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有機体説と弁証法(二)

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(1)

有 機 体 説 と 弁 証 法

︵ 二

川 田 俊 昭

﹃ 国 民 経 済 学 史 ﹄ の 著 者 J   E

・ ザ

‑ ‑ ン ( S a l i n , G e s c h i c h t e d e r V o l k s w i r t s c h a f t s l e h r e , 2 A u f l

⁚ 1 9 2 9 . 高 島

善哉訳)によれば︑マルクス経済学は'﹁社会主義と歴史主義 ‑ 進化主義的科学﹂(同書'第三章題目)とし

て ー換言すれば︑/r発展﹂を志向する﹁進化主義﹂(進化論・生物進化論)の一類型として ‑ 歴史学派経済学

ヽ   ヽ

(或はコント︑スペンサー等を含む所謂﹁有機体説﹂)と併置される.時〜恰も十九憧紀であるo ザ‑‑ンの云

う︑﹁斯‑して︑我々の所謂﹃発展﹄の思想が道標として︑サン・シモンやマルクス流の社会主義的図象や概念の背

後に控え︑‑ス‑,ヒルデブラン‑︑シュモラーの歴史主義の背後に控え︑コント並びにスペンサーの社会学の背後

に控えていることが示される‑﹃進化主義Evolutionismus﹄こそは︑恰もそれが哲学又は生物学の指導原理を表

しているのと全く同様に︑この時期の全経済及び経済学説の統一的目印である︒‑‑我々は先づ︑それが社会主義学

乱に表現された有様を追求する﹂︑と︒

^.,,レーニンも︑その論文﹁カール・マルクス ‑ マルクス主義への手引き ‑﹂(一九一四)において︑斯

かる事態を是認する︒(もっとも︑マルクス・エンゲルスの優越において︑ではあるが︒)レーニンの云う'﹁今日

(2)

経 営 と 経 済

一 七

O

では︑発展︑進化の観念が全んど余すととろなく社会的意識に入り込んでいる︒:::しかしマルクス及びエンゲルス

がへ!ゲルから出発してこの観念に与えた定式化においては︑乙の観念はありふれた進化論よりも遥かに包括的で

あり︑遥かに内容豊富である︒:::最も包括的な︑最も内容豊富な︑そして最も深遠な発展論としての.へ

l

ゲルの弁

の定式化を︑彼等は︑ マルクス及びエンゲルスは︑古典的ドイツ哲学の最大の業績を認めた︒発展・進化の原理の他の一切

一面的で内容貧弱であり︑自然及び社会における(屡々飛躍・崩壊・草命に於て自己を貫徹す 証 法 の う ち に ︑

る)発展の現実の経過の曲説であり︑歪曲であると考えた︒﹂

が︑そのへ

l

ゲルについては︑︐││各人によって多少の見解の相異があるとは云え││彼が︑いわば︑カントの申

し子︑そしてドイツ浪漫派の一人であると共に︑歴史学派(の方法論)の生みの親

l

i

強力な有機体説論者(哲学的

・生物学的)でもあったことをも︑併せて銘記さるべきなのである︒弁証法と有機体説との一致!﹁苦は花が開く

ことによって消える︒人は云うことが出来よう

1 1

1

苦は花によって否定される︑と︒同様に果実によって花は︑植物

の虚在と宣告される︒そして︑植物の真相として︑花の代りに果実が現れる︒これらの諸形態は︑自己自身を区別す

るばかりでなく︑相互に両立し難きものとして排斥し合う︒だが︑それらの流動的性質は︑それらを同時に有機的統

一 の

契 機

た ら

し め

そとではそれらは闘争し合わないばかりか︑何れも等しく必然的なるものである︒そして︑

こ の

同等の必然性が始めて全体の生命を形成するのである口﹂(へ

l

ゲル︑﹃精神現象論﹄︑序言)

弁証法における﹀ロ巳各│豆町包各 l

﹀ ロ

E

円包各としての全体の構造は︑単なる形式論理でなく︑有機体(

B

人間・社会を含めて)に備わる一実質である︒﹁ディルタイは︑青年期のへ

l

ゲルに関して︑﹃へ

l

ゲルはすべての現実

態の性格を生の概念によって規定している︒生とは︑彼にあっては︑部分が全体と切り離されては存在もし得ない

(3)

し︑又︑考えられもし得ないような︑全体と部分どの関係である︒

一つの多様的なるものが現存するが︑しかもそれ は右の如き結合においてのみ全体における部分の総体として存在し︑又理解し得られると乙ろに︑生の性格があるの

である︒多様性を統一において捉えると乙ろの︑全体としての生のこの根本概念からして︑全体︑部分︑統一︑分離︑

対立︑粘合の諸概念が当時のへ

l

ゲルの思惟を支配するととになる﹄

( g p F 3 w E O E m g

m

o s z s z

o m

o z ‑ ‑

と云っているが︑ 正に斯かる生の関係乙そ︑﹃有機的﹄と称された関係である︒﹂(福井孝治︑

﹁浪漫的有機的社会

観と強力国家思想﹂︑﹃経済学の基礎にあるもの﹄︑昭和コ一三年︑所収)

一 サ

ン プ

ll

即ち︑生物有機体(この場合︑植物)に拠った・弁証法

H

有機体の論理といった・掬すべき一サンプル(一

見︑通俗を軸としながらも︑その実︑極めて重要な合意と展開をもっ

1 1

本稿の前・後記に直ちに密着・必然の

11 )

を ︑

自 に

か け

よ う

じ ね ん こ と わ り

﹁ 木 に 花 の 咲 く と き は ︑ そ の 極 は 土 中 に 溶 け て 姿 を 失 う が 自 然 の 理 ︒ ﹂ ( 有 吉 佐 和 子 ︑ ﹃ 出 雲 の 阿 国 ﹄

) :

‑ i

l l

t 先稿﹁有機

体説と弁証法﹂(経営と経済︑第一一七号)中︑カント︑へ l ゲルにおける植物又は樹木の除えに集約・明示した如く

li

こに乙そ︑自然(社会)の弁証法︑﹁弁証的なるもの

ι

は在ると称すべきであるが故に!(社会?:::)﹁お国は都四条

aF

ル﹄

&

口ト

AR

の河原に歌舞伎の種を蒔き︑以来花は今︑江戸から諸国一円に咲き乱れ︑阿国歌舞伎は持たなかった蛇皮線賑やかに︑時世の

好 み

に 応

じ て

花 の

色 香

も 変

え て

行 く

か に

見 え

る ︒

: :

: ﹂

ひ と つ ぶ た だ ひ と あ み

﹃ 一 一 位 の 麦 ︑ 地 に 落 ち て 死 な ず ば ︑ 唯 一 つ に て 在 ら ん ︒ も し 死 な ば ︑ 多 く の 呆 を 結 ぷ ベ し ︒ ﹄ ( ヨ ハ ネ 伝 )

有機体説と弁証法

(4)

経 営 と 経 済

, 七

言わずもがな︑それらの動力は内に乙そ在る︒﹃身の内には火が燃えちょうけん気をつけろ︒﹄﹃傾くなや︒﹄

I l

‑ ‑

: :

﹁ 否

又は矛盾の媒介による自己止揚への衝動﹂:::﹁弁証法とはとの内在的な移渡︑そこでは悟性の諸規定の一面性と制限性は︑

それが在るところのものとして︑即ちそれの否定として自らを表現する︒一切の有限なるものはこのもの︑自己自身を止揚す

るということである︒弁証的なるものは従って学問的行程の運動する魂を形造り︑そして︑それによってひとり内在的なる聯

関と必然性が学問の内容のうちへ来り︑並びにそのうちに一般に有限なるものを越えての真実なる・外面的ならぬ高揚が横た

わっているところの原理である︒﹂

﹁これまで徹密なものと感服していた江戸の芝居の舞台が︑俄かに索漠と見えて来た︒千両役者の台詞廻しゃ所作の一つ一

つは美しいが︑それを繋いでいく太い力が欠けている︒余りにも画然と整理され︑余りにも小椅麗に統一されていて︑凝縮が

なく︑流転がなく︑律動がなく︑摩擦がなく︑激突がなく︑爆発がない︒﹃収まっちよるのう︒こげなことでええ筈はない︒﹄

か ぶ 傾き

11 0

民衆の満されない怨念︑自由と真実への希求がどろどろに煮えたぎり︑権力の規制を押しのけて溶岩のように突っ

﹁血みどろ給金﹂︑小説 そのどきどきとするような危険の美乙そが歌舞伎芝居本然の姿ではないのか︒﹂(榎本滋民︑

現代︑昭和四五年二月号:::現代の本邦歌舞伎︑歌舞伎役者に対する私の不信︑不満の

A A ‑ ‑

一 つ

に ︑

ζ

乙にその理由は ある︒単なる所作事︑単なる見世物としての終始︑剰え︑その誇示

12

2

化 は

︑ 歌 舞 伎 に し て ヂ こ

︑ い わ ば

弁証法を失ったことに由る︒) 走

る ︒

(5)

三木清(或はマルクス)にあっては︑

有機体説的限界のために)

ヘ ・

l

ゲルの弁証法は︑

その観念論的前提のために(というより︑むしろ

﹁弁証的なるもの﹂が制約され︑ そのため︑自己自身の基礎たる(筈の) ﹁弁証的なるも

の﹂と矛盾するに至り︑唯物弁証法へと転化するもの︑として捉えられた︒三木清の云う︑﹁観念弁証法は︑恰もそ

れが観念論の基礎の上に立つが故に︑弁証法における﹃弁証的なるもの﹄と矛盾するに到り︑斯くて︑ その反対のも

のに︑唯物弁証法にまで転化した︒私は:::この転化の必然性を闇明するであろう︒しかもその場合私はまさに有機

体説を媒介とすることによって私の課題を解決するであろう︒:::私は云おうと思う︑弁証法はへ!ゲルにあって著

しく有機説への傾向を含んでいる︒:::へ

l

ゲルを解放して真にへ

l

ゲルたらしめたのは却って唯物論者マルクスで

あった︒﹂(﹁有機体説と弁証法﹂︑﹃社会科学の予備概念﹄︑昭和四年︑所収)

他 方

︑ '

マ ル

ク ス

は 云

う ︑

正反対である︒へ

l

ゲルにとっては︑思惟過程が現実なるものの造物主であって︑現実的なるものは思惟過程の外的

イデー

現象を成すに外ならないのである︒しかも︑彼は︑思悦過程を理愈という名称の下に独立の主体に転化するのであ

﹁私の弁証法的方法は︑ その根本に於て︑ へ

l

ゲルの方法と異っているのみならず︑

そ の

る︒私に於ては︑逆に︑ 理念的なるものは人間の頭脳に転移し︑翻訳された︑物質的なるものに外ならない︒:::弁

証法は彼に於て頭で立っている︒神秘的な殻に包まれている合理的な中核を見出すためには︑ これを顛倒しなければ

ならない︒﹂(﹃資本論﹄︑第二版後書)

で は

マルクスの唯物弁証法乃至彼の体系に一貫せる

の完全なアンチなのであろうか?

立場における私の回答である︒(それが実に又︑本篇の主題でもある

o )

実 は

︑ 否

!

﹁弁証法的方法﹂は︑三木清の強調せる如く︑有機体説へ

むしろその逆︑しかも徹底したその逆こそ真である︑というのが︑固有の

マルクス自身︑彼の﹃資本論﹄第二版

後 者

一 日

に 於

て 採

り 上

け た

一 論

文 ︑

﹁ ﹃

資 本

論 ﹄

の方法を取扱っている一論文﹂(ぺ

l

テルスブルク﹁ヨーロッパ報知﹂

有 機

体 説

と 弁

証 法

一 七

(6)

経 営 と 経 済

一 七

八七二年五月号)において︑既に︑その言及がある口同論文に日く︑﹃:::要するに︑経済生活は︑我々にとって︑生

物学の他の諸領域における発展史に類似した現象を呈示する︒:::旧い経済学者達が︑経済的諸法則の性質を物理学

や化学の諸法則になぞらえた時︑彼等は︑これを誤り解したのであった︒:::現象のより深い分析は︑社会的有機体

相互が︑植物有機体や動物有機体と同様に︑根本的に異っているということを証明した︒:::否!

が全く異った諸法則の支配に服するのであるが︑それは︑かの有機体の全構造の異れる結果であり︑又その個々の器

官が相異り︑更にそれらの諸器官の機能する諸条件が異れる乙とその他の結果なのである︒マルクスは︑例えば︑あ

らゆる時代︑あらゆる所において︑人口法則が同一であることを否定する︒反対に︑彼はあらゆる発展段階が︑その 一つの同じ現象

固有の人口法則をもっていることを確言する︒:::生産力発展の程度の異ると共に︑諸関係は変化し︑これを規制す

この観点から︑資本主義的経済秩序を探究し︑説明しようという目標を立てて︑ る諸法則も変化する︒

マ ル

ク ス

は ︑

経済生活のあらゆる正確な研究をもたなければならぬ目標を専ら精密に︑科学的に定式づけている︒:::このような

探究の科学的価値は︑一つの与えられた社会的有機体の成立・存続・発展・死滅及びこの有機体の他のより高いそれ

による代置等を規制する特別の法則が明瞭にされる所にある︒そして︑事実︑ マルクスのこの書は斯かる価値をも

っている︒﹂(註︑マルクスの所謂﹁生産力

1 1

生産関係﹂の位置に︑そのまま﹁有機体﹂を充当し得る可能性については︑拙稿

﹁ ア

ジ ア

的 社

会 に

対 す

る 科

学 的

分 析

の 方

法 論

│ │

l

ル ・

A

・ ウ

イ ッ

ト フ

ォ l ゲ ル の 場 合 │ │ ﹂ ︑ 東 南 ア ジ ア 研 究 年 報 ︑ 一 九 六 八 年

第十集︑参)

﹁シェフレと

σ σ

ユ巴

u o

g

ω の ﹃ 問 問

2 0

(

八 三

Il

ls

一 九

O

三):::彼によれば︑絶えず活動してい

る対象を把握するには固定した抽象的概念では役に立たない︒それには動的な生命的な表現をもってする思惟によ

(7)

らなけ︑ればならない︒社会も生活行動の組織だから︑固定化された概念によって怯把握出来ない︒それがためには生 物学的有機体の生存の事態に即して形成された成長︑繁殖︑同化等々の概念を類推的に用いるほかはない︒:::﹂

( 酒

枝 義

旗 ︑

﹁有機体説﹂︑束洋経済新報社刊﹃経済学大辞典﹄︑昭和三十年︑所収)

し か

も ︑

この援用に継ぐマルクスの次の肯定は︑ 少くとも私にとっては︑

決定的に重要である︒日く

﹁この著者

極めて好意的に描いてくれているが︑ は︑彼が私の実際の方法であるとするものを︑この様に適切に︑そしてこの方法の私自らの適用が問題とされる限り

これは彼が弁証法的方法以外の何を描いたと言うのか︒﹂(傍点筆者)

﹁ 有

機 体

は ︑

力学︑物理学︑ 化学を一全体としてそのうちに含むところの高度の統一体である︒﹂(エンゲルス︑

﹃ 自 然 弁 証 法 ﹄ )

マルキスト・レ

l

ニンは︑前記論文﹁カ

l

ル・マルクス﹂(の﹁哲学的唯物論﹂の項)に於て︑言う︑

ォイエルパハの唯物論をも合めての﹃旧﹄唯物論の主要欠陥は::・・マルクス及びエンゲルスに従えば次の点にあっ

ol‑‑

一︑この唯物論は﹃著しく機械論的﹄な唯物論であって︑化学及び生物学:::の最近の発展を顧慮しなかっ

たということ

D

﹂(註︑これを︑先のマルクスにおける援用中の文言︑﹁旧い経済学者達が︑経済的諸法則の性質を物理学や化学

の諸法則になぞらえた時︑彼等は︑これを誤り解したのであった﹂︑と比較・対照︑その妙味を味わい給え!但し︑相応しいセンス

を有するならば︑だが︒)

或 は

﹁ フ

l

ニンは更に続けて云う︑

﹁:::二︑旧唯物論は非歴史的・非弁証法的(反弁証法的だという意味で形而上学

有機体説と弁証法

一 七

(8)

経 営 と 経 済

的)であって︑発展の見地を徹底的且つ全面的に貫徹しなかったということ︒三︑﹃人間の本質﹄を﹃抽象的概念﹄

として理解して︑﹃(一定の具体的・歴史的な)社会的諸関係の全体﹄として理解せず︑従って又︑世界を││?で

一 七

れを変化すること﹄が問題であるのに

111

﹃解釈した﹄だけだということ︑即ち﹃草命的・実践的な活動﹄の意義を

把握しなかったということ︒﹂

弁証法(有機体説)の主要な近代的脳芽(の一つ!ーーと私が考える)││﹁アダム・ミュラ

i

は︑既にその青年期

の論文﹃対立の原理巴oFS

︿ O

B C

o m

o ロ g H N O ‑ ‑ ∞ 宏 ・ ﹄ に 於 て ︑ ピ ラ ミ ッ ド 型 に 構 成 さ れ た あ ら ゆ る 学 問 体 系 を ︑

その非運動性・硬直性の故に否定している︒ミュラーによれば︑常に運動に於て見出される現象に対しては動態的

哲学のみが妥当する︒:::彼は最初この対立の原理を専ら認識論的に基礎づけんとしたのであり︑ その点尚カント的

な啓蒙思想が認められる︒しかし後に彼はこの原理を思惟形式から存在形式に︑認識論的なものから形而上学的な木

体論的なものに拡大したのである︒:::﹃あらゆる歴史科学︑ 従って国家学は:::単に認識され︑説明さるべきでは

なく︑体験さるべきである︒﹄(巴

05 8

芯己

q ω g m

立 件

ロ ロ

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武 村

忠 雄

( 註

︑ マ

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ス ・

レ !

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ュ ラ

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の 共

通 ・

相 似

を 想

え !

﹁ 独

逸 経

済 学

﹂ ︑

慶応義塾大学講座︑

昭和十三年︑所収)

︑ ユ

l の 有 機 体 思 想 に つ い て は ︑ 先 稿 ﹁ 有

機 体

説 と

弁 証

法 ﹂

︑ 参

)

レ l ニンの所謂﹁﹃旧﹄唯物論の主要欠陥﹂とされているものについて思いを廻らす時︑

同時に︑三木清の所謂﹁有機体説﹂並びにヘ

i

ゲル観念弁証法の欠陥とされた諸箇条のいくつかにピッタリ一致す

るのに気付く口とすれば︑私のこれまでの主張(或は頭初のザリ!ンの言葉に代えての私のテ!ゼ)は︑当然撞着を

こ こ

で ︑

我 々

は ︑

それが

(9)

来すこととなろう

D

有機体説に異る二つのタイプのない限り!

有機体説殊にドイツ浪漫派を主流とするそれ(三木清の所謂﹁シェリング的なるもの﹂)が︑

現実への適用につ

いて︑重大な限界を有する乙とについては︑例えばハンス・フライヤ

l (

ω

ω

句 円

︒ 旬

︒ ア

E

ZE

ロ ロ

間 宮

門 出

ω o N

}Ot

mF52

・阿閉吉男訳)の次の言葉

l l

頭書のザ

l

リンのそれと密接して相対照さるべきーーーがある︒彼の一一白う︑

﹁確かに︑ドイツ観念論の社会哲学並びにドイツ・ロマン主義者の社会哲学は︑完全に一定の社会的現実に根差して

居り︑その社会的現実に対してのみ妥当する︒殊に社会有機体の身分的分節に関する学説は︑著しく過去に向けられ ている︒それは絶対主義国家の時代から十九世紀にまでも及ぶところの︑且つ一八

OO

年頃の市民社会の︑既に著し く色褐せた背景をなす社会秩序を引合に出している

D

しかし我々は︑先づイギリスとフランスとに開始し直ちにドイ ツにも開始する新しい社会的運動を︑最早社会有機体及び有機的成長という範障を以ってしては考えることは出来な い︒これらの概念は︑現存する秩序が静かに発展するところにのみ適用し得るが︑社会的現実が弁証法的対立の極分 裂すると乙ろには適用し得ず︑何物かが変革せられ何物かが実現せられるところ︹

U

動態︺には適用し得ない

D

観 念論的社会哲学は︑現出しつつある高度資本主義時代の階級社会とその革命運動とを︑理論的に支配出来なかった

D

斯くて︑社会学は︑十九世紀の社会的現実を捉える問題に直面した時に︑ロマン主義者の﹃普遍主義己旦︿ σ 円

g

r g ' g

﹄と結びつかなかった︒社会学はロマン主義の反対者たるヘ

l

ゲルに結びついたが︑彼の社会体系及び国家哲学体 系をも根底から変えた︒従って︑観念論的及びロマン主義的社会哲学は︑言葉の含蓄的な意味では︑社会学の前史で

ある︒それは︑社会学が市民社会の自己法則的運動をその独自の対象とする転回以前のものである︒﹂

有機体説と弁証法

一 七

(10)

経 営 と 経 済

一 七

﹁歴史上︑高度資本主義時代は︑ たっ・た一つじかない︒いかなる過去の時代の中にも︑ それに共通するものは一つ

も無いのである︒:::経済生活の根本的変化:::我々の時代になしとげられた奇蹟:::︒:::文化はその根本から改

造され︑国々は興り且つ滅び︑技術の魔法の世界は築かれ︑世界はそ外観を二支した︒﹂

(W

・ ゾ

ム パ

ル ト

﹃ 近

資本主義﹄第三巻││高度資本主義時代における経済生活││︑序言)

たのではないか?

改めて︑私における問題を提起しよう︒有機体説としての把握││そこにも︑(十九世紀に至る)その前史があっ

﹁進化主義﹂(としての有機体説)は︑むしろその後の問題であった︑と︒

﹁ 有

機 体

O

m m E ω

自 己

ω の概念が明確な内容と理論的意味を持つ殺になったのは︑カント以後であると言われる

( 同

・ の

・ ロ

5 r g w o o

‑ ω t m O 2

BB

ロ ロ

向 ︒

ロ 念

円 ︒

o m g d

︿

ω

円 ケ

E N

・ ) 口 ﹂ ( 酒 枝 ︑ 前 掲 著 ) C

﹁しかし︑その遥か以前から精神的態度としての有機体思想は存在していた︒:::乙の精神的態度とは︑国家或

は国民協同体は決して単なる個々人の集合ではなく︑固有の生存の意義を持ち︑固有の生存法則に従って活動する

歴史的主体であり︑従って協同体と個人との聞には独自の意味深い関係が通っているという思想である

23

3

巴 巳

包 苫

ロ 阿

古 品

目 ︒

ω O N E

‑ o m F

‑ 8

ケ)︒﹂(酒枝︑前掲著)

.  、

.  . 

カント以後に於ける斯かる﹁精神的態度﹂の典型が我々にあっては

F

・リストであったことは︑既に先々稿(註︑

﹁経済学説における有機体思想﹂︑経営と経済︑第一一六号)の前半において或程度証明された︒即ち︑﹁彼が︑自己の経

人類と個人との問に︑独自の言語と文字︑同有の血統と歴史︑独特な風俗と慣習・法 済学を古典学派に対立させて︑

(11)

律と制度︑自己の生存・自立・完成・永続への要求及び自己自身の領土を有する国民を考えること乙そ︑その特徴で あると言った時(ピ

ω ?

ロ ω

ω g t o g ‑ o ω 3 5

日号円切

O }

2 0 y g c r

ロ o O

E O

‑ 5 β

・ ) ﹂

(泊枝︑前掲著)︑彼は︑

まさしく有機体思想に立っていたと言うことが出来るのである︒

﹁個人と人類との問にはその特殊の言語と文字と

を︑その固有の血統と歴史とを︑ その特殊の風俗と習慣・法律と制度とを︑その存在・独立・完成及び永続に対する

要求を︑又区則された領土を有する国民が介在している口それは︑精神と利益との無数の紐帯を通して独立に存在す

る一つの全体に結合し︑互いに法律を承認し合い︑そして今のところ末だ自然的自由を保持しつつ全体としては同程

の他の諸社会と対立し︑従って現在の世界情勢の下では只自らの力と手段とによってのみ独立不碍を主張し得るとこ

ろの一つの社会である︒個人は主として国民によって又国民の内において精神的教養・生産力・安全及び幸福を獲得

人類の文明は諸国民の文明及び発達を媒介として考えられ又可能なのである︒﹂(リスト︑

し 得

る 椋

に ︑

前掲著︑第

十五章﹁国民体と国民の経済﹂)

( 註

﹁ こ

の ﹃

国 民

﹄ が

激 し

い 同

際 社

会 の

競 争

場 の

中 で

いかに自己の生存を維持し︑存続

し ︑ 発 展 さ せ て い く か と い う こ と が ︑ リ ス ト の 主 題 で あ っ た ︒ ﹂ )

﹁﹃国民は個々の人間の偶然的堆積と解されずして︑否!それは独自の概念であり︑成長し来った有機的な︑即ち

具った機能を営む諸部分から成り立った全体である︒﹄(冨・吋

3 5 E o

止 ︒

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R ω S E F R Y 0 0 0

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ω ︒ N

E ‑ 2 B c p k p

﹀ 口 町 ]

・ ・

58

・)民族乃至国民が一箇の有機体と看倣される以上︑それを観察するに当っては︑当

然不断の成長・発展の過程にあるものとして歴史主義的立場をとらなければならぬ︒﹂(武村︑前掲著)

﹁ミュラ!は一切のものを固定した・それ自ら存するものと見ず︑むしろ不断に生成し︑迩勤するものと見る︒﹂

有機体説と弁証法

七 九

(12)

経 営 と 経 済

一 八

O

その有機的生成︑その現在及び過去との結合性を見て取った︒が故に︑彼は

歴史学派において力強い影響を及ぼすことが出来た︒:::彼は創造力というロマンティックな概念を持っていて︑経 ﹁

ミ ュ

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・ :

・ :

彼 は

社 会

の ﹃

全 体

性 ﹄

済的段階の観念を利用するが故に︑彼はリスト及びヒルデプラントの先駆者と見ることが出来る︒﹂(ザリ

l

ン︑前

掲著)

( 註

︑ ミ

ュ ラ

l

の ﹁

創 造

力 ﹂

と リ

ス ト

の ﹁

生 産

力 ﹂

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対 比

︒ 同

様 取

扱 い

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︑ 例

え ば

︑ ヘ

ッ ト

l

の ﹁

生 成

力 ﹂

と ウ

イ ツ

ト フ

l ゲルの﹁生産力﹂との対比として︑私は先に﹁アジア的社会に対する科学的分析の方法論﹂において該問題に言及し

た︒)

カント以前(カントの﹁遥か以前﹂)︑有機体説についてその源流を尋ねれば︑ギリシャ・ロ

l

マの昔にまで遡る

乙とが可能である︒﹁ギリシャやロ

l

マの哲学に於ては︑社会と国家とは生物︑特に人間と比較され︑各種の政治

的・倫理的結論が︑乙の比較から導き出される

D

﹂ ( フ ラ イ ヤ

l

︑前掲著)

しかも︑有機体説は︑斯かる初めから︑三木清の所謂﹁有機体説﹂の姿勢を堅持して来たことが特に注目され

る︒﹁共同体とは一つの有機体であり︑従って夫々の身分及び個人は平和的な協同をなす様に定められて居り︑全体

の幸福のうちにのみ自己自身の幸福を見出す︑というメ︑不ニウス・アグリッパの寓話は︑社会哲学の原始的な考えで

ある︒﹂(フライヤ

i

︑前掲著)

紀元前五世紀末のギリシャの歴史的危機の時代におけるーーーソクラテスの個人と国家との関係についての子供と親

との関係を以ってしての警え︑ ﹁即ち︑子供は誕生・養育等の一切を親に負うのであるからその親に逆らうべきでは

ない︒同様に個人も自分の祖国に一切を負うのであるからこれに逆らってはならない

D :

: :

国家を超個人的主体と考

え︑それと個人との聞の関係は単なる利害打算でない独自の倫理的意味を負うという思想(の・国

O }ω

件 ︒ E S

品 開

ハ ・

(13)

ω 日 ロ

N w ω

g

E Z ω O H ) E o

u ω ω

・)﹂(酒枝︑前掲著)の如き︑まさにそのよき例である

D

彼の仰いだ毒杯は︑

実︑皮肉にも︑彼自身の斯かる思想の象徴︑実践としであったのである︒

の 対

話 筒

︑ 就

中 ﹃

ソ ク

ラ テ

ス の

弁 明

﹂ ︑

﹃ ク

リ ト

ン ﹂

に 詳

し い

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そ の

( 註

︑ 周

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如 く

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り 一

一 一

口 行

は 弟

子 プ

ラ ト

﹁:::それは︑まさに歴史的危機の時代であった︒ペルシャ戦役の輝かしい勝利は︑ アテナイ市民の生活すべての

方面︑殊に経済的活動の部面において急速に発展させたのであるが︑そうした過程は古来からのポリスによる厳格な

規律を次第に崩していった︒殊にソフィストの運動はこの傾向に拍車をかけた︒即ちこの個人中心の相対的・懐疑的

思恕は︑個人の生を越えてそれを統一する客観的規範を否定し︑すべてはただ個人の利害によって結ぼれる契約に外

ならないと主張し︑祖国すらも共同的災厄を防ぐための契約の所産に過ぎないと説いた

D

こうした懐疑的・相対的な

思想の影響のもとに︑個々人の行動は専ら利己的動機によって導かれ︑ この様な動機による結合の党派又は階級が︑

互いに敵対し合ってポリスの統一を脅かすに至ったのである︒﹂(酒枝︑前掲著)

﹁あらゆる歴史の初めには︑人群︑氏族︑種族︑国家として形づくられた共同体がある

ll

個々人は共同体の一員

として生存し且つ生活する︒あらゆる生物と同じ椋に共同体も又︑成熟・結実及び死亡を経験する││共同体の死亡

は即ち個人が解離し︑独立することである︒しかし歴史は停止しない︒かくして︑あらゆる個人主義的時代に向って

新たな共同体を形成するという宿命としての問題が提起される︒古代は幸運にもプラトンの新たな啓示のうちに新共

同体の核心を与えられた︒﹂(ザリ

l

ン︑前掲著)

ソクラテスにおける︿有機体的﹀思想は︑

﹁ 弟

子 プ

ラ ト

ン ﹂

に至って一層明確になると共に︑

一つの解決を得

有 機

体 説

と 弁

証 法

J¥ 

(14)

有 機

体 説

と 弁

証 法

;¥ 

た ︒

( 註

︑ 例

え ば

対 話

筋 ︑

﹁ 別

立 宴

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﹁ パ

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︑ ﹃

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﹁ ノ

モ イ

﹂ :

: :

等 は

謂 わ

﹁即ち︑プラトンはその歴史的危機に対処するためには︑﹃国民の一切の営為を全体者への配

慮︑即ち真の人倫共同体の目的に服させなければならない︒このことを実現する可能性は︑全体者の精神がすべての ば

そ の

証 明

で あ

る ︒

)

国民の中に植えつけられ︑統一的な志操と風儀が国家の全生活を貫くことにある﹄︑と考えた(戸問問︒円

ω ?

02E?

の ﹃

芯 門

目 ︒

ω 同 色

‑ o E ω

自 己

F

呂 町

・ )

︒ ﹂

( 酒

枝 ︑

前 掲

著 )

a

︑全体・社会は独自の実在であり︑ b ︑全体が第一次のものであり︑個人は言わばその構成部分として存在

するに過ぎず︑従って派生的なものである︒﹄(0・

ω

目 出

ロ デ

0

門司

m w F S ω

宮 内 凶 件

"

HC

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・)全体・社会は恰も生活力あ

る統一的有機体と看倣され得るし︑個人はその細胞として︑諸団体はその諸器官として︑全体の有機体の内部に於て

のみ存立し得るのであり︑全体に役立つものとしてのみ存在の意義があるのである︒﹂(武村︑前掲著)

って社会的全体性を決して夫々の個人から構成されるとは考えず︑ ﹁

0

・シュパンは︑全体が部分に先立つというアリストテレスの命題を根本的且つ徹底的に社会形象に適用し︑従

むしろ個人を社会的全体の肢体色町己として捉

えるところの社会学をば﹃普遍主義的﹄と名付けている︒﹂(フライヤ l ︑前掲著)

い わ

ば ︑

後 年

ドイツを支配した全体主義的社会観(有機体説)は︑実にギリシャの時代:::ソクラテス︑プラト

ン︑アリストテレスの昔に︑ その淵源を辿ることが出来るのである︒ ﹁ギリシャやロ!マの哲学においては︑社会と

国家とは生物︑特に人間と比較され︑各種の政治的・倫理的結論がこの比較から導き出される︒科学的社会学はとの

(15)

考えを採用した︒﹂(フライヤ

l

︑前掲著)

もっとも︑ーーー等しく古代であり乍らも

ll

l

マ 時

代 は

個人主義的(原子論的)思想の一般的支配下にあっ

た ︒

﹁古代には︑徹底的な都市を個人のうちに思い浮べるロ

l

マ人の国家感情のうちに︑個人主義的国家をもって協

同体国家に替えるための真の政治的可能性が与えられていた︒そしてこの永遠に建てられた帝国︑ そして﹃神の否定

者 ﹄

で さ

え ︑

それが永遠に存続することを信じたと乙ろの帝国でさえ︑即ちアウグストゥスの帝国でさえ崩壊した時

に︑既にキリスト教徒の信仰と協同体のうちに︑

(ll

ゲルマン民族の歴史への登場︑これである口︺﹂(ザリ

l

ン︑前掲著) 一つの新たな国民︑即ち一つの新たな国家の担当者が発生した

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その大著﹃ドイツ団体法﹄

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門 目

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﹃ え

Z 円

︒ ︒

﹃ 仲

) 第

二 巻

於 て

ローマ法とゲルマン法の本質的差異を︑前者が個人主義的なるに対し︑後者が団体主義的なる点に求めてい

る ︒

﹁独逸ゲルマン民族の精神は︑ その本質に於て団体主義的である︒﹂(武村︑前掲著)

﹁原子論的社会観と有機的社会観とは︑社会観の両極をなす︒ヨエルは世界観の変遷を解放思想と拘束思想との交

替といういう観点から研究して落大な著作を書いているが︑一般的に見て︑原子論的社会観は解放的民主的思想に結

びつき︑有機的社会観は拘束的強力国家思想に結びつくと言えないであろうか︒今日少くとも我国では︑有機的社

会観││特にドイツ浪漫派的のそれーーは戦時中の勢力に比し被うべきもない頒勢にある︒だが:::将来再び拾頭す

有機体説と弁証法

一 八 一

(16)

経 営 と 経 済

一 八

ることがないとは何人も断言し得ないのである︒﹂(福井︑前掲著)

関 話

休 題

﹁プラトンの﹃国家論司

0 5

目立に展開された哲人政治論は︑まさにこの課題への解答であった︒プラ

0

トンは︑利己的動機によって結ぼれた党派が互いに権力を争い︑祖国の統一を脅かすのを見た︒:::︹アダム・スミ

そのように振舞おうとするからに外

な ら

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︒ (

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ω

? S E ‑

‑ )

このような迷盲から国民の意識を解放するために提起されたのが有機体的国家論であ

スにおける

﹁ 個

人 ﹂

よろしく

1 1

︺各階級が夫々に自己と国家とを同一視し︑

った︒即ち︹フリ

i

ドリッヒ・リストにおける﹁国民体﹂の如く││l︺国家の正しい状態においては︑国民各自が才

能と性格に最も適する職能階級に属し︑各職能階級が夫々独自の機能を逐行しながら全体として調和しなければなら

ない︒﹂(酒枝︑前掲著)

職能(又は身分)│!?::国民が一つの全体︑一つの有機体と解されている以上︑恰も有機体の維持・成長は︑

その有機体を構成する部分的全体たる諸器官がその職能に応じて夫々異った機能を営むことによって可能なる如く︑

国家が国民の維持︑発展を実現するがためには︑夫々異った機能を営む諸経済的﹃職能団体

ω S E O

﹄を有機的に組

織することを必要なりとする

O i

‑ ‑

・﹃職能団体を最広義に解すれば︑ それは部分的全体を︑即ち社会・全体の職能担当

者を意味する口職能団体の本質は全体の一定種類を表わし︑且っこの全体の一定種類の部分内容を表示し︑実現し︑

実行する点にある︒従って職能団体は︑ 一︑全体の表現であり︑二︑全体の特殊の・一定の表現であり︑三︑他の

職能団体の間にある職能団体たる乙とを意味する︒職能団体の概念は︑第一に多数の職能団体が存すること(他の職

能団体の同時的存在)を︑第二に諸職能団体は部分的全体として総体的全体の内に含まれて居り︑即ちそれ等は組織

(17)

的関聯に︑有機的適合関係に立つことを要求する︒﹄(巧・出︒百円円︒

FU

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∞ 仲

間 ロ

門 言

ω

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∞ ・

) ﹂

( 武

村 ︑

前 掲

著 )

た ま も の み た ま つ と め こ と は た ら き

﹃賜物は殊なれども︑御霊は同じ口務は殊なれども︑主は同じ︒活動は殊なれども︑凡ての人のうちに凡ての活動

あ ら わ し た ま こ と ば

を九したまう神は同じ︒御霊の顕現をおのおのに賜いたるは︑益を得させんためなり︒或人は御霊によりて智慧の言を

いや

賜わり︑或人は同じ御霊によりて知識の言︑或人は同じ御霊によりて信仰︑ある人は一つ御霊によりて病を医す賜

ち か ら わ Y わ き ま と ち か ら

物︑或人は具能ある業︑ある人は予言︑ある人は霊を弁え︑或人は呉言を言い︑或人は異言を釈く能力を賜わる口凡

おのおの て此等のことは同じ一つの御霊の活動にして︑御室その心に随いて各人に分け与えたまうなり︒﹄(コリント前書)

﹁ 有

機 体

説 の

も う

一 つ

の 源

流 は

︑ 原

始 キ

リ ス

ト 教

思 想

の 中

に 見

出 さ

れ る

﹂ )

そこにある有機体的国家論は︑統一への︑換言すればへ l ゲル弁証法における﹁諸規定のその対立に於

ける統一︑それの解消と推移とのうちに合まれている肯定的なるもの司

g Z 2 0

・ ︿

OBβ

ロご仲間企の文字通りの意味に

於ける全面的・一方的肯定である︒三木泊の所謂

1

発展ありとしても﹁連続﹂︑ i

と も

あ れ

﹁矛盾﹂でなく﹁統こ︑

1*

に 」 不 で し な て く

れ 保 く 「

る・存

L‑

﹁ 課 題 ﹂ で な く ﹁ 所 与 ﹂ ︑ ﹁居﹂でなく﹁構造﹂としての

l

l

所謂有機体説(の原型)を︑我

この乙とは︑プラトンの﹁理想国﹂の概念が(ヘ

i

ゲルの﹁市民社会﹂

1 1

マルクスの﹁市民社会﹂と

対照さるべくーーの把握に於けると同松に)著しく観念的なものとならざるを得なかった理由(の一半)をも︑我々

と 同

時 に

に説明してくれるのである︒││即ち︑経済乃至経済活動に関するプラトンの取扱いは︑ その良き例証である︒

有 機

体 説

と 弁

証 法

一 八

(18)

経 営 と 経 済

確かにプラトンは経済について考慮した︒事実││﹁プラトンの﹃国家論﹄にとっての最も主大な課題の一つは︑ 一

1

︑ ︑ し ¥

‑ ︐

J一/

日に日に発展してくる経済的活動を︑ いかにして国家活動の全体の中に正しく位置づけるかということであった︒彼

の以前にも経済活動に注意を払った人々はあったが︑しかし経済の中に︑ギリシャ的生活のもつ厳密な節度と形式と

を脅かし得る様な力が潜んでいるという考えは全んど見られなかった︒ところがプラトンはペルシャ戦争後の経済活

動の急速な発展の中に︑ このような力の潜んでいるのを鋭く見てとったのであった

( ω

巴 E ・

0 0 2 E

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三 三

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岳 山

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WZ Nω

・)︒そ乙でこのような傾向を制圧し︑経済をしてその本来の使命に相応しくあらしめるとい

うことが︑彼の有機体思想の現実的課題だったのである︒﹂(酒枝︑前掲著)

﹁一個の全体としての国民の維持・発展を最高目的とする全体主義的国家は︑ その目的実現の手段として経済を規

制する︒経済をば国家の追求する目的のための手段なりと解する故︑ その国家観は個人主義的・自由主義的国家観と

対立する︒:::全体主義的国家観は全体としての国民の維持・発展のための手段に経済を役立たせんとして︑ そ れ に

干渉し︑規制せんことを要求す︒﹂(武村︑前掲著)

が︑しかし

l

﹃プラトンは︑経済的活動に従事する階層を︑真に国家のために生活する国民と結びつける紐帯を

示すことが出来なかった︒乙の階層は只本来の国民に必要な生活手段を調達するために奉仕するだけである︒既にア

リストテレスが指摘した様に︑プラトンの理想国は二つの異なる国に分裂して居り︑これら両者は相互に何等の現実

的な結合をも持っていない︒:::︹即ち︺国家に仕える生活と︑経済活動との聞の対立が過度に強調され︑本来の国

民だけが専ら人倫的協同体の種々の課題にあたり︑利得活動︹リ経済活動︺を代表する人口要素は︑ ほとんど全く現

(19)

突の国民協同体から締め出されてしまったのである︒﹄(同忠門

ω ? F E t

酒枝︑前掲著より)

換言すれば︑﹁プラトンの思忽はまだ本当の意味で有機的であるとは言えない﹂

ll i

で あ

る ︒

む か

れど︑体は一つなり︒眼は手に対いて﹁われ汝を要せず﹂と云い︑頭は足に対いて

﹃げに枝は多くあ

﹁われ汝を要せず﹂と言うこと

己 じ

﹁ ノ 日 1 0 2

H425

(コリント前書)

託︑もっとも︑有機体の諸器日に価値順位を侃くことは (例えばナチスの有機体忠恕にあっては)自明とされる︒

﹁ 蓋

し︑一つの有機体を梢成する諸器官は夫々その白む機能が相逃するために︑全体としての有機体の維持・発展に奉仕する価値

にも夫々相違がある︒例えば頭は桁よりも疋嬰であり︑頭が他の諸器官を指導することによって全体の維持・発展が可能であ

る︒それと同じく国民経済を職能団体的に︑有機的に組織するに当っても︑ ﹃指導者原理﹄が絶対に必要とされる︒即ち国民

経済の細胞をなす個々の企業内にあっては︑企業者は労働者よりもその経営にとってより主要であり︑従って企業家はその労

的者の信頼によって全椛が委任され︑逆に労働者に対しその全責任を負う所の独裁的﹃指導者﹄となり︑労働者はその﹃従

者﹄となる︒次いで諸経党体よりなる一つの職能団体内にも一人の指導者が任命され︑他は従者としてこれに従い︑吏にこの

指導者はより

k

位の包括的な職能団体の指導者に従う︒:::﹂(武村︑前向若)

斯かるプラトンの有機体思想(﹃国家論﹄を支えている)の批判││﹁この欠陥を批判し︑経済活動を積極的に国

家活動の中に包摂し︑国民協同体の有機的統一性を拡大し︑高度化することこそ︑まさに︹科学者︺アリストテレス

の﹃政治学問

M o g ‑

g

﹄の主要な課題であった︒﹂(酒枝︑前掲若)

それは又後に A

・ ミ

ュ ラ

l

の形而上学的有機体説に対抗する経済学者リストの工夫の根拠でもあった

l i

マ ル

有機体説と弁証法

一 八

(20)

経 営 と 経 済

一 八

﹁ 八

ミ ュ

l

の見た﹃国 クスは(有機体路線に沿って)それを更に深化・発展(合理化)せしめた︑と一一一口うべきか!

家﹄︑すべてのロマンティックの深い愛が注がれている﹃国民﹄は︑先づ第一に理想的実体であって︑ ただ第二次的

る 場

合 に

は ︑

にのみ現実的実体である︒:::フリ

l

ドリッヒ・リスト:::彼が物質的成果を評価する場合や︑厳密なる発展論をと

ロマンティックよりも十九世紀の精神により多く結びついていた︒・::・マルクスはその合理主義の故

に︑ミュラ!の社会学説を評価出来なかったと同様に︑ リストの経済理論を全んど評価出来なかった︒:::﹂

( ザ

ーン︑前掲著)

加 え

て ︑

﹁アリストテレスにとって︑﹃統一は決して絶対的なものでなく相対的なものに過ぎない

D

即ち統一は機械

つまり精神的なものによって基礎づけられなければならない︒ 的な強制手段によってではなく︑教育︑哲学︑法律︑

‑ ・

善 と

悪 ︑

正義と不正及びそれに類すること:::これるの理念の共同性が家族及び国家を基礎づける︒﹄(﹀ユ ω

件 ︒

}

g W E E

)

彼が国家の有機的存在を:::理念の共同性の中に見た点は︑有機体思想の歴史において重要な意義

を負う︒これにより有機体思想は何等かの自然的な事実からの類推によってでなく︑人間共同生活そのものの独自な

統一性をその本質に即して把握するものとなるからである︒﹂(酒枝︑前掲著)

( 註

︑ ア

リ ス

ト テ

レ ス

よ り

: :

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: :

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ド イ

ツ 浪

漫 派

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歴 史

学 派

: :

: へ

の 途

は ︑

斯 く

て 聞

か れ

た ︑

と 言

う べ

き で

あ る

︒ )

﹁斯くて例えば一つの君主国が︑もしそれが内面的な国民の法律に従って支配されるならば︑ 一個の魂を具えた身

体によって︑又もしそれが単一の絶対的意志に支配されるならば︑ 一個の単なる機械(例えば手臼の如き) によって

二つの場合共に しかし単に象徴的に表象される︒﹂(カント︑﹃判断力批判﹄) ﹁我々は現実よりもむしろ理念のう

ちに見出されると乙ろの或種の結合関係に対して:::直接的の自然目的(有機体)との類比によって︑光を投ずるこ

(21)

とが出来る︒例えば︑近来企画された或る大きな民族を完全に一つの国家に改造する場合において︑市参事会その他や

乃至は全国家形体そのものの仕組に対して︑一度々有機的組織という言葉がすこぶる適切に用いられている︒何故なら

ば︑その各員は事実このような全体のうちにあって︑単に手段たるに止まらず同時に目的でもあり︑そして全体の可

能性のために協働すると共に逆に全体の理念によってその地位及び機能を規定されるからである︒﹂(カント︑前掲

若 )

失 ︑ 人間が自己目的である乙とを止めた時(乃至止めることを余儀なくされた時)︑我々はそこに(有機的)生の喪

﹁人間の完全なる喪失﹂(マルクス)所謂﹁疎外﹂が在る︑と云う︒﹁マルクスは﹃手臼﹄は封建社会を粛し︑

﹃蒸気粉軌車﹄は資本主義社会を粛す︑という斯有名な表現で彼の意味せんとするものを説明している︒﹂

(J

A

・ シ

ュ ム

l

l

︑ ﹃資本主義・社会主義・民主主義﹄)

ともあれ︑プラトンやアリストテレスの見たものーーその近代的表現︑斯かるもの乙そ︑実に(三木清の指摘せ

る如き) ヘ

l

ゲルの所謂﹁具体的普遍含

ω

2

・ ﹀

]]mOBOEO

﹂である︒﹁乙のものは︑弁証法に於ては:::かの

弁証法の三つの契機のうち特に﹃思弁的なるもの﹄に属する︒ところでこの思弁的なるものは単にヘ

l

ゲルにのみ特

有のものではなく︑むしろあらゆるドイツ思弁哲学に︑従ってシェリングにも共通のものである︒それは既にカント

によって所謂綜合的普遍

28 ω

可 ロ

§22

'

]] mO EO

O)i

ゲル自身もカントを批評 として発見された︒それ故にへ

して云う︑﹃判断力批判は︑カントがそこに於てイデ!の表象︑否!思想を言い表したという著しいものを持って

いる︒直観的悟性︑内的合目的性等の表象は︑同時にそのもの自身に於て具体的として考えられた普遍である︒従っ

有機体説と弁証法

一 八

(22)

経 営 と 経 済

一 九

O

てこれらの表象に於てひとりカントの哲学は思弁的として自らを示す︒﹄(何去三

‑ o H

U 注芯・)カントが夙に有機体に結

びつけたところの具体的普遍的なるもの︑

l

ゲルの謂う思弁的なるものは︑まことに有機体説の主なる思想内容で

ある︒具体的普遍にあっては︑ 一切の特殊が一つの完了した・統一ある全体の中で一義的な・必然的な位置を保つ︒

この時各々の部分は全体を要求し且つ部分部分を互いに要求する︒それと共に全体は又部分を要求し且つ各々の部分

をして互いに要求せしめる︒如何なる部分も全体によって規定されて︑全体の意味を現わさぬものとではない︒カン

トは斯くの如き構成を有機体に於て見︑ ドイツ歴史学派の有機体説はそれを歴史的存在一般のうちに見た︒﹂

﹁カント以後の観念論者達やロマン主義者達(アダム・ミュラ

l

︑ フリードリッヒ・シュレ

l

ゲル︑ゲッレス︑

シ ェ

リ ン

グ ︑

J ¥  

ノ レ

J

f I

l

/11

々 クラウゼ及びシュライエルマッハl):::彼等はピタゴラス︑プラトン

及びアリストテレスにその起源を持ち︑中世のスコラ的実在論をその頂点とする社会学の真の形式を引継ぐものであ

る︒:::この際社会的現実を把捉するこつの主要範陪は︑有機体 O

m S 2 5 5

と歴史の

0 2

庄 の

E

o

という範隠であ

る︒(もっとも︑﹁観念論的社会哲学とロマン主義的社会哲学とにおいては︑歴史という範陪は有機体という範明と

結びつく︒﹂︺社会的現実は﹃有機的﹄形象であるという命題は︑第一に︑共同体が決して孤立した個人から構成し

得ずそれに属する個人よりも論理的に先であるということを怠味し︑第二に︑社会生活が志識的且つ人為的に合理的

理論によって形成したり変化したりするを得ず無意識に根差し自然に生長するということをな味し︑第三に︑夫々の

社会的統一︑夫々の民族︑夫々の社会集団︑夫々の身分︑夫々の生活圏が特有の形成法則をもち︑独自の価値と権利

とをもっ同有の形象たることを意味する︒﹂(フライヤ

l

︑前掲著)

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Simon, Herbert A., (997, Administrative Behavior: A Study of Decision-Making Processes in Administrative Organizations,Fourth Edition, New York :

[r]

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