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瀬戸内海に於ける島峡部落塩田の研究(二)

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(1)

概  観   

瀬戸内海水域の両横ほ凡そ一九四・三方町歩︵ミ声害acres︶であるが︑此処に点在する島唄部面積ほ約 

方町歩︵霞も00acres︶七内海全面積の約九%を虐めている︒ノ島らしい島ほ三千というが︑凡そ人間の住みうる島  

は︑今日可成りの高所にも.﹁農業型﹂の社会として︑近代史にいきいきとし・て残っており︑昨今﹁立体式塩田﹂と  

して有名軋なった直島︵認監︶の扁を見てもかかるように︑島は禿山でもそれぞれの掛史時代紅価値ほあり︑無  

ひなせ  

放牧地であったし︑その他年串・馬島の地名が多く残っている︒長門の角島・備前の長島・伊予の忽都島・讃岐の  

へ1﹂ 粟島・或は小豆島でも延穿の頃までに放牧が行われている︒そしてこれ等の瀬戸内島喚の二割二歩は広島県と愛媛  

県との問の芸予瀬戸にあり︑血割山歩は岡山県と香川県の間の備讃瀬戸にある︒本編では︑主として芸予漱戸以西  

屋代島︵畑鮎︶・姫島︵鰍分︶までを扱うが︑近代墟業史との関連︑今日の塩業地針遡及的検討という意味に於てほ・︑  

いしま 前編と併せて︑以1の鳥で十分であろう︒一つの島だけでも﹁二島二名﹂の井島と石島があり︑前者は香川県側の  

呼称︑後者ほ岡山県側の呼称と書き方である︒二県所属の島でも︑兵庫・岡山県境の取揚島︑岡山・香川県域の大  

槌島︑山口・広島県域の甲島があり︑この三島は島自体としては無人島であるが︑旧藩時代漁場争論等の標的鳥で  瀬戸内海における島幌部落塩田の研究  ︵五山七︶ 一   瀬戸内海に於ける島峡部落塩田の研究︵二︶  

先   王  洋  一  

(2)

第二十八巻 滞六号  ︵五一八︶  二  

あった︒かくて細入烏と雄も経済史的には意味をもつが︑此処では前篇・後篇合せて十八島に限定した︒近世入沢  

墟業に関する限りへ それではゞ意を尽しているので︑三千の島のあらゆる視角からの分析を初めたのでほ紙幅に際  

限がない︒瀬戸内海水域でほ俗に﹁七恩七島﹂というが︑平均二盟由方には公一個の島がある︒その漁獲法正して  

も︑﹁七漁具・七漁師﹂という程多様な方法と水面をもち︑各島喚部落と難も夫々の特性と範域・縄張りをもって  

いる︒直接の関連があるかないかは判明せぬが︑博徒仲間で﹁縄張り﹂のことを﹁シ々﹂というそうである︒   

瀬戸内海は外洋のように︑海流による海水の流動はないが︑潮の干満による流動がある︒満潮時海水ほ主に紀淡  

海峡と豊予海峡とから入り込むわけであるが︑鳴門・早師の両瀬戸ほ狭いだけに流速ほ大であっても︑流入量は少  はこのみさき  なく﹂内海全体にはさはど影響しない︒盟予海峡と紀淡海峡から流入する海水の出合う地点ほ香川県の箱崎と広  

島県有山市を結ぶ線とされ︑︑漁師遵ほこれをソロッガというのである︒ツガとは漁場を見定めるための目標をいう  

ので︑福山城ほよき見透しの目標となる︒かくて所謂瀬戸の部分ほ海水ほよくまざるが︑灘の部分では夏など沿  

岸から流入する河水が表層紅ひろがり︑︑外洋から入った海水と層をなし︑必ずしも離水温度ポーメが高くほならな  

ヽヽヽヽヽヽヽ  い︒このような塩気の少い水でよく墟が採れるのは不思議だとの疑問も生じるが︑内海塩田は多く多鳥海の部分に  

︑ . ︵2︶ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  ぅことにある︒枝篠突形式における風速の問題ほ別として︑入浜蟻田の発展と存在理由ほ︑観水の用排水施設とし   

ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ    ヽ ヽ ヽ  ヽ  ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ ヽ > ヽ ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ ヽ ヽ ヽ  ての海面下構築が︑寡雨の天恵に浴するところに最大なるものを見出すのである︒事実備讃瀬戸附近の年間雨轟  

一︑000ミリ以下ということほ︑近世入瀬塩田をこの地帯に発展せしめた最大要因であ・ろう︒更に備讃瀬戸以西  ヽヽヽヽヽヽヽヽ  ヽヽヽヽヽヽヽヽ  は潮差が大きぐ︑以東の最大∵八米に比べ︑実紅三・七米にも達する︒この事は芸予瀬戸︵謂闘︶の島喚部塩業を繁  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  栄せしめた事と深パ関係がある︒叉弓削鳥ほじめ愛媛県越智郡の鳥噴部落塩田の中世以降栄えたのにほ︑島及び近   

(3)

︵2︶  いが︑伯方烏の場合︑文安二年︵㌫︶の兵庫北開入船納帳を見ると︑備後塙山八〇石が伊予伯方から積送され︑関  

銭山二二〇文が納められている︒船主は二郎兵衛であるが︑更に太郎衛門により脚五〇石︵関銭一〇〇〇文︶︑太   在の薪・柴などの燃料の患冨さとその輸送の簡便さもあずかって力があろう︒そして江戸期の澄伐は今日に影響し  て島の樹影をすくなくしている︒併し幸なことにほ︑天明以後﹁塩煎熱﹂に漸く石炭の利用を知り得て︑九州・山  口辺からの石炭船の到来は︑内海墟業の発展に観音の拍車を加え︑塩業繁栄にプラスしている沌   

近世内海烏峡部落への入植者には︑当初から畑作等を目当てとして入込む農業塾或は半農半漁の百姓漁師として  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  専門漁師に遠慮しっつ定潜せる自給自足の部落屈もあるが︑元来瀬戸内海地域自体の洩っ特性のひとつは﹁島の生  

︑︑   ︑ ︑  ︑ ︑ ︑   ︑︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑   ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ヽ ︑ ヽ   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ︑ ヽ ヽ ヽ ヽ ︑.︑ ヽ ︑ ヽ ヽ ︑ 産物﹂或は﹁漁獲物﹂をた易く移動せしめ︑換価せしめうる点にあって︑これに依存せるものは血応栄えたのであ  

る︒この意味町おいて中世弓削及び越智郡一帯の産墟を遠隔地に運んで商取引したこの地の代官ほ怜別というの外  

なく︑江戸時代においても寧ろ商品経済の浸透は意外に早かったといいうるだろう︒その本土沿岸部はもとより烏  

峡部でも外海の離島に比べると商業的営利行為発達の歴史性は古く︑﹁馬の背﹂よりも﹁帆船﹂によって運ぶ﹁塩﹂   ヽ  

ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ     ヽ  ヽ  ヽ  ヽ     ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ほ割安に・ついていた︒瀬戸内エーゲ海の商業的性格ほ﹁塩田開拓﹂紅着眼する企業家達軋よって無音のうらに強く  

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  意識せられていたのである︒以下逐次烏晩部落蟻田の成立を究明することとしよう︒   

註 皿 ﹁延書式諸国牧﹂ 

風土記﹂6中国・四国篇所収一〇六頁︶︒三豊郡史︑二二三貝︒  

㈲ 全国塩業迎合中央会﹁塩業時報﹂八十二号︑巻頭拙文﹁風速三米と三十米﹂参照︒  

八 伯  方  島  

︵l︶  中世にお搾る瀬戸内海諸島の塙共に就いては︑すでに拙稿﹁塩業史講座﹂に詳記しているから︑  

瀬戸内海に射ける島幌部落塩田の研究  ︵五一九︶ 一ニ    此処には述べな  

(4)

、  

︵五二〇︶  四  第二十八巻 第六号  

郎左衛門により一七〇石︵蘭鋳二二〇文︶ と積送され︑問丸は悉く道祐となっている︒この場合︑備後墟とほい  ヽヽ.ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ︑ヽヽヽヽヽ  うもの1わたくしほ伯方は単なる発送地でほなくして︑産培地﹁伯方の塙﹂な積送したものと考えている︒   

−︵7︶ を塩田開拓に流用することとし︑遂笑坂の富商天王寺慧兵衛・殿村平右衝門に応ぜしめ︑完芙年電再度    いま本稿で問題とするのは︑上世の自然浜又ほ中世の揚げ浜様式のそれではなく︑近世における︑典等の両式に  

比べて甚だ生産性の高い︑入浜墟田の場合軋就てである︒旧坂出塩務局伯方管内を通観して見ると︑伯方鳥・大島  

・大三島の三島にわたり﹁伊予越智郡東伯方村︵瀬戸浜・宙軋浜︶︑西伯方村︵四通浜・小島浜︶′︑盛口桐︵亥ノ  

︵3︶  谷・好味︶︑岡山村︵ロ総・宗方︶︑陸倉利︵前堀・向堀・俊堀︶の五力村︑十刷浜の烏映部落が存在している︒   

漱戸浜転就てその成立を考察すると︑文化十山年今治薄がこれを設計し︑文化十四年開墾に着手︑文政元年六月  

西浜六晶二旭撃竣成︑ついで完聖研開に掌︑同四年三月完成して︑蒲富美とし︑のち加筆を敬して小  

作せしめている掛︑明治維新に及んで民営紅移したものである︒当初よヶ今治薄の企図遂行せるものと見なけれほ  

︵4︶  ならない︒   

富江浜の場合は︑当初より富商による個人経営の線が強く︑結局塩隙尾の成立強化となっている︒この浜の成立  

を見ると︑天保時代今治の木綿商深見与平が隠の今治蒲郡奉行井⊥七左衝門・大目付堀江七太夫を介して︑薄幸蔽  

塩田開撃な献策するが︑潜も大いに乗気となり︑当初藩営方式として出発︑一八四五︵弘化二︶年二月開墾に着手  

︵5︶  したものの国事多端の藩財政ほこれを支えきれず︑創設資本の不足を来したものであろう︑二嘩中絶する︒そこで  

︵6︶  彼ほ薄の木綿専売を策し︑その利益の幾分かを滞偵償却に宛て︑自らは東奔西走藩債徴募の任を買うて︑木綿益金  

起工し︑大山ハ蒜顛竿二月に竣工している︒望も大い警れ富んでノ塩田一戸前︵鞋︒︶を与え︑更に墟  

問屋に指定し︑蘭余の塩田ほ藩営として試作︑加地子を徹して小作せしめたが︑これもつかの間︑維新の隙これ等   

(5)

ほ払下げられて民有となったものである︒かくて今治藩の場合︑前記深見与平の外患部武右術門・砂田文次の三戸  

が塩問屋に指定せられ︑古江には深見藤平が庄屋と浜庄屋を兼帯し︑その子寛之助氏ほ明治維新なお塩問屋ならと  

めるが︑小作人の製塩高を管理・督放し︑問屋自身ほ塩及び石炭の売買にほ︑必ず白己を経由せしめることとし︑  

︵$︶  その受渡価柏を協定し︑製塩業恵嘉して直接塩の受渡又は石炭の買入に・触れしめない特権をもつに至った︒   

伯方鳥塩田の中心部は木浦墟由の瀬戸浜︵入浜式ス︑七六陪・流下啓ニ︑三二八陪︶と宙軋浜︵入浜式四山︑  

二九二・流下式∴七山四︶及び北浦塩田︵入浜式八︑三ハ三隋・流下式二︑六垂二階︶であるが︵㌘仰︶︑前者に  

就いてほ信撤すべき﹁予川越智郡木浦年代記﹂がこの島の三嶋神社において発見され︑之を探訪する機鱒恵まれた  

︵9︶ が︑西伯方の北浦に就いては︑詳細ほ猶お不明である︒概して伯方地方の近世塙田は新しく︑ノ今この年代記に拠っ  

て軋ると︑駿初この地に塩田な築造せしめたのは︑松平美作守定序であり︑彼は伊勢園長島より今治藩主とし.て入  

城し︑塩田を築造したようである︒もともと︑伊勢の地は中世より有数の塩業地となれる事にも︑注目せねばなら  

ぬ︒伊予温故録に従えば︑足労は松平隠岐守定勝の五男︑松山城主松平走行の弟であり︑越智郡の内八十山村︑宇  おおこじま  嘩郡の内十九村︑録高三万五千石を領したとある︒前記年代記を検すると︑文化十二亥年大小島沖︵現在の瀬戸浜  

沖︶を三月賢一回検分しへ文化十四丑年五月十八白に大小島に郡奉行下検分を為し︑六月朔日より塩田築造普請を  

開始している︒文㌢裏年︵蚊禁年︶一斉二十三日に瀬戸浜の西浜汐留工賃行い︑郡奉行三人と代芙目溜  

二人︑勘定方四人︑御手代・御手付十叫名が来島し大嶋及び伯方上嶋︵現在の弓削烏︶の大嵐屋同役︑村庄屋が出  

役した模様である︒いまこの記録に従えは︑土事は先ず松杭を一番・二番とうたせ︑竿打と称する測鼠を行える様  

子が彷彿とする︒越えて︑翌文政二卯年瀬戸浜塩田の東浜が閏四月七日に汐留工事に成功し︑右御閲作に出勤せる  

土地の庄屋が格別出精のため︑御褒美紅家弐軒︑大麦などを拝領したとあるが︑従来の﹁塩業全書﹂に伝えられた  

︵五二こ  五   瀬戸内海における島喚部落墟田の研究  

(6)

第二十八巻 第六骨  壷二二︶  六  

︵10︶︵11︶ 記事も大した誤りでない︒とが知られた︒更に︑この年代記を仔細に見れほ︑丈六〇年帽租七舌江浜の塩留工事  

が十月十言成功し︑﹁御家老様始め御役人様不残御入込に相成り汐留当日は妹外賑々敷近在より之の見物人彩敷  

事蒜﹂とその盛観を試べ︑山八六⊥年︵㌶福︶﹁酉年貫中旬宙江塩浜姦立顧慮︒語入札場︑御普請十二月  

︵12︶  上旬より相始め︑出来上るや否や初会相成候﹂とあって︑年代記の編年史実も﹁大日本墟業全書﹂のそれと大差な  

きことが検出され得たの.である︒  

いま墟業全書針三編︵晋従って︑愛媛県鳥峡部落語㌫島︶の名浜涌について︑その段別︑完︵㌫m誇︶  

実施直前の地価︑製造場数︑二野道場当りの反別をしらべると次の如くである︒  

塩 田 浜 浦 別 調  

村 村 村村 村一 村 村 村   

六四︑一鵬〇  

六三︑一三九〇  

六八︑四八〇  

八山︑九四〇  

七八︑五山○  

四 五 二 三   四 二 二  

一製造場当り反別  

六 七 四 ニ   

一︑四〇  

二︑三八   町  

︑九六〇七   .⊥ 九七︒︒細  

○ 二 二 ○ 一一・一・  

二 

(7)

殻に島喚部落の塩業程封建性の浪小もの′ほないといわれる︒果してそうなぁか︑それは恐らく探幽労務面では  適切な批判であろう︒ポーメ二〇度辺までの朗水を採取する塩巣労働は︑余りにも農業労働的・強行軍的であっ  

て︑日本人向の重労働てぁる︒経営者の語る所に従えは︑かん水価格の四〇%ほかかる労賃であるという︒しかも  不思議に︑この伯方地方においては農・墟の兼柴労務者ほサくなく︑その多くほ専業労務者であるが︑本土地方に  

比べて純朴な島の人情のゆえなのか︑人口密度の高いエ場地帯を離れているためか︑労働攻勢は華やかではない︒ ︵13︶  

いま伯方墟協の好意にょり示された塩業加速度近代化以前の賃金表を参考として掲げて見ると︑.その役名にほ大  さしはなえ 工・顧・副頚・差・甫江・二年炊・初炊・寄予など近世末の呼称をその隠残しているが︑やがて︑これ等は流下式  

転換と共に︑一路塩業近代化の線に沿うて消滅する名称だけに︑興味深いものがある︒  

賃 金 表盲姶︺︵昭和t亘ハ年六月言実施伯方塩某協同組合︶︹閥㌘虻酎斯軸雛朗肥㍑讃謂錮錮韻韻ご  

大 エ  役1 名  塩 田 労 務   期 別/  作     種  業   別  別   

本   六三   作  

?ぺ円 ⊂=)⊂=〉  

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物   価  

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同  封   

西伯方利  

同   封 村  

瀬戸内海匿おける島鳴部落塩田の研究  

小 四 宗   島 通   浜 浜 方・   

九︑六二〇九  

一〇︑四八〇八  

︑九七〇三  

一三山︑〇八〇山    三︑六七六︑五山○鵬   四︑三一一元︑八六〇㌦  ∵   二四四︑二七〇〃  五一︑六四四︑二九〇  

︵五二三︶  七   

′ヽ  六・一・五∵五  

て九二一三  

二︑九一九〇  

︑九七〇三  

(8)

寄   差   子   

E耳三 ⊂=〉Eヨ ヽヽ ⊂:⊃⊂=〉 ⊂=)⊂⊃  (さこ望 ⊂:⊃⊂⊃ ⊂⊃⊂:⊃  ノ「、七 ノ「、・七ご ヽヽ ⊂:⊃⊂⊃ ⊂= 

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ノ「、五 ヽヽ  ⊂=)五 ヽヽ  

六五  ンくフ王  ノ「、七  二/し′1ゝ   ⊂⊃⊂=〉 ′⊂=)⊂=)  ⊂:⊃ノ「, ⊂=}プt ⊂⊃ヒ○ (:=)⊂⊃    ヽヽ ⊂⊃⊂⊃ 」⊆乙⊆⊇  ブく一日 ヽヽ ⊂=〉⊂⊃ ⊂:⊃⊂⊃  

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ノ ̄\.二:二 ヽヽ  

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ヽ ヽ   

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四こ:ここ.  

ノ ̄ヽ⊂:) ヽヽ  

⊂⊃○  五.ニ=ニ 五プく ヽヽ (:つ(=⊃  二/L】ヒ 二王;乙ご二:ニ く二⊃(二つ ⊂二)く:二)    二=ニナL セプし (つ⊂⊃ (こつし⊃  I乙日・−・ 四五 ヽヽ ⊂⊃⊂:⊃   ⊂二〕⊂二)  C⊃⊂二〉   (▲⊃⊂「   ⊂二)(≡う   

騰考期別表と竿月ニ⊥・十ニ・︼・二・貢迄︑こ期とほ四月・五・六・七・八・九月迄をいうが︑厳密にいえば︑   

二親孟五月十苦から八月末までの雇傭期間であり︑炎夏の激務息lは午睡彼の労働であると答える︒1卜㌦和昭和  

二十七二九五こ︶年駆︑謀日年撃六冥磨肇︒   

註 揖 拙稿﹁塩菜史講座﹂ ︵﹁塩英展望﹂連載の内第四巻第四空   

似 竹内理三﹁寺領荘園の研究﹂三町二頁︒   

粗 大日本塩菜全書∵第三編八︶坂出塩務局坂出出張所之部︒   甘 同上︑第二章﹁塩業玖沿革﹂参看︒    第二十八巻 第六号  ︵五二四︶  八  

(9)

ふ 木浦年代記︵三島神社所蔵︶所収﹃古江浜塩田築造﹄を見ると㌧弘化三年にユ度完成の﹁上ゲ砂﹂があり∵ま左弘化  

五年に古江都督讃始まりとあるのほ︑古江浜塩田築造ほ︑.一度にせられなかったことを意味すると思われる︒㌧また﹁  

深見為之助家格記録﹂にエれば︑これ以前天保十五年︵弘化元年︶より家老など再三検分しているのも見られる︒  

㈲ 堀江保蔵﹁我国近世の専売制度﹂二七四頁︒  

撒 天王寺屋五兵衛は最初の預金手形をつくれる程の傑出せる大阪の簡番屋富商であり︑︵H本経済史辞典︑二二貝︑七七  

二貝︑一山三三頁︑小六八五貢︶殿村平右衡門ほ乳た暮東大阪の甚だ威勢のよい江戸為番手形の創始者である︒︵日本  

疲済史辞典二九〇頁︶更に︑熊野三山貸附所への大口預金者としての殿村平右術は私のつ.とに指摘した所である︒︵拙  

著﹁熊野三山経済史﹂三二八頁・四四六東︶︒  

㈲ 大日本塩菜全容︑第三編︵山八︶第二章参看︒  

潮・㈹ 鬼玉・渡辺共築﹁塩田風土記﹂伊予の巻︵﹁塩﹂第二巻欝四骨所腰︶ 砂  

皿・㈹ 三島神社にて昭和二十八年夏︑見玉・渡辺公社出張所長と共同探査︒  

㈹ 伯方塩業協同組合提供資料︒  

九 伊 予.大 島   

中世伊予国における墟の荘園としてほ︑衆寺領弓削島荘・醍醐寺領大島荘をあげることが出来るが︑大島荘に関  

する史料ほ︑只醍醐寺雑事記長承四年㌫一二月二日の記録あるのみである︒それによると︑伊予国大島荘領家中  

院右大臣推定と見え︑﹁彼‡由来老故土御門右大臣家御領︑大島内甘原方三十丁也云々︒又故従三位藤原朝臣基隆  

為伊予守之瞳︑大島内吉浦方以田吏十町寄進嘗御品田事︑相異甘原田三十丁︑井八十丁為御願寺領又両方各有畠七  

︵l︶ 十六丁云々︒﹂ とあるが︑当荘ほ元来土御門右大臣家領大島内甘原方田三十町であったが︑藤原基隆が伊予の国司  

孟二五︶  九   瀬戸内海における島峡部落塩田の研究  

(10)

第二†八巻第六号 ︵五二六︶6  であった頃︑大鳥内妻︵讐軍町と併射て︑醍警牒と∴ている︒牒掌六町町附嘉てぺ  

大島荘は水田荘園としても︑相当大なるものである︒当荘が塩浜を宿していたことほ︑所当として塩地子三十石が  納められている事虹より知られるであろう︒ 

そうして︑大島津倉にほ本荘なる字も見えるとこ︑ろから︑この他も恐らく荘園内であったであろう︒またその疲  も大島宮窪町・友浦あたりから塩を献上していたと伝えられでいる︒  ここ津倉塩田のある伊予大島の地ほ︑今治市の束北約五キロの地点にあり︑当初ほ農民が移り住み︑次濫漁民が  来て村落を形成したと伝えられているが︑この宮澤辺ほ︑恐らく北側入江の奥は土地が湿潤で居住国難なため︑そ  の上部紅出来た段丘の崖下あたりから逐次部落を形成し︑その後自然と部邑の要求に応じて塩浜が形成され来った  

ものと推測孟る︒近世入浜塩田の要覧賃借磨→潟の考えられる事例も多く︑中世末の友浦地区の塩田も糀  

ながらその存在が計測される︒近世中期町村上弥太郎民所蔵﹁海賊城塞図﹂に津倉と竹原の二塩浜が儲入せられて ︵2︶  

いる事ほ︑当時既に津倉塩田が竹原と共に塩産地として著聞していたものと理解せねばなるまい︒また辛新田の束 \  

部︑仁江の西︑俗称﹁フナト﹂の北方に旧塩田と認められる地帯があり︑更に部落の伝承に︑﹁シバリア︑\\と塩にほ手  だしするな﹂という言葉もある︒これは恐らく︑価格変動の影響を家り易いこの両職樺は余程危険視されたためで  ぁろう︒かくて︑徳川も中期となれば︑辛新田の如き新田がどしどし開拓せられ︑元禄二年に仁江・八幡が開拓︑同六  年に現在の大土手が作られ︑壷新田より名利聖者山大新田の開拓に着手︑同十年完成し︑幸新田村が生誕してい 

■ る︒そうして︑︒れに随伴して塩田も開拓され︑芸芳と津倉島の間牲前堀五浜が毛00急場黒年荒来て︑  

津倉平蒜埋立が完成し︑向堀四浜は王四八年謂盟網に︑後堀四浜は妄ハ八年謂鰭に︑今治薄の事誉し ︵H︶  宅行われていく︒ここで注目すべきは︑淳倉塩田の場合当時大鳥各村ほ郡役人を兼帯せる大庄屋支配下にあり︑か   

(11)

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  ヽヽヽヽ の前堀の届浜・後堀の郡浜など各村の共有塩田形式となり︑殊に郡浜などその性格を現わしている︒この浜︑明治  

九年に漸く個人経営となっでいる︒虻の後こ牒十三浜にたいした変更もなく︑明治十七年の調査に︑塩田十三肝釜  

屋地を含めて二十四町九畝十′山歩とあり︑その今日の面積︑三堀併せて︑二二︑ヤ六四陪であるが︑塩田そのもの  

︵4︶  の地盤その他が伯方辺紅比べ七若干優秀な尭め︑屡々幸港など紅新塩田築造の砥が起きている︒   

次に烏峡部落関係の労働運動史を見るに︑不思儀にこの大島から対岸伊予・備後方面へ採かん労働者を送ってい  

る︒労務関係史料品約せられて︑その稀少の故軋︑充分の考証志げ得ないが︑鱒止浜紅おいて二八二二年完  

従来の︑松山札による労賃支払軋代わる貨幣価値低き今治札による支払を拒否の態度転出たのほ︑恐らく四国島唄側  

の浜子であったと推測される︒その如何な▼る地域出身の浜子が塩業労務者の生活水準引上げの闘士とな・つたかほこ  

こに取上げようとする問題ではないが︑併も浜子階層のうちに﹁津倉島民﹂の多かった史実ほ︑﹃慶蔵むかし噺拾 

適﹄に﹁浜子には今治領津倉島の者多ければとて更に肯ぜす﹂とて波止浜の経営者=労賃支払者側の弁ある事によっ  

へ5︶  て理解されよう︒.このようた︑大局の庶民が浜子として対岸波止浜に出様し︑また更に松永・尾道辺にも塩田労務  

︑ 老として出向く史実は︑採朗労働力掟供の島喚部落として一応注目すべきであろう︒塩業適地として発達した大島  

とその島民の撰職傾向に入浜労務のエキスパートとして︑対岸塩業地に赴てこと自体に一つの近■世的意義があり︑  

またなお揚ケ浜式塩業との対立せる徳川期において︑よく入浜式塩業推進の場をおしすすめた貢献は大いに認めら  

れるべきも︑併も今や塩業近代化の線に沿うて︑てれ等特殊採かん技能者も逐次転職を余儀なくされつつある︒   

いまこの烏喚部落における近代の労働状況を見るに︑経営者側にいわせると︑労賃は実に繭水元上高の四割も占  

めるというが︑労働者側の言い分によれば︑専業労務者としての浜労働ほ散発雇傭的であり︑しかも始終低質銀に  

よる隷属関係を強いられ︑その雇傭契約にほ被雇者の主体性は認められず︑つい近代までほ︑主家の﹁大掃除﹂︒﹁餅  

︵五二七︶ 一一  瀬戸内海における島幌部落嶋田の研究  

(12)

となる︒妄の個有の﹁大工﹂など呼ぶ呼称・は︑隣県の讃岐辺でほ︑﹁棟梁﹂と呼び︑以下副棟梁・下人・蜃持・釜  

焚などといっているが︑これも腑七ここ∵二年も経ては︑消えゆく封建色豊かな呼称である︒  

註 仙 患浦直孝﹁伊予史精義﹂ 山七〇頁︒  

似 伊予桜井町政村上弥太郎氏所蔵絵図︵今治市桜井浜村上聞子氏方︶  

㈲ 矢野弘﹁北乱国の塩田﹂ ︵﹁塩﹂第二巻ヤ骨︶  ひろ  渾倉八幡神職矢野盛恕氏文書︑野間信県民所蔵文書︒大島郷土史研究会﹁津倉塩田成立直上概要﹂ ︵野間氏の懇請によ  

り作れるもの︶  

㈲ かかる墟田造築をほぼむ多くの紛争は漁発権補償問題とからむ点に集約せられる︒直島の場合と殆ど同じであるが︑  

大鳥宰港の二三・五隋の予定干拓はまたいつの日に実規するのか︑今の処予測困難である︒    ・三・四・十∵十二の六カ月が最も低く︑  最高とする仕組となっている︒いまここに︑  を出して見ると次の如く︑   第二十八巻 第六号  ︵五二八︶ ≡  

っき﹂・﹁使走り﹂・﹁冠婚葬祭﹂に使役される﹁奉公人﹂的労務提供者であったという︒いま火正朔からの分明  

せる労賃支払状況を見るに︑その賃細蒜二年を通じて三期に分けられ︑各期毎の賃銀も実に複雑であるが︑∵  

大   工   

差  石炭揚賃 二力斤につき 二︑七〇円   寄 浜 子   二年がしき   初がしき  

︹鷲別頼義菰和翫瑚粕臥翫欝こ   五・六・九・十の四カ月が中位で︑収穫の液も多い真夏の七・八月は  一九二〇.︵大正九︶.年三月十二日の改正質銀によって︑年間平均月額  

目釜たき  

夜釜克き  

江  

(13)

㈲ ﹁﹃慶蔵むかし噺拾遺﹄文政五年﹁石炭日雇頭始る﹂の項参看︒︵﹁慶蔵むかし噺﹂︵史料感︶ほ兄玉編著昭和三十脚年  

中に刊行予定︶︒専売局︵秘︶﹁塩米組織調査効巴三二六頁参看︒  

烏  ︑  剛○︑弓   

︵l︶  中糊転おける弓削烏の製碧就いセほ︑既に二八九基軸﹁伊予弓削庄桑検皆録﹂を見ぎ︑桑官七拾一幕  

の代塩として言七十三籠の塩が注進眉れ七いることが知られる︒また﹁伊予国弓削嶋芸﹂蛸讐竺など見て  

ぐぢらほぅ︵2︶  も︑領家分三分山の鯨方など︑いまだに現在の地名に﹁鯨﹂が島の北端に残り︑更に︑大日本宙文書・月削町古文  

計・同町長談話など綜合する紅︑奮の頃︵覧話応︶の地牒串・女牛・撃牒・鯨・釣浜・寧季  

田林・大串・浜・高浜・三水など告︑現代人鱒全然その所在すら知悉出盛ぬ処︵鯛飯ぼ︶もある牒︑引甥車墓  

はそのまま残り︑女牛ほ明神に︑宙江ほ大田に︑土生ほ俗に船網として︑大串ほ上弓削紅︑浜ほ松原紅︑高浜ほお宮  

に︑いつしか変更されて残っており︑塩田も女牛︵明神︶・堤辺でほ明治初期まで残ったと伝えられる︒高浜神社  

−中隊︵大串︶1引野1明神−堤にいたる島の虜岸は︑あたかも燵灘の荒波をさけた反対側にあり︑遠浅であると  

ころから︑中世から近世にかけても︑揚ケ浜式塩田として残ったものと推測される︒軒世弓削島の塩業に裁ては︑  

私ほ︑すでに﹁塩業史講座﹂にふれねところであるからここ紅は之を略し︑近世のそれを略説して見たい︒   

弓削島ほ昭和二九年正月愛媛県越智郡弓削町として発足したが︑手工竺月の同町役場の統計紅従えは︑人口六  

九三〇人︑戸数二二州︑総面積六五平方粁︑周開九粁︑田十町歩︑山林五三二町︑原野山七町︑宅地二七町︑畠  

二㌻六町である︒このうち山林の五三二町と畠二仙六町ほ注目すべきであろう︒山林ある故聖殿糸燃料にことかか  

ず︑塩業がつとに巾恨より発達したものと考えられ︑畠の二川六町歩ほ往時の揚ケ浜式塩田の転換せるもの︑海水  

平均潮位よりはるか⊥位にある揚ケ浜式なれ腰こそ︑たやすく畠軋変転したものと思われる︒鳥人の言に従えば︑  

︵五二九︶ ∵三   瀬戸内海における島磯部落壕甲の研究  

(14)

軍二十八巻 算六号  ︵五三〇︶ ∵四  

ヽヽ ﹁殺初ほ砂浜へ海水を撒いて製塩するという極めて原始的な方式であったが︑明治初期坪式に変った﹂という︒坪  

式とほ入浜式を指摘する.のであろうが︑方形の入浜式塩田を指してのこの表現は甚だ巧妙というの外ない︒  

︵S︶ いきな   大日本地名辞書転従えば︑弓削烏は﹁生名島︵岩城島の束︶ の束南二鱒里紅在り︑長一里半︑広数町︑人口四千  

弓削村と日ふ︒凍寺文書︑乾空年︵聖︶︑伊予国弓削島荘見ゆ︑此なるべし︑欝巽南傍に在り︒又雷数海里  

の瀾聖二四の島峡あり︑皆弓削村に属す︑共著明なるほ魚島︑高井神島の二とす︒﹂ と見えるが︑かかる孤島に何  

故塩田が発達したか鱒就いては︑山般状勢としてすでに中世初期以来の塩の欲求・その商品化問題を当然顧みなけ  

ればならないが︑島自体の好適条件として︑   

① 遠浅であること   

㊥ 近辺に大河なく︑花崗岩砂闇をもつこと   

⑨ 附近の潮の干満差大であり︑しかも塩分濃きこと  

由 山般に高湿・晴天続きで雨尾すくなく︑燵灘の突風も一二山から狩属地帯の山で支えてくれること  

㊥太田の港もよく︑中国へも近く︵摘課詣.︶すくなくとも﹁中富な塩の商品化﹂へ対応し得告と  

を挙げうると思われる︒近世においては今治薄の塩業対席として若干の保護はうけたものゝ︑何故に弓削塩田ほ崩  

壊したかの問題︑特に明治以後殆ど斯業︑に手だしする意の皆無となった原因を考えて見たい︒それは恐らく︑   

0 すでに近世に入ると︑.生産能率高き﹁入浜式塩田﹂が瀬戸内各地に発達し来り︑到底中世的な拐ケ浜塩田で  

は︑それに対抗出来なくなった事   

㊤ 近世における塩の商業経済に占める地歩は︑著しく大農取引化しており︑採算のとれぬ﹁揚グ浜﹂式塩田の  

塩の生産ほ麗しく不向きとなり来ったこと   

(15)

㊧ 近代に入り︑更に小規模マ言的塩兼でほ︑全く採算のとれなくなって︑塩田が自然に畠地に変れること  

㊥ 島の﹁若い衆﹂は︑外国航魔の船員となって遠く出稼ぎするようになり︑虻の獲得資金を烏へ送金する者が   

唱え︑島に残る塩某労働力給源が著しく寡少となれること  

等を指摘すれほ足りるであろう︒.   

註 山 大日本古文書家わけ十ノ三︑攣一四頁︒  

上︑六〇〇貢絵図参看︒  

触 法田東伍︑大日本地名辞讃二二九八頁︒  

ノ  爵   t一因  

二三三ハ・七年︵如翫栃鞘︶の噴の因島ほ後醍醐天皇・尊氏の争奪の対象となっているが︑いま建武四年︵宗︶十月の  

﹁因島地東方.年貢注文﹂笹よって塩関係を摘記すると︑  

注池澤士寺領  

備後国因畠中重井三浮三庄地頚万年責員数注文事  

合   

中庄分  

二 名々塩   

己上塩菅仔漆拾壱俵弐斗参升参合   

折石伍惜参拾伍石漆斗参升参合   

代銀捌拾五貴漆佃拾漆文 儀別捌能文宛   

瀬戸内海における島楓部落塩田の研究  ︵五三こ 一五   

(16)

蛋井塩田から一五二倍︑これ等を叫俵五斗入石墨に換算して中庄から五三玉石七斗三升三合︑三津庄から二三石  

山斗二升三合︑重井から七六石︑それ等惣討を銀に換算して︑一三三貰二重ハ文が上納されたと考えられる︒恐ら  

く出世紀のこれ等はおしなべて揚ケ浜塩田と考えられるが︑この六百年前の小地区に猶お墓井に入浜式三︑〇三    一−ヽ   †− 一▲ ▲一︼m  − ﹁ ゝ  ︐  ∧  ︶ 八 ▲ h と見えて︑中庄塩田から二〇七山俵二斗一二升三合︑   第二十八巻 第六号  壷井庄分   

二 名々塩  

己上塩︵倍︶伍拾弐俵  

折石漆拾陸石  

代銭拾弐貫情陸拾文  俵別捌拾文宛   

三津底分  

一︑名々塩  

己上塩辟倍螢拾弐俵菅斗弐升参合  

折石弐官弐拾菅石菅斗弐升参合  

代践参拾伍貫参侶漆拾玖文 俵別同前  

とあり︑ごれ等の総計として︑  

惣都合塩寄付陸倍陸拾伍俵泰斗伍升隣合  

惣折石捌倍参拾弐石捌斗伍升六合  

︵磨︶  代銀倍参拾弐貫弐首位拾陸文  

一f︶   俵別同前  ︹摘釧路㌍箭珊机讐  

南の三ノ庄︵三津庄︶塩田から四四二俵山斗二升三合︑北端の   ︹摘緋⁝謂摘︺   ︵五三二︶  二ハ  

(17)

︵2︶  八隅が残り︑中庄に五︑三六五倍が残存していることほ︑恐らくその間に幾多の辛が加えられたであろうけれども︑  

塩浜の連綿性紅山驚せざるを得ない︒   

元来︑因島の如き地形でほ︑その烏の四周紅塩田を点在せしめることが可能であろうが︑一九〇四年調査の﹁塩  

﹁﹁㌧︵H︶ 業全書﹂網棚柚にも﹁囚ノ島塩田ハ島ノ四周モ点在ス島ノ東南湾曲セル拷内ニ.山ケ所東方向島工面ン湾曲セル湾  

︹ハ︶ ︵1こ  内ハ三箇所北方岩千島ノ西南端二面セル箇所二図研画工山覿ヲ隔テ︑二箇所点在ス各背後ニ■高山ヲ負ヒ小瀧二沿ヘ  

ルモノ多シ﹂と説明せるのみであるが︑︵ィ︶ほ三ノ庄︵三津庄︶︑︵ロ︶は中庄山番山︑六〇二桁・二番一︑七三二倍・  

三番二︑⊃三〟暗・討五︑三六五陪の事であり︑・︵ハ︶ほ壷井浜三︑〇三八隋の事であろうが︑︵lこの﹁西二山里ヲ  

︵3︶ 隔テ︑二箇所点在ス﹂ という塩痴ほ今日不明である︒恐らく潰れ浜となったものであろう︒また︑生日﹂島の北方  

﹁高殿島村二牒五七ノ塩田︵入哲アリシカ塩附懸ジャこ依り今ヲ距ル約有年前潰浜トセ リ人口碑︶﹂と塩業全書  

︵4こ  ほ述べている︒内海の島々は︑その開発しうる処︑近世の鳥峡部落属は︑あらゆる努力を傾注して︑産業開発に資  

したものと理解したい︒  

註 闇 尾道市史︑上巻七〇劇︑二貞︒  

必 此の中庄のことであろう︒嘉永五年には石井禎次郎が出頗免許を得て入浜を築堤したが︑二回まで破損︑三回の渦留  

後数年放置せる竺八五九年箪花山野太郎が新たに出願免許を得て山八六山年㍍軌五町五反六歌を開墾したと伝えら  

れる︒︵松浦信翁﹁因島史料﹂︶而して︑此の幕末期の計画ほ恐らく皆入浜式であったと考えられる︒  

畑 昭和二十九年四月﹁日版の専売公社の大冊﹁全国塩田地図﹂にほ見当らない︒  

槻 塩業全書罪四編︵八︶ノ三頁︒  

瀬戸内海における島唄部落墟閏の研究  ︵五三三︶  劇七   

(18)

﹁ 生名島・岩城急  

いきな  生名島地域は予州越智郡些属して︑西南ほ伯方島に接し︑北は芸州生口島︑′備後因ノ為に面しており︑公社の管  

轄ほ広島局瀬戸田の管内であっても︑行政区劉ほ愛媛県内である︒   

生名の塩田は島の中央栄西両側笹あり︑その東部にあるものは因ノ為に面し︑今日の一番浜︵村上知祥︶二番浜  

︵村上博夫︶発々二︑〇二七陪ナ二︑七二四隔であり︑西部虹あるものは︑岩城島塩田と相対し︑南浜㌻町八反二  

畝は最古のものと思えるが︑この外側に中浜・北浜が出来︑今日では三塩戸五︑七三五隋となっている︒この西部  

︵l︶  三塩戸は昨年土砂流入の被害を受け︑恐らく近き将来に全部流下式に改築されるであろう︒生名塩田の総計は九︑  

三二八五臓である︒   

生名の塩田は中世の弓削の如く豊富な史料を炊いているが︑曽ては石清水八幡宮へ初穂塩を献納したという︒な  

お今日でも南浜辺に揚浜塩田の地盤跡と考えられる﹁浜床﹂があり︑文化以前には揚浜も存したという︒入浜塩田  

虹橋築由織を切換えたのは︑二八﹁﹁年報生名村の人治郎左衛門・嘗惣兵衛の両名が松山藩主の許可を得て忠生  

の海面苗四反歩へ突出構築して忠生浜を築いたのを初めとするが︑一八二四年露八月に竣成している︒その後  

ス三二年謁監慈兵衛はここに八反歩を増築一し七︑これを三戸前に分っており︑のちス四四年轍鮒に至って︑  

治郎左衛門のはか良平・直三郎の三名が更に追加∴中浜・北浜とし︶ ∵町七反七畝.二十四歩を増築し︑患鉄浜総討  一っこ  三町九反七畝二十四歩となり︑高米三十九石七斗二列と定められている︒  ヽヽヽヽヽヽヽ   更に生名烏東部深浦塩田は︑一八四二年悌コ軸八月生名の規正村上柳平が惣村経営の方式軋て海面埋立の許可を松  

山藩主よ 

人が経営の資任者としてたったが︑銀主直次郎の資金枯渇し来り︑到底完成の見込なきに至って︑前記柳平は健助    第二十八巻 第六号  ︵五三四︶ 加入  

(19)

・直次郎の両名よりエ専心切を譲受け︑問題は前転tて︑松山藩より資金を借受け︑山八四三年㌘碑十一月工事が  

完成し︑これ聖二戸前に分って製塩を開始したと見られるが︑資金関係では山八四〇年代天保末の深浦塩田は︑蒙  

商資本と藩出資の間を右往左往したかに見える︒その労働力供出は恐らく︑柳平が里正であった関係上有償の惣村  

的作業であったと推測されるが的確な史料は見当らない︑︒その後山八五一年帽勧十月幅員を測定して︑塩田反別三  

町歩高米三十石と定められているが︑恐らくこの規制のま卓二八七六年畑鞘の地租改正の頃迄及んだのであろう︒  

現在は前記の如く︑山番浜・二番浜を合せると︑三︑七五二伯である︒而してこの島周辺の地帯は︑塩業適地とし  

て殆ど週年稼業に適する好条件を倶えている関係⊥︑三八法も実施されることなく︑▼また製塩の販売に就いてほ︑  

勿論問屋を通じて行われたのである︒   

ノ   岩城畠は伯方島の東方こ梅里︑台東製塩の名地として触られ︑大三島と共把近世帆船時代にほ泊港として栄え︑  

岩城には本陣・問屋もあり︑早くから内海商圏の影響下にたち︑農民たる島民も①藩主参銑交替の上下︑②公儀役   

人朱印状持参者の通過︑⑨琉球朝鮮信僚の上下︑︑④難破唐船の長崎回送︑⑤藩士の江戸屋敷並び紅大坂蔵屋敷への  

︵3︶  上下等にほ漕船粗を仰付かっている/︒島の岩城八幡ほ源頼義伊予の国司在任中の創建七社の一といわれ有名である  

が︑又夫木集︑洞院左衡門督の歌軋は︑﹁いよの悔いわきの島ほ我なれや逢ことからき塩のみぞやく﹂どある程で  

二4︶  あるから︑中世既に揚ケ浜的な自然浜の存在も推測される︒近世岩城島はまた元禄二手保の頃より塩浜が栄えたと  

思われ︑遥⊥銀も徹せられている︒即ち︑   

﹃一︑二貫首四十八匁先年塩浜御運上銀同釜銀共御定銀代米六十五億二斗四升但レ二俵二付一一手革匁二御究  

御免四分二児三毛五但﹂屠⇒毛五御引被下四分本免へ御加へ右者事保四亥年ヨリ七年酉歳地坪ノ節御代官  

新海助右衝門様御勤中御免テ御加へ  

瀬戸内海における島鴫部落堀田の研究  ︵五三五︶ 一九   

(20)

一︑貫三十四匁塩浜御運上銀元禄六酉年ヨリ御免四分二被仰付銀納御免﹄  

︵5︶ など越智島旧記に見える︒岩城島ほ山九〇〇年代の初期人口四〇〇〇人︑その後半世紀を経た昭和二十七年の人口  

四二〇二人であるから五〇年間に僅か二〇二人増えた訳である︒現在島の東側生名村に面して北浜一︑八一二胎︑  

中浜一︑八六五隋︑南 二六三二階︑討五︑三〇八隔の入浜式塩田があり︑瀬戸田塩某紙合に所属している︒   

註 仙 塩田ほ古きが故に不慮とほいいきれぬ︒只年代を経過するにつれ∵新規嶋田は海中へ出ほっていくから︑自然古生塩  

田は海水浸透の悪くなることもある′︒今︑生名浜について過去五カ年問︵昭和二四こ皿こハ・七・八年間︶ の平均採  

かん崖を見て︑その優劣順位をつけると︑ポーメナ七度に換辞して︑  

となる︒人資料︑瀬戸田塩業瓶合村上餞夫氏授供︶  

② 大日本塩業全書︑第三福㈹尾道塩務局瀬戸田出張所の部  

闇 ま田東伍︑大日本地名辞書︑第二巻︑一二九八頁︒藤原道一﹁伊予越智鳩十七力村の地坪と農民生活﹂ ︵魚遼惣五郎  

﹁瀬戸内海地域の社会史的研究﹂所収二二三頁︒︶  

㈲平凡社﹁大百科事典﹂第劃巻︑山〇四八頁︒  

制 伊予史談会﹁越智島旧記抜琴﹂二八頁︒  

ニ生口島・鷺  島 ︵佐木島︶  

生口島区域は瀬戸内海に散布せる群島の中穴ともいえるが︑公社の管轄は瀬戸田の郡内にある︒いま周防大鳥小松村  

とある欠園部氏文書によると︑安芸・備後の塩浜を概観して︑文政頃の両国に︑松永四十仙軒︑肥浜八軒︑小肥    第二十八巻 第六号  ︵五三六︶ 二〇  

(21)

浜二軒︑天女浜十一軒︑山波壱軒︑富浜二七軒︑吉和浜三三軒︑三石小浜九賛辞留浜二軒︑瀬戸田三六軒︑只海  五軒︑書名二軒︑木谷四軒︑乃黄三軒︑仁方十二軒︑海老十軒︑竹原七二軒︑〆弐官七拾八軒ふり︑その合計誤っ  て二空ハ拾八軒と書かれているが︑何れ琶ても︑二百数十軒の塩浜が幕末に簸業を営んでい芸けであり︑こ秒  

噴既に瀬戸田竺三ハ軒の塩浜があったことほ注目すべきことであろう︒  ハ五六年の小浜・元 近世の生口島・驚畠辺では︑二ハ三八年増毛細以前の北生口村鹿田原の二軒浜︑或は二諸〆  浜などは︑その形式は揚ケ浜・入浜何れとも断定し得ない︒その開発者も亦不明である︒恐らく︑二ハ七二年鴎択  

︵l︶ 頃迄に開墾されたこれ等の島の塩田ほなお揚浜式であったと思われ︑それはまた︑島塩業の後進性を物語る副つ■の  

証左と私は考えている︒而して︑恐らく小六七〇年捕咄代以後の両生口村御寺の元締浜︵三原屋定右衛門︶開発の  噴から入浜への転換期であったと思われるが︑それも次の延宝から天和︑更に元禄にかけての︑かゝる島喚部落塩  

田の幼稚な入浜式築埋技術が推測される︒二ハ八九年詣の表浜︵得能書九郎︶・壱三年謁の潰浜成立以後  

︑︵2︶ 天保初期にかけて︑生口畠では新規塩田の開発ほ這停頓状態となるが︑いま︑山八二九年㌘瑚の調査によると︑  

生口島︒鷺島では︑三十七箇所の塩田が見られ︑この三十七塩戸の寛政六年頃から文政二年にいたる毎年の両島の  道上銀総額ほ︑鋲十貰七百七拾匁づゝであったと計算され︑この金額ほ寛整ハ年願出の十箇年分平均道上額を見て  

定めたものと考えられる︒   鷺島の場合︑島の西南︑向田之浦地帯の塩田ほ宙く十七世紀の中頃に辛がつけられ︑小浜・元〆浜は一六五六年  

諸に開拓され︑つ♪で潰浜ほ一七=ニ年詣に開墾されている︒天保時代に入って︑一八三二年蒜正月から滴ニ  カ年の歳月を要して︑此処の扇浜七塩戸が成立する︒この扇浜ほ庄屋西原庄蔵が苦心惨憤の末︑築造したと伝えら  

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 1 1 1 1 1 1  1 1 1 1 1   ︑1 1 1 1 1 1 1︑︑︑︑︑︑  ︑︑︑︑︑︑ れかが︑技術史的に特殊な二範型をなすものとして注目したい︒此処ほ上ノ浜塩田と和霊石島を︑いわば塩田に  

瀬戸内海紅おける島喚部落塩田の研究  ︵五三七︶ 二一   

(22)

第二十八巻第六号  孟三八︶ 二二  

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑  1 1 1 1 1 1 1 1 〜 1 1 ︑︑ 1 1   1 1 1 ヽ 1 ヽ 1 ヽ ■ヽ ヽ ヽ   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ  よって接合したものであるが︑この両島の海面距離南部約三百聞︑北部約二百六十問であh∵︑水深干潮時に於てす   

ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ   ヽ ヽ   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ら五首石積以下の船舶が自由に通過出来る箇所を埋立て︑築曜・塩田化したものである︒元禄末の多嘗浜塩田築造  

に深尾権太夫が垣生・黒鳥をつなぐ雄図紅失放せるに鑑み︑彼はよく百難を排して天保五年正月成功したのであ  

る・︒深尾権太夫の失敗した叫七〇〇年代の初期と︑西原庄蔵の成功した一八三〇年代との問には︑入浜堀田構築技  

術の進歩もさることながら︑後者天保時代に於ける庄屋資本とその経営活動がこの危険負甜一の高き塩田開発という  

按機事業に集中し︑しかも巧みに庶民労働力を駆使して︑急潮の汐留土事に凱歌をあげさせたことは︑只讃歎の外  

ほない︒現在この小地峡にほ︑以上の七浜の外に凍側の北浜二先師浜を併せて︑一五︑八二二隔が開拓され︑向田  

浜と呼び烏の北端佐木浜に三︑四三七隔︑発端須之上浜に三︑二三五隔があって︑何れも尾道墟業組合に所属して  

いる︒懸島・生口辺の燃料に就いてほ︑すでに寛政末山八〇〇年頃を域として︑石炭と新玉分・五分の使用が初ま  

っているが︑勿論それ以前から石炭ほこの為に入っていたであろう︒併し︑農作物と荊を商品とし︑此等の売却に  

ょって︑その貨幣収入を得ている農民の側からすれば︑この石炭の塞塩煎糸界への進出を好まず︑石炭の喋煙が慶 

作物・人畜に害を及ばすとの理由でその使用に反対し続ける︒併し塩業者の側からすれほ︑石炭の廉価なる紅拘ら  

ず︑みすみす高価な新を使用しては収支償わないため︑番殖に訴えてその仲裁をもち込み︑;二〇年︵㌶︶より  

新二分五揮・石炭七分五犀の使用が決定される︒ところが芸州滞ほこれに眼をつけその代償を求めたのであろう  

︵㍑こ か︑急に州浜につき劇カ年銀二百目宛を新道上銀とし︑実に一八七五年儲頃迄徴収している︒   

いま生口島・鷺為に於ける各塩田の成立一覧表を作成すると次切如くである︒  

−■■−−■−−●−−■−●■■●■■■●−■●−−■−−■■︳︳︳■■■■=■︳●︳■■一●●■■■■■■︳︳■■l■︳■l︳ll︳l■︳■■■l︳■■■  生 中島・鷺島各塩▼田成立 l 覧義  

■l■■t−■■−●■−■■−−−■■−−−−tI−■■−■−■一−−一■■■−−一一−●−■t●■▲■■l■■︳¶l一■ll■■■一■llll一l■■■▲   

(23)

瀬 名 商 鷺 北  

鷺   

鷺  

南  

東   

南   

東   

東   

南   

同   

同   同  

瀬戸内海における島幌部落塩田の研究  

生 生 生 生 生 生 生   戸    生   生  

浦 浦   荷   浦   口 ロ ロ ロ ロ ロ ロ   田   口   村 村 村 村村 村率、j 村 雨 町 村 村 村  

村 境  

向田之浦  

魔【大  

沢  向田之浦   

向田之浦   

御  御 同 岡 垣 原 原 白 洲 原  

寺  原江  

寺   原   

十 竹 亀 前 春 梅 松 扇 漬 岬 九 元元/j\  

社 明   日 神    浜 浜   

十 ¶ 番浜  

日   番  締締  

番  

浜 浜 浜 浜 浜 浜 浜 浜 浜 浜 軒、浜浜浜鮮  

二ハ三八   

山六五六  

一六七〇  

一志七二宍五  

山⁚︑人−小   

山六八九   

r一七二   

山八三四   

∵八三八   

山八四仙   

山八四六   

山八七二  

一八七四   

づ八七四  

山八七四  

一八七四   

血八八r   寛永十五年以前  明 磨・ 年  寛文 十 年  延宝五年・天和  三年・元禄八年  元 禄 二︑年  天 保 五 年  天 保 九 年  天保十二年  弘 化 三 年  明 治 五 年  明 治 七 年  明 治 七 年  明 治 七 年  明 治 七 年  明治十四年   

明治十七年   正 梧 三  

東生口村字原  

南 生 ロ︑村   

︵五三九︶ 二三   南 壁 口 和   凍 珪 口 村   田 熊 村   墾  者  氏  名  

不   

不  定 右 衛   

不  得能書九郎  

詳  不  

西  不  

不   

安  完   定 吉  

橋岡佐太郎  

楕岡佐太郎  

中川喜代蔵  

右  同  人  

浜田老兵術  

西河小右衛門   

原   二を   正   英 詳.辞 意  

(24)

かくて生口島の塩業は︑鳥喚部落鳩巣としてほ︑南北沿岸軋意外にひろき填田を擁し︑その北部城田地帯ほ西北  端一番二︑三九隋より始まり︑発端一元番二︑四二泊まで封五四︑〇八三陪を有し︑更に東南部塩田地帯の明神浜  山︑七六一階から春日浜一︑四劇四陪までを含めて︑山八︑四五山伯もあり︑此等生じ島全島の総計は︑昭和二九年  四月げ現在公社地図でほ七二︑五三四隋の多きに及んでいる︒しかも︑これ等ほ多く近世後期以後から開発され︑  

その後たいした変動もなき面警あって︑警その販路ほ関東提有名な瀬戸由揺すなって︑化政時代︵㌫議︶  には随分江戸へ積送されている︒いま坂出鎌田文書に従えほ︑次の如き注目すべき文書が見える︒積送船は讃州引  

︵4︶ 田の久米屋久左街門等久米や山統の船が多く︑﹃売塩判鑑並仕切状目録﹄によると︑   豊  浦  村   第二十八巻 第六号  

右者讃州引田久米屋久左衛門殿船わ塩粘液王由.叩紛無  

御座候いよ  

芸川瀬戸田塩問屋   文政十左  甲 塩 判 鑑  手六月廿日  瀬戸田弐ツ  二分ク俵塩三千俵  

俵焼印  

内札入  

俵焼印   向田之浦  

何¶  

−   .︑一  山懐炉潤一   ㊧   須 上 浜  一八八九治二十二年  

.1  −   

御仲買店中  

仕  

〟瀬戸分塩千九百弐拾俄  

雨二廿三俵酋代金八吟蓋聖分拾三匁七分  

内   

㌻空電嘩菅歩八匁四分八尾 口銭   

二〆七百八括八又  控下賃    ︵五四〇︶ 二四  

増屋彦右衛門判   山下精太郎  

(25)

此金弐歩四匁四分七臨 六六割  

〆金管両三歩拾弐匁九分五厘  残金八拾菅両弐歩七分五屈  

右之通代金叙不残相彼此衣無出入相済申候 已上  

などの数通が見られる︒   

註 廿・㈲・櫛 大日本塩業全書︑第四編∴八︶参肴  

甘 坂出市銀田共済会所蔵文書  

伊予大三島には東部に盛口塩田があり︑明治三十八年塩専売制実施前の亥谷・好味の廟塩田は共に入浜式構  築であるが︑両塩田併葦八︑八四三九町歩あり︑昭和二九年由月一日現在地図によると︑なお義浜二︑ニ五  八帖︑二番浜二︑〇三九隋︑三番浜山︑九三三栢一四番浜二︑二二六櫓︑討八︑四五六階上して残っている︒これ  

ほ瀬戸田塩業組合所属に残り︑更に荒にほ岡山塩業組合︵郡柿︶所属の入浜式口総蟻田四浜罰八︑四四四陪︑雲  

塩田五浜計九︑九五這がある︒ここでほ︵ィ︶ロ総嶋田と︵ロ︶宗方墟団の成立に就いて述べたい︒  

︵イ︶ ロ 総 塩 田   口総塩田八︑四四四暗の内訳は︑沖より壷浜二︑岩○暗︑二番浜二︑〇七三恰︑三番浜二︑云三伯︑四番  浜二︑〇九八伯の順序であるがヾ ﹃三嶋新地町旧記﹄に従うと︑既に寛政咋代町年寄刀屋栄典術は頁租取立の町方  負坦軽減を思いたち新田の自力閲作覧りだすが︑口絵の場合塩田の開発はこの新田開発に従たるものとして生起  

︵l︺ したようである︒元来塩田の開発にほかかる副産物的の場合が多い︒  

瀬戸内海における島崎部落墟閻の研究   三  一四 大  島   子七月  

久米や久左衛門殿  

︵五四こ 二五    口  清  次  

参照

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〔付記〕

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

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目について︑一九九四年︱二月二 0

その認定を覆するに足りる蓋然性のある証拠」(要旨、いわゆる白鳥決定、最決昭五 0•

従って,今後設計する機器等については,JSME 規格に限定するものではなく,日本産業 規格(JIS)等の国内外の民間規格に適合した工業用品の採用,或いは American

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