され、南部額の和賀河原にまで立ち入り、逮捕している●15。 この例から推測すると、町同心といっても、すでに初期からその守備範囲は城下の町人居 住地のみでなく、在郷にも出動し、ときには他嶺にまで踏み込むこともあったのである。 そして、この広い守備範囲は中期以降も維持されている。 1例●16だけ挙げておこう。享和3年(1803)正月に、牡鹿郡門脇町肝入検断と同郡石 巻仮肝入検断両名の連名で同郡大肝入宛てに1通の伺書が出された。その内容は、町同心 が深谷の鹿又村から囚人を連れて門脇・石巻に数日逗留し、その間、囚人の食事や番人を 出さなければならず,甚だ迷惑している、そもそも「囚人賄等之義ハ、拙者共駅場こて相 出可申候哉、右被召捕候方こて相出可申哉」、この点につき指示してもらいたい、という ものである。 この伺書は、他所で召し捕らえた者を、何の関係もない門脇・石巻に連れてきて逗留す るのは迷惑であると抗議しているが、その前提として、逮捕したその場所の村が囚人の賄 いをしたり番人を出すことは当然であるという意識がある。実際、同何事に「御分領中為 御〆り之,御小人め付四組被相下置候処、右勤仕先こて召捕候者有之節ハ、囚人賄村賄罷 成候様、品々御小人目付衆より被仰達候二付、無御真儀被仰渡、村賄可仕よし奉東知候」 と述べ、小人目付による被疑者の捜査・逮捕については、その村が賄いや番人の提供をす ることを当然としているようである。このことは、同心についても同様であったであろう。 要するに、他の村がすべきものを自分たちのところに持ち込まれてはかなわないというだ けである。それらの負担が額民に課されることに異議を唱えているわけでない。 このように、町同心が村方に出ていくことは、その村々にとって同心の宿泊や食事、さ らには囚人の食事や番人を世話しなければならないことを意味し、 「痛・迷惑」なことだ ったのである。同心が城下で活動する限りではおそらくこのような事態は考慮する必要が なかったであろうから、城下での同心の活動実態を示す史料が少ないのは、この点に関係 しているかもしれない。 なお、町人居住地の人口をかりに2万人と推定しておくと、後期の同心数50名という のは, 400人に1名の割合となる。決して十分な人数ではないが、近世後期の江戸では、 町人人口50万人に対し町同心が280名で、約1800人に1名であったから、江戸と比べれ ば充実していたともいえる。しかし、上に述べたとおり、町同心は町人地のみならず在姉 *1 3 「義山公治家記録」巻7、同日条(5-349)。 *14 高柳・前掲論文、 81頁。 ・1 5 古文書を読む会『貞事2年「御決断帳」 (僻読篇)三冊之内』 (宮城県図書館資料 6) (1985年) 4貢。 *1 6 東北大学附属図書館蔵「万御定格留」 25号。

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-5-にまで動員されたらしいから、やはり警察力としては不十分であったろう。 ハ)目明し 周知にように、少なくとも近世中期以降の江戸においては、目明しは公的にはその存在 を否定され、使用してはならない者とされたが、実際には不十分な警察力を補完する必要 悪として使用され続けた。この意味で,平松氏は、それを私的捜査機関と位置づける●17。 これに対し、仙台藩の目明しは藩により公認された捜査機関であり、決して私的に使用さ れた者ではなかった。ただし、その身分は町人であり、賭場を開くことを黙認されていた という●18。 仙台藩における目明しの存在を示す初見史料は、現在のところ宝永7年(1710) 2月3 日の評定所判決である●19。この事案は、江刺郡高寺村の長兵衛なる者が、耳が聞こえな いためその治療中国分町雁金屋に宿泊していたところ、とある者から博打に誘われ、負け て借金をし、その貸し主から、実際の借金額よりよほど多い額を請求されたため訴えに及 んだものであるが、まずは「日明十右衛門●20」に訴え出たとされている。この事例から 推測すると、目明し十右衛門は、確かに博打仲間に顔の利く存在だったように思われる。 いずれにせよ、このころにはすでに目明しが存在していたことは疑いない。 この目明しは、その後幕末まで存続し、高野長英の逃亡を助けたともいわれる鈴木仲吉 なる目明しは帯刀を許され、 「当時目明し忠吉とて其の名遠近に聞え、相撲芝居等各種の 興行物は何れも忠吉の指図を受けざれば興行する能はず21」などといわれている。 このように、仙台藩の目明しは公的な警察力の一環であったゆえ、被疑者の逮捕にも積 極的に係わっている。このことを、文久2年に藩の医学館の運営に関与していた城下の薬 種商人日野屋仁兵衛が、医学館への出入り商人を越中の者から加賀の者にしたことについ *1 7 平松・前掲書、 626貢以下。 *1 8伊藤清次郎『仙台昔話・電狸翁夜話』 (1925年) 80・1貢、前掲『仙台市史』 1、 138 ・9頁、高柳・前掲論文、 81貢。 *19 前掲「仙台藩御仕置留」上、 3号。 *20 この十右衛門とおそらく同一人物と思われる者として、正徳5年3月11日の評定 所判決にも「自明十右衛門」がみえる(高倉『仙台薄刑罰記』 95号(53貢))ほか、享 保4年11月17日付けの乞食取締りに関する口上書の差出人が「目明十右衛門」であり (「万覚書」 (『宮城県史』 31・史料集Ⅱ (1962年)、 470・1頁))、さらに、享保10年に、 佐沼北方村 三宝島朝草刈に伴う紛争につき、津田民部家中の捜査を町奉行より命じら れたのも「御目明十右衛門」である(高倉『仙台藩犯科帳』 79貢以下及び178頁以下 所収付録)。こうしてみると、自明十右衛門は当時相当有力な目明しだったと推測され、 そのゆえであろうか、享保11年10月21日には、定禅寺前売薬師・伝右衛門が、 「自明 十右衛門手代と申成し、私之意趣ヲ以、裏口沼村寛勘平二日分二縄を懸召捕」ったとし て、七北田において獄門に処される事件も起きている(高倉『仙台薄刑罰記』 361 (203 頁))。 *2 1菊田定郷『仙台人名大辞書』 579頁。

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ー6-て収賄の嫌疑を受け、取調べをうけた際の事例●22で示すと、まず、町横目から「十人組 国分町升屋書兵衛井御手先国分町作左衛門」という両名が自宅に来て呼び出しをしている。 この「御手先国分町作左衛門」はおそらく目明しの手先であろう。というのは、彼は一旦 升屋喜兵衛の家に出向いたあと、さらに「御目明源吾殿宅」へ出頭するよう命じられ、そ こで概略的な取調べを受けているからである。しかも彼はそこに数日留置されてもいて、 実質的な調べが済んだところで「御町横目衆御出席前え被召出」、吟味の筋があるから縄 目に及ぶとの宣告を受け、さらに「壱番丁御町奉行様大立目小四郎様御屋敷え被召連」、 それからいよいよ「御牢入」となっている。 これは幕末期の1事例でしかないが、同心よりも目明しが実質的な逮捕を行う役人とし ての機能を有していたといえよう●23。 以上のごとく、日明しが実質的な逮捕機能を有し、またその私宅が取調べの場でもあっ たとするならば、被疑者がその取扱いを有利にするため、目明しに対して一定の利益供与 を行った可能性が十分考えられるが、残念ながら現在のところそのような史料には接して いない。 また、日明しは、同心と同様、城下のみを活動の場としていたのではなく、在方にも積 極的に出動しているので、そこには同心と同じ問題、すなわち在方での活動に伴う宿泊や 食事を誰が負担するかという問題があったであろうが、これについても史料を得られてい ない。 ところで、目明しは、単に犯罪捜査機関であっただけでなく、相撲や芝居の興行を取り 仕切ったり、 「在々ニテ香具売買等之儀も、目明方首尾合泉届候●24」とあるごとく、遍歴 する商人等をも支配した。こうした目明しの性格から、彼らは藩領域を超えた仲間同士の ネットワークを形成していた。文政11年(1828) 6月から天保2年(1831) 2月にかけて 東北地方を旅したとある浄瑠璃語りの日記「輩満可勢●25」にみられる目明しのネットワ ークは、すでによく知られているところであるが●26、この目明しのネットワークは、単 に彼ら自身のみの世界で意識されていたのみならず、より広い層にその存在を認められて いたものと思われる。 というのは、 「山形町方・郡方年中行事」に、 「近国目明」と題して,天童の八五郎・ 喜兵衛からはじまって石巻の徳左衛門まで、東北地方をほぼ網羅したうえ越後村上や宇都 宮まで含む、 13カ所、 28名の目明し名が掲げられており'27、これらの者が何らかの連絡 網として機能していたことを伺わせるが、この史料は、文政3年(1820)ころに足軽目付 *2 2 高柳真三博士旧蔵「万細線」。 *23 佐々久「警察」 (前掲『宮城県史』 7所収) 122頁は、 「幕府の同心に当たるのが目 明であり、与力に当たるのが同心であったとも見られる」とする。 *24 「四冊留」 45 「宿場御定」 35号(前掲『宮城県史』 31、 247・8頁)。 *2 5 『日本庶民生活史料集成』 3 (三一書房、 1969年)所収。 ・2 6 小林文雄「通り者の世界と地域社会」 (岩田浩太郎編『新しい近世史5・民衆世界 と正統』 (新人物往来社、 1996年)参照。 *2 7 『山形市史編集資料』 10 (1968年)、 13頁。

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ー7-の手によって書かれたと推定されており、だとすると、山形藩(秋本家)役人によっても このネットワークが掌握されていたことが明らかだからである。 このような広域的なネットワークを利用し得ることによって、目明しは捜査機関として きわめて有効な活動をなし得たものであろう。 ニ)辻番所 武士居住地と同様、町人居住地にも辻番所がおかれた。その数は、一般に65カ所とい われるが、その実数については疑問がもたれている●28。各辻番所には2名の番人がおか れ、運営は町によって担われたものと思われるが、その実態については遺憾ながらそれを 明確にしうる史料を有しない。 (2) 在方 ① 次に在方である。在方支配の役所としては、まず郡奉行が存在し、その下に代官が 配される。しかし、犯罪捜査機関として重要なのは、百姓身分である大肝人とその下にお かれた徒者〆役、村方にも出張する小人目付・同心・目明しの手先、及び乞食・被差別民 であろう。 以上のような状況を踏まえ、イ)郡奉行・代官、ロ)大肝入・徒者〆役、ハ)手先、ニ) 乞食・被差別民の順で考察しよう。 イ) 郡奉行・代官 仙台藩の郡奉行がはじめて設置された時期については必ずしも明確でないが、寛永11 午(1634)にはその存在が確認される。制度的に確立した段階の郡奉行は、嶺内を四分し て各1名ずつ配置された。ただし、定員は時期によって5-9名の幅があったようである。 もっとも、郡奉行は平常は城下において執務し、春秋2度担当地域を廻村したに過ぎない。 したがって、実質的な捜査機関ではなく、その名目的な最終責任者というべきものであっ た。 在方に実際に常駐したのは代官である。これまたそれがはじめて設置された時期につい ては不明だが、やはり寛永年間に存在したことは間違いない。中期以降は債分が19代官 区に区分され、各区に1-2名の代官がおかれた。しかし、代官所の役人が必ずしも十分 でなかったらしいからであろうか、犯罪捜査機関としての代官の活動を示してくれる史料 は少ない。 ロ) 大肝入・徒者〆役 むしろ注目されるのは大肝入,とくにその元で捜査機関として具体的な活動をした徒者 〆役である。 徒者〆役の創始についてもはっきりしたことは不明だが、 「塩釜町方留書」 238号「徒 者〆役勤方申渡覚●29」 (延享3年5月)の付記によれば、 「右〆役先年宮城二無之候処、 旧大肝入小幡書左衛門、先庄右衛門代新規相立候、其節只七ト申者二候」とあることより、 宮城部に徒者〆役が設けられたのはおそらく享保年間であろう。 このことは、徒者〆役が藩の命令で全飯一斉に設けられたものでないことを推定させる *28 前掲『仙台市史』 1、 131頁。 *2 9 『日本都市生活史料集成』 9・門前町篇(学習研究社、 1977年)、 726貢。

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18-が、これ以前においても大肝人のもとには治安維持に従事する配下がいたことは十分考え られ、これが享保期に徒者〆役と名付けられて、各部順次に設けられていったものと思わ れる。 もっとも、同役は大肝人が勝手に設置し得るものでなく、藩の許可が必要だった。 「地 附留ノ二」 48番の2号●30の文化9年(1812)と思われる申年11月に、牡鹿陸方大肝入阿 部与平治が、徒者〆役が1人のみでは間に合わないので、 「加勢之者」の追加を認めてく れるよう代官に要請しているが、この願いはすでに何回か出されたもののその都度認めら れなかったものが、今回ようやく認められるに至っている。このことよりして、同役設置 の初期はともかく、制度的にほぼ確立した段階では薄の許可が必要とされたことは疑いな い。 それでは、この徒者〆役の職務はいかなるものであったろうか。上記「徒者〆役勤方申 渡覚」が包括的な記事を掲げているので、煩をいとわず引用しよう。 -徒者〆り 一博変 但、〆り役之儀二付、其身行跡モ急皮相改、村浜共相廻り、右所行仕候者無之様 始末可申、勿論御村方相廻り、宿元へ罷帰候ハヽ可申開事、 -喧嘩口論取捌 -公事出入之取扱 一例人、横死有之柳罷出、取仕廻迄可仕事、 -何ノ取扱モ為仕儀有之、肝入・検断ヨリ申開候ハヽ早速罷越、遂吟味取扱可申事、 但、肝入・検断等ヨリ申開侯初、無延引罷出可申事、 -御郡司様御出村之初罷出、他部〆役勤方之通可相勤候、 -御代官様急二御出村等之節、御村御案内不出合候ハヽ 、何方迄モ引通御案内可仕事、 一品二依り大肝入始肝入・検断・手代等迄、徒者〆役召連不申不叶時分ハ、罷出候様 可申事、 -徒者〆役之所心得達等二両、肝入・検断・組頭・老敷者二無礼ケ間敷義無之様可相 勤候、 -御停止之儀相守不申儀モ有之カ、其外商売之色晶御停止物商売不仕様、尤、男女衣 類等御停止物着申儀等モ有之候ハヽ相断、為相改可申候、其上ニモ不相改候ハヽ可 申出事、 一日分用事等二両罷出候ハヽ 、居掛り之大肝入方へ申開可罷出候、罷帰候ハヽ是又可 申開候、但、大肝入居合不申候ハヽ 、手代之者申開候様可申候、 この史料は牡鹿郡陸方の徒者〆役への申渡しであるゆえ、その地に特有の勤務内容もあ るかもしれないが、全額のそれに敷術してもさほどの支障はないであろう。そこには、名 前の通り徒者の取締りからはじまって、博打、喧嘩口論、公事出入、行倒れ人・不審な死 者の処理などの警察的勤務のほか、郡奉行・代官・大肝人等諸役人の役目に応じて駆け働 くことが命じられている。村方の捜査機関として徒者役が重要な役目を演じたことが窺い *30 『石巻市史』 6 (1963年)、 195-7頁。

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ー9-知られる。 この一環として、徒者〆役は、大肝人の命により年貢納入督促等にも大いに動いたらしい。寛 政9年( 1797 )に領分北部に仙台藩としては稀有な大-操が勃発したが●31、この-操の要求項 目に「諸上納者え、〆り役責付方に被相廻侯儀被相止侯事●32」とあり、同役の強引な上納督促が 百姓の恨みを買っていた。実際、この一操においては、 「同(川原)町締り役庄左二門様宅に入込 ミ、飯を喰うやら大酒をするやら、しばらく休らい御馳走を受けて御礼にかせぎで手伝可申辿、 サア者共可働卜云億に、戸障子襖ハ不及申、衣類家財無残り落花微塵と蹴破シ●33」などと 記録されるように、大肝入とともに何人もの徒者〆役が打ち壊しを受けている●34。 徒者〆役が大肝人の手先となって百姓の難儀になっていたことについては、藩士玉虫十 蔵が天明4年( 17糾) 2月に藩主に提出した意見書「仁政篇」において、買米上納について「夫 喰給候時節故猶更上納指滞侯に付、徒者〆役等理不尽に責はたり、其内には縄懸も多く相出、 家財雑具も売払侯様に罷成●35」と指摘しており、事実と考えてよかろう。 しかし、百姓が徒者〆役を攻撃対象にしたのは、ただ彼らが強引な上納督促をしたからだけで はない。彼らに与えられる給付も百姓の肩に重く感じられたことも、この原因の一つに数えられなく てはならない。 -操の要求項目には、 「御郡〆り役御用償相出侯而迷惑二奉存候事`36」 、あるいは 「〆り役先年通御郡二弐人二被成下候御事'37」などとある。前者は、徒者〆役-の恒常的・臨時的 給与-の不満であり、後者はこのような給与を要する同役の人数を減らして欲しいとの要求である ●38 0 前掲「徒者〆役勤方申渡覚」によれば、同役の「御合力之儀壱ヶ年三人扶持」あるいは 「玄米五石八斗弐升八合」という数値が掲げられている。是は原則として郡単位での負担 になったらしぐ日、結局は百姓達が共同して負うべきものであった。さらに、同役が廻 *3 1この大-操の詳細については、さしあたり近世村落研究会編『仙台薄農政の研究』 (日本学術振興会、 1958年)、 191貢以下、鯨井千佐登「仙台薄の百姓一摸一寛政九年 -按の世界一」 (渡辺信夫編『宮城の研究』 4・近世編Ⅱ (清文堂、 1983年)、 271貢以 下)などを参照。 *3 2 司東真雄編『岩手の百姓-挨集一盛岡以南』 (北上市史刊行会、 1976年) 452頁。 なお、 467、 562頁なども参照。 *33 同上、 584頁。なお、 585頁なども参照。 *34 同上、 602貢など参照。 *3 5 本庄栄治郎編『近世社会経済叢書』 5、 12頁。 *3 6 前掲『岩手の百姓-挨集』 449頁。 *37 同上、 578、 594頁。 *38 明治2年(1869)の騒擾の際にも同様の要求が見られるが(同上、 630貢)、この 時の人数は4名だった。おそらく寛政9年にも同役の人数が以前より増えていたのであ ろう。 *3 9註30に掲げた牡鹿陸方で同役の加勢を1名増やしたいとの願いには、 「右給分償之 義は石巻浦向五ケ村の者共より償候様可仕、左候得は御郡一体之痛には相成不申」とあ り、郡の負担にはしない条件で許可されている。

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-10-村するに際しては、村方がその宿泊や食事の世話などもしたに違いない。また、同役の役 威を思うと、百姓連は好まなくても袖の下を出して急場を凌ぐこともあったであろう。犯 罪捜査機関としての徒者〆役は、領民にこのような負担を課すものだったのである。 ハ) 手先 以上の大肝人に付属する徒者〆役と並んで村方において主たる捜査機関だったと位置づ け得るものが、小人目付や同心・目明し等が村方においていた手先である。彼らは、 「御 小人目付手前之者●40」、 「御町同心手先●41」、 「目明下役●42」、 「自明小方43」等各鹿の名 前で呼ばれ、総じて小人日付や同心・目明しから割印を捺した身分証明書とでも称すべき 「合判」を渡されていたようで、合判持●44ともいった。 どのような者が手先となったかについては、たとえば「御町同心井目明之者、御用二付 在々え最下候節、村方之者、徒者之者井〆り役等え合判相渡置●45」とあるように、とに かく小人目付等が適当と思った者ならば誰でも可能であり、時には大肝入配下の徒者〆役 に合判が渡されることもあった。 かれらの人数については、もちろんその時々で変化があったであろうが、一例として、 「御町同心惣手先数,寛政十年御吟味之上、御城下に弐拾壱人、在々に七拾壱人に相滅候 事●46」なる記事がみえ、当時同心数が50名ぐらいであったから、それよりも多数の手先 が村方おり、さらにこれ以前にはより多数の手先が存在したことになる。また、この記事 からすると、誰を手先にするかはおそらく個々の同心に任されていたのであろうが、その 総人数が把握されているということは、手先となった者については町奉行所によって掌握 されていたことを意味しよう。村方の捜査機関として、公的に位置づけられていたのであ る。 このような手先は、役目上一定の特権を得ていたらしく、村方に割り当てられた夫伝馬 負担を免除され、その分その他の村人の負担増になることもあった'47。たぶんこの他に も役威を笠に着ての行動が目立ったのであろうか、文化4年(1807)に至り、これら手先 の廃止が命じられている■48。すなわち同年8月に、 「御町同心在々二於手先と称し召仕候 儀、此度御吟味之上、一切被相止」と、町同心が手先を使うことを禁止され、続いて12月 には「御小人目付手前之者召仕候様御目付へ品々被仰渡候儀、日向殿より被仰渡候処、右 被相止候様仕度、品々御郡奉行衆より被相達、無臭儀被相止旨御目付え被仰渡候」と、小 人目付も手先を使用できなくなった。ただし、目明しの手先も禁止されたのか否か、また ・40 「四冊留」 1 「御愈議之部」 76号(前掲『宮城県史』 31、 26貢)。 ・41 「同上」 45 「宿場御定」 ュl号(同上、 246貢)。 ・42 「同上」 1 「御愈議之部」 49号(同上、 18頁)。 ・43 「秘蔵線」巻1 (『仙台叢書』 10 (同刊行会、 1926年) 172頁)。 *44 同上、証41など参照。 *45 証41と同じ。 *46 註43と同じ。 *47 証41と同じ。 ・48 「四冊留」 1 「御愈議之部」 73号及び76号(前掲『宮城県史』 31、 25・6頁)。

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-ll-城下の手先はどうか、については史料が見出せず不明である。目明しの手先や、 ●城下の手 先を例外とする根拠はないように思われるので、やはり同時に禁止されたのではあるまい か。 かくして、文化以降は手先なる捜査機関は表舞台から消えたのであるが、実際上も存在 しなくなったとまではいえないのではあるまいか。これまた史料が少ないのだが、先に目 明しの項で紹介した薬種商人の取調べに際しては、明らかに目明しの手先が登場しており、 その存在は明らかである。たとえこれが公認された役職でなかったにせよ、目明しがその 職務を遂行するには、かかる手先がぜひ必要であったであろうことは想像に難くない。江 戸で日明しが否定された存在でありながら、幕末まで一貫して必要悪として存在し続けた ように、仙台藩の手先も必要悪として活動の場を持ち続けたであろう。 ニ)乞食・被差別民 まず乞食について。乞食を支配した目明し十右衛門が享保4年(1719) 11月に提出した 口上書●49によれば、城下・在々に非人頭が80名余おり、各自がそれぞれ3-8人ほどの乞 食を抱えているというのが当時の現状であった。この乞食が諸種の理不尽なねだりごとを するため「諸人迷惑」であったので、その取締り体制として以下のことを十右衛門は提案 する。つまり、 「小泉川原に寵有候非人頭十人有之内弐人を以乞食頭」として村方の非人 頭を支配させる。小泉川原の残る8名の非人頭は、 4名ずつ昼夜城下を見回って徒者等を召 捕らえ、村方の非人頭も同様昼夜見回って怪しい者等を召捕るようにさせる。さらに在々 宿場の市等でも「盗人・巾着切之類」を召捕らえるようにさせたい。この提案が藩により 基本的に認められている。 この口上書以前には乞食が犯罪捜査に携わることがなかったのか否かについては、にわ かに判断しがたいが、少なくともこの時期から乞食が犯罪捜査機関の一環として位置づけ られたことは間違いない。実際、安政元年(1854)に刈田郡白石本郷の乞食小屋主岩次郎 が,怪しい者2名を脊めたところ柴木で打ちかかられたので、 「十手を以打向、捻合」っ たけれども、相手の者によって小刀をのどに突き通され死亡するという事件も生じている ●50。十手をも持たされていたことが注目に値する。 もっとも、犯罪捜査機関としての乞食の活動には制約が課されていた。それは、被疑者 を逮捕しても、その処理は原則として村役人の指示を伸がねばならなかったことである ●51。これは、乞食はあくまでも身分的には百姓の下に位置する者であることを認識させ るものであり、この分を超えてはならなかっだ52。 次に被差別民である。前掲『仙台昔話・電狸翁夜話』は、 「犯罪の検挙には、目付役主 となり。其下に同心、目明し、河原者(稜多)ジウ(戎か)等を使役した。即ち同心は今 日の警察官(藩主の行列の警孝をも務めた)の如きもので、目明しは刑事巡査部長ともい *49 「万留書」 3号(前掲『宮城県史』 31、 470貢)。 *50 『大日本古文書』家わけ3・伊達家文書9 (1913年) 191・2頁。 *51 「四冊留」 1 「御愈議之部」 47号(前掲『宮城県史』 31、 18頁)。 *5 2乞食の家作や風俗が百姓と紛らわしくなっているとして、その取締りを命じた弘化 元年6月27日の法令(「格式留ノー」 10番(『石巻市史』 6、 231・2頁))参照。

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ー12-ふべく河原者は今日の平巡査如き職務を執り、ジウはまた其下働きを務めたものであった。 犯罪の捜査には、河原者またはジウが専ら立ち廻り、目明しは其指図をするのである■53」 と述べ、また、鈴木省三『仙台風俗志』も、 「稜多の手下となりて発馬牛を取り締るが其 役目」であった「じう」 (「戎の字なるか、本字明ならず」との注記がある)について、 「じ うは罪人を捕縛することを勤とする故、平生、十手・早縄・棒なとを良く習ひ、いさとい ふ場合には之を応用して罪人を輔へることなるが、 (中略)平日は十手早縄を腰にさしは さみ股引脚半に草牲はきの出て立にて米袋を有に掛け士民の家々を『おかんじん』といひ て廻はり●54」とする。 これらによれば、被差別民、とくに「じゆう」と呼ばれた者が犯罪捜査機関として活動 したことになるが、遺憾ながらそれを裏付ける史料を入手していない。仙台城下川原町稜 多が死刑執行などの役を負わされたことについてはすでに触れたことがあるが●55、城下 ・村方いずれにおいても被差別即雪犯罪捜査に係わったかどうか確認していない。被差別 民は、江戸では犯罪捜査に携わることはなかったが、大坂ではその職務を遂行したような ので、仙台藩の実態はどうだったのか、興味のあるところであるが、その解明は将来の課 題とする。 (3) 行倒れ人の処理 犯罪というわけではないが、当時厄介な問題の1つとして、行倒れ人を処理するための 費用を誰が負担するかがあったので、ここで付言しておきたい。 実例を掲げると、まず宝暦4年(1754) 10月に本書北方気仙沼本細での行倒れ人の処 理に関しては、所により地主負担、組合負担、村負担と「時宜こより不同」の状態なので どうしたらいいかとの問合せが藩に出され、これに対して「-村債」にせよとの回答があ った'56。また、文化7年(1810) 10月に他嶺者が城下国分町で病気のため逗留していた 間の賄い代は、藩より支給されたが、これからは町人居住地の行倒れ人についてはその行 倒れていた町の負担とし、侍居住地のそれは藩より出すことになった'57。 こうした行倒れ人処理に要する費用がその町あるいは村にかかることは、そのような行 倒れ人を発見した場合、その処理負担を回避するため、行倒れ人を他の町村に移してしま うということもあり得るだろうから、面倒な問題を引き起こすこともあったのではあるま いか。 *53 前掲書, 80頁。 ・54 鈴木省三『仙台風俗志』 (雨香国、 1937年)、 231貢。 ・55 註1所掲拙稿、 34頁。 ・56 「四冊留」 1 「御愈議之部」 43号(前掲『宮城県史』 31、 16貢)。なお、 『肝煎以路 披伝書』上(東北歴史資料館資料集8) (1984年)、 40貢も参照。 ・57 同上、 62号(同上、 23頁)0

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-13-第2節 護送段階 被疑者が逮捕され、一定の下吟味がなされると、次はその被疑者を裁判機関たる評定所 に送ることになる。城下での被疑者逮捕の場合は護送の問題が生じることは少ないが,村 方については、その村方が城下を遠く隔たっていると、護送を誰がし、その費用は誰が負 担するかが重要な関心事になる。以下、この間題を探ってみよう。 (》 護送方法 城下に近い村方の場合についての史料が見出せないのだが、おそらく徒歩で城下まで連 れて行くということで十分だったであろう。これに対し、遠隔地については馬が使用され た。実例を徴するに、文化期に伊具郡丸森町の佐藤専蔵が城下まで護送されたときに馬が 使われている●58。 問題は、この護送に使用される馬は誰が負担したのかである。被疑者の護送には、通常 「宿継判紙」と呼ばれる代官の指示書が道中の宿場宛てに出される。その具体的な形式は 以下の通りである。 宿 継 判 紙     岡 本 大 助秤 御用状二付、囚人黒川郡吉岡町久三郎儀.無付人十二月朔日気仙今泉町指立、道中四 (tr*) 日振、来ル四日仙台着為指登候条、駅々馬二為被乗、 '笛'突弐人宛相付、寓二両 (至カ) 不寝番相付、牢屋致 候而可相届者也、 子ノ十二月二日 従今泉町気仙沼町通り  宿 々 この宿継判紙によれば、馬の提供はその被疑者が送られる道中の宿場の負担であった。 しかも各宿場は、馬の提供の外に、この場合は付人がなかったため、棒付と称される付人 2名と泊まりの際の不寝番をも出すことを義務づけられていたのであった。これらの負担 は、各宿場が伝馬等の提出義務を「役」として負っていたことの一環と位置づけられる。 かくて、被疑者の藩送は、その犯罪に何の関係もない宿場に一定の負担を負わせるのであ る。 ② 護送者 町同心が被疑者を逮捕した場合、 「御町横目助川仁兵衛等宮城利府町囚人召連罷越●59」 等とあるごとく、同心がそのまま護送者になることがあった。おそらく小人目付について も同様だったであろう。また、 「在々より囚人為相登候節、御足軽在之御郡こてハ、右御 足軽相付候上、棒実相付宿次ヲ以為相登●60」との記事によれば、重大事件のときは在郷 足軽が護送者として利用されもした。小人目付・町同心が直接護送する被疑者も、比較的 重大な事件の場合と考えてよかろう。 かかる藩の役人が護送者となるほどでない軽い事件のときは、大肝人の指示を受けて被 *58 佐々・前掲論文、 137貢。 ・59 「四冊留」 1 「御愈議之部」 48号(前掲『宮城県史』 31、 18貢)。 ・60 「万御定格留」 22号、享保17年9月。

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-14-疑者の親類等の関係者が護送者となった'61。たとえば、先に掲げた佐藤専蔵の護送には 親類が当たったし`62、寛延3年(1750)に生じた藩の蔵から大麦が盗まれた事件の被疑 者は2名の付人によって護送されている●63。この場合は当然ながら付人となったものが 労力提供をすることになる。 さらに、 ①で掲げた宿継判紙が発せられたときは、うえのような関係者さえ付かず、仙 台までの道中の各宿場が被疑者の護送を引き受けることになる。もちろん、万一その被疑 者が逃亡したようなときは宿場の者が一定の責任を問われたであろうから、宿場にとって は迷惑なことであったろう。 ③ 費用負担 それでは、こうした護送に要する費用は、いかにして賄われたたのであろうか。被疑者 や覆送者の食事代・宿泊代等が当然必要とされたであろうからである。 まず,享保12年2月の記事●64によると、 「上より被召捕候囚人にて、御小人・御町同 心等召捕候分ハ、 上より被相出候」との原則があった。重大事件に関しては、それなり に藩の関心が高かったことの表れであろうか。 問題は、これ以外の場合である。上記原則を掲げる記事は、もともと「在々より囚人に 而為差登候者宿場に而旅能代、附人之者方より相払来候我、亦宿場雑用ヲ以罷登候哉」と の伺いへの回答中にみられるものであり、この回答の中心は「附人之者方より相払候」と いうものであった。つまり、一般的には護送費用は付人負担であり、宿場の負担とはなら ないのである。もっとも、ここで付人負担ということは、現実にはその被疑者の親類等関 係者全員の負担を意味したであろう。実際, ②で紹介した寛延3年の事件の場合は付人与 善意へ旅費代として3貫文が渡されており、付人自身が全額を負担したものでないことは 疑いない。 それゆえ、こうした付人がおらず、宿継で轟送される場合は、宿場がその費用を負担し たことになろう。もっとも、宿場は、その後被疑者の関係者がいれば、その費用をあらた めて請求し得たのか否か、この点必ずしも明らかでない。今後の史料発掘に期待せざるを 得ないが、いずれにせよ、犯罪の発生に伴う被疑者護送は、常に藩の費用で行われたわけ では決してなく、被疑者の親類等の関係者はもとより、場合によっては護送の道中宿駅も 一定の負担を余儀なくされたのである。 ・6 1被疑者の逮捕は小人目付が行っても、その護送は、大肝人に委ねられることのあっ たことは、 「気仙郡矢作村之者共、密鉄犯候由ニテ、御小人共東山こて召捕、為相登候 様東山大肝大方え相渡候」 (「四冊留」 1 「御愈議之部」 74号(前掲『宮城県史』 31、 26 頁)、文化4年9月の記事)とあるのを参照。 ・62 佐々・前掲論文、 137頁。 ・63 『南方町史』資料編(1975年)、 363貢。 ・64 「万御定格留」 21号。なお、 「四冊留」 1 「御愈議之部」 40号(前掲『宮城県史』 3 1、 16頁)及び証61所掲記事を参照。

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-15-第3節 事理段階 次に評定所での審理段階の問題を検討する。城下に送られた被疑者は、評定所での審理 を受ける間身柄を拘束されるが、その中心は牢での拘禁である。この入牢に際して、たと えば佐藤専蔵の場合あらかじめ御牢守石名坂の藤兵衛なる者へ金1切を渡して牢内での処 遇への配慮を依頼しており、このような袖の下に係わる費用負担も無視できないのである が,この点については関係史料が不十分であり、さしあたり問題の指摘に止めざるを得な い。よって、ここで検討したい主要な局面は、被疑者の拘禁費用と審理への関係者召喚費 用の2つに絞る。以下、この順に考察を加える。 (1) 牢米代 仙台藩の牢については、いくつかの先行研究があるものの、いずれもごく簡単な叙述に 止まっており`65、その実態解明は不十分である。しかし、本研究による史料調査の結果. 仙台藩牢屋敷関係の史料25冊(コピー枚数にして2,600枚余)が,矯正図書館に存在す ることが判明した。同史料は、刑務協会の『日本近世行刑史稿』上(1943年)編集に際 して若干使用されたものの、その後ほとんど利用されることなく長期間眠ったままであっ た。本史料については現在筆耕作業を進めており、平成16年には翻刻刊行することを計 画している。この刊行により、仙台藩の牢に関する研究は飛躍的に進展することが期待さ れるが、現時点では本史料の参照はごくわずかに止まり、これまでに収集・分析し終えた 他の史料に依拠せざるを得ない。 さて、江戸時代の牢が一般的に未決勾留施設であったことは周知の事実であるが、そこ に拘禁された被疑者(以下、当時の一般的な呼称である囚人と呼ぶ)の食費その他の拘禁 費用については、これまで主として囚人の処遇の側面から考察が加えられてきた'66。し かし、大坂町奉行所の牢では有宿者の拘禁費用が自弁とされだ67のをはじめ、官給とさ れない事例が決して少なくない●68ため、官給でない場合の費用負担のあり方に注目した 研究も存する●69。 両者はもちろん相対立する研究ではなく、両者相補うことによって牢の実態解明が可能 なのであるが、牢の公金費用負担に関する史料がかなり目につく割には、後者の視点から の研究が少ないようである。そこで、比較的整理された拘禁費用負担原則を有していた仙 ・65 山田・前掲書、 1・2頁、佐々・前掲論文、 144・5頁、高倉『仙台藩犯科帳』16-8 頁、重松一義『日本刑罰史蹟考』 (成文堂、 1985年)、 243-6頁、など。 ・6 6 刑務協会『日本近世行刑史稿』上(1943年)、 340頁以下、平松・前掲書、 936-8 頁、中河原喬『近世北海逆行刑史』 (同成社、 1988年)、 216 - 25頁、藤井嘉雄『大坂 町奉行と刑罰』 (清文堂、 1990年)、 111・2頁、等参照。 *67 平松・前掲書、 936頁、藤井・前掲書、 111貢参照。 *6 8 さしあたり、前掲『日本近世行刑史稿』上、 340頁、 460貢を参照。 ・6 9 田中善男「小藩城下町の支配機構と住民負担一十万石額富山城下町-」 (『史叢』 46 号、 1991年) 20・ 1頁、黒滝十二郎『日本近世の法と民衆』 (高科書店、 1994年) 39-42 貢など。

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-16-台藩を取り上げ、拘禁費用の私的負担がいかなる意味を有したのかにつき検討する意義が ある。 仙台藩の牢の創始時期については詳らかでないが、初期には城下、江刺岩谷堂、登米狼 河原の3カ所に設置され、その後狼河原牢は廃されて2カ所になったらしい●70。ただし・ ここで対象とする牢は、この内城下に設けられたものに限定する。仙台藩では、この牢に おける拘禁費用を「牢米」 「牢米代」と呼んでいるので、以下この呼称に従う。 この牢米に関する法令を概観すると、 ①慶安5年及び寛文12年の単行法令の存在に続 き、 ②延宝9年に包括的な法令が発布されて一応の骨格が形成されさらに元禄8年にそ れが若干修正されたのち、 ③享保16年に至り以後幕末まで効力を有したと推測される牢 米基本法とでもいうべき法令が制定されている。以下、この順序に従って内容を紹介した い。 ① 慶安5年法及び寛文12年法 牢米負担関係法は、おそらく牢が創置されたときからすでに何らかの形で存在したこと と思われるが、現在確認できる最初の法令は、慶安5年(-東応元、 1652) 8月19日付 の「御村方万御定」 (全28ヵ条)中の14条但書●71である。本条は、 「逃百姓」の宿、そ の五人組及び「逃百姓」の五人組に過料を科す規定であるが,その但書に「逃人之五人組 之者、逃百姓引返候ハヽ、当人ハ五十日牢舎被仰付、百姓二可被相立候、此五人組手前よ (自カ) り牢米為出、右之過料金ハ返不被下候、又逃百姓其身分二罷帰り候ハ、、牢舎なしこ百 姓二被相立、組之者より被召上候過料金ハ返し被下問敷候事」とある。つまり、五人組が 逃散百姓を連れ戻したならば、 50日間牢に入れたうえ元のように百姓にするが、その際 の牢米は五人組が負担すること,逃散百姓が自発的に帰村した場合は、拘禁なしに元の百 姓にする、しかし両者とも五人組より徴収した過料金は返付しない、との内容である。 これが、逃散百姓発生予防のため五人組の相互監視機能を強化することを目的としたこ とは疑いない。五人組の一員が逃散すれば、その五人組の残りの者は探索を命じられ、首 尾よく見つけ出して連れ帰ったとしても、過料金に加えて50日分の牢米を負担しなけれ ばならない。この負担を避けるためには日常的に相互監視を強め、逃散百姓を出さないよ う努めなければならない、というわけである。 明示的な史料を持ち合わせていないのを遭億とするが、私的牢米負担を要求されたのは 決して逃散百姓の場合だけでなく、他の犯罪により入牢させられた囚人についても何らか の私的牢米負担が存したものと思われる。しかし、上述の史料に限ってみるならば、近世 初期より五人組が牢米負担の主体として設定された場合のあることに注意しておきたい。 次に牢米の語が見出されるのは、上の法令から20年後の寛文12年(1672) 5月26日 付の通達●72であり、ここでは牢米の私的負担から公的負担への変更が示されているoす なわち、 「御分領中在々二令排掴無行衛悪人、其所より捕出候は、牢米前々ハ其所より錐 ・70 高柳・前掲論文、 77頁。 ・7 1 「仙国御郡方式目」 (近世村落研究会編『仙台藩農政の研究』 (丸善、 1958年)、 263 貢。 *72 同上、 276頁。

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-17-償之、泥此費、悪人見逃候儀難計候間、自今以後公義可為扶持候条、弥無遠慮改、放候様 可申付旨被仰出候」とある。この「無行衛悪人」の私的牢米負担がいつから行われていた か・また「其所」とはどの範囲を指すのかなどについては不明である。しかし、初期にお いては一定の共同体の外にある他所者の牢米さえ私的負担を命じられ、これによりその地 域の治安維持を図ろうとしたこと、ところがその私的負担が地域の重荷となり、 「無行衛 悪人」を官に知らせず見逃すという、藩の期待とは全く逆の効果を生ぜしめたため、牢米 の負担を私から公に変更することを余儀なくされたことは、これまた以下の考察を進める うえで留意しておくべき事柄である。 ② 延宝9年法及びその修正法 おそらく上述のごとき断片的な法令がある程度集積された結果であろう、延宝9年(-天和元、 1681) 7月25日付で全10ヵ条の包括的な牢米規定が制定され●73、それが元禄8年 (1695) 6月6日に修正を加えられて全14ヵ条となって、一層整備されたものとなる・74。 いずれも長文の史料なので、ここでは後者のみを掲げておこう。 -喧嘩口論・酔狂を以、或所を唾、或案外不作法仕候者、牢舎迄にて御免被成候ハ、、 篭米其身方より可為相出之、或死罪或他国追放にて妻子奴二被仰付候ハ、、共晶こ より主人方より可為相出、勿論妻子・家財二無御桶は、妻子方より可為相出之事、 -公事争論仕候者・越度を以死罪・追放二成候者、妻子奴子、家財欠所成候ハ、、従 上篭米可為相出之事、 一博葵打候者・死罪・追放・過料等二成候は、篭米奉公人は其主人、凡下之者ハ五人 組より可為相出、若又妻子無御横は、妻子二可為相出事、 一流浪者犯博爽候者篭米、其宿可相出、雑然宿仕候俵科御仕置有之者、其宿之五人粗 方より篭米可相出事、 -盗人死罪・追放二成候者篭米、奉公人は主人方より可為相出、尤、町人・百姓之下 人たりといふとも可准之、若又妻子二無御樺は、妻子二可為相出事、 -修行者並流浪者・乞食・非人等之篭舎は、従上篭米可為事、 -出所不知者品有之て篭合は、其宿並五人組可出口口、雑然宿並五人組之内より共晶 申出候ハヽ、可相免之事、 -密懐之者・死罪・追放之者共二従上篭米たるべし、若主人有之者ハ、共時之晶によ り吟味之上主人方より可為相出、篭舎迄こて御免之者ハ、篭米其身二可為相出、雑 然可相出無分際者ハ、吟味之上品により従上篭米たるへき事、 -軽者為穿塾被戒置篭舎、礼明之上於無科者、篭米可相免之事、 -不寄何事・主人方より依願内之者篭舎被仰付候ハ、、主人方より篭米可為相出、雑 然或質物下人或-季・半季之下人二候ハ、、人主・口入・請合之者方より篭米可為 相出・若又会議之上無科者相極候ハ、、主人方より篭米可為相出、併主人至て小進、 篭米可相出無分際欺、又ハ科之晶こより従上篭米たるへし、町人・百姓も可准之、 付、百姓、地頭に対し不屈案外之儀有之、地頭方より依願御穿整之上篭舎に戒置とい *7 3宮城教育大学附属図書館蔵「仙台藩判決録」 26号 *7 4盛岡市中央公民館蔵「仙台藩質物奉公人法度」。 ー18-「牢米定之事」 。

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ふとも、篭米百姓方より可為相出之事、 -御足軽・御小人等軽き御扶持人、越度有之篭舎之上罪被仰付候ハ、、従上可為篭米事・ -主・親を殺候者、本人は不及申、近親類迄御仕置被(以下欠)、 一百日之上篭舎之者、科軽出篭被仰付候ハ→、百日之外は従上篭米たるべし、百日以 下ハ前条其品々によって篭米可為相出、雑然可相出無分際者ハ、吟味之上従上篭米 出サるへき事、 -惣て公事争論等穿馨事済、書立措置候日より従上篭米、其以前可准前条事、 このように、牢米の私的負担を要求される犯罪類型はきわめて多様であり、その負担者 としては妻子はもちろん、 「其所」や五人組もがあげられており、官給は無宿者や特例的 な有宿者に限られていた。もっとも、私的負担の限度を100日間と限っていることが注目 される。審理を可能な限り100日以内で終結させようとの配慮からであろうか。 なお、同令発布から約2カ月後の11月25日に、牢米の上納が滞っている者について、 「前々之通御利足無しにて急度取立」てること、出牢後3カ月以内に上納させること、の2 点を命じた通達が出されている●75。おそらく牢米を取り立てることは、当時においても 容易なことではなかったのであろう。 それでは、徴収された牢米額はいくらであったのだろうか。それを示す元禄期の史料を 現在入手していないのだが、万延2年(=文久元、 1931)の記事によれば、それは元禄年 中から一貫して玄米1升・薪代4文であったらしい●76。この額は、たとえば100日拘禁 されたとすると1石と400文となる。 1石あれば1人が1年間食べていけたといわれるこ とからすると、この額はたぶん一般の町人・百姓からするときわめて重い負担になったと いってよい。それだけに、この負担から逃れるためには、とくに五人組の相互監視機能の 強化を民衆の間に意識させたのである。 ② 享保16年法 享保16年(1731)正月23日に至り、全9ヵ条よりなる牢米規定が発布されている-77。 以下にその全文を掲げる。 御余儀之上、科無之出牢被仰付者、井重科二被仰付家財開所被仰付候者、縦妻子有 之候共上之牢米たるへし、妻子・家財無御構分ハ妻子方より可為相出之、勿論牢舎 こて御免、本所え被相返候ハヽ、牢米其身方より可相出由之事、 附、侍井百姓・町人等之召仕候分も牢米可為同然事、 一博葵打候者牢米之事、侍屋敷こて内之者又ハ百姓・町人・宿守等博突打候節ハ、其 一座之者迄牢米屋敷主井五人組より可召上事、百姓・町人之屋敷こて博突打宿仕候 *75 同上。 ・76矯正図書館蔵「定留(安政七年・万延二年)」 15号。なお、元禄期に決められたこ の額が幕末期まで維持されたことにより、幕末期に実際に要する拘禁費用と比べると徴 収する牢米が不当に多いものであることが、牢役人自身によって指摘されている。 ・7 7 「万御定格留」 2冊「牢米代之部五」 1号「牢米定」。なお、東北大学附属図書館蔵 「仙台藩御仕置 格(仮題)」所収「牢屋敷へ附候諸格」 6号「牢米召上之定」、毛利・ 前掲論文、 68・9 貢所掲「牢内米定」 (141-1-141-9)同文。

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ー19-者井博突打見物人之牢米共二、縦奉公人・宿守等罷越打候ても、博葵宿之五人組よ り可為相出、博爽宿借屋等二侯ハト大屋・五人組より可相出由之、尤、大屋牢舎被 仰付候ハヽ 、其身之牢米共二可為相出事、御旗元御足軽以下御扶持人之屋敷こて悼 突打、御格之通可召上候、侍屋敷え入交り居候者も可為同然事、侍以下共二屋敷主 井大屋・五人組致穿聖、手前より申出之、其者之牢米ハ相免、上之牢米たるべき事、 -他国者井無宿之者・乞喰令牢舎ハ、上之牢米たるべき事、 -出所不知徒者宿致置、罪二被仰付之宿仕候者井徒者之牢米、其者之五人組方より可 為相出之、若又其者牢舎迄こて御免罷成侯ハヽ 、宿方より可相出之、其身は罪二被 仰付、妻子・家財は無御構、妻子方より可為相出之事、 附、宿仕候者借屋等こて、其身重科二被仰付候ハヽ 、大屋井五人組心ヲ付、共晶 申出之、牢米相免、上之牢米たるべき事、 -内之者疑敷儀在之、主人方より御余儀を頗候上、内之者牢舎被仰付、御仕置罷成候 ハヽ、主人方より牢米可為相出之、質物又ハ壱季内之者ハ、人主・受入方より可為 相出之、若又御余儀之上科無之出牢、主人え被相返侯ハヽ 、縦人主・受入有之候共、 主人方より牢米可為相出之、質物等之者こて人主・受入等無之候ハヽ 、主人方より 牢米可為相出之、 附、主人方より申上候共、或ハ上之御仕置を背候か、又ハ他え引張候事こて自分 仕置返申付、晶有之相違侯ハヽ 、罪之有無共二牢米主人方えハ被仰付間数候、御 定之通牢米可申付事、 一百性対地頭二不屈有之、地頭方より余儀を願、百性牢舎被仰付候共、牢米ハ地頭方 よりハ被召上間敷候、相定之通可被召上事、 -御扶持人凡下牢米、日数之牢舎ハ不及申、御愈儀中之分共こ、科在之者ハ御扶持人 二無之凡下同然可被召上事、 但、御扶持被召放候は、妻子等より召上候儀ハ無之事、 -牢米下より可相出格之者二候共、百日之外ハ上之牢米たるへき事、且又百日以下二 候共、御余儀相極書立差出候日より上之牢米たるへき事、 -右牢米可相出梅之通牢米上納於差帝は、知行所え割付、或ハ御扶持方・御切米渡方 を以召上、たとへ御扶持人二候共凡下之分、井百性・町人等ハ、兼て上納等取立候 格之通姑却を以成共可召上事、 若干解説を加えておくと、第1条が一般原則とでもいうもので、審理の結果無罪となっ た者の牢米は藩が支出し、有罪でしかも重罪のため家財欠所の場合も、支払う原資が藩に 没収されてしまうのだから、当然に藩が負担する。有罪でも妻子・家財はそのまま保全さ せるときは妻子が負担する。有罪だが軽微な犯罪で牢に拘禁されただけで赦免された者は 本人負担とする。この原則の上で、第2条として博打犯についての規定がおかれる。すな わち、賭場が侍屋敷の場合は屋敷主とその五人組が支弁し、庶民の家の時はその家の五人 組の負担となる。延宝9年法でも博打犯の規定が第3条に存在するが、いかに博打の取締 りに藩が腐心していたかを示すものである。 以下、第3条の他国者・無宿・乞食の牢米は藩支給、第4条の徒者の宿をした者につい てはその五人組負担、第5条は奉公人の詮議を主人が願い出たときはその主人負担等の奉 公人関係、第6条は地頭が百姓の詮議を願い出たときでも地頭が負担することはないこと

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-20-の規定、第7条が扶持を受けている凡下も一般の凡外同様牢米負担原則が適用される旨の 規定と続く。そして第8条に、延宝9年法と同じく、牢米負担日数は100日を限度とし・ それ以上は藩が支給するとされる規定が存する。さらに、第10条が牢米上納が滞ったと きの処置を述べる。 この規定は、以後たとえば博打犯が過料を科されたとしても牢米は自己負担というよう な、小さな補充ないし修正が加えられることはあっても、原則的には大きな変更なしに幕 末まで妥当する。しかし、実際には、牢米の上納は決して頗調になされたわけでない。多 くの場合、犯罪に走った者本人及びその妻子はもちろん、五人組でさえその上納を滞りな く行うことは困難であったろう。万延2年(1861)年の記録●78によれば、 3カ月過ぎても 不納の者は欠所括却等で徴収するという「厳重之御格」があるけれども、実際には「寛大 之御吟味」になっていて「御格ハ銘儀而己」になっている、牢米代はいつ払おうとよいと 心得ているようで、 10年、 20年も未納の者が多く、そのうちには死亡などで結局徴収不 可能になることが多い、という状態だったようである。 もちろん、藩としては、このような状態を改善すべく努力し、実際牢役人を報償する際 の理由の1つが牢米徴収の円滑化に寄与したということが挙げられるほど関心の強いもの だったが、牢米徴収が厳格になればなるほど、とくに五人組が受ける負担は厳しいもので あったろう。 なお、牢米代の納入はその証書を評定所に差し出し、その確認を受けてから牢の会所に 納めたもののようである。先に紹介した日野屋仁兵衛の牢米代納入に関する書類として、 下記の如きものが掲げられている●79。 見届    遠藤官三郎 判 一 十五日  北材木町 日野屋仁兵衛 此御牢米代  壱貫四十七文 右之通相納候、以上、 文久三年四月    北材木町 日野屋仁兵衛 判 針生喜作殿 右之通相納申上候、以上、 同年同月      北材木町換断針生害裁 判 右之通話取申候、以上、 同年同月      御牢下役 三浦三郎右衛門 判 この日野屋仁兵衛は、出牢後即座に支払いを完了しているが、一般の町人・百姓の場合 はおそらく困難なことが多かったであろう。いずれにせよ、被拘禁者が博打犯であった場 合を中心として、その食費等が五人組負担とされたことにより、この負担を回避せんとす るならば、いきおいその相互監視機能の強化が図られざるを得なかったであろう。 (2) 審理への関係者召喚費用 次に、審理の過程で、証人などとして関係者、とくに村役人が召喚されて評定所まで出 ・78 前掲「定留(安政七年・万延二年)」 26号。 *79 証22と同じ。

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ー21-向く際の費用についてである。仙台藩に限らず、近世裁判法一般において、民事・刑事を 問わず、裁判当事者は本人のみでは訴訟を遂行できず、町村役人の差添えが必要とされた。 それゆえ、事件が生じて評定所へ継属すると、町村役人の出廷は必須であった。問題は、 その旅費や滞在費をどのようにして工面したかである。 仙台藩においては享保期までは必ずしも統一的な基準がなかったらしいが、その統一を 図るため、享保11年(1726年)に民刑両者をカヴァ-する以下の規定が設けられた'80。 -惣て公事争論之儀訴出候者井公事相手とも二、其身々々入料計可相出候事、 -右懸公事井相手之者惣方之人頭・五人組合等、其身々々入料ハ面々可相出事、 一大肝入・村肝入井御会議引張之者入料ハ、一村償こて可相出候事、 一人殺・盗賊等之儀二付、為御愈議之大肝入・村肝入或ハ組頭等まて罷登候節之入料 ハ、 -村償可相出候事、 -往来之旅人或は無行衛・乞喰体之音叉ハ他嶺他部之者之儀ハ、御愈譲能登候様之分 ハ、 -村償こて可相出事、 この規定の第1 ・2条は民事裁判関係であるが、 3 - 5条が刑事裁判関係で、これらに よる限り、召喚された村役人の要する費用はすべて「-村償」、つまり村の公金から支出 されることになっている。決して藩が支弁するのではない。ここにおいてもまた、犯罪の 発生は村の財政を費消するものとして村人に映じたに違いない。 *80 「四冊留」 1 「御愈議之部」 45号(前掲『宮城県史』 31、 17頁)。

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