著者 寺田 俊郎
雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー
ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru
巻 1
号 1
ページ 51‑65
発行年 2007‑03‑24
その他のタイトル Immanuel Kant and John Locke on Property
URL http://hdl.handle.net/10723/3127
寺 田 俊 郎
は じ め に
所有権の基礎づけは,古くから法哲学の主要問 題の一つであった。しかし,所有をめぐる哲学的 考察は,所有権の基礎づけという法哲学固有の理 論的問題のみならず,現代の倫理学におけるさま ざまな実践的問題を議論するさいにも重要な役割 を演じるように思われる。それが,福祉国家の道 徳的地位やグローバルな倫理・正義をめぐる政治 哲学的な論争に直接的なかかわりをもつことは,
言うまでもない。しかし,二十世紀の後半に急速 な発展を遂げ,一つの学問分野として確立するに 至ったいわゆる応用倫理学に眼を向ければ一目瞭 然であるように,その他多くの倫理学上の問題が,
所有をめぐる哲学的考察を必要としているように 思われるのである。応用倫理学のなかでも最も早 く成立した生命倫理学が主要な考察対象としてき た安楽死・尊厳死,臓器移植,クローン技術など の問題は,生命や身体,遺伝情報などの所有に絡 めて論じられることがしばしばである(それを所 有の問題として論じることの是非は,それはそれ として一つの問題ではあるが)。また,生命倫理 学に続いて成立した環境倫理学においては,資源 や土地の所有という論点を避けて通ることはでき ないし,応用倫理学のなかでは最も新しく成立し つつある情報倫理学においては,知的所有(in- tellectualproperty知的財産)という概念が論
争の一つの軸になっている。
このように現代の倫理学において所有が議論の 俎上にのぼるとき,肯定的にであれ否定的にであ れ,いまなおしばしば引き合いに出されるのは,
ジョン・ロックの所有論,すなわち「労働所有論」
として知られている所有論である。しかし,ロッ クと同様にフーゴー・グロティウスやザムエル・
プーフェンドルフの自然法的所有論を批判的に継 承しながら,ロック流の所有論を批判しつつ独自 の所有論を構築したイマヌエル・カントの所有論 が省みられることは,あまりない。カントの所有 論は,現代の所有をめぐる議論にとって優れた対 話のパートナーになりうる,と私は思う。カント の所有論が省みられることが少ないのは,最晩年 になってようやく出版された法哲学の著作『法論 の形而上学的基礎論』(以下『法論』と略記)に,
テキスト上の不備が散見されるだけでなく,カン トの著作活動の最も脂ののった時期,いわゆる批 判期の道徳哲学との間に一見したところ断絶が見 られることから,あまり研究されなかったという 事情によるところも大きい。しかし,一九七〇年 代から『法論』の重要性が認識され始め,現在で は優れた研究を参照することができる。私は,
『法論』がカントの法哲学のみならず,倫理学を も含めた道徳哲学全体にとって重要な意味をもつ,
と考えている。そのカントの所有論をロックの所 有論との対比のもとに吟味し,所有にかかわる現 代の問題を考えるための基本的視座を得ることが,
本稿の課題である。
一 カントの所有論の概観
一・一 法とは何かまず,カントの所有論が前提としている「法
(Recht権利)」の概念を概観しておこう。カン トによれば,法とは,「人間性ゆえに」あらゆる 人に帰属する「根源的権利」である「自由」が共 存しうるための諸条件である。このことは「法の 普遍的原理」または「法の普遍的法則」として次 のように定式化される。
行為そのものが,あるいはその行為の格率に則 して見た場合に各人の選択意志の自由が,あら ゆる人の自由と普遍的法則に従って両立しうる ならば,その行為は正しい。(「法の普遍的原理」,
Ⅵ230(1))
君の選択意志の自由な行使が普遍的法則に従っ て誰の自由とも両立しうるようなしかたで外的 に行為せよ。(「法の普遍的法則」,Ⅵ231)
自由をめぐっては,カントの道徳哲学における
「自律」としての「自由」という有名な理論との 関係から難しい問題が生じるが,ここで言われて いる自由はカントが「選択意志の自由」と呼ぶも の,一般に「選択の自由」と呼ばれているもので あることを確認するにとどめよう。ビールを飲む かワインを飲むかといった些細なことから,どの ような生き方をするかにかかわる重大な決定に至 るまで,大小さまざまな選択の自由である。
さて,法は道徳と違って,外的な行為の正しさ
(「適法性(Legaliat)」)のみにかかわり,行為の 内的な動機,内的な心のあり方にはかかわらない。
法に適った行為を,外的強制に基づいて為すか内 的動機に基づいて為すかは道徳にとっては重大な 違いであり,後者のみが道徳的な善と見なされる が,法にとってはどちらも正しい行為であり,変 わりはない。それゆえ,法においては,外的強制 も正しいと見なされることがある。法的に不正な 行為とはその定義からして他の人の自由を妨害す る行為であるが,他の人の自由を妨害するような 行為を為す自由を強制によって抑止することは,
「自由の妨害に対する抑止」として正当化される のである。
以上のような法の概念を前提として,カントの 所有論は展開される。
一・二 感性的占有と可想的占有との区別,
および実践理性の法的要請
物理的な占有だけでは所有は構成されず,物 理的な占有を離れてもなおある物を「私のもの
(Mein)」(ローマ法の伝統に従って「私のもの」,
「あなたのもの(Dein)」という語彙が用いられ る)と言いえてはじめて所有が構成されうる,と いうことを,カントは「感性的占有(sinnlicher Besitz)」 と 「可想的占有 (intelligiblerBesitz 叡知的占有)」とを区別することによって説明し た。「感性的な」ものと「可想的な」ものとの区 別は,『純粋理性批判』によって開示された超越 論的哲学の構想全体を支える根本思想であり,所 有論におけるその用語法について一定の検討を行っ て然るべきであるが,ここでは深入りせず先を急 ぐ。
外的なあるものが私のものでありうるのは,他 人がその物件についてなす使用によって,私が たとえ物件を占有していなくても,なおかつ私 が侵害されることがありうると考えることが許
されるような場合だけであろう。 したがっ て,もしも占有の概念がある種の相互に異なる 意味を,すなわち感性的占有と可想的占有とい う両種の意味をもちえないとすれば,したがっ てまた,一方には物理的占有を,他方には純粋 に法的な占有を同一の対象物について考えるこ とができないとすれば,外的なあるものを自分 のものとしてもつことは自己矛盾である。(Ⅵ 245)(強調は引用者による。以下同様。)
さらに,カントは,「私の選択意志のいかなる 外的対象も,これを私のものとしてもつことが可 能である」(Ⅵ246)と主張する。これは,いかな る無主物についても,「根源的取得(ursprung- licheErwerbung譲渡・交換・相続などによる のではない取得)」が可能である,ということで ある。カントによれば,これは「実践理性の法 的要請」である。なぜなら,使用可能な無主物
(resnullius)を取得不可能にすれば,その無主 物は使用不可能になって実践的見地から見て無に なるが,そのようなことは「法の普遍的原理」に 矛盾し,そのような矛盾を実践理性は許さないか らである。
一・三 物件の所有の条件としての先占
この,あらゆる無主物について可能な根源的取 得の条件は,「先占(Ermachtigung/occupatio)」
である。
空間におけるある有体物の所持の(物理的占有 のpossessionisphysicae)始まりとしての占 有取得(把捉apprehensio)が,万人各自の 外的自由の法則と(したがってア・プリオリ に)調和するための条件は,時間にかんして先 んずること以外のものではありえない。言い換
えれば,その占有取得は,選択意志の一つのは たらきである最初の占有取得 (priorappre- hensio)としてだけそうした調和をなしうる。
ところが,物件(したがってまた,地上のある 特定の区画された場所)を私のものとなす意志,
すなわち領得(appropriatio)は,根源的取得 においては一方的(一方的なまたは自分だけの 意志voluntasunilateraliss.propria)でしか ない。一方的意志による意志の外的対象の取得 は先占である。だから,この外的対象の,した がってまた区画された一定範囲の土地の根源的 取得は,ただ先占によってだけ生ずることがで きる。(Ⅵ263)
最初にその物件または土地を占有するというこ と,すなわち先占が無主の物件または土地を取得 する条件であること,そして,その先占としての 取得が他の人々の現実的な同意なしに一方的意志 によってなされうる,ということ,それは一つの 根源的取得のあり方として認めることができるだ ろう。だが,それが唯一の正当な取得のあり方,
すなわち「法の普遍的原理」に適ったあり方であ る,と言えるのはなぜだろうか。その根拠が問わ れて然るべきであるが,カントは,それは「実践 理性の法的要請」の直接の帰結であって,さらに 根拠を問うことはできない,と言う。「こうした 仕方での取得の可能なことは,どんなにしても洞 察されえず,またいろいろと理由をあげて説明す ることもできない。むしろ,それは実践理性の要 請からする直接の帰結なのである。」(ibid.)
しかし,いかなる無主物も根源的取得というし かたで取得可能である,という要請から,先占と いう条件が直接導き出されるということは,決し て自明であるわけではない。先占は,所有をめぐ る一般的な社会的ルールの一つではあろうが,所
有という概念にア・プリオリに含まれている条件 であるかどうかは,必ずしも明らかではないので ある。この点は,カントの所有論に対する強力な 批判の一つを招くところであり,したがって本稿 でも後半で特に取り上げて論じることになるのだ が,さしあたりここで注目しておきたいのは,先 占をめぐる一節に続く,取得が権限をもちうるに は,あらゆる人々の「ア・プリオリな意志の結合」
が必要である,という議論である。
とはいえ,右の意志が外的取得の権限たりうる のは,ただその意志が,ア・プリオリに結合し た(すなわち相互に実践的関係に入りうるすべ ての人の選択意志を結合することによる)絶対 的に命令的な意志のなかに含まれている限りに おいてだけである。なぜなら,一方的意志(双 方的ではあるが特殊的な意志もまたこれに準ず る)は,それ自体としては偶然的であるような ある拘束性を万人に課することはできないので あって,これをなしうるためには,全般的な意 志,偶然にではなくア・プリオリに,したがっ て必然的に結合した意志が必要とされるからで ある。それというのも,こうした意志の原理に 従ってだけ,各人の自由な選択意志と万人の自 由との調和が,したがって権利一般が,だから してまた外的な私のもの・あなたのものとが可 能となるのだからである。(Ⅵ263)
ここで論じられている「意志の結合」がア・プ リオリなものである限り,それは事実的な合意の ことではなく,あらゆる理性的存在者が必然的に 到達するはずの仮説的な合意のことである。その 合意の内容を公式化したものが「法の普遍的原理」
だと考えられる。したがって,物件を取得しよう とする意志は,あらゆる人々の選択意志の自由の
共存という「法の普遍的原理」に適う限りにおい て,取得の権限を得ることになる。すなわち,所 有は,ある人格とその選択意志の対象である物件 との間の関係のみによって構成されるのではなく,
ある人格と他のあらゆる人格との関係によって構 成される。問題は,その権限と先占という条件と の関係である。先占は「一方的意志」によってな され,それだけで根源的取得の条件になりうる。
しかし他方,取得したものを所有する権限は「一 方的意志」によっては与えられえず,あらゆる人々 の「ア・プリオリな意志の結合」が必要とされる のである。先占に基づく「根源的取得」とあらゆ る人々の「意志の結合」によって認められる所有 の権限とはどのような関係にあるのだろうか。こ の問いを念頭に置きつつ,土地の「根源的共有」
という概念を検討しよう。
一・四 土地の根源的共有
先占は,土地の根源的取得についても,その条 件であると主張される。「あらゆる土地は根源的 に取得されうる。そのための法的行為は先占であ る。」(Ⅵ262)ところが,土地については,通常 の意味での占有のほかに,もう一つの形の占有が 考えられる。土地の「根源的共有」である。
すべての人間は,根源的に(……)土地を適法 に所有している。すなわち,彼らは,自然また は偶然が彼らを置いたその場所にいる権利をもっ ている。こうした占有,つまり意志され,した がって取得された継続的占有としての占席から 区別されるこの占有は,球面としての地表にお ける一切の場所の一体性という理由から,共同 的な占有である。というのは,もし地表が無限 の平面であったとすれば,人間はその上に分散 することができるために,決して相互の共同体
を形成することもないだろうし,またこうした 共同体が地球上における彼らの現存の必然的結 果であることもないであろうからである。
地球上におけるすべての人間による,一切の法 的行為に先行する(自然そのものによって設定 される)占有は,根源的な総体的占有(根源的 共有)である。……それは,一つの実践的な理 性概念であって,ア・プリオリに次の原理を,
つまり人間たちに地球上の場所を法の諸法則に 従って使用することを得させる唯一の根拠であ るような原理を含んでいるのである。(ibid.)
カントは,土地の根源的共有(ursprungliche Gemeinschaft des Bodens/communio fundi originaria) は原始的共有 (uranfanglicheGe- meinschaft/communioprimaeva)とは異なる,
と言う。前者が理性的(原理的)であるのに対し,
後者は歴史的あるいは虚構的である。
土地の根源的共有は,「意志され,したがって 取得された継続的占有としての占席から区別され るこの占有」と説明されていることからも理解さ れるように,通常の意味での土地の所有の他に,
いわばそれとは異なるレベルで考えられる土地の 所有である。問題は,これら二つの所有の関係で ある。土地の根源的共有が「地球上におけるすべ ての人間による,一切の法的行為に先行する占有」
であるとすれば,そのようにして共有されている 地表の一部である特定の土地を先占によって取得 することは,どのようにして正当化されうるのだ ろうか。土地の根源的共有が「一つの実践的な理 性概念であって,ア・プリオリに次の原理を,つ まり人間たちに地球上の場所を法の諸法則に従っ て使用することを得させる唯一の根拠であるよう な原理を含んでいる」のだとすれば,根源的共有 という概念は土地の所有権ではなく使用権を根拠
づけることになるのではないだろうか。そうする とやはり「先占」と「根源的共有」との関係が問 題になる。
この問いを念頭に置きつつ,さらに土地の根源 的共有という概念の展開を見よう。その先には,
有名なカントの「世界市民法(Weltburgerrecht)」
という概念がある。
一・五 カントの所有論と世界市民法
「世界市民法」は「法論」においても論じられ ているが,『永遠平和のために』において,いっ そう詳細に論じられているので,そちらの記述を 見よう。
世界市民法は, 普遍的な友好 (allgemeine Hospitalitat普遍的な歓待)をもたらす諸条件 に制限されなければならない。(Ⅷ375)
ここでもこれまでの条項におけるのと同じよう に, 問題とされているのは人間愛 (Philan- thropie)ではなく,権利であって,友好といっ ても,それは外国人が他国の土地に足を踏み入 れても,それだけの理由でその国の人間から敵 意をもって扱われることはない,という権利の ことである。その国の人間は,外国人の死を招 くような結果にならなければ,その人間を退去 させることもできる。しかし,その外国人が,
他国の地で平和にふるまう限り,敵対的な扱い を受けることがあってはならない。だが外国人 が要求できるのは,客人の権利(……)ではな くて,訪問の権利(Besuchrecht)であるが,
この権利は,地球の表面を共同に所有する権利 に基づいて,互いに交際を申し出ることができ るといった,すべての人間に属している権利で ある。地球の表面は球面で,人間はこの地表の
上を無限に分散していくことはできず,結局は 並存して互いに忍耐しあわなければならないが,
ところで人間はもともと誰一人として,地上の ある場所にいることについて,他の人より多く の権利を有しているわけではない。(Ⅷ357 358)
ここでは,各国が国土を領有していることを前 提として,その国土を領有する権利と並行して,
あらゆる人々に各国を訪問する権利があることが 土地の根源的共有によって根拠づけられており,
しかも後者は訪問の権利に限定されている。地球 上のあらゆる土地にかんして,根源的取得に基づ く所有権と根源的共有に基づく訪問権という,二 重の権利が語られていることになる。
この訪問権という概念を念頭に置いて考えれば,
前節の問い,すなわち先占に基づく根源的取得と 根源的共有との関係について,一つの見通しを得 ることができるだろう。まず,カントは土地の根 源的共有を所有権と訪問権とに共通の,最も根源 的な根拠として位置づけている。その,すでに根 源的に共有されている土地のうち,私は自分の生 存に必要な特定の土地を先占によって取得し,所 有することができる。その土地を取得することが できるのは,その土地はすでに私を含むあらゆる 人々によって共有されているからである。しかし,
同じ根拠によって,先占によって取得された土地 は他の人々の訪問を一方的に排除するものではな い。土地の根源的共有は,先占による土地の取得 を根拠づけると同時にそれを制限する論理でもあ るのである。同じ議論が,地表にあるあらゆる物 件にも当てはまるはずである。
さて,カントは世界市民法にかんして訪問権し か語らないが,世界市民法によって開かれる世界 市民社会と所有との関係について,重要なことを
述べている。
市民体制においてのみあるものは確定的に
(peremtorisch/sicher) 取得されうる。 それ に対して,自然状態においては,もちろん取得 されはするが,ただ暫定的に(provisorisch) そうされうる。(Ⅵ264)
しかし,その所有を確定的にする市民体制は,
究極的には,世界市民体制にまで拡張されねば ならない。
取得されうる外的な客体の量および質に関して 十分な規定がなされえないということが,(唯 一・根源的な外的取得という)課題を,解決の 最も困難なものにしている。……よしんばこの 課題が根源的契約を介して解決されるとしても,
もしこの契約が全人類に拡張されるのでなけれ ば,取得は依然としてたんに暫定的であり続け るだろう。(Ⅵ266)
だから,このこと(自然状態を脱して法的状態 に入ること)がまだ生ぜぬ以前には,諸国民の 一切の権利も,戦争によって取得もしくは保持 されうるところの,諸国家の一切の外的な私の もの・あなたのものも,たんに暫定的であるに すぎない。そしてこれは,(……)諸国家の普 遍的結合においてだけ確定的に妥当するものと なりうるのであり,こうして真の平和状態も形 成されうるのである。(Ⅵ350)
所有が確定的であるとは,所有が保障されると いうこと,所有が暫定的であるとは,所有が保障 されないということであろう。自然状態において も先占によって根源的取得が可能であり,したがっ
て所有は可能であるが,それが保障されるのは法 的状態,すなわち市民体制においてのみである。
市民体制はまず各々の国家によって実現され,国 内の所有が保障されるが,しかし,世界市民体制 が成立してあらゆる国家どうしの自然状態が克服 されない限り,最終的には所有は保障されないの である。
二 ロック所有論への批判としての カントの所有論
二・一 カントのロック所有論批判
カントはロックの『市民政府二論』を読んでお らず,ロックの影響を受けた他の論者の議論を念 頭において所有を論じているようであるが,カン トの所有論をロックの所有論に対する批判として 読むことができる(2)。労働を所有取得の条件とす るロック流の所有論を知っていながら敢えて先占 を根源的取得の条件とした事実に,すでにロック への批判を読み取ることができるが,カントが労 働を所有取得の条件とする議論を直接的に批判し ている箇所を見よう。
土地について最初になされる加工,区画または 一般に形態賦与は,土地取得の権限を賦与する ものではない。言いかえれば,偶有的なものの 占有は実体の法的占有の根拠を与えるものでは ない。そうではなくて,むしろ逆に,私のもの・
あなたのものは,規則(従物ハ主物ニ従ウトイ ウ規則)に従って,実体の所有権からの帰結で なければならないのであって,また,すでに前 もって彼のものとなっていないある土地に労力 を費やす者は,その土地に対して徒労をなすに すぎないのである。こうしたことはそれ自体に おいてあまりにも明白なので,あの非常に古く
からの,そして今なお広く通用している俗説が 生じたについては,次のようなひそかに人心を 支配している迷妄,すなわち,物件を擬人化し て,まるで誰かがそれに対して労働を費やせば,
そのことによって,彼はその物件を拘束して,
彼以外のどの他人の用にも応じないようにさせ うるかのように,人はそれらの物件に対して直 接的に権利をもつと思い込む迷妄以外には,他 にその原因をあげがたいのである。(Ⅵ268)
そもそも加工・区画あるいは形態付与は,それ が加えられる実体がなければ存立しえない偶有的 なものであって,その偶有的なものを実体の所有 の根拠とすることは本末転倒だ,というわけであ る。あるいは,ある物件の所有を前提としてはじ めてその物件に対する加工の権限が生じるのであっ て,その逆ではない,と言ってもいいだろう。
労働を所有取得の条件と見なすような論は物件 を擬人化する迷妄に陥っている,という議論が何 を言わんとしているのかは必ずしも明らかではな いが,少なくとも,カントが労働所有論を人格と 物件との直接的な関係によって所有を根拠づける ものと見,その点を批判していることは確かだろ う。
では,ロック本人の所有論はどのようなものだっ たのか。念のため内容を確認しておこう。『市民 政府二論』で次のように論じられている。
大地と人間以下のすべての被造物はすべての人々 の共有物であるが,しかしすべての人間は自分 自身の身体(person)に対する所有権をもっ ている。これに対しては本人以外の誰もどんな 権利ももっていない。彼の身体(body)の労 働とその手の働きは,まさしく彼のものである といってよい。そこで,自然が準備しそのまま
に放置しておいた状態から,彼が取り去るもの は何であれ,彼はこれに自分の労働を混合し,
またこれに自分自身のものをつけ加え,それに よってそれを自分の所有物とするのである。そ のものは,自然によって置かれた共有の状態か ら,彼によって取り去られたものだから,この 労働によって他人の共有権を排除する何かがそ れにつけ加えられたことになる。というのは,
この労働は労働した人の疑いもない所有物なの であるから,少なくとも共有物として他人にも 十分に,そして同じようにたっぷりと残されて いる場合には,ひとたび労働がつけ加えられた ものに対しては,彼以外の誰も権利をもつこと ができないのである。(§27)
自分の身体は自分のものである,ということから 自分の身体の労働も自分のものであり,その労働 が投下される対象であるものも自分のものである,
という論理である(先行研究に倣って「自分の身 体は自分のものである」という前提を「自己所有」
と呼ぶことにする)。
しかし,そのような所有取得にはいくつかの制 約があることを,ロックは急いでつけ加えている。
一つは,先の引用中の「少なくとも共有物として 他人にも十分に,そして同じようにたっぷりと残 されている場合には……」という文言に記されて いる制約であり,もう一つは,次の一節のなかに 記されている,誰でも好きなだけ独占してよいと いうわけではない,という主旨の制約である。
上に述べた手段で我われの所有権を与えている のと同じ自然法が,その所有権の限界をも定め ているのである。……神は,どの程度まで我わ れに与え給うたのであろうか。享受するためで ある。つまり,ものが腐らないうちに(=だめ
にならないうちにbeforeitspoils)生活の何 かの利便のために人が利用できる限り,誰でも 自分の労働によって所有権を定めてよいのであ る。これを超過するものはすべて彼の分け前以 上のものであり,他人のものなのである。腐ら せたり(=だめにしたり)破壊したりするため に神が人間のためにつくったものは何もない。
(§31)
先行研究に倣って,便宜上前者を「十分性の制約」,
後者を「腐敗の制約」と呼ぶことにしよう。
ロックによれば,以上のようにして所有取得を 行う際に,同意は必要ではない。ただ所有を保障 するためには,社会契約が必要である。
(どんぐりやりんごを)寄せ集めるという労働 が,万物の共通の母である自然がつくった以上 の何ものかを,それらにつけ加えたのである。
こうしてそれらは,彼の私的な権利となった。
そこで,彼がそれを自分のものにするために全 人類の同意を得なかったからといって,彼がこ うして占有したどんぐりやりんごに対して,何 の権利ももっていないという人がいるだろうか。
共有物として万人のものであったものを,こう して彼のものとすることは盗みであろうか。も しそのような同意が必要であったなら,神が人 間に与えた豊かな恵みにもかかわらず,人間は 餓死していたであろう。(§28)
以上の議論は,所有権の主要な対象である土地に ついても成り立つ。
……明らかに土地の所有権もまた果実や動物と 同様に取得される。一人の人間が耕し,植え,
改良し,栽培し,そしてその収穫物を利用しう
るだけの土地,それだけが彼の所有物である。
彼はその労働によってそれだけの土地を共有地 からいわば囲い込むのである。これについて,
彼以外のすべての人もその土地に対して平等の 権利をもっている,だから彼は,仲間であるす べての共有権者,すなわち全人類の同意がなけ ればその土地を占有することもできないし,囲 い込むこともできない,といったところで,そ れは彼の権利を無効にしないであろう。(§32)
また,土地のある一部を改良することによって,
このように占有することは,他人に対する何の 侵害にもならなかった。というのは,まだ十分 に,そして同じようにたっぷりと土地が残され ており,しかもまだ土地を与えられぬものが利 用しきれないほどあったからである。(§33) 二・二 カントの批判の妥当性
ロックの所有論が以上確認したようなものであ るとして,カントの所有論はそれに対する批判と してどの程度成功していると言えるだろうか。そ れを検討する手掛かりとして,カントのロックへ の批判を批判する森村進の議論を参照しよう。そ の要点は次の通りである(3)。
合法的に土地を加工できるためには,そ の土地があらかじめ加工者のものになっていな ければならない,という想定には根拠がない。
その理由が,土地の「根源的共有」にあるとし ても,「根源的共有」という主張には説得力が ない。あらゆる人々が自分の知らない場所まで 含めて地上のあらゆる場所を占有しているとい う主張は奇妙に聞こえる。
根源的取得の条件が時間的先行であるこ とはロックも認めるだろうが,労働の時間的先
行ではなくて占有の時間的先行でなければなら ないのはなぜか,理由が明らかでない。カント は「洞察できない」とか「説明できない」とか 言って説明を放棄しているが,ロックは「労働 が価値を生み出す」とか「労働によって行為者 としての性質を対象に刻印できる」などの道徳 的直観に訴えて自説を擁護できる。労働所有論 の方が,あらゆる人々の自由と両立しうる(す なわちカントのいう「法の普遍的原理」に適っ た)説明である。
ロックは,カントのいうような奇妙な擬 人的物質観をもってはいない。所有権が所有者 と対象との間だけの「直接的(=無媒介的)」
関係だなどとは考えていない。ロックにとって も権利とは他の人々との関係において意味をも つ概念である。したがって,カントが,所有権 は人格と物件との関係ではなく,人格と人格と の関係に存立することを主張した点に(そして ロックがそれを見落とした点に),カントのロッ クに対する優位を見る論者がいるが,それは不 当な非難である。
カントが「所有の合意説」をどのように論証 しているかについては,二つの解釈が可能であ ろう。①「所有とは人格と人格との関係だ」と いう「所有の人格間的性質」というそれ自体正 当な主張から導出しているという解釈。②一般 的な契約主義的道徳から導出しているという解 釈。①は端的に成り立たない。②は方法として は正当だがカントはそれをうまく実行していな い。
について。まず,この森村の「根源的共有」
という理念に対する反論はそのままロックの議論 にも当てはまるように思われる。ロックも所有の 前提として土地や物件が「神によって万人に与え
られた共有物」であることを念頭に置いていた。
それは人類が現実に土地や物件を現実に共同所有 しているという意味ではなく,誰であれ無主の土 地や物件を占有する権利を等しくもっていること を根拠づける理念である。これはカントの「根源 的共有」の理念に極めて近いと言いうる。さらに,
所有の根拠であるだけでなく所有の制約でもある ところも共通である,と考えることができる。
「我々の所有権を与えているのと同じ自然法が,
その所有権の限界をも定めている」と述べられて いる通り,「神によって万人に与えられた共有物」
という観念を,ロックが所有の制約に数える「十 分性の制約」や「腐敗の制約」と結びつけて考え ることができるからである。両者の著しい違いは,
「根源的共有」の理念は「神」の観念に訴えない ところである。
さらに,「根源的共有」が以上のように解され るとすれば,土地の所有がその加工の権限の条件 であるかどうかという問題は,所有権の根拠は
「先占」であるか「労働」であるかというの問 題に帰着するように思われる。
について。たしかに,あらゆる人々の自由と 両立しうる所有権の根拠として,たんなる「先占」
のほうが「労働」よりも説得力がある,とは必ら ずしも言えない。労働所有論も,ある特定の状況 下では,あらゆる理性的存在者の合意を得る可能 性があり,したがって「法の普遍的原理」に適う 可能性がある,と言いうる。
について。カントは,ロック流の労働所有論 が人格と物件との直接的関係によって所有権を根 拠づけるものと理解し,それを「擬人化」と呼ん で批判した。それが不当であることを森村ととも に認めよう。ロックともあろう哲学者が,所有権 をたんに人格と物件との直接的関係に見,人格間 の関係であることを見落としていることはありそ
うもない,と私も思う。
しかし,以上のことを認めた上でなお,森村の この点に関する批判は結局無効であると言わざる をえない。なぜなら,森村は,カントの議論にとっ てきわめて重要な意義をもつ事実的な同意と仮説 的な同意との区別を十分に評価しないまま,批判 を組み立てているように思われるからである。
「万人の同意」とは,まず,先に論じた(一・
三)「ア・プリオリな意志の結合」のことである。
それは,理性的存在者のア・プリオリな同意であ る限り,事実的な同意ではなく,「理性的存在者 であれば同意せざるをえない」という仮説的な同 意である。それに基づいて所有権は暫定的に認め られる。しかし,市民体制を形成し,そこで事実 的な同意をえなければ所有権は確定的にならない
(保障されない)。ロックが労働を投下したものを 取得するのに他者の同意は必要ない,と考えてい るのと同様,カントも先占したものを取得するの に他者の同意は必要ない,と考えている。逆にカ ントが市民体制を形成し,あらゆる市民の同意を 得なければ,先占によって取得されたものに対す る所有権は保障されない,と考えているのと同様,
ロックも社会契約という形であらゆる市民の同意 を得なければ,労働によって取得されたものに対 する所有権は保障されない,と考えているのであ る。
実は森村も仮説的な同意という考え方そのもの は認めており,労働による所有権獲得も仮説的同 意を得られるだろうと主張している。ロックが,
所有権が人格と人格との間で有効な概念であるこ とを自覚していたとすれば,所有権は人格と人格 との間で正当化される必要があり,人格間の正当 化には少なくとも仮説的な同意が関与することを 自覚していたはずである。カントはそれを明快に ではないにしろ明示的に論じているが,ロックは
それを論じていない。そこには,たしかにカント のロックに対する優位を認めることができるので ある。
以上より,ロックを擁護する立場からカントの ロック批判を批判する森村の議論のうち,検討す べきはのみである。
二・三 カントのロック的発想
さて,森村のおよびの批判を見ていると,
カントの所有論とロックの所有論との間にある距 離は通常考えられているよりも小さいのではない か,とすら思えてくる。そして,決定的な相違点 である「先占」か「労働」か,という論点にかん しても,実はカントは若い頃ロック流の発想をもっ ていたようである。前批判期の論文(1764)「美 と崇高との感情にかんする考察」への覚書に次の ような一節がある。
身体は私のものである。なぜなら,それは私の 自我の一部であり,私の選択意志によって動か されるから。自分の選択意志をもたない生命あ る世界や生命なき世界の全体は,私がそれを強 制して私の選択意志のままに動かすことができ るかぎり,私のものである。太陽は私のもので はない。他の人間においても同一のことが当て はまる。……私は,私のものというしるしをもっ ている行為を実行するであろう。木を切るとか,
これに細工をするとか,等々。他人は私に言う。
それは自分のものである。なぜなら,それは自 分の選択意志の行為により,いわば自分自身に 属するから。(ⅩⅩ66)
ここにははっきりと,私の身体は私のものである,
という身体の自己所有の思想と,私が行為によっ て働きかける対象は私のものである,という労働
所有の思想とが見られる。ロックの議論との相違 は,身体の自己所有から直接に身体が働きかける ものの所有が導き出されるのではなくて,身体の 所有も物件の所有も選択意志による行為の働きか けによって説明されている点である。
このようにカントは所有にかんしてロックと多 くを共有しながら,後に「先占」か「労働」かと いう論点にかんして特に鋭くロックに対立し,労 働所有論批判に転じたのである。なぜだろうか。
三 カントのロック批判の真の意義
三・一 植民地主義批判としてのカント所有論平子長友は,カントの所有論を,ロックの所有 論が植民地主義を擁護する論理となっていること への批判として読む。平子によれば,「占有」,
「土地の根源的共有」,「世界市民法」などの概念 は,植民地主義を批判することを主眼としてい る(4)。この読みは,カントが労働所有論批判に転 じた理由を説明するものとして相当の説得力をも つように思われる。
私の理解によれば,カントの『永遠平和のため に』は,たんなる時事的あるいは政治的なパンフ レットではなく,道徳と法を包含するカントの道 徳哲学の構想全体の頂点に位置づけられるもので ある(5)。その『永遠平和のために』にヨーロッパ 列強による植民地主義を批判する文言があり,そ の文脈のなかで日本の鎖国政策が賞賛されている ことは,よく知られている。その文言はたんなる 挿話として受け取られがちであるが,平子は,植 民地主義批判こそ『永遠平和のために』の主要な 動機であると見,カントの所有論は植民地主義を 擁護する論理としてのロックの所有論に対する批 判になっている,と主張するのである。この平子 の所論に従ってカントのロック所有論批判を検討
してみよう。
まず,ロックの所有論が植民地主義を明示的に 擁護していると読みうる一節を見よう。
このこと(労働によって土地の価値が格段に高 まること)を証明するものとして,土地は豊富 にもちながら,生活を快適にするためのものは すべてにおいて乏しい,アメリカ人のうちいく つかの民族ほど明瞭な例を提供するものはあり えないであろう。彼らは自然から豊かな資源,
すなわち食物,衣服,および生活に喜びを与え るに役立つものを豊富に生産するのに適した実 り多い土壌を,他のどの国民に比べても負けな いくらい惜しみなく供給されておりながら,し かもそれを労働によって改良する点に欠けてい たため,我われが享受する衣食住の便の百分の 一の便ももっていない。そこではイギリスの日 雇い労働者よりも粗末な衣食住の状態にあるの である。(§41)
狩猟,漁労,採集といった労働は土地の所有権を 与えず,農耕という労働のみが土地の所有権を与 える,という論理である。平子は,ロックがあげ る例がしばしばアメリカ原住民の例であることを 指摘し,たしかにロックの所有論はアメリカ原住 民から土地を収奪する理論でもあったと主張する。
それを見据えるかのように,カントは厳しい断 罪の言葉を述べる。まず『法論』の一節を,続い て『永遠平和のために』の一節を引こう。
……自然でも偶然でもなくて,もっぱら我われ 自身の意志がある民族との隣接を選ばせたので あるが,この民族は我われと市民的結合をなす 何らの見込みもないといった場合に,我われは,
こうした結合を樹立させてこれらの人々(野蛮
人)を法的状態に移行させる(たとえば,アメ リカ・インディアン,ホッテント人,オースト ラリア原住民などをそうする)という意図のも とに,必要とあれば暴力をもってあるいは(そ れよりましとは言えないが)詐欺的な買収によっ て植民地を建設し,このようにして彼らの土地 の所有者となるということ,そして,彼らの最 初の占有を無視して我われの優越を利用するこ と,こうしたことが許されてよいのではなかろ うか? とくに,自然そのものが(真空を忌む のと同じように)このことを要求しているよう に思われるのであって,世界の他の部分におけ る広大な地域は,今でこそ立派に住民で充満し ているけれども,もし上のようなことがなけれ ば文明化された住民という点において無人のま まにとどまっていただろうし,否,さらに未来 永劫に無人のままである以外にないだろうから,
かくては,創造の目的は空しくされることにな るのではないか? このように問われもするで あろう。しかしながら,よい目的のためには手 段を選ばぬとする,こうした不正義の覆面(イ エズス会流のやり方)は見破ることが容易であ る。こうした土地取得の仕方はそれゆえ,唾棄 すべきものである。(Ⅵ266)
ところで,我われの大陸の文明化された諸国家,
とくに商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態 度をこれと比較してみると,彼らが他の土地や 他の民族を訪問する際に(訪問することは,彼 らにとって,そこを征服することと同じことを 意味するが)示す不正は,恐るべき程度にまで 達している。アメリカ,黒人諸国,香料諸島,
喜望峰などは,それらが発見されたとき,彼ら にとっては誰にも属さない土地であるかのよう であったが,それは彼らが住民たちを無に等し
いとみなしたからである。東インド(ヒンドス タン)では,彼らは商業支店を設けるだけだと いう口実の下に軍隊を導入したが,しかしそれ とともに原住民を圧迫し,その地の諸国家を扇 動して,広範な範囲におよぶ戦争を起こし,飢 え,反乱,裏切り,その他人類を苦しめるあら ゆる災厄を嘆く声が数えたてるような悪事をも ちこんだのである。(Ⅷ359)
これらの箇所では,たしかに「先占」の論理が 先住民の権利を弁護する働きをしている。そして,
先住民の土地を放置すれば「創造の目的は空しく されることになるのではないか?」などと言って 先住民の土地を収奪することを正当化する論理を
「こうした土地取得の仕方はそれゆえ,唾棄すべ きものである」と断罪するカントの議論が,植民 地主義の背後にあるロックの所有論を批判の標的 としていると考えることは,むしろ自然であろう。
さて,カントの植民地主義に対する批判は,ま ず時事的・政治的な批判だと見なされ,したがっ て,ロックの所有論に対する批判も時事的・政治 的なものだとも言いうるだろう。そうだとすれば,
それは植民地主義を止めさせるという特定の政治 目的を追求するためのレトリックの一種である,
とも言いうる。しかし,すでに述べたように,
『永遠平和のために』はカントの道徳哲学全体と の緊密な連関の下にある著作であって,たんなる 時事的・政治的なパンフレットではない。カント のロック所有論批判もまた,たんに時事的・政治 的な議論に留まるものではなく,理論的・哲学的 な批判でもある,と見られるべきである。その批 判の理論的・哲学的部分は次のようにまとめられ るかもしれない。「労働」にはさまざまな形態が あり,それに応じてさまざまな所有形態が考えら れるはずであるにもかかわらず,ロックはイング
ランド風の「農耕」を一方的に,しかも独断的に,
高く評価しすぎている。自分の属する伝統や文化 を無批判に前提としているのである。たしかに農 耕は常に一定の土地を必要とし,その排他的使用 と不可分だが,それは他の労働の形態が要請する 土地所有に優越する特権的な土地所有のあり方を 正当化するわけではない。「先占」の論理は,こ のようなロック流の所有論の欠陥を克服する論理 である,と解釈することができるのである。
三・二 自己所有権をめぐる議論
このように,植民地主義を擁護する論理である ロックの所有論を批判することが,カントの所有 論の大きな動機となっていることは,平子ととも に認めることができるように思われる。しかし,
カントがロックの所有論を批判するさいの標的は それだけではない。ロックの所有論の前提である 自己所有という考え方にも,カントの批判は向け られているように思われる。たとえば,自己を
「処分する(disponieren)」ことについて,『法 論』の第一節「物権について」の終わり,第二節
「対人権(債権)について」の直前で,次のよう に論じられている。
ある外的対象がその実体にかんして誰かある人 の自分のものである場合,その対象はその人の 所有物(dominium)であり,この所有物に対 しては,当該物件における一切の権利が内属す る(……)のであって,所有者(dominus) はそれだから,当該物件を任意に処分しうるの である(自分ノ物件ヲ任意ニ処分スル権利)。
しかし,ここからして,当然に次のことが帰結 する。すなわち,こうした対象はただ有体的物 件(それに対して人は何らの責務も負うことが ない)だけでしかありえず,したがって,人間
たるものは自己の主(自権者suijuris)では ありえても,自己自身の所有者(suidominus 自己を任意に処分しうるもの)ではありえず,
まして他人の所有者ではありえないということ,
これである。なぜなら,人間は自分自身の人格 のうちなる人間性(Menschheit)に対して責 任がある(verantwortlich)からである。た だし,この最後に述べた点は,人間性の権利に 属することであり,人間(Mensch)の権利に 属することではないのであって,この場所で論 ずべきことではなく,直前に述べた事柄をより よく理解していただくためにただついでに触れ たにすぎない。(Ⅵ270)
必ずしも読みやすい叙述ではないが,各人が他 の人の所有者ではありえないのみならず自己の所 有者でもないことが主張されていることは,明ら かである。自己所有という前提が成立しなければ,
労働所有論は成立しない。自己および身体,そし てその働きである労働の道徳的・法的身分の再考 をカントは迫っている,と言ってもよいだろう。
ただし,ここで誤解を避けるよう注意する必要 がある。あるものを所有していることがそのもの を処分する権利をもつことであるとすれば,ある ものを所有していないことはそのものを処分する 権利をもたない,ということであるから,人が自 己を所有するものでないとすれば,人は自己を処 分する権利をもたないということであり,自殺な どの形で自己を処分する権利はない,という結論 も可能であるにもかかわらず,カントはそう結論 していない点である。その理由は法の原理からす でに明らかであろう。「法の普遍的原理」は,誰 の選択意志の自由も侵害しない行為は,法的に許 されるのであり,したがって自己を処分すること は,それ自体としては不正ではない。むしろカン
トの論点は,自己の処分の問題ははじめから法・
権利の問題ではなく,「所有する・しない」,「処 分する・しない」という法的な語彙を用いて語る べきことではなく,「人間の権利」ではなく「人 間性の権利」に属することだ,というところにあ る。この点については,他で論じたことがある(6) ので詳述することは控えるが,自己所有という前 提に見られるような自己観,身体観に再考を迫る カントのこの議論は,カントの労働所有論に対す る批判を理解する際にも見過ごしてはならない論 点であるように思われる。
結論にかえて
所有権の条件として「先占」をとるか「労働」
をとるかという点では鋭く対立するカントとロッ クだが,すでに述べたように,その他の点では共 通すると考えられるところも少なくない。以上の 考察を踏まえて,ロックの所有論を見直してみよ う。
森村によればロックによる所有権の正当化の理 由は,次の四つにまとめられる。①価値の創造,
②功績,③人格の延長,④生存と繁栄(7)。森村は
②および③を副次的な理由と見なし,①および④ を主要な理由とみなしている。また,②に対して は,功績に対する報酬が労働の対象の所有である 必然性はないという批判や,功績とは人類の生存 と繁栄に対する功績に他ならないから,②は結局
④に包摂されるという議論があることを,指摘し ている。さしあたり,森村の評価に従い,ロック の所有権の正当化の理由は,価値の創造と人類の 生存と繁栄に寄与することに帰着する,としよう。
カントの所有論は,①および④を逆手にとって 労働所有論を批判するものと解釈することができ る。すなわち,すでにまとめたように,労働によっ
て創造される価値は多様であり,人々の生存と繁 栄の形態もまた多様であるにもかかわらず,ロッ クはその多様性を正当に評価していない,という ことである。そして,おそらくカントにとって,
ロックの誤りは,たんに価値の創造や生存と繁栄 の内容にかんする自文化中心的な偏向の問題に留 まるものではない。その偏向のもとになっている 帰結主義的な正当化の方法こそが,究極的には,
批判されなければならない,とカントは言うであ ろう。すなわち,他のあらゆる人々の根源的権利 である自由と調和しうるように,という法(権利)
の原理が常に根底に置かれなければならないので ある。
その原理が根底に置かれる限り,カントも価値 の創造や人類の生存と繁栄といった条件を,所有 権を具体的に規定する派生的な条件として認めう るだろうし,労働をその一つとして認めるにも吝 かではないのではないだろうか。しかし,それは 所有権の究極的な根拠ではありえないし,それに よって正当化される所有権は絶対的ではありえな い。所有権をも含む権利にかんする議論は,常に,
「人間性ゆえに」あらゆる人に帰属する「根源的 権利」である「自由」,およびその自由が共存し うるための諸条件をめぐる考察に立ち返り,そこ
から出発し直さなければならないのである。この 認識が,所有にかかわる現代の問題を考えるさい にもつ意義は,決して小さくはない。
註
(
1
) カントの著作からの引用は,アカデミー版著作 集の巻をローマ数字で,頁をアラビア数字で示す。(
2
) 森村進『ロック所有論の再生』有斐閣,1997 年,第4
章。(
3
) 同書同箇所。(
4
)「グローバリゼーションとカント カント『永 遠平和のために』のアクチュアリティー」2006年1
月16
日聖学院大学大学院総合研究所「グローバリ ゼーション研究会」報告。(
5
) この点については,以下の拙論を参照されたい。「グローバル・エシックスとしてのカントの道徳 形而上学」日本カント協会編『ドイツ哲学の意義 と展望』理想社,2006年。
(
6
) 拙論「カントと自己決定の問題」カント研究会 編『自己の探求』晃洋書房,2001年。(
7
) 森村進の前掲書,第3
章。付 記
本稿は基礎法研究会(2006年
3
月,明治学院大学 白金校舎)において発表された草稿に基づく。当日ご 清聴いただき貴重なご意見をいただいた方々に感謝申 し上げる。(2006年