開国以前の日露関係に関する研究
著者
平川 新
開国以前の日露関係に関する研究
研究成果報告書
平成17年度∼平成19年度科学研究費補助金
基盤研究(B)
課題番号17401017
平成20年3月
研究代表者
平 川 新
(東北大学東北アジア研究センター)
開国以前の 日露関係に関す る研究
研究成果報告書
平成17年度∼平成19年度科学研究費補助金
基盤研究(B)
課題番号 17401017
平成20年3月
研究代表者 平 川 新
東北大学
東北アジア研究センター・教授
はしがき
平 川 新 1.これまでの経ヰ 本研究は、いわゆる鎖国体制下にあった17世紀から19世紀半ばまでの日露関係のあり 方に焦点をあて、ウラル山脈を越えたロシアが版図を拡大して日本に接近してくる過程、 通商を求めて日本に来航したロシア人の記録、ロシアに漂着した日本人漂流民の記録など、 日露関係に関するさまざまな史資料の調査・収集を目的に開始された。 1854年の日露和親条約締結以前の日露関係史として思い浮かべるのは、連日ロシア使節 のラクスマンやレザーノフ、彼らが送還してきた日本人漂流民(伊勢の大黒屋光太夫や石 巻の若宮丸乗組員)、レザーノフによる国交交渉失敗後に発生したロシア艦による樺太・択 捉・利尻島襲撃事件、日本側によるロシア艦長ゴロヴニンの捕縛とロシアによる高田屋嘉 兵衛の捕縛などが主なものだろう。いっぽう、日本史の側からおこなわれるロシアを意識 した研究としては、17世紀後半の工藤平助や林子平などのロシア脅威論や、これらに触発 された幕府による蝦夷地巡見、その後の蝦夷地幕領化など、主として日本国内における北 方認識や北方政策にからんだものがある。 だが、これまでの日露関係史の研究をかえりみて思うのは、ロシア側記録が十分に利用 されていないのではないかということであった。日露間に発生した上記の事件等について は日本側の記録があり、それなりの復元と検討が可能である。だからこそ日本史の研究者 は日本史研究の方法を用いて日露関係や北方政策を研究することができたし、そのことが ロシア側資料を積極的に求めなかった理由かもしれない。しかし研究の進展をはかろうと すれば、単に日本側の史料だけではなく、ロシア側の史料も使って、双方向的な検討が求 められることになるだろう。そうしたときに、日本史研究者の前には、ロシア語史料はも ちろん、その翻訳文さえも、ほとんどないことに気づかされたのであった。 そこでソ連史がご専門の寺山恭輔准教授に、厚かましくもロシア史料の調査と翻訳事業 ができないだろうかと相談し、ご賛同をいただくことができたのは、なにより幸いなこと だった。早速、科研費の基盤研究Bに、「前近代における日露交流資料の研究」という研究 テーマで申請したところ、平成12年度から14年度まで研究費が交付されることになった。 そのあと平成15年度から16年度までは、「日本近世漂流記の基礎的研究」(特定領域研究 「東アジア出版文化の研究」公募研究)に採択され、平成17年度から19年度まで、再び基 盤研究B「開国以前の日露関係に関する研究」の交付を受けることができた。 この間、寺山准教授のツテを頼りにロシアの共同研究者を探していただき、国内では全 国から若手の翻訳スタッフを募集していただいた。内外の多くの方々のご支援を得た結果、これまでに3冊の史料集『ロシア史料にみる18∼19世紀の日露関係』第1∼3集(東北ア ジア研究センター刊)、および『開国以前の日露関係』(寺山恭輔編、東北アジア研究センタ ー刊)を出版することができた。いずれも、日本史およびロシア学の研究者の方々から高い 評価を頂戴することができた。これらの史料集が日露関係史のレベルアップをもたらすで あろうことは、疑いがない。またロシアへ漂流した日本人の史料もあったことから、漂流 民に関心をもつ市民の方々にも好評だった。 本研究期間中には、寺山准教授だけではなく、編集事務局として、前教育研究支援者で あった畠山禎さんと現教育研究支援者の小野寺歌子さんにも大変なご苦労をおかけした。 心より御礼を申し上げたい。 この事業は、日露の国際共同研究でもあり、ロシア学と日本学の共同研究でもあった。 タコツボ型の学問にとどまることなく、困難な学際的共同研究に参加してくださった多く の方々にも、深甚の謝意を表したい。 私たちの手元には、まだ多くのロシア史料が残されている。これらの翻訳を今後も継続 し、史料集の続編を出版していくことが、私たちの願いである。
2.研究組織
研究代表者二平川 新 東北大学・東北アジア研究センター・教授 研究分担者:寺山恭輔 同・准教授 研究分担者:畠山 禎 同・教育研究支援者(平成17∼18年度)3.交付決定額
直 接 経 費 間 接 経 費 合 計 平 成 1 7 年 度 2 ,0 0 0 千 円 0 2 ,0 0 0 千 円 平 成 18 年 度 2 ,0 0 0 千 円 0 2 ,0 0 0 千 円 平 成 19 年 度 2 ,5 0 0 千 円 7 5 0 千 円 3 ,2 5 0 千 円 総 計 6 ,5 0 0 千 円 7 5 0 千 円 7 ,2 5 0 千 円4.着霊・論文
*寺山恭輔「スターリンと中東鉄道売却」、江夏由樹、中見立夫、西村成雄、山本有造編『近 代中国東北地域史研究の新視角』山川出版社、2005年。 11*寺山恭輔「スターリンと満州」『東北アジア研究』第9号、2005年。 *平川新「レザーノフ来航史料にみる朝幕関係と長崎通詞」、寺山恭輔編『開国以前の目口 関係』(東北アジア研究センター叢書)2006年。 *平川新・谷山正道共編 近世地域史フォーラム③『地域社会とリーダーたち』、吉川弘文 館、2006年。 *平川新「中間層論からみる浪士組と新選組」 近世地域史フォーラム③『地域社会とリ ーダーたち』吉川弘文館、2006年。 *寺山恭輔「ロシアにおける田中上奏文」『ロシア史研究』第78号、2006年。 *寺山恭輔「遣目レザーノフ使節団の提唱者、ロシア宰相ニコライ・ルミヤンツェフ」、寺 山恭輔編『開国以前の目口関係』(東北アジア研究センター叢書)、2006年。 *寺山恭輔「プーチンのロシア」『三人の大統領とソ連・ロシア:ペレストロイカ、ソ連崩 壊、再興』東北アジアアラカルト第16号、2006年。 *畠山禎「帝政末期ロシアにおける都市への人口流入と民間慈善協会」『東北アジア研究』 第10号、2006年。 *寺山恭輔「革命ロシアからの密使と中国」『初期コミンテルンと東アジア』不二出版、2007 年。 *寺山恭輔「戦間期のソ連西北部国境における民族問題とスターリンの政策:フィンラン ドとレニングラード、カレリア」『史林』90巻1号、2007年。 *畠山禎「帝政末ロシアにおける都市成長と結婚行動の変容−結婚行動の分析を中心に −」『東北アジア研究』第11号、2007年。 t研究報告等】 *平川新「『環海異聞』の史料的意義」、宮城県図書館研修会、2007年11月30日 *平川新「環太平洋の近世史一束アジア史の枠組みを超えて−」、近世史サマーセミナ一 束松島市、2007年7月14日 *平川新「帝国としての近世日本」、アジア社会研究会シンポジウム 東北アジア研究セン ター、2008年1月26日 iii
ロシア史料にみる18∼19世紀の日露関係 目 次
出典一覧 訳語表 用語解説 凡 例 監修・編訳者■訳者一覧 第1部(1701∼1762年) 1.コサック五十人隊長ウラディミル・アトラソフの「陳述書」。1697年のカムチャツカ遠征 について。1701年2月10日。(③No.15) 2.ウラディミル・アトラソフにより保護された日本人デムベイの「陳述書」。日本について。 1702年1月。((諺No.118) 3.造船親方F.S.サルティコフからピョートル一世への「提議」より。シベリアの諸河川の河 口で船を建造して太平洋に出航し、新しい島々を発見し、中国およびその他の諸国と海洋 貿易を行うことについて。1713年4月24日。(⑤No.1) 4.F息サルティコフからピョートル一世へ宛てた覚書「国家への利益表明」より。アルハン ゲリスクから太平洋への航路を探索することについて。1714年。(⑤No.2)………17 5.ヤクーツク地方長官である陸軍大佐Ia.A.エリチンから、下級勤務員Kソコロフ、舵手Ia.Ⅴ ネヴェイツイン、五十人隊長M.クリヴォノソフへの命令書。カムチャツカへの航路の探索 と発見した土地の記述について。1714年7月3日。(⑤No,3) 6.海軍大尉RタタリノフからIa.A.エリチンへの報告より。アナドウイルスク要塞の初代プ リカース員の任命について。プリカース員たちのカムチャツカからオリュトルスク要塞集 落への到着について。コサックⅠ.Rコズィレフスキーによる1713年におけるクリル列島へ の航海について。1714年10月13日。(⑤No.4) 7,Ia.A.エリチンからピョートル一世官房への報告。1713年にコサックの一団を率いてⅠ.R コズィレフスキーとPRコズイレフスキーがクリル列島へ航海したことについて。1715年 3月15日以後。(⑤No.6) 8.シベリア県知事M.Rガガーリン公爵からIa.A.エリチンへの命令。大カムチャツカ遠征隊 の任務とメンバーについて(要旨)。1716年7月12日。(⑤No.7)9.大カムチャツカ遠征隊隊長Ia.A.エリチンからヤクーツク地方長官Ⅰ.Ⅴラキーテインへの 通知。遠征の全必需品の確保について。1717年9月6日。(⑤No.9)…, …‥28 10.ロシア帝室付きフランス全権公使J.ド・カムプレドンの報告より。太平洋への航路を探索 する目的でオビ川河口より遠征隊が派遣されたことについて。1721年12月。(⑤No.14) 11.Ⅰ.M.エヴレイノフにより編纂された、シベリア、カムチャツカ、クリル列島にある町と各 拠点の所在地を表した目録(要旨)。1722年11月30日。(⑤No.15)………31 12.ピョートルー世から海軍参議会への勅令。第一次カムチャツカ遠征隊の組織について。 1724年12月23日。(⑤No.16) 13.Ⅰ.Rコズィレフスキーからヤクーツク地方長官所への報告。カムチャツカとクリル列島にお ける自身の活動について。1725年1月4日以前。(⑤No.17) 14.RFノレージンの陳述書。1720∼1721年にⅠ.M.エグレイノフと共同で行ったカムチャツカ とクリル列島への遠征について。1725年11月27日。(⑤No.27) 15.Ⅰ.Rコズィレフスキーが作成した『カムチャツカ岬と海洋諸島の地図』のテキスト。1726 年6月2日∼6日。(⑤No.30) 16.元老院より、オホーツク港長官G.G.スコルニヤコフ=ピーサレフへの通達より。オホーツ クへの農民の移住、農業の振興、オホーツクにおける船着場と造船所の建設、造船の組織 化、極東における毛皮事業と貿易の振興,クリル列島の調査、その他の問題について。1731 年7月30日(⑤No.67) 17.アメリカとカムチャツカの間に横たわる新しい土地を探索するために、海軍准将べ−リン グを派遣することについて。1732年5月2日。((∋No.¢ 18.艦隊総監、海軍中将N.F.ゴロヴィン伯爵からアンナ・イオアノヴナ【イヴァノヴナ】女帝へ の上申書。ロシア海軍の今後の発展、およびⅤⅠ.ベーリングの遠征に対する支援について。 1732年10月12日。(⑤No.82) 19.艦隊司令官の意見書。1732年における艦隊と海軍工廠の維持、ⅤⅠ.ベーリングの遠征が直 面する困難について。1732年10月16日。(③No,124) 20.ⅤⅠ.ベーリングに対する元老院命令より。第二次カムチャツカ遠征の組織と任務について。 1732年12月28日。((9No.87) 21−1,駐ロンドンtロシア代表アンティオフ・カンテミルから皇帝アンナ・イオアノヴナへの功 績調書。1732年12月29日。(②No,9) 21−2.同文書の添付文書。エルトンの計画。アルハンゲリスクから新大陸周辺、日本、中国、イ
ンドおよびアメリカその他までの航路の調査について。1732年。(②No.9)..‥ 日...80 22.海軍参議会からM.Rシパンベルグへの指示。第二次カムチャツカ遠征および日本調査のた めの造船について。1733年2月28日。(⑤No.96) 23.Iaゲンスから下級勤務員Ⅰ.コロデズニコフと同ラザレフへの指示。クリル列島におけるヤ サク税の徴収手順について。1734年4月4日。(⑤No.74) 24.ⅤⅠ.ベーリングから元老院への報告より。オホーツクからカムチャツカまでの航路発見に 対する、航海者ニキフォル・トレスカへの報賞について。1738年4月26日。(③No.37) 25,M.Rシパンベルグから海軍参議会への上申書。カムチャツカおよび日本沿岸への航海に向 けた遠征準備について。1738年6月16日。(⑤No.108) 26.M.Rシパンベルグから海軍参議会への上申書。クリル列島への最初の航海について。1738 年9月1日。(⑤No.110) 27.M.Pシパンベルグから海軍参議会への報告。ポリシェレツクからオホーツクへの航海にお ける小船艇聖ガヴリール号の失敗について。日本への新たな遠征の準備について。1738 年12月1日。(⑤No.112) 28,M.PシパンベルグからⅤヴァリトンへの指令。クリル列島の住人に与えるために贈り物を ダブル・スループ船ナジェージダ号に供給することについて。1739年5月16日。(⑤No.114) 29.航海士M.ペトロフからM.Rシパンベルグへの報告。シコタン島の調査について。1739年 7月6日。(⑤No.115) 30.二椿帆船アルハンゲル・ミハイル号の当直日誌より。日本沿岸への航海について。1739 年5月22日∼8月13日。(⑤No.116) 31.ⅤヴァリトンからⅤⅠ.ベーリングへの報告。小船艇聖ガヴリール号による日本沿岸への航 海について。小船艇聖ガヴリール号とスループ船ポリシェレツク号の乗組員名簿。1739 年8月25日。(⑤No.117) 32.M.RシパンベルグからⅤⅠ.ベーリングへの報告。日本への航海について。1739年9月8 日。((9No.118) 33,M,Rシパンベルグから海軍参議会への報告より。1739年の日本沿岸航海について。1739 年11月19日。(⑤No.121) 34.海軍参議会からM.Pシパンベルグへの命令と指示の草案。クリル列島の調査の継続と日本 との交易関係の樹立について。1740年4月以前。((彰No.124) Vll
35.海軍少尉A.E.シェリテイングからⅤⅠ.ベーリングへの報告。1739年におけるダブル・ス ループ船ナジェージダ号による日本への航海について。1740年7月18日。((9No.125) 36.海軍佐官M,Rシパンベルグより航海士VAノレティシェフへの命令より。クリル列島におけ る試金業親方S.ガルデポルによる鉱物探査について。1742年4月30日。(③No.99) 37,M,RシパンベルグからS.ガルデポルへの指示。日本沿岸へ航海中の鉱物探索について。 1742年4月30日。((9No.146) 38.M.PシパンベルグからA.E.シェリテイングへの指示。日本沿岸部へ航海中の島々の記述と 日本人との接触の方法について。1742年5月14日。(⑤No.14軌... …160 39.M.PシパンベルグからⅤルティシェフへの命令。ダブル・スループ船ナジェージダ号での クリル列島の記述について。1742年5月29日。(⑤No.150) 40.海軍佐官M.Rシパンベルグによる聖イオアン号士官への助言要請。1742年6月21日。(③ No.119) 41.M.Pシパンベルグの表明。日本への航海の中止とポリシェレツクへの帰還について。1742 年6月22日。(⑤No.151) 42.パケットボート聖イオアン号航海士VAフメテフスキーからM.Pシパンベルグへの報告 より。船の故障と乗組員の壊血病発病について。1742年7月14 日。(③No.109) 43.A.E.シェリテイングからM.Pシパンベルグへの報告。ダブル・スループ船ナジェージダ号 によるクリル列島からアムール川河口までの航海について。1742年9月21日。(③No.110) 44.海軍佐官のD.Ia.ラブテフとAエナガエフの海軍参議会への上申書。カムチャツカから日本 沿岸まで航海した海軍中尉Ⅴヴァルトン[ヴァリトン】と海軍佐官M.Rシパンベルグの地図 と航海日誌の検証について。1746年5月20日。(③No.120) 45,Aエチリコフから海軍参議会への上申書より。カムチャツカにおける漁業にかんする記述 および現地住民の生活改善についての提議。1746年6月18日。(③No.57)………….175 46.陸軍少将Ⅰ01.キンデルマンの質問に対する、第二次カムチャツカ遠征隊の「通知」より。 極東の下級勤務員の要望と原住民の状態について。(1750年2月24日。(③No.58).180 47.日本語学徒Rシャナヌイキンの申告。M,Pシパンベルグの遠征への自身の参加について。 クリル列島のアイヌの生活条件について。1750年5月14日。((∋No.6)………194 vlii
48.工兵少尉補A.M.シパンベルグによる提議の審議にかんする、元老院会議の議事録。日本沿 岸へ向かう遠征隊の組織について。1750年6月21日。(⑦No.7)………..196 49.シベリア県知事F.1.ソイモノフから元老院への上申書。イルクーツク商人Ⅰ.べチェヴィン により準備中の、太平洋および【氾氷洋への遠征について。1758年2月24日。(③No.64) 50.元老院よりシベリア県庁およびイルクーツク政庁への照会。イルクーツク商人Ⅰ.ベチェヴ インとウステユーグ商人Ⅰノ1ホフ、N.シャラウロフの遠征の運命について。1758年10月 30日。(③No.65) 51.シベリア県知事RI.ソイモノフから元老院への上申書より。第二次カムチャツカ遠征隊参 加者の、多年にわたる誠実な勤務に対する昇進について。1760年9月6日。(③No.59) 52・1.元老院の命令。商人たちに対するクリル列島における獣の毛皮採集の許可について。1761 年8月24日。(⑦No,15) 52−2.トーチマ商人ステパン・チェレバーノフの陳述書。1759∼1762年における彼のアレウト 列島滞在について。1762年8月3日。(⑨No.8) 第2部(1764∼1795年) 1.エカチェリーナ二世から海軍参議会への勅令。太平洋で新たに発見された島々の記録と開 発を目的とする遠征隊の結成について。1764年5月4日。(⑦No.22)………219 2.D.Ⅰ.チチェーリンからエカチェリーナ二世への上申書。1760∼1764年におけるヤクーツ クtポサード民Eノヴィコフのクリル列島滞在について。1764年。(⑦No.27)…….220 3,クリル列島、アレウト列島、アメリカ大陸沿岸部に向かう航海に際して、海軍参議会から PK.クレニツインに与えられた通達より。1764年6月16日。(③No.74)…..…221 4.プロコピイ・リセンコフにより提出された、カムチャツカからアキヤヌ海までの島々にか んする記述。それらの島にどのような人びと、獣、鳥がいるか。ロシア人と異なるどのよ うな習慣があり、どのような衣服を身に着けているか。1766年。(③No.76)………」228 5.「クリル列島第19島まで行ったコサック少尉イヴァン・チョールヌイが、島々の距離、 島の住人その他について記した航海日誌または覚書」。1769年9月25日以降。(⑦No.46) 6.イルクーツク県知事、陸軍中将A.Ⅰブリリからカムチャツカ総司令官、陸軍中佐M.Kバム
への通達より。日本との通商樹立のために、新たにクリル列島南部への遠征隊を組織する 必要性について。1772年11月28日。(⑦No.48) 7.陸軍大尉T.Ⅰ.シマレフの報告より。ロシア人商人と毛皮採集者によるアレウト列島、クリ ル列島への遠征とラッコの毛皮採集について。1774年の秋以前。(③No.68)………‥248 8.ポリシェレツク政庁から商人G.Ⅰ.シェリホフとP.S.レベジェフ=ラストチキンへの命令書。 クリル列島遠征に向けての準備について。1775年3月3日。((∋No.49)‖……….250 9.M.K.ベムからクリル列島遠方部遠征隊長Ⅰ.M.アンチーピンに対する通達。航海の準備と任 務について。1775年6月8日。(⑦No.50) 10.オホーツク港政庁からポリシェレツク政庁への覚書。来るべき、PS.レベジェフ=ラスト チキンの二椿帆船聖ナタリア号によるクリル列島遠方部への航海について。1777年9月2 日。((∋No.51) 11.PS.レベジェフ=ラストチキンから航海士M.ペトウシコフへの指示。二橋帆船型ナタリア 号によるクリル列島への航海の目的について。1777年。((∋No.52)……….270 12.元老院からイルクーツク県知事の任にある陸軍准将F.G.ネムツォフへの指令。クリル列島 民の慣習、宗教、生活様式にかんする詳細な記述の提出について。1777年11月9日。 (③No.103) 13.Ⅰ.M.アンチーピンからオホーツク港政庁への上申書。1775∼1778年のクリル列島滞在に ついて。1778年8月28日。(⑦No.53) 14.イルクーツク商人、先導者D.Ya.シャバリンからオホーツク港政庁への上申書より。クリ ル列島での滞在と日本人商人との出会いについて。1778年9月4日。(⑦No.54)….278 15.イルクーツク県知事、陸軍准将RG.ネムツォフからクリル列島とアレクト列島へ出発する 商人たちへの指示。1778年9月16日。(⑦No.55) 16.1775∼1778年の航海の結果にもとづき、Ⅰ.アンチーピンとⅠ.オチェレディンにより作成さ れたクリル列島地図への解説。1778年。(⑦No.56) 17.RG.ネムツォフから二等文官である元老院総裁A.A.ヴヤゼムスキー公爵への書簡。RS,レ ベジェフ=ラストチキンにより「ヤサク税が課された」クリル列島への、他の商人の訪問 禁止について。1779年1月24日。(⑦No.57) 18.元老院に対するエカチェリーナ二世の勅令。ロシア帝国臣民となったクリル列島民に対す る人頭税免除について。1779年4月30日。(⑦No,59) 19.鉱業参議会議長、元老院議員M.Rソイモノフから AAヴヤゼムスキー宛の書簡。 クリル列島への航海を組織したことに対する、PS.レベジェフ=ラストチキンへのメダル授
与について。1779年4月30日((∋No.60) 20.鉱業参議会議長M.Rソイモノフからイルクーツク県知事F.N.クリチカへの書簡。クリル列 島遠方部のアイヌに対するヤサク税の免除について。1779年4月30日。((∋No.105) 21.Ⅰ.M.アンチーピンの遠征日誌より。日本人との出会いとウルップ島での越冬について。 1779年8月27日∼1780年9月17日。(⑦No.63) 22.Ⅰ.M.アンチーピンからポリシェレツク政庁への上申書。1775∼1780年における遠征隊の クリル列島滞在について。1780年9月20日。(⑦No.64) 23.FN.クリチカから元老院総裁A,A,ヴヤゼムスキーへの書簡。Ⅰ.アンチーピンとD.1払.シャ バリンによる遠征の失敗について。1781年5月1日。(③No.106)………325 24.ルイリスク市会における商人G.Ⅰ.シェリホフの説明。彼による北東米会社設立の目的とそ の活動について。1781年11月。(⑦No.65) 25.エカチェリーナ二世から海軍参議会への勅令。北氷洋および太平洋における新たな土地の 調査と発見を目的に、海軍大尉Ⅰエビリングスの指揮下、北東部地理学・天文学遠征隊を 組織することについて。1785年8月8日。(⑦No.66) 26.RAソイモノフから商業参議会議長A.R.ヴオロンツオフへの覚書。太平洋の島々における 毛皮事業と他国との交易の開始について。1786年12月22日以前。((訂No.71)…….334 27.A.R.ヴォロンツオフと外務参議会議員である二等文官A.A.ベズボロトコ伯爵からエカチ ェリーナ二世への覚書。ロシアの航海者によって発見された太平洋の島々と陸地に対する ロシアの権利について。この権利を他の海洋国家へ通告する必要性について。1786年12 月22日以前。(⑦No,72) 28.エカチェリーナ二世から外務参議会への勅令。ロシアの航海者によって太平洋で発見され た陸地と島々に対するロシアの権利保持について。1786年12月22日。(⑦No.73) 29.エカチェリーナ二世から海軍参議会への勅令。ロシア領の警備を目的とした太平洋への艦 隊派遣について。1786年12月22日。(⑦No.74) 30−1.海軍参議会から第1回世界一周遠征隊長、海軍大佐Gエムロフスキーへの指示より。遠征 隊の任務について。1787年4月17日以降。(⑦No.75) 30・2.Gエシェリホフからイルクーツクおよびコリヴァンの総督Ⅰ.Ⅴヤコビへの報告書。ロシア 人による北アメリカ北西部の開発について。カムチャツカにおいてイギリスの東インド会 社と交易を開始する妥当性について【要旨】。1787年4月19日。(⑦No.75)…………‥357
31.R.R.ガルからⅠ.G.チェルヌイシェフへの上申書。遠征用船舶の建造が困難であることにつ いて。メードヌイ島とアムチトカ島の付近で遭難したイギリス人と日本人の船員を商船で 移送することについて。ペトロパヴロフスク港におけるフランス船の碇泊について。1788 年1月28日。(⑦No.77) 32■1・G・Ⅰ・シェリホフからⅠ.T.スミルノイへの書簡。北東米会社の成功について。太平洋での新 たな発見について。ロシアの航海者によって発見された土地に対するロシアの権利の承認 について。1789年12月10日。(⑦No.84) 32■2・イルクーツクおよびコリグァンの総督Ⅰ.A.ピーリよりエカチェリーナ二世への上申書。北 東米会社の活動について【要旨】。1790年2月13日。(⑦No.84) 33・I・A・ピーリからA.A.ベズボロトコへの書簡より。G.I.シェリホフとI,Ⅰ,ゴリコフの企業活動 について。極東における要塞建設と新港建設の必要性について。1790年2月14日。 (③No.93) 34・博物学者、探検家K.G.ラクスマンからA.R.ヴォロンツオフへの書簡。アムチトカ島付近 で海難に遭った日本人への援助について。日本との通商関係樹立の可能性について。1791 年2月26日。(⑦No.95) 35・K・G・ラクスマンからA.R.ヴォロンツオフへの上申書。「日本交易について」。1791年2月 26日。(⑦No.96) 36・A・R・ヴォロンツオフからA.A.ベズボロトコへの書乱海難に遭遇した日本人について。日 本との通商関係樹立の可能性について。1791年8月23日。(⑦No.104).… ...‥371 37・エカチェリーナ二世からⅠ.A.ピーリへの勅令。日本遠征隊の組織について。1791年9月 13日。(⑦No.106) 38・R・R・ガルから海軍参議会への上申書。ウナラシュカ島での越冬について。クリル列島の調 査に向けた黒鷲号の準備について。1792年7月14日。(⑦No.109)……….376 39.日本遠征隊長、陸軍中尉A.Kラクスマンと陸軍少尉補の位にある航海士VM.ロフツオフ から日本政府への書簡。アムチトカ島付近で海難に遭遇した日本人の救出について。遠征 隊による日本訪問の目的について。1792年10月12日。(⑦No.112)………‥379 仙 日本国の官吏からA.K.ラクスマンへの書状。A.K.ラクスマンとVM.ロフツオフより日本 政矧こ提出された書簡の返却について。1793年7月17日。(⑦No.113)………381 41・日本政府からA.K.ラクスマンへの書状。日本沿岸の航行禁止について。1793年7月17 日。(⑦No.114) 42・日本政府からA.K.ラクスマンへの書状。ロシア船1隻の長崎港への入港許可について。 Xll
1793年7月23日。((∋No.115) 43.A.Kラクスマンによる彼の日本遠征にかんする覚書。1793年9月11日。(③No.122) 44.アカデミー会員K.G.ラクスマンから商業参議会議長A.R.ヴォロンツオフへの書簡。1793 年12月8日。(③No.121) 45−1.Ⅰ.A.ピーリからエカチェリーナ二世への上申書。1792∼1793年におけるA.K.ラクスマン とVM.ロフツオフによる日本への航海の結果について。日本との通商関係樹立を目的に新 たな遠征隊を組織する必要性について。1794年2月28日。((∋No.117)………386 45−2.Ⅰ.A.ピーリからG.Ⅰ.シェリホフへの命令書。アメリカ北西部沿岸とクリル列島の経済開発 について【要旨】。1794年5月11日。(⑦No.117) 45−3,北米会社支配人Ⅰ.F.ポポフへのG.Ⅰ.シェリホフとA.E.ポレヴォイの命令。会社の事業に対 する外国からの干渉阻止について。新たな毛皮採集地の調査について【要旨】。1794年7月 31日。((∋No.117) 46−1.G.Ⅰ.シェリホフから北東会社支配人A.Aノミラノフへの書簡より。アラスカの開発計画、北 米会社の設立、ウルップ島に「少しずつルーシを建設する」計画について。1794年8月9 日。((∋No.118) 46−2.GエシェリホフよりⅠ.A.ピーリへの上申書。北アメリカの今後の開拓、北米会社の設立、 太平洋における交易拡大の必要性について【要旨]。1794年11月18日。(⑦No,118) 47.Ⅰ,TスミルノイからG.Ⅰ.シェリホフへの手紙。北アメリカとクリル列島におけるロシア人 入植地について。聖シメオン号の聖パーヴェル・ゲオルギー諸島への派遣について。1795 年1月1日。((∋No.120) 48,1792∼1793年の日本遠征参加者に対する報賞、イルクーツクで教師として働く日本人に 対する俸給の支払いにかんする指示を含む、エカチェリーナ二世から元老院総裁A.N.サモ イロフ伯爵への書簡。1795年8月10日。(⑦No.122) 49.1796年秋におけるオホーツクから長崎への商船派遣にかんする提案を含む、K.G.ラクス マンからエカチェリーナ二世への上申書。1795年12月7日。(③No.123)..…………409 第3部(1800∼1815年) 1.海軍大尉Ⅰ.N.ブハーリンから海軍参議会副議長・海軍大将G.G.クシェリョフ伯爵への上申 書より。クリル列島、アレウト列島、東北アメリカにおける露米会社の入植地について。 xiii
1800年1月28凱(⑥No.4) 2.元老院から元老院第一局長・露米会社全権代表N.Rレザーノフへの命令書。北アメリカ沿 岸部および諸島で航海と毛皮採集を行うための、人員の雇用条件について。1801年2月 16日。(⑥No.8) 3.海軍大尉Yu.F.リシャンスキーから海軍大尉Ⅰ.F.クルーゼンシテルンへの書簡より。世界一 周遠征計画の着想について。(1802年)1月25日。(⑥No.13) 4.海軍准将G.Aサルイチェフから海軍参議会副議長・海軍大将N.S.モルドヴィノフへの報 告。オホーツク地方におけるロシア商業の状況と日露経済関係発展の展望について。1802 年2月18日。((aNo.14) 5.Yu.RリシャンスキーからⅠ.F.クルーゼンシテルンへの書簡。世界一周航海への参加に同意 することについて。(1802年)7月26日。(⑥No.16) 6.Ⅰ甘.クルーゼンシテルンからN.S.モルドヴィノフへの書簡。スペインの航海者A.マラスピ ナの運命、および世界一周航海の準備について。1802年8月17日。(⑥No.18)……424 7,Yu.下.リシャンスキーからⅠ.F.クルーゼンシテルンへの書簡。世界一周遠征用の船舶を入手 するためにハンブルクへ行く準備について。1802年8月。(⑥No.19)……….426 8.Yu.RリシャンスキーからⅠ.F.クルーゼンシテルンへの書簡。世界一周航海への準備につい て。(1802年)9月1日。(⑥No.20) 9.N.RレザーノフからⅠ,F.クルーゼンシテルンへの書簡。世界一周遠征の1803年7月までの 延期と露米会社株の売却について。1802年9月2日。(⑥No.21)日 .….430 10.商務大臣N.Pルミヤンツェフ伯爵からアレクサンドルー世への上申書。日本との通商の意 義と発展の展望について。1803年2月20日。(⑥No.27) 11.N.Pルミヤンツェフからアレクサンドルー世への上申書。広東での交易を発展させる利益 について。1803年2月20日。(⑥No.28) 12.三等官侍従長N.Rレザーノフから退官三等文官Ⅰ.Ⅰ.ドミトリエフへの書簡。来るべき世界 一周遠征と日本国への使節団について。1803年4月3日以前。(⑥No.29)‥‥ …..436 13.露米会社総本部からⅠ.Rクルーゼンシテルンへの指示。ナジェージダ号およびネヴァ号に よる世界一周遠征の目的と任務について。1803年5月29日。(⑥No.31)……….438 14.N.Rレザーノフを日本使節団団長に任命するアレクサンドル一世の勅書。1803年6月10 日。(⑥No.32) 15.N,RルミヤンツェフからⅠ.Rクルーゼンシテルンへの書簡。太平洋でのロシア世界一周遠 征による可能性のある発見について。1803年6月13日。(⑥No.33)... .....448
16.アカデミー会員A.Rセヴァスチヤノフが作成した指示より。第一回世界一周航海時の博物 学的観察の実行について。1803年6月21日以前。(⑥No.34) 17.科学アカデミー総裁N.N.ノヴオシリツェフからN.Pレザーノフへの書簡。第一回世界一 周航海準備のためにアカデミーが採択する方針について。1803年6月21日。(⑥No.35) 18.海軍少尉Gユダヴイドフが露米会社船舶・聖エリザヴェ一夕号で行ったアメリカ航海の記 述より。1802年8月29日∼1803年6月25日。(⑥No.36) 19.科学アカデミー会議議事録より。N.Rレザーノフをアカデミー名誉会員に任命することに ついて。1803年6月26日。(⑥No.37) 20.アレクサンドル一世から日本皇帝への親書。二国間の通商の発展と善隣関係の確立の申し 出を含む。1803年6月30日(7月12日)。((参No.38) 21.N.RレザーノフからⅠ,Rクルーゼンシテルンへの書簡。遠征隊による軍旗所持の許可につ いて。1803年7月2日。(⑥No.39) 22.N.PルミヤンツェフからN.Pレザーノフへの指示。日本での外交使節団の指揮について。 1803年7月10日。(⑥No.40) 23.N.Rレザーノフからアレクサンドルー世への上申書。ナジェージダ号でのブラジルからカ ムチャツカへの航行と、日本へ出航するまでのそこでの活動について。1804年8月16日。 (⑥No,51) 24.N.PレザーノフからVYa.バシュツキーへの書簡。遠征を無事に続行するのに必要な食糧を ペトロパヴロフスクに送ったことについて。1804年8月16日。(⑥No.52)…………474 25.N.PレザーノフからⅠ.Rクルーゼンシテルンへの書簡。日本人との外交交渉時に将校と水 兵が取るべき態度についての指示。1804年9月20日。(⑥No.55)………..….475 26.日本へ向かうロシア使節団のために、N.Rレザーノフが作成した質問・回答一覧表。1804 年9月20日以前。(⑥No.56) 27.VYaバシュツキーからPVチチャゴフへの上申書。ロシア派遣団が日本から帰国する時に、 外洋帆船ナジェージダ号を支援するための輸送手段を準備することについて。1804年9 月27日。(⑥No.57) 28.宮廷三等官侍従長レザーノフによるカムチャツカから日本への航海日誌より。1804年8 月∼10月。(⑥No.58) 29,N.Pレザーノフから日本政府への覚書。通商関係締結拒否に関して。1805年3月23日以
降。(⑥No.61)
30.N.RレザーノフからⅠ.Rクルーゼンシテルンへの書簡。使節団団員と外洋帆船ナジェージ ダ号の将校への日本皇帝からの贈り物について。1805年3月28日。(⑥No.62)……504 31.N.RレザーノフからⅠ.F.クルーゼンシテルンへの書簡。日本からカムチャツカへの可能な 航海ルートについて。1805年3月28日。(⑥No.63) 32.アレクサンドル一世からN.Rレザーノフへの勅書。カムチャツカでの活動と、さらなるア メリカ調査計画への奨励を含む。1805年4月28日。(⑥No.65) 33.N,PレザーノフからⅠ.F.クルーゼンシテルンへの指令書。サハリン島に関する記述を継続 するようにとの命令。1805年5月14日。((むNo.68) 34.Ⅰ.Rクルーゼンシテルンから露米会社総本部への報告。日本からカムチャツカへの到着、 および遠征の今後の計画について。1805年6月3(15)日。(⑥No.69)………‥507 35.N.RレザーノフからⅠ.Rクルーゼンシテルンへの指示。サハリンについての記述作成と世 界一周遠征完遂後の活動について。1805年6月6日。((砂No.70)………‥509 36.Ⅰ.RクルーゼンシテルンからN.Rルミヤンツェフへの書簡。日本西岸地域とサハリンの記 述について。1805年6月11日。(⑥No.72) 37.アレクサンドルー世から商業参議会議長Yu.A.ゴロフキン伯爵への指示より。露米会社と 中国の貿易を発展させるための方策をとることについて。1805年7月6日。(⑥No.73) 38.M.Ⅰ.ラトマノフの日記より。外洋帆船ナジェージダ号が航海時に行ったクリル列島とサハ リン島の調査について。1805年4月6日∼7月14日。(⑥No.74)………515 39.N.Rレザーノフとアメリカ人商人J.ド・ヴリフとの間で交わされた契約。露米会社による 大型船ユノナ号の購入について。1805年9月24日(10月6日)。(⑥No.80)………‥.520 40.露米会社手代RI.シェメリンから会社総本部への上申書。広東交易の条件について。1805 年12月21日。(⑥No.82) 41.元老院から中国法院への証書。露米会社船ネヴァ号とナジェージグ号の広東訪問について 【要旨】。1806年5月15日。(⑥No.86) 42.N.RレザーノフからN.Rルミヤンツェフへの報告より。ユノナ号でのカリフォルニアへの 航海について。1806年6月17(29)日。(⑥No.88) 43.船大工コリューキンから露米会社総本部への報告より。単揺帆船アヴォシ号の建造につい て。1806年7月以降。(⑥No.90) 44.N,Rレザーノフから秘密遠征隊長N.A.フヴオストフへの指示。クリル列島とサハリンへの 航海について。1806年8月8日。(⑥No.91)
45.N,Rレザーノフからユノナ号艦長・海軍中尉N.Aフグォストフへの指令書。アメリカ沿岸 部への航海について。1806年9月24日。(⑥No.94) 46.N.A.フグォストフからサハリン島アニヴァ湾村落の村長たちへの証書。1806年10月12 日。(⑥No.95) 47.N.PルミヤンツェフからN.Pレザーノフへの書簡。日本、アメリカ合衆国、スペインとの 通商発展の展望について。1806年10月13日。(⑥No.96) 48.露米会社総本部社長M,M.プルダコフにあてたN.Pレザーノフの臨終の書簡。1807年 1月24∼26日。((諺No.101) 49.RVチチャゴフからアレクサンドル一世への報告。外洋帆船ディアナ号での世界一周航海 の準備について。1807年5月22日。(⑥No.105) 50.海軍少尉ダヴィドフ指揮下の単揺帆船アヴォシ号による1807年のアメリカ【露米】会社航 海記録より。1807年4月15日∼5月27日。(⑥No.106) 51.VM.ゴロヴニンからPVチチャゴフへの書簡。ディアナ号での世界一周航海に関する追加 的指示について。1807年6月30日。(⑥No.107) 52.アレクサンドル一世からVM.ゴロヴニンへの勅令。世界一周航海への出発について。1807 年7月10日。(⑥No.108) 53.英国海軍省から艦隊指揮官、港湾幹部、艦長、および海軍当局官僚への指令書。外洋帆船 デイアナ号で出航したVM.ゴロヴニンに援助を提供することについて。1807年11月。 (⑥No.112) 54.N.Pルミヤンツェフからアレクサンドル一世への報告。ロシア領アメリカの開発方法につ いて。1808年5月22日。(⑥No.119) 55.海軍省からPVチチャゴフへの報告書。NAフヴオストフとG.Ⅰ.ダヴィドフが作成した日 本地図と記録を提出するよう、Ⅰ.Nブハーリンに催促する必要があることについて。1808 年5月27日。(⑥No.120) 56.露米会社総本部からアレクサンドルー世への報告。日本との通商関係を発展させ、またサ ハリンを開発する必要性について。1808年7月2日。(⑥No.122)………568 57.N.Rルミヤンツェフからアレクサンドルー世への請願。露米会社の計画に関してサハリン への入植問題の速やかな解決を求める。1808年7月17日。(⑥No.123)………‥573 58.商務大臣から内務大臣に報告された指令。アメリカ会社がサハリン島に入植地を作ること の許可。1808年8月9日。(⑥No,124) 59.外務大臣N.Pルミヤンツェフから海軍大臣・海軍大将RVチチャゴフへの書簡。サハリン ml
島における露米会社入植地の建設について。1808年8月9日。(⑥No.125)…...…574 60.海軍省からⅠエド・トラヴェルスへの報告書。VM.ゴロヴニンにクリル列島記述を要請す ることについて。1810年6月28日。(⑥No.135) 61.Ⅰ.B.ペステリからN.Rルミヤンツェフへの書簡。クリル列島とアレウト列島住民からヤサ ク税を徴収することについて。1810年8月18日。(⑥No.138) 62.VM.ゴロヴニンからⅠ.Ⅰ.ド・トラヴェルスへの上申書。外洋帆船デイアナ号のアメリカ北 西岸への航海について。1810年9月16日。(⑥No.139) 63.海軍省からVM.ゴロヴニンへの指示。クリル列島とシャンタル諸島の記述について。1810 年10月24日。(⑥No.141) 64.海軍省からⅠエド・トラヴェルスへの報告書。VM.ゴロヴニンにアメリカ北西岸の記述を 要請することについて。1811年1月20日。((砂No.145) 65.航海士A.フレプニコフの回想録より。外洋帆船ディアナ号乗組員の一部がクナシル[国後] 島で日本人の捕虜にされたことについて。1811年3月∼8月。(⑥No.149).…..…587 66.露米会社とアメリカ毛皮会社との協定(要旨)。1812年4月20日(5月2日)。(⑥No.150) 67.Ⅰ.BパスチリからⅠ.Ⅰ,ド・トラヴェルスへの書簡。クリル列島の記述を行い、かつ日本で捕 囚となっているVM.ゴロヴニンを助け出すために、外洋帆船ディアナ号を出航させること について。1812年7月5日。(⑥No.151) 68.露米会社総本部からアレクサンドル一世への報告。フリゲート艦ユノナ号の難破について。 1812年8月27日。((◎No.152) 69.松前知事【奉行】ハットリ・サダカテ[服部貞勝】からの通告。VM.ゴロヴニンと外洋帆船ディ アナ号乗員を捕囚から解放することについて。1813年9月26日。(⑥No.157)....…593 70.海軍中佐VM.ゴロヴニンから海軍大佐Ⅰ.F.クルーゼンシテルンへの書簡。日本からの帰国 について。1814年8月11日。(⑥No.161) 71.Ⅰ.BパステリからⅠ.Ⅰ,ド・トラヴェルスへの文書。イルクーツク知事が日本との交渉に入る 試みに失敗したことについて。1815年1月3日。(⑥No.163) 72.海軍中佐RF.【ママ】リコルドからⅠエド・トラヴェルスへの上申書。外洋帆船ディアナ号に よるクリル列島航海地図の作成が終了したことについて。1815年10月26日。((診No.168) mll
出典一覧
(旧)ロシア外交史料館 ABItP(ApxHBBHenIHefir10皿汀KRHPoccKH) (現)ロシア帝国外交史料館 ABrIPH(ApxHBBHeIIHeiiIlO皿汀HmIPoccI通cIt0歳HMnePItH) (旧)ソ連科学アカデミー・歴史学研究所レニングラード支部史料室 ApxHBJIOHH AH CCCP仏pxHBJIeHI王HrPaJICH)tt)叩IeJIetIHSIHH叩HCTOpHH AIくaJleMHHHayRCCCP) (現)ロシア科学アカデミー・サンクトペテルブルグ歴史学研究所史料室 ApxHBCn6HHPAH仏pxHBCaHm−IleTeP6ypl℃Ⅸ011)HEmTyraHCmpttHPoccH鎮cKO鎮 A剛eMIHHayIJ (旧)ソ連科学アカデミー史料館・レニングラード支部 JIOAAHCCCP(刀eHHHIVaJICROe叩1eJIeHIIeApxHBaAIく叫eⅦHHaytくCCCP) (現)ロシア科学アカデミー史料館・サンクトペテルプルグ支部 Cn60APAH(CaHm、−neTep6ypI℃RH歳d)WHaJIApxHBaP∝CHiicttOiiAqeMHHHayli) ロシア国民図書館手稿部 OPPHB(071leJIpy伽IlIICe鎮PoccIl鎮cKOiiHa叩OHaJILHO放6H6JDIOTeKH) (旧)国立中央海軍史料館 I∬ABM◎(IleHTPaJl”bIfi叩apCn妃HHbIiiapxHBBOeHHO−MOPCROTY)OJIUra) (現)ロシア国立海軍史料館 PrABMOQ)occH鐘cRH放rtxynapcT13eHI他流apx批BOeIIHO−MOpCIくOrOかoTa) (旧)国立中央古文書史料館 1耳込且A(qeHTPa皿HもIii叩apCTBeHHbIiiapxHB耳peBHLTXalmB) (現)ロシア国立古文書史料館 PrAAA(PoccHiicl(H最叩apCrBeHHbI最apxHll耳peBHhIXaImB) (旧)ソ連国立中央歴史史料館 Im(IleHTPaJthHbI五rDCyFlapCTBeHHb戒ECTOpHleCm戒apxHBCCCP) (現)ロシア国立歴史史料館 PrIIA(PoccII鎮cKHii叩aPCTBeHHhIiiHCmpHtIeCIくⅠ戒apxEB) 刊行された文 『19世紀および20世紀初頭におけるロシア外交−ロシア外務省文書−』 BIIP(BEenm川【nOJⅢTHXaPocc封はⅢⅩHH鯛a几aXXBeもa月oHyMeHTbIPoccH益Cmm MHtIⅥCIepCrBaHHOCrPaHII XFteJI.CepH月:IlepBa5I:1801 ̄1815rr.T.1 ̄8.OTB.pe几A.JI. ●ロシア語の「アルヒーフ」の訳。史料館以外に、資料館、文書館などの訳も可能。 XixHapoⅦH叩棚嵐M.,1960−1972) 『海軍士官フヴォストフとダヴィドフによる2度のアメリカ遠征についてのダヴィドフの記録』 naB叫OBIl.H.旗yHpaTHOeTIyTeIEeCTEHeBAMeP町yMOPCt{HXO4)HIlepO73Ⅹ即CTO8aH naB叫OBa,IIHCaHHOeCtnIIlOCJIeAHIM・Cn6・,1810 ̄1812,tI・1 ̄2・ 『Yu.A.ゴロフキン伯爵文書より』 H36yMar叩a4瓜田,A・rOJIOBRHHa・Cn6リ1904・ 『歴史文書』 HcTOpIqeCKH鎮apxⅡB 『18世紀シベリア史古文書』 naM5rrHHKHCIt6HpCt(OfiⅡCmPIⅢⅩVIII73・CI16・,1885,KH・2・ A.Cガロンスキー『クリル誌』 noJIOHCIくⅥ丘A.C.KypHJBI.CrI6・,1871・ 『ロシア帝国法律全集』 IIC3PI4(noJttIOeCO6paHHe3aHOHOBPo∝H鎮C抽扇iHMrIepI蜃H・CepIlSIl:CrI6・,1830;Ceptl兄 2:CrI6.,1830・1884;CepHSI3:CrI6.,1885−1916) 『フョードル・サルティコフの提議』 Ilpono3HItnHOe即aCaJmIROBa・CI16・,【1892]・ 『ロシアの往時』 PyccRa月いビTapItHa 『ロシアの古文書』 PyccRH最apxHB 『ロシアとアメリカ合衆国−1765∼1815年における関係樹立』 poccH5I二はCIIIA‥craHOBJIeHIIe OTHOIⅡeHl摘,1765−1815・Co町・H・H・BaⅡmHHa・H・H・ BoJⅨOBHTHHOB,月X.BpayHII茜p.M.,1980・ 『帝室ロシア歴史協会論集』 C60pHHRⅥMII・PyccROItトは℃TOpHleCEOrt)0−Ba・CI16・,1884,T・40・ 『ロシア歴史・古代協会講座』 qTeHIは【BO61叩CTBeHCTOpIIHⅥFtPeBHOCTe最pocc一戒ctcHX・M・,1891,tCH・3・ 『ベーリングの遠征』 9RCITeJlIt叩Ⅰ兄BepHHra.Mリ1941・ 『帝室科学アカデミー会議議事録−1725∼1803年』 npoTOHOJnI3aCe郎a珊= 虻脚匝peHIPH HMIepaTOpCIの鎮 a喝qeMⅠ某 HayRC1725r10 1803ⅠⅦ.CH6.,1897−1911,T.1−4.
訳語表
AAMHpaJTre丘cItH丘JleITapTaMeHT AAMHpaJITe益cIくa月rKOJUIeIⅥ5I BOeBOJICItaSlKaHIleJI兄pLI5I IY6epHCIくa月仁KaHIleJLfIpHSl aeMCf【H歳cy書 Ka6HHeTe.H.B. OxoTClta月∴KaHIleJuPH5I RomeIⅥ兄HHO叩aHHbIX月e刀 Ⅸ0hMepI1−HO几刀er拝見 rIpaBHTeJl)CTByl011岬揚CeHaT HpIⅢa3Ha兄H36a npHHa3ⅠIa兄Ha几aTa mpOBHHllHaJlもHa月仁KahqeJI兄plI兄 CIt61叩CItH鎮npItEa3官位・役職な
aAMHpa几 60Ⅰ岬aH 60qMaHMaT 6pIげa用Hp BHqe ̄a月MHpaJT BOeBOA BOeHHI>Ⅰ放ry6epHaTOpIleHepaJI B0品cIくOB0歳cTapIHHHa I℃HepaJl卿IpaJI reHepaJI−ry6epHaTOp I℃HepaJI−HHTeHFlafrT I℃HepaJrJIe打neHaHT 海軍省 海軍参議全 地方長官所 県庁 地方裁判所 帝室官房 オホーツク政庁 外務参議会 商業参議会 元老院 役所 プリカース[官庁]所 地区政庁 シベリア庁 海軍大将 掌帆長 掌帆兵曹 陸軍准将(1722∼1799年) 海軍中将 地方長官 軍務知事 コサック軍中佐(コサック軍のみ) 海軍元帥(1708年∼) 総督 主計長 陸軍中将(18世紀末∼)1℃HepaJI■MaIiOp I℃HepaJIOTaPTHJLTIepItH IleHepaJIOTItH4)aHTePHH IleHepaJlOTltaBaJIepHH IleHepaJrnOPytIHH I℃HepaJrlTpO耶Op PeHepaJI−OeJI叫MapIHaJI maBHI>Ⅰ鎮ROMaH属Hp rJIaBHI〉Ⅰ鎮npaBHTeJm ry6epHaTOp eCay几 HIt)ReHeP ̄r℃HepaJI Ra6nHeTCeKpeTaph RanITaIrトロDpaHra KallHTaI1−2−mpaHra RaIIHTaH−3−mpaHra RaITHTaH ̄KOMaH月Op TCarlHTaH ̄JIeHTeHaHT HalTHTaH■mOpさRIHH fCBapTHpMe鎮cpep HOMaHAa HOMaH用材p KOMeHAaHT KOMHCCap fCOHTp ̄aJIMHpaJI KOpHeT 刀e晶6−ⅠⅦap只H兄 JIeIITeIIaHT Ma晶op MaCTep MaTpOC 陸軍少将 砲兵大将(1796年∼) 歩兵大将(1796年∼) 騎兵大将(1796年∼) 陸軍中将(1730年代∼18世紀末) 元老院総裁 陸軍元帥(1699年∼) 総司令官 総支配人 県知事 コサック大尉(∼1884年) 工兵大将(1796年∼) 帝室官房長官 歩兵大尉(∼1884年)、海軍佐官、艦長、船長 海軍大佐 海軍中佐 海軍少佐 海軍准将(1722∼1799年) 海軍大尉(1698∼1884年) 歩兵中尉(1705∼1798年) 補給兵曹 乗組員、部隊、小隊など 指揮官、司令官、艦長など 警備司令官 監察官 海軍少将 (騎兵・国境警備)少尉補(∼1884年) 親衛隊 海軍中尉(∼1885年) 陸軍少佐(1698∼1884年) 親方など 水兵 ⅩⅩ11
MItHIi叩Ⅸ0阻IepIIHH MHHlICrpMOpCRnXCllJI MImMaH HatIa皿bHHHHOpTa O6ep・04)HrLep nepeAOBII中ⅠH nOAHO.丑ⅨOBHHR エ0月nOpyIHR nOAもeCayJI nOJIIくOBIiHK HOpyqKH npaBHTeJIb npanOpⅡ阿武 IIPe3Ⅰ叫eHTIohnIepIrKOJIJIeIIHH llPeMheP ̄MaHOP IlpIiKa3Hb7品tIeJIOIeR npHRa江田K HpIlHa3tIHH HpOMbII 几eHHIlH pa60THbIeJmAH pOTMHCI℃p CJIy遷CHJrbIeJI瑚H y耶ep(yHTep−)LO(匝叫eP yIlpaBItTe几b 車刀amaII XOpyEXH放 uRⅡnep ⅡITa6ぐHamlTaII ma6C−pOTMIICTp I∬TypMaII 商務大臣 海軍大臣 海軍少尉(∼1885年) 港長官 尉官 先導者 陸軍中佐 陸軍第二少尉 コサック中尉(∼1884年) 陸軍大佐 陸軍少尉(∼1884年) 支配人 陸軍少尉補(∼1884年) 商業参議会議長 陸軍中佐 官吏 プリカース員、手代など 毛皮採集者 役夫 騎兵大尉(∼1884年) 下級勤務員 コサック少尉(∼1884年) 下士官 管理者 艦隊司令官 コサック軍少尉補(∼1884年) 掌帆長 歩兵中尉(1798∼1884年) 騎兵中尉(∼1884年) 航海士 ⅩⅩ111
aTJIaC BaXTeHIIbIHつ獣yPIlaJI,XyPHaJInJlaBaH耶Ⅰ; 山武aHetIEblHつぐypHaJI BeAeHIie BbInITCICa AOKnaAHa兄3anItCI(a FLOHOIlleHHe 叩pHa几3aCe月aHIi銀 賞ypHaJIrryTelHeCTBHJI;rryTeBOII諷ypHaJI aaIIHCRa H3BeCrIte H3BJIetIeHHe HHCTpyI(qH兄 HTOrOBaSItCapTa (MopcIt0丘)perJIaMeHT Mopclく0品ycraB HaIくa3HaSIrlaM5ITl);op月ep HaCTaBJIeHlle OI7peFleJteHI蜃e nepeBOノ1 HOIくa3aIIHe IlpeJIJ10遜CeHHe npe只nHCaIiHe IlpeTtCraBJIeHlすe HpIt刀OXel王He HpOeIでT HpOnO3ⅠtqH兄 peJI兄qH兄 paHOpT paCCrrpOCHも】epetIH 地図帳 航海日誌、当直日誌 通達、報告 抜粋 報告書 報告 会議録 旅行日誌 文書、報告 通知 抜粋 通達、指示 総括地図 条約、協定 (海軍)規定 海軍操典 命令書 指示 決議 転写、翻訳 証言、供述 提議 指令 報告書、上申書、請願書 添付文書 構想、草案 動議 戦況報告、功績調書、報告 上申書、報告 談話記録
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幽
60T 6pI汀 6pIlraHTHHa 6yep 6yca raJIepa Ay6eJm ̄mmnRa 刀qqb兄(刀aAも兄) naHeT60T TeH月ep ¢peraT lullTltに ⅠⅠIJtIOn ⅢJmnEa uxep60T 兄刀60T HHO3eMeII HHOpqqeIl 要旨 詔書、勅書 陳述書 手紙、報告 勅令(皇帝の場合)、命令書 要約、要約報告 小船艇 プリッグ型帆船 二橋帆船 軽帆船 (東洋の)大型木造船 ガレー船 平底帆船 ダブル・スループ船 コーチ船 ロジャー(ラジャー)船 パケットボート 単揺帆船 フリゲート艦 シチク船 スループ船 搭載艇 平底小船艇 船載ボートOCTpOr nOCOJIbCTBO H0XOA〉3HCne月HIIH兄 ⅢpOMbICeJI 要塞 使節団 遠征、航海 毛皮事業、毛皮採集
用語解説
アルシン アンカー インチ ヴェドロ グェルショーク オシミナ クルシカ サージェン シトーフ ゾロトニク チャルカ チェトヴェルチ ノット フィート プード フント 露里(ヴェルスタ)匝召
アレウト列島 約71センチメートル 約34.35リットル 約2.54センチメートル 約12.3リットル 約4.45センチメートル 約105リットル 約1.23リットル 約2.134メートル 10分の1ヴェドロ(約1.23リットル) 約4.25グラム 約0.123リットル 4分の1アルシン(約18センチメートル) 船の速度単位。毎時1.87キロメートル 約30.48センチメートル 約16,38キログラム 約409.5グラム 約1.067キロメートル アリューシャン列島 ヴオストーチヌイ洋、ヴォストーチノエ海(それぞれ東洋、東海の意)太平洋 カデイヤク島 クリル列島 アルテリ コディアック島 千島列島 ある種の筋肉労働者などによって組織される、労働、消費、 利益分配のための協同組合をさす。ただし、本史料集にお いては、毛皮採集者の作業班の意で用いられている。 ⅩⅩdiTHXOOI〈eaHCltOrOCeBepa,1799.1815IT.:C60pHHRJlOIくyMeHTOB.M.,1994. ⑦R.Ⅴマカロヴァ責任編集『18世紀後半における太平洋北部調査のためのロシアの遠征− 史料集−』モスクワ、1989年。 MaKapOBaP・B.(OTRPeA)PyccIくHe3KCneFt払叫IHIIOⅥ3ytIeHHl0CeBePHO放tIaCrHTHXOI℃ OReaHaBOBTOpO鎮IlOJ10BHHeXVIIIB.:C60PHHR月0ⅨyMeliTOB.Mリ1989. ⑧E.し.ベスプロズヴァンヌイフ『17∼19世紀半ばの露中関係システムにおけるプリアムー リエ地方』ハバロフスク、1986年。
BecIlpO3BaH王IhIX E.JI.npHaMyPもe B CICCeMe pyCCIく0.ftHTaiicltHXOTHOIHeHHiiXVII− CePeJlHHaXIXB.Xa6apoBClt,1986. ⑨A.Ⅰ.アンドレエフ編集『18世紀の太平洋および北アメリカにおけるロシアによる発見』モ スクワ、レニングラード、1948年。 A叫peeBA.H.(PeFl.)pyccRHeOT叩brrH兄BTIIXOMOIくeaHeIICeBepHO晶AnepHReBXⅥⅠI BeIくe.M.一刀.,1948. ⑩Aエアンドレエフ編集『18∼19世紀の太平洋および北アメリカにおけるロシアによる発 見』モスクワ、レニングラード、1944年。
AnnpeeBA.H.(PeJl.)pyccltHe OTlq)hITH5IB TllXOM OIくeaEeI寸CeBePHO丘AneplIKe B
XVIII・MXBeItaX,M∴札,1944. 2,書式は原則として、出典となったロシア語史料集の形式を踏まえている。史料の一部が省略さ れている場合、省略された部分は(略)や…などの記号で示されている。ロシアにおいて既刊 のため要旨のみが掲載されている場合は、【要旨]と明記した。日本人の読者には不要と思われ る注は一部省略した。本書の監修者および編訳者の側で補足した部分は、脚注では【監修者補 注:】、[編訳者補注ニ】として記し、文中では日内に入れた。出典となったロシア語史料集の 編者によって付された注は、脚注ではそのまま記し、文中では〔〕内に入れた。 3.文意を明晰にするために、適宜言葉を補足し、また思い切った意訳を試みた箇所がある。 4.語彙、文意が不明な箇所にかんしては、やむを得ずロシア語をラテンアルファベット表記した ものを残し、下線を引いた。 5.目上の者に宛てた文書は、必ず敬体(ですます調)で訳すこととした。 6.地名や人名について、原典の同一文書内でも表記のゆれが見られる。その表記が一般的な表記 と異なる場合、日内に一般的な表記を補足した。 7.本史料集では、とくに断りがないかぎり旧暦(ユリウス暦)が用いられている。新暦(グレゴリオ 暦)に直すた柳こは、18世紀においては11日を加える必要がある。
監修・編訳者・訳者一覧
第1部(所属は2007年度)
監修者 平川 新 編訳者 寺山恭輔 畠山 禎 小野寺歌子 訳者(五十音順) 伊豆田あかり オイドフ㌧バトバヤル 桑島裕子 木寺律子 斉藤由佳 高口兵法 平岩貴比古 福嶋千穂 前田ひろみ 松本郁子 森谷 順 渡追 聞 東北大学東北アジア研究センター 教授 東北大学東北アジア研究センター 准教授 名城大学理工学部 非常勤講師 東北大学東北アジア研究センター 教育研究支援者 東北大学大学院国際文化研究科 博士課程前期2年の課程修了 北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程 北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程満期退学 大阪大学大学院言語社会研究科 博士後期課程修了 近畿大学留学生別科 非常勤講師 東京外国語大学大学院地域文化研究科 博士前期課程修了 京都大学大学院人間・環境学研究科 修士課程修了 京都大学大学院文学研究科 博士後期課程 同志社大学言語文化教育研究センター 非常勤講師 日本学術振興会特別研究員 東北大学大学院文学研究科 博士課程前期2年の課程修了 サンクトペテルプルグ国立大学人文学部 大学院生第2部(所属は2006年度)
監修者 平川 新 編訳者 寺山恭輔 畠山 禎 小野寺歌子 藤原潤子 東北大学東北アジア研究センター 教授 東北大学東北アジア研究センター 助教授 東北大学東北アジア研究センター 教育研究支援者 京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程満期退学 日本学術振興会特別研究員訳者(五十音順) オイドフ・バトバヤル 桑島裕子 木寺律子 高口真法 前田ひろみ 松川直子 松本郁子 宮崎衣澄 渡過 聞 北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程 北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程満期退学 大阪外国語大学大学院言語社会研究科 博士後期課程 東京外国語大学大学院地域文化研究科 修士課程修了 同志社大学言語文化教育研究センター 非常勤講師 通訳・翻訳業 京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程、日本学術振興 会特別研究員 富山商船高等専門学校国際流通学科 助手 サンクトペテルプルグ国立大学人文学部 大学院生
第3部(所属は2003年度)
監修 平川新 編訳者 寺山恭輔 藤原潤子 伊賀上莱穂 畠山禎 訳者(五十音順) 木寺律子 斎藤由佳 塩谷昌史 松本郁子 東北大学東北アジア研究センター 教授 東北大学東北アジア研究センター 助教授 東北大学東北アジア研究センター 講師(研究機関研究員) 大阪大学大学院言語文化研究科 助手 小渕フェロー 大阪外国語大学大学院言語社会研究科 博士後期課程 近畿大学留学生別科 非常勤講師 東北大学東北アジア研究センター 助手 京都大学大学院人間環境学研究科 修士課程 ⅩⅩⅩli重石9ムl∼10ムー
1・コサック五十人隊長ヴラディミル・アトラソフ1の「陳述書」。1697年のカムチャツカ遠征に ついて㌔(③No.15) 1701年2月10日 1701年2月10日、シベリア庁にヤクーツク・コサック五十人隊長ヴォロディメル・オトラソ フ【ヴラディミル・アトラソフ】が出頭し、尋問に対し以下のとおり答えた。 「彼、ヴオロディメルは2033【1695】年8月末、陛下のヤサク税徴収のため、ヤクーツクからア ナドウイルスク越冬′ト屋へ出発したとのことである。ヤクーツクの下級勤務員13名が彼に同行 した。ヤクーツクから′ト舟でレナ川を渡り、荷馬車を雇い、アルダン川まで林間や草原を3日ほ ど進んだという。1日あたりの行程は30露里程度となる。アルダン川を小舟で渡り、アルダンか らは馬を雇い、アルダン川をその河口【レナ川との合流点]からトクラン川河口【アルダン川との合 流点】に向かって一日分さかのぼった。アルダン川はモスクワ川とくらべて倍の大きさであろう。 トクラン川右岸を、ぬかるみや岩の多い場所づたいに最上流まで、馬で11日間かけてさかのぼっ た。トクラン川の河口で冬が到来した。一方、トクラン川はモスクワ川より小さい。トクラン川 を渡り、カーメ二をとおって、1日でヤナ川の水源に到着した。ヴェルホヤンスク越冬小屋まで、 ヤナ川に沿って下流へ馬で2週間ほど進んだ。 ヴェルホヤンスク越冬小屋で新たに馬を雇い、ヤナ川沿いに下流へと向かった。ヤナ川はモス クワ川よりも幅が広い。そしてタスタクに移動した。タスタク川はモスクワ川より狭く小さな川 だ。タスタクからガリャンディナ川へ行った。このガリャンダ[ガリャンディナ】川はインディギ 1アトラソフ、プラディミル・ヴラディミロヴィチ−著名なロシア人探検家、カムチャツカの調査者。近年、 B.Rポレヴォイが明らかにしたように、未来の「カムチャツカのエルマーク」はヤクーツクで生まれた。1682 年、コサック兵に徴集され、遠方のウダ要塞での勤務に配属された。1684年の春にようやくヤクーツクへ戻っ た。ⅤⅤアトラソフの父はコサックのヴラディミル・テイモフェーヴィチ・オトラス、母はヤクート人である らしい070JIeBO益B.Il.BJIaEZ4WpATJIaCOB−yPOXeHeI15lKyTCrCa//noJI叩H細3Be3Aa,1974,N0.3を参 照)。ⅤⅤアトラソフの功績を否定はしないが、1651年から1657年までの間、北はペンジナ川から南はオホ一 夕川までのオホーツク海沿岸部を調査したM.Ⅴスタドゥヒンから、ロシア人がカムチャツカにかんする最初 の情報を入手したことは認めなければならない。アトラソフと直接かかわる前任者は、1691∼1692年、1693 ∼1694年および1696年にカムチャツカでヤサク税を徴収したアナドウイルスクのコサック、LS.モロスコ とⅠ.Ⅴゴルイギンである。すでに17世紀中葉には、同半島でのロシア人の最初の越冬が行われている。 アトラソフは、アナドウイルスク要塞を出発し、ティギリ川を通過し、それからカムチャツカ川に向かっ た。半島の南端から100キロメートルのところまで踏破した。ⅤⅤアトラソフの遠征の意義は、彼がその土 地の住民をロシア帝国臣民にしたことだけでなく、「カムチャツカとクリルの地」にかんするきわめて価値の ある地理学的・民族誌的情報を収集し、総括した点にある。1700年、ヤクーツクに帰還すると、アトラソフ は報告書を携えてモスクワへ派遣された。首都で「カムチャツカのエルマーク」はコサック隊長に昇進し、 ふたたびカムチャツカへ派遣された。1711年1月、カムチャツカで蜂起したコサックによって殺害された(史 料集③C.112より)。 2【編訳者補注:訳出にあたり、以下の邦語文献を参照した。村山七郎『漂流民の言語→ロシアへの漂流民の 方言学的貢献−』吉川弘文館、1965年、6頁、高野明『日本とロシア一両国交渉の源流−』紀伊国屋 書店,1994【初版1971年】、49∼52頁】 3【訳者補注:原文では宇宙開開紀元の年号(ビザンツ暦)を使用している。以下も同様】 −3一
ルカ要塞付近でインディギルカ川に注いでいる。このガリャンダ川に沿ってやはり馬でインディ ギルスク要塞までたどり着いた。ヤクーツクからインディギルスク要塞までの全行程は、旅先で の滞在時間も含めて6、7週間だった。 インディギルスク要塞からトナカイを雇い、インディギルカ川に沿って下流へと向かい、5、6 日でウヤンディンスク越冬小屋に到着した。このウヤンディナ川はインディギルカ川へ左側から 流れ込んでいる。ウヤンディン[ウヤンディナ】からインディギルカ川沿いに下流へ川幅の狭い場 所を進み、尾根を越えてアラゼイスク越冬小屋に出た。8日か10日はどの道のりだった。アラゼ イスク越冬小屋からやはりトナカイで尾根を越え、コルイマ川のヤルモンガ自然境界まで2日間 かかった。ヤルモンガからコルイマ川に沿って下流へ向かい、ニジネコルイムスク越冬小屋まで 樋で約10日を要した。この越冬小屋は河口のすぐ近くにある。 コルイムスク越冬小屋からアニユヤ川に沿って上流へと向かい、尾根を越えてヤプロンナヤ川 に出た。それからヤプロンナヤ川に沿ってアナンドウイリ【アナドウイリ】川まで下り、さらにア ナンドウイリ川に沿って下り、アナンドウイルスク【アナドウイルスク1要塞まで約4週間を要し た。春ならもっと楽に3週間ほどでたどり着く。彼ら下級勤務員は自分たちで、ヤサク税が課さ れている異郷人から荷馬車や荷構用の馬やトナカイを雇っている。 コルイマ川とアナンドウイリ川の間にニエオブホディモイ4岬があり、海に突き出ている。この 岬の左岸の海上には夏でも氷が残り、冬、この海は氷結する。岬の反対側は春に氷が残ることも あるが、夏には氷はない。彼、ヴオロディメルはこのニエオプホディモイ岬に行ったことがない。 この岬やアナンドウイリ川河口の周辺に住む、かの地の異族人チュクチ人は、ニェオブホディモ イ岬の向かいに島があり、海が凍る冬にこの島から異郷人がやって来て、独自の言葉を話し、ケ ナガイタチに似たやせたクロテンを運んでくる、と云っている。ヴオロディメルはこのクロテン を3匹見たことがある。その尾の長さは4分の1アルシンほどで、黒と赤の横縞が入っている。 彼、ヴォロディメルはアナンドウイルスク越冬小屋で約60名の下級勤務員や毛皮採集者を集 めたという。これらの人びととともに彼がなにをしたのか、どこに行ったのかについては、ヤクー ツクから送られてきた彼の尋問書の中で、またヤクーツクから書面で送られてきた彼の嘆願の中 で述べられているという。 カムチャダール【カムチャツカ】の地を往復したとき、彼らは異郷人から略奪したトナカイや異 郷人から取った魚を常食とし、またアナンドウイルスク越冬小屋から持参した網で自ら魚を獲っ ていた。 カムチャツカの地の川に住む魚は海水魚で、特殊な種である。ある魚はサケに似て、夏には赤 4つまり「通行不可能な」の意。 −4−