社会科教育本質論(Ⅰ)
―認識主体と認識客体を中心に―
宮 本 光 雄 1.問題提起
「社会科教育とは何か」という社会科教育の本質を問うことによって,科学としての社 会科教育の確立に若干なりとも接近したいと願うものである。社会科教育への本質的な問 いは,現在及び未来の社会科教育を確固たる基盤の上に確立し,発展させてゆく上で,極 めて重要な礎石であると思われる。現在,多種多様な社会科教育観があるが,われわれは,
自覚的に社会科教育の本質を常に問いつづけながら,理論と実践の統一を指向すると共に,
理論即実践にまで結実させるよう前向きに努力すべきであることは言をまたない。社会科 教育の本質を自覚的に問う姿勢こそは,社会科教育を最も基本的な座に据えることにつな がると考えられるからである。もとより模索的探求の立場に立つ私の諸力をはるかに越え た深い問題であろうとも,社会科教育の深遠な基底からその本質を問わないではすまされ ない問題である。
これまで社会科教育の本質をめぐって多種多様な社会科教育論が出されてきているが,
それら先達の功績を踏まえて言えることは,「社会科教育は,児童・生徒の社会について の認識を科学的・客観的な社会認識にまで形成する教科である。」ということである。
しかしながら,社会科教育をこのように概念規定してみたところで,これのみでは社会 科教育の本質を少しも明らかにしたことにはならないであろう。というのは,この概念規 定はいろいろな要素を包含しているからである。少なくともそこには,「児童・生徒の社 会についての認識を」 「科学的・客観的な社会認識にまで」 「形成する教科である」とい
う三つの要素が包含されている。
「児童・生徒の社会についての認識」に関して言えば,われわれの求めるものは,児童
・生徒の社会についての科学的・客観的認識であり,認識発達の法則性である。とすれば,
当然認識主体であり,かっ学習主体である児童・生徒が現にもっている社会認識の問題点 が問われなければならない。児童・生徒が現にもっている社会認識は,主観的・一面的・
外面的・感性的な面が強く,また歪んだり誤ったりしている場合もある。しかし,たとえ 感性的で低次なものであっても,それはその後の認識の発達を保障しているのである13従 って,児童・生徒の社会認識の構造を明確にし,その認識発達の法則性を探ると共に,科 学的・客観的な社会認識形成への方途が探求されなければならない。
次に「科学的・客観的な社会認識」に関して言えば,社会認識といっても,科学的・客 観的な社会認識もあれば,非科学的・独断的な社会認識もある。社会科教育は,非科学的
・独断的な社会認識ではなく,科学的・客観的な社会認識を形成しようとするにある。お よそ教育が科学的・客観的真理に立脚して,児童・生徒の全面発達を指向する以上,人類 の文化遺産の一つである社会諸科学の成果を教育の中に取り入れ,社会についての科学的
・客観的認識を形成してゆくことは,絶対に欠くことはできないはずである。そこで,社
会科教育に取り入れる社会諸科学の成果とは何かということが問われなければならない。
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従来,社会科教育は,社会諸科学の生きて働く体系的な認識内容がその成果であると考え られてきたが,理論・実践の結果としての体系的認識内容ばかりではなく,その成立過程 や社会科学的な研究方法や社会についての見方・考え方,つまり認識方法までもその成果 に包含して考えられなければならない。それ故,「科学的・客観的な社会認識とは何か」
ということを明確にする必要があり,そのためには,「科学的」・「客観的」・「社会認識」
とは何かということをそれぞれ徹底的に検討・吟味し,統合しなければならないであろう。
さらに「形成教科」に関して言えば,社会科教育が教科教育の一つであり,人間形成に 自覚的にかかわるものである以上,教育の本質的基盤にしっかりと立脚したものでなけれ ばならない。教育の本質的規定は,教科教育の上位概念であり,教育の本質規定を離れては,
教科教育は存立し得ない。教科教育という位置から,全体としての教育を一層豊かで生き 生きとしたものにし,教育それ自体を深化・拡充・発展させるためにも,教科教育それ自 体の相対的に独自な論理や法則を明らかにしなければならない。そうすることによって,
教科教育は,教育の本質規定に立脚した教科教育それ自体の本質規定によって,教育の内 実を豊富にすることが可能となるのである。社会科教育が,教科教育の一つである限り,
当然教科教育それ自体の論理や法則を踏まえていなければならないし,また教育課程の全 体構造の中で占める相対的独自性や関連性と教科教育としての存立根拠などを徹底的に明
らかにされなければならないであろう。
以上より,これら三要素をどう理解するか,どこにアクセントをおくか等によって,そ の主張も異なってくることは当然の理であろう。・
しかしながら,重要なことは,どこにアクセントをおくかということではなく,それら 諸要素の一つ一つが深化・拡充・発展されると同時に,それらが結合・統一・され,さらに 全統一体の中でそれら諸要素が一層深化・拡充・発展され,総体として諸力を発揮すると
き,科学としての社会科教育が合法則的に成就され得るのである。つまり,児童・生徒の 社会についての認識発達の法則性のみでなく,社会の変化や発展の法則性と,人間の全面 発展における教科教育としての社会科教育の担うべき役割の自覚的・目的志向的な形成と の弁証法的な統一が重要なのである。そこには, 「児童・生徒の社会についての認識発達」
と「科学的・客観的な社会発展」と「全面的人間形成への発達」という三つのそれぞれ相 対的に独自な法則が,それぞれ一定の相関をもちながら社会科教育を成り立たせている。
それぞれの法則はそれ自体として客観的に別個の論理をもっていて,必ずしも教科教育に よって統一されているとは限らない。それぞれの一定の法則が自覚的に組織・統一され,
総体として諸語を発揮するとき,はじめて社会科教育は合法則的に成就され得るのである。
さて,社会科教育の本質を明確にして,科学としての社会科教育を実践していくために は,そのための基本的諸要素をより重視すると共に,全統一体の中でそれら諸要素が深化
・拡充・発展されてゆくことが一層重要であるということを充分酬えた上で,その取り組 みの姿勢として,基本的要素の一つである「科学的・客観的な社会認識とは何か」という 視角からまず社会認識についての問題を深化・拡充・ ュ展させることによって,社会科教 育の本質解明に一歩一歩接近しようとするものである。それ故,本論稿では,当面している 社会科教育の諸問題に直接答えようとするものではなく,それら諸問題の根底においてかか
わりをもつ問題を何よりもまず徹底的に検討・吟味し,統合することによって,現実の社
会科教育がかかえている諸問題の解決に光を与え,方向を示唆する基盤を模索しようとす
るにある。
取りも直さず,本論稿では,社会認識における認識主体と認識客体との問題をクローズ・
アップして考察対象としたい。
H.認識主体と認識客体
1.認識主体の概念
認識獲得過程が,少なくとも認識主体・認識客体(認識対象)・認識獲得過程の知的産 物としての認識それ自体という基本的要素を包含していることは疑うべくもない。それ故,
「社会認識とは何か」という問題に接近するにあたって,何が認識の主体であるのか,誰 が思惟し社会を実践的に創造するのか,ということを明らかにしなければならない。
観念論哲学は思考と実践的活動の主体についての問題を歪曲して解釈してきた。
「客観的」観念論は,現実の世界を超個人的なイデー,本源的な宇宙的精神のあらわれとし,
思惟し活動する神が思考の主体であり,世界中のすべてのものが神の創造的活動の結果で あることを承認してきた。これに従えば,認識と実践的活動の源泉としての人間は,地上 のすべての出来事の主体である神に従属していることになる。
主観的観念論は,外界を個人の意識内容に帰着させ,一切の事象を個人の主観の観念に ほかならないと考えるが故に, 「自我」,「人間の意識」が思考と活動の主体となってい る。つまり,意識が自己自身の主体である。
それ故,「客観的」観念論も主観的観念論も,認識関係における主体一客体の関係について 言えば,主体が優越あるいはまさに独断性を獲得していることになる。
これに反して,機械論的反映論は,認識対象が主体の知覚器官に作用を及ぼし,主体は 一つの受動的・観照的かつ受容的要素として現われるとする。この過程で産み出される認 識それ自体は,認識対象の反映であり模写でなければならない。こうした反映の発生は対 象の,主体への機械的な作用と連関する。つまり,主体は外的な刺激を記録する機器の役 割を演ずる。このような客体の実在性の強力な承認は,認識対象に関する側面の把握と理 解を容易にするが,他方まさにこうした対象に関する観点の強調のために,認識関係の主 体に関する側面を明らかにし,理解することを困難にする。
ここに,認識関係における主体一客体の関係で言えば,客体が優位を占めているのである。
また,人問学的唯物論は,.主体の理解における狭さと限界をもっている。フォイエルバ ッハは人平の本質を生物学的な本性に還元していた曾)彼ピとっては, 「人間とは,空問と なま 時間のうちに住みその物質的な本性によって直観と思考の能力をもっている,肉体的な生
身の存在である。人間の本質のその生物学的本性への還元一この本性から思考は導き出さ
みれる一,人間を直観的な,受動的な,消費する存在としてみる見方が,フォイエルバッハ の人間学の特性をなしている。」(引用・参考文献⑤一72ページ,以下すべて⑤一72と記す)
この人間学的唯物論は,最も重要な点である人間の社会的な本性が欠落しているのである。
ここにおいて,強調したいことは,認識主体を意識(神や人聞の意識)に還元する(「客 観的」観念論や主観的観念論)のではなく,認識と実践的活動の真の主体は,人間,しかも 人間の意識だけではなく彼に固有なすべてのものを備えた人間であり,最も重要な点は,
人間の社会的な本性にあるということである。
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社会を構成している個々の個人は一個の人格であり,一つの主体である。主体である個 々の個人が,行動し,思考し,判断し,行為し,創造し,また抵抗する。社会創造を押し 進めるのも主体的な個々人であり,それを押し留めるのも主体的な個々人である。
しかし,こういうことを充分認識した上で,社会事象のもう一つの面を見落してはなら ない。なるほど個々の個人は主体ではあるが,多数の個々人が集ってできた社会集団とい.
うものは,それ自体一っの集合力となって現われてくる∂〕それは個々の個人からっくられ たものでありながら,いわば超個人的な独自の行為連関の世界として現われてくる。これ が社会集団であり,社会はこれら諸集団の総体として把握祭鵡う乳⑱一23)つまり,人 間(人間的存在)は,その現実において,「社会的諸関係の総体」(⑩一89)である。
もし個々の個人のこうした社会的内容を無視すれば,人間の間にはわずかに類的で自然 的な結びつきしか残らない。個々の個人とは,他の同じような個人ともっぱら自然的で生 物学的な絆によって結び合わされているだけの類的存在ではない9)マルクスは,フォイエ
ルバッハを批判して次のように書いている。「フォイエルバッハは決して現実に存在する 活動的な人間には達せず,いつまでも『人間』という抽象物にたちどまり, r現実的な,
個体的な,具体的な入間』 (wirklicher, individueller, leibhaftiger Mensch) を感 覚において認めるところまでしかすすんでいない。」(⑪一63)と。
また,人間は社会的動物だといわれる。人間が社会的動物である限り,彼は一個の自然 物である。人間は神によってつくられたものでもなく,またヘーゲルのいうような宇宙理 性や絶対精神の所産でもなくて,物質的自然の長き歴史的発展の所産として直接に物質的 自然に連続している。無機物と有機物との間にも,植物と動物との間にも,何らかの意味 において連続の原理が支配しているように,動物と人間との間にもまた深く連続の原理が 支配している。そういう意味では人間は自然的な存在であり,自然の一部分である。人間 は明らかに脊椎動物として哺乳類の一種であり,その身体構造においても生命機能におい ても何ら他の動物から区別されるべき非動物的存在ではない。しかし人間が社会的動物で あるかぎり,彼は単なる自然物ではない。人間は社会をつくり,歴史をつくる動物として 現われてくる。これを人間的自然として,本来の自然であるところの無機的並びに有機的 自然と区別され得る。つまり,人間は,自然的存在(生物学的な個体)であるとともに,社 会的存在(社会的な個体)なのである。
マルクスは書いている。「人間は,ただ自然的存在であるばかりではなく,人間的な自 然的存在である。」(⑫一208)人間的な自然的存在とは,まさに人間の社会的な存在の ことである。別なかたちで定式化するならば,人聞はその自然的な存在を労働において実 現する。だから,人間は,それ自身ただ社会的にのみ可能な労働を通じて,社会的存在と して現われる。なぜなら,人間を動物から区別するものは労働にほかならないからである。
この点について,マルクス,エンゲルスは,次のように書いている。「すべての人間史の 第一の前提はもちろん生きた人間的個体の生存である。従って確認され得る第一の事態は これら個人の身体軟組織と,そしてこれによってあたえられるところの,その他の自然へ の彼らの関係とである。」 「人間は意識によって,宗教によってその他任意なものによっ て動物から区別されることができる。しかし人間自身は,彼らが彼らの生産手段を生産し (produzieren)はじめるや否や,自己を動物から区別しはじめる。」「従って,彼らが如
何なる存在であるかは彼らの生産に,即ち彼らが何を(was)生産するか,並びにまた如
何に(wie)生産するかに合致する。従って諸個人が何であるかは,彼らの生産の物質的 条件にかかっている。」(⑭一24〜25)と。労働とは,人間が外部の自然に働きかけ,一一 定の使用価値を取得する行為である。労働という現象は,動物,例えば蟻や蜂などが,自 然に働きかけて何らかの使用価値を獲得する動作にもみられるが,彼らが本能的にそれを 行なうのに対して,人間の労働は,目的自覚的に行なわれる。労働力の使用が労働そのも のであって,人間と自然との間の一過程,人間と自然との間の物質代謝を人間自身の行為 によって媒介し,規制し,統制する一過程としての労働は,人間の存在にとって必要な各 種の使用価値の取得のための合目的的生産活動の反復にほかならない。このような労働は 人間だけの特有な現象であり,それによって人間的社会の維持・発展が可能となる。労働
は人間的社会の全歴史の根底をなし,この活動を通して人間は外的自然を変革し創造する とともに,人間・社会そのものを変革し創造してきたのである。
ここにお』いて,人間的自然を人間的社会としてとらえなおすことができる。人間は,一一 定の生産用具と生産手段,一定の経済制度と上部構造の形態をもつ社会化された存在であ
り,人間的社会である。社会の外には人間は存在しないし,また存在することができない。
現代の人間の人類学的な特徴をすべて備えていながら入間的社会から全く遊離している個 人などといったものは,本質的には人間ではない。だから人間を彼がおかれているところ の社会関係からきりはなして,単に抽象的に人間一般,個人的な人間として考えるという ことは,人間を観念化し生きた現実性なき人間とすることにほかならない。それ故,本質 的に真の主体となるのは,個々別々にとり出された個人としての人間ではなくて,社会と しての人間である。ここに,個々別々の個人ではなく社会としての人間が認識と実践的活 動の真の主体となるのである。主体としての人間的社会は,常に何らかの成熟度に達した 一定の経済的社会構成体として現われる。思惟し,生産し,個人的な特性をもつ個々の人 間なしには,社会は存在することができない。社会と個人との間の相互関係は普遍的なも のと個別的なものとの間の関係一般と同じである。認識の主体に即していうと,一定の社 会諸関係に身をおいて,ある種の生産用具と生産手段とを所有している個々の人間活動の うちにのみ,主体としての社会は存在している。そして個々の諸個人は,彼らが社会化さ れた存在であり,それ自身の経済構造等々をもつ社会のうちで組織されているときにのみ,
人間であるということである。(⑥一76〜78)このようにみてはじめて,人間は社会的動 物であるという命題の意味が理解されるのである。
ここに至って, (社会認識における)認識主体とは,社会的諸関係の総体としての主体 であるといえる。
2.認識客体の概念
認識獲得過程においては,認識主体だけではなく,認識客体でさえも社会的性格をうけと る。「対象が人間にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となる場合にだけ,人間は 彼の対象のなかで自己を失うことがない。このことはただ,社会がこの対象のなかで人間
のための存在として生成するのと同様に,対象が人間にとって社会的な対象として生成し,
また人間自身が自分にとって社会的な存在として生成することによってのみ可能である。」
(⑫一138)つまり,人間は,自己の生活要求や社会的要求を満足させるために必要なもの
を,自然的対象のなかに探し求め,これに働きかける。それ故,自然は実践的活動の過程
で人間化され,社会的生産のなかに組み入れられ,このようにして自然は認識内容のうち
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にはいってくる。従って,「自然といえども,抽象的に受けとられ,それだけで人間から 分離されて固定されるならば,人間にとっては無である。」(⑫一222)
観念論は,客体を個々の主体の意識や宇宙理性や絶対精神に従属させてきた。客体は神 の所産でもなければ,意識の所産でもない。
直観的唯物論は,主体の意識から独立に客体が存在することを承認していたが,主体の 活動から客体を分離していたところに欠陥をもっている。rフォイエルバッハに関するテ
ーゼ』でマルクスは次のように書いている。「これまでのすぺての唯物論一フォイエルバ ッハのも含めて一の主要な欠陥は,対象,現実,感性がただ客体あるいは直観の形式のも とでのみとらえられていて,人間の感性的な活動,実践としてとらえられず,主体的にと らえられていないことである。」 (⑩一86)さらに「フォイエルバッハは,抽象的な思考
り ほ セ も サ
に満足せず,感性的な直観に訴える。しかし彼は感性を実践的活動,即ち人間の感性的活 動としてとらえない。」(⑩一88)と。主体の実践的活動を惹起する客体が主体の意識か ら独立して存在するということは,明らかであり疑いを入れないが,問題は,旧来の唯物 論では,現実の諸対象が直観にとっての客体としてのみ存在し,感性的人間的な活動,実 践として主体的にとらえられていないところにある。つまり,主体との相互関係における 客体の本質を欠落させている点にある。そして注目すべきことは,認識獲得過程にお』ける 実践の役割であり,認識主体の能動的役割についてである。
観念論,特にフィヒテは,主体の能動性を展開した。彼は, 「自我」 (意識)を唯一絶 対の原理とし, 「非我」 (自然)を絶対的自我作用の所産であるとする。しかし産出され た「非我」はかえって「自我」にとっての障害であり,「自我」の絶対性はその克服のう ちで保たれるとする。ここに,彼の意志的人格を反映した能動的傾向が強くあらわれてい る。このように,彼のとらえる主体の活動性は,意識の創造的な役割にのみ帰せられてい るところに弱点をもっている。それは,フィヒテの哲学における現実性が実在的な基盤を 欠いており,実践的な活動と結びついていないからである。
旧来の唯物論は,観念論が人間をこのような抽象的主体としてとらえたのに反対してそ の客体的物質性を明らかにしたのは正しかったとしても,この客体的物質が同時に主体的 物質として能動的であり創造的である面を無視し軽視してしまったところに重大な欠陥を もっていた。マルクスはこの点を指摘して,対象的現実を単に直観の対象としてだけでなく,
行動し実践し創造する主体的現実としてとらえなければならないことを力説したのである。
外界の諸対象が人間の意識から独立に存在するととを承認する場合,諸対象を直観や抽 象理論上において,活動の客体とみなすのではなく,主体の,即ち人間的社会の,感性的
・物質的,変革的・実践的な活動の諸客体とみなすことである。人間は,外界の諸対象を 実践的に変革し創造し得る活動の諸客体としてみなすのである。(⑤一80〜81)あらゆる 存在は,人間の実践的活動によってはじめて人間の認識客体となるのである。例えば,石 油・石炭・ウラン鉱などは,社会的生産の領域に組み入れられて,はじめて人間の実践的 活動の客体となり,人間にとっての所与となったのである。人間の実践的活動を通して何 ものかを偉い出す必要や機会が与えられなかった事物については,人間は認識を獲i得しな いし,また獲得することができない。
「人間は,あれこれの程度の差はあるが,人間化された世界において,即ち実践の過程
で人間によってっくり出された諸対象や諸事物の問で生活している。人間は自然の諸現象,
諸過程を彼自身の実践的活動の諸客体としてのみみる。そしてこの意昧においてそれら を主体的にみる。人間は,自然の諸現象,諸過程が彼に必要な存在形態をとり,彼の要求 を満たし,彼に奉仕するように努力する」(⑤一82)のである。つまり,われわれは,現 実的中対象を単に直観の対象として客体的な物質としてとらえるだけでなく,人間的な主 体的創造的原理を内包したものとしてとらえることが重要なのである。
われわれが,主体というとき,人間の意識を意味しているのではなくて,人間そのもの,
即ち,人類一揖の自然対象(動物,植物,鉱物等々)に劣らず実在そのものであるところ の人類一を意味すると共に,社会的存在としての人間を意味している。客体とは単に何ら かの自然対象ではなくて,人間の活動領域に組み入れられている対象である。客体はそ れ自体としては実在そのものとして人問の意識から独立に存在しているが,主体との相互 作用に入ることによって客体となるのである。即ち意識から独立に存在する実在そのもの
という性質をもつ対象は,主体との相互作用に入るときに,客体という質を得るのである。
ただこの意味においてのみ,主体なしには客体はなく,また主体が自然の諸対象つまり諸 客体に作用する始原としてのみ考えられ得る限りにおいて,客体なしには主体もあり得な い。こういう訳で,「実在そのもの」という概念と「客体」という概念とは区別しなけれ ばならない。「実在そのもの」は,われわれの意識から独立に存在するすべてのものを包 括しており,実在そのものは意識をそれ自体の対立物としている。「客体」は,実在その もののなかで,社会の与えられた発展段階において人間の理論的・実践的活動の対象とな ったものだけをとり出してくるのであり,客体の対立物となるのは,意識ではなくて,実 在そのものの諸事物や諸現象を自己の活動の客体に変えるところの主体である。(⑤一83
〜84)
ここに至って,認識獲得過程は,実在的存在である認識主体と実在的存在である認識客 体との間の一つの特殊な関係,即ち認識主体の実践的活動を基本とする認識主体と認識客 体との相互作用関係であると共に,認識主体と認識客体との矛盾・対立の統一の原理を蔵 する創造的発展過程であるといえる乙
そこで,次に,認識主体と認識客体との実践的相互作用についてみておきたい。
3.認識主体と認識客体との実践的相互作用
認識それ自体は,認識主体と認識客体との相互作用の結果として生じる。こうした理解 は,認識関係の基本的要素の一つである主体的な要素あるいは客体的な要素を優越させる 立場に対して,かかる基本的諸要素の相互作用の原則を踏まえた立場といえる。つまり主 体も客体もそれぞれの実在的存在を守り,しかもまた同時に主体と客体とが相互に作用し
合うという認識関係である。
この相互作用には,実践の契機が深くかかわっている。そこで,実践について言及して おく必要がある。
第一に,実践は,外界に変化を引き起こす人体諸器官の運動から成り立っている。つま り,生命有機体が起こすところの運動形態が基盤である。
第二に,実践は,本質的には人間の目的自覚的活動である。動物の刺激→反応,感覚→
運動の過程が直接的・本能的であるのに対し,人間の実践は,この間に感性・悟性・理性
(直観・判断・推論)を媒介させることによって,外界に対する行動を,それぞれ具体的
条件に対応した適切なものにかえてゆくことができる。そして,実践を成功させるために
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は,その行動を客観的法則性に従わさなければならないが,人間は自覚的にそう行動する 点で蜜蜂が巣をつくったり,蜘蛛が空中に網をはったりするような本能的行動とは区別さ れる。また人間の行動でも,単なる行動,即ち種々の単純な反射行動を実践とはいわない。
従って,われわれは, 「単なる行動」と「実践」とを区別しなければならない。実践は,
明確な目的,達成すべき目標あるいは結果についての見通しをもって,行動の諸条件や,
行動主体の諸性質や,目的を成し遂げるための手段などについての意味を充分考えぬかれ た上で行なわれる活動である。つまり,目的自覚的な活動が人間的実践の本質的特徴であ
る。
第三に,実践は,物質的・生産的活動をその基本的形態として!5}その他多様な実践形態,
政治活動,科学活動,芸術活動,宗教活動などが行なわれる。物質的・生産的活動は一定 の歴史的な社会関係を通じて行なわれ,人間は自然的環境に働きかけると同時に相互的に 作用し合い,社会的環境に働きかける。それは,人間の生存が,自然に働きかける人間的 活動に全面的に依存すると共に,社会への働きかけを通じて実現されるからである。それ 故,固有の意味で実践が,生産的活動と政治的活動(階級社会では階級斗争)という二つ の主な形態において考えられるのはそのためである。
第四に,実践は,社会的であるといえる。人間は自然に働きかけて自己の生活を維持し っっ子孫を生み出してゆく。人間のこの営みが生産にほかならないが,生産は常に集団的
・社会的なものであって,生産するためには人間は互に一定の関係を結ばなければならな い。生産力は物質的財貨の生産に利用される自然物及び自然力に対する人間の関係を表わ すが,生産関係は生産過程における人間相互の関係である。人間が社会的存在である以上,
人間による生産は孤立的ではなく,社会的生産である。だから,人間は生産において単に 自然との間に交渉をもつだけでなく,人間相互に一定の関係に入るのである。生産関係の 実体は社会的生産の担い手である人間そのものであり,生産関係はこの社会的生産の過程 で不断に再生産され,変化してゆく。生産関係の総体は社会の経済的構造を形成し,社会 の現実的土台をなすが,歴史的に存在した生産関係の型として原始共同体・奴隷制・封建 制・資本主義・社会主義の五つの型があげられる。以上のことを踏えて言えることは,す べて実践は社会において,歴史的な社会条件のもとで行なわれるということである。従っ て,如なる自覚的な実践的活動も,人間の社会生活や社会による諸個人の条件づけなどか
ら離れては発展し得ないであろう。
第五に,実践は理論の源泉であり,理論は実践の必要から生れる頸)実践は自然や社会へ
の働きかけを有効なものにするため,その体質的な属性として理論を生み出す。人間を人
間たらしめるものが,何によりも生産的労働であり,自然を変革し,つくりかえて人間の
生活要求に応ずるものをつくり出すためには,まず自然の運動法則や個々の自然的対象が
有している性格を正しく知らなくてはならない。しかし,人間の理論と実践とは単に対自
然的活動であるにのみとどまらない。人間の生産的活動が最初から社会的であり,一定の
社会関係と離れてあり得ないとしたら,自然に対する人間は同時に社会に対している。そ
こから自然と社会に対する実践と理論が本質的にかかわりあう。このように人間はその生
活の必要に基づいて実践的であればあるほど理論的認識の全面化の要求にせまられる。そ
の意味で理論は実践の不可欠のモメントである。両者の関係を一般的に表示すれば,理論
が現実を合法則的に認識し,これを体系的・統一的に掌握しようとする働きであるのに対
.し,実践はこのような理論的認識に基づいて,現実に働きかけ,これを変革し創造しよう とする働きであるということができる。だから理論は実践と結びつかなければ,的はずれ となり,実践は理論にその進路を照らされなければ盲目的なものとなる。しかしこの原則 は,現実・対象を実践としてとらえるという見方が前提になければ,静止した定義,原則 の固定化をうむ危険がある。理論が対象とする実践的資料は,常に歴史的条件に制限され ていて完壁なものと考えることはできない。新しい歴史的条件は無限に実践によってきり ひらかれて,現実のものとなってゆく。そして,実践の発展過程において理論は,実践に 指針を与え,実践を調整し組織化する役割を果すのである。
第六に,実践は大別して三種ある。人間の実践には,自然を変革し創造する実践と,社 会を変革し創造する実践と,人間を変革し形成する実践とがある67}人間は,自然や社会に 働きかけ物をつくり社会をつくることを離れて自己をつくることはできないが,それと同 時に自己をつくり,自己の人間性をみがくことなしに真に正しい物をつくり社会をつくる ことはできない。それ故,これらは互に相かかわりあい,いわば三位一体として統一され るところに真の正しい歴史的実践が可能となり,社会は進歩・発展し,文化は向上し,人 間は全面的に発達するのである。
ここに至って,実践とは,人間の全面発達とよりよい人間的生存に必要な諸条件を創造 することを指向するところの人間的活動の総体であるということができる。
実践こそが,主体と客体とを媒介し,人間において認識過程を展開する原動力である。
歴史的にも理論的にも,人間の自然に対する実践的な働きかけ(労働)と,他の人間に対 する実践的な働きかけ(協働)のなかではじめて,自然及び社会に対する人間の認識は成 立し得たのである。そして,一旦成立したこの認識が,再び実践のなかになげこまれるこ とによって,その実践をより高次のものとすると同時に,自然的・社会的法則性に対する ずれや歪み,不充分性や不完全性などが点検・検証され,認識それ自体が一層高次のもの
に高められてゆくのである。
次に,認識主体と認識客体の問題を特に実践とのかかわりにおいてみてみよう。
主体と客体とを媒介するのが実践であり,主体と客体との実践的相互作用は物質的な性 格を有している。人間の自然に対する実践的な働きかけ(労働)の過程で,人間と自然と の問の物質代謝が行なわれるのである伊)「労働という形式は物質的な相互作用のその他の すべての形式一単純な機械的な相互作用(二つの物体の相互作用)から始まり,生物学的
な相互作用(生物体と環境との相互作用)にいたる一をそれ自体のうちに含んでいるが,
この形式はこれらの諸形式のどれにも還元されないし,それらの総和にも還元されない。
労働は,物質的な相互作用の新たな,質的に独自な,最も高次な形式である。」(⑤一85)
それ故,「主体と客体との感性的・実践的な相互作用の形式としての労働は,その複雑さ によって,物質的な相互作用のその他のすべての形式から区別される。」 (⑤一85)ので
ある。
また,主体と客体とは対立物の統一をなしている。人類は,彼自身の客観的であるが,
独自の法則に従って成長・発達し,社会においては意識や意志をもつ人間が活動し,自然 においては自然的な諸力が作用している。それ故,これらは対立的で,異質的でもある。
人間には自然が対立しているが,人間は実践的活動を通じて,自然を彼に彼自身の目的や
要求に応じさせる。また人間の実践的活動ははじめから社会的であり,一定の社会関係を
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第22号
離れてはありえないから,自然に対立する入間は同時に社会にも対立している。しかしな がら,人間はまた自然の発展の所産であり,自然と結びついている。すでにみたように,
人間は単に自然的存在であるばかりでなく,社会的存在でもある。そして社会は,自然の 継続であり,新たな質的発展段階である。それ故,人間と社会と自然とは対立物の統一を
なしているといえるのである。
主体と客体との実践的相互作用の総体から認識は獲得される。言いかえれば,認識の獲 得は,人間の実践的活動,即ち,人間と外界の相互作用及び人間相互の相互作用の総体か ら生じてくるものである。そのような実践的活動,そのような活動的関係を離れては,わ れわれはどんな認識も獲得することはできないであろう。それ故,レーニンは次のように 書いている。 「生活の見地,実践の見地が,認識論の第一のかっ基礎的な見地たるべきも のである。」(⑭一22)と。そして人間の実践的活動がさまざまな事象についての真の認 識を要求し,またこれを探究し点検するための手段と機会を提供するまさにその限りにお
いてのみ,認識は獲得されるのである。
主体と客体との実践的相互作用によってうみ出される認識は,その出現のまさに当初か ら,社会的な性格を帯びている。というのは, 「認識は,本質的に社会的産物であり,人 間の社会的活動の産物として,社会的につくりあげられてゆく」(③一149)ものだからで ある9)このことは何よりもまず,主体一社会的始関係の総体としての主体一の本性に由来 する。「勿論,認識は個々人によってっくりあげられる。まさにそれは,人間の創造する あらゆるもの・が個々人によって創造されるのと同じである。しかし,それは,協同して活 動し,互に依存し合い,彼らの経験や考えを伝え合う個々人によってっくりあげられるの である。社会における多数の個々人は,彼らのうちの誰一人として個人的には恐らくやれ ない事をやることができる。そして人間の認識をつくりあげることが,これらの事の一つ なのである。あらゆる個人は,自己の経験から相当量の認識を獲得する。しかし,彼は他 の人との連合から離れては,そしてもし彼が他の人から,彼らがすでに学んだところのこ とを学ばなかったならば,認識を獲得することはないであろう。……従って,認識が獲得 され,つくりあげられるのは,ただ社会においてであり,認識の根は,人間の社会的諸活 動のうちにある。認識は,人間の社会的活動のさまざまな形態の進行のなかで,社会の成 員たちの間で互に経験や考えを交換し合うことによってっくりあげられ,またそれは,同 じ過程でふるいにかけられ,点検される。……このようにして社会には社会的認識の蓄積 があり,個々人はこれに貢献し,また個々人はこれに頼ることができるのである。」 (③ 一150〜151)このように,認識は社会的であるが,そのことは,自然が認識のうちに何ら の場所も占めていないという意味ではない。自然なしには,労働も認識も不可能である。
だが,自然自体は認識をうみ出しはしないし,認識を必要ともしない。自然はそれ自体社 会的生産と認識内容のうちに包含されている。社会が機能するなかで,人間が自然を変革 し創造する過程で,認識の占める位置を確定した上ではじめて,認識の本質を理解するこ とができるのである。(⑤一89〜90)
主体と客体との間の矛盾・対立を解決する理論的形式が認識であり,主体と客体との問 の矛盾・対立を実質的に解決するのが実践である。それ故,実践が真理の基準である9①
「主体と客体との間の矛盾は解決されてはまた新たに発生する。実践の過程で主体は.客
体が人間の目的を満足させるように,客体を変える。しかし,人間的社会そのものは,や
むことなく発展し,新しい要求と,自然の諸客体に対する新しい実践的な関係とが生じて くる。認識とは主体と客体との間の矛盾を解決する理論的形式である。客体をあるがまま に,人問にとって必要であるがままに認識しただけでは,われわれはまだ客体を実践的に 獲得してはいないし,客体を人間の目的に奉仕させてもいない。しかし,主体による客体 の理論的な把握は,主体による客体の実践的な獲得を達成する上での不可欠な側面であり,
契機である。従って,実践は人間の認識の基礎であり,その真理性の基準である。」(⑤ 一88)マルクスは書いている。 「人間の思考に対象的な真理が得られるかどうかという問 題は,理論の問題ではなくて,実践の問題である。実践のうちで人間はその思考の真理性
を,言いかえれば,その思考の現実性と力,此岸性を証明しなければならない。実践から 遊離している思考が現実的であるか非現実的であるかという論争は,全くスコラ的な問題 である。」(⑩一87)従って,われわれは,主体と客体との実践的相互作用から生じる思 考を仕上げることによって認識を獲得するのであり,そしてわれわれは,われわれの期待 が実践で実現されるかされないかに照らしてみることによって,一つ一つ認識を点検・実 証し,認識として確立してゆくのである。「多くの理論は真理性において不完全なもので,
その不完全さは,実践の検証を通じてただされること,多くの理論は誤っており,その誤 りは実践の検証を通じてただされることである。」(⑯一27)そういう意味において,実 践を離れて真の認識はあり得ないといえる。そして,ここで重要なことは,実践そのもの の発展を考慮に入れて,古い実践的基盤に基づく理論を絶えず再検討し,新しい現実に合 致する新しい真理を人類の経験のなかにもたらすものでなければならない。
認識は実践にはじまり,実践を通じて理論的認識に達すると,再び実践にかえらなけれ ばならない。認識の能動的作用は,単に感性的認識から理性的認識への能動的な質的転換 にあらわれるだけではなく,一層重要なことは,理性的認識から創造的な実践へという質 的転換にもあらわれなければならない。社会の法則性についての認識を獲得したならば,
それを再び社会的実践に還元しなければならない。これが理論を検証し,理論を発展させ る過程であり,全認識過程の継続である。理論的なものが客観的真理性に合致するかどう かの問題は,感性的認識から理性的認識への認識運動のなかでは,まだ完全には解決され ていないし,また完全に解決できるものでもない。この問題を完全に解決するには,理性 的認識を再び社会的実践のなかにもちかえり,理論を実践に応用して,それが予想した目 的を達成できるかどうかを見るほかない。(⑯一26)このように,「実践・認識・再実践
・再認識」(⑯一34)という過程が無限に繰返されることによって,実践そのものが発展 するとともに認識も深化・発展してゆくのである。理論と実践との統一は,動的な弁証法 的統一である。そして,認識それ自体の深化・拡充・発展は,認識主体と認識客体との実 践的相互作用における質と量との深化・拡充・発展であるといえるのである。
以上の考察において, (社会認識における)認識主体と認識客体の概念を明確にし,
次いで認識主体と認識客体との実践的相互作用における実践の意義と役割を明確にすると 共に,実践的相互作用の成果として結実する認識それ自体(社会認識それ自体)について も言及してきた。それと同時に, (社会)認識それ自体の発展過程や客観的真理,社会事 象における事実認識と科学認識などについての問題が,新らたに解明されなければならな い問題として浮び上っていることを痛感するものであるが,それらについては次回にゆず
ることにしたい。
82 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第22号 (註)
(1)この点に関して毛沢東は, 『実践論』で次のように書いている。 「認識過程における二つの段階の特 質は,低い段階では認識が感性的なものとしてあらわれ,高い段階では認識が論理的なものとしてあら われるが,いずれの段階も統一的な認識過程のなかでの段階である。感性と理性という二つのものは,
性質は異なっているが,相互に切り離されるものではなく,実践の基礎の上で統一されているのである。」
(⑯一15)と。
(2)われわれは,人間の自然的生物学的側面を軽視するものでは決してない。人間は,その由来によって もまた目下の心身の状況によっても,動物界の一部である。従って,フォイエルバッハがすでに彼の人 間学で, 「新しい哲学は,人間の土台としての自然をも含めた人間を,哲学の唯一の,普遍的な,最高 の対象とする。だから,人聞学を,自然の学をも含めて,普遍学とする。」(⑰一92)と明白に認識し ていたような,即ち人間が自然の一部として自然の普遍的な法則性の支配下にあるといったことを無視 するのは誤りであろう。しかしながら,われわれが人間の生物学的決定因子について精通し,それをし かるべく評価する・かどうかということとは全く独立に,すべての他の動物界とは質的に区別される人間 が,文化創造の過程に適応する,自然と社会の産物であることは依然として事実だからである。なおそ れ以上に,人間を文化的・社会的な文脈の外におき,生物学的決定因子からだけで把握することは不可 能である。なぜなら,生物学的決定因子は,社会的要因がその一部を与えて促進した発展の所産だから である。(⑦一90〜91)
(3)ここで,社会的自然について触れておく必要がある。社会的自然とは, 「個々の個人の主体的な行為 によってつくられながら,それ以上の力を獲得し,かえってそのつくり主である個々の個人を圧迫し,
支配するようになった社会的集合力のことである。それは皮肉にも,個人の活動が自由となり,活発と なり,無統制となればなるほど,それに比例して魔力的にふくれ上がるところの,近代社会に特徴的な,
目にみえない力である。それは社会そのものの中にある自然,社会そのものの持っている自然性格とい う意味で,社会的自然という名に値するものである。」 (⑧一24)このように,社会というものは,個 人主体にとっては一つのまぎれもない客体として現われるという一面を持っており,個々の個人主体は,
その際自己自身によってつくり出された諸力によって支配され疎外されることもあるが,同様にまた個 々の個人主体は実践的活動によってそれらの戦力から解放され得るということも事実である。しかし,
そのような客体を従属させ自由を達成する道は,個人を社会から遊離させ,自己の「自我」の神秘のう ちに沈潜することのうちにのみあるのではなくて,ただ社会的実践を通じ,社会的実践のうちにのみあ るのである。
(4)この点に関してフィードラーは次のように書いている。 「ヘーゲルはすでに実体と自己意識との・客 体と主体との・抽象的な対立を弁証法的に揚棄していた。しかし,彼は依然としてまだ形而上学にとら われたままであった。ヘーゲルのこの思弁的な形而上学は,フォイエルバッハによって,自然という基 礎の上に立つ現実的な人間にたちかえることによって確かに克服されたが,彼は,現実的な人間の本質 を,社会的諸関係の総体としてではなく,ただ抽象的に「類」としてしか規定することができなかった。
ここにマルクスにとっての理論的な連結点がある。……マルクスがヘーゲルをフォイエルバッハの立場 から批判にかけるとともに,フォイエルバッハをヘーゲルの立場から批判にかけているということの確 認は,第一にヘーゲルは唯物論的な立場から批判され,フォイエルバッハは弁証法的な立場から批判さ れるということ,第二にマルクスはそのことによってヘーゲルをもフォイエルバッハをもこえていると いうことである。」 (⑥一200)と。われわれは,人間存在を,抽象的な類的存在としてだけではなく,
具体的・社会的に,つまり人間存在の歴史的,集団制約的並びに個人的特性などを包含してとらえる必
要がある。このようにその生物学的並びに社会的本性を通して具体的に理解された人間だけが,認識関
係の具体的主体なのである。
(5)毛沢東は『実践論』で次のように書いている。 「マルクス主義者は,人類の生産活動がもっとも基本 的な実践的活動で,その他のすべての活動を決定するものであると考える。」(⑯一8)と。
(6)この点に関して毛沢東は『実践論』で次のように書いている。 「実践に対する理論の依存関係,即ち 理論の基礎は実践であり,理論はまた転じて実践に奉仕するものである。…認識あるいは理論が真理で あるかどうかの判定は,主観的にどう感じるかによってきまるのでなく,客観的に社会的実践の結果が どうであるかによってきまるのである。真理の基準となり得るものは,社会的実践だけである。」
(⑯一11〜12)と。
(7)それ故,人間は目的自覚的に努力し実践すれば,単に自然を変革し創造することができるばかりでな く,社会をも歴史をも,従ってまた人聞そのものをも変革し形成することができるのである。
(8)ここで自然のとらえ方に対して注意をはらう必要がある。というのは,自然は,単に固定不動な機械 的物質であることにつきるものではなくて,むしろ不断に運動し変化し発展してやまないところの弁証 法的物質として,内に歴史的創造の原理を内包したものとしてある意味における動的な実在としてとら えなければならない。また自然が必然的法則にしたがって動くものでありながらも,決してそれがいつ までも同じ運動法則のくりかえしにつきるものでなくて,その中から新しいものを生み出し,歴史的に 発展するものであるということである。
(9)さらにコンフォースは,次のようにも書いている。 「あらゆる人間の連・合は,生産における人間の基 本的な連合から生じ発展する。それ故,人間の連合の産物である認識の発展は,究極においては社会的 生産の発展に依存する。」(③一151)と。
(1① 毛沢東は『実践論』で次のように書いている。 「人々の社会的実践だけが,外界に対する人々の認識 の真理性をはかる基準である。」(⑯一10)と。
(引用・参考文献)
ノ ! !
①Blanche, R.:L Epistem・1・gie,1972.
②Str・ll, A.(ed.)・Epistem・1・gy;New Essays in the The・ry・f Kn・wledge,1967.
③C・rnf・rth, M.:Dialectical Materialism, An Intr・ducti・n, V・lume Three, The・ry・f Knowledge, 1972(1st ed. 1954).
④Rudner, R. S.:Phil・s・phy・f S・cial Science,1966.
⑤R・HHHH, H. B.:BBe訊θHHe B脚H・HcTGKym rH・cθ・旺・rHm,1966.