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若き日のセーレン・キェルケゴール : 肖像画の物語

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Academic year: 2021

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(1)

著者

橋本 淳

雑誌名

時計台

83

ページ

12-16

発行年

2013-04-01

URL

http://hdl.handle.net/10236/10899

(2)

 セーレン・キェルケゴールの思想に対する関心が高まるに つれ、生前の姿はどのようであったか興味が募るのも、歴 史の自然な流れである。キェルケゴール自身は、どのような 画であれ像であれ、外形を残すことを望まなかった。自分 の著作は、ひとそれぞれが読み、理解し、咀嚼するのであっ て、もし何らかの外形が残されるとき、そこでの理解を限 定するようなことにならないかと憂慮したからである。だ からその時代になってようやく普及しだした写真機の前に、 たとえばアンデルセンの場合はしばしばであったが、その ように自分を置くことは一度もなかった。肖像画を願い出る こともなかった。ただ一度(正確には二度)、大学生の頃 (1838 年)、乞われて画家の前に座り自分を写させたことが ある。しかしそれ以上には当人が姿を見せなかったため、 鉛筆書きの素描のままで完成しなかった[図 1]。  しかしこの未完成の一枚が、画家自身の数々の業績をは るかに凌いで、測りがたい意義を負うこととなった。やが て迎える 2013 年 5 月 5 日は、キェルケゴール生誕後 200 年となる。これを記念して母国デンマークをはじめ各国に おいて記念プログラムが運んでいる。このときデンマーク・ キェルケゴール研究センターでは、2 種類のヘッダーを用意 した。一つはデンマーク国内用に、またこれと色違いの他 は国外用にあてている。そのいずれも、セーレン・キェル ケゴールがただ一度だけ画家クリスチャン・キェルケゴール に自分を写させた鉛筆画(正確には、最初のときの下絵に 基づきその後に試行された鉛筆画ポートレート[図 2])が イラストされる。  〔セーレン・キェルケゴールの外貌を伝える絵やイラスト については、デンマーク本国それ自体で混迷し、ときには <新発見>と称される類いまでも出まわる。ましてわが国 では事情が分からず無批判に、本国や海外諸国の混乱を そのままで受け取り、かえって誤解を増幅させている。そ の整理のためにも、本稿が必要かも知れない。〕  以下は、若き日のキェルケゴールを描くクリスチャン・キェ ルケゴールのポートレートを巡る、一つの物語である。

(1)

 ニールス・クリスチャン・キェルケゴール(Niels Christian Kierkegaard, 1806-1882)は、哲学者セーレン・キェルケゴー ルの 7 歳年上の従兄(正確には、又従兄)となる。彼は早 い時期から画業へ志し、道を順調に進み、王立美術アカ デミーを卒業後、海軍兵学校で美術教師となった。他方、 さまざまな機会に私立の美術学校でも教えたが、その教え 子の中には、今日デンマークの画家として知られるヴィルヘ ルム・ハーマースホイ(Vilhelm Hammershøi, 1864-1916) がいる。  

 

若き日のセーレン・キェルケゴール

肖像画の物語

関西学院大学名誉教授 

橋本 淳

[図 1]横顔ポートレート(鉛筆書き原画の写真複製品による CD コピー) <Det Nationalhistoriske Museum på Frederiksborg 所蔵 >

(3)

 セーレン・キェルケゴールは、コペンハーゲン大学神学 部の学生であった 1838 年、従兄クリスチャンから乞われて、 デッサンのモデルとなったことがある。場所は、コペンハー ゲンの近郊フレゼリクスベアーにあったミカエル家〔後述の ユリエ・トムセン夫人の実家〕の別邸であるように思われ る。そのところで、従兄弟・従姉妹たちがしばしば寄り集 まっていた。このときセーレンは二度、画家の前で座った が、それからは姿を見せなかった。そのため、横顔を描く このプロフイール・ポートレートは完成せず、鉛筆書きの下 絵のままで終わった[図 1]。絵には、画家自身の手で「1838 年 1 月 15 日」と日付が記入される。それからほぼ 2 年後、 1840 年の頃、これを基にして正面からの顔を想像し一枚 のポートレートが仕上げられた[図 2]。これは、モデルを 前にしてではなく、以前の素描を基に、常々なじんでいる日 常の姿を重ね、画家自身が想像して描いた鉛筆書きである。 これも、そのまま未完成で終わった。  それから年月が流れ 40 余年後のこと、画家クリスチャン は、自分たちキェルケゴール家の縁者たちを描いた絵を集 めて一冊のアルバムへ仕上げ、従妹のユリエ・トムセン夫人 (旧姓キェルケゴール)に贈りたいと思い立った。アルバム の表題は、『思い出の花束。ユリエ・トムセン夫人に贈る。 1848 年から 18―年まで』。最後が 18 -年となるのは、彼 が旅先で客死した最後の年(未婚)、1882 年に描いた絵も 入っていて、おそらくはその後に描く作品をもまた所収した いと願っていたのであろう。画集『思い出の花束』は、画 家の遺志の通り、ユリエ・トムセン夫人の手に渡された。  『思い出の花束』には、ユリエ夫人自身のポートレートを はじめ、その子どもたちや縁戚の者たちの姿が描かれる。 その中に、若き日のキェルケゴールを伝える二枚の鉛筆画 ([図 1]・[図 2])も含まれていた。当時すでに晩年を迎え ていた夫人は、このときよりも 27 年以前に逝った哲学者の 青春をあらためて偲び、どのような思いを抱いただろうか。  ユリエ・トムセン夫人は、哲学者セーレンの三歳年上の 従姉となる。(先の画家クリスチャンは、ユリエの四歳上の 従兄、セーレンからすれば七歳年上となる)。セーレンの父 ミカエルとユリエの父ミカエルは、ともに西ユランのセディ ング村からコペンハーゲンへ出て、同じように絹織物を扱 う商人として成功した。二つのミカエル家の家族は、たが いに親しみ、子どもたちは本来は<又いとこ>の間柄であっ たが、互いを<いとこ>と呼びあって睦んだ。ユリエが 25 歳のとき、1830 年〔セーレンが大学に入学した年〕11 月、 近衛の連隊長トムセンと結婚し、トムセン夫人となった。 その 10 年後、夫を失くし、5 人の子どもたちを抱え未亡人 となった。  ユリエ・アウグスタ・トムセン夫人は、いとこたちの中で も、セーレン・キェルケゴールとの関係で特別な場を持って いる。ユリエの弟 ― 生まれながら半身が不随のハンス・ ペーターに対して、セーレンが温かな心遣いを寄せていた ことはよく知られる。今日、セーレンから送られたユリエ・ トムセン夫人あての三通の手紙が残されている。手紙を通 じて、「親愛なる従姉ユリエ」と「従弟セーレン」との間で、 細やかな親愛の情が流れていたことを十分と伺わせる。知 性と教養に富み、聡明な三歳上の従姉は、孤独な哲学者 の優しい理解者であったであろう。だからして、早々に逝っ た従弟セーレンを悼み、遺された手紙を大切に扱い、死ぬ 日まで持ち続けたのでもあろう。  画家クリスチャン・キェルケゴールの遺品として先のアル バム『思い出の花束』が届けられたとき 、トムセン夫人は 70 歳をこえていた、そして 2 年後に逝去する。人生の晩年 になって図らずも手にした遺品の画集の中で、若き日のキェ ルケゴールの面影に接し、どのような感慨がおそっただろ うか。  (なおも謎が残る。このときの画集アルバムの表題は、 「1848 年から18 -年まで・・・」となっている。それにも かかわらず、表題に記される年代以前に描かれた二枚のキェ ルケゴール・ポートレート―最初は「1838 年 1 月 15 日」と 日付が入り、他はそのあと1840 年頃の作品と思われる―が、 どのような事情から一緒におさめられたのか、分からない。)

(2)

 クリスチャンが描く二枚のスケッチは、当のキェルケゴー ルの生存中は世に出ることなく、それを描いた画家自身の ほかでも殆ど知られなかった。

(4)

  キェルケゴールの姪 ヘンリエッテ・ルン(Henriette Lund) は、亡き姉ペトレアの娘である。姉ペトレアは、末 弟セーレンを可愛がった。そしてセーレンも又、親しくした 姉の遺児ヘンリエッテを可愛がった。ヘンリエッテは叔父 セーレンを敬愛し、のちには美しい思い出を、自身の著『家 庭の思い出』(1909 年)の中で書き残した。ヘンリエッテ は、いつの頃からかどのようにしてか不明ながら、クリスチャ ンが素描した鉛筆画のコピーを所持していた。それだけに、 かつてコペンハーゲンの新聞コルサー紙がセーレン・キェ ルケゴールに噛み付いたとき、紙上で描き嘲ったカリカチュ アが世間一般で知られるキェルケゴール・イメージであるこ とを憂い、クリスチャンの描く優雅な面差しを胸に他日を期 していた。  そのようなとき、1876 年 12 月 3 日発行の週刊誌『画報 通信』(Illustreret Tidende)897 号で、カリカチュアとし てしか受けとれないようなキェルケゴール・ポートレートが、 突然に掲載された。ヘンリエッテと同じルン家の一員トレル ス・ルンは後年に歴史家として名をなしたが、セーレン・キェ ルケゴールを等しく尊敬していた。だから二人はここで共感 し、編集長あてに直接、クリスチャンの鉛筆画コピーを送っ た。12 月 17 日発行の『画報通信』899 号でその版画(横 顔を描くプロフイール[図 1])が紹介された。クリスチャン による鉛筆書きのキェルケゴール・ポートレートが、デンマー クの新聞・雑誌で現れた最初である。〔関西学院大学図書 館は、『画報通信』の創刊号(1859 年)から 1913 年まで 54 年間の全部を所蔵する〕。このとき誌上では、版画とと もに L.(おそらくトレルス・ルンの略称)の署名で、短い解 説が載せられ、先の<カリカチュア>を批判し、もともと 家族の間で所有されていた今回の画をあえて掲載する理由 について述べ、「これこそが明らかに唯一のキェルケゴール・ ポートレートである」、と記す。  クリスチャン・キェルケゴールが描きその手許にあると思 われるオリジナル画の公開は、かねて要望されていた。ま すます世間の声が高まり、画家クリスチャンは、すでにこ の前年の 1875 年 1 月 30 日付で、セーレン・キェルケゴー ルの 7 人の兄姉たちのうち、今はただ一人の生存者、長兄 ペーター・キェルケゴール牧師(オルボー区監督)にあてて 手紙を書いている。世間からの要請が重圧となり、公表に 応じてよいのかどうか。画家としては、二つのいずれもが 未完成なため躊躇されること、またセーレン・キェルケゴー ル自身が公開を望んでおらず、だから 2 回だけは自分の前 に座ったものの、その後は現れなかったことを告げ、遺族 のペーター監督から「適切な助言」が与えられるよう求めた。 これに対してペーターは返信を寄せ、亡き弟セーレンは画に しても像にしても自分の姿をあとに残すことを決して望まな かった旨を記し、けれどもセーレン・キェルケゴールの意図 やその理解のために何かの外形を人が必要とすれば、あ えてそれまでも自分は拒まないし妨害もしないと、書き添え る。兄ペーターは、デンマーク国教会牧師・監督職にある 自身の立場から、教会批判者であった亡弟の問題との間に 距離をおき、遠まわしながら事態を静観し、画家クリスチャ ンに対してはいずれとも直答していない。ペーター監督の 慎重で、けれども消極的なこの姿勢が、ヘンリエッテやト レルスたちには不満で、批判もしたであろう。だから兄ペー ターの許諾をとらず直接に編集者あて、先のキェルケゴー ル・ポートレートの複製品が送られたと思われる。これに 続き、同じく画家クリスチャンの手になる他方のもの、ポー トレート・正面画[図 2]もまた、のちには公開されている。  オリジナルの鉛筆画は、画家がかねて用意していたア ルバム『思い出の花束』におさめられ、1882 年の彼の死 後、その遺志にそってユリエ・トムセン夫人に渡った。夫 [図 2]正面図(鉛筆書き原画の版画) < 筆者私蔵品 >

(5)

人の死後も家族の間で大切に保存され、世間へ出ることは なく、その中におさまるキェルケゴール・ポートレートに近 づくことが困難であった。一度だけアルバムは、フレゼリ クスボー城歴史博物館へ送られたことがある。家族の関係 者が、博物館の職員であったからであろう。このとき、写 真による複製コピーがとられている。今日、フレゼリクスボー 城歴史博物館が所有する品は、オリジナルから直接にとら れた写真コピーである。〔関西学院大学図書館で公開した 展示品は、同博物館から提供された CD によっている[図 1] 参照〕。  他方、デンマーク王立図書館は今日、クリスチャンが描 いた二枚の鉛筆画をホームページで公開している。「横顔」 を描く最初の絵は、図書館の記録で 1919 年に寄贈された とされるが、オリジナルからのものかどうか分からない。も う一方の「正面画」は、オリジナルに近い複製コピーと思 われる。  デンマークの彫刻家 R・マグヌッセンは、キェルケゴール 著作の愛好者であり、生前のキェルケゴールの姿を求めて、 同時代人の証言、デッサン、画などを仔細に究明し、実像 に迫ろうとした。その労作が、『外から見られたセーレン・キェ ルケゴール』(1942 年刊、関西学院大学図書館蔵)である。 ここでマグヌッセンは、トムセン家の好意を得て、先述のア ルバムをも調査している。そして自著の中に、クリスチャン の二枚のオリジナル画から写真コピーを所載した。  1955 年 11 月 11 日、セーレン・キェルケゴール没後 100 年を記念して、デンマーク王立図書館では資料・図書等の 特別展を催し、展示目録を作成した。このときの『セーレン・ キェルケゴール没後百年記念・展示目録』の口絵に、クリ スチャン・キェルケゴールの二番目の鉛筆画「正面画 -1840 年頃」を載せている。その折もなお私蔵物である先のアル バムは公開されなかったものの、当時の所有者の氏名が明 記されている。  その後、これら二枚の鉛筆画は、コピーからコピーへ、 版画から版画へ、さまざまなルートで、さまざまな仕様で、 流布した。オリジナル画は、「横顔」のものあるいはその 後の「正面画」にしても、その二枚ともに鉛筆書きのよわ よわしい素描である。それが版画あるいは写真コピーにな ると、当然ながら線が強まり輪郭が浮き出ることになる。〔今 日、コペンハーゲン市博物館で市販される「横顔」の絵葉 書は、先のアルバムに所収される「横顔」のオリジナル作 品と、顔の向きが左右に入れ違い、仕様も異なっている。 これは、1955 年 12 月 27 日発行の新聞「ベアリングスケ・ ティダネ」紙で<新発見>として紹介されたものであるが、 果たしてクリスチャン・キェルケゴールの手による第三番目 の作品かどうか、あるいは先立つコピーからの新たな加工 品かどうか、分からない。しかし絵葉書となり、彩色され、 市販されている。〕

(3)

 私の手許に、クリスチャン・キェルケゴールが描いた「正 面画」の版画がある[図 2]。それは、初めてデンマークを 訪れた 1969 年に、コペンハーゲンの古美術店でたまたま 購入した品である。当時のコペンハーゲンは、当然ながら 今日の国際観光都市コペンハーゲンの賑わいと異なり、未 だしも牧歌的で、ネアゲーゼのむかしながらの狭い通りを 市電が走っていた。その折、遠い記憶では中央郵便局に 近い古美術店のショーウインドの片隅でつつましく置かれ る絵を、偶然に見かけた。当時の私に、キェルケゴールの 肖像画に関する知見など乏しく、果たしてこれが適切かど うか判断しかねた。さほどもデンマーク語会話能力とてな く、メモ書きして Søren Kierkegaard と記し、是非を尋ね たところ、年配の主人は頷いて、はっきりとJa! と答えたので、 購入する決心をつけた。価格は 40 クローネで、当時の私 には少々高い買い物であったが、もうこのような僥倖が巡 るとも考えられず、思いきって手に入れた。それでもなお疑 念は尽きず、私室の本棚の片隅に置いたままでいた。処が、 2013 年を記念するヘッドマークにイラストされて、デンマー ク・キェルケゴール研究センターが公認している! それで ようやく安堵し、あらためて手許の版画を眺めてみた。  たしかに、クリスチャン・キェルケゴールが描いた二枚の 「若き日のセーレン・キェルケゴール」のうち、二番目(1840 年頃)の版画である。それは、当初の鉛筆書きのまま完

(6)

は中国の外交・安全保障政策を研究しています。現代中国政治を研究する者にとって、日々発行される現地の新聞・ 雑誌のフォローは不可欠です。その中でも基本作業に位置づけられるのは中国の代表的な新聞「人民日報」を読む ことです。「人民日報」はひとくちに新聞といっても、我々がいつも読んでいるような新聞とはかなり違います。あえて日本で 例えれば、政府の「官報」、あるいは日本共産党の機関紙「赤旗」といえばすこしイメージがわくでしょうか。そうです、「人 民日報」は中国共産党の機関紙なのです。事実上、一党独裁の政治体制にある中国では、政府も中国共産党と一体と考え られるので、日々の中国政府の活動は、「人民日報」を通して最も公式に伝えられ、また、オフィシャルな記録として残されます。  かつて、冷戦たけなわのころ、ソ連政治の研究者は社会主義ソ連の総本山クレムリンになぞらえ「クレムリノロジスト」と 呼ばれました。閉鎖的な政治体制の内側をウォッチする彼らは、政府公式発表や公開写真におけるほんの少しの変化などか ら、そのぶ厚い「赤い」壁の向こうで起きている重大な政治変化を読み取るのが主な仕事でした。今日の中国は、市場経 済が定着し、多くの商業ベースの新聞・雑誌が出回り、また、インターネットも普及しています。しかし、中国政治の一番大 事な部分を理解しようとする際には、引き続きかつての「クレムリノロジスト」と同じような手法は必要です。  なぜなら、一番大事な政治の情報は未だ党・政府によってしっかり管理され、そのプロセスを経た上で「人民日報」紙上 に表現されるからです。ということは、そこに何が書かれているかはもちろん大切ではあるものの、しばしば、もっと重要なのは、 そこに何が書かれていないのかということであったりします。さすがに今日、共産党のプロパガンダといえども、まったくのウ ソを平気で書くようなことはまずありません。しかし、ある事象についての一側面のみを報道することによって、それがあたか もすべての事実であるがごとく表現してみせたり、また、はなはだしきは、海外では自明の事実を全く無視して報道しないといっ たようなこともしばしば起きます。そこに特定の事象や問題に対する中国政府の見方や政治的姿勢が窺われるのです。  今般、「人民日報」データベースが利用できるようになり、おかげさまで、中国政府の公式活動の確認作業などに頻繁に 活用しています。しかし、記事を「普通に」読むことはあまりありません。むしろ、ある事象が中国でどのように報道されて いるのかを理解するために、もっと皮肉なことには、ある事実が書かれていないことを確認するために紙面をチェックするこ との方が多いのです。かくして「人民日報」の行間を読む作業は日々続きます。 人民日報 People's Daily は、中国でもっとも権威の ある新聞「人民日報」の記事を検索・閲覧できるデー タベースです。1946 年から今までのあらゆるデータを 収録しており、毎週更新されます。記事に関しては、 テキストフォーマットと原版様式を提供しています。

「人民日報」の行間を読む

総合政策学部准教授

井上 一郎

人民日報 People's Daily とは

こんな風につかってます

私の電子情報活用事例

vol.

2

̶

現代中国研究と「人民日報 (People’

s Daily)」

      データベースの利用

̶

成せず、後になって他の肖像画と一緒に集められ、画家の 死後、その遺志にそってユリエ・トムセン夫人へと届けられ た一つである。手許の版画が、いつの時期に又どこでどの ようにして作成されたか、分からない。版画では、瞳の奥 でかすかに見えるごく小さい白い部分までも精確に描かれ る。オリジナルに近いこれほどの逸品が市場に出ることは、 稀なことと思われる。ましてこれが、デンマークを遠く離れ た極東の島国に存在すること自体、デンマークの関係者か らすれば、驚きであるに違いない。  クリスチャンが描いた原画は、今日もなおトムセン家に伝 えられ、私蔵物である。が、先に言及した王立図書館刊 行の『没後百年記念・展示目録』には原画のサイズが明記 される。私が所有する版画は、それとほぼ同寸である。オ リジナルのサイズを意識して仕上げられたものであること を、明確に証している。丁寧な装丁がほどこされ、裏側に 小さい留め金が付く。思うに、セーレン・キェルケゴールを 愛好する者が所持して、私室の壁にそっと留めていたので なかったか。  絵は、末弟セーレンを可愛がった姉ペトレアの憂愁な面 影が宿るといわれる。絵の中で最も特徴的な点は、その 瞳である。オリジナルは、それを描いた画家自身が「不完 全なもの・・・」と述べる鉛筆書きの素描でしかない。また、 私が所有する版画もまたオリジナルからの複製品でしかな く、着色されないでいる。それでいて瞳は、深く澄んで煌 いている!セーレン・キェルケゴールの思い出を語る多くの 人々は、その瞳が印象的であったことを伝えている――深 く澄んだブルーの瞳の輝きを・・・。  もしこの素描が、画家自身も述べるように、1840 年頃の ものとすれば、大学を卒業した年である。入学して 10 年 をかけ、ようやく突破できた人生の戦いのあとである。そ してまもない 9 月には、憧れのレギーネと婚約する! しか しこれも 13 ヶ月後、次の秋には破棄され、その人生と思 想が大きく暗転する。もしここにある正面画が 1840 年頃 の面影を伝えるとすれば、人生の難路を抜け大学を卒え、 青春が花咲くころでもあろう。今、眩いばかり人生は前に 大きく開け、夢と希望が未だしも弾んでいる! そうと思え ば、たしかにここでの瞳の輝きは、はるかな夢をのせて煌き、 澄んでいる。けれども、すぐまもなく人生が崩れ、孤独な 単独者の道をたどり、「例外者」「真理の殉教者」となる ―その儚い行方を、だれが思うだろうか。  あらためて私蔵の版画を見つめながら、思うことは―は じめてデンマークを訪れたときのこと、その後くりかえし訪 ねたデンマークの思い出、その数々がいまさらによみがえ る。そして、そのようにセーレン・キェルケゴールの研究へ と囚われた、私のただ一つの人生を思う。 「人は、ただ一度しか生きない・・・」― キェルケゴール の数々の言葉の中から、わが人生のモットーとしてつねづね 身辺で噛みしめる語句が、こだましてならない、― 「人は、 ただ一度しか生きない・・・」、そしてこれが私の、ただ 一つの人生であった、と。 【参考文献】

・Rikard Magnussen, Søren Kierkegaard set udefra, København 1942.[神学部図書室 193.7:113]。

〔『外から見られたセーレン・キェルケゴール』〕。

・Børge Hjerl-Hansen, Kierkegaardske Kontrafei-fund og Klenodier, København 1956.

〔『キェルケゴールの似顔・発見・遺品』―この書には、伝えられるキェ ルケゴール・ポートレートが並べられ、それぞれの真贋について検証 される〕。

・Mindeudstilling, Søren Kierkegaard, 1855.11. November 1955, Det Kongelige Bibliotek, København 1955.

〔『キェルケゴール没後百年記念・展示目録』〕。

・Frithiof Brandt, Syv Kierkegaard Studier, København 1962. 〔大谷長訳『七つのキェルケゴール研究』東海大学出版会 , 1981 年[上 ケ原 B1 193.7:51.2]-この訳書の中で訳者が載せるポートレート(正 面画)は、英語圏内にキェルケゴールを紹介する上で最大の功労者 W. Lowrie, Kierkegaard, 1938 から採られている〕。 ・Illustreret Tidende. nr.897(3.12.1876), nr.899(7.12.1876).[上ケ 原雑誌]。〔週刊の『画報通信』〕。

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