犯罪被害者の心情
宮
原福子
皆さ
んこ
んに
ちは
︑佐
世保
市の
大潟
町か
ら来
まし
た︒
宮原
福子
と申
しま
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本日
はど
'コ
ぞ宜
しく
お願
いし
ます
︒今
日は私が交通事故被害者遺族という立場で話すことによって︑犯罪被害者の心情を少しでもみなさんにわかってもらい︑犯罪被害者救済にいくらかでも役に立ちたいという思いでここにきました︒犯罪被害者ではありますが︑ただのおばちゃんですので︑わかりづらいことなどあるともいますが︑どうぞ許してください︒私が住んでいる大潟町を少
し説
明し
ます
と︑
佐世
保市
の北
西部
に位
置し
︑甲
子園
で活
躍し
てい
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比較
的近
くに
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ます
︒
MR
松浦
鉄
道一本で逗子できるので町内には清峰高校に行く生徒もいます︒実際高校野球で活躍した清峰高校生も町内にいました︒また︑メジャーリーグのシアトル・マリナ
l
ズで活躍している城島健司選手の母校は相浦中学といって︑事故で亡くなった私の息子が通学していた中学でした︒そして自宅から歩いて十五分くらいのとことには長崎県立大学があり︑その横の道一つ隔てたところが総A q
グラウンドになっています︒そのグラウンドでは毎年城島選手がオフの時に自主トレを公開していますのでその姿を見ることが出来ます︒その県立大と総合グラウンドの間の道路にあるあさひ
橋に
近い
とこ
ろで
私の
長男
は交
通事
故に
遭い
まし
た︒
私の長男・真一は一九八四(昭和五十喜年五月二十八日に大阪府の吹田市という万博公園に近いところで生まれま
295
した︒いつも元気で︑やんちゃで︑夏円心旺盛で︑外遊びが大好きで︑食べるのが大好き︑寝るのが大嫌いな子でその相手で私はいつも疲れていました︒吹田市には小学校入学直前までいましたが︑その後家族は︑京都︑金沢と夫の
転勤
に伴
って
転居
し︑
一九
九九
(豆
成十
一)
年中
学三
年に
なろ
うと
する
春の
三月
に佐
世保
市に
引っ
越し
てい
まし
た︒
中学生の途中の微妙な時期に転校をしなければならない事態になったことについて︑親としては少なからず不安を感じ心配をしました︒しかし真一は﹁佐世保の人たちはいいやつばっかりだ﹂といって中学にも友達にも部活にもすぐに馴染んでいきました︒私が引越し後のトラブルを処理したり︑家の片付けに手間取っている間もずっと楽しそうにしているように見えました︒そうとうするうちに中体連が終わり︑バスケット部を引退し︑秋になり︑高校受験が気になりだしたのか塾に生きた意を言い出しました︒あと少しだからこのまま自分で頑張ってほしいという気持ちもあ
りま
した
が︑
本人
が希
望す
るの
なら
︑思
い通
りに
やら
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いう
こと
にな
り︑
十月
から
塾に
行き
始め
まし
た︒
事故が起こったのは年が明けたこ
0 0
0 (
平感了二)年一月二十一日金曜日のことでした︒その日は塾の英語の先生が
休み
で︑
代理
の先
生の
都合
によ
り塾
の授
業が
いつ
もよ
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時間
遅れ
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まる
こと
にな
って
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ら︑
学校
から
帰っ
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﹂し
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ス停
発五
時十
八分
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スに
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てい
くの
です
が︑
その
時は
ちょ
うど
良い
時
間のパスがないので歩いていきました︒六時二十分ごろに家を出発したと思います︒その少し後で︑真一の妹が帰宅し︑しばらくして夫が帰ってきました︒私はいつものように夕食の準優守をして事﹂していました︒塾から霊拍があ
った
のは
八時
十分
ごろ
でし
た︒
﹁宮
原君
が来
てい
ませ
んが
どう
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まし
たか
﹂と
︒私
はも
ちろ
ん︑
真一
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い
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疑い
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って
いま
せん
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たか
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とて
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きま
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︒電
話を
切っ
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談す
ると
︑﹁
そう
いえ
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帰
宅途中の道路で事故をやっていた﹂という返事が返ってきました︒急いで近くの相浦盤暴に霊拍をしました︒答えは
こう
でし
た︒
﹁確
かに
あさ
ひ橋
のと
ころ
で男
子を
被害
者と
する
交通
事故
があ
った
︒被
害者
の身
元が
わか
るよ
うな
持ち
物
が見当たらなかったので︑体の大きさなどから判断し︑大学生だろうということになった︒それで︑近くの県立大学
の名簿をあたって身元を調べているところだったD﹂と︒後で判ったことですが︑その時持っていた参考書などの入ったかぱんは︑真一が加害者のフロントガラスに当たって割れたときに︑その強い衝撃で車の中に入ってしまっていたのです︒そしてその存在に加害者でさえも気付かず︑忘れられてしまっていたのです︒その時にかぱんの中を見ていれば︑名前はわかった筈です︒それから︑被害者の着衣︑身長︑事故が起こった時刻等の話から︑それは真一に違いないと思いました︒そして自分の名前も言えないくらい深刻な状態であることも想像出来ました︒夫と私は長燈力災
病院
へ駆
けつ
けま
した
︒
医者の説明はこうでした︒﹁脳が急激な強い衝撃を受けて壊滅状態になっている︒一%の可能性でもあれば手術も考えるが︑それもない︒残念ながら諦めるしかない︒突然の死は残酷でしょうし︑準備もあるでしょうから︑何とか二︑三日生かせるように努力しましょう︒﹂と︒しかし真一は静かに眠っているようにしか見えませんでした︒外傷はかすり傷程度︑左の腰辺りに打撲が見られた位で︑頭や顔に至つてはほとんど傷が見当たりませんでした︒頭蓋骨が傷つかなかったので︑強い衝撃の準り場が無くなり一瞬のうちに脳内圧が高まって脳細胞が壊れてしまったようです︒警察も来ました︒﹁現場は見通しの良い片側二車線の直線道路で︑真一君は横断歩道を渡っているときに左から来
た車
に跳
ねら
れま
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︒加
害者
つま
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注意
︑ス
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ド違
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結果
起こ
った
事故
に間
違い
あり
ませ
んが
︑
信号がどちらにとって青だったかを調べているところです﹂と言われました︒後日目撃者︑が現れ︑信号は真一にとって青だったことが証明されました︒真一に何の落ち度もなかったのです︒青信号の横断歩道を安心しきって渡っていたのだと思います︒なにやらスキップでもして楽しそうに見えたそうですから︑明日友達と遊びに良く約束をしたことでも考えていたのかもしれません︒横断未透を後数歩で渡り終わるところで︑何も見ていない︑ブレーキの殆どか
かっ
てい
ない
車に
ぶつ
けら
れた
ので
す︒
加害者と夫は話をする機
A R
がありました︒加害者は﹁引越しをするための荷造り用の紐だったかガムテ
i
プだった297
かを買いに行くため︑肩が聞広ぎりぎりであったのであせって運転をしていた︒現場はいつも通ゑ坦なので信号︑があるのは知っていたが︑それが何色だったかはボーっとしていて記憶にない﹂と話していたそうです︒私は︑この運転手がボーっと運転していたことが原因で何の罪もない︑何の落ち度もない︑正しく交通法規を守って歩いていた真一がこんな目にあうことが理解できませんでした︒何も悪くない息子が死にかかっているという現実を認めるために何をどのように考えたらいいのでしょうか︒何故その事故の対象者が真一でなければならなかったのでしょうか︒混乱の中︑息子が事故にあった原因を勝賞旬に考えました︒ナイフや包丁で殺人を犯すならボーっとそれを持っているだけではできません︒そこには相手を殺してやるという強い意志・強い力が必要です︒しかし車を運転すると強い力も強い音宝仙も必要なくボーっとアクセルを踏むだけで殺人を実行してしまう事になります︒さらに︑刃渡り六センチ以上のナイフや包丁は︑理由もなく持ち歩くだけで銃刀法違反になり逮捕されます︒しかし︑そんなに簡単に殺人を犯すのに︑人は車を運転していても︑交通法規さえ守っていれば逮捕されませんD逮捕されるのは重大な事故を起こした惨なのです︒自ら暴走行為をする暴走族でもなく︑酔っ払い運転でもなく︑居眠り運転でもない︑運転手がただボーっと運転していたことで真一は瀕死の状態にさせられたのです︒人が一人亡くなる理由としては︑あまりにも軽くて納得できません︒もっとちゃんとした理由がほしいと思いました︒それから︑ある人に﹁交通事故にあった貴方の息子さんも気の毒だけれども︑自分も運転するから運転手の立場も良くわかる︒運転していてボーっとする事って良くあるもんね﹂と言われました︒それから一般的にもよく言われることですが︑﹁交通事故なら仕方ないね﹂とも言われました︒何度もいいますが︑何も悪くない一人の人聞が死ぬほどの目に合わされているのに︑加害者の気持ちが良くわかるとか仕方︑がないとか︑交通事故はたとえ死亡事故であってもそんなふうに軽く片付けられてしまうものなのです︒このよ?な事故は普通によくある運転の結果たまたま起こった事故として自らを納得させないといけないことなのでしょうか︒決して相手を許すということではありませんが︑大切な息子を奪った加害者であるにも係わらず︑怠
子の死を自分に納得させるために︑自分自身ももしかしたらこんな運転をしていたかもしれないと思うと同時に︑相手の立場を自然に理解しようとしている自分がいました︒私は脱力感でいっぱいになりました︒息子がかわいそうで
した
来てくれました︒ほとんど私の知らない人達でした︒佐世保に来てまだ一年も経っていないのにこんなに大勢の人が ました︒翌日からはクラスの友達︑バスケット部の友達︑その保護者︑先生たち︑たくさんの人が毎日毎日見舞いに 童話で話すことが出来なかったのです︒けれども真一の中学校の先生たちはどこからか報せを受けて駆けつけてくれ 事故の直後私は自分の兄弟以外の遠くに住んでいる親戚や友達にはどうしても知らせることができませんでした︒ ︒
真一
に会
いに
来て
くれ
たの
を見
て︑
私は
驚き
まし
た︒
真一
の病
室の
前に
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田の
列が
出来
まし
た︒
﹁頑
張っ
て絶
対復
活
する
んだ
﹂と
か﹁
早く
治っ
て一
緒に
高妖
俗付
こう
﹂と
か泣
き崩
れそ
うに
なり
なが
らも
励ま
して
くれ
まし
た︒
それ
を見
てい
た私たち家族は医者に言われたことも忘れ︑次第に生きていける可能性はゼロではないかもしれないと思うようにな
りま
した
︒し
かし
真一
の心
臓は
自力
で動
いて
はい
まし
たが
最高
血圧
は何
回も
七+
ム口
まで
落ち
まし
た︒
尿は
一時
的に
出
にくい時がありました︒脈は全体的に多く八
O
から
一八
O
くらいだったと思います︒手足の反応は無く︑瞳孔はずっと開いたままでした︒医者は言いませんでしたが︑これが脳死状態なのかと私は思いました︒脳死状態ならば︑生きる可
能性
はゼ
ロに
違い
ない
ので
す︒
いよ
いよ
血圧
が下
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くな
る直
前︑
私は
この
まま
何も
出来
なく
ても
いい
から
︑
ずっと寝ているだけでもいいから︑死なないで欲しいと心の底から思いました︒ここにこうやって真一が存在してく
れる
だけ
で私
は希
望を
持っ
て生
きて
いけ
るの
にと
思い
まし
た︒
別れ
は大
変辛
いも
ので
した
︒
事故に遭ってから十二日目の朝︑二
0 0 0 (
平成十二)年二月一日︑朝七時三十分︑真一は一度も意識が戻ることなく心停止し亡くなりました︒十五歳と八ヵ月でした︒二月二日の通夜には私立高校入試の前日にもかかわらず︑会場に入りきれないほどの人々が来てくれました︒翌日は葬儀でしたが入試と重なった為でしょうか少し寂しいもので
2 9 9
した︒しかし山岩の後火葬場へ行く途中相浦中学の前を通ったら︑小雨の降る中傘も差さずに校舎の前の道路に立って黙祷をささげてくれる大勢の先生︑生徒が居ました︒校舎の窓にもたくさんの姿が見えました︒佐世保に来てたっ
た十
ヵ月
しか
たっ
てい
ない
けれ
ど︑
こん
な風
に皆
が悲
しん
でく
れま
した
︒
四十九日華奈導己︑加害者が加入していた東京海上火災保険(株)(現・墓議上日動冬火保険株式会在)という
保険
会社
の担
当者
との
交渉
が始
まり
まし
た︒
その
担当
者は
保険
につ
いて
の簡
単な
説明
をし
︑﹁
加害
者は
自殺
未遂
をす
る
ほど
苦し
んで
おり
︑選
考を
あげ
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てや
って
許し
てや
って
欲し
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﹂と
言い
まし
た︒
実は
加害
者が
自殺
を図
った
とか
︑
自殺をしたとか言つ話は別の数人からも聞かされていました︒私はそんな話を聞いても残念ながらなんの感情もわいてきませんでした︒私たち家族は真一を失った悲しみで一杯でした︒何の目的で私達にその話をするのか︑少しの落ち度も無い大切な息子を奪った加害者に思いやりを持たなくてはいけないというのでしょうか︒私は東京海上火災との交渉は弁護士にお願いしたいと思いました︒夫も私も弁護士の知り合いは無く︑また友人に尋ねても全く縁があり
ませ
んで
した
︒市
がや
って
いる
交通
事故
相談
に夫
が行
きま
した
が︑
﹁紹
介は
出来
ない
が︑
交通
事故
の保
険の
交渉
なら
︑
東京
海上
火災
に無
関係
の弁
護士
でな
くて
はな
らな
いか
ら︑
それ
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自分
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たっ
てみ
てく
ださ
い︒
﹂と
言わ
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し
た︒
電話
帳で
調べ
て適
当に
一電
話を
かけ
るし
かあ
りま
せん
でし
た︒
加害
者の
加入
して
いる
東京
海上
火災
は大
手な
ので
︑
それに無関係の弁護士は少なかったのですが︑何人目かに見つけることが出来ました︒その高塚英明という弁護士は
﹁交
通事
故の
保険
交渉
の経
験は
碕と
無い
が︑
やり
まし
ょう
﹂と
言い
まし
た︒
夫は
経験
が無
いと
いう
こと
に多
少不
安を
覚えたようですが︑他の弁護士を探す気力はありませんでした︒予想通り高塚弁護士とと東京海上火災の交渉は進み
ませ
んで
した
︒
秋になり︑今度は交通事故の刑事裁判が始まりました︒公判での事故の内容は︑始めに警察や加害者から聞いた内容とほとんど変わりありませんでした︒真一の過失はゼロでした︒公判で直接私たちの意見を言う機会はありませんでしたが︑検事は話をよく聞いてくれて気持ちを伝えてくれました︒確か二度目の公判の後だったと思いますが高塚弁護士から﹁重大な交通事故を起こしたという理由で加害者は勤めていた会社を懲戒解雇になったので︑本来ならば退職金は出ないが︑労働墾口が会社に働きかけて︑被害者の補償金に当てるという目的でいくらか用立昼9
るの
で受
け
取って欲しいと申し出てきた︒この際受け取った方がいいのでそうしなさい﹂と言われました︒それがどういう意味を持つのか少し考えさせて欲しいと高塚弁護士に言いました︒裁判のこの時期に合わせて補償金を申し出るということは︑加害者は罪を軽くしたいからではないのか︒私は︑裁判については殆ど無知でしたが︑裁判の経過に伴ってこういった交渉はままあることだと︑他の事故の被害者の家族遠の交流の中で教えてもらっていました︒この刑事裁判での私たちの願いは︑保険金を沢山貰う事ではなく︑それ相応の罪を認めて刑に服してもらうことだった筈です︒結論は受け取り拒否でした︒その後の公判で裁判官は︑このことに触れ︑遺族は加害者を許していないと結論付けました︒そして私たちの気持ちを確かめることなく退職金を受け取ることを勧めた高塚弁護士に対して︑私たちは不信感を持ちました︒裁判は求刑禁固二年半に対して禁固一年半の実刑判決でした︒そして加害者は陸訴しました︒私は︑
一方
では
自殺
未遂
まで
して
罪の
意識
に悩
まさ
れて
きた
と一
一一
戸わ
れる
加害
者と
︑も
う一
方公
判で
は借
金を
返さ
ない
とい
け
ないから実刑は免れたい等と訳のわからない事を一言い︑当然の権利とはいえ︑当たり前のように控訴する被告人が同
一人
物で
ある
事の
理解
に苦
しみ
まし
た︒
二
OO
一(
平成
十一
二)
年四
月に
なり
福岡
高裁
で控
訴審
一回
目の
公判
があ
った
後︑
高塚
弁護
士が
私達
にこ
う言
いま
した
︒﹁
高裁
の判
決前
に示
談成
立し
ない
なら
︑退
職金
は楳
撲で
きな
いと
一言
われ
た︒
その上︑判決後では示談の金額も減ってしまうだろう︒だから混藤金を受け取りなさい︒﹂と︒いったいこの高塚弁護
301
士は私たちの依頼で交渉に当たっているという意識があるのだろうかと思いました︒私たちの気持ちは受け取らないという事で変わりませんでした︒そして︑福岡高裁では結局控訴棄却に終わりました︒二
OO
一(
平域
T
一二)
年五
月
十七
日︑
禁固
一堂
十の
実刑
が確
定し
まし
た︒
その
後︑
墓示
海上
火災
との
交渉
にお
いて
はそ
れな
りの
と乙
ろに
落ち
着き
︑
示談成立となりました︒そして加害者は一年二ヵ月後の二
OO
二(
平成
十四
)年
七月
四日
仮釈
放さ
れま
した
︒
Aヱ具一が亡くなって六年十ヵ月余り経ちました︒もちろん事故のショック状態は収まり︑落ち着いた生活を送っています︒私も自分の息子がこうなる前は︑他人の事故のニュースを見た時に自分と置き換えて考えて︑その我が子を亡くした親の悲しみは容易に想像することが出来ました︒けれども時間と共にもっと早く悲しみは薄らいでいくと思っていました︒しかし自分が実際に被害者の立場に立つと︑悲しさ寂しさ宰さが事えるには相当長い時間が必要です
し︑
当然
です
が伏
して
元通
りに
はな
りま
せん
︒
それから︑私は生きることと死ぬ事の違いが分からなくなりました︒真一は交通法規を守って歩いているだけで亡くなりました︒ボーっと危険な運転をする運転手がいてたまたまそこを通りかかった真一にぶつかりました︒ほんの数秒どちらかがずれただけでこの事故は起きなかったでしょう︒ほんの数秒家を出るのが早いか遅いか︑または︑ほんの少し歩く速度が速いか遅いか︑または途中で友達に会って話しでもしていたら︑何事もなく塾に着いていたでし
ょう
︒ほ
んの
少し
の違
いが
生と
死を
分け
たの
です
︒ほ
んの
少し
の違
いと
いう
のは
︑殆
ど違
いが
無い
とい
うこ
とで
す︒
ですから︑私にはこの事が生きる事と死ぬ事の間には違いが無いということにしか思えないのです︒息子の死を通して見えるものは︑私にとって生と死に違いは無いという事なのです︒とても残念なことです︒先ほど真一の死のちゃ
んとした理由が欲しいと言いましたが︑生と死の違いは無いと考えることで︑真一の死を受け止めようとしているのかもしれません︒この事故が教訓としてもたらすものは︑特に皆さんのような若い人たちには﹁いつ死がやってきても後悔の無いように今を精一杯生きなさい﹂という考え方だということは十分分かっているし︑自分を除くすべての人々には一生懸命生きて欲しいと心底思いますが︑自分にとっては生と死は同じだという言葉︑がずっと頭の中を駆け巡っていました︒今はこんな事争去五てはいけない事は十分分かっていますし︑毎日元気で生きていますので︑心配
しな
いで
くだ
さい
︒
それから事故の遺族として︑他人との係わり合いの中で感じたことを少し話したいと思います︒佐世保に来て問もない事で︑事故前も後も他人との付き合いは余りありませんでしたので参考になるような重天な事は思い出せません︒ただ︑警察官の方とは少し接する機会があり︑笥憶に残っていることがひとつあります︒それは︑事故に遭ったのはどうやら息子に違いないだろうということで病院に駆けつけたとき︑そこですぐに医者から大まかな病状の説明を受けました︒いきなりでしたが︑ストレートな言い方をされたので︑もう息子は助からないと言っているということは分かりました︒その時に私は隣にいた婦警さんに﹁ということは︑息子はだめなんですね︒﹂と口走りましたD
その
婦
警さんは﹁大丈夫だから︑まだだめと決まったわけではないから︑しっかりしてください︒﹂とおそらく私を叱時激励するつもりで言われました︒私はそのときどフ思ったかというと︑﹁医者がダメだと言っているのに大丈夫である筈がない︑気休めや嘘を言わないでほしい︒それに息子が急にこんなことになってしっかりとできるはずがないではないか﹂と思ったことを覚えています︒婦警さんは決して悪気があったわけではなく︑慰めようとして発した言葉であるというのは十分わかりますが︑事実を直視していない︑その場限りの一時凌ぎの気休め的な言葉は心に響きませんし︑どういうわけかとても冷たく突き放されてしまったようにさえ感じましたDそれではあの時婦警さんにどんな言葉を掛けてもらえばよかったのでしょうか・・・0
303
去年︽
a p p u
‑ ‑ (
アピュ
イ)
︾と
いう
犯罪
筆舌
者支
援の
NPO
法人のシンポジウムで話をしたときに︑それを聴きに来た人からの質問で︑被害者の遺族の力になりたいがどのような言葉を掛けたらよいでしょうかというのがありました︒これと言ってしてほしいことや言ってほしいことは見当たらないというのが被宝暑遺族の人たちの答えだったよ
うに
4記憶しています口どんな言葉も遺族にはなかなか伝わらないと言うことでしょうか︒私は被害者の母親ですが︑同じように子供を亡くした被害者の遺族の方たちとは初対面でも通じ合えるような気がするし︑多くを語らなくても辛さが伝わるように思います︒それは自分の辛い経験を通して相手の立場を容易にしかもほぼ間違いなく想像することが出来るし自分の事を解ってもらえたと感じてもらえるからではないでしょうか︒だから被害者や遺族を慰めようと思ったり︑力になりたいと思ったりするならば︑自分が未経験であることを想像するのはとても難しいとは思いますが︑もし自分の大切な人︑具体的に親︑兄弟︑祖父母︑親友︑恋人︑夫︑妻が突然亡くなったらどうなるかを想像し︑相手の立場に立って考えることが出来れば︑被害者や詩撲は心が休まることが出来るのではないかと思いま
私は息子をなくした数日後︑近所のある人に出会ったときに﹁なんと言ってよいのか・・・﹂と言って泣いてしま す ︒
った
人が
いま
した
Dその時は︑ああ私の気持ちを理解してくれる人がここにいた︒と悲しいけれど嬉しかったの宇品見えています︒子供を亡くした母親の立場争首分の事のように考えてその辛さを理解してくれたことが良く私に伝わったのだと思います口言葉でどっ表現するかよりも相手が本当に真剣に思いやっているかどフかを警官者は敏感に感じて判断するようになるような気がします︒相手の立場に立って考えてみるということに尽きると私は思います︒それからすべての被害者がそうであるかは分りませんが︑私は︑盤是mが調べた事故に関する全ての真実を知りたいと思いました︒事故がどんな悲藤忠状態であったとしても息子が事故に遭ったときの様子を記憶にとどめておきたいと思っていました︒ほとんど夫が一人で警察へ行ったり︑警察官と話していましたが︑自分も何故一緒に行かなか
った
のか
後で
後惇
レて
いま
す︒
将来
皆さ
んは
どの
よう
な職
業に
就か
れる
かは
分り
ませ
んが
︑被
害者
と触
れ合
う可
能性
の高
い警
察官
や検
事︑
弁護
士︑
裁判墓守だけではなく︑その他の整来の人でも身近にいる人が被害者やその遺族になった時︑こんなふうに考える被
害者
もい
たと
いう
こと
で少
し参
考に
して
いた
だけ
ると
嬉し
く思
いま
す︒
今真一が生きていれば二十二歳︑大学生で浪人も留年もしていなければ四年生です︒皆さんは主に一︑二年生と聞いていますが︑もしかしたら何かの事情で同い年の方がいらっしゃるかもしれません︒また真一が生まれ育った大阪府吹田市千盟主や京整巾山科区掬辻や石川県金沢市間明町や佐世保市で何かのつながりがあった方がこの中にいらっしゃるかもしれません︒今日この場で私が話すことになったのも何かの縁だと受け止めて︑時々宮厚具一のことを思
い浮
かべ
てい
ただ
くこ
とが
出来
れば
あり
がた
いと
思い
ます
︒
( 了 ) 305
(本
稿は
OO
二六年
十二
月士
一百
長崎
大学
で実
施さ
れた
連続
護義
﹁犯
罪と
人権
(一
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罪被
害者
﹂の
講演
録で
ある
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︽宮
原福
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ール
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一九
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年島
根県
出雲
市に
生ま
れる
︒一
九九
九年
三月
より
佐世
保市
に住
む︒
二
0
0 0
年一月前方不注意の車によ
って
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