◎論説中国西部大開発
西 部 大 開 発 の 研 究 に 歴 史 意 識
おける馬敏・鄭成林
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中国の西部大開発を研究するには歴史意識を備えていな
くてはならない︒この歴史意識を︑本文では以下の三方面
の内容に概括してみよう︒
西部大開発は一つの歴史の発展過程である
中国史上の西部開発は二つの段階に分けることができる︒
一つは階・唐以前である︒この時期は︑西部を全国経済の
立脚地とし︑開発は西北を中心にその他の地区へ広まった
か︑あるいは西部開発を模範として他の所へ広まった︒も
う一つは︑晴・唐以降︑具体的に言えば"安史の乱"後の
西部開発である︒この時代の開発は︑西部経済がはっきり と中部と東部より立ち遅れていた情勢下で進められたもの
で︑西部がより発達した中・東部地区との差をできる限り
縮める過程であった︒
西部は中国文明の発祥の地の一つである︒世に誇るべき
周・秦・漢・唐の建国は外でもない関中平原でおこなわれ
たものであり︑中国の先進的な経済文化も西部を通して世
界へ広まっていった︒関中に建った勢い盛んな王朝の西周
は︑西部とりわけ西北の経済開発を王朝の政策に組み込み︑
かつこれを建国の基本点とした︒歴史の記録によれば︑周
の穆王は膨大な隊列を率いて毘器山を越え︑沿道の各地方
と各民族に初めて外界と接触・交流・協力する機会を作っ
た︒王が通った所では︑そこに住む民族の視野と文化︑さ
らに生産方式にもある程度の向上が見られた︒
西部大開 発の研 究に おける歴 史意識 57
周の後の秦朝は︑歴史は短かったが︑その存在は西部の
開発にとってかなり重要な意義を持っていた︒﹃史記﹄と﹃資治通鑑﹄の記録によれば︑秦の始皇帝の西部に対する開
発は︑主に農業・交通・文化教育・行政区画・戸籍管理・
都市建設等の面について行われ︑西部の社会経済の発展を
かなり促した︒漢代および三国時代では︑王朝統治者は自
らの統治をゆるぎなくするために︑関中平原と成都平原の
開発に力を入れ︑大量の移民による開拓だけでなく︑水利
も広く整備した︒長い開発を経て︑関中平原と成都平原の
社会経済は比較的速く発展し︑相前後して"天府"と呼ば
れた︒﹃史記﹄によれば︑﹁関中の地は︑天下の三分の一に
相当し︑人口はわずか十分の三しかないのに︑物が豊かで︑
十分の六を占めている﹂︑成都平原には都江堰があるので︑﹁水と陸は人につき従い︑飢饒を知らず‑‑‑蜀は豊かで養生
するのに適している﹂︒特筆すべきは︑漢の武帝時代に切り
開かれたアジアとヨーロッパを横断するシルクロードに
沿って︑都市や小都市が繁栄したことである︒例えば楼蘭・
且末・都善等はすでに国内外で有名であった︒﹁胡の商人が
時には辺境の地に現れた﹂だけではない︒当時世界で最も
先進的な製品であった絹織物が西北全域のシルクロードを
通って世界へ広まっていった︒シルクロードを通じた交流
は︑外国に中国に対する理解を深めさせ︑中国人にも世界
について比較的はっきりした認識を持たせた︒周・秦・漢 代の西部開発は︑良好な経済効果と社会効果を収め︑その
直接的な効果によって西部経済の発展が中部と東部の経済
の発展を導き︑中国史上で最初の経済発展の高まりが現れ
た︒
階・唐は中国古代社会の最盛期であり︑西部の社会経済
開発も新たな時代に入った︒階代は国の勢いが盛んで︑外
に対する影響が深く︑西部の開発も国際的な交流の背景の
下に置かれた︒階の文帝はかつて重臣を河西・西域等の地
へ派遣し︑他国の使節や商人に対して調査や聴き取りを行
い︑﹃西域図記﹄四巻を書かせた︒その後︑この本は階代の
対外政策を定める基本的なよりどころになった︒晴の場帝
ロ はさらに自ら張液に赴き互市をとりしきった︒これは中原
の皇帝が張液で互市を主宰した最初で最後のケースであっ
た︒この互市において︑場帝自らの引見を受けた外国や少
数民族の使節は二七国(族)に達している︒外国商人や使
節の来訪を奨励するため︑晴王朝は沿道に﹁駅姑﹂(宿場)
ムつむを設置し食住・交通・防衛人員を提供した︒このほか︑晴
代はさらに西部において開墾を強力に実施し︑この地域の
農業生産を大幅に進展させた︒政府の重視によって︑西部
の社会経済は急速に発展し︑階の国際的地位もそれに応じ
て高くなった︒
唐代前期︑西部は比較的良い発展の時代を経験した︒唐
王朝は西部で大規模に屯田を行っただけでなく︑水利を広
く整備した︒研究によれば︑唐代西北の屯田は五八四屯に
達し︑全国の十分の一を占めるにすぎない西北地域の農民
が︑全国の九〇パーセント以上の穀物を提供した︒軍事の
需要を満たすために︑政府は西部の交通運輸についても重
視し︑各交通要路において多くの駅姑を建て︑客観的には
シルクロードを往来する商人の便をはかることになった︒
この時代︑シルクロードの交通はさらに便利になり︑絹貿
易の内包はさらに豊富に︑外延もさらに拡大した︒中原の
旅商人と胡の商人のにぎやかな交易の場景は︑この時代の
壁画に生き生きと描かれている︒史書は唐玄宗の天宝年間
を﹁中国は強大で︑安遠門から西の唐の境界まで一万二千
里あり︑村里が数多く生まれて︑桑や麻が野を覆い︑豊饒
は朧右︹訳注開甘粛から新彊ウルムチまでの地方︺にまさ
ムヨ るところはないと言われている﹂と書いている︒このほか︑
唐代には"揚一益二"という言い方もあった︒益州すなわ
ち成都一帯は当時︑長江下流の揚州と肩を並べるほどの経
済文化の非常に発達した地区であった︒これらの材料が力
強く物語っているように︑唐代中前期の中国西部の農牧業
と紡績手工業は︑全国上位を占めるまでに発展していたの
である︒
唐の天宝一四年(西暦七五五年)︑"安史の乱"が始まっ
た︒この動乱は八年をかけてやっと平定されたが︑強大な
唐王朝もこの時から立ちなおれなくなった︒この動乱で破 壊が最もひどかったのは黄河流域で︑そのうち河北・関中
が最もひどく︑たくさんの州や県の人口が元の一割以下に
減少し︑農業経済は壊滅的な打撃を受けた︒九〇四年︑唐
王朝はやむなく洛陽に遷都した︒朱温が長安を壊滅的に破
壊したのち︑長安は一一世紀の長きにわたった全国の経済・
政治・文化の中心としての歴史に終止符をうち︑初めて中
原の概念の中から抜けて︑西部と一層緊密なつながりを持
ち始めたのだった︒"安史の乱"およびそれが引き起こした
一連の変化によって︑西部ばかりか北方地域全体の社会経
済が破壊されたのに対し︑南方地域は生産秩序の面でかな
り安定し︑その開発も黄金時代に入った︒こうして中国経
済の重心は南に移り始め︑政治文化の中心もこれに伴って
移動した︒西北の政治経済の地位は急速に下降し︑西部の
開発もこれに伴って第二の段階に入った︒
五代十国時代︑全国が混戦状態に陥った︒各政権は西方
を顧みる力がなく︑西部は防衛範囲の外に置かれた︒宋代︑
とりわけ北宋は苦心して西北で屯田を行ったが︑党項(タ
ングート)等の民族による妨害︑生態環境の悪化に加え︑
再開された青唐道もとても不便だったので︑効果は非常に
小さかった︒その上︑羅針盤が航海で使われ始め︑南方の
海のシルクロードが日増しに繁栄し︑長年にわたり繁栄し
てきたシルクロードもだんだん衰えていった︒北方では戦
乱が絶えず︑経済が破壊された時代でも︑四川は戦略的地
5g一 西部大開発 の研究 にお ける歴史意識
位の重要から宋王朝の重要な軍用の食糧や飼料の供給地と
なり︑発展し続けることができた︒しかし︑宋は四川にお
いて河を境に大理と接し︑その一部分だけを支配するのみ
であり︑西南の政治的威勢は以前ほどあがらず︑四川と宋
統治下の他の地域との格差は少しずつ拡大していった︒こ
の時代︑各少数民族政権は西部の社会経済の開発にも比較
的大きな努力をはらったが︑南北格差の拡大を阻むことが
できなかったのは否定できない︒元朝は統一を実現した後︑
西部の経済を回復するため︑例えば︑援助︑救佃︑移民︑
屯田︑開墾奨励︑水利事業などの一連の措置をとった︒西
部の経済もこの時からある程度の好転の気配が見られ︑中
国に来たイタリア人探険家マルコ・ポーロもその"工業と
商業の繁栄"を大いに賞賛した︒しかし︑好景気は長くは
続かず︑元朝の統治は保守的で利を貧る方向に急速に転換
した︒これに加えて各種の自然災害が次々に襲い︑西部と
中原や東南との格差は依然として拡大し続けた︒
明清以降︑国境警備の必要から︑王朝は絶えず西北と西
南の国境で屯田を行い︑軍需と飢餓に苦しむ民の救済に役
立て︑西部開発に力を注いだ︒研究によれば︑この時代の
西部に対する開発は︑主に大規模な移民開墾と︑茶馬互市
を主な内容とする民族間貿易の二つの面に集中していた︒
屯田によって西部の大量の荒地が開墾され︑土地利用率も
大いに伸びた︒例えば︑明代初めの洪武末期︑河西の屯田 は一・六三万頃︹頃は百畝︑すなわち約六・六六七ヘクター
ル︺︑神宗の万暦初年には四・六万頃まで増加した︒清の初
め︑戦乱によって激減した人口を補うため︑政府は大量に
西部に移民させ︑さらに水利を広く整備した︒十分な農業
労働力と︑効果的な水利建設︑さらに清中葉の開明的な政
治によって︑西部の農業生産は急速に回復し発展すること
ができた︒手工業と商業も次第に栄え始め︑やがて四川に
成都と重慶の二大商業センターが形成された︒茶馬互市は
遊牧民族と農耕民族間で物々交換する特殊な貿易形式で︑
中国の商業貿易史と民族史において重要な地位を占めてい
る︒明代には﹁毎年茶税の徴収は馬を買い入れるのに使い︑
各庁の役人が実際にそれを管理﹂し︑王朝の官吏が﹁陳西
甘粛で遊牧民の馬を交易する﹂のに関わる事務を請け負い︑
中原と西部の少数民族間の往来を深めた︒清王朝は大体こ
の制度を踏襲し︑西北地域において大規模に茶馬互市を行っ
た︒例えば︑甘粛の茶葉だけで=二六万四八〇〇斤あり︑
全国の茶商に与えた売買特許券二万八七六六のうち︑甘粛
の五茶馬司がそのうちの九五パーセントを占めていた︒茶
馬互市は農牧業経済を繁栄させ︑農業地帯と牧畜業地帯の
生産と生活構造を改善し︑民族の団結を促す等の面で非常
に重要な役割を発揮した︒しかしこれによっても東西の経
済格差の更なる拡大を妨げることはできなかった︒
一九世紀四〇年代︑"天朝上国"を自認していた清王朝が