今村昌平を問い直す:空間とジェンダーの政治学に 見る女性たち
著者 ファン ギュンミン
発行年 2018‑05‑14
その他のタイトル Reexamining Gender Politics and Spatial
Representations of Women in Films of Imamura Shohei
学位授与機関 明治学院大学
学位授与番号 32683甲第43号
URL http://hdl.handle.net/10723/00003346
ファン ギュンミン 博士学位(課程博士)審査報告
2018年1月10日 審査委員長 斉藤綾子
表記の博士学位審査請求に関し、審査委員会による論文審査と協議の結果、全員一致で合格 と判定しましたので、ここにご報告いたします。
・請求者氏名 ファン ギュンミン
・論文題目 今村昌平を問い直す:空間とジェンダーの政治学に見る女性たち
Reexamining Gender Politics and Spatial Representation of Women in Films of Imamura Shohei
審査委員会
委員長 斉藤綾子 (文学部教授) 印 委 員 古川柳子(文学部教授) 印
委 員 門間貴志 (文学部教授) 印
委 員 Domenig, Roland (文学部准教授) 印 委 員 高美哿(法政大学社会学部准教授) 印
I 審査内容
1. 論文の主旨
本研究は、カンヌ国際映画祭で2度のグランプリを受賞した日本を代表する映画監督の一人 である今村昌平に関する批評言説を、その女性表象を中心に空間表象とジェンダー批評の観点 から再検討し、詳細な映画分析を行うことで、今村昌平映画における女性表象の特徴と問題点 を明らかにする試みである。下層階級の女性をヒロインにし、彼女のセクシュアリティの大胆 な描写や、数々の抑圧や困難にもかかわらず逞しく生き伸びる女性を生々しく描いてきた今村
の映画に対しては、「フェミニスト」という評価が特に海外を中心に一般的に受け入れられてき た。本研究は、こうした今村映画の肯定的な女性表象の評価に疑義を提起することを出発点と し、特に評価が高く、今村的な女性像が確立されたとされる60年代の今村の代表作である『に っぽん昆虫記』(1963)、『赤い殺意』(1964)、『エロ事師たちより 人類学入門』(1966)という 三本の映画を中心に、既存言説で主に分析の基軸となっていた主題やキャラクター・タイプか ら女性表象を見るのではなく、映画テクストにおいて、女性がどのように画面のフレームや構 図が作り出す「空間」に位置づけられているかを精緻な分析によって分節化し、今村映画の女 性表象を細部から検討することを目的としている。
今村が好んで描く女性は、社会の下層や周縁部にあって家父長制の抑圧の対象になっても抵 抗し、逆に男を利用し、弱体化させるようなキャラクターであり、そのドラマの展開は戦後の 日本社会において未だに前近代を残したとされる「田舎」を舞台とすることが多いことに本研 究はまず注目する。典型的な今村の女性キャラクターは、女性=自然という図式の中で、文明に 慣らされることがないままにプリミティヴな生命力を持ち、それゆえに、特別な力と抵抗力を 発揮し、近代化され、管理化された社会に亀裂を生み出す存在として提示される場合が多い。
よって、一見では、男性の立身出世を助け、家制度を守るために従属的で、自己犠牲を美徳と する明治以来の性規範に則った伝統的な日本女性の表象とは対照的に見える今村映画の原初的 な女性表象は、既存の言説では主に二つの観点から理解されてきた。一方では、このような女 性表象の背後に今村の柳田国男の民俗学や文化人類学の影響を見て、西洋近代化の洗礼を受け る以前に遡る日本古来の女性表象に繋がる特権的な意味合いを付与する見方である。もう一方 では、戦後日本社会の体制的な権威や抑圧に対する抵抗と批判を具現化する象徴として捉える 視点である。今村のこうした特徴ゆえに、佐藤忠男を始めとする同時代の日本の批評家たちは、
今村が太古的な女性性を礼賛していると肯定的な評価を与えてきた。
本研究が注目するのは、このような既存の今村評価と、さらにこうした今村の女性表象に対 する同時代の評価がそのまま再検討されることなく継続し、さらに佐藤の日本映画論が英訳さ れることによって、英米圏の批評言説に影響を与え、フェミニスト今村昌平という評価が徐々 にできあがっていった言説形成の過程である。本研究が疑義の眼差しを向けるのは、まさにこ うした女性性の本質化、神話化を促す今村の女性礼賛であり、そこに潜在するイデオロギーと 政治性が問われる。そもそも今村に対する学術的な研究は日本語ではほぼ皆無であるだけでな く、今村の女性表象に対しても、本格的なジェンダー批評やフェミニズム批評自体も未だ行わ れたことがない。本研究の出発点は、まず今村の女性表象を映画分析によってジェンダー批評 の視点から、精緻に検討することにある。
本研究が分析の基軸に置くのは、柳田国男などを始めとする民俗学者に影響を受け、「人類学 的」としばしば称される監督としての今村の視線である。「人類学的なアプローチ」と時に形容
される今村の映画的な手法は、観客の登場人物に対する感情移入を妨げることによって生じる 批評的距離や、今村が得意とする諧謔やアイロニーの表現に大きく寄与する。同時に、戦後日 本社会の近代化に対する今村の批評的姿勢を象徴するものとして理解され、日本社会に抵抗す る女性を描くフェミニストという今村に対する評価と批評言説における解釈の一つの根拠とも なってきた。しかし、対象と距離をとることによって獲得する今村の人類学者的な客観性や批 判精神は、映画テクストを精緻に分析すると再考察を余儀なくされる。というのは、今村が向 ける対象への批判的な視線は、対象により微妙なジェンダーの非対称が見られるだけでなく、
逞しく抵抗的なキャラクターとして見える女性が、実は映画テクストの空間において、最終的 にストーリー展開上の抑圧だけでなく、映画形式的という点からも抑圧が加重的に課せられて いる状況が明らかになることを本研究は注目している。
文化人類学における観察的な視線に内在する権力の非均衡は、すでにポスト植民地的批判か ら指摘されてきた。本研究においても、今村の人類学的な視線がこのような権力の非均衡の上 に成り立っているだけでなく、しばしばその視線の対象が女性であり、観察者が(登場人物で あれ、監督であれ)男性であるというジェンダー・ヒエラルキーにも大きく依存しているとい う仮説を立て、その関係性を映画の物語叙述の時空間におかれた女性という視点で分析を試み る。今村映画においては、カメラと被写体の位置関係だけではなく、映像と音の編集を通して 行われるテクスト操作のレベルで意味作用が行われることを確認し、詳細なテクスト分析を通 じて、今村と対象(女性)の関係がどのように設定され、物語叙述で女性キャラクターがどの ように位置付けられているかが分節化され、最終的に今村映画における女性表象の様相が明ら かにされてゆく。具体的に分析されるのは、物語がどのような場所で展開するか、主人公はど のような家で暮らしているのかなどといった物語叙述における物理的な空間設定と描写、フレ ーム内の構図から見られるキャラクター同士の関係性などに加えて、テクスト全体の構造を凝 縮するオープニングとエンディングのシークエンスがどのように対照関係を成すか、フラッシ ュパックや静止画像、ヴォイス・オーヴァーや画面外の音など、映像と声のテクスト操作によ る監督の介入がジェンダー表象にどのような重層的な意味作用をもたらすか、などである。キ ャラクターの身体の動きや被写体とカメラの関係などを詳細に見ていくことで、映画テクスト における空間と女性の関係性が映画的にどのように表象されているかを明らかにしていく作業 が、映画内の主要なシークエンスを中心に丁寧に行われている。
2. 論文の構成
論文は、序論と五章で構成されている。以下に、各章の概略を述べる。
序章では研究背景及び目的を明らかにし、本文で取り上げる分析テクストと論文の構成が紹 介される。「今村昌平の世界」と題された第一章では、今村映画に一貫するテーマや形式的な要
素と特徴、柳田国男の民俗学との関係や思想的な背景などを具体的な映画を取り上げながら、
概観される。また、今村の女性表象に関する先行研究を概略しながら、「フェミニスト」という 今村の評価がどのように言説形成されたかを整理している。
第二章は、「空間の二分化による女性身体と声の抑圧:『にっぽん昆虫記』」というタイトルの 元に、今村映画を代表する一本である『にっぽん昆虫記』の詳細なテクスト分析が展開される。
オープニングとエンディング・シークエンス、フリーズ・フレームとヴォイス・オーヴァーの 組み合わせを中心に、女性表象と空間の複雑な様相がいかに映像と音との相互的な作用を生み 出し、ヒロインが物語の設定のみならず物語叙述ナ レ ー シ ョ ン
のレベルで抑圧されているかが次第に明らか になる。映画のタイトルが端的に示すように、昆虫は主人公のとめ(左幸子)を象徴するが、
この比喩関係とともに観察者としての今村の立場が、オープニングとエンディングでとめのイ メージをどのように操作し、独自の女性表象を作り出している様相が丁寧に考察されている。
今村は『にっぽん昆虫記』で、女性主人公とめの人生をクロニクルに描きながら、そこに自然、
歴史、都市を交差させていくが、字幕に現れた戦後日本の社会的歴史的状況を確認しながら、
映画がいかにとめの人生を戦後日本の歴史にクロスさせ、女性身体に戦後日本の比喩的な役割 を担わせているかが明らかにされる。さらにフラッシュバックを活用する今村が空間的に彼女 の身体の映像を操作することによって、その表象に重層的な意味を付加させているかが丁寧に 記述される。今村の人類学かつ科学的アプローチが実際にショットをどのように構築し、また 女性表象をどのように再現するのかを詳細に検討することで、既存の研究で日本の本質、真の 日本の女性像として議論されてきたヒロインとめが、女性の内面の力を発揮する人物造形にも かかわらず、映像として自然と常につなげられることで都会の空間から疎外され、結果的には 彼女を抑圧する環境に閉じ込められてしまうという解釈が分析によって傍証される。
「抑圧と欲望が復活する空間:『赤い殺意』」と題された第三章、ある意味で今村的ヒロイ ンの典型を成す春川ますみ演じる貞子が登場する『赤い殺意』を取り上げ、この映画におけ る二つの家を中心に空間と女性表象の関係が考察される。本章でも冒頭に出てくる人気のない
「家」を映すカットで構成されるオープニング・シークエンスに注目する。ヒロイン貞子が住 むこの家の位置や家具の配置、特定の小道具など、ヒロインの住居空間を織りなす家を隅々ま で映す九つのショットをそれぞれ精緻に分析することで、そこから読み取れる隠喩や象徴がヒ ロインの貞子に対する過去と現在の抑圧に深く関わっていることが明らかにされる。さらに、
貞子の家と、姑が暮らしている高橋本家というもう一つの「家」と詳細に空間表象をショット 分析して比較することで、この二つの家の空間の様相がどのように異なり、貞子に対する抑圧 と支配が、空間の中でどのように具現化されているのかが詳細に検討される。
『赤い殺意』に対する既存の批評言説では、強盗にレイプされたヒロインがその犯人と情事 を重ねることで旧家の因習や束縛から解放される物語として理解され、暴力をも自らの肥やし
にする女の強い生命力とセクシュアリティを主題とすると女性性の潜在的なパワーと生存力が 表象されるという解釈が一般的に受け入れられてきた。本論はそのような解釈に異議を唱え、
映画の空間を精緻に見ていくと、このような言説とは裏腹に、貞子は「家」という空間に固定 され、究極的に、彼女の精神と身体は究極的に家の抑圧から逃れられないと主張される。この ような空間的属性を解明することで、女性が勝利するという『赤い殺意』の物語が再検討され、
今村の女性のセクシュアリティに対する両価的な視線が分節化される。
「視線のヒエラルキーが交差する空間:『エロ事師たちより 人類学入門』」と題された第 四章では、『人類学入門』を取り上げて、映画の構造的な形式と視線の問題が、女性表象と空間 との関係にどのように働きかけるのが論じられる。本作では、主人公が明らかに女性である『に っぽん昆虫記』と『赤い殺意』とは異なり、すぶやんというブルーフィルム制作業者の男性を 主人公として物語展開をする。ブルーフィルムという女性身体に対する視線の対象化そのもの が自己言及的に物語叙述される本作では、男性の欲望とその自己破壊性を補強する独自の女性 表象が提示されるという仮説を立て、野坂昭如の原作と比較することで、今村が原作以上に女 性キャラクターを前景化していることがまず確認される。前二章と同じように、本章でも最初 に入れ子構造をとっているオープニング、エンディングの対照関係とフラッシュバック構造が 丁寧に分析されるが、この作業に基づいて、女性に対する視線の二重構造を確認し、その抑圧 的な視線が物語の空間にいかに施されているか、空間との関係によって、女性はどのように表 象されているかを見ている。この過程で浮かびあがる女性への抑圧と男性の欲望の問題が、最 終的に示しているのは何なのかが検討される。とりわけ「隠し撮り」というカメラと女性身体 の窃視的なジェンダー関係を凝縮する視線を暴露することでこの視線を一見して問題化してい るように見えるにもかかわらず、最終的に女性キャラクターの身体を統制することで抑圧に荷 担する構造と、映画全体の女性表象に対する空間的な抑圧構造を象徴するラストシーンにおけ るダッチワイフの意味が強調される。
第五章では、各章の議論を概観しながら、各作品で明らかにされたフリーズ・フレーム、ヴ ォイス・オーヴァー、フラッシュバックなどの映画的手法と女性表象と空間性の関係をまとめ、
今村映画の女性表象は、一見してフェミニスト的なイメージを提示しているものの、最終的に は、女性身体は映画空間の中で複層的に抑圧され、極めて両義的な価値を示していると主張さ れる。もう一方で、今村映画の男性表象の抑圧も明らかであり、女性と男性の複雑なジェンダ ー関係が形成されているため、より大きなジェンダー研究と政治性という点から検討すべきで あり、また分析の対象も広げていく必要性があるという課題を指摘しつつ、戦後日本映画史に おける今村映画の女性表象が象徴的に持つ意味と重要性が再確認され、結論となる。
2. 論文の評価と課題
A. 本論文の目的とその到達点
本論文の第一の目的は、今村映画の女性表象に対する評価を再考することであり、この女性 表象が「フェミニスト」であるという批評言説に異議申し立てをするものであるが、論文全体 を通して、今村映画の女性がしばしば無批判的に自然や野生、原始といった世界に結び付けら れているだけでなく、映画空間は演出のレベルのみならず、編集やサウンドといった監督の操 作によって複層的な抑圧を受けているという議論が、詳細なテクスト分析により傍証されてい る。
本研究は大きく二つの点で博士の学位論文としての評価に値する。第一に、戦後日本映画史 において重要な役割を果たし、海外でも高い評価を受けてきたにもかかわらず、日本語ではほ とんど本格的な学術研究がなかった今村昌平を取り上げ、彼の映画の中でも代表的な映画で中 核的な役割を担う女性表象に批評のメスを入れた数少ない研究としてまず意義があると確認さ れた。第二に、既存研究ではほとんど行われていない、デテイルに注目した映画分析を展開し た点に独自性が見いだせる研究である。映画研究の高度な専門知識に裏打ちされた精緻なショ ット分析と丁寧な読みは鮮やかに記述され、スリリングな展開を見せており、研究の独自性と レベルの高さを示している。とりわけ、類を見ないほどの精緻な分析は、映像芸術学の博士論 文にふさわしい研究成果を成している。
B. 本論文の課題
本論文の議論の一貫性は論文を通じて担保され、説得力を持って展開されるが、課題がない わけではない。課題は大きく三点が挙げられた。まず、『にっぽん昆虫記』の詳細なショット分 析において、音の使い方に注目した丁寧な読解が提示されているが、「ヴォイス・オーヴァー・
ナレーション」という用語の使い方について、物語叙述との関係性から見た時に、必ずしも「ヴ ォイス・オーヴァー・ナレーション」ではなく、オフスクリーンサウンドとの厳密な違いを考 慮に入れて分析するべきではという、分析のテクニカルな点に対して課題が指摘された。次に、
各章でフリーズ・フレーム、フラッシュバック構成、ヴォイス・オーヴァーを中心とした映像 と音の関係が詳細に分析されているが、三章で得られた分析による知見、とりわけ今村映画に おいてこの三つの映画的手法が持つ意味を関テクスト的に俯瞰する視線と考察があれば、さら に再考が深められたのではないかと指摘があった。第三に、女性表象に焦点化するあまりに、
例えば国家権力批判、弱い男性という男性表象、あるいは自己言及性といった今村映画に特徴 的な主題や問題が持つ重要性が若干矮小化される傾向があるという問題も指摘された。
しかし、こうした課題はいずれも、論文の結論部で本論文の目的を越える大きな議論を必要
とする今後の課題として認識されており、またこうした課題が浮かび上がったのも、もともと 本論文が展開した詳細な分析があったからこそであり、課題の認識は本研究の評価自体を下げ るものではないという意見で一致した。
II 審査結果
1. 口述試験結果
2017年1月30日に提出された本論文の審査にあたり、5名からなる審査委員会が組織され、
2017年11月22日審査委員会において、ファン ギュンミンさんの博士学位請求論文に基づく 口述試験(論文本審査)が実施された。
口述試験においては、ファンさんの論文要旨の発表に続き、前項の課題で指摘された論文に 関する理論的な問題、映画技術用語の定義、今村映画における社会批判の問題と女性表象と男 性表象の相違と関係性、自己言及性とパロディーなどの点に関して各委員から質問が出され、
ファンさんが回答した。また、各委員から若干の文章表現上の問題も指摘されたが、これらの 課題はあくまで発展的なものとして言及されたものであり、本論文のレベルを減ずるものでは ないことが確認された。先行研究の確認、文献資料の参照、議論の首尾一貫性、歴史と社会的 な文脈を考慮しながら、テクストの意味作用をショット分析から引き出していく極めて高度な 分析能力、母国語ではない日本語の論文執筆能力など優れた点が高く評価された。
口述試験後、審査委員会による合否審査が行われ、当審査委員会として、本論文が課程博士 学位論文として十分なレベルに達しており、博士号を授与するに値するものと評価できるとの 結論に達し、全員一致で合格と判定された。
以上