小津久足 陸奥日記
著者
佐藤 大介, 菱岡 憲司, 板坂 耀子, 高橋 陽一, 青
柳 周一
雑誌名
東北文化資料叢書
巻
11
発行年
2018-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127883
東北文化資料叢書第十一集
小津久足
陸奥日記
東北大学大学院文学研究科東北文化研究室
二〇一八年三月
小
津
久
足
陸
奥
日
記
小津久足『陸奥日記』刊行にあたって
佐
藤
大
介
こ の 本 は、 江 戸 時 代 後 期 の 商 人 で、 旺 盛 な 文 芸 活 動 を 行 な っ た 小 お づ 津 久 ひ さ た り 足 〔 文 化 元 年(一八〇四) ~安政五年(一八五八) 〕の手による紀行文『 陸 みち 奥 のく 日記』の全文を翻 刻した史料集である。 小津久足は、伊勢・松坂(三重県松阪市)を本拠とし、江戸・深川(東京都江東 区)を拠点に海産物商を展開した豪商・湯浅屋与右衛門家の主人であった。映画監 督・故小津安二郎の先祖筋にもあたる。 久足は、滝沢馬琴の友人として知られる一方、近年の江戸文学研究では、七万首 におよぶ和歌と四六編の紀行文などを残した彼自身の文芸活動、人物に迫る研究が なされている。久足自身の意志により、生前に彼の作品が出版されることは無かっ たが、その客観的かつ批評に富んだ筆致は、江戸時代の紀行文学の到達点と評価さ れている。その紀行文の中でも代表作とされるのが『陸奥日記』である。 天保十一年二月二十七日(西暦一八四〇年三月三日 以下カッコ内は西暦での月日 を 示 す )、 小 津 は 干 鰯 商 を 営 ん で い た 江 戸・ 深 川( 東 京 都 江 東 区 ) を 出 発、 下 総 (千葉県) 、常陸(茨城県) 、浜街道(福島県および宮城県沿岸)を経て、三月十四 日(四月十六日)に松島(宮城県松島町)に至った。帰路は奥州街道(宮城県、福 島県)を南下し、 下野(栃木県)をへて、 三月二十七日(四月二十九日)深川に戻っ た。目的地である松島はもちろん、途中の史跡や風景、出会った人々への詳細な描 写と、久足の独自の視点による論評が加えられている。文学者、商人、また旅行者 としての久足について、また『陸奥日記』の江戸時代紀行文の中での位置づけにつ いては、この後の総論および論説の文章を参照していただきたい。 また、 今回の出版は、 二〇一一年三月十一日に発生した東日本大震災が契機になっ ている。久足が『陸奥日記』でたどった旅路の多くは、地震、津波、そして原発事 故の被災地となった。 私は、宮城県域を中心に、被災した地域に残された古文書その他の歴史文化遺産 のレスキュー活動に従事している。約一〇万点の被災史料を救出する一方、津波で 一瞬にして失われ、救出できなかったものも数知れない。一度失われた史料は、二 度と取り戻すことが出来ないのである。 さらに、今なお続く「復興」過程の中で、大規模な土木工事、集落の移転、区画 整理などにともない、久足が通った地域の集落、地名、道筋、山河、海岸の風景は 激変しつつある。被災地では、過去数百年にわたってその地で受け継がれてきた歴
史文化を、またそこに人々の暮らしが積み重ねられた「ふるさと」があったという 証を、一挙に失う危機に直面している。 私は、歴史学、人文学研究に取り組む立場として、被災した地域を単に「災害が 起こった場所」とさせず、人々の歴史的なあゆみに裏付けられた暮らしがあったこ とを伝え、将来にわたってそのことを知るための手がかりを残すことを、専門性を 活かした災害支援の一つだと考えている。暮らしの痕跡をほとんど失った津波被災 地や、私の故郷・福島の、フレコンバッグに埋もれた町を訪れる中で、その思いは より強くなった。 失われた手がかりを取り戻すには、 何をすべきなのか。 その一つは、 被災した地域の外に残る史料を集めることであろう。そのような中で、江戸時代の 旅行史、観光史の立場から『陸奥日記』を分析した青柳周一、高橋陽一両氏の研究 を通じて、その存在を知る事となった。本文が未活字化ということであれば、それ を公刊すること自体に意義がある。さらに、小津久足による描写の特徴ゆえに、そ こには被災した各地の、過ぎ去った歴史を知るための貴重な内容を含んでいると考 えたからである。青柳、高橋両氏に、以上のことを説明し、分担して解読を行いた いと提案したのは、二〇一五年十二月のことであった。 両氏からは快諾を得る一方、青柳氏から、江戸文学者の菱岡憲司氏が小津久足の 未 刊 紀 行 文 に つ い て も 出 版 を 進 め て い る、 と の 教 示 が あ っ た。 『 陸 奥 日 記 』 に つ い ても出版される可能性があるとのことであったので、青柳氏から菱岡氏に照会した と こ ろ、 「 陸 奥 」 に 関 す る 作 品 を、 被 災 し た 東 北 の 地 か ら 発 信 す る 意 義 を 指 摘 さ れ、
全文の解読原稿を快く私たちに提供されたのである。本書の刊行は、この「一二万 字の被災地支援」無くしてはありえなかったことを明記しておきたい。 菱 岡 氏 か ら は 合 わ せ て、 『 陸 奥 日 記 』 を 歴 史 学 の 視 点 か ら 検 討 す る こ と の 意 義 に ついて示唆を受けた。久足がたどった各地の史跡、 伝承、 当時の社会状況の調査には、 その経路に当たるそれぞれの地域に根ざした調査研究が必須である。そこで、千葉、 茨城、福島、宮城、栃木の研究者に呼びかけ、二〇一六年から「陸奥日記研究会」 を立ち上げている。 「三 ・ 一一」被災各地での史料レスキューなど、歴史学、人文学 の立場からの地域連携、被災地支援に積極的に取り組む仲間である。目下、久足の 陸奥への旅路について、文学・歴史学の観点から学際研究を進めているが、本書は その最初の成果でもある。研究会の呼びかけ人である菱岡、青柳、高橋の三氏に加 え、江戸紀行文学研究の第一人者である板坂耀子氏からも寄稿を受けた。記して感 謝したい。 『 陸 奥 日 記 』 が、 江 戸 文 学 や 江 戸 時 代 の 文 化 史、 経 路 と な っ た 各 地 の 地 域 史 研 究 で活用されることはもちろん、 「三 ・ 一一」により被災した地域に暮らす方々や、そ こに思いを寄せる方々にとって、それぞれのふるさとを知るためのよすがとなれば 幸いである。
東北文化資料叢書 第十一集
小津久足
陸奥日記
目
次
小津久足『陸奥日記』刊行にあたって
佐藤大介
ii
[解説]
『陸奥日記』の位相
菱岡憲司
1
「東北紀行」とは何か
板坂耀子
3
『陸奥日記』の東北旅行史的特徴
高橋陽一
6
[論説]
一九世紀の商人・旅行者としての小津久足
青柳周一
9
[史料]
小津久足『陸奥日記』
17
凡例
18
上巻
19
中巻
71
下巻
129
仙台 米沢 3 月 13 日 3 月 16 日泊 松島 3 月 14 日泊 白河 棚倉 平潟 喜連川 宇都宮 笠間 那珂湊 鹿島社 息栖社 平 3 月 20 日泊 太田 3月6日泊 3月4日泊 筑波山 銚子 栃木 今市 3 月 25 日泊 江戸 江戸 古河 2 月 27 日 出発 3 月 27 日 帰着 2 月 27 日 出発 3 月 27 日 帰着 日光山 3 月 22 日 3 月 23 日泊 2 月 30 日 3 月 1 日泊 押砂 2 月 28 日泊 水戸 3月5日泊 3月3日泊 3月12日泊 3月11日泊 3月18日泊 3月19 日泊 3月21日泊 3月24日泊 3月10日泊 石巻 山形 飯坂 福島 若松(会津) 桑折 亘理 小高 中村 荒 浜 岩 沼 岩 沼 大田原 郡山 太平洋 日本海 香取社 木下 行徳 行徳 土浦 2月29日泊 潮来2月29日泊 潮来 久之浜 小津久足『陸奥日記』行程概略図 天保 11 年(1840)2 月 27 日から 3 月 27 日 ・久足の行程は太線で示した。 ・図中には主な宿泊地と訪問地のみを記し、宿泊地は●で示した。 ・本図は丸山雍成編『日本の近世 6 情報と交通』(中央公論社 1992) 掲載の「江戸時代の主要交通路」をもとに作成した。
小津久足は一般に、 曲亭馬琴の友人、 西荘文庫の主である蔵書家、 小津桂窓として知られる。伊勢松坂の豪商で、通称は新蔵、のち与 右衛門。文化元年(一八〇四)八月十二日生、 安政五年(一八五八) 十一月十三日没、享年五十五歳。その文事には、紀行 ・ 詠歌 ・ 蔵書 ・ 小説受容の四つの柱が見出され 、それぞれの営みにおいて、卓越し た到達を示している。 小 津 久 足 の 紀 行 文 は、 文 政 五 年( 一 八 二 二 ) 十 九 歳 の 折 の『 吉 野 の 山 裹 』 か ら、 没 す る 二 年 前 の『 梅 の 下 風 』( 安 政 三 年 ) ま で、 浄書本で四十六点にものぼる。なかでも、 複数冊をなす長編紀行 『煙 霞日記』 (二巻二冊、天保八年〈一八三七〉 )『ぬさぶくろ日記』 (二 巻二冊、 天保九年) 『浜木綿日記』 (三巻三冊、 天保十年) 『陸奥日記』 (三 巻三冊、 天保十一年) 『青葉日記』 (三巻三冊、 天保十三年) 『桜重日記』 (二巻二冊、 天保十四年) 『志比日記』 (三巻三冊、 弘化元年 〈一八四四〉 ) 『 海 山 日 記 』( 二 巻 二 冊、 嘉 永 六 年〈 一 八 五 三 〉) は、 い ず れ も 質 量 ともに充実した近世紀行文学の傑作である。五十歳で執筆した『海 山日記』以外は、三十代半ばから四十代初めの、気力体力ともに充 実した、もっとも脂の乗った時期につづられている。そして『 陸 みちのく 奥 日 記 (1) 』は、同時期の雄編群のなかでも、旅した場所といい、構成の 妙といい、文体の洗練といい、いずれをとっても久足紀行文の白眉 といえる。 近世紀行文学を専門とする板坂耀子は、 『江戸の紀行文』 (中公新 書、 二〇一一) において、 「江戸時代の紀行の代表作は松尾芭蕉の 『お くのほそ道』ではなく、初期の貝原益軒の『木曾路記』と中期の橘 南 谿 の『 東 西 遊 記 』、 後 期 の 小 津 久 足 の『 陸 奥 日 記 』 で あ る 」 と 述 べる。 『おくのほそ道』はもちろんのこと、 『木曾路記』 『東西遊記』 とくらべても知名度の低い『陸奥日記』が、なぜ江戸時代の紀行の 代表作といえるのか。板坂の見解を敷衍しつつ私にまとめれば、以 下のようになる。 代表作とは、多くの共通点を持つ作品群のなかで、共有する特徴 を い か し て 最 高 の 到 達 度 を 示 し た も の と の 認 識 に よ る な ら ば、 『 お く の ほ そ 道 』 は 名 作 で は あ っ て も 代 表 作 と は い え な い。 な ぜ な ら、 江戸の紀行文を特徴づける「豊かな情報」 「前向きな旅人像」 「正確 で 明 快 な 表 現 」 と い う 新 た な 評 価 軸 に 合 致 し な い た め で あ る。 『 お くのほそ道』 が中世までの伝統的な紀行文の中心をなす主情的な 「旅 [解説]
『陸奥日記』の位相
菱
岡
憲
司
の愁い」に重きを置き、事実の改変さえも行って虚構的な文学世界 を描いたことはよく知られる。しかし江戸時代には、従来の紀行文 には見られない新たな潮流が生じている。それは、 情の重視(主情) から知の重視(主知)への転換であり、 それを決定づけたのは、 『木 曾路記』をはじめとした貝原益軒の紀行文に他ならない。その背景 には、世情不安定な中世(憂き世)から泰平の近世(浮き世)へと い う 時 代 の 心 性 の 推 移 や、 参 勤 交 代 に よ る 街 道 の 整 備 に と も な い、 旅が憂いから解放され、娯楽としての旅が可能になるなどの環境変 化が存在する。正確で豊富な地理的知識を重視して、憂いなく前向 きに旅を記録するという近世紀行文の特徴を 『東西遊記』 『陸奥日記』 も当然、備えている。 そ の う え で 特 筆 す べ き は、 『 陸 奥 日 記 』 は 正 確 な 事 実 の 記 載 と い う 主 知 0 0 を 旨 と し つ つ も、 旅 先 で の 見 聞 に 触 発 さ れ て 歯 に 衣 着 せ ぬ 「 私 」 の 心 情 を 吐 露 す る ︳ ︳ す な わ ち 中 世 的 な「 旅 の 愁 い 」 に 限 定 することない 主情 0 0 を描き得ていることである。 「今古和漢雅俗一致」 を標榜する久足は、中世までの主情と近世よりの主知という、新旧 特徴をふたつながらに備えた紀行文を完成させた。江戸の紀行文の 代表作たる所以である。 この度、 『陸奥日記』がはじめて全文翻刻されることにより、 文学 ・ 歴史学はもとより、国語学・民俗学・地理学など、多くの学問分野 で活用されることを期待する。そして何より、久足が旅した土地に 生まれ、育ち、日々の生活を営んできた方々の目に触れることを希 望する。さまざまな理由で往時の姿が 失われた 0 0 0 0 としても、その土地 と、土地に根ざした人々の生活がかつて存在したことはまぎれもな い 事 実 で あ り、 『 陸 奥 日 記 』 に よ っ て、 か け が え の な い 土 地 の 記 憶 と先人の息づかいを 取りもどす 0 0 0 0 0 ことができると信じるからである。 注 ( 1) 草 稿・ 浄 書 と も に 題 名 に 振 り 仮 名 が 振 ら れ て い な い た め、 読 み 方 に 決 定 的 な 証 拠 を 得 ら れ な い の だ が、 久 足 は 書 名 の 由 来 と な る 歌 を、 紀 行 中 に 詠 込 む こ と が 多 い。 本 作 に お い て も、 書 名 へ の 直 接 的 な 言 及 で は な い も の の、 旅 を 終 え て、 「 陸 奥 を め ぐ り こ し ま に 時 す ぎ て 東 の 花 は ち り に け る か な 」 と の 歌を詠んでおり、 音律よりムツではなくミチノクとの読みが確認できるため、 『 陸 みち 奥 のく 日記』と読むのが適切であろう。
一 紀行文学史の中で重要な存在 た と え ば 東 海 道 で は 文 学 的 伝 統 と 現 実 の 卑 俗 化 の 板 挟 み に あ っ て、紀行の名作は生まれにくい。中国地方は九州方面への大方の旅 人が瀬戸内海の船旅を選ぶために通過されずに、紀行の数は非常に 少ない。 江戸の周辺は長途の旅というより近郊紀行の名作が目立つ。 名 所 が ひ し め く 京 都 で は 題 材 が 多 す ぎ て 紀 行 作 家 は 苦 労 し て い る。 四国、九州、木曾路、それに江戸時代の紀行文学史の中で最も重要 な蝦夷紀行などはそれなりに名作が多いが、旅する行程が限られて いて、安定した作風だが変化に乏しい。 そ の よ う に 考 え る と、 東 北 紀 行 は、 そ の 範 囲 の 広 さ と と も に 作 品の多さと多彩な性格で、おそらく紀行を地域別に見た時には群を 抜いた存在だろう。 か つ て、 膨 大 な 江 戸 紀 行 の 研 究 に 取 り 組 む に あ た っ て 私 は い く つかの特徴を持つ作品のグループに分類することから始めた。それ を東北紀行に応用するとき、当面意識するのは次の三点である。 1 蝦夷の前庭、日光の奥庭 蝦 夷 紀 行 は 大 半 が 東 北 を 経 由 す る。 蝦 夷 地 の 松 前 の 殷 賑 に 比 し て 東 北 の 貧 し さ に 強 い 印 象 を 受 け て い る 作 者 も 多 い。 蝦 夷 紀 行 に とって東北紀行の部分はどういう価値や意識のもとに書かれている かは今後の検討課題だろう。一方で東北紀行と銘打ちながら実際に は蝦夷まで行っている紀行も少数ながら存在し、それは蝦夷紀行の 書名を冠したものと異なる性格を持つのかも考える必要がある。 同 様 に 位 置 や 地 域 を 考 慮 す る な ら、 こ れ も 一 定 の 量 と 質 を 確 保 する日光紀行類との関連や作者の意識も問題となる。蝦夷地への前 庭として描かれる東北は、また日光の奥庭として描かれている地域 でもある。 2 松島という中心 次 に 目 に つ く 作 品 群 は 松 島 を 題 材 と し た 紀 行 の 一 群 で あ る。 も とよりその他の東北紀行でも松島は欠かすことなくとりあげられる が、通過する場所ではなく、そこを目的とした紀行としては質量と [解説]
「東北紀行」とは何か
板
坂
耀
子
もに東北紀行の中で最も大きな存在である。以前に私は、松島は関 東以南のみならず、東北地方の人たちが訪れる中心として多数の作 品を残しているという点でも重要で、別途の検討を要すると述べた が (1) 、今もその印象は変わらない。 3 有沢一族の紀行類 江 戸 紀 行 の 本 流 は 林 羅 山 か ら 貝 原 益 軒 を 経 て、 本 居 宣 長 を は じ めとした国学者の紀行や蝦夷紀行に引き継がれ、幕末の小津久足に いたって完成するというのが私の大まかな江戸紀行文学史の把握だ が、これでは説明のつかないのが、益軒以前の江戸時代初期に北陸 の有沢一族が参勤交代の途次に記している膨大な紀行類である。一 見備忘録風の道中記のようだが、内容や表現は益軒が基礎を築いた 江戸紀行の特徴を、 より早い時期にもかかわらず充分に具えている。 その実態については勝又基氏が報告されてい る (2) が、そのような意識 や作風を生み出すに至った背景は今後も重要な研究対象であろう。 二 歴史と風土が生み出すもの 更に全体を通しての東北紀行の印象として、次のようなことを感 じる。 1 古代への憧憬 「 お く の ほ そ 道 」 の 旅 に あ た っ て 芭 蕉 が 求 め た の は 日 常 か ら 脱 し た苛酷な旅の環境とともに、辺境や異境だからこそ残る古代への憧 憬だった。それもまた江戸紀行全般に通ずる特徴であり、僻地への 同情や軽蔑は時にあっても、より目につくのは都会では滅びた過去 が現存することへの讃嘆である。文化果てる地は、そのまま文化が 生き残る地でもあった。歌枕と古戦場はその象徴であり、芭蕉が平 泉と壺の石文で感涙にむせぶように、江戸時代では歌枕より古戦場 がむしろ大きな存在となる。 「 歌 枕 に な く て も 美 景 」 と、 風 景 を 賞 賛 す る 記 述 は 江 戸 紀 行 に し ばしばあるが、それはあくまでも異例で新鮮な観点であって、関東 では鎌倉、九州では太宰府や対馬の人気が示すように、江戸時代の 人々は現代の私たちよりはるかに歴史的なものへの関心が強い。た とえ卑俗なまやかしであっても、何らかの伝説に彩られない地名や 建物は、どんなに美しくても魅力を感じなかったのではないかと思 えるほどである。 2 破格な形式 紀 行 評 論 家 で も あ っ た 小 津 久 足 は、 知 的 考 証 を 紀 行 の 重 要 な 要 素と考える。一方で国学者の片岡寛光のように、こうした考証を紀 行から排除することを強く主張する紀行作家もいる。 そ の 寛 光 が 序 文 で、 本 来 あ る べ き 紀 行 の 姿 と し て 絶 賛 す る 服 部 菅雄「壺石 文 (3) 」は、滞在記と旅行記が混在し、各地で見聞した奇怪
な逸話を長文で書きこむなど、むしろ異色で破格な紀行だ。 東 北 紀 行 に は、 地 域 が 広 範 に わ た り 作 品 数 が 大 量 で あ る こ と を 考慮しても、 奇談集の体裁を取るもの、 伝説の紹介を主とするもの、 紀行としては変わり種の芭蕉の「おくのほそ道」や只野真葛「いそ づたひ」などのように、このような自由さ、破格さを持つ作品が多 い。それは通常の安定した形式では表現できない、蓄積されて何重 にも重なった豊かな文化の風土が生むものかもしれない。 三 「陸奥日記」の意義 小 津 久 足「 陸 奥 日 記 」 を、 こ の よ う な 東 北 紀 行 の 中 に お い て 見 るとき、その意義や価値は更に明らかになる。 そ れ は、 蝦 夷 紀 行 や 日 光 紀 行 の 一 部 で は な く、 「 東 北 」 を 中 心 の 題材とし、異色な変化球ではなく、けれんみのない堂々とした本格 的な紀行として完成させた、ありそうでなかった貴重な東北紀行と 言えよう。奇をてらわず肩肘はらず、それでいてゆうゆうと「駕籠 がない街道はきつい」などという他の紀行にはない日常の情報をさ らりと書きこむ。いつものことだが、生活者として芸術を楽しむこ とへの、あきれるほどの自己肯定と自信も、資本主義の近代がすぐ そこに迫っている時代の反映なのだろうか。そういう意味ではこれ は江戸時代そのものが生んだ東北紀行の総決算でもある。 注 ( 1)拙著『江戸を歩く』 (葦書房 一九九三年)中の「なぜ、松島が」の章。 ( 2) 勝 又 基「 藩 士 文 芸 と し て の 紀 行 文 」 ぺ り か ん 社『 江 戸 文 学 』 28号 特 集 「近世紀行文」 。 ( 3) 皇學館大学紀要 32号に大杉光生氏の翻刻がある。これは静岡県富士文庫の 写本が底本で、東北大学にも内容はほぼ同一の写本がある。
「 松 島 の 景 す ゞ ろ に み ま ほ し く 」。 『 陸 奥 日 記 』 上 巻 冒 頭 の こ の 一 言 が、 小 津 久 足 の 東 北( 奥 羽 ) 行 脚 の 動 機 を 端 的 に 表 し て い よ う。 わ け も な く 松 島 の 景 色 が み た く な っ た と い う 出 立 の シ ー ン は、 「 松 島の月先づ心にかゝりて」草庵を出た松尾芭蕉『おくのほそ道』の 旅立ちの場面をも連想させる。 松島は、江戸時代前半の一七世紀には日本三景( 「三処奇観」 )の 一つに数えられており、東北を代表する、全国的に知られた名所で あった。江戸時代における松島への旅の記録は数多く残されている が、それらを分析すると、旅の行程は、①松島往復型 ②東北周回 型 ③北海道往復型 ④江戸・上方旅行型 ⑤その他のおよそ五パ ターンに分類できる。①はその名の通り松島来訪を主目的とし、松 島もしくは金華山を終点にUターンして帰路につく行程である。② は松島、および松島と並ぶ東北の名所であった平泉もしくは出羽三 山 を め ぐ り、 東 北 を 周 回 す る 行 程、 ③ は 公 務 等 で 北 海 道( 蝦 夷 地 ) に渡航する途中に松島に立ち寄る行程、④は東北地方を出立し、江 戸見物や伊勢参宮の途中で松島に立ち寄る行程であり、⑤は松島か ら 三 陸 沿 岸 を た ど る 行 程 な ど が 該 当 す る。 『 陸 奥 日 記 』 の 行 程 は ① に当てはまり、久足の松島への憧憬と年来の宿意を汲み取ることが できよ う (1) 。 松 島 往 復 型 の 旅 は、 儒 学 者・ 細 井 平 洲( 『 お し ま の と ま や 』) や 若かりし頃の伊能忠敬( 『奥州紀行』 )も行っている。この旅は、 『陸 奥日記』のような紀行文(時に和歌を盛り込みながら旅先の詳しい 状況、故事、著者の感懐を綴った自己表現の旅の記録)を著す知識 人の旅に多くみられる一方、道中日記(簡潔で客観性の強い旅の記 録)を著す庶民の旅にはほとんどみられない。自然景観や松尾芭蕉 の足跡のみならず、歌枕や霊場といった古代以来の風景が積層した 松島は、学者・歌人・僧侶といった雅文芸を享受する人々にとって まさに旅の聖地であった。 『 陸 奥 日 記 』 の 内 容 的 特 徴 と 史 料 的 価 値 は、 久 足 の 幅 広 い 学 問 に 裏 打 ち さ れ た 教 養 と、 日 常 の 営 み で あ る 商 い や 非 日 常 の 旅 と い っ た豊かな人生経験によって養われた卓越した観察眼、そしてあるが ままの感情の発露にあるといえるだろ う (2) 。その久足が旅先の事物を 評価する際に持ち出したのが、 「俗」という指標であった。例えば、 仙台では藩主伊達家の菩提寺である大年寺など「めでたきつくりざ [解説]
『陸奥日記』の東北旅行史的特徴
高
橋
陽
一
まなる寺社」について、それらは「俗人」の喜ぶ所で、自分の心に はかなわないため訪問しなかったと述べている。その一方で、松島 に 関 し て は、 「 甚 寂 莫 た る 地 に し て、 俗 気 な し。 よ に 名 だ か き と こ ろなれば、さぞ俗気あらん、とかねておもひしにたがひて、いと心 にかなへるところなり」と、静寂で「俗気」がなく、想像と異なり とても心にかなう場所であると称賛している。 ま た、 高 所 か ら 松 島 を 一 望 で き る 富 山 の 大 仰 寺 に 登 っ た 際 に は、 次のように綴っている。 絶 景 と よ に い ふ 景 の、 俗 に ち か き た ぐ ひ に あ ら ず、 真 の 絶 景 と は、 こ れ ら を や い ふ べ き … こ の 山 は 幽 邃 に て、 美 景 な れ ば 十 分 と い ふ べ く、 都 と ほ き 僻 地 の 景 は、 お ほ か た す ご く き び し き も の な る に、 い と を だ や か に、 花 や か に し て、 都 ち か き 山のさまともいふべき趣あり 松 島 の 眺 望 は 僻 地 で あ る に も か か わ ら ず 険 阻 で は な く、 穏 や か さと華やかさを備え、 都に近い自然景の風情もあるが、 決して「俗」 には染まっていない。これこそが「真の絶景」であると、久足は最 大級の賛辞を松島に贈ったのである。山中の参道を登って寺の書院 に辿り着き、眼前の眺望が一気に開けたその時、押し寄せてきた高 揚感はいかばかりであっただろうか。 忌 み 嫌 う「 俗 」 な 場 所、 す な わ ち 過 度 に 繁 華 で あ っ た り、 大 衆 的 な 営 み が み ら れ る 場 所 で は な く、 か と い っ て 僻 地 に あ り が ち な 荒々しさが全面に出ることもなく、美麗で気品のある自然景を備え た場所。久足にとって、松島は風景・雰囲気において絶妙なバラン スを保った理想郷であった。 一方、いわゆる白河以北の東北に対する江戸時代人の認識が読み 取れる点もまた、 『陸奥日記』 の特徴であろう。それは未知なる異界 ・ 異 境 と し て の 東 北 認 識 で あ り、 「 は る け き 陸 奥 」 と い う 上 巻 冒 頭 の 表 現 に す で に 滲 ん で い る が、 帰 路 白 河 に 至 り、 「 は じ め て 辺 鄙 を は なれたるこゝち」がした久足が、旅を振り返って綴った次の一文に はっきりと表れている。 す べ て 国 風、 東 夷 の な ご り あ り て、 人 に か た る と も、 そ の 境 をみずしては、まことゝすまじきことゞもおほし 「夷」とは、未開の異民族を指す言葉である。 「国風」に「東夷の な ご り 」 が あ る と は、 古 代 の 東 北 に 暮 ら し、 「 蝦 夷 」 と 呼 ば れ 異 端 視されていた人々の慣習や風土がこの地方に残存しているというこ とであろう。久足は、実際に現地を歩いてそれを体感したと強調し ているのである。 こうした東北認識は、江戸幕府の巡見使に随行して東北・北海道 をめぐった古川古松軒の『東遊雑記』 (天明八年〈一七八八〉 )など に も 露 骨 に 表 れ て お り、 江 戸 時 代 に は あ る 程 度 一 般 化 し た 認 識 で あ っ た (3) 。 久 足 自 身 は、 東 北 を 未 開 性 や 野 蛮 さ で 塗 り 固 め て は お ら ず、むしろ旅先ごとに異なる東北各地の地域性を子細に描写し、僻 地や辺鄙な場所には好感を抱いてさえいる。だが、久足ほどの教養 人 に あ っ て も、 ( あ る い は だ か ら こ そ な の か ) 根 底 に 境 界 や 民 族 に
対する鋭敏な感覚を潜伏させていた点は押さえておく必要があるだ ろう。約一二万字におよぶ明快で細やかな記述 で東北の実情を書き 尽くした『陸奥日記』は、旅行史上の金字塔であるのみならず、江 戸時代の東北地域史、さらには江戸時代人の精神史を探る上でのバ イブルといえるだろう。 注 (1)近世の松島旅行の具体的な分析については、 拙著『近世旅行史の研究―信 仰・観光の旅と旅先地域・温泉―』 (清文堂出版、二〇一六年)を参照。 (2) 『陸奥日記』の内容上の諸特徴について、詳しくは菱岡憲司『小津久足の 文事』 (ぺりかん社、二〇一六年)第三部第五章「 『陸奥日記』 」を参照。 (3)東北に対する後進 ・ 未開 ・ 異境イメージの歴史的経緯については、河西英 通『東北―つくられた異境』 (中央公論新社、二〇〇一年)を参照。
はじめに 小津久足とは、きわめて多面的な存在である。伊勢国松坂(三重 県松阪市) に本宅を置いて江戸で出店を経営した商家の当主にして、 幾度もの旅を経験した練達の旅行者。その旅の経験に基づく、質量 ともに当代随一の紀行文作家。本居春庭の下で詠歌に励み、後鈴屋 門の重鎮にもなった人物。そして類い希な蔵書家でもあるといった 風に、さまざまな顔を我々の前に見せている。こうした久足の個性 の把握に努めながら近世史の中に位置づけ、その著作や和歌の歴史 的価値を明らかにするには、改めて国文学と歴史学との共同研究が 重要となるであろう。 本稿は、久足の多様な側面のうち、商人と旅行者としての特徴を 幾 分 な り と も 掘 り 下 げ、 『 陸 奥 日 記 』 の テ キ ス ト 理 解 の 一 助 と す る ことを目指すものである。なお久足の文事については菱岡憲司氏が 近年刊行した浩瀚な 著 (1) 書 において、現在の研究上の到達点が示され ている。筆者も拙稿で『陸奥日記』の考察を試みて お (2) り 、あわせて 参照いただければ幸いである。 一 干鰯問屋「湯浅屋与右衛門」としての小津久足 久 足 は、 江 戸 小 網 町 三 丁 目( 東 京 都 中 央 区 日 本 橋 ) で 干 鰯 魚 〆 粕魚油問屋を営む小津家の六代当主であった。その屋号を「湯浅屋 与右衛門」という。ちなみに松坂には小津姓が多く、久足の小津家 (与右衛門家)は江戸で紙 ・ 木綿問屋を経営した小津清左衛門家(小 津産業株式会社および小津グループ各社の創業家)の別家である。 弘化三年 (一八四六) に久足が著した 『家の昔かた り (3) 』 には、 「天 保 六 甲 午 年( 実 際 に は 五 年 )、 江 戸 大 火 に て( 小 網 町 の 住 居 が ) や けたり(中略) 干鰯仲間のうち、橋本小四郎、久住五右衛門(五左 衛門)両家ともに、この時深川へ転宅の企ありしかば 、転宅せずし て は 便 利 も あ し か る べ し と て、 か た 〴 〵 叟 (相カ) 談 と な り、 天 保 七 丙 申 年四月廿六日に今の深川油堀通冨久町にはうつりし也 」とある(引 用 史 料 中 の 括 弧 内 の 注 記 と 傍 線 は 筆 者 に よ る。 以 下 全 て 同 じ )。 久 足は天保七年(一八三六)に湯浅屋を小網町から深川富久町(江東 [論説]
一九世紀の商人・旅行者としての小津久足
青
柳
周
一
区 深 川 ) へ と 移 転 さ せ た の で あ り、 そ れ か ら 四 年 後( 天 保 一 一 年 ) の『 陸 奥 日 記 』 で も、 や は り「 深 川 な る、 な り は ひ( 生 業 ) の 家 」 から旅立っている。 な お『 陸 奥 日 記 』 に は 出 発 の 様 子 が「 な り は ひ の 家 の ま へ よ り 船にのりぬ」 と記されているが、 おそらく久足は富久町の裏手にあっ た堀(現在は埋め立てられて「亀堀公園」となっている辺り)から 船に乗り、小名木川まで出て中川船番所へ向かったと思われる。 曲 田 浩 和 氏 の 論 (4) 考 に よ れ ば、 江 戸 で 干 鰯 の 取 引 が 行 わ れ る 干 鰯 場(銚子場 ・ 江川場 ・ 永代場 ・ 元場)はすべて深川に集中しており、 天保期から嘉永期にかけては湯浅屋以外にも、多くの干鰯問屋がそ の深川へと移転している。同論考では湯浅屋と橋本・久住ら「仲間 三軒」が、天保五年の大火後に深川へ揃って移転したことを示す史 料 も 紹 介 さ れ て お り、 『 家 の 昔 か た り 』 の 記 述 が 裏 付 け ら れ る。 湯 浅屋と橋本 ・ 久住は干鰯問屋として同じ銚子場(江川場)組に属し、 天保期には「紀州・勢州領出稼六人」=紀州藩領から江戸へ出店し ている六軒の問屋の一員として行動を共にする様子も見 ら (5) れ 、経営 上近しい関係にあった。 あ わ せ て 曲 田 氏 は、 湯 浅 屋 が 明 和 九 年( 一 七 七 二 ) に 小 網 町 で 火事にあった際には深川で仮宅を持ったものの、また小網町へ戻っ た事例から、明和期には深川ではなく小網町を本拠とし続ける意味 があり、それが天保期には変化するのではないかと推測する。すな わち、 江戸干鰯問屋が新興流通勢力である内海船と密接につながり、 また他業種の兼業化も進む(湯浅屋は一八世紀以来米穀問屋も営ん だが、嘉永期以降は雑穀・荒物問屋も兼業している)といった状況 から、問屋が深川の取引場と結びつきを強め、積極的介入が必要と なった結果として、天保期以降に問屋自体が深川へ移転したと論じ るのである。 『 家 の 昔 か た り 』 に よ れ ば、 久 足 が 当 主 と な っ て い た 時 期 の「 佐 久間町火事」 (小泉祐次氏の翻刻文には 「文化十二己丑年」 とあるが、 原本によれば 文政十二年(一八二九)である。菱岡憲司氏のご教示 による)でも小網町の店が類焼しており、この時にも「深川に転宅 せ ん の 企 」 が あ っ た も の の、 「 浄 謙 居 士( 四 代 当 主 新 右 衛 門。 久 足 の 実 父 )」 が「 事 を つ ゝ ま や か に す る を き ら ひ、 大 き く と り ひ ろ ぐ る こ と を こ の ま れ し 人 」 で あ り、 「 江 戸 市 中 よ り し て、 江 戸 外 深 川 に う つ る こ と、 甚 不 承 知 」 で あ っ た た め、 移 転 が 頓 挫 し た と い う。 しかし、曲田氏の議論を参照するならば、四代当主個人の反対によ り諦めたというよりも、明和期と同様に、この頃には未だ深川移転 を行う条件が十分整っていなかったのではなかろうか。 いっぽう、 久足は同書中にあって、 四代当主の商人としての「器 量」 は認めており、 深川の 「銚子場」 (銚子 (千葉県銚子市) 周辺の村々 から集積された干鰯を主に扱った干鰯場)の蔵が類焼した際、富久 町の土地を購入することで現地での評判を回復した件を評価してい る。この場所が、天保期に湯浅屋の移転先となるのである。なお久 足 は「 商 人 は た ゞ 地 面 に ま さ る 宝 な し 」「 わ が 代 に 地 面 の あ ま た 出
来たること、実によろこぶにたへたり」とも述べるように、土地に 高い資産価値を見出し、その集積に努めていたようである。 ま た 湯 浅 屋 は、 地 元 松 坂 で は 紀 州 藩 か ら 扶 持 を 与 え ら れ て 御 用 を務めているが、東北諸藩とも経営上深く結びついていた。たとえ ば嘉永六年 (一八五三) には仙台藩による専売制度 (「御国産仕法」 ) のもとで江戸表元方問屋を勤め、安政四年(一八五七)の同藩によ る国産品専売の仕法でも中心的な役割を担って い (6) る 。さらに『家の 昔かたり』 には、 八戸藩と湯浅屋の関係は 「網方御とりあげにて国産」 ( 文 政 二 年 以 降 の「 御 国 政 御 主 法 替 」 に よ る 干 鰯・ 〆 粕 な ど の 国 産 品買上げ策のこ と (7) か ) となって以降は 「不都合」 な状態にあったが、 湯浅屋とともに同藩へ出入りしていた「栖原久次郎」 (先の「紀州 ・ 勢州領出稼六人」にも名を連ねる干鰯問屋)が没落して以降に良好 となった (「わがたゞ一軒の支配となり (中略) 六代め与右衛門 (久 足)代には、この御屋敷結構なる御得意となりぬ」 )とある。 と こ ろ で、 久 足 は『 陸 奥 日 記 』 の 旅 の 動 機 を「 松 島 の 景 す ゞ ろ にみまほしくなりしかば」としか語っていないが、湯浅屋にとって 重要な意味を持つ銚子周辺および東北地方の現状を自分の眼で見て 確かめようとする、商家の当主としての意識が働いていたことも想 定し得る。ただし久足の紀行文には商用に関する具体的な記述はほ と ん ど 見 ら れ ず、 『 陸 奥 日 記 』 で も 以 下 の ① ~ ③ し か な い。 そ の う ち銚子については経営上の関心があったことを率直に表明しており (①) 、当時の湯浅屋がこの地域と特に強い関係があったことが窺わ れる。 ①息栖神社(茨城県神栖市)の参拝を済ませた後、久足は「銚子あ た り の 光 景 も み ま ほ し く、 は た そ こ に は、 な り は ひ( 生 業 ) の ことにつきてしたしき家もあれば」といった理由で、 銚子の「盛 岡 屋 何 が し 」 の 家 を 訪 ね る。 こ の「 盛 岡 屋 」 は、 南 部 問 屋 の 盛 岡 屋 権 三 (8) 郎 で あ る。 銚 子 滞 在 中 に は、 こ れ も「 な り は ひ の こ と に つ き て ゆ か り あ る 家 々」 か ら、 鮮 魚( 「 か れ い・ あ ん こ な ど 」) の数々を贈られている。 ②仙台・国分町の旅籠屋である小畑屋(太兵衛)に久足が泊まった 際、 「なりはひのことにつきて、 すこしのゆかりある家」 である 「ま す や 何 が し 」 か ら 酒 肴 を 贈 ら れ て い る。 「 ま す や 何 が し 」 は、 仙 台藩の蔵元を務めた升屋平右衛門とも思われるが、確証がない。 ③ 帰 路 の 栃 木 宿( 栃 木 県 栃 木 市 ) で は、 「 わ れ と 主 従 の ち ぎ り 」 の ある 「釜屋新助」 という商人の家に一泊している。ここでは、 「な り は ひ の こ と に つ き て し た し き 家 」 で あ る「 河 内 屋 な に が し・ 釜屋なにがし」という商人もあわせて訪ねている。 二 一九世紀の旅行者としての小津久足 『 陸 奥 日 記 』 の 冒 頭 に、 「 も と よ り 青 雲 に は 心 も か け ず、 べ ち に も と め も な け れ ど、 た ゞ ひ と つ の も と め あ り。 そ の も と め と い ふ は、名山水をさぐるのくせにて」という一文がある。近世の中後期
に は、 「 山 水 之 癖 」「 山 川 癖 」「 丘 壑 之 癖 」 な ど と 称 さ れ る 人 び と が 出現していた。こうした人びとは旅と風景を愛好し、現地へ足を運 んで実際の風景を直に確かめるとともに、写実的な絵画や記録を遺 した。近世における旅行の隆盛の中で、自然に対する実証的な観察 眼と精神が次第に育まれたと言えるであ ろ (9) う 。久足もまた自らの性 向を「癖」として認め、その「癖」に促されるまま旅をくり返した 一人であった。 久 足 は、 『 陸 奥 日 記 』 の 旅 の 頃 に は 経 験 豊 富 な 旅 行 者 と な っ て い た。たとえば旅程についても事前に慎重な検討を行っており、江戸 か ら 奥 州 へ 向 か う に は「 日 光 の か た を か け て 」( 日 光 街 道 か ら 奥 州 街道を)行くのが「よのつねのみち」―一般的なルートとしながら も、出発時期が旧暦二月末であり、道中の降雪も懸念されることか ら、浜街道を選択している。浜街道が通る現在の福島県浜通り地方 は冬でも雪が少なく、比較的温暖である(暖流(黒潮)の影響など による)ことは当時から知られていた。 い っ ぽ う 当 時 の 旅 行 者 は、 現 地 の 人 び と に も 支 え ら れ な が ら 旅 をしていた。久足もまた各地の名所を訪ねるに際して、しばしば現 地で案内者を頼んだことが『陸奥日記』から読み取れる。銚子では 前出の盛岡屋が 「磯めぐり」 の案内を自ら買って出ており、 水戸 (茨 城 県 水 戸 市 ) で は 宿 屋 の 主 が 久 足 に 案 内 者 を 雇 う よ う 勧 め て い る。 旅行者が大勢集まる松島(宮城県松島町)以外でも案内者は存在し ており、久足は太田(茨城県常陸太田市)や桑折宿(福島県伊達郡 桑 折 町 )、 日 光 の 鉢 石 町( 栃 木 県 日 光 市 ) な ど で も 案 内 者 を 用 い て いる。 こ の う ち 太 田 で は「 案 内 銭 は 百 五 十 文 」 と 定 め ら れ て い た。 太 田や鉢石町では案内を 「なりはひのかたはし (本業以外の仕事) 」(鉢 石町)とする住民がいたが、それ以外にも久足は街道の茶屋や馬士 などから名所や地名・地理についての情報を得ている。さまざまな 職種の人びとが地元にあって旅行者を案内できるようになっていた のであり、ここから近世の地域社会に対する住民自身の認識の深ま りと広がりが見て取れる。 久 足 は 奥 州 へ の 旅 の 予 習 や、 帰 還 後 に『 陸 奥 日 記 』 を 執 筆 す る 参考として、数々の文献にもあたっていた。それらは文中や頭注で 引用され、巻末には松島についての紀行文の書名が約二〇篇列挙さ れている。まさしく参考文献一覧である。書籍文化の恩恵を存分に 享受したという点でも、久足は近世という時代の刻印を強く受けた 旅行者であった。 久足の読書経験と、旅先での史跡探訪との結びつきを窺うことが で き る 事 例 と し て、 『 陸 奥 日 記 』 か ら 多 賀 城 碑( 宮 城 県 多 賀 城 市 に あり、かつて歌枕「壺の碑」と同一視された)に関する二つの文章 を引用しよう。 ①「 す べ て こ の あ た り、 昔 の 多 賀 城 の 跡 に て( 中 略 )「 つ ぼ の い し ぶ み、 こ の 碑 の こ と に は あ ら ず。 こ は 多 賀 城 の 門 の 碑 な り 」 と い ふ 説 あ れ ど、 そ は な ま 学 者 の、 お の が 才 を う ら ん が た め
に「 考 」、 あ る は「 論 」 な ど ゝ こ と 〴 〵 し く 名 づ け て、 益 な き こ と を し る す の た ぐ ひ な れ ば、 い づ れ に て も あ り ぬ べ し。 ( 中 略 ) こ の 碑 は ひ と た び 土 中 に う も れ た り し を、 仙 台 の 城 主、 吉 村 の 君 の 時、 い た り ふ か き 御 み や び 心 よ り し て、 ほ り 得 さ せ給ひて、ふたゝび世にはいでたる也 。」 ②「 こ の あ た り に て は、 小 児 を「 わ ら し 」 と い ひ、 「 大 道 小 道 」 と い ふ こ と あ り て、 よ の つ ね に い ふ 三 十 六 丁 を「 大 道 一 里 」 と い ひ、 六 丁 を「 小 み ち 」 と い ふ に よ り て な れ ば、 今 の よ の 陸 奥 歌 と や い は ま し。 ( 中 略 ) 六 丁 を 一 里 と い ふ は、 古 風 な る ことにて、多賀城の碑文の道法にもかなへる は、をかし。 」 ① の 後 段 で、 久 足 は 仙 台 藩 五 代 藩 主 で あ る 伊 達 吉 村 の 時 期 に 碑 が発見されたとしている。しかし、享保十年(一七二五)の細井広 沢『観鵞百譚』では、これを四代藩主綱村の時期としており、文化 年 間( 一 八 〇 四 ~ 一 八 ) の 山 田 聯( 慥 斎 )「 多 賀 城 修 造 碑 面 考 」 で は「義公よつて捜索し得出する所なるべし」と、碑の発見を徳川光 圀の功績に帰 す )(1 ( る 。 こ う し た 伊 達 綱 村 や 徳 川 光 圀 が 登 場 す る 碑 の 発 見 伝 承 は、 光 圀 が綱村に碑の雙鉤(文字の輪郭だけを墨の線で写しとること)を要 請したこと (享保四年 (一七一九) の佐久間洞巌 『奥羽観蹟聞老志』 などに記録される)が、碑が発見された経緯として受け止められる 中で生じたようである。しかし久足は『陸奥日記』で光圀への深い 敬慕をたびたび表明しているにも関わらず、①では彼に全く言及し ていない。ここから、久足は光圀の登場する発見伝承自体に接して いない可能性が高い。 伊達吉村を発見者とする伝承は、 天明六年 (一七八六) 橘南谿 『東 遊記』後編や、享和元年(一八〇一)田宮仲宣『橘庵漫筆』などに 見 ら れ る。 こ の う ち『 東 遊 記 』 は、 『 陸 奥 日 記 』 巻 末 の 参 考 文 献 一 覧にも挙がっている。いっぽう、同じ一覧で『東遊記』と並ぶ紀徳 民『松島記行』 (細井平洲『遊松島記』か) 、半井通『松島記行』 (和 気 柳 斎( 半 井 行 蔵 )『 松 島 紀 行 』) 、 沢 元 愷( 平 沢 旭 山 )『 漫 遊 文 草 』 の「 奥 羽 暦 」( 「 游 奥 暦 」) な ど に は、 碑 の 発 見 者 の 情 報 は 記 さ れ て い な )(( ( い 。以上から、 久足は碑の発見についての知識を主に『東遊記』 によって得ていたと考えておきたい。 また②では、 「六丁を一里」 とするこの地域特有の距離の表現 (大 道一里が三六町、小道一里が六町)について、それは「多賀城の碑 文の道法」とも一致すると述べられている。碑に記された里程を六 町=一里として解釈する説は、新井白石『北海随筆』や、長久保赤 水 の 宝 暦 十 年( 一 七 六 〇 )『 東 奥 紀 行 』 な ど に 見 ら れ、 古 川 古 松 軒 の寛政元年 (一七八九) 『東遊雑記』 でも 「水戸赤水先生の考を聞しに」 と、 『 東 奥 紀 行 』 の 説 を 踏 ま え た 考 証 が な さ れ て い る。 久 足 は『 東 奥紀行』と『東遊雑記』をともに読んでおり、これらに示される里 程の解釈を受け入れていたのであろう。 た だ し、 赤 水 と 古 松 軒 は 多 賀 城 碑 と 壺 の 碑 を 別 物 と す る が、 久 足は否定的であり、 「こは多賀城の門の碑なり」と説く「なま学者」
を罵倒する (①) 。これついては、 まさに古松軒が 『東遊雑記』 で 「今 世にいふ壺の碑は、多賀城の門碑なり」と記している。 久 足 は 紀 行 文 中 で 貝 原 益 軒 と そ の 著 作 に し ば し ば 言 及 す る が、 『 陸 奥 日 記 』 に つ い て は 赤 水 の『 東 奥 紀 行 』 の 影 響 に も 注 目 す べ き であろう。たとえば「阿伽井が嶽」 (福島県いわき市平の閼伽井嶽) の「竜灯」については「長久保赤水が『東奥記行』にもいみじくか きて、図をもいたせれば」と、同書から知識を得たことを明言して いる。また松島にあっても、雄島について「墓碑、あるは俳人の碑 などならびたてり(中略)この碑(頼賢の碑)のみをのこして、外 は とりすてまほし 」と記すが、ここには『東奥紀行』の「傍に一小 碣あり、面に芭蕉の朝夕の句を刻む、好事の徒の為す所なり、其の 他 石 仏 碑 碣 仏 碑 率 堵 婆 の 類、 累 々 乎 と し て 相 列 る。 ( 中 略 ) 殺 風 景 に非ざるか、我若此国に当路せば車を下らずして 先づ之を一掃せん と 」(原漢文)という一文との関連性が見出 せ )(1 ( る 。 こうした赤水の 「雄島観」 は、 遠山景晋が文化二~三年 (一八〇五 ~六)の北方出張について著した『未曾有後記』 (「 赤水が言葉は理 り余り有 。 我はたゞ一掃のみならず 、墓碑造り戒名彫たる奴原をば 首 打 切 て 捨 ん づ 」) や、 文 政 十 年( 一 八 二 七 ) 小 宮 山 楓 軒『 浴 陸 奥 温泉記』 (「石仏戒名五輪塔俳諧碑オビタヾシク(中略) 赤水紀行ニ 是 ヲ 一 掃 セ ン コ ト ヲ 云 ヘ ル、 理 リ ナ リ 」) に も 影 響 を 与 え て い る。 書籍は知識の源泉となるが、読み手が実際の風景と接する時の印象 や感情を規格化もし得ることを、こうした事例は教えてくれる。 むすびにかえて 以 上、 本 稿 で は 小 津 久 足 の 商 人 ま た 旅 行 者・ 紀 行 文 作 家 と し て の 側 面 に 検 討 を 加 え た。 た だ し 久 足 自 身 は『 陸 奥 日 記 』 で、 「 か く 陸奥かけて心のまゝに旅立しつゝ、露宿風餐のわづらひなきも、は たなりはひのかげにして」と、自分がこれほど自由に旅行できるの は「 な り は ひ( 生 業 )」 ― 商 家 の 当 主 と い う 裕 福 な 境 遇 の お か げ と 認 識 し て い た。 ま た「 つ か へ あ る 人 は、 さ り が た き ゆ ゑ も あ れ ど、 商人の身にては、なりはひのひまをぬすまば、漫遊はこゝろのまゝ なるべし」と、主君に仕える武士と異なり、商人には「さりがたき ゆゑ」―移動を制約される理由が必ずしもなく、生業との折り合い 次第で旅行は思いのままとも述べている。 す な わ ち 久 足 自 身 は、 商 人 で あ る こ と と 旅 行 者 で あ る こ と は 密 接に関連しており、むしろ商人であるからこそ旅行者でもいられる と考えていたのである。久足の自己認識の基礎には、あくまで湯浅 屋与右衛門という商人であったことが置かれていたのであろう。 また久足は、近世の商人が文化的にどれほど豊かな存在であり得 たか、その可能性についても我々に示してくれている。彼は、彼自 身が愛した『近世畸人伝』の著者である伴蒿蹊―近江国の八幡(滋 賀県近江八幡市)に本拠を置く近江商人・扇屋伴荘右衛 門 )(1 ( 家 の五代
当主であった―などとも比肩する、近世社会が生んだ文芸の巨人の 一人であった。 注 (1)菱岡憲司『小津久足の文事』 (ぺりかん社、二〇一六) 。 ( 2) 青 柳 周 一「 天 保 期、 松 坂 商 人 に よ る 浜 街 道 の 旅 ― 小 津 久 足『 陸 奥 日 記 』 を め ぐ っ て 」( 平 川 新 編『 江 戸 時 代 の 政 治 と 地 域 社 会 二 地 域 社 会 と 文 化 』 清文堂、二〇一五) 。 (3) 『家の昔かたり』については、 小泉祐次「小津久足自筆稿本『小津氏系図』 と『 家 の 昔 か た り 』 に つ い て( 二 )」 (『 鈴 屋 学 会 報 』 五、 一 九 八 八 ) で の 翻 刻 を参照・引用した。 (4)曲田浩和「近世後期における問屋の深川移転について―材木 ・ 干鰯商を中 心に」 、『江東区文化財研究紀要』四、 一九九三) 。 ( 5) 湯 浅 屋・ 橋 本・ 久 住 の 関 係 は、 原 直 史『 日 本 近 世 の 地 域 と 流 通 』( 山 川 出 版社、 一九九六) 、 柚木学「天保期以降における菱垣廻船 ・ 樽廻船の動態」 (『経 済学論究』三〇―一、 一九七六)などを参照した。 (6)仙台市史編さん委員会編『仙台市史 通史編五(近世三) 』(二〇〇四) 。 ( 7) 菊 池 勇 夫「 文 政 天 保 期 に お け る 八 戸 藩 の 藩 政 改 革 と 農 民 闘 争 」( 『 史 苑 』 三六―一、 一九七五) 。 (8) 盛岡屋については、 斎藤善之 「近世における東廻り航路と銚子港町の変容」 (『国立歴史民俗博物館研究報告』一〇三、 二〇〇三)参照。 ( 9) 「 山 水 癖 」 に つ い て は、 内 山 淳 一「 風 景 美 へ の 憧 れ ― 記 録 と 絵 に み る 山 水 癖 」( 仙 台 市 博 物 館『 特 別 展 図 録 江 戸 の 旅 ― た ど る 道、 え が か れ る 風 景 』、 二〇一二)参照。 ( 10)以下、 多賀城碑の発見伝承と里程の解釈については、 安倍辰夫 ・ 平川南編 『多 賀城碑―その謎を解く[増補版] 』(雄山閣、一九九九)参照。 ( 11)本稿では、 早稲田大学図書館古典籍総合データベースおよび国立国会図書 館デジタルコレクションによって確認した。 ( 12)近世紀行文に見られる雄島の風景の記録については、 高橋陽一『近世旅行 史の研究―信仰・観光の旅と旅先地域・温泉』 (清文堂、二〇一六)参照。 ( 13)「 庄 右 衛 門 」 と も 表 記 さ れ る が、 本 稿 で は 近 江 八 幡 市 史 編 集 委 員 会 編『 近 江八幡の歴史 五 商人と商い』 (二〇一二)に従った。
[史料]
小
津
久
足『
陸
奥
日
記
』
凡
例
一、慶應義塾大学文学部古文書室所蔵本(二四〇 ・ 二三八 ・ 三)を底本とした。 一、通読の便を考慮して、適宜、句読点・濁点・括弧・改行・字下げを施した。 一、漢字は常用漢字を原則として通行の字体を用いた。 一、見消等の訂正箇所は、訂正後の文字のみを翻字した。 一、踊り字の「ゝ」 「ヽ」 「〳〵」は底本のままとしたが、漢字の後の「〃」 「〳〵」等は「々」に統 一した。 一、底本の付箋・頭注については、該当箇所の本文上欄に記した。その際、付箋文は(付箋)と明記 したのち「 」で示した。 一、本文に誤りが認められる場合も底本のままとし、当該文字右脇に( )を用いて注記した。 一、小字双行による割注は〔 〕を用いて示した。 一、虫損で判読不明の箇所は、およその文字数を□で示し、右脇に(ムシ)と注記した。 一、文中の地名にも原則として濁点を施したが、小津久足自身が濁点の有無を区別している可能性が ある箇所もある。そうした箇所については原表記に従い、濁点を施さなかった。陸
奥
日
記
巻
上
陸奥日記 巻上 身ををさめ家をとゝのふることは、わが得たるところならねど、おのづからにうけえたる幸は、あ やしきものにして、衣食住の三をかくことなければ、もとより青雲には心もかけず、べちにもとめも なけれど、たゞひとつのもとめあり。そのもとめといふは、名山水をさぐるのくせにて、年々にその 奇をもとめて、去年は熊野の滝よりかけて天の橋立の勝をきはめしも、これ、はたうけえたる清福と やいはん。されば「隴を得て蜀をのぞむ」てふことのごとく、松島の景すゞろにみまほしくなりしか ば、この春江戸に来たるついで、そのことおもひたちぬ。江戸にはなりはひのことにつきて来たるな れば、はるけき陸奥の旅も、道の半をことのついでにすませたるは幸の旅路なり。 時は天保十一年といふとしの二月のことにして、あひともなはん人のあるは、ことさまたげがちに て、もとより心にかなふ人もなければ、供のをのことうちつれて、廿七日の朝、深川なる、なりはひ の家を立いでんとす。 先は日光のかたをかけておもむくがよのつねのみちなれど、このころ余寒ことのほかにて、きのふ は雪さへふれゝば、中禅寺などは雪もふかゝらん、さらば、かへさにかよはん、とかねておもひし浜 街道のかたをこそ、とてそのかたに、きのふとみにおもひさだめぬ。けさもそのなごり、猶いさゝか 雪ふりつゝ空くもりたれば、 「けふは、 おもひとゞまりて、 天気よくなりて旅だゝんこそ、 よかんめれ」 と人はすゝむれど、けふはさてもありなむ、ながき旅路に雨露風雪の苦は、いづれのがれがたかるべ ければ、いでや、かばかりの雪に、くづをるべきかは、とてなりはひの家のまへより船にのりぬ。 はるかなるみちのおくにも時しありてゆけばゆかるゝものにぞありける (表紙見返し部分付箋) 「『集古十種』歌之事。 」
おもひたつ心ぞしるべみちのくもとほしとなにかわきていふべき ゆくさきとほき旅にいでたつことなれば、きのふまでは心もとなかりしも、一歩ふみいづれば、は やく千里のみちもいとはざる心とはなるものから、 さすが猶けさのこゝろぞたゞならぬ旅より旅にいづるわかれも 船のうちよりかへりみしがちなり。中川の御番所のまへは船人名のりすめり。土根川にいでゝ行徳 に船はてぬ。こゝは、はやく下総の国にて、川のむかひも、むかしは下総の国なりしを、今は新武蔵 といひて、葛飾郡は両国にわかれたり。こゝまでは、すぎし秋、国府台の古戦場より、真間の紅葉か けてみめぐりしをり、来たりしことありしが、国府台の松のむら立川上に見ゆるにつけては、そのを りのことおもひいでられて、なつかし。 そ の 行 徳 ま で 水 路 三 里 也。 こ ゝ ま で お く り に 来 し 人 々 あ り し か ば、 茶 屋 に て 酒 の ま せ て か へ し ぬ。 いそぐ旅路をさまたげつゝ、何のやくなき「おくり」てふことのあるも、あやなき世のならひ也。を り〳〵雪ちら〳〵とせしも、こゝにて天気よくなりぬるはよろこばし。 この宿を出はなるれば日光山はるかに見えて雪いとしろきに、こゝろのうらはまさしかりけり、と おもひつゝ、かはらしん 宿 ジユク ・とほかげなどいふ村々をすぎ、 八 ヤワタ 幡 宿にいたる。行徳より一里八丁とい ふ。こゝには名もしるく、左のかたに八幡御社おはしまし、鳥居・二王門などありておくふかくたゝ せ給ふ宮ゐのさま、よのつねならず。ところにあはせては大社なり。御本社と拝殿との間に、寛政五 年に地中よりほりいだせり、といふ鐘をおきたるが、元亨の年号ありて、銘の手跡、甚殊勝にめづら しきかね也。加藤千蔭が寛政六年にしるせる『うなかみ日記』に、このかねのことを「去年ほりいだ せり」とあるも、今ははやくむかしのことゝなりぬ。かゝる実事は、ものにしるしおかまほしきこと 村名ノカナハ、仮字ヅカ ヒニカヽハラズ、ソノト ナ ヘ ノ マ ヽ ニ シ ル セ リ。 コハソノトコロニイタリ テ人ニトフ □ (ムシ) キノタヨリ ヨカラン ガタメ也。
に て、 後 に そ の こ と し の ぶ く さ は ひ と な る も の ぞ か し。 鐘 楼 な る も お な じ つ ら に や、 と ゆ か し く て、 のぼり見れば、こはむげにちかきよのかね也。 も と の 鳥 居 を い で、 い さ ゝ か ゆ き た る 右 の か た に、 い か き つ く り め ぐ ら し た る 竹 む ら あ る は、 「 や わたのやわたしらず」とて、この竹村のうちに人のいることをゆるさず。里人もいることかたきによ りて、かく名づけたるなるよし。されば年々に竹村はおもひのまゝにしげりそひゆくさまなれど、な ほやぶの中はくまなくみえて、よのつねの竹村なるを、かく入がたきよしいふはいとあやしきことに て、 そ の ゆ ゑ よ し は 里 人 も し ら ざ る よ し。 昔、 水 戸 黄 門 光 圀 公 は い り た ま ひ し か ど、 「 こ の 後、 か な らず人 に (ママ) いることなかれ」とおほせられしよし、さと人いひつたへたり。さばかりいみじかりし名将 の、かくやくなきことなし給へり、といふは、まつたくそらごとにて、よにすぐれたる人には、かな らずかゝる妄説をいひつたへて、中々その人の名たてとなるためしあるたぐひなるべし。 さて、この宿より左のかたに入て、ふかまち村といふをすぎ、中山村といふにいたる。こゝには中 山寺てふ法華宗の寺ありて、そのはやしは右のかたにちかく見えたり。この中山むらのうち、左のか たの畑の中に名馬塚といふ塚ありて、松の木立のつかじるしなるも木立ものふりたり。こはむかし名 馬をうづみしつかなるよし。かの「駿馬の骨をば、かはずやありし」といひし人にみせなば、よろこ ぶべき古跡也。 そのつぎのむらは、右はかみ山新田、左は藤原新田といふ村なるよし。真菰沢といふ村をもすぐ。 夏はさぞひきわづらはんあやめ草こゝには真菰さはといふなり 鎌 カ マ ガ エ ヶ 谷 宿 に い た れ ば 八 幡 よ り 二 里 八 丁 と い ふ。 こ の 宿 を す ぎ 大 き な る か ね の 仏 た て る あ た り よ り、 ひろき野にいづるを、鎌ヶ谷野といふよし。小金が原のつゞきにて、かぎりなき平原なるが、山はひ 『古事談』 。
とつも見えざるに、たゞつくば山のひとつ見えたるさま、いとをかし。 やゝゆけば、野馬どもかずあまたあそびたはむるゝさま、めづらしきみものにて、画にかきたらむ がごとし。歌の題にては「春駒」をはやくよりたび〴〵よみしかど、この真景はしらざりしを、はじ めてこのさかひにいたりて、むかしよりさだまれる題の偽ならぬをしりぬ。 のどけしな心のまゝに草はみて霞をあさる野辺の春こま むれあそぶ駒にはまれて里の子がかる草やなき鎌ヶ谷の原 さしも紅塵しげき江戸も、かく半日あまりのみちをへだてきたれば、かゝるめづらしきさまをみる は、あやしきものにて、このこまを見ては、にはかに江戸のかた、とほくなれるこゝちす。この馬ど も、ひるはゆきゝの人をおそれがちにみゆれど、よるは狼をおそれて人なつかしげに街道ちかくいづ るよし。獣も、そのほど〳〵に心あるもの也けり。 この原ゆけど〳〵かぎりなく、あるは林の中などに入る。この野原には木立なくして、ゆきゝの人 どもの路うしなふことありしを、 「まよはせじ」 とて、 西山公の松をうゑさせたまへりしことの 『御行実』 にみえたるを、ふとおもひいでゝ、 あふぎ見よこの野ゆきかふ旅人は松よりしげき君がめぐみを 鎌ヶ谷より二里にちかく 白 シラ 井 エ 宿にいたる。けふは 木 キオロシ 下 までとおもひたるなれど、水路は水まさりて、 のぼり船おそく、陸路は泥なめらかにしてあゆみがたく、いづれもきのふの雪のなごり、道はかどら ず。こゝにて日もくれしかば、角屋なにがしといふものゝ宿にやどりぬ。あらましよりみちとほくあ ゆみしは、うれしきものなれど、かくのごとく、かねておもひし宿までえゆかざるは、甚心ゆかぬも のにて、たゞそのことのみ、くちをしくおぼゆ。こよひいとさむきに、はやゝよひもちかく、彼岸は 『 御 行 実 』 ハ 西 山 公 ノ 御 詩文ヲ集メタル『常山文 集』ノ附録ナリ。 「ヲ カ シ 」 ノ 仮 字、 本 居 □ (ムシ) ニ テ ハ「 ヲ 」 ト「 オ 」 ト意ヲタガヘテモチユレ ド、ワレハオモフヨシ □ (ムシ) リテ、 「ヲ」ヽノミ用ユ。
とくすぎたるに、雪のふれるもめづらしき年かな、 ゝ (な) どおもふにつけて、 この春はいづこに花をながめむと心のうらもかつまよひつゝ こたび具したる、とものをのこは、酒も煙草もこのまざれば、おのづから暇をつひやさず、道ゆく こともすみやかにて、あつらへつけたるやうなれど、宿につきてははなしがたきにもならず、たゞ心 のうちにてかゝることどもおもひつゞけて、ふしぬ。 廿八日。はやくも目は、たびなれけむ、暁とおぼしきほど、とくさめたるに、先とりあへず、天気 のほどいかならん、と戸をやるに、あか星の光くもらはしげなきは、天気よきしるし、といとうれし。 朝飯のまうけいそがしつゝ、あけはなるゝほど、宿りをいづるに、霜いとふかし。 春ながらあさしもさむみふむみちはしら井の里のしろたへにして 宿を出はなるれば、しゝばが原といふ曠野なり。こゝも一昨日の雪にて、きのふのみちのごとく泥 なめらかなるを、けさの寒に氷つきて、きのふよりは、こよなくやすし。この原にも馬おほきよしな れど、霜さむき朝、雨ふる時などは、林の陰にひそむよしにて、ひとつも見えず。 空にさへ野馬は見えぬさむさかなふるしもしろき春のあさあけ 茶屋あるあたりより左のちまたにわかれ、野すぢのみちつきたるところを、うらべといふ。そのう らべ村をすぎ、坂をすこしのぼれば手賀沼といふいと大きなる沼、左のかたにみえて湖のごとく、そ のむかひに筑波根のみゆるに、かたへは雪もかゝりて、いはんかたなきながめ也。 かめなり村といふにいたれば、右のかたの小山は貝がらばかりにて、つきあげたらんがごとし。さ と人は「このあたり昔、海なりしなごり也」といふ。桑田、海となりしためしは、かゝるをやいふな