印度學佛敎學硏究第六十六巻第二号 平成三〇年三月 五五
﹃般若波羅蜜多心経幽賛﹄
における
﹁空﹂
の解釈について
吉
村
誠
はじめに
﹃般 若 波 羅 蜜 多 心 経﹄ ︵以 下、 ﹃心 経﹄ と 略 称 す る︶ は、 玄 奘 ︵六 〇 二 ︱ 六 六 四︶ に よ っ て 貞 観 二 三 年 ︵六 四 九︶ に 翻 訳 さ れ た。 こ れ に 対 し、 高 弟 の 慈 恩 大 師・ 基 ︵六 三 二 ︱ 六 八 二︶ は、 そ の 注 釈 書﹃般 若 波 羅 蜜 多 心 経 幽 賛 ﹄ ︵以 下 、﹃幽 賛﹄ と 略 称 す る︶ 二 巻 を 述 し た。 述 年 代 は、 龍 朔 三 年 ︵六 六 三︶ か ら 永 淳 元 年 ︵六 八 二︶ の 間 と 推 定 さ れ る。 ﹃幽 賛﹄ は、 ﹃心 経﹄ の最古の注釈の一つであり、後世の注釈に大きな影響を与え ることになっ た 1 。 にもかかわらず、今日では﹃心経﹄の解釈で﹃幽賛﹄が参 照 さ れ る こ と は ほ と ん ど な く、 そ の 研 究 も き わ め て 少 な い 2 。 そこで、本稿では﹃幽賛﹄の構成とその﹁空﹂の解釈を概観 し、 ﹃幽賛﹄ の特徴の一端を明らかにすることにしたい。一
﹃幽賛﹄
の構成
はじめに﹃幽賛﹄の構成を概観す る 3 。先ず造論の趣旨が述 べられ、題号が解説される。次に随文解釈に入る。そこでは ﹁勝空者﹂と﹁如応者﹂の解釈が二三箇所で併記されている。 基本的には前者は中観派、後者は瑜伽行派の解釈を示すもの と言えるだろう。すべての箇所で勝空者・如応者の順に解釈 が 示 さ れ、 多 く の 箇 所 で 前 者 が 後 者 に よ っ て 批 判 さ れ て い る。これが第一の特徴である。 如 応 者 の 解 釈 に よ れ ば、 ﹃心 経﹄ は Ⅰ 観 自 在 菩 ∼ 度 一 切 苦厄、Ⅱ舎利子∼以無所得故、Ⅲ菩提埵∼菩提莎訶に三分 さ れ る と い う。 こ の う ち Ⅰ に 対 す る 注 釈 の 分 量 が 最 も 多 い。 特 に﹁行 深 般 若 波 羅 蜜 多 時﹂ に 対 す る 如 応 者 の 注 釈 は、 ﹃幽 賛﹄全体の半分以上を占めており、そこでは﹃成唯識論﹄と ﹃瑜 伽 師 地 論﹄ に 基 づ い て 唯 識 の 修 行 が 詳 細 に 述 べ ら れ て い る。これが第二の特徴である。五六 ﹃般若波羅蜜多心経幽賛﹄における﹁空﹂の解釈について︵吉 村︶ ﹃心経﹄の﹁空﹂に対する注釈は、Ⅱを中心として﹃幽賛﹄ 全体に見ることができる。その解釈は唯識思想、特に三性三 無性説によってなされている。これは唯識学派の著作であれ ば当然のことである。しかし、この唯識思想による﹁空﹂の 解釈が、修行を支える重要な理論となっていることが、第三 の 特 徴 で あ る と 考 え ら れ る。 以 下、 ﹃幽 賛﹄ の﹁空﹂ の 解 釈 を考察し、 そのことを論証する。
二
三転法輪説による非有非空中道の立場
先 ず 冒 頭 の 造 論 の 趣 旨 で は、 ﹃幽 賛﹄ が 瑜 伽 行 派 の 三 転 法 輪説に基づいて、非有非空中道を立場とすることが述べられ ている。 賛 曰。 今 為 有 情 結 習 所 、 敬 受 邪 教 毀 大 乗。 於 空 有 経 如 言 計 著、 随 印 所 解 互 生 厭 希。 ⋮ 中 略 ⋮ 如﹃解 深 密 経﹄ 中、 仏 依 遍 計 所 執 説、 一 切 法 皆 無 自 性、 無 生 無 滅 本 来 涅 槃、 相 生 勝 義 三 無 性 已。 ⋮ 中 略 ⋮ ① 仏 涅 槃 後、 因 彼 大 天、 人 法 糺 紛 初 封 著 有。 ⋮ 中 略 ⋮ ② 聖 龍 猛 等、 為 除 有 執、 採 集 真 教、 究 暢 空 宗。 ⋮ 中 略 ⋮ 有 情 由 是 次 生 空 見。 ③ 無 著 菩 、 復 請 慈 尊、 説 中 道 教 双 除 二 執。 ⋮ 中 略 ⋮ 観 斯 聖 意、 空 有 無 乖。法離智、何空、何有。対機遣病、仮説有 空 4 。 す な わ ち、 有 情 は 煩 悩 に わ れ、 空・ 有 の 経 文 に 執 し て 争 っ て い る。 し か し、 ﹃解 深 密 経﹄ に よ れ ば、 仏 は 三 性 三 無 性を説き、三転法輪を示された。三転法輪とは、初時には唯 だ声聞乗のために四諦が説かれたが未了義であった。次に第 二時には唯だ大乗のために無自性が説かれたがこれも未了義 であった。そこで第三時に普く一切乗のために無自性性が説 かれ、これこそが了義であった、というものであ る 5 。仏滅後 にも、①先ず、大天により人・法の解釈が紛糾して有執が生 じた。②次に、龍猛は有執を除こうとして空の教えを弘めた が、こんどは空執が生じた。③そこで、無著は有執と空執の 双 方 を 除 こ う と し て、 非 空 非 有 中 道 の 教 え を 弘 め た、 と い う。 こ の よ う に 基 は、 ﹃解 深 密 経﹄ の 三 転 法 輪 説 を 仏 滅 後 の 歴 史にあてはめ、空・有は乖離するものではなく、非有非空中 道とみるべきであると主張している。非有非空中道の立場を 取 る こ と は、 ﹃幽 賛﹄ に お け る﹁空﹂ の 解 釈 の 基 調 と な っ て いる。三
三性説による
﹁空﹂
の解釈
次 に﹃心 経﹄ で 最 初 に﹁空﹂ が 出 て く る﹁照 見 五 蘊 等 皆 空﹂に対する注釈を検討する。ここには空を三性三無性で解 釈すべきことが明示されている。 ① 此 中 空 言 即 三 無 性。 謂 計 所 執、 本 体 非 有、 相 無 自 性。 所 以 称 空。 諸 依 他 起、 色 如 聚 沫、 受 喩 浮 泡、 想 同 陽 焔、 行 類 芭 蕉、 識 猶 幻 事、 無 如 所 執 自 然 生 性。 故 亦 名 空。 円 成 実 性、 因 観 所 執 空 無 方 証。 或 無五七 ﹃般若波羅蜜多心経幽賛﹄における﹁空﹂の解釈について︵吉 村︶ 如彼所執真性。故真勝義亦名為空。 ② 拠 実 三 性、 非 空、 非 不 空。 対 破 有 執 総 密 説 空、 非 後 二 性 都 無 名 空。 説﹁一 切 空﹂ 是 仏 密 意。 於 有 及 無 総 説 空 故。 如 世 尊 説。 ﹁相 生 勝義無自性、如是我皆已顕示。若不知仏此密意、失壊正道不能往﹂ 。 ③ 又 此 空 者 即 真 如 理。 性 非 空 有、 因 空 所 顕、 遮 執 為 有。 故 仮 名 空。 愚 夫 不 知、 執 五 蘊 等 定 離 真 有、 起 相 分 別。 今 推 帰 本、 体 即 真 如。 事 離 於 理、 無 別 性 故。 由 此 経 言。 ﹁一 切 有 情 皆 如 来 蔵﹂ 、﹁一 切 法 等 皆 即真如﹂ 。説有相事則無相空、令諸有情断諸相 縛 6 。 三性三無性による ﹁空﹂ の解釈には三つある。 ①﹁空﹂とは三無性である。すなわち遍計所執性は妄想さ れたものであるから相無性であり、依他起性は縁起したもの であるから生無性であり、円成実性は真如であるから勝義無 性であるという。これは、三性はいずれも無自性・空である という、最も基本的な解釈である。 ②実には三性は、空でもなく不空でもない。①は有執を除 く た め の 密 意 の 説 で あ り、 実 に は 遍 計 所 執 性 は 無 で あ る が、 依 他 起 性 と 円 成 実 性 は 全 く の 無 で は な い と い う 解 釈 で あ る。 これは、遍計所執性と依他起性の染分は仮有であるが、依他 起 性 の 浄 分 と 円 成 実 性 は 実 有 で あ る と い う、 ﹃成 唯 識 論﹄ の 説に基づくものであ る 7 。 ③﹁空﹂ と は 真 如 の 理 で あ る。 す な わ ち 五 蘊 の 法 体 は 真 如・ 空 性 で あ る と い う 解 釈 で あ る。 ﹃成 唯 識 論﹄ で は、 依 他 起 性 ︵縁 起︶ と 円 成 実 性 ︵真 如︶ は 不 即 不 離 で あ り、 法 と 法 性、空と空性、事と理の関係にあると説 く 8 。したがって、こ こでは﹁空﹂を空性、すなわち円成実性とみなしているので ある。 ま た、 ③ で は、 ﹃大 般 若 経﹄ の﹁一 切 有 情 は 皆 な 如 来 蔵 な り﹂や﹁一切法等は皆な即ち真如なり﹂という経文も、この 事 と 理 の 関 係 を 述 べ て い る と い う。 す な わ ち、 有 情 と 如 来 蔵、諸法と真如は、そのまま同じというわけではなく、有相 の 事 ︵色︶ と 無 相 の 空 ︵理︶ の 関 係 に あ り、 違 い も あ る と い うのである。 こ の よ う に、 ﹃幽 賛﹄ で は﹁空﹂ を ① 三 無 性、 ② 遍 計 所 執 性 の 無、 ③ 空 性 ︵円 成 実 性︶ の 三 つ に 解 釈 す る。 三 つ の 解 釈 は、それぞれ内容が異なるが、いずれも非有非空中道の立場 を取るものと言えるだろう。
四
勝空者と如応者の
﹁空﹂
の解釈
次に﹁色不異空、空不異色、色即是空、空即是色﹂に対す る注釈を検討する。ここには 勝空者と如応者の四つの問答が あり、両者の ﹁空﹂ の解釈の違いが明確に示されている。 勝 空 者 言。 ⋮ 中 略 ⋮ 此 破 二 種 執。 ﹁ 色 不 異 空、 空 不 異 色﹂ 者、 A 破 執 世 俗 所 取 色 外 別 有 真 空、 不 悟 真 空 執 著 諸 色、 妄 増 惑 業 輪 転 生 死。 ⋮ 中 略 ⋮﹁色 即 是 空、 空 即 是 色﹂ 者、 B 破 愚 夫 執 要 色 無 位 方 始 有五八 ﹃般若波羅蜜多心経幽賛﹄における﹁空﹂の解釈について︵吉 村︶ 空、於色於空種種分別。⋮中略 ⋮ 如 応 者 言。 若 依 勝 義 諸 法 皆 空 都 無 有 者、 初 雖 可 爾、 理 未 必 然。 ⋮ 中 略 ⋮ 勝空者 言。拠実此空、非空不空。⋮中略⋮空亦空故。 如 応 者 言。 若 因 縁 色 自 本 都 無、 応 諸 愚 夫 先 来 智 者。 是 則 凡 聖、 互 是 聖凡。⋮中略 ⋮ 勝 空 者 言。 煩 悩 成 覚 分、 生 死 即 涅 槃。 塵 労 之 儔 為 如 来 種、 諸 衆 生 等 本来寂滅。豈非愚夫先即智者。 如 応 者 言。 若 許 色 事 有 異 空 理、 可 捨 色 迷 而 求 空 悟。 既 空 本 色、 智 即 為 愚。 求 智 捨 愚、 豈 非 顚 倒。 且 厭 生 死 求 趣 涅 槃、 苦 楽 不 殊 求 之 何 用。⋮中略 ⋮ 勝空者 言。俗事迷悟、求聖去凡。真理色空、何成取捨。 如 応 者 言。 若 許 事 別 亦 説 即 空、 倶 勝 義 中 自 成 。 ⋮ 中 略 ⋮ A 此 経 意 破 先 執 色 有。 故 説 色 空。 空 者 無 也。 非 法 性 空。 愚 夫 所 執 当 情 色 相、 本 性 非 有。 ⋮ 中 略 ⋮ 妄 情 既 断、 所 執 色 亡。 故 断 依 他、 遣 計 所 執。 ⋮ 中 略 ⋮ 非 謂 依 他 如 幻 之 色 亦 皆 空 也。 ⋮ 中 略 ⋮ 雖 無 所 執 作 用 因 縁、 而 有 功 能 縁 可 得 故。 ⋮ 中 略 ⋮ B 或 此 空 者 即 法 性 空。 若 執 遍 計 所 執 諸 色 及 依 他 色 定 異 真 有、 真 俗 定 別 極 成 迷 乱。 今 顕 二 色 性 即 空 如 無 相 無 為 非 智 境、 応 捨 二 執 求 趣 真 空。 故 摂 帰 空、 双 除 妄 見。 法 性 之 色、体即真相、不異即空。此復何 惑 9 。 す な わ ち、 勝 空 者 は、 こ こ で は 二 つ の 執 着 を 破 し て い る。 そ れ は、 A 色 の ほ か に 空 が あ る と い う 執 着 と、 B 色 が な い と きに空があるという執着である、 という。 こ れ に 対 し 如 応 者 は、 勝 義 諦 に よ り 諸 法 は す べ て 空 ︵無︶ で あ る と い う な ら ば、 三 性 の う ち 遍 計 所 執 性 は そ う で あ る が、依他起性と円成実性は必ずしもそうではない、と批判す る。これは先の三性説による②の解釈に基づくものである。 すると勝空者は、勝義諦によれば﹁空﹂は空でも不空でも ない、空という言葉もまた空だからである、という。これは 二諦説による解釈である。 こ れ に 対 し 如 応 者 は、 色 が も と よ り 空 ︵無︶ で あ る と す れ ば、両者の違いはなくなり、愚夫と智者、凡位と聖位の違い はなくなるだろう、 と批判する。 す る と 勝 空 者 は、 煩 悩 は 菩 提 の 因 ︵覚 分、 如 来 種︶ と な り、 生死即涅槃であるから、愚夫はもとより智者である、と反論 する。 こ れ に 対 し 如 応 者 は、 色 ︵事︶ と 空 ︵理︶ が 異 な る と す れ ば、色の迷いを捨て空の悟りを求めることになるだろう。し かし、空がもとより色であるとすれば、智者と愚者、生死と 涅槃の違いがなくなり、生死を厭い涅槃へ趣くための修行は 無用になるだろう、 と反論する。 すると勝空者は、世俗諦では迷いと悟りがあり、凡位を去 り聖位へ趣くが、勝義諦では色はもとより空であり、両者に 違いはない、 という。 これに対し如応者は、世俗諦と勝義諦の違いを認めながら 色 は す な わ ち 空 で あ る と 言 う の は 矛 盾 で あ る、 と 批 判 す る。
五九 ﹃般若波羅蜜多心経幽賛﹄における﹁空﹂の解釈について︵吉 村︶ そ し て、 ﹁色 即 是 空﹂ と は、 A 所 執 の 色 は 無 で あ る と い う 意 味 、 ま た は B 色 の 法 性 は 空 で あ る と い う 意 味 で あ る 、 と い う 。 A は﹁空﹂ を 遍 計 所 執 性 の 無 と み る 先 の ② の 解 釈 で あ り、 B は ﹁空﹂ を空性 ︵円成実性︶ とみる先の③の解釈である。 こ の よ う に、 ﹃幽 賛﹄ で は 勝 空 者 の 二 諦 説 に よ る﹁空﹂ の 解釈が、如応者の三性説による﹁空﹂の解釈によって批判さ れている。ここで注目すべきは、勝空者が色はもとより空で あるという解釈から、凡聖不二、生死即涅槃という主張へ進 むのに対し、如応者が色と空には違いもあると解釈し、だか らこそ凡位から聖位へ、迷いから悟りへ趣くことができると 主張している点である。基はここで、中観思想の﹁空﹂の解 釈が如来蔵的な修行無用論に陥ることを警戒し、これを唯識 思想の ﹁空﹂ の解釈で批判しているのである。
五
勝空者と如応者の
﹁行﹂
の解釈
次に﹁行深般若波羅蜜多時﹂の﹁行﹂に対する注釈を検討 する。ここには勝空者と如応者の修行に対する考え方の違い が鮮明に現れている。 勝 空 者 言。 若 依 世 俗、 欲 証 出 世 無 分 別 智 無 倒 観 空、 要 学 能 遣 一 切 所 縁 聞 思 慧 等。 学 照 空 者、 即 名 為 行。 ① 若 依 勝 義、 由 無 所 得 無 分 別 故、 都 無 所 行。 是 名 為 行。 ⋮ 中 略 ⋮ 今 言 行 者、 都 無 所 行。 是 名 為 行。 非 有 行 義。 ② 或 有 密 取 餘 義 釈 言。 若 無 所 行、 無 所 不 行、 是 則 為 行。 若 有 所 行、 有 所 不 行、 非 為 行 也。 ③ 復 有 異 釈。 動 念 攀 縁 為 生 死 根。非為行也。懲心絶慮為出世本。是名為行。 如 応 者 言。 譬 如 幻 士 而 有 所 作。 雖 無 実 作、 非 無 似 者。 待 因 縁 聞、 信 学 証 説 曾 無 暫 捨、 然 無 分 別 不 見 行 相。 是 謂 行 義。 ① 非 都 無 行。 以 病 説 除 非 除 法 故。 若 本 無 法 可 行 可 除、 即 愚 法 者 称 已 成 覚。 説 有 迷 悟、 深 自 毀 傷。 ⋮ 中 略 ⋮ ② 若 無 所 行 無 所 不 行。 有 情 無 明 無 所 不 明。 応 従 無 始 一 切 皆 明。 其 先 未 明 今 明 誰 也。 ⋮ 中 略 ⋮ ③ 若 絶 攀 慮 即 是 真 行、 応 無 想 等 皆 真 聖 道。 徒 設 受 持 厭 捨 造 修。 可 諦 思 惟 疾 除 邪 。 今 言 行 者、雖行而不見行。非無行 義 10 。 すなわち、勝空者は、世俗諦では一切の所縁を遣ることが 行であるが、①勝義諦では無所得・無分別であるから何も行 ず る こ と は な く、 ﹁行 の 義 有 る に 非 ず﹂ と い う。 ま た、 ② 行 ずることも行じないこともない、③縁慮を絶する、という解 釈も述べている。 これに対し如応者は、信・学・証・説の行を暫くも捨てな い が、 無 分 別 で あ る か ら 行 に と ら わ れ る こ と も な い、 と い う。 ま た、 勝 空 者 の 解 釈 に 対 し て、 ① 行 ず べ き こ と は あ る、 ②行ずることも行じないこともないとすれば明と無明の違い がなくなる、③縁慮を絶することが修行であるとすれば無想 定 が 聖 道 と な る、 と 批 判 す る。 そ し て、 ﹁行 の 義 無 き に は 非 ず﹂ といい、修行の意義を強調するのである。 勝空者の主張の背景には、色はもとより空であり、凡聖不 二、 生 死 即 涅 槃 で あ る と す る﹁空﹂ の 解 釈 が あ る だ ろ う。六〇 ﹃般若波羅蜜多心経幽賛﹄における﹁空﹂の解釈について︵吉 村︶ ﹃幽 賛﹄ は、 こ の よ う な 中 観 思 想 に よ る﹁空﹂ の 解 釈 は 如 来 蔵的な修行無用論に陥るとして、これを批判的に提示してい るのである。 一 方、 如 応 者 の 主 張 の 背 景 に は、 色 と 空 に は 違 い も あ り、 だからこそ凡位から聖位へ、迷いから悟りへ趣くことができ るという﹁空﹂の解釈があることが分かる。このことから唯 識 思 想 の﹁空﹂ の 解 釈 が、 修 行 を 成 立 さ せ る 重 要 な 理 論 に なっていることが知られるのである。
おわりに
以上の考察の結果をまとめると、次の通りである。 一、 ﹃幽 賛﹄ で は、 中 観 思 想 ︵二 諦 説︶ に よ る﹁空﹂ の 解 釈 を 批 判 し て 、 唯 識 思 想 ︵ 三 転 法 輪 説 、 三 性 三 無 性 説 ︶ に よ る ﹁ 空 ﹂ の解釈を提示する。 二、 ﹃幽賛﹄は、 ﹃心経﹄の﹁空﹂を、非有非空中道の立場 か ら、 ① 三 無 性、 ② 遍 計 所 執 性 の 無、 ③ 空 性 ︵円 成 実 性︶ の 三つに解釈する。 三、 ﹃幽 賛﹄ は、 中 観 思 想 の﹁空﹂ の 解 釈 が 修 行 無 用 論 に 陥ることを批判して、唯識思想の﹁空﹂の解釈により修行有 用論を説く。 このことから、唯識思想の﹁空﹂の解釈による修行の強調 が、 ﹃幽賛﹄全体の特徴であると言えるだろう。 ﹃幽賛﹄の大 半を﹁行﹂の注釈が占めている理由はここにあると考えられ る。 ま た、 ﹃幽 賛﹄ で 批 判 さ れ て い る 勝 空 者 は、 中 観 思 想 に 基づいて﹁空﹂の如来蔵的解釈を行い、修行を軽視する人々 を 指 し て い る こ と が 知 ら れ た。 こ れ が、 イ ン ド の 中 観 派 の 人 々 を 指 す か、 中 国 の 諸 学 派 の 人 々 を 指 す か が 問 題 と な る が、 これについては今後の課題としたい。 1 ﹃幽 賛﹄ の 述 年 代 は、 ﹃幽 賛﹄ に 引 用 さ れ る﹃大 般 若 経﹄ の 訳 出 年 を 上 限 と し、 基 の 卒 年 を 下 限 と す る。 後 世 の 影 響 に つ い ては、吉村[二〇一四]参照。 2 国 訳 に 北 堀[ 二 〇 〇 五] 、 吉 村[二 〇 一 六 b][二 〇 一 七 b]、 英 訳 に Sh ih 200 1 が あ り 、 主 な 論 文 に 葉 [ 一 九 八 九 ]、 L us th aus 2003 などがある。 3 ﹃ 幽 賛 ﹄ の 構 成 に つ い て は 、 北 堀 [ 二 〇 〇 五 ]、 吉 村 [ 二 〇 一 六 b ][二〇一七 b ]参照。 4 ﹃幽 賛﹄ 巻 上、 大 正 三 三、 五 二 三 b ︱ 五 二 四 a 。 数 字・ ア ル ファベット記号は筆者による補足。以下同じ。 5 瑜伽行派の三転法輪説については、吉村[ 二〇一三]参照。 6 ﹃ 幽 賛 ﹄ 巻 下 、 大 正 三 三 、 五 三 五 b ︱ c 。﹃ 大 般 若 経 ﹄ 巻 五 七 八 、 大正七、九九〇 b 。同巻四七六、大正七、四一四 b 。 7 ﹃成 唯 識 論﹄ 巻 八、 大 正 三 一、 四 五 c ︱ 四 六 c 。 唯 識 学 派 の 三性説については、吉村[二〇一六 a ][二〇一七 a ]参照。 8 ﹃成唯識論﹄巻八、大正三一、四六 b ︱ c 。 9 ﹃幽賛﹄巻下、大正三三、五三六 c ︱ 五三七 b 。六一 ﹃般若波羅蜜多心経幽賛﹄における﹁空﹂の解釈について︵吉 村︶ 10 ﹃幽賛﹄巻上、大正三三、五二四 c ︱ 五二五 a 。 ︿一次文献﹀ 玄奘訳﹃般若波羅蜜多心経﹄大正八︵二五一︶ 護法等造・玄奘訳﹃成唯識論﹄大正三一︵一五八五︶ 窺基﹃般若波羅蜜多心経幽賛﹄大正三三︵一七一〇︶ ︿参考文献﹀ 北堀一雄﹃般若波羅蜜多心経幽賛﹄中山書房仏書林、二〇〇五 葉 阿 月﹁ 般 若 波 羅 蜜 多 心 経 幽 賛 に お け る 三 練 磨 心 に つ い て﹂ ﹃印度学仏教学研究﹄第三七巻第二号、一九八九 吉 村 誠﹃中 国 唯 識 思 想 史 研 究