インドネシアの社会構造と知識階級の出現
坂 口 幹 生
目 次
I Priyai階級の社会的性格
皿 村落共同体における農民の社会的性格 皿 中間階級の出現とその社会的性格 IV 新知識階級の台頭とその社会的意義 V 日本軍政と独立以後におけるその躍進
I Priyai階級の社会的性格
民族主義の旗印の下に民族の自決と主権の平等をかちとったインドネシア人は、今や一 つの独立国家の国民として、孜々営々その未来多き建設に励みつつある。しかしながら一 口にインドネシア入と云っても、その人口総数は9,745万、47種族に及ぶ多数の人間が、
歴史と文化と社会と経済を異にした3,000以上もの多数の島喚に住んでいるのである。従 っていまこれらの複雑なる種族と人間が一つのインドネシア民族として統一的に成長し、
積極的にその能力を伸張、発展せしめていくことは、きわめて困難な問題をなすものと云 わねばならない。しかし一つの民族国家として独立し、その国を開発建設するためには、
この課題は何をおいてもまず解決されねばならないものである。そしてこの課題を解決す るためには、インドネシア人自身にとっても、又彼等に協力する他国民にとっても、何よ りもまずインドネシア入の社会的、経済的性格、より掘り下ってはその社会構造を客観的 に把握することが最も重要であることは云うまでもない。
われわれは本論においては、まずインドネシア人の社会的性格を社会構造的に考察し、
そこに新しく出現するに至った、知識階級の意義、役割を明らかにしていくこととした
い。
インドネシア人の社会的性格と云っても、前述のごとくインドネシア国そのものが、歴 史、文化、経済、地勢、種族を異にする3,000以上もの島懊から出来上っている国である から、一概にその国民的性格を規定することは早急に失する。しかしその総人口9,745万 人中67%を占め社会的、経済的、政治的にも大きな力を有するのがジャバ人であるから、
このジャバ人の社会的性格を知ることが、やがてインドネシア人の社会的性格を知る最も 重要な手掛りとなることは否定できない。
インドネシア人賦にジャバ入の社会的性格は、一一般にジャバ以外の外領地住民の性格 が、粗野にして、自己過信的であり、人間個人の自由と平等とを強く主張するのに対し、
ジャバ人その中でも特にジャバ知識入は、一般に (1)冷静沈着と云うことに最高の価値を おいた武士道的精神を尊び、(2)繊細、慎重にして容易に自己の内心を表明せず、外来人に は一見優柔不断、時には不正直にも見えるが、しかし他方(3)きわめて謙遜的で、礼儀正
しく、(4)且つ服従的、隷属的態度が顕著な人間であるとされている。(註1)
一体何故、インドネシア人特にジャバ知識人にこうした性格が特性的に現われたのか。
それは気候、風土と云った自然的条件によるよりも、むしろ過去における歴史的、文化 的、政治的背景にその根源があるものと云ってよい。
一般的に云って人間の社会的、経済的性格は、それらの人聞の住む自然的環境並に社会 的、文化的、経済的、政治的環境によって作られると共に、こうした人間が作った社会制 度によっても再変格されていくものである。周知のごとくインドネシア人知にその太宗を なす正統ジャバ人の祖先は、今より数千年の昔、アジア大陸の東南部よりジャバに移住し たものであるが、彼等は今日に見るごとく此の島の肥沃なる海岸沿いの平野に定着したも のではなかった。当時の農耕土木技術を以てしては、海岸沿いの沖積土地帯は、ジャング ルの繁る湿地帯であり、且つマラリアの脅威もあって、到底これを定住地として開墾する ことは不可能であった。自然これらの移住民は気候も比較的涼冷で、且つ耕作のしゃすい 中部丘陵地帯あるいは高地に定着し、そζに水田稲作としてのSawa農耕を発達せしめ、
やがてこうした農村を経済的、社会的基盤としてMajapahit!, Shailendra, Mataram 等の最高文化を誇る土侯王国を建設した。そしてこうじた土侯王国の宮廷社会を基盤にし て、そこに特有の貴族、顕官等上流社会人の慣行と思想と性格を成立せしめ、さらにこれ が植民地時代300年の間に一層変革固定化せられ、こうした上流階級の慣行、思想、性格 が、幾百年もの経過を通じて、インドネシア人乳にジャバ知識人に伝わり、今日のインド ネシア人特にジャバ人の社会的性格を形成するに至ったものと見なければならない。
宮廷を中心とする貴族、高官等をインドネシアでは Priyai と呼んで来たが、オラン ダ植民地時代に入っては、ジョクジャカルタのサルタン、スラカルタのススフナン、他2 人の土侯、外領200人に上る自治領首長、ジャバの県長、郡長、副相舞、オランダ政斤直 轄地の外官郡長、副郡長等がこれに属していた。彼等はいずれもインドネシアの慣行を基 盤に、オランダ間接統治の手先機関となったものであるが、それだけに彼等上流社会人の 慣行、思想、性格は、実に深い哲学的、理念的背景から訓練され滲み出てきたものであっ た。(註2)
長い歴史を通じて、これら上流社会人の中心的な人間目標は精神的な啓蒙にまで発展せ んとする絶対的な自己規制、克己と云うことであった。そしてこの自己規制には (1泊己 の内心、内部的性格の規制と、(2)外部的な他人との人間関係における自己規制の二つが考
えられたが、人はこの二つの自己規制を完了してのみ初あて、この世の中の迷妄を解決す ることの出来る「霊感的な悟り」、(1nystic understanding)に到達しうるものと考えた。
しかしこれら二つの自己規制の中外部的な対人的自己規制がまず先決問題とされた。けだ し外部的な対人的自己規制は、内部的な内心自己規制よりも、その遂行が容易であるのみ ならず、それを遂行することは、対外的な人間関係を平静に導き、そのことがやがて驚愕 とか失望と云ったような感情の激化を回避せしめ、人間をしてその内心的な自己規制に集 中せしめる自由を与えるからである。(註3)
Priyai社会の理想的な感情の状態すなわち動揺のない感情の平衡は「楽あれば苦あり」
(Happy now, unhappy later)と云う消極的な金言に最もよく表現せられているが、
他の霊感主義者が「善悪を超越」してその理想に到達せんとしているごとく、Priyaiに おいても、苦楽を超越してその理想状態に到達せんことに努力する。
さでインドネシアの上流階級たるPriyaiの人生に対するこの接近方法は、善性(Alus)
と悪性(Kasar)と云う二つの概念を成立せしあた。善性とは人間として望ましい対外的 な属性であり、たとえば純潔、洗練、練磨、礼譲、優美、霊妙、円滑、教養等を含んでお り、悪性とはその好ましからざる反対の属性すなわち汚濁、粗野、未熟、尊大、劣悪、俗 悪、軋礫、文盲等であり、さらに下劣な音楽とか愚劣な冗舌とか簡単な衣服等を含んでい る。激怒と云うことは唯子供とか動物とか農民とか外国人にのみ許されてよいことである とされている。
さてインドネシア人の上流社会、Priyaiは人間として以上のごとき思想、哲学を発展 せしめてきたものであるが、こうした思想、哲学の中に含まれている善性(Alus)は、
やがて外来人、外国人にとっては、きわめて奇妙に思われるが、Priyai社会においては 最も合理的、論理的と考えられている次のようないくつもの社会的慣行、社会的行動様 式、ひいては彼等の社会的性格を形成せしめるに至った。
すなわちそのまず第一は彼等は土侯、国王に対してはきわめて忠誠であり、献身的であ ると云うことである。それは外部権i力者の威力、権力に嫌々ながら屈服すると云うより も、むしろ彼等の持っている哲学一外部的な人間関係を立派に保つと云うことが、自ら の内部的な心の平静と啓蒙に達する所以であるとする人生哲学がそうさせてきたのであろ.
う。そしてこうしたPriyaiの思想、哲学は、やがて彼等がオランダの植民地支配下にお かれた場合、植民地支配権力と対外的に調和を保つことによって、彼等の対内的な政治的 地位と経済的利益と社会的特権の維持と云う堕落した行動様式を生むに至ったことは、き わめて興味あるところである。
第二にPriyai社会の人間はきわめて辛棒つよく、遠慮深く、礼儀正しい。しゃべりす ぎないこと、意見がましいこと、大声で話さないこと、ゼスチァを大きくしないとは彼等 の権i威と自尊心を維持する所以と考えている。彼等は最も親しい友人関係の人々を除いて は、自分の真実、心に懐いていることや真の感情を表面に串さないことを常識、否積極的
な徳と考えている。又自己の欲求を率直に出さず、内に隠しておくと云うことは、他人を 尊敬すると云う意味で好しい態度であると考えている。他人より出しゃばらず、「お黒き にどうぞ」(after you)と云うのが彼等の平素の行動様式である。他人の意志、感情に積 極的に認ったり、強烈な感情を以て他人を困惑、激上させれば、それはやがてはね返って きて、自分自身の感情の均衡を破壊されることになると考えているからである。(註4)
第三にこうした考えの結果として、ジャバ人は一般に凝れでも他人の口で言っているこ とと、彼等の実際の態度との区画線を読みとり、しかも自分がどう考えているかと云うこ とを etok−etok と呼ばれる本能的な隠蔽力を以って、決して口にしないように要求せ られている。
第四にPriyai社会の人聞は、決して他人が要求していることを為すことを決して直接 的には拒絶しない。それは礼を失すると同時に他人の感情を不快に導くからである。ど ちらかと云えば、彼等は何を要求しても一応は承諾する。しかし結局はありとあらゆる さtokやtokの云いわけを用いて、遠回しに、間接的に自分が本当は承諾していないことが 他人にわかるようにするのが常である。「人間は誰でも自分の内心で感じていることを、
外部的な行動で告げることは出来ない」と云うのが人に対する一般的な賞め言葉である。
第五にPriyai社会においては、その階級に応じて上位者に話す言葉、同格者に話す言 葉、下位者に話す言葉と、夫々別の言葉が発達して来た。かくてオランダの植民地支配時 代においても、宮廷社会において、インドネシアの土侯、貴族とたえず接触を保たなけれ ばならなかったオランダ政庁人は、こうした宮廷社会における敬語を奪うことを潔しとせ ず、ついに混合語としてのマレー語を使用することを強要するに至った。(註5)
又上位者よりも頭を高くもたげることはPriyai社会では礼を失することとされている し、アメリカ人等がよくやる様に他人の肩をたたいて「町に行こうじゃないか」と誘うこ とも、無礼な作業と考えられている。
第六にインドネシアのPriyai社会においては、伝統的な影芝居(Wayang)や繭玉 染6うけつぞめ)(Batik)、さては古典音楽、古典舞踊に至るまで、すべてが善性
(alus)と悪性(kasar)の斗争、人間の洗練された欲求と本能的な衝動との戦いの姿であ り、それが成功的に解決された場合には、Rasaと呼ばれる感情と意欲の融合の境地、す なわち究極的な霊感的悟りをもたらすものと解釈されている。
かくて影芝居において操り人形師(dalang)は神の象徴:であり、繰り人形の影をスク リーンに作り出す光は永劫不滅の生命を意味し、影そのものは人間の魂、操り人形それ自 体は人間の肉体を意味するものと考えられている。又薗纈染めを作ることは、そのデザイ
ンを考え、且つそれを染あっけるためには数ケ月もの間の精神的集中を要するが故に、そ れは精神的修練と同一に考えられているし、この神秘的な体験は人間の心臓、心に「ろう けつ染め」のデザインを描きつけることと理解されている。従ってかくのごとく神秘的に 考えられた「ろうけつ染め」の製作は単純なものならともかく、高級なものになると普通
の庶民では到底製作することが出来ず、唯Priyai社会の婦人たちのみがそれを果しうる ものと考えちれている。(註6)
さてPriyaiと称するインドネシアの貴族、高官は、以上のごとき思想、哲学を持ち続 け、上流社会人としての行動様式、ないしはその社会的性格を形成してきたものである。
彼等の多くはMajapahit, Shailendra, Mataram王朝の昔より、インドネシアの高原 台地に発達した土侯の宮廷都市(Kraton)に住むか、あるいはこれを小さく真似た小都 市に住み、自らは何等生産を営まずして、農民からの徴税によって富裕な生活をなし、宮 廷文化や礼法、宮廷生活様式の温存階級となってきた。そしてインドネシアの各地に割拠 した土侯間の軋礫、制覇の戦いが、幾世期も通じて激しかっただけに、自らの土侯、王国 を他め侵略から防衛せんとする意欲、熱情は、おのずから彼等の間に土侯、王国に対する 忠誠心と上に対する礼法を強く成長せしめていったことは容易にうなずけるところであ
る。
しかしながら群雄割拠的な政治斗争のあいまにもヒンズー教、仏教、イスラム教が逐次 渡来し、それが貴族社会の宗教として、そこに華々しい宗教思想と宗教文化の花を開かし めたことは、今日ボロブデュールの遺蹟にみるごとく、歴史上インドネシア人の誇るに足 るべき成果であった。Priyai社会の思想、哲学の形成には、こうした渡来宗教の思想、
哲学に源流を発するものがきわめて多いと云っていいであろう。
しかしこうした宗教の渡来は、もともと宗教的信仰とその布教そのものを目的として伝 来したのではなく、アジア南部の貿易商人の手を通じ、貿易交通そのものの手段として伝 えられたものであり、又これを好んで受け入れようとしたインドネシアの土侯、貴族たち も、信仰上の目的と云うよりも、こうした外来勢力によって自己の勢力を挽回又は維持せ んとする政治的目的の方に、より大きな重点がおかれていた。
さればこそスペイン人、ポルトガル人の来航を経て、やがてオランダが植民地支配を逐 次確立するや、Priyai社会人は、この権力者と結托し、オランダ間接統治の手先、かい らいとなって、インドネシア農民大衆を搾取し、その犠牲において自らの伝統的な社会 的、政治的地位と経済的利益の維持、確保に転落する社会階層となったのである。彼等は その権力と富を利用して遠くオランダに学び、オランダ語を巧みに話し、生活様式はむし ろ西欧的である。しかし支配者としてのオランダ人に対する卑屈さと、警戒的は沈黙、お よび態度の曖昧さは遂に彼等の外部的な社会的性格となった。それだけに以上の諸点を綜 合してみれば、この特権的なPriyai社会人こそは、インドネシア農民大衆とも接触せず
、西欧人殊にオランダ入と結托していたインドネシア人でありながら、政治的文化的、生 活的には、インドネシア人でない異分子であったと云えるであろう。従って独立後の今日 では、彼等が近代的な知的、経済的能力を有しない限り、門地、出身だけでは何等力のな い階級に転落した。
しかしながらこうしたPriyai社会人の思想、哲学、行動様式は、幾百年もの長い歴史 的過程を通じて、又庶民的な影芝居(Wayang)を通じて除々にインドネシア庶民階級、
特に都市生活者の中に滲透し、それが一部インドネシア人の社会的性格を形成する原動力 となったことは否定で・きない。そしてそれと共にこのPriyai社会出身の若き世代が、西 欧に学び新しき合理主義と民主主義を学びとって来たことによって、今世期初頭頃、特に インドネシアの独立を前後にして、新しい知識階級を形成し、本来世襲的、特権的なPriyai
社会の自己崩壊を引起しつつあることも、見のがせない事実である。
巫 村落共同体における農氏の社会的性格
インドネシア人の社会的性格を知る上において、さらに重要なものは、広大な各地の村 落に住む農民階級である。なるほどPriyaiおよびその文化的流れを汲む都市知識人は、
インドネシア文化の上層を形成するものではあるが、インドネシアで大都市と云われるジ ャカルタ、バンドン、セマラン、メダン、パレンバンのすべてを併せても、その居住人口 は640万人(1961年)すなわち当時のインドネシア総人口9,745万人の僅か6.5%を占める にすぎない。それを除いた93.5%すなわち9,111万人は村落に居住する農民である。イン ドネシア民族国家の建設と開発を企てる場合、農民階級をいかに把握するかがその重要な 鍵iをなすと云われる所以である。
こうしたインドネシア農民は、今日もなお深くアニミズムを信奉し、生活水準も低く、
文盲率に到っては今日でも64%に達すると云われているが、しかし彼等の社会生活には、
それなりに強い制度、慣行と行動様式を伝統的に維持してきている。
インドネシア農民の社会生活において、その最も重要な本拠をなしているものは、「村 落共同体」である。ジャバ、バリ島等におけるdesa、外領におけるkamponがその最
も典型的なものと云えよう。勿論具体的、現実的に農民が生活している場は、家族を集団 とした個々の家であるが、家は単に村落共同体の構成単位をなすに過ぎないものであっ て、農民の社会生活、殊に農家の一年中の主なる行事は、すべて村落共同体と云う集団本 位に秩序づけられている。(註7>
それでは一体何故にインドネシアの社会生活においては、かくのごとく村落共同体が強 い作用を持っているのであろうか。
すでにのべたるがごとく、インドネシアの先住移民はアジア大陸東南部より米作農耕技 術を持った移民が、幾世代にもわたって渡来し、ジャングル的湿地とマラリア病と暑気を 避け、インドネシアの中部高源または丘稜地帯に定住し次第にその数を増加していったも のであった。而していまこうした農耕民族が定着して集落を形成する場合、それには二つ の類型が考え・られる。一つは血縁的集落であり、二つは地縁的集落である。(註8)血縁 的集落とは、母系又は父系にせよ、同一の血縁関係によって、あるいはそう信ずることに
よって結合している集落である。幾百年の昔何人かがその家族あるいは親族と共に移住定 着した子孫が:繁栄して多数の人口集落を形成することは決して考えられないことはない。
スラウエジのガヨ一族には、その最:も典型的なものが存する。
地縁的集落とは血縁関係を有しない多数の移民又は移民家族が、利用性の高い一定の平 野とか台地とか高原に同時又は逐次移住し来るごとによってその土地の地縁性に.より一つ の集落を形成する場合である。ジャバ、スンダ、マズラ、バリ島等のdesaは多くこの種 のものである。
しからば血縁的なものにせよ、地縁的なものにせよ、かくして出現した集落が、何故個 人よりも、家よりも強く優位な規制力、統制力を持った一つの村落共同体に成長したの であろうか。この点に関し、まず第一に指摘せねばならないことは、L, H. Palmierの 主張するごとく、移住民社会における「土地よりも人間の重要性」と云うことであろ う。(註9)先住移民およびその子孫にせよ、後続移民にせよ、彼等はすべて水田稲作
(sawa)または焼畑農法(1adang)によってその生活を開拓、維持したのであった。か かる農耕民族にとっては、土地は勿論重要な生活要素であることは否定できないが、しか
し彼等の移住して来たインドネシア特にジャバ等においては、肥沃な沖積土の土地はきわ めて豊富に到るところに存在していたから、かかる土地を開拓すべき人間の不足ひいては 協働と云うことの方が、より重要な問題であった。けだし農耕に不可分な重要性を有する 治山、治水、道路、橋梁、灌概、排水、農作業等はその性質上、到底一人一人の個人でよ くこれを為しうるものではなく、多くの人間の協力と助け合い、あるいは共同作業の指揮 統率と云うことを要する問題であったからである。従って現代社会におけるが如く、人間 の働くべき土地そのものが問題であったのではなく、広大な土地に働く人間の不足、協働 関係の必要が秩序ある村落共同体の成立を強く要求したものと考えてよい。かくて後世に 到って土地の個人的私有権は次第に確立されて行くのであるが、インドネシア固有の村落 共同体においては、その村の土地、田畑、隣接の山林、未開墾の土地はすべて、村落共同 体の「総有」と云う、きわあて素朴な所有形態をとり、唯個人の宅地並びに個人自らの努 力と労働により荒蕪地を開墾した者のみにその私有が認められていた。
インドネシア村落共同体の優位的な成立を必要ならしめた第二の理由として、われわれ は農耕民族の生活そのものの本質的特質と、それから生れて来る各種の慣行、慣習の拘束 力と云うことをあげねばならない。
一体に人間の原始生活は、これを大別して二つとすることができる。一つはゲルマン民 族のごとき狩猟民族、スラブ民族のごとき遊牧民族、またはギリシャ民族のごとき海洋民 族の生活であり、二つは日本民族やインドネシア民族否広くアジア民族のごとき農耕民族 の生活である。狩猟民族や海洋民族又は遊牧民族は、その生活の必要上から山林難谷、海 洋、平原を自由にかけめぐる移動民族であるが、かかる移動民族の生活においてはその生 活環境はたえず変化するが故に、物の見方においても常に主客対立、対象との間に一定の
距離間隔をおいて観ると云う客観主義的文化、思想が発達する。そしてこうした自然対 象、自然環境との生活関係においても、常に客観的に、その対象、客体の中に内在する論 理、法則を捉え、この自然の論理や法則を生活の中にとり入れることによって、人間の生 活の安定、阿上を図ろうとする。
又移動民族の社会生活環境においては、個人主義的自由思想が発達し、対人的な自由競 争や斗争は絶え間なく、権力の移動、変化も常に行われる。従ってかかる社会生活環境に おいては、伝統とか慣習は殆んどその意義を失い、新しき権力、実力を保有したものが常 に優者であり、支配者となる。従ってさらに又かかる社会生活での安定と向上を維持する ための社会原理は、個人と個人との間の「契約」とその維持である。
しかるに農耕民族は一定の土地を基盤として、そこに定住する定着民族であるから、祖 父より父へ、父よりその子へと土地が受継がれて行き、又固定化せる土地を対象として毎 年同じ農作労働を繰り返してゆくに過ぎない。而かも自分がそうであれば、隣…人もまた常 に変らずそれを繰返し、接触を持続していく。
従ってかかる定着民族としての農耕民族の変らざる生活環境から生れて来る物の観方、
考え方は、「屡々すれば情を生ずる」所以で主体と客体との間に心情的なつながり、通い が生じ、主観と客観の合一した姿において物を観、物をとらえると 云う思考態度を生じて 来る。そこでは自然の論理や法則は、それ自体として客観的に把握されず、そして又それ故 にこそ、愛情とか脅怖とか嫌悪と云った主観的な感情と結びつけられたままで把握される。
対人的な社会生活環境についても同様である。face to faceに常に接触している隣…人、
村人に対しては、お互に主客融合し、協力と相互扶助の思考や行動様式を成立せしめる。
そしてこうしたface to faceの接触を欠く他郷人、異種族に対しては、封鎖的な排他心 と敵対心を生ぜしめるのが常である。勿論こうしたface to faceの接触社会において も、時には利害の対立から、時には権力の争いから少なからざる紛争を生ずることは否定 できない。しかし定着社会において、かかる紛争を解決する基準は、常に「村のため」と か「郷土のため」と云った全体的な思考から来る献身、互譲、服従である。
農耕的な定着民族の社会生活においては、その本質的な特性から、以上のごとき思考様 式、行動様式が必然的に発生するのであるが、いまこうした様式は農耕的な定着民族の世 界においては、その社会的変動ないしは進歩が幾百年にもわたって、あまり変革的に行わ れないと云う静的な性質と相結合して、それらがその農耕民族集団の慣行(adat)として 制度化される。而してフランスの社会学者Durkheimも云うごとく、一定の人間集団の 中に一度かかる慣行が社会的事物(cho曲sociale)として成立するとき、それは不文法 ではあるが、きわめて強い拘束力を以て、その集団の構成員を規制するに至る。(註10)
すなわちかかる慣行に服従しない構成員があるときは、その他の集団構成員から何等かの 形における制裁を受けねばならないのである。換言すればかかる慣行こそは、その集団社 会の構成員をして、一つの全体的な集団社会にまで結成せしめる、重要にして強力な紐帯
をなすものである。
定着的な農耕民族としてのインドネシアの村落共同体の優位性は、かくして生れた。
しからばインドネシアにおける固有的な村落共同体においては、そもそも如何なる慣行
(adat)が成立していたのであろうか。インドネシア村落共同体における諸慣行は.前述 のごとく、基本的、根底的には、その定着的な農耕民族としての生活に発するものである が、より具体的には彼等の農民として持つに至った思想、宗教、正義観、道徳観、入生観 や、彼等の現実的にその中におかれていた自然的、経済的、社会的、政治的諸条件に由来
する・ものが多い。
(1)原始宗教的慣行
インドネシア人特に村落共同体の農民の社会には古くより神秘教、呪術、魔術、アニミ ズム(精霊信仰)等の原始宗教が信奉せられ、これが以外に数多くの村落社会の慣行を成 立せしあてきた。勿論インドネシアには、後世時代を異にしで数多くの侵略者が入り込 み、夫々の侵略者はその文化、宗教として魂儒教、ヒンヅー教、仏教、回教、キリスト教 を残していったが、インドネシアの原始宗教は、これらの諸宗教とも何等かの点において 結合し、一貫して今日にまで信奉せられている。 一 一
神秘教とは巨巌、巨木、洞窟、断崖、激流、噴火口など素朴な土着人の知識や力を持っ てしては、容易に理解されえず、又左右もされえない自然の神秘に対して魔神を感じ、そ れへの畏敬の念からそれを信仰するもので、そうした物や場所には供物を捧げてその威 力、神秘力を祭る。呪術とは物力信仰(Dymmism)に発するもので、人や動植物たとえ ばワニ、平等の物め中にある非人格的な「呪力」の存在に対す:る信仰である。ダイアク族 等に最も強い支配力を持っている。この呪力は呪術によって、現実に発現されるものであ
るが、ある人間が他の人間若しくは動植物の持つ呪の影響下におかれるとき、彼は安んじて 生活することが出来ずしそ苦悶すると信ぜられている。こうした場合には彼は自らの人間
として持つ呪力を強化し対抗するために、鶏の血を自分の体に塗るとか、自分の首に剣を 触れるとかして、悪い呪力の影響を中和せしめる。或いは首狩りをして死者の人間として 生前持っていた呪力を奪取し、自分の呪力を増強する。かくして他から影響される呪力と 自分の呪力とが力の均衡を保つとき、これを「呪術的均衡」と呼び、かかる均衡の中にあ るとき、人は「幸せの生活」を送ることが出来ると信ぜられている慣行である。
アニミズムは呪術と混合一し、不明確な慣行を生んでいるが、本来は精霊信仰で、殆んどす べての非生物、生物には悉く精霊、魂があると信じられ、そこから各種の慣行を生ぜしめ ているのである。たとえば稲は魂を持って、その中に血が流れているから、鎌で刈切るこ とが忌み嫌われ、粟、稗は祖先のもたらした作物として神格化され、祭礼が行われてい る。非生物の場合であると、風とか山とか火山、あるいは銅羅、太鼓、短剣等にも夫々魂 が存在すると信ぜられており、こうした物体の精霊的価値は、それが古いものであればあ
るだけ、又家宝として長年月受け継がれてきたものであれば、あるだけ高いものと考えら れている。ここに祖先崇拝との結びつきがある。
しかし何と云っても最も有力な精霊は、生きた動物の魂で、その動物の魂の性格如何に よって、忌み嫌われたり、可愛いがられたりする。鹿はその性格が非常に神経質なので、
インドネシア人は、鹿の肉は絶対に食べない。又蛇(Naga)の精霊、魂は悪として非常 に嫌われており、インドネシアの商人は、今日でもなお、商用のための旅行を計画すると きは、蛇の魂を鎮めるために、 Selama七an と称する部落の酒宴を催す慣行がある。そ れは彼の出発する土地と商用の目的地との問に蛇の魂が横たわっているときは、商用は成 功しないから、蛇の魂を鎮めて立ち退かせるためである。しかしそれでも尚、蛇が立ち退 かない場合は、それが立ち退くまで商用旅行は延期される。かくして商談や取引契約、商 品の発送は、遅延させられるか、商取引そのものが阻止されるのである。そしてこうした 蛇には「一日の蛇」卜週間の蛇」「一年の蛇」があると信ぜられ、その蛇の所在や動き は、複雑な計算方法を以て、まじない師(Dukan)によって決定せられる。(註11)
しかし生物の中黒も強力な魂の力を持っていると信じられているのは、人聞であり、同 じ人間の中でもその魂には強弱の差がある。祈祷師、まじない師、巫女などは最も強い魂 の所有者とされ、一般に尊敬せられているが、時には非常に恐れられたりもする。
又こうした人間の魂の力は、他人の毛髪や爪を入手することによって彼よりも強い力を 獲得することが出来ると信ぜられ、即時には他人の名前を知ると云うことそのことが、同 じ効力を発揮するとも考えられている。従ってインドネシアの村落社会では、人の名前は 固く秘密に守られている所がある。これと関連して、ジャバ等においては、名前が人の幸 運、悪運を左右するとして、幸運をうるため姓名の改変を行う慣行もある。
又インドネシア人の間では、他人より魂の力を獲得した者は・、自然に権力者となりうる ものであり、王や指導者は精霊的に強い者と考えられ、彼の祖先は王道を築いた神にまで 湖らしめられる。こうした信仰から墨引者は自分の祖先は神であったとの系譜を作るのが 常である。
生きた人間の魂と死者の魂とは明らかに区別されて居り、死者の魂はあまり歓迎されな いで墓場に閉じ込あられている。しかし死者の魂が悪霊と考えられているのではない。従 ってたとえばジャバ人の間では、人生の重大な時;期には祖先の墓に詣でる習慣があるg但 し、最近死んだ者の魂は、必ず迷わず墓場に落着くよう配慮が重ねられる。死後の魂の生 活とか、他のものへの化身と云うことは、インドネシアでは考えられていない。(註12)
さて以上はインドネシア村落共同体の中に存する原始宗教的な信仰と、それに基づく社 会慣行である。勿論こうした慣行の中、アニミズム的慣行は、単に村落共同体のみに限ら ず、可成り近代化した都市人の間にも、今尚見られるものが少くないが、一般的には農民 を主体とした村落:共同体に最も強く支配しているものと云ってよい。爾来インドネシアは 地勢の変化最:も著しく高山、台地、断崖、河流、平野、島娯に富み、又ジャバだけでも44
の噴火口を有する世界有数の火山地帯で、古くより多くの人命と財産が失われて来たであ ろうし、モンスーン地帯として季節的な暴風雨は土着人の生活に長い間の脅怖を与えてき たことであろう。ジャバの中央Bogarは世界中で雷鳴の最も多い所であり、スマトラ、
カリマンタンの一部では年間400インチ以上に達する最高の降雨地として知られ、高山、
難谷、密林に奔流する大洪水は、絶えず破壊と障害を住民に与えて来たに違いない。そし て幾千年にわたるこうした自然の絶えざる狂暴に対し、その影響を最も大きく受ける農耕 民族として、こうした自然の法則を客観的に把握し、それを利用することを知らなかった 未開の民族として、インドネシア農民がアニミズム的信仰とそれに基づく慣行に走ってい
ったことは、まことに当然のことであると云わねばならない。(註13)
而かも定着民族として、祖先からの長い歴史と伝統と平和の中に生きて来た彼等の社会 生活の中にも、矢張り人間としての権i力の消長、経済的浮沈もあり、そこかちそれに備え るための平穏と均衡を愛好する受動的な生命観や人生観も生れてきたに相違ない。しかし インドネシアが自然の脅威をうける反面、また豊かな天然資源に恵まれた地域であったと ころがら、人間と人間、種族と異種族、さらには海を越えて歴史の幾年代をこえ、たえざ る異民族の侵入の的となったことも否定できなかった。異種族、異民族の侵入は動的なカ と力の斗争であり、力の要求にかりたてる。ダイナミズムにしても、アニミズムにして も、それらは単なる呪術や精霊の問題ではなく、同時に他に対抗し、他を制圧する呪力、
霊力(Spiritual power)と結びついて考えられた。
いずれにしても原始宗教を基礎とする慣行は、インドネシア農民の生活において、将来 起るべき危険や脅威を非科学的に予感し、それに備へ、あるいはそれを回避、鎮定する ために、集団社会内における個人と.しての自らの地位を自覚し、超自然力や祖先や物の精 霊に信仰をおいて、社会的均衡と安定とを求めんとした宇宙の秩序を信ずる思考様式、行 動様式であったと云える。(註14)それだけにこうした社会集団的慣行は無知な農民に対 しては、きわめて強い規制力を発揮し、この慣行の規制を通じて集団社会内の秩序と均衡 は固く維持せられ、それがやがて組織的な村落共同体の成立へと導いていったものと見る ことができる。
(2)相互扶助(Gotong Royong)の慣行
村落共同体内におけるインドネシア農民の社会的性格を知る上において、最も重要なの は相互扶助の慣行である。この相互扶助の関係は、単に隣人、部落民相互の間即ち横の関 係において存在するのみならず、部落民と部落の首長の間、すなわち縦の関係においても 慣行として存在する。すなわち先ず部落民相互の関係においてであるが、隣…人の家に病 気、死亡、災害があるときは、お互いに人手を出して助け合うし、種播き、田植え、収穫 など、多人数でこれを行った方が、より能率的である労働は、ある程度遠距離のところで あっても、女子がお互いに出向いて共同作業的に助け合うし、隣…人の家晋請の時は1男
子が無償で加勢する。農道の修理、架橋、灌海、排水、池溝の管理など、本来連帯責任的 なものについて、出合い労働をするのは当然の慣行である。又インドネシア農民は一般に 誕生祝、冠婚葬祭、特に婚礼に当っては、身分不相応に盛大な酒宴を行い、莫大な生計費 をこれに投入、費消する慣例があるが、かかる場合、村人を集めて饗宴を行うための器具 はすべて村人で共同保有している。又こうした饗宴のために必要な莫大な資金は、屡々華 僑商人の「青田買い」の好機とされているが、他面日本に見られるような「頼母子講」に 似た相互扶助的金融制度を発達せしめているし、又お祝金を贈呈することも慣行として実 施されている。(註15)
又部落民と部落の首長との縦の関係における相互扶助についても同様である。それが後 世に至って次第に村民の私有財産化が許されていったとは云え、固有のインドネシア村落 共同体においては、血縁的村落であれ、地縁的村落であれ、田畑、隣接の山林、荒蕪地は すべて部落民の「総有」に属し、唯個々の農民には、宅地と自らの労働によって開墾した 荒蕪地のみの所有が認められていた。そして後年、土地の私有が次第に認められていった 場合でも、その土地の処分権だけは、村落共同体に握られていた。而してかくのごとき村 落共同体においては、村の首長は、血縁:的村落の場合は勿論のこと、地縁的村落において ざえも、その村落の最初の開拓者又は指導者たりし者の子孫すなわちその村での居住;期間 が最も長い家の者が世襲的に首長として選ばれてきた。勿論後世、土地の私有が認められ るようになると、穀物ことに米を生産する水田を最も多く持っている、村の上層階級から 首長は選ばれた。そしていずれにせよ彼等はその村落共同体のすべての慣行の体験者であ り、護持者であり、それらの慣行によってその地位を確保すると共に、又よく村落社会の 秩序を維持し、村民をわが子の如く愛情を持って保護して来たのである。又村民たちも、
首長に対しては、尊厳と敬愛の念を以て接し、慣行を基とする首長の指示、命令には喜ん で服従する風習を持ちつづけた。(註16)さればこそ部落内において悪事や犯行が行わ れ、慣行の執行的権力者たる首長が、それを罰せんとするときは、一般成文法よりも、む しろ社会的事実としての慣行法によって罰せられるし、若し犯入があがらないときは、部 落民は連帯してその責任を負わねばならないように慣行が定められている。(註17)然し 慣行上部落民に対して絶大の権力を有するこの首長が、部落民をかばう意味で、真犯人を 防護せんとすれば、たとえ成文上の犯人であってもオランダ政庁は首長の協力なくしては これを如何ともすることが出来なかった。植民地支配国の権力でさえも、村落共同体の慣 行は支配することは出来なかったのである。
(3)話合いによる満場一致(Mufakat. rnusjawarah)の慣行
インドネシア村落共同体における慣行として、さらに指摘せねばならないのは、政治的 に何事かを決定せんとする場合、村落集会では決して西欧的な投票による多数決原理を用 いず、参集者が全部、満場一致的に合意に到達するまで、話し合いを続け、この合意に達
したとき最後に事を決めると云う慣行である。(註18)インドネシアの村落共同体は、個 々の家を単位とし、村落の首長および長老会を当局者として緊密な自治体を構成せしめて いるのであるが、こうした村の首長を決定する場合にも、決して投票による多数決原理を 用いず、どこまでも部落集会の参加者で話し合いを続け、全員同意に達したとき、その首 長が決定される。その他村落の重要事項を決定する場合にもすべて然りである。満場一致 でなければ、決定はしない。こうした場合、村落の集会に参加する者は、個々の村民でな く、家を代表する家長であって、家族たる個々の村民は、唯この家長を通じてのみ村落の 政治に意見、希望を申し立てることが出来るにすぎない。しかし家長はよく家族の意見、
希望を代表して、自由に発言すると共に、部落集会の司会者となるべき首長に対しても、
尊厳と敬愛の念をいだき、村落共同体の連帯性において、円滑に話し合いを続ける。
インドネシアにおける伝統的な「影芝居」 (Wayang)の筋書きは、多くの場合、イン ド又はインドネシアのマタラム王国、マジヤパイト王国の歴史を主材どするものである が、その中に、屡々見られるごとく、古来インドネシア人は、対外的にも、対内的にも、
何か重大なる問題が起ったときは、当事半間で静かに何度も話し合うと云うことを最も重 要なことと考えてきた。けだし話し合いによつでお互の希望なり、意見なり、考え方が通 ずるとき、そこには自ら平和な妥結が生れ、決して力によって解決する場合のような悲惨 事は起らないからである。
インドネシア人の中でも特にその中心をなすジャバ人では大昔から、人間の五官として
「見る」「聴く」「感ずる」「潔く」感覚の外に、「話す」と云うことを一つの感覚とし て考えて来た。(註19)コムミュニケーションを通じての人聞と人間との触れ合いを、心
と心の感覚と考えたのであろう。それは正に農耕的な定着民族として、常にface to face に隣人に接触する人間同志の間に生れて来た、尊い思考様式であり、それがやがて村落共 同体の自治生活の中に、政治的慣行として制度化されたものと見てよい。
爾来インドネシア人、特に農民は、東洋的な家族主義思想、ひいては血縁的親族的関係 を最も重んずる人間である。以上のべた相互扶助、話し合いによる満場一致の慣行も、
その源は、こうした家族主義的思想に出ているものであり、それが村落共同体に社会制 度化されたものと見るべきであろう。一般公的生活における長老主義、同族登用主義
(Nepotism)も又この類に外ならない。(註20)
さて以上われわれは、定着民族としてのインドネシア農民の、村落共同体における諸慣 行、ひいてはかかる制度、慣行の中に生活する、インドネシア農民の社会的性格について 顧みてきた。かつてカール・マルクスは、インドの社会組織を論ずるに当り、「従順にし て静的な、むしろ固定化した、その農村社会の慣行と性格は、たとえその上に築かれた王 朝、国家が、たえず幾度か解体し、変化しようとも、こうした天上における雷鳴には関係 なく、少しも変化しなかった」と論じているが、(註21)同じことは、そのままアジア的 な、インドネシアの農村共同体についても云えることであろう。勿論これらの諸慣行は、
その明確さを期するため、梢固有的な姿をそのまま描きすぎた嫌がないではない。その後 外来文化殊に西欧文化の到来によって、今日ではこれらの慣行ひいてはインドネシア農民 の社会的性格も、可成り変化していることは、見おとしてはならない事実である。しかし ながらこうした農村民の慣行と性格のうち、未開なもの、因習的に固随化したものは、イ ンドネシアの近代化と国家建設のためには、その阻止要因として、可能なるかぎり、廃絶 せしめていく必要があるが、近代化は必ずしも西欧化を意味するものでないとするなら ば、かかる諸慣行と性格のうち、近代化の促進要因となりうべきものは、新しい意味にお いて、今後再認識、再評価されていいものも絶無ではないと思われる。然りそれが新しい 意味を持つためには、今後幾十年、幾百年の歳月を要するかも知れない。しかしアジア的 風土の中に、育くまるべき近代化の基本的促進要因たるべきものは、インドネシア村落共 同体の中にも存するように思われる。スカルノがその民族団家の建設にあたって、パンチ ャ・シラ(Pantja Sila)の中に、インドネシア的民主主義とか、インドネシア的社会主義 を強調したのも、又かかるインドネシア的社会化の促進要因を、積極的に掘り出さんとし たものに外ならない。
皿 新中間階級の出現とその社会的性格
(1}植民地時代における旧中間階級
インドネシア人の社会的性格を知る上において、現代的にさらに重要なことは、新中間 階級の出現と云うことである。ここに薪中間階級と云うのは、具体的には、20世紀に入る に及んで、土着インドネシア人の中から次第に出現して来た、中小商工企業者および外国 人経営の大会社、大農園に雇われてきたか、あるいは自営の経営管理者等の新産業人、な らびに政治家、政府官庁勤務の公務員、軍人将校、下士官、大学その他教育施設の教授、
教官、大学生、著述家、評論家、医師、弁護士、建築士、僧侶、その他一般の知識人であ
る。
何故これらの社会階層を「新中間階級」と呼ぶのか。彼等は前身として如何なる社会階 層から生れ出て来たものであるか。その性格、思想なり、社会的機能は、いかなるもので あるかを知るためには、われわれは彼等の出現の根源、基盤となった、オランダ植民地支 配下における、インドネシアの社会構造そのものから顧みて来なければならない。
すでに触れたるがごとく、インドネシア特にジャバにおいては、上層階級たるPriyai と下層階級たる農民を最大底辺とする社会構造を久しく存続せしめてきたが、17.8世紀頃 より西欧人が、しきりに渡来し、殊にオランダ東印度会社が190年余(1605−1796)の長 きにわたって、武力を以てインドネシアを侵略、その後オランダの植民地政庁が設置せら れるや、彼等白人の権力は益々増大され、西欧的な肌色、言語、服装、生活様式は、土着 インドネシア入達の尊敬の的にさえなった。そしてこうした白人尊重の社会的思潮は、ほ
ゴ1860年頃に至って決定的に固定化されるに至ったが、これと同様に白人のインドネシア 来住者も、1860年には47,900人、1900年には91,400人、1930年には240,200人と激増し た。(註22)そしてこの社会的事実は、インドネシア社会に一つの大きな構造変革を引起 さしめたのである。それは古代より中世にかけて、血統、世襲、伝統、慣行、宗教等に対 するインドネシア的価値観を基礎として、社会的上層階級を形成していたPriyai階級に 代って、白人と云う肌色とその保有する価値観が、より高い社会的威信と優位を示す、
換言すれば、人種(Race)的差別に基礎をおく支配階級が出現したと云うことであっ た。(註23)勿論こうした支配階級としての白人、殊にオランダ人のグループそれ自体の 中にあっても、植民地政庁の役人が最:も高い威信と特権を持ち、オランダ人植民、職業軍 人は、ややその下に置かれていた。そして特に1901年、オランダの「倫理政策」以後、私 的資本の導入が認められるや、白人の私企業者たちは、続々インドネシアに来住し、私企 業においても、大農園の経営においても、次第にその勢力を増し、彼等の富と社会的評価 は、土着Priyai階級に匹敵するものがあるに至った。
さらに白色人種の増大に関連して、ここに注目せねばならないのは、現地土着人の女性 と白人男子との間に生れた混血児の問題である。一般にイギリスの植民地においては、こ うした混血児は土着人の仲間に入れられたが、インドネシアにおいては、オランダ政庁 はこうした混血児も、それが白人男系の男子であり、且つ父がそれを認知した者である 限りは、これを白人種すなわち支配階級の中に加えて考えた。彼等白人混血児は、通常
Sinjos 後には lndos と呼ばれ、オランダ東印度会社時代には、これら混血児は、オ ランダ人にとっては信頓出来る、又忠誠的な人間と見られ、多くの者は東インド会社の事 務員として採用された。事実彼等は、特に1850年頃より、オランダの学校教育をさかんに 受け、自らを以てオランダ的教養の優れた持主であると自認していた。
かくて上述のごとく、1850年より今世紀にかけて、インドネシアにおいては、単に肌色 の相違によって、区別せられた、白色人種と云う支配階級と有色人種と云う、インドネシ ア人の被支配的、隷属階級が成立するに至った。而かもこの二つの人種集団は、その後幾 分融合化した点があったとは云え、今なお夫々固有の体制を存続し、この両者間に架けら れうる社会的、経済的、政治的橋はないとされてきた。換言すればブーケの云うように、
この二つの集団社会が、過渡的、一時的に相違することはあっても、若し同質集団社会な らば、やがて下層階級から中間階級が生長し、それが上層階級へと昇進して行く道が開か れているのであるが、インドネシアにおけるこの二つの階層集団は、全く異質的で、而か
も二つが同時に並存しているに過ぎないのである。
而かもこうした白色人種の支配的優位性は、単にインドネシア植民地における社会的事 実ないしは慣行だけに止まらず、ついには法制化によって、その差別が明確に強制される に至った。すなわちインドネシア人は、単にその肌色が黄色であると云う基準だけで、長 年彼等が住み着いてきた土地の政治に参与し、公職につくべき被選挙資格は法的には与え
られなかったし、裁判上の制度も適用さるべき刑法も白人とは異にせられていた。又白人 男子との間に混血児を生んだインドネシア:女性も、たとえそれが白人たる父によって認知 せられていても、父の死後、母はたとえば何分の幾つかの遺産相続と云った法律上の保護 は、何等与えられていなかった。(註24)
かかる社会的、政治的、法律的蔑視に加え、インドネシア人はオランダ政庁の公共事業 には賦役的な労働奉仕を強いられ、政府所有の農園には強制労働が課せられ、あまっさえ 物納、金納の重い税金が負荷させられた。否それのみではない、その生活様式において も、オランダ人は土着インドネシア人が彼等の集団内において、慣行的に着ている服装以 外に、白人の服装を真似ることを堅く禁止し、若しこれに違反する場合は科料に処せられ
た。
さて以上のごとく、インドネシア植民地社会においては、彼が如何なる人物であるかと 云うことよりも、彼が如何なる人種(Race)に属する人間であるかと云う事実によって、
明確に区別された白人支配階級と土着導引支配階級が成立したのであるが、こうした 二つの異った人種的階層集団に対し、ここにもう一つ異った第3の人種的階層集団が出 現してきた。それは、インド人、アラブ人、中国人揮いわゆる「東洋外国人(Foreign Orientals)の階層集団である。
インド人のインドネシアへの来航は、すでに西暦紀元前に下り、インドの西岸グジャラ ード、東岸コロマンデルの貿易商人がヒンズー教、仏教を伝えるに及んで、両者の宗教 的、通商的、文化的交流は、最も盛大をきわあた。今日インドネシアに在住するインド人 は、多くは彼等の子孫、またはその後インドネシアの産業開発に応じて、インド南部より 移民として来住したタミール族である。彼等はインドの経済文化が古いだけに、夙に金銭 的取引に通じ、インドネシア定住者は、多く両替商人、織物商人、一般小売商人、牛乳特 等に従事し、中には警察官、看守、守衛等に勤務している者も少くない。
又アラブ人は、その昔グラジャードの貿易商人達を通じて、インドネシアに回教を侵透 させた人種であり、こうした古い関係から、今日も尚多くインドネシアに来住している。
その多くはハドラマウトからの移民であるが、彼等は性格的に、なかなか狡猜的なところ があり、金貸業、小売商として、土着インドネシア人からだまし取ることで有名である、
産をなした者は宝石商、映画館主、地主、船主、銀行業者となって独立自営している者が
多い。
しかしながらインドネシアに在住する、いわゆる東洋外国人中、前二者に比して、はる かに有力な地位と勢力を占めるものは、云うまでもなく中国人、華僑である。1945年イン ドネシアの独立宣言当時、インドネシア在住の華僑は、ジャバ島だけで95万人、益々増加 傾向を示した学期地域で95万人、合計190万人に達すると云われていた。
中国とインドネシアとの関係は、遠く西暦紀元前に醐ると云われているが、特に7世紀か ら13世紀頃にかけて、インドネシアにスリヴィジャや王国やマジヤパイド王国が栄えた頃
には、両国間の通商貿易が頻繁に行われ、中国貿易商人、船員は、中国産の陶器、漆器、
銅器、生糸、綿花を販売すると共に、インドネシアの香料、胡椒を輸入していた。
しかし中国人が移民として、大量にインドネシアに来住したのは、オランダの植民地時 代に入ってから、それも特に今世紀に入って「倫理政策」がとられ、インドネシアに近代 産業が漸く盛んになろうとしてからであった。彼等の多くは主として広東、広西、福建、
海南島等耕地の少ない貧困地域から来住したものであるが、オランダ植民地政庁は、中国 人の移民に対しては、次のごとき諸種の事情から、歴代インドネシア土着人に対するより
も、はるかに大きい優遇策をとってきた。(註25)
(a)主として南支那の貧困な家庭に育ち、且つ身体的にも強靱な中国人移民は、忍耐 強く、勤勉で、長時聞の労働に耐えることが出来る。こ・の点インドネシア原住民が体躯比 較的倭小で、怠惰かつ営利心と創意工夫心に乏しいのに比較し、オランダ植民者にとって は、はるかに重宝である。従って元来植民地宗主国が植民地を開拓するに当っては、通常 原住民の労働を利用し、搾取するのが常であるが、オランダの場合はむしろ非土着人たる 中国人労働者を歓迎した。
(b)中国人はまた、きわめて順応性に富み、いかなる職業でも、又いかなる地域で も、若しそれが経済的に有利であると考えられる場合には、そこに飛び込み、忍耐強くそ の途をきり開いていく。この点インドネシア原住民が、定着民族として田畑に収穫があろ うが、なかろうが、いつまでも執着、固定化し、移動を比較的好まない保守的性格を持っ ているのとは大いに異る。
(c)中国人は移民後定着地においても、容易に土着民との生活に融合せず、その出身 地別に集団的に居住し、その本国での生活様式を変更せず、叉強い団結力と組織力とボス 的な統率者を持っている。このことは一面たしかに彼等の強い社会的、政治的抵抗を基礎 づける場合もあるが、しかしその集団社会の統率者だけを把握すれば、案外容易に支配で きる反面を持っているから、オランダ人は雇用管理上や取締り上、これを巧みに操縦する ことに成功した。
(d)中国人移民は、かつてのインド人やアラブ人のごとく、通商または移民に当っ て、経済的目的以外に、宗教的、政治的目的を有せず、オランダ人は安心して、彼等を受 け入れることが出来た。
(e)中国人はその背後たる母国に彪大な人口を有する人種であるから、彼等と友好を 厚くすることは、オランダのインドネシア植民地貿易を拡張するためにも都合がよかっ
た。
しからば1945年190万人に達したと云われる中国人、華僑は、インドネシアにおいて は、一体いかなる職業に従事していたのであろうか。彼等の中なお多くの者は、オランダ 人その他欧米人の経営する大農園、石油、鉱山に賃金労働者として雇われていたことは、
否定できないであろう。しかしながら元来中国人は、一般に単なる賃金労働者として一生