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配給費、用に づ い て

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(1)

が き    ー は し  

資本主義社会が︑今世紀初戯以来独占段階に突入するや︑配給組織が膨脹し︑配給費用が益々増大してきたっこ   l   の現象に対し︑実践的立場からも幾多の非難が叫ほれ︑又科学的立場からも︑既に︑︑P・M︒スウィージーによって   2   指摘されているところであ懲又他方︑社会主義社会においても同様に︑配給組織の研究が立遅れ︑その合理化が   3   不十分であるということが︑実践的立場から指摘されている︒このような瀾英的な要請にも拘らず︑配給費用に関  

する研究は決して十分とはいえないようである︒特に我が国における研究は︑米穀に関する実証的研究以外には極  

めて蓼蓼たるものがあった︒然しながら︑最近に至っで︑配給費用に関する論議も漸く活溜になってきたようであ  

る︒   

さて︑この現実的な要論瞥﹂たえるためには︑現実の具体的資料払基いた実証的で然も理論的な研究を必要とす  

るであろう︒然しながら︑本稿は︑此のような配給費用の本格的研究を試みたものではない︒かかる研究の前段  

七九    配給費用について  

一︑︻は し が き  

一て研究の沿革   三︑配 給 管 用   配給費︑用に づ い て  

橋  本   

四︑考察の視点  

五︑流 通 管 用   動  

(2)

八〇   第二十七巻 第一号  

階に関する問題を取扱ったものである︒すなわち︑本稿では︑配給費用とは如何なる概念か︑又︑それほ現象の科  

学的分析のために正しい範疇であるのか.︑戎ほ又︑科学的分析のためには如何なる範疇が正しいのか︑等の諸点の  

考察を試みたむのであり︑その意味で〟つの﹁配給費用に関する範疇論﹂ の域を出ないものである︒   

そこで︑このような考察を試みる理由について︑山喜ふれておきたいと思う︒従来の配給静岡に関する研究は︑  

主として配給論学者によってとりあげられてきた︒ところがこの配給論あるhは商業学についてほ︑科学的性格自 

体た問題があり︑最近に至ってもやほり︑その体系や方法について︑幾多の論議を招いている︒一般に配給論や商  

業学は︑方法論的反省の極めて稀薄な研究態度をとっているということが出来るであろう︒同様なことほ︑配給常  

用の研究にりいていい㌢る︒従来の配給論の研究が︑実証的であった点は高く評価されなければならないが︑事︑  

その実証的資料の扱い方︑つまり︑分析の方法濫関しては︑幾多の不満を感じないわけにはゆかなかった︒そこ  

で︑このような従来の研究に対して︑方法論的吟味をあたえ︑今後の分析のための視点を確立しておく必要を感じ  

たのである︒いわば︑本稿ほ︑かゝる意図をもった則つの党え蓄にすぎない︒  

Ⅲ ハーバーー・フーバー大統領時代の商務長官であったクライン︵Juごus只−e︳︶ほ︑アメりカの配給は山00億ドルの浪計  

の罪を背負っている︑という大げさな陳述を行った︒但し︑ロスナ氏ほこの数字ほ推測にすぎないと評している︒○●Fred RO  

St⁚Distrib已iOn TOday﹀−讐詳 p.−↓の.   

吻 PaulM・Swee童⁝TFeT訂︒ry︒巾.Capi邑官De邑︒pmentこ澄N︸p・N遥声中村金満訳﹁資本主義発展の級論﹂三七八頁  

以下︑参照︒   

引 G・Ma−2nkOく⁝R2pOrt tO the NineteentF Paユy COngreSS On the宅Ork Of the Cen首巴COmmittee Of旨e C一P小S.仁一  

︵B・︶︸−欝N﹀ p・∞−︶ 本間七郎訳︑国民文膵版︑大丸貞︑参照︒   

′  

(3)

こ′研究の・沿革  

先ず︑配給費用研究の沿革についで若干ふれておこう?配給費用が︑米国において論議されはじめたのは︑第一  

次大戦以後であるといってよいであろケ︒例えば︑ホルックロワ氏︵H.E・HO−tzc−雪ユは二九一七年以来活帝   l   にな?てきたと述べ︑又ロスー頂︵〇・甲声︒Sl︶ も訂感紅︑﹁第一次大戦終了以後︑この問題に対する関心が徐   ㌦紗   周覧同ま1てきた︒﹂と指摘している︒然しながら︑配給費用に関する調査や研究が行われはじめたのは︑一九二   3   0年の戦後恐慌から以後のことで満った︒すなわち︑﹁ニ十世紀財田﹂る望昌糾よれば︑完二四年頃までには  

大きな規模での調査濾行われ頂かったといわれ︑それから後に急激に関心が高まってきセようセある︒その紆果︑  

一九二九年濫は︑配給に関する最初の調査が行われ︑続いて︑一九三三年と一九三五年には配給に関する調査資料  

が︑統計局の宇によって集めちれるようになったのである︒今日に至るまでも︑米国払おける最も代表的な研究と  

七て知られている同財団の報告書﹁配給費ほ多適ぜるか?・﹂は︑主としてこれらQ調査資料に基いている︒   

かゝる配給費用研究の沿革は﹂同時に∵配給論の研究の沿革についてもあてはまる︒いやむしろ︑由給論の研究  

の発達に伴って配給費用の研究滝促進されたというやきであろう︒そこで次に︑此の配給論の研究が撞威した根拠  

を社会的基盤ゐ中に求めて︑若干の考贋を与えておきたいと思う︒   

アメ斗カは︑既紅十八世紀七†年代から漸ノく資本の本源的蓄積の藤代紅移行し西漸遊動による広大な国内市場¢  

拡襲撃一つの椙梓として・急速な展開を遂げ︑ハ三〇年代には産業資本の確立期に到達し︑更に一八八〇年代に  

ほ︑渾くも独占段階への移行を開始したのである︒かくして︑二十世紀初頭にほ︑独占段階への移行を殆ど完了し  

ていねのであるが︑配給費用の問題柊∵まさにか︑1る独占段階′に入っ七から徐々に登場してきたのである︒でほ何  

八一    配給野周について 

(4)

第二十七巻 頻竺骨   八二  

枚独占段階に入ってかちかゝる研究が登場したのでむろうか︒配給論学者ほ︑この独占段階に移行しはじめたス八  

4 0年代を境にして︑ニっの時期にわける︒すなわち︑山八八〇年空言までの時期を︑産業革命の第蒜階でありノ1  

それ以後の時期キ産凛革命の第二段階であると考え︑これを︑配給革命︵牒ke身re邑u旨又ほcOヨe簑  

i已蒜邑utiOn︶の時代であるとも称している︒つまり︑この配給論学者によって意識された二つの段階は︑実は︑  

アメリカ資本主義が︑産業資本主義の段階から独占資本主義の段階に移ったという経済構造の変化を反映している  

ので為る︒つまり︑資本主義が発展途上にある盛栄資本主義の時代においてほ︑生産力の増大よりも︑市場の拡張  

の方が急速であったので︑市場の問題ほ生産力の増大匿殆ど制限をあたえず︑資本家の関心ほ主として生産の増大  

の方に向けられていたのであった︒然し︑産業資本主義の段階から︑独占資本主義/の投階に進むと︑事情は異って  

くる︒急激に膨脹してきた生産力の増大の方が︑市場の拡張よりも山層急速になってくるので︑販路の問題に突当  

ってくるようになる︒従って︑資本家の関心ほ︑壷産の問題よりも璧冗の問題の方に移り︑かくて資本家の問題意  

識は現存生産力が生産する生産物の確場を如何にして創造するかに集中され︑そこから配船組織や販売方訝に対す  

る研究も要望されるようになってきたのである︒更にこの配給に関する研究の拉頭に拍車をかけたのほ︑遇期的に  

襲ってきた経済恐慌の激化であろう︒アメリカは︑既に︼八七三年に産業資本主義時代における最大の恐慌を経験  

し︑続いて︑一八八二年︑一入九〇牢の恐慌︑更虹今世紀に入ってからも︑山九〇三年︑山九〇七年︑一九二C年  

と︑相続いて経済恐慌は益々激化していったのである︒  の重要性を強く意識せしめていった︒   

以上のような社会的基盤に基いて登場したのが配給論にほかならないのであるが︑かゝる配給論成立の社会的背  

㈲ 景ほ既に幾多の配給論学者によっても指摘されているところである︒然し︑これらの見解は次の二点において間層   

(5)

が残きれている︒俊二点は︑現象把握の方法笹ついて︒第二点は︑問題意識について︒先ず第一点の現象把握の  

方法軋ついては︑既に山本朗氏の明快な批判があるので︑これを掲げておくことにとゞめておこう︒日く・﹁産業革  

命いらい一九世紀にかけての生産問題ほ︑二〇世紀とくに︑欝γ次女戦後配給問題に転化したというレエーマは︑  

資本主義の一般的危機を反映するブルジョア汐−の心理描写であり︑︼八▼二五年以来の適期的過剰生産恐慌の事実  

を度外視する誤った定式化である︒・⁝:⊥一〇世紀までほ生産問題︑以後ほ販売冒配給問題と機械的に分断するこ  

㈲  

東二点の問整息識についてほ︑配給論の研究課題と︑その社会的基盤との関係に着目することによって︑換言すれ  

ば︑イデオロギー論約分析によって︑その帰趨が明らかになる︒つまり牒給論は成立のその当初から資本家の意識  

を反映し︑資本家の要求に規定された研究を行ってきているのであるし例えば配給論の内容は︑市場調査や販売政  

策など\の経僧管理の諸問題と︑配給組織や配給政策等の国民経済的諸問題とが混揺されてきたのであるが︑実は︑  

この二領域の問題も︑資本家的実践の問題として統一されてきているのである︒このように配給論の問題意識ほ︑  

その成立当初から社会的基盤によって規定されていたという点を看過してはならない︒かゝる配給論の社会的規定  

睦からして︑ここでとりあげる配給費用の問題についても配給論に関する批判と同様なことがいい得るのである︒   

配給過程における無駄や浪費ほ︑配給昏時の感犬孝琴ってあらわれ︑やがては消費者を圧迫する︒従って配給費  

用の節減ほ︑配給過程合理化のメルクマールであり︑その意味で配給論の中心課題とも云われるぺきであろう†然  

しながら︑その後の配給論学者の研究をみると︑かゝる配給費用の問題の墓翠性にも拘らず︑それ程活薄であった  

とはいえない︒例えば︑帝場調査や青伝に関する研究紅くらべると︑配給費用の研究ほ極めて少く︑又配給費用の  

問題をとりあげていても︑その取扱い方ほ経営学的立場から如何に配給費用を切下げるかという問題意識紅基くも  

配給管用についで   八三   

(6)

八四  

第二十七巻.第一号  

m      8 のが多い︒例えば︑古くはベンデ︵E.J.出e蕗e︶ の著書︑最近でほクリスプ ︵戸 D・Cr百︶やへッカー㌧ マ  

イナー両氏∴1.甲Heckert呂d野中 Miner︶の研究がその例としてあげられる︒従来の配給論の概論書におい  

ても配給穿用の問題が無視されるか︑極め七僅少な配慮しか払われていない︒これらの事実は何れも︑配給論学者  

の問題意識が資本家的要求に規定されていたことを示すものである︒   

以上において︑研究の沿革と︑その社会的被規定性を考察してみたのであるが︑それにょって︑配給論の研究が  

資本主義の独占段階の産物であり︑その間題意識が︑資本家的間璧息識によって規定されていることが明らかにな  

った︒我々が︑配給論を考察するにあたってほ︑かゝる社会的限界をも考慮する必巽があると思われる︒  

Ⅲ Henry句‖HO︼t邑OW⁚TbeP旨cip−esOfMarketing﹀−琵Ⅵ︸p・宗∽・   

拗 〇・句redR邑⁚望strib象○ロTOday−−篭∽・p・−声   

劫 TheTwenteetbCentury句巨d⁝DOeSDistribu︷iOnC纂tT︒︒Muc已−讐芦 pp・料−∞・   

㈱︑谷口昔彦﹁配給組織論﹂昭和十年︑一頁︒同﹁百貨店・連鎖店・小売店問題﹂昭和九年︑ニ頁︑参照︒   

㈲配給論圧顔の社会的背恩として︑福田教授ほ次の如く述べられている︒﹁第二十世紆初頭に至って生産問題は一応解決せら 

れたよう直見えたけれども︑生産と消静との調和を炭く保つことほ不可能であった︒生産力ほ消費力に追い・ついたと思う間  

もなく︑今度は以前とほ逆に生産力が消費力を追越してしまった︒生産不足が転じて生産過剰を示し初めた︒し福田敬太郎 

﹁配給論﹂密和二土二年︑−七頁︒ 

そ申他︑次¢諸文献を参照されたい︒谷口首藤﹁配給組織論﹂昭和十年︑一貢︒鈴木保良﹁配給経済論﹂昭和二十四年︑  

︼・二頁︒片岡一郎﹁配給替と配給過程合理化の問題﹂三田学舎雑誌︑第四十四巻 第十号︑こ01二三男   

伸二山本朗﹁独占段階に磨ける流通過程の変化﹂経済学雑誌︑軍二十二者 第三・四号︑三景︒   

(7)

閏J晋geneJ・B2ng2⁚Culti点ClericalC邑s﹀欝wYOrkこ¢芦   

樹 RicFardD.Crisp∵丹ざwざReduceD資ribu−10nC邑¢﹀芳名YOr好こ¢夢  

︑   ︑  

鱒1・B邑打s出ec賢andRObりr−B・Mi琵⁝要旨1iOnCO草欝wYO訝−琵・  

三 配 給 費 用  

先ず本節では︑従来の配給論の研究において︑配給費用︵笠tSO言誓k2t首m巴ketingcOSt功・COSt坤▲ま∵  

dis−き甘dls−ニぎ110nCOSIsIH邑e賢s旦の概念が如何に規定されてきたかを概観し︑苧の考察嘉  

えてみよう︒   配給費用め分析の立場は︑大別して二つにわけられている︒経常多的立場と経済学的立場とがこれである︒一般   に︑ある現象を分析せんとする場合町便瑠せられる概念ほ︑その分析の方法誓って規誉れて・いるのであるが︑  

配給慧川Q概念も又例外でほない︒すなわち︑配給費用の分析の蕩が二つあるように予配給壁用の概念もこれに .助  ′ 照応して︑経常若概念又は会計学蒜念とー経済学的概念と覧けて考えることが出来る︒■ここでは︑配給費欄の  

概念を経済学的立場から吟味することが志であって︑経営学的論議怠学るものではない︒.然し︑普経葦的   蕩から用いられる配給資の概念誓い三舎ふれておくならば︑経営学的概念においてほ︑ほっきりと利益を排   除し︑寧ろ利益紅対立するものとして考えられている点が特徴的である︒今その仙例として久保田音二郎氏の規定   細管ならばノ︑次の如与ある︒﹁配給警ほ製造完了後または宝の流通過程において発寄る費用をいい︑   璽蒜動と密按な関係に⁚あるために販売恕ともいう︒しかし︑配給には仕入及び販売の両活動があるから︑配給 籾  

費は販売警りも範囲が広いとも考えられる︒﹂と︒然し経営学約分析を意図守る著宙においても︑=醗に概念規  

配給費用について   いリ  

八五   

(8)

第二十七巻 第言了   八六  

定は極めて曖昧で︑ヘツカー㌧マイナー両氏︵J・出・詳ck2注ぎd搾・出・賀琵︶の規定の如きはその一例で   4   あろちノ︒  

次に︑経済学的立場から︑配給野用の概念を考察してみよう︒配給費用の概念を考察する場合には︑形式論理学  

ヽヽヽヽヽヽヽヽ 笹おいて︑概念の適用が外延と内包の二つの側面から考察されるように︑鼠的規定と賀的規定の二つの視点から考  

ぇてみることが出来る︒配給静用の概念の竃的規定とは︑配給費用は何によって表現されるかという配給費用の大  

きさ東関する問題であり︑他方︑質的規定とほ︑配給費用の本質は何かという性質に関する問題である︒  

去うまでもなく︑配給費用概念においてほこの二つの側面が矛盾なく統〟されていなければならない︒更には︑  

配給費用概念が経済学的分析のための科学的範噂として使用せられる限り︑現象の本質を的確に反映した概念でな  

ければならない︒この二つの翠請が配給静用概念を批判する基準にならねばならぬ︒前者を内在的批判の観点と呼  

ぶならば︑後者ほ超越的批判の観点であるといえよう︒我々ほ先ず︑概念の量的規定と質的規定とが矛盾していな  

いかという内在的批判の観点から検討を始めたい︒   

配給蟹柑概念ほ︑配給論学者によって種々様々に規定されている︒先ず︑代表的な見解として︑クラーク氏の規定  

をあげれば次の如くである︒日く︑﹁配給管用は︑靡場や地方出荷地︑鉱山や山林戎ほ工場︑払おける生産物を配  

給する虻に要する支出を含むものであって︑それほ︑生産物が配給されるため竺地点から他の地点へ移動するの   に要せ≠還温や貯減のた宏支出︑各警中間商人賢って取得されるマージン︑自ら生産物を配給する製造業者  

の配給経翠︵ヨ誓kel患・2童2nS2︶︑小売費用︑検査︑棟準化︑品別け︑包装︑金融︑ノ危険負担︑市場情報の蒐集・  

伝選・分析︑に要する支出を含んでいる︒商品配給静用は︑通常大雑把に︑栽培業者︑採取業者︑製造業者の受  

取価格と︑∴最終消評者の支払価格との差額︵di詳甘e宍e︶によってはかられる︒との差額ほ︑普通生産者価格と消  

∫−−−′−−−\   

(9)

5  

費者価格との ﹁開差﹂ ︵spre邑︶と呼ばれてい慰﹂と︒.こ1で質的規定忙ついては暫ぐ措き︑蛍的規定に限っ      脚  

てみると︑配給費摘は︑車座者価格と消費者価格の開羞によって家現されると規定する者が多い︒紆掲のクラーク  

7      ㈲ 氏の規定をはじめ︑向井原松敦腎向井梅次教授の規定がその†例である︒ところがこのように配給静乳を生産者  

価格と消費者価格の開差であ藩と規定してしまうと.︑次の二点軋おいて困粍な問題が生ずる︒その男山ほ︑配給資  

用の中に利潤が含まれているといぅ点であり︑その節二ほ︑生産者の支出する流通費用が除外されるという点であ  

る︒   

先ず第叫の︑利潤が配給費用の中に含まれてしまうという問題ほ利潤と配給野用との質的混同の問題に絡むの  

で︑配給費用の質的規定の問題に発展しなければ決定的な解決をあたえることが出来ない︒然しながら︑既に述べ  

たように︑経営学的酷使用される配給費用の概念が︑利潤を含むどころか︑寧ろ利潤と対立するものとして把握さ   9   れていたのにも拘らず︑この規定においては︑逆に利潤が含められているのであ懲そこでこの利潤の問題に対し  

てほ︑配給論学者の問払おいても二︑つの見解がみられる︒.その山つは︑クラーク教授のように︑﹁純利益は普通極め  

祝してしまう風解であるが︑これほ温的問題で質的問題を抹殺してしまうことになるので︑全く便宜主義的な方  

法であるというほかはない︒他のでつほ︑利  餌   法で烏る︒例えば︑谷口竜彦教授は︑﹁広義の配給野用﹂と﹁狭義の配給費用﹂と鱒わけ︑又鈴木保艮教授は︑﹁総      ㈹   配紆野用﹂と﹁純粋配給野望とにわけ︑各々︑利潤な除外した配給野用のことを︑﹁狭義の配給野用﹂又ほ﹁純  

粋配給費用﹂と呼んで区別している︒かかる規定は︑質的規−定からくる矛盾を﹁狭義﹂或は﹁純粋﹂配給静用の概念  

を使用することにょって解決しょうとしたわけであるが︑我々は寧ろ二つに分裂した配給欝用概念において︑質的   て少額にサぎないから︑配給費用を︹生産者価格と消費者価格との︺開差ぬ帰着せしめてもほゞ正確  

配給費用について   

個   である︒﹂と無   

(10)

問警蒜間警の矛盾を認めなければならないであろう︒今かり竺蓋って利潤の問警除外するとし宣   次檻第土の細管が残っている︒すなわち︑芸者買山芋る流通賞が除外されているという問讐ある︒生貿   といゝ窒も広告賞︑道道攣用︑保管欝のごとき生産密用にほ属しない流翌の諸賞を支出するのが普通であ   るが︑′この諸富ほ︑﹁墓者価格と消讐価格との望﹂にほ含まれないこ是なる︒従って﹁蓋者価格と消   雪価格里開差﹂説ほあくまで誓約な規雫あって∵㌻万でほ質的規定において︑利潤を含むという難点を含み︑   他方では諾碧において︑生産者の支出する流通罵を除外するという欠警含んで︑いるといわざるを得ない︒   若し︑諾規定の欠陥を是正して厳密笹しようとするならば︑曹敬太郎教授のよう誓配給質捻ざ産地原価ま 各  工場原価量蒜格との閲差︑元売価格と卸売価格との閲差ならび蒜売価格と小売価格との望賢って示  

.凋 されるごと規定すべきであろう︒  

なお︑生慮者の支出する流通費用が配給費用に含まれるべきことは︑上掲のクラーク氏以外に︑望フェリーズ既      出﹂ 日脚  

︿J・雲eぎs︶や⁚ブライヤー氏︵⁝・ぎ2r︶等によっても藷されているところであって︑異論あ余柴 〜   ない︒  

以上において︑配給静周概念を﹁生産者価格と消署価格との望﹂であるとする規定を中心覧察してきたの   であるが︑その結果を要約すれば次の如くである︒  

罪責右の償定は︑ノ叢規定においても︑簑者の流通費用を除外すると心う欠陥著する︒第二虹︑r配給静   題念が︑雷規雪質規定とにおいて統ナされているかという内薦批判の賢覧っ七も︑利潤空間層にお   いて破綻を招いていた︒第三に︑配給資用概念ほ︑質的側面の規定が無視しているか︑去るいは極めて不明警ある  

⁝が明らか覧った︒そこで我々は次に︑配給罵の性質は何か︑という琵規定の問題を問うと共/に︑配給    第二十七巻 繋ご号  

八八  

(11)

好捕概念は︑現象の経済学的分析のための科学的範疇として果して妥当であるか否かを吟味しなければならないノ︒ 

﹁  Ⅲ 井上幸一﹁配給静の経済学的研究︵こ﹂松山商大論集︑第四巻第一号︑八九頁︑参照︒  拗 配給論において用いられる管用の二つの対立した意味についてほ︑EdwardA.Hぎ乙dya 

ndロaまPA一Reく針n⁚Marketi嵐﹀  

−澄↓−p.筈↓を参照︒   

㈱ 久保田音二郎↓配冷静﹁平井黍太郎編︑﹁経営学辞典﹂︑昭和二十七年︑七七四景︒   

㈱ J・Bり○℃粁s Heckert and ROber叶B・Einer⁝望stユb已iOn C慕tS︸−誤∽−p.∽.  

引 ﹃redE・C訂rkandCarriePattOnC訂昇⁝Prmc邑sOf Marketingu−翌♪p・冠00・   

伸 ﹁開羞﹂︵spread︶ほ︑又マージン盲argiヱとも呼ばれる︒グッデイ︑レブザソ両氏によれば︑﹁マージン′は︑企業の管用  

と利潤とを全部補填するために必要な南部的・会計学的な容革を表示している︒従ってマージンとは︑販売価格と商品の   ■′  

送り状原価との差額戎ほ云開差﹄をいう︒﹂とのことであり︑他方︑﹁開羞﹂という言葉ほ︑﹁二つの水準の価格の問の差額に  

用いられる﹂そうでぁるD已dy 

我が国では閑差のことを﹁利幅﹂或ほ﹁値鞘﹂という言苓でも呼んでいる︒   

の 向井梅次教授︑日く︒﹁今玄に或製造品の工場価格と消費者価格とを対比し︑其差額を幾何と穿出せんか︑此差額が商品配給費  

︵cOStOf marketing︑Ha邑els打OSten︶を現はすものとする︒﹂向井梅次﹁配給理論﹂昭和十二年︑三頁︒   

㈲ 向井鹿松教授︑目く︒﹁生産者の販売代価と消費者の支払代価︵小売商の販泰代価︶ の差が︑すなわち配給撃として考えら  

れるものである︒﹂向井兼松﹁配給論﹂昭和二十人年︑.二心六寅︒   

㈲ 配給費用概念の問題において利潤が劇つの問題を残していること.は︑グッデイ︑レブザン両氏によっても明瞭に指摘されてい  

る︒Hぎdd黒and Re責an⁝Op.Cit.︸ p.昌00.  

配給管用について   〟ダ  

八九   

(12)

酪節においては︑配給論灯おいて使われている配給費用概念を概観すると共に︑果してその配給費用概念が現象  

の科学的分新かための範疇として妥当であるか否か賢いて︑内在的批判の観点から考察を加えた︒そこで︑本   節におい七は︑更に配給費用概念の質的規定を吟味する順序となる︒つまり︑配給静用の本質とは何かという間   

囲   餌 旭  

句‖E・Cぎ打andC・P・C︼ark⁝Op●Cit:p.可N00.  

谷口晋彦教授︑白く︒﹁広義の配給費用は︑最初の生産者価格と敢彼の消静老価格との値鞘の総計であり︑その中にほ︑用各段  

階において商品売買紅従事する商人の利潤︑この中にも純然たる前菜利潤と・労賃に類するものとがある︒蜘運送愛用︑貯  

蔵費用︑金融静用の如き純然たる督用すなはち狭義の配給静用とが含まれてゐる︒﹂谷口雷彦﹁配給通論﹂昭和二十八年︑  

六二頁︒なお︑﹁配給風織論﹂昭和十年︑一四山員 参照︒  

鈴木保良教授︑日く︒﹁配給管用とは︑財貨を社会的︑人格的に移動せしめる配給活動ど︑これがために必要な配給経営を維持  

するに必要な静用である︒従っていわゆる企業利潤を含まない純粋配給静用である︒しかしながら表にほ企業利潤をも含  

也た総配給静用を意味することが多い︒﹂鈴木保艮﹁配給経済新論﹂昭和二十八年︑一一〇四弓なお︑﹁配給経済論﹂昭和二  

十四年︑二〇六頁︒及び﹁配給費用の諸問題=ニ田学会雑誌︑第四四巻 璽∵四号︑三景参照︒   布田敬太郎﹁配給論﹂昭和二十三年︑血八六頁︒  

lames甲lefferys⁚TheDis−ribu−ipnO叫COnSum2rG00ds︶−綬P勺.0000.  

Ra−ph句・Bre等r⁝The・Mark2許ginstitutiOn.PL声  

第二十七巻 第一号  

四考察の視点  

九〇  

(13)

題を︑経済学的観点から考祭する順序となる︒か1る批判︑の観点匿おいては︑∵最早内在的批判の観点を一歩蹟み出  

してゆかねばならないであろう︒   

先ず︑配給論において︑配給費用の本質が如何に考えられているかを吟味してみよう︒配給論・において︑配給費  

用や商業利潤に関する明確な理論的規定を見出すことは難しい︒そこで配給費阻は︑配給過程において生ずる費用  

であるかち︑配給の本質と密接な関聯を持っているので︑先ずこの配給と生産との関係を明らかにすることから ′  

配給静用の性格を照し出してみようⅧ大抵の配給論学者は︑此の問題を︑十分に理論的に考察していない︒多くの場  

合︑配給の経済学的性格につ.いては︑効用琴論を腰用しているにすぎない︒例えば︑古くは︑コングアース︵句・  

D.COn諾r乳が︑﹁生産とは︑形態的・官ヨ︶場所的・︵p−ge︶時間的・︵tim価︶孟禦用の創造である︒⁝⁝⁝配  

給ほ︑広義においては︑′場所的︒時間的効用の創造に関する商業活動をいう︒だから︑配給は︑経済学者にとって   バリ   ほ生産の∵部分である︒﹂と述べ︑最近では︑ダッデイ︑レブザン両氏が︑配給が寄生的な性格を持っているとい  

うのは狭い考え方であると批判した後︑生産者が︑形態的効用をあたえるの虹加えて︑配給は︑場所的・時間的及  

拗 び所有的︵OWne邑ip︶効用をあたえると蘭き︑又︑アグニュー民事E・Agnew︶も︑同株に︑配給は場所的.  

時間的晶有的効園を創造すると述べてい‰匝ごのような見解が大体配給論者の道警考えられるが︑かゝる効  

用琴論を前掟とするかぎり︑配給費用の本質も又生産的であると考えられているに相違ない︒例えば︑桐田尚件数  

授は明瞭に﹁⁝・生産と同樺に配給もまた価値を増殖するものであり︑生産的であることを示す︒かく考えるとき   5   ほ配給静もまた生産費の一輝であるわけである︒﹂と述べられている︒   

以上のこ′とから我々は次︑の如く葵約することが出来るであろう︒欝山に︑配給論は︑効用理論を援用する以外に  

は︑配給と生産の理論的解明を行っ七いない︒第二に︑配給費用についてもその質的規定をあたえていない︒若し︑  

九∵    配給静用について  

(14)

第十七巻讐号  

.ヤ  

九二   強いて求めるならば︑配給費用を生産野用と問硯しているというほかはない︒従っノて︑配給費用の経済学的研究を試  

みられた井上至氏の研究も︑その琴論的基礎を配給論の中に求めることが出来ないので︑中山伊知郎教授の淘衡   ㈲   理論や弄上馬自身ゐ推壷によって論議を進めておられる︒更に︑配給費用の質的規定を考察するには︑配給論学者が  

配給費用と商業利潤との差異を如何に考えているかも吟味しなければならない◇然しながら1此の問題についても  

配給論の中でその手掛りを求めることは困難である︒要するに︑配給論においては1配給静用の質的規定が看過さ  

れ七いるといわねばならない︒   

では︑何故に看過されているのか︒でほ又︑配給静用め本質を如何に理解すべきであろうか︒この問題に関して  

ほ︑我々ほ配給論から叫歩ふみ通してゆかねばな紅ない︒先ず︑配給論ほ︑配給費用の質的規定を何故看過してい  

るのであろうか︑.という問題から考察を進めよう︒  

︑︑︑︑11︑︑︑︑1︑︑︑1︑〜11︑1111︑1ヽ︑ヽヽヽ  結論から先に述べるならほ︑配給論ほ︑現象をそのま凄転記述することに終って︑現象の背後に潜む本質を看過  

ヽヽヽヽ   しているからである︒若し︑現象わ記述のみ.にとどまっているならば︑それは科学でほなくして︑科学以前に停止  

することになる︒何故ならば︑科学は︑多種多様な現象から出発し︑その現象の眼底に横たわる内的本質的諸関係  

を痍究し︑そこ転潜んでいる存在の発展法則を暴威しなければならないからである︒更には︑この本質の認識を媒介  

として︑再び現象の具体的な多様性を解明し︑より高しl段階において現象を再現しなければならないからである︒  

我々ほ先ず︑現象と本質が昇ること笹注意しなければならない︒若し︑現象が革質監窒竺致するならば這よそ  

すべての科学ほ無用であろう︒社会科学の唯忘武器とされる抽象カの意義もこの個別的・偶然的な現象わ中から︑  

現象の仮象を剥ぎとり︑その殿底に横たわる必然的な本質を抽き出すところにおいてこそ存するのである︒北川宗  

威教授︑∵白く︒﹁現象の中に法則を見出さぬ科学︑個々の偶然的なものから安定的なものに葱で高められぬ科学︑   

(15)

現象の本質による媒介を理解しないでたゞ現象の仮象面を上滑りする科学は︑決して莫め意味忙おいて科学と呼ぶ  

ことができない︒それは似而非科学か︑或いは精々︑個々の偶然的な現象が︑正確紅琴人され︑記録された目録で   m   しかない︒﹂と︒かくの如く︑現象と本質は区別されるぺきものであり︑科学は現象から出発して︑その分析を体  

質にまで高めなければならないものてぁる︒然し他方において︑本質と現象との同一性を看過してはなら禿い︒本 /  

質ほ現象をほかにしてはなく︑現象そのものの中にあるのである︒﹁本質と現象ほ区別されている︒しかし同時降  

同†物であって︑相互に惨透し合い︑相互に移行し合っている︒本質と現象との関係は対立物の統二矛盾におけ   顎   る統∴弁証法的統﹁を形作ってい愁﹂つまり﹂ 本質と現象との間には︑対立があり︑矛盾があ′るが︑他面統一  

があり︑照応があるのであ驚 若し︑本質と現象との間に対立があり︑矛盾があり︑両者が対抗的である場合笹  

は︑本質は現象の中に︑歪められ︑ねじまげられた姿で反映されるが︑他方︑本質と現象の間監讐があり︑照応  

があり︑両者が調和的である場合には︑本質は現象の中に︑十分にあらわれ︑素直に反映されるのである︒現象ほ︑  

このような立体的構造を持っている︒従って︑ノ科学はその本質を看過して・はならない︒然るに︑配給論において  

は︑本質ほ無視され︑そり分析態度ほ現象にの一みとらわれているのである︒だからこそ︑配給費用の質的規定ほ勿  

論のこと︑商業利潤の源泉や︑生産と配給との羞異の問題についても何等の理論的解明がなされなかったのである1︒  

では︑配給費瀾の本質泳如何乾して求められるべきか?ノ本質と現象との同一性と差別性を認めた場合に︑我々ほ   ヽヽヽヽヽ   先ず抽象の段階に注意しなければならないであろう︒科学的な分析を行うには︑ノ現象から抽象を行って︑本質的な  

諸関聯にまで抽象の段階を高めなけれほならない︒然もその際︑現象が本質と如何に異ってあらわれているか笹琵  

意する必要がある︒   

配給費用の本質も︑かゝる高い抽象段階において始めて明らかにされるであろう︒と・ゝで︑配給静用の問題に先  

九三    配給管用について  

(16)

第二十七巻 第山号   九四   立って︑本質と現象との関聯を︑生産静何に例を求めて示してみよう︒我々が日常において︑︑静用という場合に  

は︑簿記学的損益計算の立場からの資本の支出を意味している︒従って静用の中にほ︑賃銀︑減価償却費︑支払利  

子︑t地代︑保険料︑等が含まれているわけである︒か1る静用は︑資本家によって支出され︑資本家によって意識   ヽヽヽヽヽヽ   されている費用であるから︑これを﹁資本家的費用﹂︵kぢit邑邑sche声OSten︶と呼ぶことが出来るであろう︒然   ︑  

しながらへこれは︑資本家の意識に反映した限りでの費用であり︑その意味では極めて具体的な現象の段階にとど  

まっている︒右こで︑これを本質的諸関係の段階にまで抽象すると︑どのようになるのであろうか︒今商品の全価  

値をWとし︑h不変資本部分を︑C︑可変資本部分を︑Ⅴ︑剰余価値をm︑とすると︑商品の全価値は︑・W‖C+Ⅴ  

+m であらゎすことが出来るであろう︒そこで︑本来の静用︑或は真の生産費とは︑このW=C+Ⅴヰmなる  

ヽヽヽヽヽ 商品の全価値を生産するために要するところの労働費用のことをいうのであって︑この費用を︑﹁現実的静用﹂  

ヽヽ ︵wirk−icheぎs−e㌢︶と呼ぶことが出来るであろう︒﹁商品の資本家的費用ほ︑資本での支出によって計打れ︑商品   9   の現実的費用は労働での支出によって計られる︒﹂のである︒従って︑本質的段階正ある資本家的管用と現象的段階  

にとどまる現実的費用とは︑質的に興ることほ勿論のこと︑鼠的にも異っているのである︒すなわら︑現実的費用  

は上述の如く︑′CヰⅤ+mによって示されるが︑資本家の立場からみた場合の静用は︑C+Ⅴなる野用打とど  

まるのである︒従って︑mは利潤として資本家の手許に残ることになる︒然しながら︑実際にほ︑資本履はC+Ⅴ  

以外に利潤の脚部分を︑例えば︑支払利子︑地代︑保険料︑租税公課︵その全部ではない︶︑諸権利の使用料︵例え  

働 ば特許権の如し︶を︑静用として支出する︒︵これを︑岡部利良民ほ﹁朴潤の螢用化部分﹂と呼んでおられる︒︶故に  

資本家の意識紅おいては同じよう・に野用として考えられていても︑その本質的関聯においては1 C+Ⅴなる本来  

的な支払部分と︑﹁利潤の管用化部分﹂と呼ばれる剰余価借=利潤の㌦部の支払部分とが含まれているわけである︒   

(17)

だから︑・C+Ⅴ なる本来的な資本家的費用は︑現実的費用よりも量的に小さく︑又︑この本来的な資本家的費用︵C  

+Ⅴ︶ に︑利潤の費用化部分を加えた実際的な資本家的費用においても矢張り︑現実的管用よりは最的に小さいの  

である︒かくの如く︑費用も︑現象的段階で︑換言すれば資本家の意識の中で把握された場合と︑本質的段階で︑  

すなわち︑社会の生産関係の内部担おいて規定された場合とでほ︑質的鱒も︑鼠的にも臭っでいるので︑ぁる︒此の  

生産費用に関する一例は︑配給管用に関しても次のことを示唆するであろう︒すなわち︑配給管用の本質は︑資本  

家の意識虹反映された管用︑つまり資本家的費用の現象的段階ではなくして︑現実的静用の段階において︑しかも︑  

それが社会的総生産過程の内部においで把握されなければなら憺いのである︒   

そこで︑次には︑配給費用概念によって本質把握をなし許なかった配給論は︑如何なる点において本質把握えの  

造が閉されていたのか︑では又如何なる視点によって本質把握.ぇの道が通じるのか︑という基本的観点を考察して  

おきたい︒  

地    先ず第仙に︑配給論は︑配給過程を︑財貨︵g00ds︶ が生産者から消費者へ移転する過程であると考えている︒  

ヽヽ  

然しながら︑現実の商品柊単なる財貸︑物体︑あるいは使用価値ではない︒それは資本制社会の商品として︑価條  

と使用価値という対立物の統一である︒本質把握の観点に 

︑︐︐  

価値ではない︒使用価値は︑経済学の対象ではなくて︑﹁独白爪二学科たる商品学に材料を提供する﹂にすぎない︒  

この商品を︑価値として︑価値と使用価値との統一物として把握することこそ︑経済学的把握への出発点をなすも  

のと考えられる︒  

ヽヽヽヽヽ   

第二に︑配給論は︑商品を単なる財貸とし把握し︑価値視点を見失う結果︑経済諸現象を︑資本の運動として把  

握することが出来ない︒現象においてみられる商品の流通は︑ 

九五   配給費用についで  

(18)

九六   第十七巻 第一号  

憩変換であぺ更にほ資本の運動なのである︒若し︑商品の流通を配給として︑単なる財貨の流通として把握するならー  

ば︑それが単純商品流通由段階なのかl︑又資本制社会における商品流通であるのかという区別さえ理解することが出  

来ず︑単なる現象の記述にとどまり︑存在の発展法則を探究すべき科学の課題は見失われてしまうこと紅なるであろ  

′    う?さればこそ︑松井清教授も﹁商業の真に科学的な解明は︑これを商業資本の運動︑として把握するとき︑始めて可能   凋 となるのである︒﹂ノと明確に指摘されているのである︒配給論的視角の盲点はこの他にも若干の視点をあげること  が出来るであろう︒然しごゝノでは︑最も基本的な観点として︑以上の二点を指摘することにとゞめておきたい︒で   はこのような本質把握の観点にたてば︑配給過程を︑又配給費用を如何に把握すべきか︑そのためには予め︑資本  ヽヽヽヽヽ   の運動形態を簡単虹要約しておかねばならない︒資本の遊動︑それは絶えざる資本り循環として把握される︒そこ   で資本の循環過程をその説明的形態で示してみょう︒この際︑現英においては︑産業資本も商業資本も存在するの   であるが︑︑エゝでは抽象化して盛儀資本のみが存在するものと仮定しょう︒又﹂産業資本の循環は︑貨幣資本の得環︑   生産資本の循環︑および商品資本の循環の三形態をもって行われるのであるが︑こ〜でほ︑産業資本の最も適切で︑   最も特徴釣な現象形態である貨幣資本の層環形態で示して争よう︒今︑箆瞥せ︑G︑商品を︑W︑生産な︑P︑   増殖された貨幣及び商品をそれぞれ G︑W︑とすると︑貨幣資本の循環形態ほ次の如く表示される︒  

わーW・︑⁝⁚P⁝⁚㌧ノミ㌧−G︑︑  

次紅︑∴この式の説明を要約してみよう︒循環過程は︑三つの段階で行われる︑すなわち︑G−W︑⁚∵・pて⁚⁚・︑  

W−ぴ︑の三段曲が七れである︒東で段階︑.Gl・Wは︑剰余価値生産の準傭段階であり︑こ⊥で資本家は増殖  

されるべき貨幣Gをもって︑り生産に必要な商品︑W︑すなわら︑生産手段と労働力とを購入するのである︒第二段階︑  

⁝⁚エアて⁚⁝.においては︑剰余価値の生産が行われる︒こ⊥で資本家は第一段階において購買した商品を生産的に消   

(19)

賢し︑剰余の価借の体化物﹂すなわち剰余価値の対象化された形態としての商品︑W︑を生産するのである︒第三段  

階W︑−αほ剰余価値の実現過程である︒資本家はこゝで再び販売者として市場に筏帰し︑剰余価借の体化物たる商  

品︑Wを︑増殖された費幣︑αに転態するのである︑かぐて資本家ほ再び貨幣を手にして循環過程の出発点に帰り︑次  

の軋余価値の生産のための準備段階転入るのである︒︑かように資本の循環ほ︑継続的に繰返される︒そしてこの循環  

の推進的動機であり︑規定的目的であるのは︑剰余価値初産慮とその実現である︒つまり価値の増殖であり︑資本  

の増殖である︒具体的に云うならば︑利潤の追求であり︑﹁金儲け﹂である︒   

か⊥る資本の循環過程においてはじめて︑価値視点からする﹁配給過程﹂の位置が明らかになる︒つまり︑三つ  

の段階のうち︑中間の第二段階が生産過程であり︑第一上帯三の段階が流通過程にお小て行われるのである︒従っ  

て資本循環の総過程は︑資本の生珪過程と流叢洞程の統山とし.て構成される︒そして︑生藤過程と︑流通過程の  

基本的相違点ほ︑生産過程においては剰余価値の生産が︑価値の増殖が行われるが︑流通過程払おいては決して行  

われないという点にある︒流通過程においては︑価値は尊にその姿を変えるのにすぎない︑換言すれば︑同一鼠の  

価値の形態諸変化が生じるだけなのである︒かゝる流遭過程の重度過程に対する基本的相異は︑配給費用の本望を  

把握するために決定的に藍要である︒資本制王虔過程は︑労働過程と価値増殖過程の統⊥として存在する︒労働過  

程においてほ︑使用価値が産み出されるが︑他方︑価値増殖.麺程においてほ︑新なる価値が︑剰余価値が創造さ  

れるのである︒これに反して︑流通過程では︑使用価値も産み出されねば︑剰余価値も創造されない︒単なる価値  

の姿態変換が行われるのにすぎない︒然る軋配給論においては︑上述の如く︑生産過程においては︑形態的効用  

︵賢日誌琵y︶が産み出されると考えられているが︑この偲経は︑一﹁形態聖 という表現によって使用価値の一面  

を︑﹁効用﹂という表現によって価値の∵面卑表現し︑両者を混同しているのである︒か1る混同から︑配給過程に  

九七    瀞謝相野用について  

(20)

第二十七巻 第一号   九八  

おいては︑場所的・隠間的・所有的・効用︵p−get小mePnd音ners富uti琵eエが創造されるというのである  

がこれ注︑生産涌程との質的美男を完全に無視したものである︒井ヒ幸二摘もこの点に関して﹁彼等が︹配給論   一別ソ   8 者が︺流通過程を価値形成的であり塗産的であるとみることに対する批判﹂を第.一にとりあげ﹁この場合彼等のい  

ぅ価値とは主観的︑心理的庵効用をさしているのであるが︑効用ほもともと主観的なる個人心理の問題であって︑  

個 客観的︑科学的なる経済学の対象となるものでほない︒﹂と指摘されておられる︒ 

更に︑配給過程が︑か1る混同をおかす原因は︑流通過程には技術的作業が伴っているということにも求められ  

る︒つまり流通過程の本質は︑価値の慈態変換︑価値の形態の交替であるが︑それには多くの場合︑技術的作業︑  

例えば︑蕗品の荷造り︑品分け︑運送︑等が伴っている︒このことから︑荷造りや運送を流通の機能として理解し︑  

流通の本質を見誤ってしまうのである︒流通の本質を正しく理解するには︑これらの技術的作業を分離して考えな  

ければならない︒例えば︑商品取引所や︑不動産売買をみよ︒これらは純粋な流通の一例である︒これらの取引に  

おいてほ︑所有者の交替︑は行われるが︑技術的作業︑は行われないのである︒つまり︑﹁商品流通ほその物理的   抑   運動なしに行われえ︑また︑生産物の運輸は商品流通なしに︑1直接的な生産物交換なしにでもー1行われる﹂の  

である︒然るに配給論では︑か1る附帯的な技術的作業を畢祝して︑流通の本質を見失っているのである︒例えば︑  

配給の規定 

する者があらわれるに至ったのは︑事態が正に逆に把握されていた事情を示すものである︒   

以上においノて︑配給費用考察の基本的視点を簡単に述べたのであるが.我々は︑経済現象を︑価値視点から︑澄  

本の運動の観点から把握するならば︑配給過程を流通過程として理解しなければならないことが明らかになった︒  

配給過程において生ずる静用が配給管用といいうるならば︑流通過程匿おいて発生する費用は︑﹁流通静用﹂と呼   

(21)

ばれるべきであろう︒そして︑流通費用の本質はまさに以上において述べられた流通過程の本質から考察されねば  

ならない︒汎にその考察に移ろう︒  

㈱東に︑ク・でーカー氏も︑同様紅︑三つの効用をあげている︒Q句︒rreSt宅a芹er︸ :The NatureOftheDi賢ibu許ロCOSt  

P−○かーem∴−↓訂JO宍na︼Of Marketi扁﹀ <○︼.−−︸ 宅〇.N−Oct・−曾㌫−pp・−∽−−−設・  

駒 村田尚作﹁商業学概論﹂昭和二十六年︑大玉貰っなお同番 山五大頁も参照されたい︒  

呵井上華一↓配給静の経済学的研究﹂松山蘭大論集︑ 罪四巻 第一号︑九九頁︑一〇二頁︒  

m 北川宗蔵﹁経営学批判﹂昭和二十一年︑二頁︒  

㈲ 同上番︑一一貫︒  

㈲∵只∵監ar舛⁝せa00只api邑︸望一ⅠIi﹀S.声床谷部文雄訳︑日評版︑第八分冊︑一〇四頁︒  

師 岡部科長﹁会計学の理論的性格﹂︑会計︑罪六一巻 第二号︑昭和二十七年二月︑一六九頁︒又は︑同上﹁剰余価値率・利潤   

率・利益率﹂︑経済論叢︑欝七二巻 第六号︑昭和二十八年十二月︑三ハ頁︒  

餌⁚句十拘.C︼a昇andC.P.Clark⁝Princi冨s︒f首r打etingL澄↓声ひ・及び甲A・D已dyandD・A・Re責an⁝Marketing−   

−澄↓.P.舟を参照されたい︒  

四 声Mar舛⁚a.a.〇.もd−Ⅰ﹀S一会・浸谷部文雄訳︑日評版︑第一分冊︑一七三頁︒  

凋 松井清﹁商黄綬済学概論﹂昭和二十六年︑七頁︒  

弼声.Ean牢∴ a.a.〇:Bd・l−舛N声 同上訳︑第二分冊︑小〇八頁︒  

Ⅲ 謬已D.C昌扁rSe⁚TFe E−emen訂Of Marketin甲−誤−: P・∽・  勿 Edward A.せ已号and Ua5.笹A.Re責an⁝買a旨et−ng﹀ 忘彗.Pノ.∽.  

㈱ 班長b甲Agnew︑謬邑恥A・C︒n完randWi−︶iamL・D︒蒜m訪⁝○邑inesOfMarket首g︸  

配給費用について   ー¢∽○﹀ P﹂料.  九九   

(22)

′   

五 流 通 静 用  

流通諸費用︵e眉e諾eS◇佃circul邑On︶Zi詩已已許諾kOSten︶ という場合には︑通常︑次の三つの静用があげら  

れる︒すなわち︑純粋な流通費用︑保管費用︑遍送静掃︑がこれである︒この場合︑純粋な流通静用と︑他の二つ  

の流通費用とは区別されなけれほならない︒何故ならば︑純粋な流通静用ほ︑本来的な流通過程において生ずる静隠  

であるが︑保管管用と運送静用ほ︑流通過程に延長された生産過程において生ずる静用であるからである︒然しな  

がら︑三つあ費用とも︑商品の流通期間において︑発生する費用である点でほ共通して小る︒   

然しこゝで劇つの反間が想定される︒というのは︑元来流感過程で生ずる費用が流通費用ではなかったのか︒だと  

すれば.︑流通過程紅延長されたとほいえ︑生産過程において生ずるという保管費用を流週諸費用として規定するのは  

おかしいではないか︒キ更には又︑流通静用としての三者に共通する本賀があるのか?・又︑その本質ほ′鵬体何かァと  

問われるであろう︒そこで︑このような問題を抱きつ1︑三つの静用の経済学的性質を逐次考察してゆきたい思う︒  

第一濫︑刷純粋な流通費用︒︵gen旨ee童e琵eSO︷circ已琶ぎ鼓neZ謀臣註︒己警告n︶文草道り︑純粋な典  

型紆な流通静用である︒一従.って︑此の費用において︑流通静用の本質は最も明確笹表現されていが︒すなわち︑縄  

付 粋・の流通静用とほ ﹁諸価値を商品形態から貨幣形態に転態するために必要な静用ノである︒﹂又︑逆に︑諸価値を貸  

幣形態から商品形態直転態するためにも必要とされる静欄である︒具体的に表現するならば︑締着は︑販売費用であ    第二十七巻 第一号  

個 井上革一﹁配給静の経済学的研究H﹂︑一〇六頁︒  

個 同上論文︑仙〇六頁︒ 

仰戸Mar舛⁚a.a.〇こ芦キs.−串間上訳︑節義分冊︑二八三宅  

ー  

山00  

(23)

後者偲︑購買費用である︒従って鶴粋な流通費用ほ︑売買費用とも呼ばれ  り︑  ている︒流通過程が︑価値の姿態変  

換︑価値の転態のみが行われる過程であって︑何等の価値も︑剰余価値も︑更には使用価値も生産しない過程であ  

ったように︑純粋な流通費用は︑商品の価値や︑便糟価値の生産紅おいて生ずる静用ではなく︑商品の価値の転態   2   紅おいて生ずる費用であ毛つまり︑価値を英現するために︑生ずる静用なのであ響このことは︑純粋な流通費  

用の経済学的性質︑つまり流通費用の本質を規定している秒である︒すなわち︑生産費用は︑それが生産手段や労  

働力将校下せられて︑価値や︑剰余価値を生むが︑これに反して流通費用は︑何等の価鱒も︑滞って剰余価値も生  

まない︒更に又︑生慮膚用は︑使用価値を生み︑社会的富を増大さ替るが︑流通費用ほ︑何等の▲使屈価値も生まな  

いし︑又社会的富も増大させない︒故に︑何等の価値も使細価値も生まない流通費用の本質ほ︑空葺︵UがkO裟en︸  

計訂che声OSteプ⊥ざ玩frPis︶ なのである︒それほ又如何なる意味であろうか?・︒価値と使用価値との二つの側面  

から考察して鼻よう︒先ず︑何等の価値を生まないということについてみるならば︑資本家は︑生産費用の場合に  

ほ︑.それにいくら投資しても価値を生み︑更に剰余価値も生むので︑資本家にとっては生産的であるが︑流通費用  

の場合軋は︑価値も剰余価値も生まない︒従って︑全資本琴階故についていうと︑流通費用笹投下される資本部分  

ほ︑剰余価値から接除されることγ町よって填補されなければなむないわゆである︒従って︑流通蟹用に支出された  

資本は︑資本制生産の基静に属するわけである︒次に︑.何等の使用価値をも生まないという点についてみよう︒生  

産静用の場合にはそれが使用価値を生み︑社会的富を増大させるが︑流通費用は本来の使用価値を何等生み出さな  

い︒従って︑これ転校下された資本や労働ほ︑生産過程において創造された社会的生産物の中から填補されなけれ  

ばなら庵い︒流通費用は社会的富を増大させるどこケか︑社会的富からの減除をなす︒従って空野に属サるわけで  

ある︒︵なお︑この点は︑後の保管費用において再び問題にしたいと思う︶減枠な流通費用は︑此の何れの点にお  

配給静用について   一〇一   

(24)

いても空費をなすわけである︒   

さて︑このような︑流通費用を空夢であると規定する本質論に対しては︑配給論の立瘍から︑配給費用は︑場所   的・時間的・所有的・効用を生むではないかという疑問が提出されるであろう︒この三つの効用のうら︑場所的・   時間的・効用の問題は︑次に考察される運送費用︑保管費用の問題に関するので暫くおき︑こ⊥では所有的効用に  

ついて答えておこう︒所有的効用とほ︑流通にお︑いて︑換言すれほ商品の姿態変換において︑所有者の交替が行わ  

れるということを指す写あろう︒然し︑か1る所有者の交替は︑何回転々売買されようと︑価値や使用額倍を増   加させないどころか︑かえって社会的な損失をもたらすのである︒若し︑所有者の交替が効用を生むのであれほ︑   転空売買が激しければ激しい程効用が増大し︑益々社会の﹁効用なる富﹂が増大するという馬鹿げた結果になるで   ぁろう︒問題は︑時間的効用及び場所約数用に︑つまり︑保管静用と還送欝用とに存する︒次に時間的効用に関係   する保管費用に移ろう︒  

第二に︑保管静用︵e膏nSeS︒ごt︒⊇ぬe−A已b且邑す計g算邑en︶本節の冒頸において指摘した如く︑保管費   用ほ︑純粋な流通静用が流通過程から生ずるのとは興って︑流通過程比延長された生産過程において生ずる費用で   あるノでは何故鱒生産過程から生ずる静用と云いうるのか︑それは︑保管静用が授ぜられる保管過程紅おいては︑  

︑︑︑︑︑ヽヽヽ 特定の範囲内で価値が形成ぜれ︑又︑有用的効果︵誉t邑斧1︶という特殊な使用価値が生み出されるからである︒  

先ず︑有用的効果とほ如何なる意味で特殊な使用価値であるのかということからのべよう︒使用価値ほ︑必ず物紅  

対象化されたものでなければならない8然しながら︑有用的効果ほ物に対象化された形態をとらない︒従っセ使用価   値とは区別されなければならない︒然し︑この有用的効果が使用価値の一種︑又は特種な使用価値と呼ばれるのは︑ 

4 をれが︑使鳳価値の創出︑維持︑.実現に直接関聯するからで射る︒つまり保管過程は︑保管する商品に対象化され   第二十七巻 第一号  

山〇二  

こ、   

(25)

た使用価値を維持し︑その減少を制限するという有閑的効果を創造tているのセある︒この有用的効果が本来の便   ヽヽヽヽヽヽヽヽ  用価値と興って︑物に対象化されず︑又︑使用価値の創出︑維持︵保管︶実現︵還送︶に関聯はしても︑ノ決して便   ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ   用価値を増加せしめるものではないということは︑流通費用の本質を把握する上から︑極めて重要な点である︒次  

に︑保管静用籠︑﹁特定の範囲内↑虻おいて価値を形成し︑追加することが出来るのである︒こゝ紅﹁特定の篭囲  

内で﹂というのほ次のような事情転基く︒すなわち︑一定の商品在荷が存在することは︑社会的需要を規則正ゾく  

みたしーt販売を中断させないために︑何時の社会においても必要とされるであろう︒かゝる必箪にして避けること  

︼hU  

の出来ない在荷ほ︑﹁賓何の正常形態﹂と呼ばれる︒これ笹対して︑商品が販売されない結果在荷が形成される場  

合︑換言すれば︑恐慌︑販路の枚挙投機等の資本主義的生産棟式に固有な諸原凶に基いて在荷が形成される場合  

は﹁在荷め異常形態﹂と呼ばれている︒この二つの場合によって︑価値の形成が興るのである︒つまり︑前者︑す  

なわち︑正常形態にある在荷の保管に投下写れる費用は︑価偵を形成するが︑後者︑すなわち︑異常形態にある在  

荷の保管に授下される費用は︑\価値を形成しない︒従︑つて︑価値が形成されるか否かは流通過程の条件紅依存して  

いる伊である︒このように︑保管費許は︑生産過程において生ずる静用でほありなが 

いても︑価値においても︑本来の生優過程とは著しく異っているのである﹂   

では保管費用の経済学的性質償付か︑果して空費であるか?・︒然り︑空費であ 

か︒保管費用は︑上述の如く有用的効果を生産するとはいえ︑何等の使用価値をも追加するものではない︒それは︑  

使用価値の維持と︑その減少の制限に関するだけで︑使尉価値の積極的な増加を巷み出すことが出来ないからであ  

る?他方︑価値に関しては︑正常形態の在荷に対すか保管費用ほ価値を形成するので︑生産的に作用するが︑︑他方  

では異常形態に対する保管費用は︑価値を形成しないので非生産的である︒然しながら︑何れの形態の在荷におい  

一′〇三    配給費用について  

(26)

∵∵⁚㌧一︑.−・∵・  

\   

∵︑∴  

ヽヽヽヽヽ ても総局においてほ空建である︒たゞ相遥点は︑前者の場合は︑社会的軋必賽な資錯ではあるが空欝であり︑後者   ヽヽヽヽ   め場合ほ︑社会的にも不必翠な空費であるという点だけである︒何故なら︑両者の何れにおいても︑使用価値ほ増  

加されず︑又▲保管に投下される準不や労働力ほ︑社豪約生産物の坤から填補されなければならないから︑結局ほ 

粗 労働の生産力の減少と同じように作関するからである︒   

以上︑虎管静相打本質に関して述べたことほ︑向時に︑逓送壁用についてもいいうることである︒従って︑運送  

費用に関しては︑簡単に附音するにとゞめておきたいと思う︒   

攣一十紅へ〜還送賛撞︒︵e童2n箆SOニ置nSpO旨叶叶8﹀T置n竜0り汗訂sten︶運送費閏も︑保管野用と同様軋︑流通過  

ヽ 程に延長された蓮虔過程紅おいて発生する資用である︒従って︑運送好捕の扱下せられた逆送迦程においては︑看   ヽヽヽヽ   用的効果という特種な使増価値が生み出され︑又価値も創造されヅ彗こ1でバ運送過程の有用的効果について二盲  

するならば︑保管過程における有用的効果が︑使摘価値の.維持に関していたの紅対して︑運送過程における着用的  

効果は︑痍用価値の芙現に関している︒すなわち︑位置変化なる有用的効果を生み出すのである︒この有用的効果  

という特殊な使用価値は︑その生産と消穿とが閲時に行われなければならないという制約を持っているのである︒  

従って︑この点から︑運送適産が商品に価値を追加サるためには︑この道送過程虹鱒いて生ずる有用的効果が︑同  

時に生産的に消資されなければならないことになる︒だから︑若し個人的に消静されるならば︑嵐品の価値に追加  

ヽヽ されないのである︒最後に︑還送瀞摘も︑その経済産的性質蔽おいては︑保管静用と同じように聖賢である︒何故 

ならば︑運送資用もやはり︑何等の使用価値も増大せしめず︑単に使用価値の実現に関しているだけであるから︒  

従って︑運送に投下される資本や労働力は︑やほり社会的生産物の中かち填補されなければならない︒従って運送  

費用は社会的に必要ではあるが︑空費なのである︒  

(27)

こ1で︑さきにか1げた反間をふりかえってみよう︒配給論学者の時間的・場所的・効用というのほ︑こゝ匿いう  

有用的効果を表現したものであろう︒然し庵がら︑この有用的効果は︑本来的な使用価値とは︑物に対象化され得  

ないといシ点担おいで異っている︒従.って︑′生産における﹁効用﹂と同一視して︑時間的・場所的・効用と表現す  

ることは︑両者の混清を招き︑流通費用の空静的性格を抹殺してしまうこと虹なる︒この空野弥性格ほ︑社会の再生  

産過程の問題と関聯せしめると更匿明瞭になる︒流通攣用ほ︑社会の再生産過程に︑更には拡大再生産の為に必要で  

ほあるが︑だからといって︑その流通費用をいくら投下してもそれによって再生産過程が益々拡大されるものでは  

ない︒むしろ︑流通費用に投下される資本や労働力は︑社会的生産物ノの減除をなし︑それだけ再生産過程の拡大を  

制限することになるのである︒だから︑これらの費用を本来の使用価値と同視することは︑つまり︑同じ↓効用﹂  

という把握によって混同してしまうのほ︑誤りであるといわねばならない︒ 

最後に︑冒繋に掲げた問題︑すなわち︑保管静用や運送費用は︑生産過程において生じた費用であるの軋も拘ら  

ザ︑何故に純粋な流通費用と共紅流通諸費用として規定されるのかという問題について答えておこう︒それは︑既  

に明らかになった次の条件にもとずく.すなわち︑第〟に︑僚管費用や流通静用は︑価値や使用価値を生むとはい   ヽヽヽヽヽ   え︑特定の限界を持っている︒例えば︑使用価値といえども有用的効果という物に対象化されない特殊な使用価値  

であり︑保管費用の価値の形成は︑流通過程の諸条件によっで左右され︑ニ運送費用の価値形成も︑消静の性質に依  

ヽヽヽヽ 存する等の諸限界を含んでいるのである︒攣︑這︑保管費用も運送費用も︑商品の流通期間において発生し︑へ商品  

ヽヽ    ¢洛態変換に膵う技術的作業紅関連して尭生する静用である︒欝三に︑最も重要な性質であるが︑三者とも︑社会 ヽヽヽ  

的空費に属するという本性を有している.のである︒故に一二つの替用ほ︑とも紅流通諸費用として総括され得るので  

・ある︒ 

配給費用について  一〇五   

参照

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