﹃
勧
修
作
福
念
仏
図
説
﹄
1 1獅谷忍激を中心として
1 1 1の印施と影響
松
は じ め に万
三
知
海
中国福建省より承応三年三六五四︶に来朝した隠元︵一五九二i
一六七三︶をはじめとする黄捷宗の一行が有 形無形に日本の文化に影響を与えたことはよく知られているところである。 隠元は徳川幕府の援助のもとに一六六三年京都宇治に黄栗山万福寺を開堂する。その黄粟宗がどのようにみられ ていたか、その一例をあげてみる。幕府は寛政四年︵一七九三︶、つまり隠元が黄奨山万福寺を開堂して約二二O
年後、幕府おかかえの儒者柴野栗山等に命じて京都・奈良の寺社約九十ケ所に伝わる宝物の現存目録を作成させて ① いる。そのなか、百点以上の宝物が報告されているのは、栂尾高山寺︵一二二点︶・法隆寺︵一一五点︶・東大寺 ︵一二二点︶・黄栗山万福寺三六O
点﹀である。諸名刺をさしおいて閉山して聞もないこの万福寺が宝物数第一 であることは注目に値するところである。そしてその宝物の品名をみると、隠元・木庵・即非をはじめとする渡来 ② 僧の書画、あるいは法像・語録などが多数ある。その凡例には、 慶長以後之物、震翰世御代之御筆之外ハ格別之品ニ茂無之物者相除申候。 ﹃ 勧 修 作 福 念 仏 図 説 ﹄ , の 印 施 と 影 響傍数大皐大皐院研究紀要第十五競 といい、これらを他の寺社に記載されている震翰類や奈良朝より伝わる文物と比較してみるならば、近世の文物が これほど重く取り上げられていることは極めて異例のことといえよう。 宗教界に目をむけると、当時各宗派がそれぞれの宗祖の教えのもとに個別に教義を説いていたのに対し、隠元自 身 は H 臨済正伝第三十二世 υ を称しているものの実際には念仏禅という明末の仏教をそのまま日本に持ち込んだの である。この禅と浄土の教えが一体となって一宗を形成していること一つをとってみても、日本の宗教界には新鮮 な驚きであって、とくに臨済宗をはじめとする禅宗系や浄土宗をはじめとする浄土系の宗派の僧侶の中には黄柴僧 と親交をもっ者が多数あらわれ、妙心寺派龍渓のように改派する者まで現われ的。 そういう親交をもった僧侶のなかに、浄土宗では忍激︵一六四五
l
一七一一﹀・義山︵一六四八l
一七一七︶と いった当時の浄土宗を代表する学僧がいた。彼らが黄葉宗第四代独湛と親交があったことは筆者も述べたことがあ 旬。それは独湛が日本に来て驚嘆感激し、逆に中国に持ち帰らせ、そして自らが描き、さらにその縁起までも出版 した当麻蔓茶羅図をめぐる二師との道交である。そして、 念 仏 法 門 如 一 一 国 光 大 師 一 可 v 修 。 ついには独湛に といわせるまで、法然浄土教に傾注していく一端を述べたのである。これについては忍激・義山をはじめとして独 湛をとりまく浄土宗の人々が影響を与えたようである。 しかしそれとは反対に独湛から影響を受けたもの、正確にいえば独湛を通じて日本にもたらされたものの中には 近年にまでその影響が及んでいるものがある。そのなかに﹃勧修作福念仏図説﹄という作福と念仏を人々に勧める ことを呂的につくられた、 いわゆる念仏図がある。以下、忍激を中心にその印施と影響について述べてみたい。 :註①﹃寺社宝物展閲目録﹄五巻︿﹃続々群書類従﹄第一六巻 所 収 ﹀ 。 ②﹃幸田成友著作集﹄第六巻二二八頁。 ③平久保章著﹃隠元﹄一四八頁。 ④﹁黄葉四代独湛和尚孜﹂︵﹃坪井俊映博士煩寿記念傍教 文 化 論 致 ﹄ 所 収 ﹀
独湛将来の﹃勧修作福念仏図説﹄
① 独湛と﹃念仏図﹄については、すでに禿氏祐祥先生がその起源と伝播を明らかにし、大賀一郎先生には独湛その ① ③ 人となり全体をとらえる研究があり、近年長谷川匡俊先生は諸往生伝研究を足掛りとして独湛にアプローチされて い る 。 それらを概観すると、念仏を申すときに、その遍数を記す方法として、惰末唐初頃には豆などの穀類や数珠など の使用があり、これらに遅れて宋代に念仏図が考案され、元・明代へと受け継がれた。この明末の念仏図を携え渡 来した独湛が印施した念仏図をもとに刷られた念仏図は忍激の二十一万八千張をはじめとして九版も数えるように 流行した。その背景の一つとして、信仰と道徳の兼備実修を勧説する﹃念仏図﹄布教法は民衆教化の任務を負わさ れた幕藩制社会の仏教教団にとって歓迎されるものであったからである、という。 独湛はよく H 念仏の独湛 υ と呼ばれているが、浄土宗の僧侶にはどのように思われていたのであろうか。 ④ ︵一六六九!一七四五︶はその著﹃獅谷白蓮社忍激和尚行業記﹄につぎのように記している。 珂 然 本邦黄葉山第四世濁湛縛師乃菅照園師隠元老和尚嫡子。嘗従一一園師一不 γ樺 一 歳 波 之 険 一 附 一 一 海 舶 一 東 遊 一 一 本 邦 ↓ 静 師 侃 ニ 西 来 直 指 心 印 一 一 冊 以 一 一 浄 土 一 信 用 二 時 宿 之 地 ↓ 恒 唱 一 一 傍 競 一 語 一 一 蒲 陀 経 一 日 信 用 ニ 常 課 一 魚 人 度 生 亦 唯 以 ニ 念 傍 三 味 一 心 無 一 一 他 務 ﹃勧惨作福念仏図説﹄の印施と影響悌 教 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 五 時 抗 四 このような念仏を事とし西方に心をかける独湛であったからこそ、忍激や義山との道交があったのであろう。忍激 が﹃作福念仏図説﹄を与えられ印施したのもそのような道交のうちに行なわれたものであって、忍激の伝記にはつ ① ぎのようにある 。 是 故 師 輿 一 一 蒋 師 一 道 交 和 睦 屡 第 一 一 面 謁 一 稗 師 欲 下 刻 一 一 作 一 踊 念 併 園 一 度 震 一 一 印 施 一 勧 v人念併 ω 一 日 瀞 師 曝 v師謂日。儀也 本 支那産、倭漢異 v一 音 、 言 語 多 泥 。 詳人重温、意緒難 v 達。是故余身、未 v 足 = 一 以 震 一 一 勧 導 之 首 二 煩 一 一 弘 通 一 唯 師 計 v 之 。 師勝縁委托不 v 得 一 一 固 辞 一 途 即 諾 v 之 以 一 一 俵 国 一 篤 一 己 任 ↓ 蓋 自 ニ 獅 谷 一 印 施 者 既 二 十 一 寓 八 千 絵 画 也 。 ﹂ の 会 話 が な さ れ た の は 、 黄葉堂所蔵『勧修作福念仏図説』第十版 前後の記事より元禄十 年︵一七
OO
︶のことで あるから、法然院蔵版の ﹃作福念仏図説﹄が印施 さ れ る六年前ということ に な る 。 さて前置が長くなった が 、 ﹃ 勧 修 作 福 念 仏 図 説 ﹄ とはどのようなものであ ろうか。その右側にはつ ぎのような説明がある。F ユ / デ 人天路上作一踊震 v 先。生死海中念傍第一。人間天上快築造遥。皆因三度作一一諸一幅一最緊最要。故臼潟 ν 先 。 若 欲 下 テ ヲ 孟 テ コ ラ y ト テ ノ ノ ミ ナ n y − − 高 出 二 人 天 一 速 超 ニ 生 死 ↓ 直 登 刷 不 退 ム 則 有 一 一 念 傍 往 生 一 門 刊 最 尋 最 勝 。 故 日 ニ 第 二 つまり人間が気持よくゆったりと生きていくにはまず作福をしなさい。生死のまよいを超えようと思えば念仏を第 一にしなさい、というのである。この﹁人天路上﹂の一句は中国の念仏図としてよく使用されていたようであって、 ⑤ 後述する慶門で刊行された念仏図に同様の一句がある。 つ ぎ に 備 を だ し て い る 。 デ テ レ ハ セ キ テ 見 Y V ハ セ テ ニ Y グ 作 一 繭 不 一 一 念 併 三 幅 童 還 沈 論 。 念 俳 不 一 一 作 一 幅 一 入 v 道 多 一 一 苦 辛 ↓ 無 v 一 踊 不 一 一 念 俳 一 地 獄 鬼 畜 輩 。 念 傍 乗 作 一 踊 後 詮 一 一 雨 足 隼 叩 このように作福と念仏のふたっともに修することを勧めているのである。作福すれば今世の苦なく、念仏すれば来 世の成仏を約束している。さらにつぎのように具体的な作福の項目をだしている。 孝 一 一 順 父 l 母↓忠一一報君王↓装コ塑併像↓印コ造経典↓清一一供借伽刊敬一一事師 l 長 ↓ 営 ニ 修 寺 宇 ↓ 流 ニ 逼 善 法 ↓ 禁 一 一 絶 宰 l 殺↓買コ放生命↓飯コ食機民↓衣コ済寒凍刊開一一掘義井↓修一一理橋 l 梁 ↓ 卒 コ 翻 街 l 道↓普一元茶湯↓看一一療病人↓給一一散薬餌↓仲コ零時九 l 柾刊出コ減刑罪刊安一一養衰老↓ 撫ニ育孤該↓埋一一蔵屍骨↓給一一輿棺木↓鏡コ免債負↓義ニ譲財産↓還一一他遺失刊救ニ済患苦↓ 新一一穣災難刊薦−一抜亡鬼↓勧コ和争訟↓生コ全人命刊 ここで注目すべきことは、第一にあげてある孝順父母の項は雲棲株宏︵一五三五
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二ハ一五︶の著わした﹃白知 テ−− V ヲ 旦 録﹄のなか、善門の第一忠孝類のはじめに﹁事−一父母−致 v 敬意 v 養﹂ということと一致する。また全体をみても後述 するように﹃自知録﹄の説く所とよく合うのである。この作福の説明のあとには念仏をつ、ぎのように勧めセいる。 ﹃ 勧 修 作 福 念 仏 図 説 ﹄ の 印 施 と 影 響 五悌教大皐大皐院研究紀要第十五競 無事。身問者。時時勤念有 ν 事纏 v 身者早晩課念至心部民願求 ν生 一 一 浄 土 ↓ 作 之 一 踊 一 回 一 一 向 浄 土 ﹂ 求 一 一 願 往 生 ↓ 善 人 卒 日 遇,、 レ 市首= 便チ {乍セト 作v
ハ
詑テ 還テ 今 セ 息Dチ 以テ 所 ;ssz, ..:x.. 持 このように、念仏は作福の説明とはちがい具体的には説かず、 その人なりに念仏して往生を願求しなさいといい、 最後にこの図を受持した人の名を記すようになっている。 一方左縁には、侍大師の言葉を引きながら﹁無常迅速、生死事大﹂のことをつぎのようにいう。 偉大土云。漸漸難皮鶴髪。看看行歩龍鐘俵鏡金玉満堂難 ν 雪一生老病死一任汝千般快楽。無常終是到来。 惟 有 一 一 経 路 修 行 ↓ 但 念 一 一 阿 鵡 陀 併 ↓ 大 士 此 語 正 所 ν 謂高般賂不 ν 去。惟有 ν 業 隠 v身者也。如何是寓般賂不 v 去 。 人生所有官昏。金管。屋宅。田園。飲食衣服。玩好。乃至矯妻愛子無常到来。那一件是賂得去者。如何 是 惟 有 業 随 ν 身。人生所 ν 造諸貧蹟療業。非麓姦姪。洛意宰殺篤 v 子逆 v 父 借 用 v臣欺 v 君魁 γ衆成 ν 家。陰毒害 v 物種 種悪業。無常到来。這都緊緊隠−一著儲一者既然如 ν 是 。 若 不 ニ 猛 省 一 回 ν 頭改 v 悪従 v 善洗 v心念傍。宣非下徒得ニ人 身一虚生浪死ム苦哉苦哉。 ⑦ この惇大師の語は、株宏の﹃往生集﹄の善導和尚の頃に﹁勧世傷﹂として見い出せるものである。ただ﹁難免生老 病死:::﹂の語は﹁宣免一一衰残病苦一﹂となっているだけである。この﹁人生所有:・﹂以下の文は法然の﹃登山状﹄ ③ にも老の表現が通ずるところがあるように思う。 つぎに世の中の人をつぎのように分けて、それぞれの立場において念仏を勧めているのである。 我 観 一 一 世 人 一 箇 箇 皆 好 一 一 念 傍 ↓ 今 三 等 列 γ之。一者極閑人。慮一一嘗無 ν 書 一 無 v 夜。一心念傍↓二者半開牢忙人底一一 嘗替 ν 事 己 畢 剖 便 念 悌 ↓ 三 者 極 忙 人 。 恵 一 一 嘗 忙 一 畏 倫 ν 間十念念傍↓叉復富貴之人衣様豊足正好一一念悌↓貧窮之人。 安 ν 貧守 ν 分 。 正 好 一 一 念 悌 二 何 一 一 子 孫 一 人 得 一 一 人 替 力 ↓ 正 好 ニ 念 併 ↓ 無 二 子 孫 一 人 心 無 ニ 牽 掛 一 正 好 念 併 ↓ 無病之人身力康 健 正 好 一 一 念 傍 刊 有 病 之 人 。 知 一 元 不 γ 久 正 好 一 一 念 悌 ↓ 聴 明 之 人 通 v経 達 v 理 正 好 一 一 念 悌 一 愚 鈍 之 人 無 一 一 雑 知 見 ↓ 正 好 一 一 念 悌 ↓ 以 v 要 圭 一 口 v之 。 天 上 人 間 四 生 九 有 皆 嘗 ニ 念 悌 一 奉 v勤 一 一 世 人 ↓ 何 不 乙 越 下 此 四 大 未 ν 作 一 一 勧 慎 一 時 上 早 早 念 併 用 直 待 二 寓 般 一 勝 不 γ 去。惟有 γ業 随 v身 慎 悔 無 v及 了 也 。 そして下縁には独湛のつぎのような識語がある。 此 園 於 一 一 震 旦 一 行 v世 己 久 会 。 至 一 一 大 清 康 照 年 中 ↓ 奉 v旨 頒 一 一 行 天 下 一 普 勧 ニ 化 念 悌 ↓ 議 得 二 張 一 血 パ ニ 無 塵 居 士 一 奉 持 居 ヲ〆 士 以 一 一 日 圏 未 一 有 一 一 此 園 ↓ 今 鋳 刻 流 通 。 令 一 ニ 天 下 人 念 傍 修 一 踊 同 生 一 一 浄 土 一 則 利 盆 無 量 鷲 。 念 併 千 聾 填 一 一 一 圏 ↓ 白 黄 紅青黒可 v 填 一 一 五 次 ↓ 一 獅 子 林 一 一 普 勧 念 一 一 仏 往 生 一 この無量居士は義山とも親交があり、嘗麻目安茶羅や清海蔓茶羅などの模写も行なった人である。 以上概説した﹃勧修作福念仏図説﹄の初版は黄葉の獅子林蔵版であるが、以後九版あったといわれている。この うち第三版以降は原則として、つぎの忍激の識語を付して印施されるのである。 ヒ テ ノ ヲ 〆 ヲ ノ ト テ ヲ ク カ ヨ ハ テ グ モ ヤ ム 黄 柴 四 世 濁 湛 老 和 尚 侃 一 一 西 来 直 指 心 印 一 一 冊 以 一 一 浄 土 一 篤 二 時 宿 之 地 一 恒 持 一 一 悌 競 一 息 不 一 一 虚 註 一 躍 語 種 機 麻 酔 一 一 嘗 暫 停 一 可 v ノ ナ リ エ レ ト モ 謂永明角虎之稗也衰朽己極市無一一微疾身心恰悦常面 ν西坐正月廿四日語日昨夜龍一遊浄土一部奮起躍ニ西方一 Y テ ス ニ ク ノ ヲ サ キ ミ ル ノ 見 ル ヲ 十 一 奔 廿 五 日 晩 鶴 聾 間 一 一 子 天 − 二 小 侍 者 怪 而 趨 v庭 則 間 一 一 空 中 微 妙 柴 一 音 一 其 夜 深 更 師 日 遁 夢 三 蓮 華 生 一 一 子 賓 池 一 西 野 ヨ フ チ ’ 之 期 不 弘 一 地 邸 主 日 レ 偏 日 我 有 二 句 一 別 二 子 大 衆 一 若 関 ニ 何 句 一 不 読 不 説 廿 六 日 依 v常酉西辰刻自結ニ定印一寂然侍者連 V テ ト 〆 見 喚 一 一 和 尚 一 師 剖 底 v聾念傍泊然坐股今年七十有九也日課蒲陀経四十八巻櫨悌三百或五百其徐一躍諦課簿所 v記 不 v ラ テ フ 可 二 勝 数 一 賓 永 丙 戊 仲 春 獅 子 谷 信 阿 謹 誌 審 問 永 甲 申 重 陽 支那濁湛笠識 ﹃勧修作福念仏図説﹄の印施と影響 七
体 数 大 島 一 夫 皐 院 研 究 紀 要 第 十 五 時 仇 八、 このように忍激は、独湛の信仰を﹁浄土を以て帰宿の地とす。恒に仏号を持して、息虚しくかよわず﹂といい、彼 の臨終の瑞相を記し、さらに日課に阿弥陀経を四十八巻、礼仏を三百あるいは五百、とその浄土信仰を述べている。 ところで、大賀一郎先生が九版ありと紹介された開版のうち第七版は独湛の詩をのせているものの表題に﹁勧修 作福百万遍二世安楽園説﹂とあるから、後述する百万遍念仏図の類に入る。また禿氏祐祥先生は宝永六年版が、山 ③ 本悦心先生は大正六年本があったことを報告しているから整理してみるとつぎのようになる。 第一版宝永元年ハ一七
O
四 ︶ 九 月 黄 葉 獅 子 林 第 二 版 十 一 月 第三版 第四版 第五版 第六版 第七版 第八版 第九版 第十版 // 宝永三年︵一七O
六︶二月 宝永六年︵一七O
九︶冬 享保七年︵一七二二︶正月 明和八年ハ一七七一︶春 安永七年ハ一七七八﹀春 明治三十二年︵一八九九︶二月 大正六年ハ一九一七︶三月 昭和六年︵一九三一︶十二月 II 獅谷法然院 浜松大雄庵 洛東雲蓋院 黄葉獅子林 姫路雲松寺 黄葉三十三開戒紀念 この十本のうち、第二、第四、第九の三本は未見であるが、それぞれの特徴を初版と比較し記してみるとつぎのよ 名古屋黄葉堂 う で あ る 。 第三版には忍激の識語がはじめてつく。第五版には右縁の説明の最後に﹁荘厳福慧﹂の回文字が入り独湛の識語も少しく改変されている。また他の本が 弥陀三尊の来迎相を描いているのに対し、弥陀一仏だけである。 ⑬ 第六版には独湛識語がなく、かわりに貫春の識語が入っている。 第七版には忍激の識語がつき、独湛の識語から﹁予得二張一与ニ無事宜居士一奉持居士﹂がなくなっている。 第八版は第七版に銭嵩の識語をつけたもの。山本悦心氏がその識語を﹃寅集﹄六号に載せている。 第九版は同じく山本氏が紹介しているのであって、第三版をもとに黄葉第三十三開成の紀念として五百張を印施 し た も の で あ る 。 第十版は第八版をもとに独湛と忍激の識語を入れたものである。 第四版は禿氏先生が紹介しているものであって、忍激の識語、があり、つぎのようにある、 此 園 流 通 逐 年 菊 盛 、 但 以 一 一 今 年 唐 紙 甚 貴 一 改 一 一 刻 園 読 一 易 以 ニ 和 紙 一 蓋 便 ニ 於 印 施 一 勿 v 佐 、 宮 早 川 己 丑 冬 日 獅 子 谷 老 人 書 この﹃作福念仏図説﹄の流行を述べており、これには忍激の伝にあるように﹁獅谷蓮社印施総計廿一高八千張﹂の @ 朱記がある、ということである。 以上、独湛の﹃勧修作福念仏図説﹄を概観し、諸本の比較をしたが、その特徴はその表題のとおり、今世のため の作福と、来世のための念仏を勧修する図と説ということがいえる。またその印施は近年に至るまで行なわれてい ることがよくわかるのである。 ① 註 ﹁ 念 仏 図 の 起 源 並 に 伝 播 ﹂ ︵ ﹃ 龍 谷 史 壇 ﹄ 二 巻 一 号 昭 和 四 年 ︶ ﹃ 勧 修 作 福 念 仏 図 説 ﹄ の 印 施 と 影 響 :九
悌 教 大 事 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 五 時 机 ︵ ﹃ 浄 土 学 一 八 ②﹁黄葉四代念仏禅師独湛和尚について﹂ ・二九合輯号昭和一七年︶ ③﹁近世念仏者と外来思想 l 責辞ホ宗の念仏者独湛をめぐ っ て | ﹂ ︵ ﹃ 季 刊 日 本 思 想 史 ﹄ 第 二 二 号 昭 和 五 九 年 ︶ 。 ④﹃浄土宗全書﹄第一八巻三二頁上。 ⑤﹃浄土宗全書﹄第一八巻三二頁下。 ⑥牧田諦亮先生架蔵︵﹃アジア仏教史中国編 E 民衆の仏 教﹄七一頁図版 ⑦ ﹃ 続 浄 土 宗 全 書 ﹄ 第 一 六 巻 二 二 一 一 具 上 。 ③﹃勅修御伝﹄第三二巻﹁妻子春属は家にあれどもとも なはず、七珍万宝はくらにみてれども益もなし。ただ身 にしたがふものは後悔の涙也。ついに閤魔の庁にいたり ぬれば、つみの浅深をさだめ業の軽重をかんがへらる。 法王罪人にとひていはく、なんぢ仏法流布の世にむまれ て、なんぞ修行せずしていたづらに帰りきたるや。その 時にはわれらいかがこたえんとする。すみやかに出要を もとめて、むなしく帰る事なかれ。﹂彼此の国情により 具体的表現は少しちがうが、死の一点をもってこの世の
忍激における作福
。
無常を説き念仏による来世往生をわかりやすく説く点は よ く 共 通 し て い る 。 ⑨ ﹃ 黄 臨 時 ﹄ 第 六 号 二 一 一 員 、 大 正 九 年 。 ⑬ 明 和 辛 卯 本 元禄壬午東叡山凌雲院第五世大僧正清白慕慮阜之風結一 勝社命日卸心鷲意欲剖心念傍不随偏漸之修也。大僧正弟 子僧都義国謀衆損財翻刻黄襲所蔵野案国永信同社物欲普施 天下絡素勧修浄業其志不亦善乎至第七世大僧正賞観記其 事於国面頭募有所志欲以此園輿寓人倶同副心念仏、因 新刻本国以印施云 明和辛卯秋七月吉旦 雲 蓋 院 第 十 主 調 停 僧 正 貫 春 誌 唱名千聾 嘗填千闇 満園千箇 成百万遍 前 掲 禿 氏 先 生 論 文 。 ⑪ 独湛が将来した﹃勧修作福念仏図説﹄は清の康照年中三六六二i
一七二二︶に流行した念仏図の一本であると いう。しかし一方では牧担諦亮先生が紹介しておられる念仏図のように、作福を説かず、念仏によって自身および父母春属等の西方往生をねがい、増福延寿を祈るものもある。 この酌は最上に﹁阿爾陀併接引念傍善人往生西方﹂と題し、その下に阿弥陀立像が措かれ、右手を下に垂らし、さ らにその下には諸善人を乗せた船︵この船全体が白圏で輪郭がとられていて、ぬりつぶすことによって船が完成す る︶が描かれている。そして阿弥陀仏の右手から二本の線がこの船を接引するように措かれている。船の客室前は 門のような形をしており、その扇額部分には﹁般若慈航﹂と横書きしている。これは延寿の﹃万善同帰集﹄巻下に ② ﹁駕ニ大般若之慈航一越二三有之苦津一﹂というあたりを典拠にしたものであろう。その門の柱聯のように左右には、 人天路上作福為先 生死関頭念併第一 とあり、帆にあたる部分には、 つ ぎ の よ う な 旬 、 が あ る 。 一 句 蒲 陀 、 是 斬 二 群 邪 一 之 賓 剣 。 一 句 禰 陀 、 是 破 一 地 獄 一 之 猛 賂 。 一 句 蒲 陀 、 是 照 一 一 黒 暗 一 之 明 燈 。 一 句 蒲 陀 、 是 渡 一 一 苦 海 一 之 慈 航 。 一 句 瀬 陀 、 是 出 二 輪 廻 一 之 径 路 。 一 句 禰 陀 、 是 脱 一 一 生 死 一 之 良 方 。 一 句 調 陀 、 ∼ 是 成 仙 之 秘 訣 。 一 句 調 陀 、 是 換 骨 之 紳 舟 。 八高四千法門、六字金政。 ﹃ 勧 修 作 福 念 仏 図 説 ﹄ の 印 施 と 影 響
傍数大皐大皐院研究紀要第十五競 一千七百葛藤、一万斬断。 一 句 禰 陀 無 ニ 別 念 ↓ 不 v 第 一 一 弾 指 一 到 ニ 西 方 ↓ ここに﹁一千七百葛藤﹂というのは禅の公案を指すものであり、禅浄双修が主流の明末仏教にくらベ浄土のみを説 いていることがわかる。さらにつぎの詞書が一一層それを明らかにしている。 修行径路、方便多門、直捷簡易、無 v 如ニ念併↓念傍一法謂 v 之求一一生西方刊叉謂 v之修一一浄土↓言ニ西方極柴 世界一是清浄傍土。故三蔵十二部経、経経導 v 婦一一極楽↓八寓四千法門、門門勧 ν 往二西方↓念傍法門乃最勝第 日 一 〆 ナ リ 一、無上方便之法門也。古徳云、鈴門拳道如三蟻子上ニ高山一半時一歩。浄土修行似ニ風帆行一順 v 水須奥千里。一 二 〆 ノ ハ ダ シ ゼ 入 ニ 西 方 一 永 無 二 退 堕 ↓ 上 品 卸 登 ニ 傍 階 一 下 品 猶 v 勝 一 一 天 宮 ↓ 其 功 最 高 、 其 行 甚 易 。 不 ν 論ニ貴賎賢愚、老幼男女、喫 ス ベ シ ヲ a y ス ベ γ ヲ も し 輩喫素、出家在家一皆可 v 行 v 之。奉 v 勧 一 一 十 方 善 男 信 女 一 有 v 縁遇 ν此創設一一信心↓一心念傍、求一一生西方↓如或 も し ヒ ν パ ズ ベ V あ リ テ 務 一 一 牽 臨 一 世 縁 わ v 了 、 お 勺 能 ニ 一 心 一 者 或 毎 日 持 一 一 念 三 千 五 千 一 作 γ 信 用 ニ 常 課 ↓ 如 再 不 v 能 、 念 コ 一 此 圏 一 張 篤 二 一 願 ↓ 念 二 百 貼 二 圏 、 結 漏 共 計 二 十 五 寓 ↓ 或 信 用 一 一 自 身 一 求 一 一 生 西 方 一 或 潟 ニ 父 母 一 求 ニ 生 西 方 一 或 信 用 ニ 父 母 保 病 訴安、増幅延書交皆併前焚。或這一一薦過去父母。六親春属一霊前及墓上焚。化ニ悌前一亦可。或酬−一謝紳明↓或 祭 一 一 紀 宗 祖 ↓ 或 毎 年 清 明 冬 至 、 七 月 十 五 日 、 臓 月 年 夜 念 一 一 此 傍 圏 一 恭 一 化 孤 墳 義 家 一 済 度 無 v 紀ニ孤魂刊倶可 v 伏 v 乗 ニ 悌力↓超一一生浄土↓或一願、或多願随v力所成。所一一獲功徳↓普願向後二信心一同震一一善友一 同 見 ニ 調 陀 一 同 往 一 一 極 楽 ︸ 不 可 思 議 会 。 以上のように念仏百遍するごとに一つの白圏をぬりつぶせば、総計十五万遍を唱えたことになる、という念仏図で あ る 。 では、このような念仏だけを勧めるものと、作福と念仏を勧めるものと、どちらが﹁念仏図﹂の主流をしめてい
たのであろうか。結論をいえば、明末より清代にかけては作福と念仏の併用を説くものが流行したと考えられる。 その理由は単に独湛の言葉だけを信ずるのでなく、広く当時の仏教をみると作福を説く書物、が単行して出版され広 く流布していたからである。 ③ そのような書物の一つに、独湛が師とも仰ぐ雲棲株宏の﹃自知録﹄がある。高雄義竪先生は﹁明代に大成せる功 ④ 過格思想﹂のなかで﹃自知録﹄を解説してつ、ぎのように述べておられる。 以上に列挙した各種功過格の中で、何と云っても最も完成されておるのは雲棲の自知録であらう。自知録は太 徴仙君や雲谷のものに比べると、徳目の分類なり、善過の評価が非常に精細になり、世間・出世間に亘って人 間生活の一切を網羅して残す所が無い。 功過格は中国民間で行なわれた道徳律で、人上行為を善ハ功﹀悪︵過︶に分類表示して善を勧めるものであり、十 二世紀ごろ作られた﹃太徴仙君純陽呂祖師功過格﹄は現存する最古のもので、明代になり多数の功過格があらわれ たという。雲谷禅師が衰了凡に授、ずけた﹃陰鴎録﹄に盛られる内容もやはり明代を代表する功過の書である。 さらにこれらの功過格のうち﹃陰隙録﹄と﹃自知録﹄とが、﹃勧修作福念仏図説﹄と同様に、独湛によって将来 @ され忍激がそれを読んで感激して法然院から刊行していることも考え合せると、﹃勧修作福念仏図説﹄と功過格と は表裏一体のものとして康照年中にも流行し、そのまま独湛が日本に将来したものといえよう。いま試みに雲棲の ﹃自知録﹄と﹃勧修作福念仏図説﹄に説く作福の徳行とを比較してみよう。 設﹄一﹃自知書巻上、善門のうち 孝順父母一事一一父母一致 v 敬意 v 養 一 割 問 ニ ﹃ 園 ﹃ 勧 修 作 福 念 仏 図 説 ﹄ の 印 施 と 影 響
忠報君王 傍 教 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 五 時 仇 事 ニ 君 王 一 掲 v忠数 v力 一 前 市 一 装塑傍像 印造経典 斉供借伽 敬事師長 府 営 修 寺 宇 流通善法 禁絶宰殺 買放生命 飯食餓民 衣済寒凍 開掘義井 修理橋梁 卒翻街道 普施茶湯 看療病人 給散薬餌 伸雲完在 敬 一 一 奉 師 長 一 一 割 問 − 三賓功徳類 ︶﹁救有力報人之畜﹂以下の項とその解 如 v 上 窮 民 政 糧 費 膳 者 一 割 問 二 済 一 一 寒 凍 人 一 媛 室 一 宥 認 可 一 開 ニ 掘 義 井 一 修 一 一 建 涼 亭 一 一 民 百 銭 造一一橋梁渡船等一∼震ニ一善一 卒 一 一 治 道 路 険 阻 泥 淳 一 所 v費尋問ニ 左記の二項に準じて考えられる。 救 二 重 疾 一 ↑ 凱 潟 以 下 の 項 同 右 ザ 救 一 一 死 刑 一 ト 時 局 以 下 の 項 四
出減刑罪 安養衰老 撫育孤該 埋蔵屍骨 給輿棺木 鏡菟債負 義 一 譲 財 産 還他得失 救済患苦 新 一 醸 災 難 薦抜亡鬼 対応項がないが﹁敬奉師長﹂に含まれると思う。 牧 ニ 養 無 主 遺 棄 嬰 該 一 ∼ 八 議 ⋮ 一 一 一 葬 一 一 無 主 之 骨 一 ↑ 劃 一 一 局 ニ 以 下 の 項 死 不 v能 v 検 事 一 興 棺 木 一 所 v 費 十 義 明 一 一 一雑善類のなか﹁不義之財不取所直﹂以下﹁譲地譲産所値﹂の項まで 救 二 重 疾 一 ↑ 臥 一 局 ニ 以 下 の 項 祈 v 一 幅 譲 災 等 但 許 一 一 善 願 一 不 v 許 一 一 牲 紀 一 者 鵠 一 一 五 対 勧 対 応 和 応 項 ニI 項 な~な し 了 し 善篤 勧和争訟 生全人命 このように、その内容がよく一致するのである。 ⑥ 忍激が功過格を知ったのは、独庵玄光による﹃善哉宝訓﹄の出版があったことによる。この刊行は元禄五年︿一 六九二﹀であるから元禄十四年︵一七
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一︶、忍激が﹃陰降録﹄・﹃自知録﹄を刊行するまでは九年かかっている。 その間この書の刊行を思っていたが入手できず、ある日独湛と会っていたが、話が功過格におよび、中国では僧侶 も儒者も競ってこの二録を刊行していること、さらに独湛自身がかつて刊行を企て序文も作っていることなどを開 ﹃勧修作福念仏図説﹄の印施と影響 五傍 教 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 五 時 抗 一 六 ⑦ き、そのうえそれら二録や序文をもらい、忍激は大変喜んでここに刊行した、とその時臥文に記している。この功過 ③ 格については他に﹃勧懲宝訓﹄や﹃太上感応編﹄なども忍激が刊行したことが伝記に−記されているから彼自身の信 仰にかなり深く侵透していたようで、先の二録の序文にも 益信、人間不 v可 v無 ニ 此 二 録 一 失 。 遂 強 ν 病 貼 v之 捨 資 刊 行 。 と述べているほどである o このような刊行態度は宗典刊行における忍激の姿勢とは異なることが指摘できる o こ の 二 録 の 奥 付 に は 、 沙門信阿捨衣鉢資合刻 陰騰自知二篇慶布於世願我輿衆生共極止悪修善之良心同隣了生脆死之浄域者 とあるが、この前年、忍激は法然の﹃選択集﹄を注釈した良忠の﹃選択伝弘決疑紗﹄を五巻会本にして刊行してい る。そこには刊行する為、冥福の戒名をあげ白銀三百二十九銭をうけたことを記し、つぎに 選揮停弘決疑紗曾本第五巻伏願以此功徳諸霊及以六親客層湾超三有苦域頓登九連柴邦者 仰糞土口水正宗流通海図一見一間皆種浄因衆聖護念龍天歓喜風雨以時災属不起人人皆得元量寄慮庭悉成安柴園 と記している o 両者を比較すると、﹃決疑紗﹄の刊行は喜捨の白銀によるものであり、それを機縁として喜捨した 人々等を極楽浄土に導こうとする、この種の刊行の形式にそった識語といえる。またやはり会本として元禄三年 から四年にかけて刊行した善導の﹃観無量寿経疏﹄四巻、あるいは忍激七回忌にあたる享保二年︵一七一七︶刊行 の﹃勅修士口水円光大師御伝縁起﹄一巻、﹃同目録﹄、さらに同時代の義山が募刻した五部九巻などの奥付も同様の識 ① 語 と し て あ げ ら れ る 。 しかしながら、この﹃陰降録﹄ ﹃自知録﹄の二書については忍激自らが刊行の費用を泊したのであり、その政文
も ﹁ 願 和 白 山 ハ
ι
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﹂というように﹁我︵忍激とが重い意味をもって、衆生はそえられている言葉であり、その﹁我﹂ が止悪修善の良心を極め、了生脱死の浄域に鱗らんことを願うのである。ここに忍激の信仰のなかに前述した法然 の専修念仏とは異なる明末の仏教の影響をみることができるのである。 その背景には明末の四大師といわれる代表的仏教者たちの著書をはじめとする著作類や功過格などがかなり和刻 されていることがあげられる。法然院には忍激の手沢本が所蔵されていて、それらを調べることによって当時の出 版状況をみることができるとともに、忍激自身の関心もみることができるであろう。いまこころみに四大師のうち、 ⑬ 株宏︵一五三五i
二ハ一五︶と智旭︿一五九九l
一六五五︶の二人に限って、法然院の蔵書を調べてみよう。 株宏関係 竹菌随筆一巻 竹菌二筆一巻 竹筒三筆一巻 党網経心地品菩薩戒義疏護隠五巻 静閲策進一巻 菩 薩 戒 問 掛 川 一 巻 戒疏護隠事義一巻 直道録一巻 雲 棲 大 師 山 一 房 雑 録 三 巻 蒲陀経疏紗三巻 ﹃勧修作福念仏図説﹄の印施と影響 承応二年刊 // // 承応四年刊 明暦二年刊 寛文六年刊 寛文六年刊 寛文八年刊 元禄六年刊 承応二年 一 六 五 // // 一 六 五 五 一 六 五 六 一 六 六 六 一 六 六 六 一 六 六 八 一 六 九 一 六 五 七悌敬大皐大串院研究紀要第十五競 浄土或問一巻 悌遺教経論疏節要一巻 僧訓日紀一巻 具戒便蒙一巻 沙菊律儀要略二巻 楚 石 西 器 用 浄 土 詩 三 巻 智旭関係 浄信堂答間三巻 皐菩薩戒法一巻 発網経機悔行法一巻 阿弥陀経要解一巻 究室偶談一巻 見開録一巻 悌説驚経科註一巻 三千有門煩略解一巻 観 所 縁 縁 論 調 梓 直 解 一 巻 六 離 合 理 梓 法 式 略 解 一 巻 大乗百法明門論直解一巻 承応二年 承応四年 高治三年 寛文三年 寛文九年 寛文十二年 天和三年刊 宝永四年刊 宝永四年刊 延宝六年刊 延宝七年刊 延宝七年刊 延宝七年刊 延宝七年刊 延宝八年刊 延宝八年刊 延宝八年刊 一 六 五 一 六 五 五 一 六 六
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一 六 六 一 二 一 六 六 九 一 六 七 二 一 六 八 三 一 七O
七 一 七O
七 一 六 七 八 一 六 七 九 一 六 七 九 一 六 七 九 一 六 七 九 一 六 八O
一 六 八O
一 六 八O
八唯識三十論直解一巻 唐突師員唯識量略解一巻 因明入正理論直解一巻 八識規矩直解一巻 大乗止観釈要四巻 菩薩戒本経婆要一巻 般若波羅蜜多心経緯要一巻 金剛般若波羅蜜経観心棒一巻 四 分 律 蔵 大 小 持 戒 健 度 略 調 停 一 巻 天柴鳴空三巻 悌説究網経菩薩心地品合註五巻 金光明機法補助儀一巻 絶余編四巻 蓮池大師塔銘 古杭雲棲蓮池大師塔銘徳清 蓮宗八祖杭州古雲棲寺中興尊宿蓮池 大 師 塔 銘 井 序 懸 賞 雲棲本師行略 康潤 ﹃勧修作福念仏図説﹄の印施と影響 延宝八年刊 延宝八年刊 延宝八年刊 延宝八年刊 天和二年刊 天和三年刊 天和三年刊 天和三年刊 貞享元年刊 貞享五年政 一 克 禄 五 年 刊 元禄十二年刊 元禄十三年 寛文四年 一 六 八
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一 六 八O
一 六 八O
一 六 八O
一 六 八 二 一 六 八 三 一 六 八 三 一 六 八 三 一 六 八 四 一 六 八 八 一 六 九 二 一 六 九 九 一 七00
一 六 六 四 九元禄八年 同 和 解 元 禄 十 二 年 同 霊 験 妙 四 巻 宝 永 元 年 勧 善 宝 訓 宝 永 八 年 一 七 一 一 法然院所蔵の二師の著作だけにかぎっても多数見いだせるのであり、さらに明末の著作が多数入蔵されている明 ⑫ の万暦販をもとに刊行した黄葉版大蔵経の完成と普及は当時の日本仏教界の動向を物語るものといえよう。そして これらの時代の潮流のなかで、違和感なく忍激が自身の浄土信仰のなかに﹁作福の勧修﹂をもっにいたったのであ 傍敬大皐大皐院研究紀要第十五競 徳清 祭雲棲大師文 麓雲棲大師塔侮 ⑪ さらに功過格についてみるとつぎのような書物がある。 太上感応篇関係 勧善書抜奉五巻 太上感慮篇俗解 同筆註図説 朱鷺 寛文三年 延宝八年 // // ろ う 。 註 ① 前 項 注 ⑥ に 同 じ 。 ②﹃大正蔵﹄第四八巻九八七頁中。 二
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一 六 六 一 六 八O
// 一 六 九 五 一 六 九 九 一 七O
四 ③ 前 掲 拙 稿 参 照 。 ④﹃龍谷大学論叢﹄第二四四号、大正一一年。⑤元禄十四年︵一七
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一﹀二書一具のものとして関版さ れている。忍激が開版する経緯については﹁合刻陰際自 知三録抜﹂に詳しい。後註⑦参照。ただこの二録の使用 方法についてはその付録に忍激がつぎのように述べてい る 。 テ ヲ メ テ ﹁ 欲 v f 品 川 之 者 宜 下 各 随 ν所 v楽 自 作 二 格 目 一 而 依 一 一 自 知 録 一 以 ル 〆 ニ 〆 芯中善也↓今且準ニ陰際録之所 v載 唯 約 一 一 日 月 一 市 図 ニ 格 目 一 以 備 一 一 一 年 之 用 ご ⑥忍激抜、註④参照。 ⑦合刻陰際自知二録践 余嚢未 v見 ニ 太 徴 仙 君 功 過 格 一 又 未 v聞 v 有 下 震 旦 僧 儒 盛 行 ニ テ ル ト ノ ヲ メ ヱ 功 過 格 − 者 よ 故 雄 三 嘗 見 一 一 雲 棲 自 知 録 一 而 非 v不 v 信 駕 而 未 v フ 品 1 1 テ ノ ル 及 v行 駕 。 後 偶 譲 三 濁 庵 善 哉 賓 訓 載 一 一 積 徳 立 命 皐 一 始 知 一 一 白 知録之不 v可 v不 v 行。因自思立命一篇蓋案氏己験之霊 a y タ ル ノ ヲ 〆 セ ヲ ナ H 訓而亦能令三人信ニ受自知録一之賓券也。可 v 不 一 − 一 合 刻 共 a v F 山 ノ 行 ニ 干 世 一 哉 然 市 不 v F 一 此 篇 出 v 白 一 一 何 書 一 求 ぺ 之 不 v 得 。 テ 品 フ ユ ト 〆 テ 一 日 過 ニ 獅 子 林 一 間 湛 老 和 尚 一 肝 然 語 v余 目 立 命 之 皐 具 出 一 一 於 嚢 氏 陰 隙 録 一 也 。 裳 氏 諮 開 一 一 儒 調 停 一 貫 之 眼 目 一 而 深 達 一 一 − 一 〆 ミ ア ル ノ ヲ チ テ ヲ ユ テ フ ル 天 地 鬼 神 之 際 一 特 録 一 一 白 験 者 一 乃 告 ニ 之 子 一 以 博 一 一 於 天 下 後 ノ ナ p v 〆 ヲ タ ル ヲ 〆 ト 〆 メ ヲ 世一宮北⋮、蓋邦 v 施 口 教 化 一 弔 問 能 令 ニ 蒼 古 競 競 敬 v悪 行 d 善者莫 v切ニ於此一是以支那僧儒競コ刻陰隣自知二録一家 詠 一 凡 暁 札 三 ん 濡 7一 日 亦 払 飢 v 之 。 管 聞 日 本 あ v 有 ニ 比 挙 一 品 不 ニ ナ ラ テ ユ V テ カ ヲ 〆 セ y ト 一 戸 ザ 〆 テ 闘 典 一 銭 v是 昔 作 一 一 之 序 一 一 間 欲 一 一 刊 布 一 而 未 γ果葉。出 γ 之 輿 y ﹃勧修作福念仏図説﹄の印施主影響 余 看 先 見 一 一 龍 華 道 人 二 篇 合 刻 引 一 郎 符 一 一 部 懐 一 細 讃 ニ 全 篇 一 エ テ ヲ 喜 不 一 一 白 勝 一 益 信 人 間 不 v 可 v無ニ此二録一失。遂強 v 病 ア テ H h a p テ エ ル 寸 d ハ 黙 v之捨 v資刊行。於戯以 v此 従 v家 博 v家従 v園 博 v園 而 停 三 天下人戦競場属造二於止悪修善之城一則匪一一止行 v 此者 Y ヤ ル テ ヲ 襲v 禍 成 v福轄 v夫得 v 寿亦豊容 v不 下 以 v此 日 中 国 導 一 一 乎 政 道 一 之 小 補 且 巌 一 一 乎 来 報 一 之 助 業 上 也 哉 元 緑 辛 己 二 月 十 八 日 獅 子 谷 沙 門 忍 激 書 ③﹃浄土宗全書﹄第一八巻三三頁上。 ⑨﹁誓各指銀五銭共刻斯 観経玄義分一巻伏願 回此功徳普施法界共生安養費悟法忍沙門忍徴募刻 元禄辛未夏四月十五日師子谷升蓮祉識﹂ ﹁維陽優婆塞中川氏某喜捨若干金刻此 敷修吉水国光大師御博縁起一巻同目録一巻伏願以此功 徳居士及以六親春属乃至法界霊類斉超三有苦域頓登九 蓮柴邦者 仰翼吉水正宗流通海図一見一聞皆種揮因衆聖護念龍天 歓喜風雨以時災属不起人人皆得無量需慮慮悉成安柴園 享保二年丁酉之秋九月穀且東山獅子谷白蓮祉識﹂ ﹁ 妙 害 時 冥 一 幅 共 助 刻 斯 観経護誠疏四巻伏願 回此功徳普施法界共生安養費悟法忍 元職印成臓月如来成道日 沙 門 義 山 募 刻 ﹂悌 数 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 五 時 仇 ⑬ ﹃ 法 然 院 光 明 蔵 書 籍 目 録 稿 ﹄ に よ る 。 ⑪ 高 雄 義 竪 先 生 前 掲 論 文 と 前 註 ⑬ の 目 録 よ り 作 成 し た 。 巻 数 な き も の は 高 雄 論 文 に よ る 。 ⑫ ﹃ 大 蔵 経 請 去 線 牒 ﹄ に よ る 。 法 然 院 も 万 無 寺 と し て 一 大 蔵 を 購 入 し た こ と が わ か る 。
﹃
勧
修
作
福
念
仏
図
説
﹄
の
影
響
① 前述のように﹃勧修作福念仏図説﹄はその印施頭初からその受持者が多数現われ、それは近年にまで及んでいる ことがあきらかとなった。 そのような流布に伴い、日本的、浄土宗的に改変され、受持されてきたものがある。 に い う べ き も の で あ る 。 ﹃百万遍念仏図説﹄と仮り ② 長谷川匡俊先生が、﹁念仏図類のなかで日本人の作った最初のものではあるまいか﹂と紹介されている雲洞の ﹃丈六禰陀蓮曾講百寓念筒園説﹄が独湛の念仏図に触発され印施された﹃百万遍念仏図説﹄の第一である。 @ 雲洞︵一六六五l
一七三六﹀は廓蓮社然誉光阿見龍といい鞠津の阿弥陀寺第十世である。彼はその伝記によると 忍激の弟子の一人と考えられる。いつごろに師弟の関係を結んだのかは不明であるが、元禄七年の項にはつ、ぎのよ う に い う 。 同︿元禄︶七年師の歳三十。忍澄︵激︶和尚の命に依て泉浜法行寺に住す。此時一派一筒寺の由緒を坂陽の官 癒に訴へ允訴を象る。信しより飴寺に混ぜず濁立の一刻と成す。又事を和尚に啓して永代正五九月の百万遍会 を関白せらる。群参席を静ふ。故に堂前に庇及び傍を構ふ。和尚、師の護法の功をあらはし名牌を法行寺に建 て 、 第 五 世 と 定 め 給 ふ 。同 じ く 十年の項 に は 、 同︵ 元禄︶十年師の歳 三 十 三 、 蓮会講序の稿を懐に し て 獅峯に登り忍澄 和 尚 に 謁 し 素願 を陳らる 。 和尚殊に随 喜 し 給ふ。師 、 慶喜身にあま り 願望成就を 祈求して同四月廿四日より五月朔日まで獅谷の別一房に籍り七日別時 念 仏を精修 す 。 右 の よ う に 雪 洞 は 、 熱 心な百万 遍念 仏 実践者であって 、そうした 実践を重ねる うちに﹁蓮会講﹂の構想ができたこ とがわかる 。さらに 、 雪洞は丈六阿弥陀 仏 像の造立を発願し 、 忍激にその旨を話すと、忍激は感心し恵心作の丈六 阿弥陀仏の御首を与えた 。 こ れ に より雪洞が仏工に命じてできたのが現在阿弥陀寺御本尊であり、そのご本尊はし ばらく天王寺の西方、来迎 司 勧 修 作 福 念 仏 図説﹄の印施と 影響 阿弥陀寺所蔵「丈六弥陀蓮会講百万遍念箇図説」 庵 に あ っ たようである 。そ の開眼は元禄十二年正月 十 五日であるという 。 雲洞は元禄十六年︵一七
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三 ﹀ 、三十九 歳 で納津阿弥 陀寺に晋 山した 時のことを つ ぎのよ うに述懐している 。 我今 師 命 黙 止 が た く 、 ﹂ こ に 住すといへども 徳薄く 、才 短ければ 、傍 教 大 事 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 五 時 机 二 匹 させる利生方便もなし。然に此津は四来の商船轄湊の地にして結縁尤ひろし。不断念仏を関白し法音をして絶 へざらしめば、往来の商侶、夜泊の船客、海中の鱗甲にいたるまで解脱の勝縁を結ばしめんこと無辺の利益な るべしと。翌宝永元年正月十六日より七日百万念仏を関白として不断念仏を興行せり。 百万遍念仏は迦才の﹃浄土論﹄に源を発し、浄土往生の業として説かれ、日本では平安中期以降、これを修した 人々の記録が残っている。さらに浄土宗においては知恩寺第八世空円が後醍醐天皇の勅願によりこれを行い悪疫の ④ 流行を鎮静させ、これをもって祈薦念仏のはじまりとされていることは、よく知られているところである。 ⑤ 法然においては、﹃勅修御伝﹄にいうように、あくまでも自身の浄土往生の業として、一念一念の積み重ねを説 いているが、近世より如法真修とともに略法草修の百万遍念仏によって祈薦の念仏が全国各地で行なわれているこ ⑤ と も よ く 知 ら れ て い る 。 このような百万遍念仏に図説をもって印施普及したのが、雲洞の﹃百万遍念仏図説﹄といえる。 この百万念仏は、はじめ阿弥陀仏画像の前で勤修していたようであって、現在阿弥陀寺にはその画像、があり、そ の裏書にはつぎのようにある。 此丈六頭陀隼者乃是儀所願蓮曾講本尋也。元職葵未冬、依請住此寺。然本傍之像遥在揖州天王寺之西方来週庵 市不能迎此。是故白墨於彼木像以置此寺。糞蓮衆各上心行相績而永無退轄。従今毎歳正五九三箇月、於此像前 ⑦ 嘗期七日勤修乎。如法異議高聾念悌一百蔦遁失。血日皆同永龍集甲申正月百寓回向日。備之後州鞠阿禰陀寺現住雲 洞見龍飲誌 このように、それは如法真読の百万遍念仏がこの宝永元年︿一七
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四﹀より正月五月九月に行なわれていくのであ る。そしてこの同年に独湛の﹃念仏図﹄を見るのである。その経緯を伝記ではつ、ぎのように記している。 ③
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︵宝永元年﹀同年黄葉濁湛稗師、忍澄上人に託し、作福念併の園説を印施し給ふ。幸に師の百寓念傍園説 一日締結一昨と符節を合せたるがごとし、大に喜躍し、疑障なく師も亦百万図説を印施す o 賓永元年より今享保 二十一年にいたるまで凡三十三年の問、図説の印施幾千万張といふことをしらず。これを受持して百万念傍を か ず 修する行者、その員また算ふべからず。旦将来の法化も亦幾何ぞや。近来園説に和解を加へて念傍図説述賛と 名けて印行せり。 この雲洞の念仏図説は写真のように題を﹁丈六弥陀蓮会講百寓念箇図説﹂といい、左右と下段にはつぎのように あ る 。 八 右 側 ﹀ 古日。禰陀矯 v父 蓮 華 借 用 v母念傍矯 γ種 而 往 コ 生 浄 土 一 会 。 因 造 二 丈 六 輔 陀 一 彫 一 一 六 八 宝 蓮 一 而 魚 ニ 座 蓋 二 鴬 。 普 勧 一 一 法 界 〆 テ 衆生一欲ν使下納各各芳名於彼腹内一而坐中其座上也。且矯 v之 於 一 一 三 長 驚 月 一 永 修 一 一 員 讃 百 寓 念 悌 一 募 化 以 求 一 一 於 後 光 憧 蓋 之 巌 飾 一 故 設 一 一 蓮 曾 講 一 也 。 蓋 浄 土 法 門 以 一 一 決 定 心 一 震 一 一 本 根 二 為 。 熟 見 一 一 世 間 一 或 有 下 逢 一 一 無 常 一 而 護 心 念 悌 等 ν − 一 ソ ユ V ト 一 広 寸 セ へ ハ シ ノ テ ニ グ カ レ タ セ 種種行相幻難ν然鰯ν縁封ν境無 v不 一 一 驚 動 一 也 。 壁 一 角 一 如 一 一 樹 葉 随 ν 風 雨 動 ︸ 是 未 v 要一一安心念傍一也。夫安心者決定 γ 玉 フ ヲ ノ = ク レ ハ ノ 品 レ チ ノ ニ 〆 月 心也。今儀所願観下彼丈六殊勝隼像坐中於六八宝蓮上一同人人同在ν其腹内一斯乃極柴界曾之人而非一一裟婆糠土之 ム 寸 ハ ヲ 者 一 也 。 壁 面 一 如 下 移 一 一 樹 根 一 而 栽 中 植 於 木 櫨 中 上 也 。 如 ν斯安心積 v 功則就 v 聾 決 一 一 定 往 生 一 実 。 嘗 v知口稽之全睡印身 阿禰陀傍也。 八 左 側 ﹀ 元 禄 辛 己 秋 倣 一 一 蓮 華 曾 序 ↓ 且 設 一 一 国 説 一 欲 一 ニ 康 施 一 一 千 世 一 也 。 難 ν然 恐 一 一 人 之 不 v 信 而 無 一 一 臓 而 出 γ之実。宝永乙酉 ﹃勧修作福念仏図説﹄の印施と影響 二 五悌 教 大 事 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 五 披 二 六 γ 玉フ 春 偶 見 下 黄 柴 濁 湛 稗 師 所 一 両 施 一 之 作 一 踊 念 傍 園 上 興 一 一 愚 願 一 恰 如 v合 一 一 符 節 ↓ 因 鎮 v 梓以募化。所 γ 糞社友信v 之 也 。 フ 寸 ハ 抑徐聞読百八念珠放光蓋由一一高租事蹟一而行者稀名契一一本願念悌一則従 v 口必護ニ光明↓是誠名義具足故也。内 エリ J 有 一 一 六 字 一 者 標 一 一 本 願 念 傍 元 是 六 字 穏 名 市 名 睦 不 離 之 義 一 也 。 叉 有 一 一 九 蓮 一 圏 一 一 本 蓮 一 者 示 下 九 品 皆 化 中 生 於 鵡 陀 ム 寸 d ハ ヲ チ 本 座 蓮 上 也 。 本 蓮 左 右 書 一 一 員 讃 念 併 百 高 行 者 一 者 毎 二 聾 一 抱 一 二 珠 一 而 至 二 寓 唱 一 填 一 一 一 圏 一 則 百 頼 乃 満 一 一 百 寓 遁 ↓ 〆 ヲ γ 玉 フ ヲ ニ ソ ヤ ソ ノ 〆 回 一 ナ ル 寸 ハ 宜 v 書 一 一 名 於 本 蓮 上 一 也 。 然 則 従 一 一 傍 手 一 出 ν光掻一一取行者↓宣不 v悦乎。凡此法流一一停三圏一市利盆無量則新藤 薦抜皆嘗 ν行 v之 也 。 ︿下段﹀ ル 寸 ハ V 〆 ノ ノ ニ 見 ツ ュ メ ヲ 子 弦 園 一 一 蓮 座 一 蓋 準 一 一 蹟 師 蓮 華 勝 曾 意 二 一 小 一 一 蓮 曾 道 場 ↓ 且 毎 一 一 驚 月 一 修 一 一 百 寓 一 嘗 ニ 其 漏 散 一 布 一 一 此 蓮 座 一 而 園 札 名 簿 集 一 一 ヲ 〆 γ カ ラ 其 中 一 使 = 一 結 縁 衆 斉 一 一 百 高 行 者 一 表 一 一 生 俳 同 韓 之 座 底 ↓ 加 矯 徐 従 一 一 議 願 始 一 日 行 一 一 施 餓 鬼 一 及 修 一 三 季 鬼 祭 一 備 ニ 其 宜 ︿ 一 幅 一 叉 毎 歳 臨 一 一 勝 八 一 依 ニ 十 悪 機 悔 法 一 躍 一 一 菊 陀 二 二 千 除 。 叉 元 緑 年 中 以 一 一 此 百 寓 一 関 白 不 断 念 併 。 毎 二 千 日 一 建 一 一 厭欣旗一回ニ其行業一及以ニ右修善一恭奉一一蹴天下太平武運永久↓次児コ願蓮曾結縁二世安穏五穀成就寓民豊柴刊 〆 ヒ 有 悌 日 盆 廓 慈 光 無 v 隔哀感覆護此世及後生願悌常揖受会。賓永丙良正月土日日然血管雲洞慶謹誌 この識語の下には﹁備後州新津心光山護念院阿弥蒲陀寺蔵版﹂と記されている。 この縁起によれば独湛の﹃勧修作福念仏図説﹄の刊行がきっかけとなって、雲洞も﹃念仏図説﹄を印施したと記 している。しかしながら私は雲洞の﹃念仏図説﹄そのものも実は忍激あるいは独湛あたりの人たちから、念仏図や 功過格などを開いて雲洞自身が考えていたものであると思うのである。なぜならば雲洞の伝記には忍激を師と仰ぎ 求道遍歴する姿が描かれている。さらにその伝記である﹃雲洞和尚行実﹄の著者は桂鳳であることによる。法然院 の中興二世忍激を師と仰いだ雲洞、さらにその雲洞を師と仰ぐのは法然院中興第八世の桂鳳という関係が堺の法行
寺を中心にまわっているのである。 ﹃忍激和尚行状記﹄によると法行寺の館建はつぎのようである。 同五年師三十三歳堺に宗春といふ尼あり本は畑山氏の妻なり。 一日世の無常を悟り出家し師の化盆を鯖依し念 併す。また師の隠遁の志あるを察し依て閑寂の寺を建立し師を開山住持とせんと思ひ其事を具に師に語る。師 の日我不徳なり。何ぞ開山と成ベきや。然れども一ケ寺建立の願をば辞退すべからず。我この事を知恩院の寓 無大和街に啓して大和尚の御影を詰じて開山とし我は位牌を建て二代となり。浄一繭寺の恵順上人を請待して三 代目住持出ば如法に勤行すべしと申されければ宗春ます/\蹄依し一ケ寺建立の願決定す。師またをもへり契 経に新に寺を造る功徳よりは故き寺を再建修覆するにはしかずとあり。故に廃寺を再興せんと思ひ同六年師三 十四歳知恩院に上り寓無大和備に拝謁し宗春の心願を演らるふに大和尚開て喜び即ち末寺の宗仲寺といふ藤壊 の寺競を法行寺と改め園戒道場の酒肉五辛禁制の石碑を許し永式を定めまた金繍の袈裟を賜ふて閉山とならん との隼命を蒙り堺に蹄り信尼に告らる。信尼喜び師の指闘を守り再建し供料を寄附して檀越の資とす。本隼阿 鵡陀如来は師恵心信都の作の牟面を得て悦びまた牟面なきことを歎き居れけるが翌年また牟面を得て喜び大き さといひ相好といひ似させ玉ふゆゑにこれを合せ見らるふに寸分のちがひなくあひあふ見聞の人奇異の想をな す。師喜び即ち併師に命し御身と座光等を作らせ荘巌して法行寺の本隼とせり。この寺後に獅谷の末寺となり。 同七年師三十五歳法行寺にて善導大師の俸を集め別俸に註調停を加へ印刻して大師千年忌報恩のために弘通せら る。この別停纂註二巻わづか三十日の述作なれども能く善つくし美つくせり。門弟たるものは奔見すベし。 そこへ、忍激の命により法行寺第五世となって雲洞は元禄七年ハ一六九四﹀に晋山する。この頃にはすでに法然院 と本来関係がはっきりとしていたようで元禄八年の﹃手鑑﹄⑨に、 本寺京獅子谷法然院 浄土宗法行寺 慈福山 ︵ 巷 ﹀ ﹃勧修作福念仏図説﹄の印施と影響 二 七
併数大皐大皐院研究紀要第十五披 二 八 と 記 さ れ て い る 。 そして享保二十年︵一七三五︶年、桂鳳は雲洞の念仏図説に対してその﹃述讃﹄を著わし、さらに元文元年︵一 七三六︶に﹃雲洞和尚行実﹄を著わすのであるが、二書の奥付によってい、ずれも法行寺に桂鳳が住居していたこと が わ か る 。 このような間柄であったからこそ、桂鳳は雲洞の没後わずか十ヶ月のうちに師の伝記を編纂刊行したり、その著 ⑬ ﹃現証往生伝﹄には鞠津や雲洞の縁故者を登場させているわけである。なかでも信女蓮月の往生によって夫祐信は 雲洞に全島を喜捨した、とあり雲洞はそれをもって阿弥陀寺に嘗麻蔓茶羅一鋪を購入したという。 以上、流々述べてきたが、雲洞が忍激のそばにおり、又黄葉僧との親交もあったと考えられるから、当然、当時 中国で流行していた念仏図の存在は聞いていたものと思われる。そのような影響をうけて﹃図説﹄でいうように自 分なりに考案し百万遍念仏図説をつくったものであろう。それは桂鳳が述べるように、﹁かれは作福をかね、これ @ は専修をすすむ、これその異なり﹂と述べる違いとなるのである。 ﹂の雲洞の百万遍念仏図説と同様のものが二本ある。 一本は早稲田大学ゴルドン文庫にある享保年中に印施されたもので武江明顕山二世祐海識語のものである。これ は﹁勧修百万遍十界一心願生西方作福念仏国説﹂といい、中央上段には嘗麻憂茶羅中台の三尊像を描き、中段には 極楽の蓮池を描き、下段には願往生者が二尊、六方諸仏から証誠護念されている図があり、それを三方から取りか ⑫ こ む よ う に な っ て い る 。 もう一本は独湛の念仏図説として大賀一郎先生がいわれたものである。この題は﹁勧修作福百万遍二世安楽図 説﹂という。弥陀三尊像と往生者を中央に描き、右縁は﹃観無量寿経﹄の上品上生の段を抄録し、左縁には独湛の
⑬ 詩を四首のせ、下縁には銀椀鏡の識語をのせている 。 黄緊堂所蔵「勧修作福百万遍二世安楽図説」 以上の諸本の他に百万遍の図説を簡略化したものが常陸国月山寺にて﹁百万遍念仏の御影﹂として授与されてお ⑬ ⑬ り、洛陽天性寺においても同様のものがあるから、これら﹁百万遍念仏図説﹂も近年に至るまで広く用いられてい たことがわかるのである 。 ﹃勧修作福念仏図説﹄の印施と 影 響 二 九
洛陽犬性寺勾施
︵ 併 教 大 学 浄 土 宗 文 献 セ ン タ ー 所 蔵 ﹀ 係 数 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 五 時 机 ゐ今日。夢とまっく成樹之えつえ忍?イミ伊ワルバナベんE
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ず ペ ム 註 ①前掲長谷川匡俊先生論文参照。@
﹃民間念仏信仰の研究﹄資料篇四三九i
四四六頁には室。
裟婆に念仏つとむれ パ浄土に蓮ぞ生ずな る。一生つねに退せ ねば、この花かへり てむかふなり。一世 の 勤 修 ハ 須 奥 の 程 、 衆事をなげすてねが ふべし。ねがハば必 むまれなん。ゆめ /\をこたる事なか れ。念仏一遍んをも 恥って此圏一ツをうづ 民ミ、四辺うづミおハ ニれパ千べんとなる。 J r 十遍んにて一ツうづ は め ハ 一 万 ベ ン 、 百 。 へ はんをもってすれバ十 点万遍んなり、千べん 訟なれバ百万ベんとな 怯る也。洛陽天性寺印 a施。町難文明年中にはじまる釘念仏が報告されている。その 縁起は元禄五年三六九二︶に改装されているが、そこ には五輪塔に四九の穴があいている札のあることを記し ているから、念仏図類ではこの釘念仏の方がはやいであ ろ う 。 ③﹃雲洞和尚行実﹄一巻桂鳳撰。 ④﹃民間念仏信仰の研究﹄資料篇三七頁、五六
O
頁 。 ⑤第二三巻﹁百万遍の事﹂の項参照。 ⑤ 註 ④ 三 七1
四 二 頁 。 ⑦宝永甲申年は元年であるが、それは=一月二二日からで 正 月 は ま だ 元 禄 一 七 年 の う ち で あ る 。 ③披見したもののうち宝永元年本は獅子林蔵版であって、 獅谷本は未見である。しかし、忍激の識語が宝永三年で あるから、忍激印施本はやはり宝永三年本とみるべきで あ ろ う 。 ⑨ ﹃ 手 鑑 ﹄ ︵ ﹃ 堺 市 史 ﹄ 巻 第 五 、 六 = 一 頁 。 ︶ ⑬妙供、妙本、妙生、栄寿、肇覚。 ⑪﹃念仏図説述讃﹄巻下一丁ォ。 ⑨その説明はつぎのようである。 職修百万遍十界一心願生西方作福念傍聞説 勧 修 園 説 意 趣 酬 一 一 人 謂 一 也 、 動 修 化 導 、 百 万 遍 数 量 、 ナ 日 〆 ノ へ ヲ ユ ︾ ノ ル ト 其 来 由 支 那 道 生 、 信 一 一 道 縛 教 一 七 日 七 夜 無 間 修 得 一 一 大 往 ﹃勧修作福念仏図説﹄の印施と影響 あ 一 品 矢 元 札 口 勺 百 寓 遍 払 ニ 傍 民 一 一 民 小 経 あ 一 日 乃 至 七 日 念併恥人ι
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