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『ラッキー・ジム」の倫理的構造
井 出 弘 之
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T.L.S.の最近の或号は新刊の二つのイギリス小説,『A』と『B』を評して次の如き 記事を載せている。
主人公が大して素晴らしいとも思わない仕事に就く,窓口のタイピストに色目を使 う,能のないくせに背をそびやかす職場の先輩達一ここ十年間にこんなテーマをめぐ って書かれた小説の数は大変多い。そしてその大部分はサティリカルなスタイルで書か れている。このサタイアは 人生についての優れた考え を秘めているとは夢々言い難 く,むしろ逆だと言った方がよいので,これらの小説の原型の直接目指すところはと言 えば,一旦彼等を苦しめている暴虐から解放されれば,彼等の嫌っている,道化の傍役 達の目指すところと何ら変りなくつまらないものだ。『ラッキー・ジム』から『A』の ヒーローに至る迄こういった向きがあるのは明らかであって,ヒーロー達の置かれてい る境遇から多くの笑いが生れているのは確かだが,余りのシニシズムは遂には我々の胃 を悪くする。。…・・『B』の素晴らしい点は彼が抑圧されていないということだ。彼は自 分の生き方を最後には押通す。ラッキー・ジムの従弟達は自分等のファンタジーを声高 らかに唱えていやな現状に注目を集めるようにした方が良かろうと思われる。そうすれ ばこの特異な型のぶぎっちょなヒューマーは失くなり,英国小説はより輝かしい敬虚な 時期に入れるように思う。(1963年7月12日付)
間もなくキングスレイ・エイミス(KingsleyAmis)が『ラッキー・ジム』(LzIchyJ", 1954年1月初版)を世に出して十年になろうとする時,イギリス小説の或る流れは「怒りの 十年」の渦潮(いや泥沼と言った方がよいかも知れない)から抜け出せないでいるのか。
所謂く怒れる若者達>(AngryYoungMen)は1945年から1951年にかけての労働党政 権下でなされた,そしてそれ以後も引き続いて保守政権下でなされている或種の社会主義 化の結果出来上ってゆくく福祉国家>(TheWelfareState)が不満足なのに怒って,
あらゆるく既成制度>(TheEstablishment)の破壊をうたった文学を創ったと言われ る。ぼく等の前進的な姿勢の動機の重要な部分を怒りが占め,そして新たな創造は旧き偶 像の破壊を前提とするものであるとすれば, 怒れる若者達 とは何と鐡惑的な呼称であ ろう。だが一方で彼等は破壊しようとするだけで,創造する姿勢が無いと言われている。
先程のT、L.S.の表現を使うと,彼等は破壊してしまった後は,彼等が嫌っている偶像に
なり替って澄まし込んでいる。A.Y.M.には新しくて広い社会的視野が無いのだ。単に社
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会的視野ばかりではない。ポナミ・ドブレ(BonamyDobree)は「現代のヒーロー達 は旧い価値体系すら否定している。それは全くいかさまだと言うので。と言っても彼等に は替りに持ち出すべきポジティブな価値体系が無いので,彼等は無人の国に居る訳であっ て,時々何か口をいれることはあっても実はそれを大変楽しんでいるのだ。」 )と嘆いて
いる。
さて,以上の様な評言が『ラッキー・ジム』論のGauthorizedversion'2)といったと ころであろう。と言っても,ぼくは本論で大見得を切る気は更々ない。と言うのは,ぼ くら自身の価値観だって社会観だって,実存主義をかじってみても仲々定まらず,これとい ったコミットメントが出来なくて日夜挫折感に悩まされているのが正直なところ現状では あるまいか。ただ倫理的な高みを模索しているのは確かだが。エイミスの小説はG・funny novelfとジェイムズ・ギンディン(JamesGindin)が名付けている通り3),"COmiC novel''としての面を強調しないのは片手落ちであろうが,本論ではその根底に彼のどん な倫理構造があるのか,『ラッキー・ジム』という小説で彼が何を言いたかったかをエイ ミス自身の言葉で考えてみる積りである。更に,エミイスが要求している小説の読み方で,
つまり,「社会学のパンフレットとしてではなくて小説として」4)読みたいと思う。
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エイミスの小説は皆難解な題,言い方をかえると全く俗っぽい題がつけられているのだ が,『ラッキー・ジム』の主人公ジェイムズ・ディクソン(JamesDixOn)は一体どう
してラッキーなのであろうか。ディクソンは或る地方大学の講師になってこの秋で一年に なろうとする独身青年であって,物わかりの悪い主任教授ウェルチ(Welch)のもとで気 取ったパーティに出席させられたり,私用を言いつけられたりしているが,赴任以来へま ばかりしていて覚えが悪い。もうそろそろ試傭期間の一年が終りに近く,本採用になるに は今のうちに論文を活字にしたり講演会でしゃべったりして業績をあげ,「学科内での立 場を良くし」(p.198)ておかねばならない。彼はマーガレット(Margaret)という同僚 と友情関係とも恋愛関係ともつかないうやむやな仲から抜け切れないでいる。ウェルチ教 授にはバートランド(Bertrand)という息子がロンドンにいるが,それが芸術家気取り でジムには気に入らない。長いこと期をねらっているが,とうとう彼をなぐりつけてその 恋人クリスティーヌ(Christine)を分取り,論文も講演も上手くゆかず主任教授より追 出される。折よくバートランドが取入ろうとしていたクリスティーヌの叔父ゴアーアーカ ット(Gore‑Urquhart)よりロンドンに収入のよい職を提供されて,又マーガレットと も手を切って,クリスティーヌと手を携えて町を離れる。かくしてジムは新しい良い仕事 と美しし、恋人を得ることになるのであるが,彼がラッキーだとはどういうことなのか。そ してラッキーだからどうだとエイミスは言うのであろうか。
"lucky"と言うからには運よく偶然に,自分が意識していたにせよいなかったにせよ
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107う時,前者がマーガレットと手を切って来たのと後者がバートラントと手を切って来たの が一致するのだ。物語の途中でも幾多の「魔術」が行われる。6)「安易なオプティミズム」
でないためには,彼の行動とその対象との間にレレヴァンスが無くてはならない。
T.L.S.の普評が「暴虐から解放されれば彼等が嫌っていた道化の傍役達の目ざすと ころと何ら変りなく……」と言った時,その筆者は「暴虐」をいかにとらえていたか,主 人公の行動と対象が具体的に何であったかを知るために考えてみよう。田舎大学という一 つの"Establishment''に対して彼の不満,或は怒りはそのどんな点に向けられていた
のか。
ウエルチ教授を「これ程教授と呼ばれることを軍んずる人はイギリス広しと言えども居 まい」(p.7)とか,こんな奴が研究業績も教え方も取得がないのにRごうし・て歴史学の教 授になれたのか」(p.8)とか批判する。教授はお茶によぶと言った約束を勝手に忘れる し(p.12),人の話をろくすっぽ聞いてはいない。(p、13)図書館の中ですまぬが君図書館 に行ってくれと言うのでおかしいと思っていると,それが町の図書館だったことが判る。
「このことは彼には明白なことだったから,従って混乱を引起そうとは考えていなかった のだ」(p.178)とジムは彼のエゴイスティックな物の考え方を批判することはする。しか し心の中で途轍もない暴力シーンを演ずることはあっても,「自分の将来に決定力を持っ ていることを忘れてはならないと自分に言いきかせ」来学期の留職が可能になる迄は「ウ ェルチが自分を好きになってくれる様しむけねば」(p.8)と考えている。ここでジムの態 度が可成り保守的であることにぼくらは気をとめておこう。
彼の息子バートランドは,教授より更にジムをいらいらさせる。彼は「いい奴らしく見 せかける」偽善者であるし(p、143),うそつきだし7),キャロルと密通している(Ch.5)。
ただそれだけでなく,そしてジムの恋仇であるばかりか,彼はクリスティーヌを利用して ゴアーアーカットに近づき,近々空くという秘書の地位を手に入れようとしている。バー
トランドに対して腹立たしいのはその策略である。策略に対しては彼は我慢出来ない。
成程この小説の中にもく福祉国家><既成制度>に対する批判は出て来る。しかしその 矛盾や不合理はぶつぶつこぼしながら彼はその社会に順応出来るのだ◎出来ないのはその 中に巣喰う陰謀であり背信行為なのだ。背信行為の主はバートランドばかりでなくウェル チもそれに加担していたことが物語の終り近くになって判明する。ゴアーアーカットは
「ウェルチが一度ならず釣上げようとして果さなかった魚」(p.47)だったのだ。(ウェ
ルチが魚釣り'帽をいつもかぶっているのは偶然の符合であろうか。)性こりもなく今度も
バートランドとクリステイーヌとの関係で「後からこそこそ操ってい」たのだ。(p.254)
更にジヨウンズはジムの私生活のあれこれをウェルチに告げ口していたし,ケイトンはジ
ムの論文を自分の雑誌にのせると約束しておいて自分の名で印刷してアルゼンチンに逃避
行するという卑劣な手を使った。9)又マーガレットはキャッチポウル(Catchpole)に捨
てられたと偽ってジムの関心を買おうとしていたことが判明した。つまり,ジムが大学
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を追放されたという事実から見ると彼は敗北者であるが,実際はそのエスタブリッシュメ ントに巣喰う陰謀・背信行為に感づきそれを破壊したことになるのだ。−ウェルチ親子 はゴアーアーカットを永久に「釣上げ」ることが出来ないし,ジヨウンズの書類はストー ヴにくくてしまったし,マーガレットは二人の男と関係が持てなくなったのだ。ジムの
「行動」とは,背信という「対象」に職を賭して敢然と立向うことであったのだ。
背信への怒りという一つの物語の型は『ラッキー・ジム』に続く他の三つの小説にもあ てはまる。『あの煮え切らない感じ』(T"#U"cgγ鰄施FFec""g,1958)ではアバダーシー (Aberdarcy)市立図書館の貸出係に勤めるジョン・ルイス(JohnLewis)が或日本を 借りに来たエリザベス・グラフィッドーウィリアムズ(ElizabethGruffydd‑Williams)
という市会議員夫人と知り遇う。彼等の仲は少しずつ深くなってゆくのだが,丁度その頃 に副図書館長の椅子が空席になり,電話料さえ払えない彼は生活を少しでも良くしようと 応募する。エリザベスは主人の社会的立場を利用させてもらってジョンが採用されるよう に裏面工作を計るが,ジョンはその陰謀のお蔭で採用が決定したことを知ると,同僚でも っと生活が苦しいアイヴァン・ジェンキンズ(IevanJenkins)に地位を譲ってエリザベ スを捨て,郷里の炭坑のオフィスに就職すべく町を離れてゆく。ここでは地下工作とい う,他の応募者達にとっては背信行為が,「市」というエスタブリッシュメントの内部で こそこそと行われ,主人公はそれを破壊して町を去るという果敢な男として描かれる。物 語の型は前作と殆んど同じだと言ってよい。第三・第四作はテーマが変ってくるので大き な構造にこの型が使ってある訳ではないが散見される。例えば,『ここがいいや』では先に
‑‑述べた通り主人公がポルトガルに旅行するので,その目的の一つは金もうけにもなるので 出版社の友達に頼まれたウルフスタン・ストレザー(WulfstanStrether)という作家の 身元の秘密探偵であって,結局彼は歴とした証拠をつかむことは出来ない。彼自身「スパ イをするということは余り好きでない」(p.19)し,"shamdetectinglark''とその友 人がよぶポウエン夫人は主人がスパイしているのに気付いて「あなたはもう少しインテグ リティがあると思ったわ。あなたは私がインテグリティのことを口にすると笑うけれど」
と言う。スパイは一種の背信行為と見なされている。第四作『君のようなこが好き』(TT""g AG"IL"eYb",1960)では主人公パトリツク・スタンデイツチ(PatrickStandich)
の醜聞を摺造することで自分の過ちの責任を転嫁しようとするホレス・チャールトン (HoraceCharlton)という男が悪玉として登場する。
前にぼく等はこの物語を旧き世界への挽歌とも,夢を与えるファンタジーとも見た。或 はぼく等は次の様にも見られまいか。今迄金持に「責任感」のなかった為に「恥辱と破滅」
が起り,それを救う策としてく福祉国家>が生れたのだ。多くの若者達はその為に夢から
遠ざけられても安サラリーに甘んじているのだ。それなのに今だに「責任感」がなく背信
を犯す奴等がいる。お蔭でく福祉国家>はますます強化され,ぼく等の夢は更に狭められ
るではないか,とエイミスは怒っているのだ。こう考えるとエイミスのく怒り>の底辺に
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はく信頼>という徳が厳として存在していることになる。
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ぼ く 等 は こ の 小 説 を い く つ か の 型 で と ら え る こ と に よ っ て 作 者 が 何 を 言 わ ん と し て い る かを探って行こうとすることを試みて,<幸福>を求めようという個人的倫理とく信頼>
を求めようとする社会的倫理がそこにあることが判った。F.R.カール(F.R.Karl)がこの 小説を評して,ジムの反逆精神は「エゴイズムの表出」であり,彼は「社会の為に反逆し ているのではない」 0)と言う時,彼はエイミスの社会的倫理を見過していたのではない だろうか。エイミスの念頭には絶えず「大学の社会的な役割」(p、28)があり,先に述べ た様に金持の現代社会に果す「役割」があるのだ。だが個人の倫理への欲求が,地位をい つ追い出されるかも知れないという「恐怖」によって抑圧されている限りは社会的倫理も
確立されない。
反逆を起す前のジムはあらゆるものを嫌悪していたので,同宿の保険屋ウィリアム・ア トキンソン(WilliamAtkinson)が「目につくものは何でも嫌い,しかもその気持を 慣習によって骨抜きにされない」(p.34)のを尊敬している。「一番きらいなものをぼく らは皆専門にしている」(p、33)と思う程だ。嫌悪が骨抜きにされるとく道徳的無感覚>
("moralapathy'')になるので,これは『あの煮え切らない感じ』のタイトルの意味 しているところだ。ジムはキャロルから「倫理的義務」の御宣託を受けて自分の欲求の抑 圧を除こうとする勇気が起ってからは,マーガレットと一諸に居る時,今迄の自分の「役 割」が「自分以外の何ものかによって指示され」ており,「自分が言ったりしたりするこ とが自分の側の意志から起ったものでもなく,立場の感覚とでも言うべきものに起された ものであったことを今迄より以上に感ずる」(p.190)ようになる。だがクリスチーヌと一 諾に居る時の彼は違うのだ。−「彼は今自分の役割を充分に果すことが出来ている。他 の役割と同じ様に長く果せば果すだけ次々にそれを果せるチャンスが来やすくなる。した いことをするのはほんの練習,ほんの準備なので,これからはしたいことがどんどん出来
るようになるのだ。」(p、149)
ところでその様な倫理体系を支えてくれる社会形態と価値体系はどんなものであろう か。例えばフィールディングのく慈愛>だとか,リチヤードソンのく慎慮>といった倫理 概念は各々が理想とする社会形態の中で各々解釈はちがってもクリスチヤニティという一 種の価値体系の上にのせられて初めて完全に理解されるように。エイミスの理想社会につ いては前節で臆測をたてたが,もっと大きな示唆を与えてくれる個処を下にあげよう。第 22章で酔払って果せないCGMerrieEngland''と題する講演の末部が第20章の冒頭に草稿
としてあげてある。
……誰もが毎日一つの決心を新たにして作りつけの規格を押しつけられないように頑
張ることが出来る筈であります。みっともない新式家具や什器を非難し,見かけ倒しの
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リスが女の子だから」であり,「二番目に魅力ある子と魅力のない子とを分ける線の前者 の側にいるから」なのである。(p、9)『ラッキー・ジム』においてジムはクリスティー ヌは初め「私のクラスとは少し違う」(p"126)ので手が出せないと思うのだが,「人類 を大分してぼくがすぎな人達とそうでない人達の二つの大きなクラス」(p.146)という 線は動かせない。人類を二分する区分線は社会的,或は経済的なものではなくて,直観
的(instinctive)なものなのだ。
彼はGcnice''だとか"good''だとかG$luck''だとかという直観的な判断の言葉をあた かも無意識であるかのように無造作に使う。本当は少し無理して使っているのだ。ジムは 言う。「何でもこれは運が良かったんだとすることは,存在しないもの或は価値のないも のとして抹殺することにはならないのだ。クリスティーヌはマーガレットよりずっときれ いで良いことだ。事実から引き出せることは何でも引出した方がよい。良いものはいやな
● ● ● ● ● ● ● ●ものより良いのだ。」(p.248.傍点筆者)又別のところでは次の様に言う。「何が欲しいの
● ● ● ● ● ● ● ●
かわかった。…… 欲するものを取りて而る後に代価を払え というのに 欲せざるもの をとりて代価を払うよりよし と附け加えた方が良い。良いものはいやなものより良い,
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●という彼の説を支えてくれる議論が又見つかった。」(p.143.傍点筆者)これは直観的判断に 基いて行動を起す姿勢である。『あの煮え切らない感じ』の主人公に来客が「良い(nice) 本がございまして」と言うので一冊のロマンスを取出す。客はしつこくその本について尋
ねたあげく「ムー,良い(good)本ですか」エイミスはその次をこう書いている。一
「借出しの客が尋ねる質問のうちでぼくはこいつが一番好きだ。そこで……ぼくはぼくの 好きな答え方をした。一お気に入ると思います一」(p.23)ジムが盛んに論理を組み たてて庇理屈をこねまわすのはこの直観的判断を浮き彫りにする為だ。「理屈がちゃんと つけられることは,つまり,クリスティーヌが運よく良いこであることだ。」(p.208)
以上見て来た通り,『ラッキー・ジム』に描かれているのは無責任な破壊と安易なオポ チュニズムの世界ではない。底には真面目なそして真剣な倫理への志向がうかがわれる。
幸福という個人的な徳目と,信頼という社会的な徳目。直観的ないしは本能的,くだいて 言うと人間なら誰でも持っている,いわば地の判断力とでも言うべきものによる価値判 断。そのような徳目と判断によって生活を営むことが出来る理想社会を,エイミスは古き 良き時代に求めている。この小説の倫理それ自体はどちらかと言うと保守的であり,進歩 的だとは言えないけれども,現代の倫理的無気力をいわば根本からダイナシックに揺すぶ って目を党させてくれる働きを持っている。物語りがリアリスティックな観察の上に立て られたファンタジーだということは,それを大いに助けぼくらに幸福の期待を与えてくれ
る。
(1963年10月)
1)S""ggR""《ノ,(Vol.LXV,No.2),$NoMan'sLand・
2)L""("ESSuMyS(1956),p.27.でDavidDaichesが従来のS・リチヤードソン論についてこ
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う批判している。
Pos#z"αγBγ鰯s"FVb伽",1962.
Ezcoz@"メ〃(Vol.XV,No.I),:LoneVoices.'
Z"C紗ノ",p、181;T加j""ceγオα加凡g""g,p、164.参照。
例えば,図書館で不思議な程すらすらと仕事が渉つたりする。(p.175)
p.41の記述とpp.100〜101の記述を比較されたい。大学の制度批判(p、175);WelchのtheWelfareState観(p.180);etc.
Z膨陀eaG"IL"eYM,p.140にも出てくる。余程彼の裏切りがこたえたところを見ると身近
に起った事件か?AR"d"'sG@"de加肋gCo"fe"ゆ0ノwyE"g"s〃Nb"gJ(1963),p.228.
m 〃 オ " 7 @ C " j I Z i Z F g g " " g , p p . 1 0 4 , 1 0 7 . 参 照 。
TextsはZMezG"ノ乙伽Yb〃(Penguin)を除いて後三冊の小説は皆Gollancz版を使用。
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