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新憲法の民定憲法性と明治憲法の欽定憲法性

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(1)

新憲法の民定憲法性と明治憲法の欽定憲法性

西 口 照 男

・新憲法の搾川する抱封的平和主義は何人も認むる如く諸外国の悪法にその比をみざるものであるから︑それは世界の

諾憲法に魁けしたものということが出来るが︑それ以外において︑所思法の新憲法たる所以は︑明治憲法の基本原理と

新憲法のそれとの封比に於てこれを認知しうべぐ・諸外国の進歩的憲法との封比に於ては必ずしもその事命的意義の把

担は囚嫌であらう︒何となれば︑いうまでもなく︑基本約人楯の専軍国民主嘩民定憲法等は諸外国に於ては少しも

目 新

し い

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と で

な い

か ら

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る ︒

さき北わたくLは︑﹁明治憲法史の一断面﹂︵﹁踪管と経臍﹂自第二八年空け至第九年第三射所収︶に於て︑明治憲法の 三大基本方針が︑牽思法に於て根本的に層草せることについて︑﹁前略︑二言にしていえば︑一国体の欒革︑欽定憲法よ

り民定悪法へ︑振外各国の成法掛酌に於て民樵を抑えて君樵中心主張の哲プロシャ憲法を主とすることより︑民主的米

ヽ ヽ   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ   ヽ ヽ   ヽ

英の憲法料酌へ.の百八十度の輯回であり⁝⁝﹂ ﹁三大方針欒革の詳細は稿を更めて論するであらうし︑後二者の大輯回

については既に他に刑法したところに譲り⁝⊥として向論文の﹁結富﹂を一應急いだのであった︒工かも同論文に於

て︑新憲法が民定定法たることについては異論ある.ことを述べ︑新憲法の民定憲法性については他稿に於て詳論するこ

とを留保しておいた︒

(2)

経 管 と 経 済

一 一 六

わたくしは︑本稿に於て︑先づ明治憲法

き欽定法法性を知るな味に於て明治憲法制定過程に考けるその制定方 O m

法︑及びその結果を一瞥し︑次に新涼法制定に閲する研々の論議を略述し︑新山一品法の民定憲法性に論及しようと思う︒

かくて新憲法の有する革命的意義の間明に役立たしむるであらう︒

欽定憲法は君主主総に基いて君主が制定する以法であり︑外凶にその例多きも︑仰闘の一八一四年ルイ十八世の憲法

がその著しき例として何人によっても恥げられている︒

而して叉明治以法が欽定以法たるととについては何人も疑わざるところであり︑且それが明治訟法の重要なる特色と

して堕者の一致して指抑し来ったものである︒明治以泌が如何に強く欽定憲法主義を貫徹せるかはその制定の道程に徴

して明らかであり︑それ故水稲にが︑ては制定奥よりその要旨を間越しよう︒

先づ政作品︑民間の一部に行われた図約ないし民定以法命をみよう︒明治十三︑四年頃は︑憲法制定は如何にすべきか︑

如何なる内容のものたるべきかをめぐって私擬泣法が数多交われた︒その際明治憲法の如き強き欽定憲法の方法︑その

君椛至上の内容は民聞に於ては主張されたかった︒御用料仰といわれた東京日日新聞さえも英図流の立憲主義により︑

訟法制定は図約憲法を主張したのであり︑ハ鈴木安減︑自由民限二一四九頁﹀それは相蛍強き君主主義の主張であったにせ

よ︑憲法制定命日議を開いて草案を審議すべしとの論であった︒雨徐のものは治して'知るべしで邸︑き図約憲法の主張も相

公あったのである︒とれら図約憲法論にも種々のニュアンスはあったが︑憲法の草案は官民和合して審議すべきものと

なし︑先づ悶合を開設すべしと叫んだのは営然である︒︿鈴木︑前掲書︑一一二三頁﹀吏に主椛在氏︑共和制︑民約憲法の憲

法思想を秘かに懐くものはあっ

τ

も公表するなどは到底不可能であり︑たかだか図約示法の主張の公表にと芝まった︒主

様在民の主阪は︑迎論的には天皇制否定の蹄結に到法すべき論も考えうるが︑営時かかる論が公表されなかったととは︑

言論の白山のなかった乙とを推測せしむるに充分である︒ハ西口︑明治憲法史の一断面︑経営と鰹画第二九年第一加︑尾佐竹

猛 ︑

窟 法

制 定

史 上

よ り

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皇 制

︑ 昭

和 二

一 年

一 月

十 六

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七 日

毎 日

新 聞

(3)

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又明治十五年の所謂主慌論争は︑ほ法川定︒方法論と密接不可分の関係にあった︒欽定訟法論は主催在君設を︑間約

波 法 論 は 主 催 在 君 民 間 読 を ︑ 川 山 内 心 辺 法 九 州 は 主 椛 在 民 設 を 各 々 背 景 収 総 と せ る こ と は 川

V

同然であるが︑首時抑医された政情

下に於て公然主似在氏︑川内定山法の主艇の公表は不可能であったため︑自ら修正された形にないての︑王様在君民共有設

として表われたのである︒﹁︑弔問帆布閥次誌はこれであって︑人民主山崎の一従極な/いし一分汲﹂といわれる︒ハ鈴木︑前

嶋 昔

︑ 三

七 二

瓦 ﹀

政然︑民間の一部に行われた同約ないし民約(民定)憲法論に到して︑政府は的︑︿欽定憲法主義を堅持心︑とれらの 民主的主快を

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明 治

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を附明し︑山訂作川の忽法なけんとして上炎されたる﹁大綱領﹂﹁綱領﹂﹁なけとには︑欽定憲法の体裁を用いらるべきととを

党づ冒頭に強調しているとどは如何に欽定志法主義を重視せるかが分るであらう︒只しかし︑﹁綱領﹂に附帯せられた

﹁欽定法法考﹂に於ては︑明治虫法の如き程の君主主義は武かれてむらないで相常民主的志法思想の表現がある︒すな わち︑﹁欽定︑図約の区別は愛布の形式によって区別されるのであって作浪士の議子以て州制定されるととは雨和ともあ

ゆ 酌

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﹁綱促﹂は治介の名で井上教の起草せるものであり︑井上毅の憲法

b

併やかか﹂(傍粕筆者)となせる黙である

o

思想に忌ける明治志法よりも民主性を表現せるものであった︒(もっともとれは井上殺の初期の外因憲法の芭詩的段階

であったのであるが︒)しかし︑その後の後展に於てかかる比一収的民主的意見は洗給されて強き欽定憲法主義の方向に

舵 が 向 け ら れ た の で あ っ た ︒ 明 治 十 四 年 の 詔 勅 に は ︑ ﹁ 品 川 ‑ 略 ん

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在 廷

臣 僚

‑ 一

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共 組 織 航 限 ‑ 一 五 テ ハ 股 抑 制 一 フ 哀 ヲ 裁 シ 時 一 一 及 デ 公 布 ス ル 所 プ ラ ン ト ス 後 略 ﹂ と 一 不 し ︑ 明 治 九 年 の 基 本 原 則 欽 定 憲 法 主 義 を

重ねて確認した︒(英国流の波法怠見を懐いていた大隈重信でさえ上奏した窓見中﹁震裁を以て定法を制定せらるぺ

きとと﹂の一一引を入れて欽定泣法を主張しているととは注目せらるる︒)

かくて勅命をボじて起草に従事したのが?伊藤︑井上︑伊東︑金子の四名であり︑秘密主義を般守するため多大の苦

心をなした︒起草・者らの欽定泣法に釘する考えは︑﹁窓一法某の千に起草せりと公侍するときは︑特に物議を来すのみな

らや︑共憲法なるもの忽ち世の律敬を失うぺく︑隼敬なきの訟法は送法なきに若かざるに至らん﹂という如き極めて紳

新 憲

法 の

民 定

憲 法

性 と

明 治

憲 法

の 欽

定 憲

法 性

二台

(4)

経 笹 と 鐙 碕

ご 入

秘的なるものでありとれ故にとそ秘密主義が凶行された︒民聞の民慌論者の批判を恐れたためでもあった ο 要するに

明治滋法の告文︑勅語︑主識によって示さ作たる如き州出的悶休初堅持の下に沿ける欽定憲法の起草・であった︒前示の

井上殺によってものされた岩倉の泣法立見﹁制偵﹂に附僻した﹁欽定憲法考﹂はその後弁上毅自身の憲法私案に於て鼠'

に殴棄せることが看取されるのであり︑との従化は何に郎凶するか不明であるが︑恐らく彼自身始めの直詩的なるもの

上り会第に変化せる経過の一つの表われではなからうか︑それは多く非民主化への道程であったと m 惜しなければならな

い の で あ る が

叉怠法草案完成し入品々如何にしてと札を的応ずるかが問題となった時.程々の突があったが︑元老院に草案を下付

して議決せしめる乙とは︑泊者院の川・以来はわが川内休に利符わぬとして排斥した伊藤らとしては到底容認する筈はな

く ︑

各 府

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法 川

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石 川

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とん川川せしめる栄も氏問政認の困民議ん口論の一部採用となる怠味に於て断然担否し'

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たのであるから︑民にそ札以上に民主的なるとの﹁欽氾以法巧﹂が容認され採川さるべき筈がないのである︒果して伊

政らの欽父山法川仙川必は︑.仇統院を仰はして仏政刊以内山大医の他パ朝野から勤功練法の士を選抜して・胤任せる顧問官によ

る・得議の方法を民川せしめるにいたった︒凡そ﹁代品士の議を経る﹂な芝とは正反封の︑否それを極度に排斥した非民

主的な方法を以て秘密裡に行われたものである

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術院に於ける秘密保持は徹底せるものであったといわれ︑又審議修

了︑夜布後に於ても.との審議欣態は勿論のこと︑一切について起半者らは秘密を股守したのである︒とれまさに欽定

志法に討する紳秘的思想の表切であり︑反民主的︑官僚的︑旅閥的思想の表明でもあったといわなければならない︒

欽定説法の忠訟を如寅に示すものとして︑伊政悩信院議長が︑﹁忌法稿策ヲ逃ムルノヤ一次﹂(伊藤凶文制︑活法資料上巻︑

三 九

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博文逃ムル所ノ稿本ハ即チ資料ヲ蒐来シ:::主立公ノ大事ハ唯陛下ノ調リ能ク附定スル所ニシテ唯レカ臣子ノ敢

‑ア眼ュ浪カル所ナリト謂ハンヤ後時﹂ハ傍措筆者﹀と述べている結︑又明治天皇自身恨給院の八四議に・毎回調臨せられたと

と で あ り ︑ ﹁ 股 カ 組 宗 一 二 父 ク ル ノ 大 紘 一 一 伏 リ 現 在 及 将 来 ノ 臣 民 ‑ 一 釘 シ 此 不 磨 ノ 犬 山 内 ヲ 立 布 ス ﹂ と い う は ︐

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単なる形式的

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文 一

一 一

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ではなく︑文字泊り君主主慌に基いて君主が制定するという資を表現せるものである︒

(5)

との欽定宗法主義の理論的内総でないとしても特に強い意味に於ての夫況は︑改正の夜祭出を天皇にのみ専属せしめ

たととであり︑︿思法上議︑ほ法第七三陥﹀川州政布佐中はその改正は出来ないことになっていた

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ハ 泣

法 第

七 五

一 際

参 照

﹀ と

世界各図に例をみない問先でおり︑尖決刈同士をして特に﹁之を日本の以法の欽定山法主誌と m 仰

せ ﹂

ハ 美

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憲 法

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五 三

υ しめたものである︒旭川・者は欽定志法なるが此に品目然改

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の溌案慌が天皇に専局するものとの

見 解

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しかも又︑明治以泌が的行されて一皮も改正が行われないでポツダ止出品目一口受誌にいたった o そのことについてもやは

り欽定以法に討する川泌川山似の此に乙札を設夫せ干して批判するどとは不敬であるかの如き訣れる考えがその根抵にあ

ったと思われる o 又

市 川

以 上

︑ 欽

火 山

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改正を主桜するととによって出版法に問われたものもあったという

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木 安

蔵 ︑

明治虫法と新温法︑一二六百﹀とと山法改正にまで到注する論議は極力回避せんとする非民主的態度は︑例えば貴族院改

革論議に於てもとれをみるととが川来る︒公族院の机織については︑明治憲法第三間僚に於て︑豆見仏政院ハ貴族院令ノ

定ムル所‑一依リ︑皇族︑来放及勅任セラレグル

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ヲ 以 一 ア 机 一 級 ス ﹂ と 規 定 さ れ て い た が ︑ 皇 族 に つ い て は ︑ ﹁ 皇 族 の と ・

とはさて沿き﹂として貴族院改革論者と雌も一指を点仰れようとぜ十︑京族議ハはについてはその全ぃ肢を主張するととは

法法改正に燭れる問題であるとして之を敬怪し︑そのか

γ

は乃五三分の一はの主以にとどまったようである︒

川州洲事縫以来︐次第に拾頭した結封主義︑一卓図主義の隆伐は︑は洲の一郊に於ける議合主義の軽腕乃至無関の風潮と共

泊したものがあり︑資質的には議合の存在を無償値なものたらしめ︑かかる主医者にないては︑議合を一一胞の邪魔者的

存十代と感じたのであらうが︑︐彼等と難も︑とれを表町形式上は否定しさるととは出来友かった︒その理由は︑議合は否

︑ ︑

定したいのであら吹が︑議人げは明治法法に段として規定してあり︑一読ん

を否定するととは︑・彼等の舘度に問調せる明治

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︑ ︑

︑ .

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︑ ︑

天皇の欽定された泣法を否定するととになるのである︒ゐもえばこの黙にむいて叡めて皮肉な現象であったといわなけ

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川 沖

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取上げられたと同じ頃︑近街公を中心とじて内大白山に於て泣法改正の準備に着

手したととを見逃してはならない︒との内大臣府.に沿ける泣法改正準備に釘し τ は︑﹁非立法﹂なり'との輿論の反封が

新 憲

法 の

民 定

詰 法

性 と

明 治

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定 話

法 性

二 九

(6)

経 管 と 経 済

あり︑それに封して﹁定法改正に関する輔弼の性質は︑政府のそれと内大臣府のそれとは根本的に呉たり︑前者は園務

上の行待についての輔弼であり︑後者は聖徳玉成についての松念についての柿弼﹂であるとの反駁が行われた論争や︑

内大臣府そのものが廃止された経緯︑そのため内た同仰の波法改正準備の中絶された結末は.ともかくとして︑近衛公が

憲法改正調

J

査に着手し丸山肖初の窓凶は相山政似的なるものであったことは似めて明瞭である︒すなわち︑その最初内大

臣府御用舗となった時に︑﹁前崎元帥は合淡切明日本の以法の白山︑五義下の必要を決然たる口調を以て述べ︑︐次いでか かる運命を余が指導しては如何と一水没された︒とれに川して余は︑﹃日本にた

d

ける泣法改正は天皇の溌議による以外な されない﹄と答えたが︑しかし公は・心仰に似泌するげを約した︒余がこの旨天皇陛下に奏上巾上げたととる天皇陛下は

余に波法改正の下市仰をなすぺさげの仰下命わり会は内府仰別掛に任命されたのである︒﹂︿昭和二

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年 十

月 一

三 百

朝 日

新 ︑

問﹀と

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附加するところが州市山に物川る如ぐ︑内府仰川叫となって定法改正の下準備をなさんとするものであった︒とれ

宮津波間以も五件川に折仰せられた如く︑﹁欽忠治法というととを誤解して政府の輔弼や責任の関係のない楽屋一設でなすべ

きもののように解した﹂ハ昭和二

O

年十月十六日俗日新聞﹀結果ではなからうか

P

以上明治以法制定過程に於て反欽定泣法論があったにも拘ら事︑政府はとれを斥けて強く欽定法法主義を推進してか

の明治泣法主制定し︑且泡皆し来ったこと.一般に欽定以法に封する誤解︑いわば紳秘思想が存したととを述ぺた︒要

するに明治法法については.制定の過程に川町ても︑その位協に烏いても︑活笥にが︑ても純然たる欽定法法であって異論

をさしはさむ余地は・なかったのであり︑一部にはその枕川さえみうけられたのである︒

{

一 一

以上の如く明治定法の制定及活用ともに強き欽定以法性を貫徹し︑

ム笠宮交訪にまでいたったのである︒

ζ の一度も改正が行われなかった明治法法は︑ポツダム宣言を受諾すると野ぐして波法改正は必要か否かの論争が行

︑ わ れ た ︒ ポ ツ ダ ム 立 . 一 一 一 口 は 必 や し も 憲 法 改 正 を 要 請 し な い と か ︑ 明 治 憲 法 は 弾 力 性 あ る も の で あ り ︑ 解 鐸 に よ っ て 民 主 化 一度も滋法改正が行われないで敗戦によるポツダ

(7)

︒要請をなしうるからポツダム宣江の要ばにとたえうるとか︑{説法の改正を必要としたいのではないが時期命平である

とかの論が政府撃者の一郊に行われた︒それは明治芯法運用の過程にむいて︑・一時辺法的悦習として政作品内閣制が行わ

品 回

れ︑とれが﹁憲政の常道﹂なりとせられて比政的民主的運用の行われた時代を想起しての議論であったと忠われる︒し

かしかかる論は冷股なる市町︑敗川刊によるポツげム宣言受諾の怠訟を一止併せざる論であったとせねばならぬ︒ポツダム

宣言は﹁日本の以絡の政治約態は日本凶川内の白山に表明した意瓜によって決定せらるべき﹂ととを要求している︒ずな

わち︑天日制をも八泊めた日本の役絡の政治形態︑他一一目すれば将来の然防法たる以法の制定を﹁日ポ図民が自由に表明しー

て決定﹂するととをポツダム丘一一日交流の時に聯合閣に封して約束したととになる︒明治憲法は紳標的図体観の下に天皇

の欽定にかかるものであり︑君主主慌の邸︑問なる貫徹は他閣にその比をみざるものであった︒しかも非民主的政治機構 の存在︑人椛の保障の山

さは既に数多の啓者の指摘し来ったものである︒明治法法の活用の民主化と雄もとの君主主

m m

燃の股たる一線は如何ともするととが出来宇︑しかも﹁天皇の名に於て﹂腿々とれが反民主的に悪用されたのであった︒

ポツダム宣言の要誌を考える時到宮明治憲法の運用の民主化のみを以てとの要請に膝ええなかった筈である︒果して大 勢は波法改正の必至論であったといわれうるであらうし︑又窓法改正が必要か否かの論は︑マ元帥の昭和二

O

年 一

O

月 一一日時の幣原首相に示された﹁憲法の自由主義化﹂の表明によって格止符がうたるべきものであった︒とれ止りさき

終戦前一後︑訟法改疋論の優勢でなかった昭和二

O

年九月下旬︑米関の往訪の記者に︑天皇が﹁険は英図の如き立法君主

制を欲する﹂といわれた記事は︑明治憲法改正の議議催者の非公式なる後一一一日として注目を引いた︒とえて十月中句頃よ

り内大限府の以法改正準備が治められんとした︑しかしとれに針しては非立訟なりとの指摘を受け︑内大臣府そのもの

の段・止により柊止符がうたれたとと周知の如くである︒政府は内大臣府の調査と蛇行して憲法改正調査にのりだしたの

であった︒何れも﹁泣法の自由主義化﹂の要請にしたが弘ものであった︒その際政府は︑明治法法第七三僚の改正の千 伎に従って政府の行うべき間務の範問として改正準備事業に岩手じたのであった︒ がしかし︑}部には﹁直接人民より怒恕される一院よりなる訟法制定議舎による新憲法の制定﹂ハ例えば平野義太郎︑昭

和 二

O

年一一月一二日大型新聞﹂の主張もあったととは見逃しえない︒かかる論者の主授は︑要するに︑明治憲法の基盤た

新 憲

法 の

民 定

憲 法

性 と

明 治

憲 法

の 欽

定 患

法 性

(8)

盤 替 と 経 済

る天皇制打倒︑人民共和政府の樹立を主附して明治ぷ法の排除を求むる明治虫法の全部修正論であり︑新憲法制定すな

わち︑新憲法は民定泣法たるべしというにあった︒

政府の立場はあくまで明治以法第七三伐の千伎に上ることを陪持し︑且その飽同内に烏けるいわば微温的改正論であ

り︑全面的改正論は主張されなかった︒常時の此仰を代夫して符抑制に沿った鈴木図務相の立場は極めて保守的なもので あ り ︑ 明 治 志 法 の 一 部 修 正 の ほ 川 を 川 午 し ︑ 行 ・ . 上 主 仰 の 一 一 級 は ほ と し て 守 り ︑ そ の 上 で の 民 主 化 て あ っ た こ と は 疑 な い ︒

これ所前松本川原則が明的に公明するものであり︑欽災以法の一部修正で足れりとするものであった︒

然るに昭和二一年三月六口氏火された北山の以法改正策要制は︑従来政府の堅持せる君主主慌を否定し図民主催に立

つものであった︒そこで川四は︑明治以法第七三代川による泣法改正の限界

!l

明治虫法第七三保の改正予績によって

は ︑

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のような内ぶのは一止も以法上可能であるという

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もあったが︑しがし活設は明治泣法第一一保乃至第四僚︑すな

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川 市

は 川

市 水

な い

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と︑明治以法第七三保の﹁改正の議決﹂の解様︑

ll

従来明治虫法第七三僚について

は︑改正の従来航が一次弘に草川ずるのであるから︑﹁改正の議決﹂と錐も︑その可否を決するのみで議舎には修正慌は

ないというのが泊沿であった︒すなわち︑天内山にのみ改正改築慌を許している故︑若し修正を許せば新なる議案をした

ととになり天皇の後奈川山を侵すことになるからという羽山であった︒しかし一部には議合の議に付せられる以上は修正

慌がなくてはならぬ︑というのであるが︑とれもその修正は原案の範囲内という限定がついていた︑ーーであった︒と

れらの問題については通設によれば︑明治志法第七三僚の千絞を以てしては明治辺法第一保乃至第問僚の縫一史も出来

十︑議人げに修正使も認められないのであり︑政府の改正栄要綱は送法第一一保乃至第四僚を内出足せるものであるから︑手

続 上

九 川

地 法

で は

な い

か と

の 論

が 起

る 筈

で あ

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来じて政府内部に於ても乙の草案による全閥的改正瀧議前に憲法第七三僚

の改正を行うぺし︑且︑立・案自身の否定せる支族院をしてこの改正に参興せしめるは泊常でないから︑貴族院に代る参

議院法の制定を行うべきであるという怠見が拾頭した︒ハ佐藤坊︑憲法改 E

の 経

過 ︑

一 一

一 一

頁 以

下 参

照 ﹀

しかし︑とのぷ九州は結局資現されないで︑明治法法第七三保ゆ改めないでも議舎に修正椛を認めるのは営然とし︑貴

族院は形式的には指議出は不適蛍で︑資質的には審議慌を失っているとの解俸が有力となり︑政府はとの解鐸に従一った

(9)

弘 ︑ ー

ょうである︒憲法審議議合を前にして専任された金森図務相は﹁な法第七三僚の解鰹で自巾なる議合に基いて自由たる ︒ 議決をして芦.う建前から修正は白山だと以う﹂と後一一目しているととによってもとれを裏書しているし︑叉安法審議議命日

中に治ける政府の答溺も亦

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で あ っ た と 川 山 う ︒ す な わ ち ︑ ポ ツ ダ ム 立 口

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に恭一く義務をとの現行泣法の秩序の下に震現

して行くという誌坊を以せられたものと巧え第七三依によったといい︑泌

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の容議の経過の中に﹁日本図氏の白山に表

H

明 す ろ 芯 川 山

﹂ を は 川 す こ と が 川 来 る と い う 立 場 を と っ た

総合に於ても一︐怖を除いてこの制定子絞については異論はなかった上うである︒旦マ一五帥も﹁本改正憲法が明治二二

年波布.の川行以訟と完全なる法的持続性が保障されるととが必要である﹂という啓明によって明治憲法第七三僚に上る

ヂ民主文訪れ泌しているのである︒而して事賃上︑明治憲法第七三伐の千絞に従って︑議舎に於ても自由なる拶疋が行 われる山叫ん附の下に命誌が行われたのであった︒かくて明治法一訟の一部修正でなくて全部修正が成立したのであった︒更

す る に 明 治 志 法 第 七 三 僚 の 解 俸 と 趨 用 に 於 て ︑ ポ ツ ザ グ ム 宣 一 一 一 一 日 受 諾 に よ り 大 な る 縫 化 が 行 わ れ た と と を 看 取 す る と と が 出

来 る の で あ る ︒

以 上 を 要 約 す る と ︑ ポ ツ ダ ム 宜 一 一 一 口 受 諾 に よ っ で 憲 法 改 正 か 否 か の 沿 乍 が 行 わ れ ︑ 結 局 憲 法 改 正 が 行 わ れ る と と に な り ︑

その方法として︑一部には︑人民の乎による新法法の制定を叫んだものもあったが︑政府はあくまで明治憲法第七三僚

に依って千伎を迩めた︑議合同も一部を除いて絶封多数でとれを認め︑且マ司令官も承認した︒しかも従来の通設に於て

は詐されざる明治以法第七三僚の川限界を超えた全面的改正であり︑修正も白山の立場に於て行われたことを述べた︒換

一託すれば︑形式的にはあくまで明治法法改正の手践によった︑上議中にもその貼明記してある︒﹁枢密顧問の諮拘及帝

岡忠法第七三伐による市川凶議合の議決を経た帝図憲法の改正を裁可し︑とこにこれを公布せしめる︒﹂と︒ところが︑

資質的には︑災もなく新法法の制定である︒前文中先づ︑﹁日本図民は︑:::ととに主慌が図民に存ずることを宣言し

との宗法を確定する︒﹂﹁われらはこれに反する一切の憲法︑法令及詔勅を排除する o ﹂といい︑上議中﹁日本図民の総一

意に基いて新日本‑建設の礎が定まるに至ったことを︑深くよる乙び・:﹂という︒旦︑泣法第九六僚には︑憲法改正は︑

︒閤舎が護議して図民の承認を必要とする図民主能主義の理論的師結を示している︒世人とれを新憲法と呼ぶのは極めて︑

新箆法の民定患法性と明治怒法の欽定憲法性

(10)

経 管 と 盤

・ 湾

受 賞

で あ

る ︒

斯様に形式的には欽定泣法の改正予絞を版んでいるが︑白川川的にはあくまで民定法法である場合に︑果してとの憲法

を何と呼ぶべきであらうか︑思才によって内々のぬ川が行わ札ているのはこの放であらう︒

はじめに新憲法は欽定以法であるという沿よりみよう二例を明げると︑﹁日本図法法は︑:::帝図憲法第七三僚の規

定により︑勅命を以て議案を帝凶ぬ合の議に付し︑その協議を経て裁可せられる千統によって制定せられたものである

から︑その制定乎絞からみれば

( m ω

川活者﹀明かに一大山により制定せられたものであり︑従ってそれはむしろ欽定憲法

に属ずるものといわなければならないよハ沼均以太郎︑日本問活法要論六五頁以下﹀と説明する︒その制定手掛闘の形式商に

着服して新以法

h

欽氾以法であるというのである︒ととろが︑前文の内容︑すなわち︑日本関川んが確定したことについ

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の 総

意 に

娘一き︑同氏を代去してハ初防筆者﹀その内容を前定せられたものであることはいうを侠たないととである︒﹂ハ前晶君︑同

所﹀とされている︒新出法制定の千続よりみて欽定以法であるとされつつ︑しかもそれは凶氏伐一人として.限定したと

いうととが論理上川市して許されるととであらうか︑﹁凶

M

パ の . 一 人 と し て 岡 氏 の 総 意 に 基 き 総 定 せ ら れ た ﹂ と い う と と は ︑

悶民主椛主義に基いて図民の確定したことを示すので到底これそ欽定訟法と稀し難いのではなからうか?かように前文

の稔切だけでも欽定憲法設は論理首尾一貫せやそのぬ川に窮することになる︒

そとで憲法制定の経過と制定された憲法の性絡は同別しうるという立場に立ってこの矛盾を救消ぜんとし︑前文は制

定された憲法の性格を諸べたものであるという滑川がないではない︒すなわち︑制定の手続は欽定泣法で性格は民定 法法であるというこ元的説明となる︒これに類する沿川として.事者の中には︑﹁凶氏自身の定法制定命日議によらや J ︑

哲滋法第七三燥によって︑天皇の溌案と公布とい弓欽定法法の形式をとったから︑法形式の上からは︑やはり欽定憲法

なのだが︑しかし︑定法そのも・のの議舎に於ける論議や悠正の経過からいうと︑協約以法の形をとり︑憲法の前文自身 の内存からいえば︑純然たる民約定法の性質を示しているよハ鈴木安服︑明治議法と新沼法﹀と説明する者もある︒とれ

らの説明は形式的にみて紙めて巧妙であるが︑新宗法制定の賓質的根擦に着服せざる憾があり︑新法法そのもののもつ.

(11)

資質的性格を一元的に説明しえざるの欠貼を有し︑新憲法が図民主慌主義に立っととの怠義を減殺する民がある︒その

他一郊では︑﹁絞りにそれが形式的には川治滋法第七三僚の定める手続に法くものであり︑依然欽山崎瓜法として止まる としても﹂ハ佐藤明︑温法改正の開泊︑序一↑只以下)と述べていられるのは︑たとえ後に﹁日本岡氏の自由に表明せる意思﹂

にその根擦を求められるとしても︑依然似定的乍百形式的には欽定法法たるととを容認せらるる論の如吉である︒これ

らの説明は︑形式的には欽火山法の改正千紋に依ったことに封して全然とれを無関しえざるがために︑一躍形式的には

欽定ん訟法たることを芥泌し︑将泣法の性絡はあくまで民定法法たるととを認むるの論であると思う︒ハ藤匝嗣雄氏の立場

も 略

々 同

肢 の

見 地

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明 治

憲 法

論 ︑

二 五

八 頁

以 下

)

以上の所設に討して︑形式的にみた場合にも︑明治法法は岡氏代表たる議舎に諮らや官還の植密院が御前合議に於て

・ 群 議 し て ﹁ 組 { 一 万 一 一 ヌ ク ル ノ 犬 山 ‑ 一 ヨ リ 此 不 服 ノ 大 典 ヲ 宣 布 ス ﹂ と い う 如 き 純 然 た る 欽 克 憲 法 で あ る が ︑ 日 本 図 憲 法 は ︑

天皇の溌渠と裁可があったとはいえ︑問民代表たる議舎の自由なる修正があったととをみると︑天皇と図民代表の機関

たる議舎との協約になる協約法法なりとの論が生やる︒ハ中村哲︑新宮一法一ノ

1

ト︑一九七頁以下﹀その根擦は︑憲法制定権;

才の特移をもって説明する︒明治以法が制定されるまでは制定椛者は専門り君主であったとしても︑一たび明治憲法が制

定されれば怠法制定慌は窓法改正椛と化する︒従って明治法法は民主の焚怠と議舎の議決を必要としているのであり︑

︑新訟法はその手績に依ったのであるから︑形式的には協約定法であって欽定説法ではない︑とされる︒(中村氏の所論

は︑もとよりとの形式論にとどまるのではなく︑﹁協約憲法であるというのは形式的な解棒であるが︑かえって民定窓

法であると併僻するととが︑必要である︒﹂とされ︑ポツダム宣言︒父誌によって人民主催を承認した立場から資質的

には民定波法であるということが可能なわけであるとされていることを序でにことに述べてゐきたいよ以上で形式論

的に点欽定以法のみでなく︑協約窓法誌のあるととが明かとなった︒しかもとの協約定法設も形式的解樫として斥けて

いられるのである︒

欽定法法誌のみを採る場合は︑多くポツダム宣言え誌によって主慌の制作移が行われたものでなく明治法法第七三僚は

依然として妓力を有し︑寸日本闘志法は︑帝図法法第七三保の定めるととろの︑天皇の提案︑帝閣議舎の議決︑天皇の

新 憲

法 の

民 定

憲 法

性 と

明 治

憲 法

の 欽

定 憲

法 性

(12)

経 管 と 経 済

一 一 六

裁可という行動により成立したのである︑即ち︑日本図法法は天皇が制定したまうたのである︑放に日本因憲法は欽定

患 法

で あ

る ︒

﹂ ハ

佐 々

木 惣

一 ︑

日 本

岡 沼

法 論

︑ 一

一 一

一 二

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と説明し︑﹁泣い法成立千波より見た日本国憲法自身の性質の問題と︑

将来の憲法の性質の問題を混同してはならぬ己とされる︒かかる表見的︑形式的説明が憲法成立手続よりみた日本図

憲法の性質としても来して安川市でおらうか︑そとに問問がある︒

ポツダム宣告一口の受諾なくしてもかかる全両的改正が行われ︑天皇主椛より図民主椛への特移が明治法法第七三僚によ

って可能であったであらうか︑滋什に於て白山なる修正が行われたことをかかる論者は如何に説明しうるか︑とれらは 従来通設に於て認めざるものではなかったか︑叉前文の﹁日本図ほんが:・・:との憲法を確定する﹂を如何に説明するか︑

新法法は天内況が制定した辺法といえばポツダム空一一円に紙偽ずるではないか︑以上の諸黙に想いをいたすとき︑憲法改正

乃至新波法制定の拠ぬの作然性の認識に到達しなければならないのではなからうか

o

ととにポツダム

2

・ 一 バ の 明 治 以 法 に 及 ぼ す 劫 以 来 の 考 奈 が 必 要 で あ る ︒ ポ . ツ ダ ム 宣 言 受 諾 は 主 航 者 た る 天 皇 が 形 式 的 に は

︑なしえた桃川町であった︒しかし︑日本の段悠の統治形態は︑日本図民の自由に表明する窓忠によっては決せられない明治

泣法に於て︑日本同氏の自由に表明する意思によって決するという聯合図への約束は︑すでにその時明治憲法の認めざ︑

る︑明治辺法を超えた約束であったものではないか︑それは無僚件降伏のもたらした結果寸ある︒従ってその時︑天皇

が主椛者たるの椛肢に於て交諾した内容は︑阪に超明治以法的なる内容であり︑一一位の平命と稿しうるのではなからう

か ︑ 換 一 一 日 す れ ば ︑ そ の 時 ︑ こ の 革 命 に よ っ て ﹁ 図 民 主 慌 が 日 本 の 政 治 体 制 の 根 本 原 理 ﹂ ( 宮 出 俊 一 誌 ︑ 憲 法 大 意 ︑ 四 五 頁 ) と

な っ た と い い え な い で あ ら う か ︒ と こ に 図 際 法 と 悶 内 法 の 閥 係 に つ い て 二 一 一 口 し な け れ ば な ら な い ︒ ポ ツ ダ ム 宣 一 一 一 円 を 受 諾

するも︑岡内法はその改底を行わなければ何らの愛一史なきものと解すると︑ポツダム笠宮を交諾するととによって︑そ

の純聞に於て問内法上礎化を蒙るとの見解をとるとにより︑との問題の解決にゃな呉を生やるのではなからうか︑若し

後者の見解に立っと︑明治法法はこのポツダム宣一一一目に低備する船出に於てその資質的説力の喪失がなされて長り︑只形

式的に悶内法的分野に於て如何に庭置するかの問題が浅されていたものと解しなければならないであ伝う︒

そとで斯絞にみた場合に︑では何故明治憲法第七三僚によったかの反問があるに相違ない︒との黙に閲して︑民定法

(13)

法訟を採る墜者の中︑本来は︑新に以法制定議

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を設けた方が筋が泊っていた︑とされる黙は大体一致してい与が︑

ハ 美

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憲 法

原 論

︑ 自

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誌 ︑

波 法

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明治法法第七三僚によったという貼は︑一部ではポツダム宣言によっ

︑て明治憲法第七三僚は阪除せられたが︑とれによったのは︑既存の議合を利川する方法をとり︑議合も異議なく同長

し ︑

司 令

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七三保の

伴と油川に従化が行われたとして︑﹁しかし︑明治混法がーーその根本的住前は縫っても︑その限界内に於 m m

て││まだ引絞さ放力をもっていたのであるから︑その定める手続によって︑料法法を制定し︑それによって明治法法

との問に形式的泌総怜を持たせろととは︑民際上級めて便宜でちあった︒﹂ハ目路︑前暗雲︑問所﹀とされている︒何れも

結果的には大設なき沿川であって︑要するに︑ポツダム宣一一一口受諾により一一仰の平命が行われ︑関民主依はその時承認さ

︑ 新 泣 法 が 民 定 以 訟 た る の 紡 九 州 に つ い て は 一 致 し て い る

¥

上述の所よりして明かな如く︑折ほ法制定は︑特殊の事情の下になされたものであって︑とれを単なる図内事情の下

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ける一部敬正の行われたものと問問に︑形式的に欽定憲法の改正乎絞によったから依然欽定法法であるなどという

のは︑全く表見的形式論にとらわれた凡仰と稿すぺく︑その出つ・て来るととろ︑ポツダム宣一一一口に基凶するのであるか

ら︑その黙の影響を考察しなければならない︒然るとき明治憲法第七三保によったことは︑若しポツダム宣言受諾なく

してかかる変革を行うならば︑明かに泣法であったといわなけ札ばならない︒しかし︑ポツダム宣言自体が超明治憲法

的奴力を有し︑明治定法の限界を超えた内容を合むものである以上︑旦これを承認した時︑明治憲法第七三保の如き

は︑ポツダム丘一一一一口に紙燭する部分は殻力を失ったと解しなければならない︒すなわち︑天皇にわみ定法改正の後議椛が

あるということは︑とこでは﹁日本同氏の・自由に表明した窓瓜によって決する﹂という割引に燭れるものであったと解し

なければならない︒従って政府の案は参考楽にとどまり︑ハ美濃部︑前掲書︑二

w

六頁)国民代表たる議合も自由に後一楽が

川本市一うるのであるから︑﹁自由なる議曾に於て自由に修正﹂が可能であったし︑貴族院の議決及天皇や枢密院の閲興は︑

明治虫法第七三保なる形式的子績によったことのやむをふ九ざる結果としての形式的手績を辰んだに過ぎなかったと解し

なければならない︒要するに︑明治憲法第七三僚によったととは︑明治憲法との形式的縫続性をもたせるための便宜的

新 沼

法 の

民 定

憲 法

性 と

明 治

憲 法

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定 憲

法 性

三 七

(14)

経 管 と 経 済

三 八

彪置として利用せるに過ぎないものであって︑その場合にその

伴と油川はあくまでポツダム宣言によって大なる愛化 m m

を遂げたものであり︑ポツダム宣言凡人法品川の仰燃を以てこれを体しではならない︒

︑ ︑

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︑ .

以上の如く解するととによって︑はじめ

τ

︑ ﹁ 日 本 川 氏 は 正 悦 に 恕 息 さ れ た 凶 合 を 通 じ て 行 動 し ︑ ・ : ・ : 主 椛 は 図 民 に 存 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑

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忽法主椛定する﹂の芯誌を川悦にしうるので︑とれ伐に承認した閤民主様を︑と

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ものであり︑閤民主慌に必づいて同川が的ん止したもので b る︒凶民主慌に基いて悶川内が︑直接又はその代表機関を通じ

て制定した送法は何れも氏定以法と加すぺく︑肝い川伸のぽ川内定以法と同桜︑新怠法も亦これを民定滋法といわたければな

ら な

け い

かくてこの川内定辺法の川九州的付制として川町山に以法第九六保は︑﹁この忘法の改正は︑各議院の総議員の三分のこ以

上の賛成で︑同合が︑これを伐品し︑川氏に川北⁝決してその承認を経なければならない︒この承認には︑特別の図民投票

又は同合の川止める波川市の際行われる川北川に沿いて︑その泌午放の賛成を必要とするよと規定し︑泣法改正は︑園舎が とれをね山政し︑同氏の承認を総ぺきものとなしたのは︑ひとえに民定志法の原理を明・確に結論づけたものである︒

以土によって︑祈ぷ法制定の経過をその託収に於て述べ︑新伝法の民定送法性の賢際的叔践を就き︑又新法法につい

ても欽定以法読のあるととを述べてその民定以法性の川治的根践に論及したのである︒

要するに︑明治説法が純然たる欽定ほ法たりしことは一貼の呉論なきところであるが︑析伝法は形式的にみて︑表見

上欽定法法の外形を具えるかの如くみえ

τ

︑資穴的には比定ぷ法である︒との外形に力結を合くのあまり︑新送法を欽 山一丸山一品法という論の生やるのは一辺なきことではないが︑われわれがあくまで︑かかる夫見的形式にとらわれや︑その資

質と新以法制定の特殊的秘挨にふ品川服する時︑かかる形式九州を超克して︑とれを一元的に川内定以法として把悔しうるので

ある︒かくてこそ十全に新冠法の革命的意義の間切に次・仕しうるのであらうし︑川内.論的透倣を矧しうると信宇る︒

( 二

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・ 一

・ 二

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参照

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