森 有礼 とわが 国近代 商業教 育 の創成
田 中 昭 徳
1.「 国 家 主 義 者 」 森 有 礼 と 商 業 教 育
森 有 礼(も り ・あ りの り,1847‑89)が 初 代 の 文 部 大 臣 と して,わ が 国 近 代 教 育 制 度 の 基 礎 を 固 め た 人 物 で あ る こ と は,周 知 の 通 りで あ る 。 明 治18年 (1885)12月,内 閣 制 度 の 発 足 に 伴 な い,伊 藤 博 文 の 奏 薦 に よ り 第1次 伊 藤 内 閣 の 文 相 に 任 命 され た 森 は,宰 相 伊 藤 の ひ た ぶ る な 援 助 の も と に,明 治19 年3月20日 の 帝 国 大 学 令(勅 令 第3号)を 初 め,同 年4月10日 の 師 範 学 校 令 (勅令第13号),小 学 校 令(勅 令 第14号),中 学 校 令(勅 令第15号)お よび 諸 学 校 通 則(勅 令第16号)を 相 次 い で 公 布 し,徹 底 的 な 学 制 改 革 を 断 行 して,そ の 近 代 化 を 図 る と と も に,い わ ゆ る 「国 体 主 義 の 教 育 」 を 強 行 して,わ が 国 教
(1)
育史 に大 きな 足 跡 を 残 した。
くわ
と ころで,こ の森 は ま た,通 常 「わ が 国商 業 教 育 の第 一 の功 労者 」 と称 せ られ て い る。 そ れ とい うの も,彼 が 明治8年(1875)8月,東 京 京橋 尾 張 町 に,わ が 国商 業 学校 の 濫筋 と も 見 な さ るべ き 商 法 講 習 所 を,私 財 を投 じて 開設 した 業 績 に よって で あ ろ う。 改 め て 述 べ る まで もな く,こ の森 氏私 立商 法 講 習 所 は,翌9年5月 東 京府 に移 管 され,14年7月 に廃 止,同 年9月 再 興 の うえ,17年3月21日 の農 商 務 省 達 に よって 農商 務 省管 轄 「東 京 商業 学 校 」 とな り,さ らに翌18年5月14日 の 文 部 省 告示 第1号 を以 て文 部 省 の所 管 に移 され た 。 そ して,同18年9月22日 に 文 部 省告 示 第4号 に よって 東 京
(1)森 の 文 教 政 策 上 に お け る業 績 に つ い ては,特 に 次 の文 献 に 詳 しい.
海 後宗臣 ほか,「 森 有礼 の思想 と教 育政 策」,r東 京大学教育学 部紀要』第8巻, 1965年,所 収.
土屋忠雄,「森 有礼の教育政策」,石川謙博士還暦 記念論文 集 『教育 の史 的展 開』, 1952年 講 談社 刊.所 収.
(2)内 山克己 著r明 治前期実 業教育施策史 の研究』,1972年 東海大 学 出版 会刊,
448頁,お よび 田村 栄太郎著 『日本 の産業指導者』,1944年 刊を参照.
90 商 学 討 究 第25巻 第1・2号
外国語学校 お よび 同校所属高等商業学校 を合併 吸収 し,「更 二東京商業学校
(3)
ト称 シ候 条此 旨告 示 候 事 」 と告 示 され,東 京 神 田一 橋 通 町1番 地 の 元東 京 外 国語 学校 校 舎 に移 転 した 。 そ の合 併 の 理 由は,「 管 理,経 済 ノ便利 ヲ図 リ且
くリ
ツ商 業 上 外 国語 ノ必 要 ナル ヲ以 テ」 と され て い る。 明治20年5月 に 「高 等 商 業 学校 」,次 い で35年3月 に は 「東 京 高等 商 業 学 校 」 と改 称 し,そ して大 正9年(1920)4月 に改 組 され て,東 京 商 科 大 学 とな った 。 今 日の一 橋 大 学 の前 身 で あ る。
この森 氏 私 立 商 法 講 習所 の 開設 は,当 時 「殖 産 興 業 」 の 中心 機 関 であ った
くの
大 蔵 省 が 明治7年4月,銀 行 簿記 伝 習 のた め に特 設 した 「銀 行 学 局 」 に 遅れ る こ と 約1年 で あ った が,本 来 的 な商 業 教 育 とい う 見地 か らすれ ば,森 の この 商 法 講 習所 こそ が,ま さ しくそ の 濫筋 で あ り臆矢 で あ った と言 わ ねば な らな い。 当 時 は未 だ,徳 川 時 代 以 来 の 封建 的 儒 教 道 徳 に よっ て植 えつ け られ た 「賎 商 意 識 」が 国民 全般,い や,「 富 国強 兵 」を 唱 導 す る為 政者 の 間 に さ え
くの
も根強 くは び こっ て いた 。 そ う した 「商 業 蔑 視 」 の風 潮 の も とで,森 は い っ た い 如何 な る意 図 か らこの商 法 講 習所 を 私 立 で 開設 し,ま た 開 設 せ ざ るを得 なか っ た の であ ろ うか 。 この 点 につ い て,島 田三 郎 編r矢 野 二 郎伝 』 は こ ケ
くり
述 べ て い る 。
「斯人(引 用者注,森 有礼 を指 す)が 米 国に在 る こと数年,齎 し帰 りた る意 見の一 一 は商業 教育 の開発論 な り,彼 謂 へ ら く米 国の強大 は其 富資 の充 実に在 りて,富 資充 実の源 は有為 有識 の人材 が実業 界に馳騎 して功名 を此 方面 に立つ るにあ り,我 日本 が人材 を政治 の一方 に傾 け て,其 教 育 も亦政治 法律軍 事文学 に偏重 し,農 工 の教 育
(3)r明 治 以 降 教 育 制 度 発 達 史 』 第2巻,重 版,1964年 教 育 資 料 調 査 会 刊,489頁.
(4)『 文 部 省 第 十 三 年 報 』,復 刻 版,1967年 宣 文 堂 書 店 刊,7頁.
(5)銀 行 学 局 に つ い て は,拙 稿,「 わ が 国 近 代 商 業 教 育 制 度 の 成 立 過 程(そ の1)」, 小 樽 商 科 大 学 『人 文 研 究 』 第47輯,1974年 刊,所 収 の 「2.明 治 初 年 に お け る 政 府 の 勧 商 施 策 と 銀 行 学 局 の 設 立 」,15‑20頁 を 参 照.
(6)福 沢 諭 吉 が こ の 「賎 商 意 識 」 を,日 本 の 近 代 化 に と っ て 何 よ り も ま ず 「掃 却 」 さ れ ね ば な ら な い 「封 建 ノ残 夢 」 と 捉 え た こ と は,周 知 の 通 りで あ る,参 照,拙 稿,上 掲 論 文,1‑7頁.
(7)島 田 三 郎 編r矢 野 二 郎 伝 』,1913年 矢 野 二 郎 翁 伝 記 編 纂 会 刊,48‑49頁.
を軽視 し,特 に商 業を 全ぐ教 育範 囲の度外 に置 くは,時 代 ゐ要 求に副へ る方 針に あ らず と,急 進 の性 質を有 せ る彼 は之 を当路に建言 して,噛商業学校 を創設 せ しむ るの 志 あ り,帰 国 の際之 を米 人に計議 し,ホ イ ッ トニーを聰 す るの予 約を為 した り。既 に して其寛見 を政 府に告 ぐるも空言 として容れ られず,米 人は 約を履 みて来 れ り, 森 は帝国 の公 人な り,先 に公 使 として国家を代表せ し紳 士 な り,自 己 の信用 と帝国
の面 目とに対 して之 を中止す る能はず,京 橋区尾張 町一煉瓦屋 の階上 を倣 りて,此 に卑近 の商業教育 を授 くる こと瓦せ り,当 時 の通語 に従 ひ商法講 習所 と称す,此 事 明治八年八 月に在 り,是 れ我 国商業学校 の濫簡 に して,大 小高下各 種 の学校 皆 明治 政 府 の設置 に成 りて,次 第に民間 に布 及 し,教 育が 施政 の要務 と して経営せ られた る史蹟 中,独 商 業教育 が民間に発源 し,湖 りて当路 を啓発 し,先 覚 者 の辛苦努 力に よ り,汎 濫 淳蓄漸 次全 国に禰 漫 して,今 日の盛 況を見 るに至 りしは,我 国の教 育史 上に大書 すべ き特色 な り。 」
森 は,一 面 で は ぎ わ め て 進 歩 的 な 自 由 主 義 者 で あ っ た 。 彼 は 既 に 慶 応 年 間 に イ ギ リ ス と ア メ リ カ に 留 学 し,自 由 主 義 の 洗 礼 を 受 け て い た 、 そ の 彼 が 明 治 維 新 を ど の よ う に 見 た か は,再 度 ア メ リ カ に 弁 務 使 と し て 駐 劃 し,代 理 公 使 の 任 に あ っ た と き,1872年11月 に 書 い たr日 本 に お け る 宗 教 的 自 由 』
(.ReligionsFreeaominJaPan.AMemorialan4DraftoゾCゐ 〃'6γ・By ArinoriMori.Privatelyprinted,1872)の 中 の 次 の 言 葉 が こ れ を 雄 弁 に 物
(8)
語 っ て い る 。
"Itmustberemembered
,thatprogresscanonlybeachievedthrough revolutionsandtrials,inasmuchassuchisthelawofnature.The
benefitsofsocialrevolutionhavebeenamplyexperiencedbyourpeople nowformanycenturies,especiallywithinthelasttwentyyears."
言 葉 の 厳 格 な 意 味 が 何 で あ った か は 暫 く措 く と して も,森 が 明 治 維 新 を と も か く 「革 命 」(revolution)と 呼 び,"進 歩"は 革 命 に よ っ て 初 め て もた
ら され る と言 っ て い る の は,注 目 さ れ る 。
ま た,森 は 明 治6年,西 村 茂 樹 と 図 っ て,西 洋 の 科 学 ア カ デ ミー に 倣 っ て
(8)大 久 保 利 謙 編 『森 有 礼 全 集 』 第1巻,1972年 宣 文 堂 刊,291‑292頁.な お,
森 は1873年 に 編 集 刊 行 し た 英 文r日 本 の 教 育 』 の 「緒 論 」 で も,明 治 維 新
(Osheiishin)を"revolution"と し て 把 握 し て い る.(同 上 全 集,第3巻,262
頁)。
92
商 学 討 究 第25巻 第1・2号「明六 社 」 を 結成 してr明 六 雑 誌 』 を刊 行 し,中 核 的 な同 人 に,福 沢 諭 吉, 西 周,津 田真 道,箕 作 麟 鮮,加 藤 弘 之,中 村 正 直 な ど,当 時 の指 導 的 知 識 人 を 迎 え いれ た 。 そ の 意 図 す る と ころ は,学 問 と思 想 の 自由な 研 究 の 促進 で あ る。 明六社 に 拠 った森 は,信 仰 の 自由 を説 き,蓄 妾 の 制 度 に 反対 し,広 瀬 阿 常 と結 婚 した と きに は身 を も って伝 統 的 な結 婚 の様 式 に抵 抗 し,福 沢諭 吉 を 証 人 と して 婚 姻 契 約 を 取 り換 わす こ とに よっ て,こ れ に 替 えた 。
この よ うに,自 由主 義 者 と して の森 の進 歩 的 諸活 動 は,明 治 初年 以 来 い ち じる しく積 極 的 で あ り,人 び とを して瞠 目させ る ものが あ った。 だが,そ の
「進 歩 性 」 が どの よ うな 性 格 の もので あ った か は,注 意 を要 す る。 確 か に森 は,信 仰 や学 問 や 思 想 の 自由 の重 要 性 を強 調 し,そ れ を促 進 す べ き必要 性 を 熟 知 して い た。 とは言 っ て も,森 は,福 沢 の よ うに,信 仰 や 学 問 お よび 思 想 の 自由は 国家 権 力 の干 渉 に抵 抗 し,こ れ か ら 自由に な る と きに成 立す る と考 え て い た の で は な い。
森 に よれ ば,国 家 権 力 自体 のほ うが 民 衆 よ りも ヨ リ啓 蒙 され た 存 在 で あ る。 既 に 明治 の初 期 か ら,森 の この 思想 的 立場 は 明 白で あ った 。 例 えば,彼 は,福 沢が 明治7年1月 に公 刊 した 『学 問 のすXめ 』 四 編 「学 者 の 職分 を論
(9)
ず 」 を批 判 して,『 明六 雑 誌 』 第2号 「学者 職 分 論 ノ評」 で こ う述べ て い る。
民 権 ヲ立 ル ノー 篇,意 ハ 懇 ヲ尽 シ 論 ハ 術 ヲ 得,読 ム 者 ヲ シ テ憤 起 セ シ ム ル ニ 足 ル, 然 レ 臣 其 説 ノ 穏 当 ナ ラ サ ル ヲ 覚 ル モ ノ ア リO其 一・二 「一 国 ノ全 体 ヲ 整i理ス ル ニ ハ 人 民 ト政 府 ト両 立 シ テ 始 テ其 成 功 ヲ得 ヘ キ モ ノ」 ト,此 レ何 等 ノ 見 ナ ル,夫 レ民 ノ 公 務 ハ 国 ノ 要 ス ル 処,文 事 ニ モ セ 武 事 ニ モ セ 必 ス 逃 避 ス 可 ラ ス,各 其 力 ヲ致 シ テ 之
二 従 事 ス ヘ キ ハ 論 ヲ待 タ サ ル ナ リ何 ヲ カ民 ト云 フ,其 務 ヲ為 ス ノ権 ト其 責 ヲ担 当 ス ヘ キ ノ 義 トヲ有 ス ル 者 ヲ指 ス ナ リ,故 二官 吏 モ 民 ナ リ,貴 族 モ 民 ナ リ,平 族 モ 民 ナ リ,日 本 ノ版 籍 二 属 ス ル 者 一 人 モ 我 民 名 ヲ免 カ ル ・ ヲ 得 ス,又 其 責 ヲ担 当 セ サ ル ヲ 得 ス,而 シ テ 政 府 ハ 万 姓 ノ政 府 ニ シ テ,民 ノ 為 二 設 ケ 民 二 拠 テ 立 ツ処 ノ モ ノ ナ リ, 然 レハ 則 其 間 二 政 府 ト人 民 ト両 立 ス ル ノ理 ア ル ヲ知 ラ ス,又 其 状 ア ル ヲ見 ス,欧 洲
諸国 ノ中王威 無限,政 権 一家 ノ有 トナ リテ政 令任意 二行 フ ヲ以 テ民之 ヲ好 マス,其 間 二不和 ヲ生 シ騒乱 ヲ起 シ,遂 二其威 力 ヲ限 リ政 権 ヲ多手 二分 チ,所 謂定律王政 或 ハ共和民政 ノ体 二変 セ シ 国多 クア レ托,未 タ政府 ト人民 トノ間 二 内外対 立刺衝 調
(9)『 森 有 礼 全 集 』 第1巻,233‑234頁.
和 ノ 例 文 其 説 ア ル ヲ 聞 カ ス ○ 其 説 ノ ニ ニ 「世 ノ文 明 ヲ進 ム ル ニ ハ 唯 政 府 ノカ ノ ミニ 依 頼 ス 可 ラ ス ト」 世 ノ文 明 ヲ進 ム ル ハ 政 府 ノ 本 筋 ト為 シ 難 タ シ,蓋 シ 其 責 ハ 之 ヲ知
〆 リ之 ヲ主 張 ス ル ノ人 ニ ス,ヲ 主 張 ス ル 者 ハ 各 能 ク 其 地 位 ヲ察 シ 世 事 ヲ為 ス 可 ケ レハ,各 其 意 ノ適 ル 所 二 就 テ 民 ノ 義 ヲ務 メ世 ノ公 利 ヲ進 ム ヘ シ,然 レハ 官 途 二 出 テ之
!ヲ 為 ス モ 又 私 立 シ テ 之 ヲ為 ス モ 別 二 差 異 ア ル 「ナ シ
,福 沢 先 生 ノ私 立 為 業 以 テ 天 下 ノ 人 二 其 方 向 ヲ示 サ ル ・ ノ意 思 ハ 先 生 ノ 意 思 ニ シ テ 嘉 ス ヘ ク,又 之 ヲ嘉 トス ル 人 品 ノ為 二 快 然 タ ル 意 思 ナ リ,然 レ冊 私 立 為 業 ト在 官 為 務 ト較 テ世 ノ利 害 ヲ論 セ ラ ル ・ ハ 恐 クハ 未 タ 其 趣 旨 ノ偏 ナ ル ヲ免 カ レス ,若 シ在 官 為 務 ノ公 益,私 立 為 業 ノ世 利 二 及 ハ ス ト云 フ時 ハ,学 者 ハ 皆 膚 途 ヲ去 リ不 学 ノ 者 ノ ミニ 政 府 ヲ托 シ テ始 テ世 利 興 ル ト云 フ ニ 至 ル ナ リ,思 フ ニ 先 生 ノ高 見 亦 必 シ モ 然 ラ ス,蓋 シ是 レ憂 国 ノ厚 情 此 二 至 ル 者,其 付 録 ノ如 キ ハ 若 シ 之 ヲ除 カ ハ 更 ニー・段 ノ佳 味 ヲ生 セ ソ蜘(傍 線 は 引 用 者)。
ロ
つ ま り,福 沢 が 国家 権 力 か ら独 立 した学 問 の 自由 と学者 の使 命 を 説 い た の に 対 して,森 は,官 吏 に もせ よ,貴 族 に もせ よ,平 民 に もせ よ,皆 同 じ日本 国 ,民 で あ り,し た が って,福 沢 の よ うに,政 府 か らの 学者 の独 立 を 説 け ば,「 学
者 ハ 皆 官途 ヲ去 リ不 学 ノ者 ノ ミニ政 府 ヲ托 」 す る こ とに な るの で は な いか, と反 論 した の で あ る。 こ こに,後 年,森 が 自己 の立 場 を 「国 体主 義 」 と呼 ん だ そ の萌 芽 が 既 に現 わ れ て い る と見 る こ とが で き よ う。
徳富 蘇峰 は森 を評 して,そ の 生涯 の 前半 は 「非 常 な る 自由家 」 に して 「非 常 な る急 進 家 」 で あ り,そ の後 半 に は 「非常 な る保 守 家 」 に して 「非常 な る
ロの
専 制家 」 で あ る と 述 べ て い るが,森 はそ の 本 質 に お い て 国家 主 義者 で あ っ
(11)
た。 彼 の論 理 を辿 れ ば,第 一一義 的 な 最 高 の 重要 性 を もつ ものは,国 家 の 存 立 と富強 で あ り,信 仰 や 学問 や 思 想 の 自由 も国 家権 力 の 制 限 の範 囲 内 で成 立 す る。 い や,そ れ ば か りか,こ れ らの 自由が尊 重 され るの は 国家 の発 展 に 寄 与 す るた め で あ って,決 して 自己 目的 の た め で は な い。 実 業 の振 興 も同様 で あ る。 だ が,実 業 の振 興 は,彼 の第 一 義 とす る国 家 の存 立 と富 強 に とって,信
ao『 森 有 礼 全 集 』 第2巻,518頁.
ω 森 は そ の 信 奉 す る 国 家 主 義 を こ う表 明 し て い る.「 国 家 ト云 フ モ ノ ハ,無 形 ナ ル モ ノ ナ レ トモ 之 ヲ仏 ノ如 ク 神 ノ 如 ク 大 切 ノ モ ノ ニ ナ シ仕 事 ヲ ナ サ シ ム ル モ,学 科 ヲ学 ハ シ ム ル モ,国 家 ト云 フ コ トヲ以 テ 思 想 ヲ支 配 シ鼓 舞 シ テ 行 ク ヨ リ外 良 策 ナ カ ル ヘ ク,又 実 際 斯 クセ サ ル ヲ得 サ ル ナ リ,世 ノ中 二宗 教 ヲ基 トス ル ヲ 良 トス ル ノ説 ア レ トモ,容 易 二 行 ハ レス,独 リ国 家 ト 云 フ コ トヲー ト 向 ニ ス ル ヲ 良 ト ス 」.(海 門 山 人 編 『森 有 礼 』,1897年 民 交 社 刊,81‑82頁).
》
94 商 学 討 究 第25巻 第1・2号
仰 や 学 問 や思 想 の 自由 よ りも遙 か に 「有 効 」 で あ った。 こ こか ら して,森 が 信 仰 や 学 問 や 思 想 の 自由 よ りも,商 法講 習 所 の設 立 や 札 幌 農 学校 へ の ク ラ ー
クの招 聰 な ど,実 業教 育 の振 興 に 並 々な らぬ努 力 を傾 注 した 理 由が理 解 され る。
した が って,森 は 実 業教 育 の振 興 と充 実 に つ い て 当時 最 も 「進 歩 的」 な 立 場 を と った 。 だが,彼 は もろ もろ の実 業 教 育 の中 で も,商 業 教 育 の振 興 と充 実 こそ,わ が 国 の富 国強 兵 の 基礎 で あ る と考 えた 。 そ の理 由を彼 は,の ち ほ ど明 治18年4月,大 阪 商 法会 議 所 で 行 な っ た 「商業 教 育 の 必要 性 に関 す る
(12)
演 説 」 の 中 で,明 確 に こ う説 明 して い る 。
「試み に見 よ 一 国 の基礎 た る 農 工商 の状態 に して 今 日我 邦の如 く 憔惇 を極 む る間 は,縦 令海陸 軍を張 るも決 して国 力を張 るに足 らさるへ し。又農工 業 と錐亦商業 の 敗 北 を告 くる間は決 して盛大 を為 さ エるへ きな り。故 に商業 の一 事は我国 に取 て最 拡張せ さるへか らさ る急務 と云ふへ し。 余常 に以為 らく商売 は軍 の先鋒 な りと。 先 鋒 に して既 に脆 弱 な らんか,国 力 の張 らさる も亦宜 な らすや。夫 れ然 り,故 に今に して早 く計を為 し商売 の練習 と智 能 を養成せす んは将た何 の時 をか期せ んや。 我政 府 に於 て も此事 には 非常 に注意 を加 え 出来 る丈はや って 見や うとせ らる 厨 こ就 て は,第 一 に商業学校 を盛 んにせ ん と企 て らる 玉な り。 ……実 に今 日は前途安 危存亡 の繋 る所,自 ら西 洋 を敵 として先 鋒に 当 らん とす る者焉そ 其注意 を怠 るへけんや」
(傍線 は引用 者)。
森 は,イ ギ リス留 学 お よび 二 度 に わ た るア メ リカ滞 在 で,一 国 の 富強 が商 業 交 易 の興 隆 に 負 うこ との 如何 に大 きいか,そ して また,そ の 商業 交易 の興 隆 は商 業 教 育 と如 何 に 大 き なか か わ りを もつか を視 た ので あ った。 そ の 感慨 を 彼 は,上 記 の 「商 業 教 育 の必要 性 に 関す る演 説 」 の 中で 次 の よ うに述 べ て
q3)
い る 。
「嘗 て海王 とまて呼 は Σれ て大洋 に践 電 した る英国は,素 此 の永遠 の基礎 に依 て繁 昌 した るに 非 され は,今 は 却 て其 国 の 商 売 否 運 に傾 き,此 頃急 に 狼 狽 して 商 業 学 校 を設 けて子弟 を教育 し,以 て古 の勇敢な る鵬撃 を他国 に下 さんな と評 議中な りと聞
('マ マ)
及へ り。然 れ とも亦晩 しと云ふ へ し。之 に反 して,太 西洋 の彼 方 に在 る亜 米利 加合
⑫ 『森 有 礼 全 集 』 第1巻,462頁.
⑬ 同 上 書,461‑462頁.
衆 国は商業 の形勢 果 して如何 んそや,惟 みれ は此洲 は今 よ り殆ん と四百年前 の頃 に 始 めて発見せ られ た る新世界 に して,合 衆 国の基礎 を為 した る亦僅 かに百余年前 な り。然 るに此英国 を離れ て渡航 した る流民 の集 合は,互 に食 ふ もの もろ くろ くは食 はす着 るもの もろ くろ く着す して先つ学校 を建てた り。而 して合衆 国の基礎 略 々成 るに至 るや,商 業専 門 の学校 を も設け,又 一般 の進歩 を加 ふ るな と,事 々勉 強 を以 て送 り出 した る手際 は,既 に諸君 も聞及へ る所 な らんか,天 晴 れ感心す へ き こと多 しとす るな り。今余 は其商業学校 の数 を詳か にす るの便 を欠 きたれ とも,其 学校は 輿 に全国 に充満せ り。否,奮 に充 満す るのみ な らす,又 頗 完全せ り。例へ は一箇所 の商業学 校に五十 弗の金 を入れ て入学 した る者,後 事故 あ りて他 の土地 に転居 し, 其地 の学校 に入学 す る ときは,別 に入学金 を出すを 要せ さる 等 の便法 あ り。 是皆 各地聯 絡 を通 して子弟 の便 を図 るものな り。又大 学校 の卒業 生の如 き高等 の教育 を 受 けた る者 も志 を商 業に立 て前途 の事業 を此 に執 らん とす る時 は,皆 一度 は商業学 校 に入 り六 箇 月の後卒 業 して出 る こと 瓦為 り居れ り。 され は此 国は今 よ り七 十年前 は一 切の事物 を他 国に仰 き,只 姻 草 と麦 のみを外 国 に輸 出せ しもの な りしか,後 に は進 んて麦 を粉に して 出す ことを為 し,蚊 に欧羅 巴 の商 人を喫驚せ しめた りしか, 今 は更に之 をは麹 包に製 して以 て欧洲 へ出 し,又 は 肉類 をは氷結に し輸 出す る事 を 発 すに至れ り。為 に欧洲 の市場 は殆 ん と撹 乱せ らる 瓦の姿な り。斯 の如 く活澄勉励
に して競争 に務 む る合衆 国なれ ば其富 め るも亦 怪む に足 らさるな り。 」
それ ゆ え に,森 は ア メ リカの 商 業教 育 に 注 目 した 。 彼 は 駐割 弁 務使 と して
再 度 ア メ リカ に 在 っ た と き,1871年(明 治4年)9月,こ の 国 の 国 民 生 活 の 実
情 を わ が国 に 紹 介す べ く,み ず か らの監 修 の も とに公 使 館 書 記 チ ャール ズ ・ラ ン マ ン に 英 文 『ア メ リ カ の 生 活 と 資 源 』(・LifeandResourcesinAme「ica・
preparedunderthedirectionofA血oriMoriforcirculationinJapan.
WashingtonD・C・,1871)を 編 纂 さ せ,そ の 中 で 商 業 教 育 に つ い て 次 の よ う
(14)
に 紹 介 して い る 。
"InnoneofthepublicschoolsofAmericaarethefoundationprinciples
⑪4『 森 有 礼 全 集 』 第3巻,17頁,試 訳 を 掲 げ れ ば,次 の 如 くで あ る.
「ア メ リカの公立学校 には商業 の原理 を教 える ところはな いけれ ども,個 人 に よ って経営 され る,い わ ゆる連鎖 組織商業学 校が あ り,そ の数は40を くだ らず,
メイ ン州か らル イジ アナ州 に及 んで い る,そ の教育 課程は きわ め て完 全で商業活 動 に必要 な全分 野を網羅 してい る.ま た,こ の連鎖 組織は1つ の統制 の もとにあ るので,学 生はそ の1つ の学 校で或 る課程を修 了 した後 に,他 のいずれ の学校 で
も再 び,授 業料 の追 加徴集を受け ないで,修 業を続け ることがで き る.」
、
96 商 学 討 究 第25巻 第1・2号
ofcomlnercetaught,andhencetheτehavebeenestablishedbyprivate individualswhatiscalleda"ChainofCommercialColleges;"‑they皿umber notIessthanforty,andextendfromMainetoLouisiana;theircourseof instructionisverycomplete,andcoversall七hatisnecessaryforacom‑
merciallife;andbecausethisassociationisundefonehead,theregulatiolls aresuch,thatastudent,aftercompletingacourseofstudiesinone,may againtakethemupandpursuethematanotherschooloftheChain, withoutadditioIlalexpense.'P
、
や が て 森 に よっ て招 聰 され,商 法 講 習 所 の指 導 に 当た る こ とに な った ウ ィ
(15)
リ ア ム ・C・ ホ イ ッ ト ニ ー(WilliamCogswellWhitney,1825‑‑1882)は,
こ の 連 鎖 組 織 商 業 学 校(ChainofCommercialColleges)の1つ で あ る
Bryant・Stratton&WhitneyBusinessCollegeの 経 営 者 に し て 校 長 で あ っ
た 。 彼 は 名 門 の 出 で,首 都 ワ シ ン ト ン の 郊 外 ジ ョ ー ジ タ ウ ン に 生 ま れ,エ ー ル 大 学 を 卒 業 後,1852年 に ニ ュ ・一ジ ャ ー ジ ー 州 二=一 ア ー ク 市 ブ ロ ー ド街711‑713番 地 に 上 記 の 学 校 を 開 設 した 。 彼 の 学 校 は,当 時 評 判 の 新 しい 教 育
施 設 で,優 秀 な教 師 を 揃 え,幾 つか の大 講 堂 は実業 界 に進 も うとす る熱 心 な学 生 た ち で 何 時 も溢 れ て い た と 謂 う。1866〜67年(明 治2〜3年)ご ろ,こ の
学校 へ 最初 の 日本 人 留 学 生 と して,後 の 日本 銀行 総 裁 ・東 京府 知事 富 田鉄 之(16)
助 が 入 学 した 。 続 い て高 木 貞 作,数 江 三 左衛 門 が入 学 す る。 富 田は ホ イ ッ ト
⑮ ウ ィ リ ア ム ・ホ イ ッ トニ ー に つ い て は,西 川 孝 治 郎 著 『日 本 簿 記 史 談 』,1972 年 同 文 館 出 版 刊,第 九 話 「ホ イ ッ トニ ー と商 法 講 習 所 」 に 詳 しい.本 稿 に お け る ホ イ ッ トニ ー に 関 す る 記 述 は,西 川 氏 の 研 究 に 拠 っ て い る.
⑯ 富 田 鉄 之 助 は 天 保6年(1835)10月,仙 台 藩 士 の 子 と し て 仙 台 に 生 まれ た.壮 年 期 に 江 戸 へ 出 て 勝 海 舟 の 門 に 入 り,慶 応3年(1867)7月 勝 の 子 小 鹿 の 介 添 え
と し て 同 門 の 高 木 三 郎 と 共 に ア メ リ カ に 留 学,時 に33歳.明 治 元 年(1868)に 一 旦 帰 国 ,ま た 再 遊 学 し,2年7月 新 政 府 の 留 学 生 と な っ た.翌3年12月,森 が 駐 米 少 弁 務 使 と し て 着 任 し て 以 後,親 交 を 結 ぶ.明 治5年2月 ニ ュ ー ヨ ー ク駐 在 領 事 心 得 と な り,翌6年 同 副 領 事 に 昇 任.7年2月 賜 暇 帰 朝 し,森 の 影 響 の も と に,杉 田 阿 縫 と婚 姻 契 約 に よ る 結 婚 を 行 な っ た.同 年11月 米 国 へ 帰 任,明 治9 年8月 一 旦 帰 国 の うえ,同 年11月 清 国 上 海 駐 在 総 領 事 に 任 ぜ ら れ た.14年,駐 英 代 理 公 使 を 最 後 に 大 蔵 省 に 転 じ,日 本 銀 行 の 創 立 に 参 画 し,そ の 初 代 副 総 裁 を 経 た の ち,21年 日本 銀 行 総 裁 と な る.そ の 間,『 銀 行 小 言 』 上 下2巻 を 刊 行(18 年)し,ま た 郷 里 仙 台 に 東 華 学 校 を 設 立 す る と 共 に 東 京 商 業 学 校 校 務 商 議 委 員 と
し て 活 躍 し,19年2月 文 部 省 か ら 商 業 教 育 に 対 す る尽 力 の 功 に よ っ て 表 彰 さ れ*
ニ ー 夫 妻 の 愛 顧 を 受 け,家 庭 へ の 出 入 りを 許 され て ホ イ ッ トニ ー一 家 と の 親 交 が 始 ま っ た 。 そ こへ 森 が 駐 米 少 弁 務 使 と して赴 任 して 来 た 。 森 は 富 田 を 介 して ホ イ ッ トニ ーを 識 る に 及 ん で,彼 を わ が 国 商 業 教 育 の 指 導 者 に 迎 え る べ く非 公 式 に 招 聰 し,そ の 内 諾 を 得 た 。 しか し,ホ イ ッ トニ ー は,上 述 の よ う に,既 に 事 業 に も 成 功 し,ま た 家 庭 の 幸 福 に も 恵 ま れ て 極 め て 順 境 に あ っ た 。 した が っ て,そ の 成 功 した 事 業 を 人 手 に 渡 し,生 命 の 危 険 さ え あ る 開 国 後 間 も な い 未 知 の 異 境,日 本 に 渡 航 す る こ と を,友 人 た ち は 愚 か な 企 て と言 い,ま た 夫 人 の 身 内 の 者 も 冒 険 だ と言 っ て 強 く反 対 した 。 に も 拘 らず,ホ イ
し
ッ トニ ー夫 妻 を して 家 財 を 処 分 して ま で 日本 移 住 を 強 く決 意 せ しめ た の は, ひ と え に 富 田 の 尽 力 に よ る。1872年(明 治5年)12月 の ホ イ ッ トニ ー 夫 人 の 手 記 に は 日本 渡 航 の こ と が 書 か れ て い る とい うか ら,森 の 帰 国 以 前 に 既 に そ の 決 意 と な っ て い た の で あ る 。 陰 に 陽 に 富 田 の 助 力 が な か っ た な らば,森 の 企 て は 恐 ら く陽 の 目 を み な か っ た に 違 い な い 。
と こ ろ で 森 は,こ の よ うに ホ イ ッ トニ ーを 招 聰 す る と 同 時 に 〆 他 方 で は わ が 国 商 業 教 育 の 在 り方 を 探 索 して い た 。 そ れ は,彼 が 同72年2月3日 付 け で ア メ リカ各 界 の 有 力 者15名 に 対 し,今 後 の 日本 の 教 育 の 在 り方 に つ い て 寛 見 を 求 め,5項 目の 質 問 事 項 中 の 第2項 目 と して特 に 「商 業 に 及 ぼ す 教 育 の 効 果 」 に つ い て 質 した こ とに も示 され て い る。 他 の4項 目 の 質 問 事 項 は, 同 様 に1.一 国 の 物 質 的 繁 栄,3.農 業 お よび 工 業 上 の 利 益,4.国 民 の 社 会 的 ・道 徳 的 ・身 体 的 状 態,5.法 律 お よ び 政 治 の そ れ ぞ れ に 及 ぼ す 教 育 の 効
の くの
果 に つ い て で あ っ た 。
これ ら5項 目の 質 問 事 項 は,森 が 日本 の 近 代 化 へ の 道 を ど こ に求 め て い た か を 示 す も の と して 注 目に 値 す る。 彼 は,世 間 一 般 の 人 び と の タ うに,教 育 の 効 用 を 単 に 人 間 の 知 的 ・道 徳 的 ・身 体 的 陶 冶 に の み 求 め て は い な か っ た 。
*た .22年9月 日本銀行 総裁 を辞任 後,東 京 市会議員 に選ば れ,翌23年 貴族 院議 とな り.24年7月 には第12代 東京府知事 に任 ぜ られ,同 年10月 まで在任 した.
富 田の伝 記につ いては,『 金融 ジ ャーナル』 に 連 載 され た 吉野 俊彦稿 「忘れ られ た元 日銀 総裁一富 田鉄之 助伝」 に詳 しい,
㈲ 『森有 礼全集』第3巻,271‑272頁.
\
98 商 学 討 究 第25巻 第1・2号
む し ろ 彼 は,わ が 国 の 政 治,経 済 お よ び 商 業 の 発 展,物 質 的 繁 栄 に 対 す る 教 育 の 効 用 を 特 に 期 待 し て い た の で あ る 。
森 は こ の 質 問 に 対 す る 回 答 書 簡 を 集 め,こ れ に 「緒 論 」 お よ び 関 係 資 料 を 付 し て,『 日 本 の 教 育 』(EaucationinJaPan;ASeriesofLetterS.AadPtessea
byProminentAmerioanstoArinori.Mori.NewYork:D.Appletonand
く
Compapy,1873)と い う タ イ トル の も とに,ニ ュ ー ヨ ー ク の ア ップ ル トン書 店 か ら公 刊 した 。
森 は,こ の 書 の 「緒 論 」 の 中 で,封 建 的 儒 教 道 徳 に よ っ て 国 民 諸 階 層,、 と りわ け 武 士 階 級 の 間 に 根 深 く植 え つ け られ た 「賎 商 意 識 」 が,今 や 日本 の 近
く
代 化 に と っ て 大 き な 障 害 に な っ て い る こ と を 指 摘 した の ち,現 在 世 界 を 支 配 しつ つ あ る 英 語 諸 国 民 の 商 業 勢 力 に 対 抗 し,彼 等 の 商 慣 習 や 商 業 の 手 法 を 熟 知 して わ が 国 の 独 立 を 保 持 して ゆ くた め に は,も は や 何 の 役 に も 立 た な い (allreasonssuggestitsdisuse)日 本 語 の 使 用 を や め て,新 た に 「改 良 さ れ 簡 略 化 さ れ た 英 語 」(SimplifiedEnglish)を 国 語 と して 採 用 す べ き こ と の 必
(20)1
要 性 を 主 張 して,次 の よ うに 述 べ て い る。
"ThecommercialpoweroftheEnglish ‑speakingracewhichnowrulesthe worlddrivesourpeopleintosomeknowledgeoftheircommercialways
andhabits.TheabsolutenecessityofmasteringtheEnglishlanguageis thusforceduponus・Itisarequisiteofthemaintenanceofourindepen一
denceinthecommunityofIlations.Underthecircumstances,ourmeagre language,whichcanneverbeofanyuseou七sideofourislands,isdoomed toyieldtothedomina廿onoftheEnglishtongue,especiallywhenthepower
ofsteamandelectricityshallhavepervadedtheland,"(傍 線 は 引 用 者)
森 の 悪 名 高 い い わゆ る 「英 語 国 語化 」 論 の底 意 に は,実 は 英 語 を 国 語化 す る こ とに よっ て,英 語 諸 国民 の強 力 な商 業 勢 力(commercialpower)か らわ が 国 の独 立 を守 ろ うとす る意 図 が潜 ん で い た。 森 はそ れ ほ ど国 家 主 義者 で あ っ
⑱ 『森 有 礼 全 集 』 第3巻,209頁 以 下 に そ の 原 文 か 収 録 さ れ て い る.
⑲ 同 上 書,263‑264頁.
⑳ 同 上 書,266頁.
た ので あ る。
未 だ 「学制 」(明 治5年)も 制 定 され な い 時 分 か ら,商 業 学校 を設 立せ ん と した森 の先 見 と努 力 は,当 時 と して は ま さに破 天 荒 の試 み に 属す る。 外 国商 人 の 手 に 握 られ た 「貿易 商 売 ノ権 」 の 回 復 を わ が 国 の独 立 と 日本 国民 の幸 福 に と って 「至 重 至 大 ノ急 務 」 と して い ち早 く把 え,こ の 「商 権 の 回復 」 を 日本 人 た る者 の義 務 だ と断 じた福 沢諭 吉 で さ え も,明 治2年1月,門 下生 の 早矢 仕 有的(は や し ・ゆ うてき)に 勧 め て,わ が 国最 初 の 貿 易商 社 「丸 屋 」 を' 創業 させ,こ の 「会 社 ヲ以 テ商 売 学校 ト見 傲 シ,… …実 際 執 行 ノ道 場 トシ テ
ゆ
歳 月 務 メ」 る こ とを 意 図 した に と ど ま っ た の で あ る 。
2.森 氏 私立 商法 講 習所 設 立 の 経 緯
「わ が 国 商業 学 校 の濫 筋 」 といわれ る森 氏私 立商 法 講 習 所 の 設 立 は,森 の 非 公 式 な ホ イ ッ トニ ーの招 聰 な らび に来 朝 と表 裏 一 体 の関 係 に あ る。 も っ と くだ い て言 え ば,在 米 中商 業 教 育 振 興 の 必要 を痛 感 した森 は,富 田鉄 之 助 の 助 力 を 得 て,ホ イ ッ トニ ーをわ が 国 商 業 教 育 の指 導 者 に迎 え るべ く,非 公 式 に招 聰 してそ の 内 諾 を得,帰 朝 して要 路 に 推 薦 した が,一 顧 だ に され なか っ た。 そ こで彼 は,種 々奔 走 の結 果,東 京 府 知 事 大 久保 一 翁 や渋 沢 栄 一 の尽 力 に よっ て ホ イ ッ トニ ーの 雇傭 ・校 地 の無 償 提供 な ど東 京 会議 所 の 絶 大 なi援助 を受 け,ま た 福 沢 諭 吉,箕 作秋 坪 らの協 力 を 得 て,私 立 の 商 法 講 習所 を 開設
し,ホ イ ッ トニ ーを 迎 えた とい うの が,経 緯 の あ らま しで あ る。
.この点 に 関 して,渋 沢 は 後 ほ ど,『 青 淵 回顧 録 』 上 巻(昭 和2年8月 刊)の
く
な か で 次 の よ うに 語 っ て い る。
「 丁 度 明治七年頃,当 時 米国に あつ た森 有礼氏 か ら,時の東京府知 事大 久保一 翁氏 に 宛 て Σ,米 国に於 け る実業教 育 の盛 んであ る事 は実に想像以上 であ るが,日 本に も
是 非 同 様 の ビズ ネ ス ・ス ク ー ル を 建 て た い と思 ふ か ら,何 分 の 助 力 を お 願 ひ 致 したい と頼 んで来 た。 処で大 久保 知事 も大 分進ん だ考 へを有つ て居 つて,森 氏の企 ては
⑳ 拙 稿,上 掲 論 文,1〜2頁 を 参 照.
⑳ 小 貫 修 一 郎 編 著r青 淵 回 顧 録 』 上 巻,1927年 青 淵 回 顧 録 刊 行 会 刊,434‑435 頁,
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至 極結構 な事であ るか ら是 非実現 させ たい ものであ る と思ふが,何 分に も東京府に は資金が無 いので府 として援 助す る道 が見 出せ ない。 そ こで大 久保知事 は一 日私 を 訪問 して相談 され るには,旧 幕時 代 に白河楽翁が江 戸 の人達 に節検 を勧 め て蓄積 し た金が共 有金 といふ名 義で残つ て居 り,貴 方が其 の共有 金を保管 して居 られ るが, 之 を利用 して ビズネス ・ス クー ルを 設立 す るのを 援助 しては 何 うか と話 し込 まれ た。 其 の共有金 といふ のは江戸町 会所 の時代 に積 立 てた もので,そ れ を東京会議所 に於い て引継 ぎ保管 して居 り,私 が其 の会 頭 と して保管 の任に あつ たので斯 ういふ 相談に 与つたので あ る。 私は予 て実業教育 の必 要を感 じて居 り,何 うか して秩序 あ る実業教 育を施 した い と考へ て居つ た際 なので,直 ちに同意 して関係者 の会議 を開 き,其 の計画に賛成 す る必要 あ る理 由を 陳べ た処が,畠 ひ他 の役 も同意 され たの で,学 校 の費用 は一万 円位入用 であ る といふ事で あつ たか ら,取 敢ず 共有 金の中か ら八千 円ばか りを出 して助 力す る事 と した。 そ こで大 久保氏 も非常 に喜 ん だが,殊 に ビズネス ・ス クールを設立す る事 を提 議 した森有礼氏 は,意 外 に スルスル と補助 費が 出たので,自 身で も一万 円ば か り工 面 して,翌 年 の夏頃に京橋 の尾張町 に商 法 講習所 とい う小 さい学校 を開 き,商 業教育 に経験 あ るホ イ ツ トニー といふ米国人 の 教 師を 雇 うて授業 を開始 し,約 一 年ばか り経営 した のであ る。此 の商法講 習所 は学 校 といふ よ りも寧 ろ家塾 といつ た方が適 切であ る様 な小 規模 の物 で,生 徒 も三十 人 足 らず の小人数 であつ たが,之 れ が兎 も角 も我 国に於け る商業教育専修 の学校が 出 来 る最 初であつた のであ る。 」(傍 線 は 引用者)
従 来 の 通 説 で は,森 は 既 に 在 米 中 に ホ イ ッ トニ ー の傭 い 入 れ を 文 部 省 に 交
渉 した が 聞 き 容 れ られ ず,明 治6年7月 に 帰 国 した の ち も 更 に 説 得 に 努 め た
が 遂 に 成 功 しな か っ た,と 謂 わ れ て い る 。 そ れ は 恐 ら く事 実 で あ ろ う。 しか
し,残 念 な が ら,そ の 交 渉 や 説 得 に つ い て の確 証 は 未 だ 得 られ て い な い 。 ま
た,上 記 の 『青 淵 回 顧 録 』 に よれ ば,「 丁 度 明 治 七 年 頃,当 時 米 国 に あ つ た 森
有 礼 氏 か ら,時 の 東 京 府 知 事 大 久 保 一一翁 氏 に 宛 て 瓦,… … 日本 に も 是 非 ビ ズ
ネ ス ・ス ク ール を 建 て た い と思 うか ら,何 分 の 助 力 を お 願 い した い と頼 ん で
来 た 」 と の こ と で あ る が,そ れ を 裏 づ け る 肝 心 の 大 久 保 宛 の 森 の 書 簡 は 発 見
さ れ て い な い 。 い ず れ に せ よ,今 日保 存 さ れ て い る 関 係 資 料 の 示 す と こ ろ で
は,森 が 明 治6年(1873)7月23日 に ア メ リ カか ら帰 国 して 以 後,東 京 府 知
事 大 久 保 一 翁 の 斡 旋 に よ っ て,ホ イ ッ トニ ー の 雇 傭 と 「ビ ズ ネ ス ・ス ク ー
ル 」 の 設 立 に つ い て 東 京 会 議 所 会 頭 の 渋 沢 栄 一 に 協 力 を 求 め た こ と は 確 か で
あ ろ う。 渋 沢 は,上 記 の 『青 淵 回 顧 録 』(そ の肇行 が昭和2年 であ ることに注意)
では,「 私 は予 て実 業 教 育 の必要 を 感 じて居 り,何 うか して 秩 序 あ る実 業 教 育 を施 した い と考 へ て居 つ た 際 な の で,直 ち に 同意 して関係 者 の会 議 を 開 き, 其 の計 画に 賛 成 す る 必 要 あ る理 由を 陳 べ た 処 が,幸 ひ 他 の 役 員 も同意 され た 」(傍 線は引用者)と 述 べ て い るが,実 はそ うで は な い。 彼 は,殊 更 に 巨額 の金 を 費 して か か る外 国人 教 師 を雇 っ て商 業 学 校 を設 け る急 要 な しと主 張 し て反 対 した の で あ った。 この 点 に関 して,渋 沢 自身 が 明 治18年7月 東 京 商
(23)
業 学 校 卒 業 生徒 仮 卒 業 証 書 授 与 式 の演 述 の なか で,こ う反 省 してい る。
ノ
「予 力妓 二 言 ハ ン ト欲 ス ル 所 ノ 者 ハ 即 本 校 今1ヨ ニ至 ル 迄 ノ沿 革 ナ リ只 此 ノー 事 子 等 力注 意 ヲ喚 起 ス ル ニ於 テ 充 分 ナ リ ト考 ヘ リ何 トナ レハ 本 校 ノ沿 革 ヲ知 ル 唐 ハ 予 力 本 校 二於 ケ ル 従 来 苦 心 ノ 度 ヲ知 ル 「 ヲ得 ヘ ク而 シ テ 予 力左 迄 苦 心 シ タ ル 所 以 ハ マ タ 偶 然 ニ ア ラ サ ル 所 以 ヲ知 ル ヘ ヶ レ ハ ナ リ抑 本 校 ノ 起 源 ハ 明 治 七,八 年 ノ交 ニ ア リ七 年 東 京 会 議 所 議 員 ハ 商 業 教 育 ノ 必 要 ヲ陳 ヘ テ 之 ヲ府 知 事 二 上 請 セ シ カ 会 ミ森 有 礼 君 (此 ノ時 合 衆 国 弁 理 公 使 タ リ)此 ノ事 ジ聞 キ 深 ク 其 ノ 挙 ヲ嘉 シ 自 ラ教 師 ヲ選 ハ レ八 年 八 月 二 至 リ米 人 ウヰ ッ トニ ー 氏 教 師 トシ テ 来 航 セ リ此 ノ時 予 ハ 会 議 所 ノ 会 頭 タ リ
シ カ以 為 ヘ ラ ク今 日 二 当 リテ 殊 更 二 巨 額 ノ 金 ヲ費 シ 教 師 ヲ聰 シ テ 商 業 学 校 ヲ設 ク ル ノ急 要 ナ シ ト因 リ テ 府 知 事 二就 キ 之 ヲ止 メ ン トセ シ カ 臣巳 二 会 議 所 議 員 ノ 上 請 セ シ 所 ナ レハ 今 更 中 止 ス ル 能 ハ ス トテ乃 会 議 所 二於 テ 同 氏 ヲ雇 ヒ之 ヲ商 法 講 習 所 二貸 与 シ而 シ テ 同 所 ノ教 務 ハ森 君 専 之 ヲ管 理 セ リ当 時 予 力筍 ニ モ 此 ノ如 キ 謬 見 ヲ懐 キ シ バ 固 ヨ リ予 力 不 明 ノ致 ス 所 ナ レ 隠未 タ我 力 国 商 業 社 会 ノ 況 二 通 セ サ ル ノ'ナ リ其
ノ後 両 三 年 ヲ経 熟 ヒ 商 業 ノ景 勢 ヲ実 見 ス ル ニ従 ヒ予 ハ 実 二前 日 ノ謬 見 ヲ悔 ユ ル ニ至 レ リ宙 二之 ヲ悔 ユ ル ノ ミナ ラ ス 進 ミテ 商 業 教 育 ヲ振 作 鼓 舞 セ ン ト欲 ス ル ノ念 頻 二 切 ナ ル ニ 至 レ リ」(傍 線 は 引 用 者)。
渋 沢 は また,明 治33年2月 に 刊 行 され たr青 淵 六 十 年 史,
ゆの
発 達 史 』 第1巻 の な か で,こ う も語 っ て い る 。
一 名近世実業
「元 ト商 業 学 校 ノ起 リハ,其 初 メ ハ 明 治 七 年 頃 テ ア リマ ス,皆 故 人 ニ ナ ラ レマ シ タ カ,大 久 保 一 翁 君 力 東 京 府 知 事 ノ時,森 有 礼 君 力亜 米 利 加 二 行 カ レマ ス時 分 初 メ テ 東 京 二 商 業 教 育 ノ コ トノ企 テ ヲ ナ サ レ,当 時 東 京 二会 議 所 ト云 フ モ ノ カ 御 座 イ マ シ
㈲ 明 治18年7月25日 付 官 報 第620号 所 載 学 事 報 告.都 市 紀 要8『 商 法 講 習 所 』, 1960年 東 京 都 刊,33頁 所 収 の 原 文 に よ る.
㈱r青 淵 先 生 六 十 年 史 一 一 名 近 世 実 業 発 達 史 』 第1巻,1900年 龍 門 社 刊,801 頁.
102 商 学 討 究 第25巻 第1・2号
テ,其 会 議 所 ノ人 々 二 謀 ッ テ ビユ ジ 子 ス,ス ク ー ル 即 チ 商 業 学 校 ト云 フ モ ノ ヲ組 立 ル コ ノ評 議 力 御 座 リマ シ タ,会 議 所 ノ議 員 力 至 極 宜 カ ロ ウ ト其 議 ヲ賛 シ テ,遂 二森 君 力 亜 米 利 加 二 於 テ,明 治 八 年 ホ イ ツ ツ ニ ー ト云 フ教 師 ヲ雇 フ テ,日 本 二送 ッ タ ノ カ ソモ ソモ 今 ノ 高 等 商 業 学 校 ノ濫 膓 テ 御 座 イ マ ス,ソ ノ頃 ニ ハ 今 申 シ タ会 議 所 ハ, 私 共 モ 其 一 人 テ ア リマ シ テ,自 カ ラ思 ヘ ラ ク,マ タ 今 日 ノ時 節 二,斯 様 ナ 外 国 人 ヲ商 業 教 育 ノ為 メ ニ 雇 ツ タ ト云 ッ テ モ,唯 経 費 ヲ浪 費 ス ル ニ 止 マ ツ テ 果 シ テ ソ レ丈 ケ 有 益 ノ モ ノ テ ア ラ ウ カ無 カ ラ ウ カ ト云 フ鑑 定 ノ着 キ マ セ ン為 メ ニ,其 ノ費 用 ノ 支 出 二 就 キ,始 メ ハ 私 共 モ 異 論 ヲ 申 シ タ ー 人 テ ア ツ タ,併 シ既 二 約 束 モ 整 ヒ,其 教 師 モ 来
ル ト云 フ 事 カ ラ,遂 二校 舎 ヲ開 イ テ,其 事 ヲ会 議 所 ノ 中 カ ラ相 談 シ テ,森 有 礼 君 力 担 当 ス ル ト云 フ テ 成 立 チ マ シ タ」。(傍 線 は 引 用 者)
渋 沢 は反 対 は した が,結 局,東 京 会 議 所 と して は 「ビズ ネ ス ・ス ク ・一ル」
の設 立 に 協 力す る こ とに な り,そ の敷 地 や 資 金 の 工 面 に骨 を 折 る こ とにな っ た 。 明治6年10月,東 京府 知 事 大 久 保 一 翁 は 正 院 へ商 法 講 習 に 関す る次 の
く ラ
よ うな 上 申 を 行 な っ て い る 。
府下 会議所 頭取 ノ者 ヨ リ商法講 習 ノ義 二付 別紙 ノ通願 出候 二付,森 有 礼ヘ モ問合候 処 同意 ノ趣,右 ハ開化 ノー端 ニテ御差 支 ノ筋 モ無之 二付,聞 届置候間此段 申上候也
明治六 年十 月'東 京府 知事 大 久保一翁
右 大臣 岩 倉具視殿
〔別紙 〕
商業 ノ書籍致講 習候 儀iハ当今必 要 二候処 弁理公使森 有礼殿帰朝後右 商業講 習 ノ儀 被 及相談 候間一 同衆 議仕候処必 要 ノ事件 二付右 商法講習所 取立 申度 依之木挽町八 丁 目 八番地 所御 下渡被下度此段奉 願候 以上
十 月三十一 日 藤 田 藤四郎
田 畑 謙 蔵 東 京府知事 大 久保一翁殿
この上 申は,「 商 法 講 習 所 沿 革 」(旧 東京府庁文書 「董法令類纂」所収)に 見 え
の
る 一一節 と も 一 致 し て い る 。
先 二前 ノ米国駐剤 ノ我 力弁理公使 森有礼君 力帰朝 ノ後 二当 リ,西 洋商 法 ノ書籍 ヲ講 習 スベキ応 二当今 ノ必 要 二在 ルベキ ヲ以 テ府知事公 ト商法講 習所 開設 ノ事 ヲ協議 セ
㈲ 『森 有 礼 全 集 』 第1巻,791‑792頁.
㈲ 同 上 書,804頁.
シ 「 ア リ,明 治 六 年 十 月 三 十 一 日府 庁 ハ 会 議 所 二 該 校 ヲ開 設 ス ベ キ 「 ヲ説 諭 シ,其 地 位 ヲ指 示 ス,乃 チ 之 ヲ奉 シ 木 挽 町 八 丁 目十 三 番 地 ヲ下 与 セ ラ レ ン 「 ヲ 申 稟 ス
(27)
以 後 の経 過 は,次 の資 料 に 明 らか で あ ろ う。
森有礼儀 商法書籍講 習之儀其掛 ヨ リ願 出候 二付正院 へ御届 二及 ヒ聞届候間此段 相達 候事
但木挽 町八丁 目八 番地所下 ケ渡方 ノ儀 ハ尚取 調更 二可 相達事
明治六 年十一 月十 日 東 京府知事 大 久保一翁
森 公使商業講 習所 ノ儀 二付相伺候処 許可 ヲ蒙 リ候 二付右地所 ハ兼 テ願置 候木挽町 八 丁 目八番地 当所 工御払 下被下度左候 ハ ・森 公使 ト相談 ノ上 人民商業講習所 ト相定 申
度奉存候明治六年十二月三 日 御 掛 御 中
会 議 所
か く校 地 の さげ 渡 しが 決 ま った の で,森 は ホ イ ッ トニ ー の雇傭 や 建 物 の建 築 そ の他 の資 金 の 獲 得 に奔 走 した。 商 法 講 習 所 の設 立 を 私 立 で 進 め るほが な か った か らであ る。 この とき,森 を積 極 的 に 援 助 した の は,明 六 社 の学 者 グル ープ ・ と りわ け 福 沢 諭 吉 と箕 作 秋 坪 で あ った 。福 沢 は,森 の依 頼 に応 じ て,明 治7年(1874)11月1日,著 名 な ▼「商 学校 ヲ建 ル ノ主 意 附 商 法 学 校 科 目拉 要 領 」 と題 す る寄付 金 募 集 の趣 意 書 を起 草 した。 この一 文 は,商 法 講 習所 の 目的 と性 格 を 知 る うえ に極 め て重 要 な ドキ 三 メン トで あ る の で,そ の
(28)
全文 を 掲 載 す る こ とにす る。
人 間 ノ事 務 ニ ハ 内 外 公 私 ノ 別 ア ル ヨ リ其 有 様 ヲ比 較 セ ザ レパ 軽 重 ヲ断 ズ 可 カ ラ ズ, 昔 鎖 国 ノ世 二在 テ ハ 商 人 タ ル 者 ヨ ク 国 内 ノ商 法 ヲ取 扱 ヒ ヨ ク国 内 ノ 景 気 ヲ 察 シ テ 其 機 ヲ失 ス ル 「 ア ラ ザ レバ 乃 チ 大 二 家 ヲ興 シ テー 大 商 売 ノ 名 実 ヲ全 フ シ,一 身 ノ 生 計 モ 立 チ 世 間 ノ便 利 ヲ モ 達 シ テ 内 外 公 私 ノ分 ヲ尽 シ タ ル 者 ト云 フ可 シ,此 時 代 ニ ハ 日 本 ノ 商 入 唯 国 内 二於 テ 相 互 二其 身 ノ有 様 ヲ比 較 シ,此 ハ 彼 ヨ リモ 富 デ 巧 ナ リ,彼 ハ 此 ヨ リモ 貧 ニ シ テ 拙 ナ リ トテ,其 栄 辱 唯 一 国 ノ 内 二 止 マ ル コ ナ リ シ カ トモ,今 ヤ 外 国 ト貿 易 ノ取 引 始 マ ル ニ及 デ ハ 事 物 ノ景 況 頓 二 面 目 ヲ改 メ,復 タ 旧 時 ノ 有 様 二安 ン
鋤 『森 有 礼 全 集 』 第1巻,792頁.
鰺 同 上 書,809‑815頁,
104 商 学 討 究 第25巻 第1・2号
ズ 可 ラ ズ,彼 ノ富 ト云 ヒ巧 ト云 ヒ シ モ ノ ハ 内 ノ 富 ナ リ,内 ノ巧 ナ リ,古 二公 ト思 ヒ シ モ ノ モ 今 ハ 唯 一 国 内 ノ私 ノ ミ,今 日 二至 テ ハ 全 日本 国 ノ富 ト諸 商 人 ノ才 力 トヲ「
二 合 シ 其 全 体 ノ強 弱 大 小 ヲ以 テ 西 洋 各 国 ノ モ ノ ニ比 較 セ ザ ル 可 ラ ズ,目 今 ニ テ モ 或 ハ 諸 開 港 場 二於 テ 外 国 人 ト商 売 ト取 組 ミ,一 時 二勝 利 ヲ得 テ 数 万 ノ富 ヲ致 ス 者 モ ア
ラ ン ト難 モ,其 実 ハ 外 国 人 ト戦 テ勝 タ ル ニ 非 ズ,他 ノ 日本 商 人 ガ 拙 劣 ナ ル ガ タ メ ニ 意 外 ノ僥 倖 ヲ得 タ ル ノ ミ,外 国 ト戦 タ ル ニ 非 ズ,内 国 ノ 同 士 打 ナ リ,故 二外 国 ヲ相 手 二取 テ 商 法 ノ鋒 ヲ争 ハ ン トス ル ニ ハ 内 外 全 体 ノ 勝 敗 ヲー 年 二 平 均 シ,又 十 年 亭 計 算 シ テ 始 テ 双 方 ノ巧 拙 貧 富 ヲ知 ル 可 キ ナ リ,之 ヲ今 ノ商 人 ノ公 務 ト云 フ 今 ノ 日本 ノ 商 法 ヲ以 テ 外 国 二 敵 ス 可 ラ ザ ル ノ 箇 条 ハ 枚 挙 二 邊 ア ラ ズ ト難 トモ 髪 二 其 一 ヲ示 サ ン,田 舎 二 小 店 ア リ万 屋 ト云 フ,呉 服 太 物 ノ仕 入 ア リ,下 駄 傘 ノ売 物 ア リ,婚 礼 ノ 諸 道 具 葬 式 ノ品 物 悉 皆 コ ノ店 二於 テ 調 ハ ザ ル モ ノ ナ シ,店 先 キ ハ 煩 ハ シ ク繁 昌 シ テ 主 人 モ 柳 力 得 意 ノ顔 色 ナ キ ニ 非 ザ レ トモ,此 万 屋 ノ帳 場 二 至 テ 其 内 情 ヲ問 フ ニ 品 ノ 仕 入 バ ー一切 都 会 ノ問 屋 ヲ仰 キ,問 屋 ノ命 ズ ル 元 価 ヲ以 テ 元 二定 メ,僅 ニ ー 割 力 二 割
ノ ロ銭 ヲ取 ル ノ ミニ テ 其 呉 服 ハ 何 レ ノ地 二生 ズ ル モ ノ歎,其 下 駄 傘 ハ 何 人 ノ手 二成 ル モ ノ歎,誰 ノ手 ヨ リ誰 ノ手 二 移 リ問 屋 ハ 何 ノ 用 ヲ為 シ テ幾 何 ノ利 益 ア ル モ ノ 歎, 問 屋 ノ帳 合 ハ 何 様 ナ ル 欺,其 主 人 番 頭 ハ 何 等 ノ働 ア ル モ ノ歎,是 等 ノ事 情 二就 テ ハ 夢 中 ノ夢 ニ テ 之 ヲ告 ル 者 モ ナ ク,之 ヲ知 ラ ン トス ル ノ意 モ ナ ク,唯 問 屋 ヨ リ授 ル 所 ノ ロ銭 ヲ戴 ク ノ ミ,仕 入 買 出 シ ノ事 情 斯 ノ如 シ,又 コ ノ万 屋 ヨ リ積 出 シ テ 問 屋 へ 送 ル 産 物 ノ捌 方 モ 同 様 ノ取 扱 ヲ蒙 リテ,仕 切 ハ 問 屋 ノ勝 手 次 第,都 会 ノ問 屋 ガ 田 舎 ノ 商 人 ヲ生 捕 ル トハ 此 事 ナ リ,大 都 会 三住 居 ス ル 大 商 人 ノ眼 ヲ以 テ 此 万 屋 ノ主 人 ヲ見
レハ 亦 慈 笑 ス 可 キ ニ 非 ズ ヤ,然 ル ニ 今 此 大 都 会 ノ大 商 人 ナ ル 者 外 国 人 二対 シ テ ハ 却 テ 万 屋 ニ モ 阯 ヅ 可 キ 所 業 ヲ為 ス ハ 何 ゾ ヤ,万 屋 ノ 主 人 其 有 様 ハ 慈 ム 可 シ ト難 トモ 時
トシ テ ハ 都 会 ニ モ 出 掛 テ 兎 二角 二問 屋 ト直 談 ニ テ 事 ヲ掛 合 ヒ 交 通 モ 自在 ナ リ,差 引 ノ勘 定 モ 燈 ナ リ,趾 ル ニ足 ラ ザ ル ナ リ,然 ル ニ 今 ノ 日 本 ノ商 人 ハ 外 国 ノ品 物 ヲ買
フ ニ其 来 ル 処 ヲ知 ラ ズ,自 国 ノ物 ヲ売 ル ニ 其 行 ク 処 ヲ 知 ラ 〉く,横 浜 神 戸 二在 留 ス ル 外 国 人 ヲ仰 デ 其 取 次 ヲ頼 ム ニ 非 ズ ヤ,開 港 場 ノ外 国 人 ハ 問 屋 二非 ズ 亦 製 造 家 二 非 ズ 正 銘 ノ仲 買 ナ リ,此 仲 買 共 ヲ開 港 場 ヨ リ打 払 フ ニ非 ザ レパ 日本 ノ 商 売 ハ 連 モ 盛 大 ノ見 込 ア ル 可 ラ ズ,其 理 甚 ダ 明 ナ リ ト難 トモ 方 今 ノ景 況 ニ テ ハ 却 テ 此 仲 買 ノ為 二 窒 メ ラ レ,既 二 主 客 ヲ 異 ニ ス ル 程 ノ勢 ニ テ 「ロ ン ドン」 「パ リス 」 ノ問 屋 へ 直 談 ナ ド ノ話 ハ 前 途 尚 遙 ナ リ,況 ヤ 今 ノ学 問 ノ有 様 ニ テ ハ 外 国 人 ト文 通 モ 不 自 由 ナ リ,其 帳 合 ノ 法 モ 解 シ 難 キ モ ノ 多 キ ヲ ヤ,百 方 ヨ リ之 ヲ観 テ 商 売 ノ事 二就 テ ハ 我 国 二 勝 利 ノ 見 込 甚 ダ 少 ナ シ ト云 ハ ザ ル ヲ得 ズ,田 舎 ノ万 屋 二 及 ハ ザ ル 「遠 シ
日 本 ノ 交 明 未 ダ 進 マ ズ シ テ 何 事 モ 手 後 レ ト為 リ タ ル 世 ノ中 ナ レパ,独 リ商 法 ノ 拙 ナ ル ヲ各 ル ノ理 ナ シ,何 事 モ 俄 二 上 達 ス 可 キ ニ 非 ズ,唯 怠 タ ラズ シ テ 勉 強 ス 可 キ ノ ミ,維 新 以 来 百 事 皆 進 歩 改 正 ヲ勉 メ 文 学 ヲ講 ズ ル 者 ア リ,芸 術 ヲ学 ブ 者 ア リ,兵 制 ヲ モ 改 革 シ,工 業 ヲ モ 興 シ頗 ル 見 ル 可 キ モ ノ多 シ ト難 トモ 、今 日 二至 ル マ デ 全 日本
国 中 ニー一所 ノ商 学 校 ナ キ ハ 何 ゾ ヤ,国 ノー 大 欠 典 ト云 可 シ,凡 ソ西 洋 諸 国 商 人 ア レ バ 必 ズ 亦 商 学 校 ア リ,猶 我 武 家 ノ世 二 武 士 ア レパ 必 ズ 亦 剣 術 ノ道 場 ア ル ガ如 シ,剣
ヲ以 テ 戦 フ ノ 時 代 ニ ハ 剣 術 ヲ学 バ ザ レバ 戦 場 へ 向 フ 可 ラ ズ,商 売 ヲ以 テ 戦 フ ノ世 ニ ハ 商 法 ヲ研 究 セ ザ レバ 外 国 人 二敵 対 ス 可 ラ ズ ,筍 モ 商 人 トシテ 内 外 ノ別 ヲ知 リ,全 国 ノ商 戦 二眼 ヲ着 ス ル 者 ハ 勉 ル 所 ナ カ ル 可 ラ ズ,亜 国 ノ商 法 学 士 「ホ ウ ヰ ツ ニ ー 」 氏 積 年 日本 二来 テ 商 法 ヲ教 ン トス ル ノ 志 ア リ,森,富 田 両 氏 ノ知 ル 人 ナ リ,東 京 其 他 ノ富 商 大 質 各 其 分 ヲ尽 シ テ 資 金 ヲ出 ス ノ志 ア ラ バ 両 氏 モ 亦 周 旋 シ テ 其 志 ヲ助 ヶ 成
ス 可 シ,森 有 礼 富 田 鉄 之 助 君 ノ需 二 応 ジ テ 、
明 治 七 年 十 一 月 一 日 福 沢 諭 吉 記
商 法 学 校 科 目並 要 領
欧 羅 巴 ノ諸 貿 易 国 二於 テ ハ 商 会 或 ハ 銀 行 ノ業 ヲ創 ム ル ニ 当 テ 首 トシ テ 左 ノニ 件 二着 手 ス,即 チー ハ 適 宜 ノ 帳 簿 類 ヲ購 得 ス ル 事 一 ハ 相 応 ノ主 簿 ヲ傭 使 ス ル 事 是 ナ リ。
抑 帳 合 ノ法 ハ 正 確 神 速 ニ シ テ 殊 二 了 解 シ易 キ ヲ専 一 トス,若 シ 不 カ ラ ザ ル 時 ハ 決 テ 入 込 タ ル盛 大 ノ商 業 ハ 営 ミ難 シ,之 二反 シ テ 帳 合 ノ法 整 頓 ス ル トキ ハ 之 二依 テ 其 社
中 ノ ー 致 ヲ保 シ 共 働 ヲ進 メ商 事 ヲ シ テ 極 テ 簡 易 無 難 ナ ラ シ ム
世 ノ 商 売 ノ 内 ニ ハ 巧 二商 業 ヲ営 ム モ ノ 少 ナ カ ラズ,然 レ トモ 或 ハ 任 二 当 ラ ザ ル 主 簿 ヲ傭 役 ス ル ヨ リシ テ 自 家 ノ商 事 二 疏 ク ナ リ,僅 二此 一 事 ノ為 二終 ニ ソ ノ産 ヲ失 フ ニ 至 ル 者 ア リ
盛 大 ニ シ テ 且 多 端 ナ ル 商 業 ヲ営 ム 者 ハ 必 ズ 本 式 ノ帳 合 法(ド ッ ブ ル エ ン タ リ)ヲ 用 フ ベ ク,又 簡 略 ナ ル 商 業 ヲ営 ム 小 商 人 二至 テ ハ 略 式 ノ 帳 合 法(シ ン グ ル エ ソ タ リ)
ヲ用 フ ベ シ
政 府 ノ諸 官 省 二於 テ ハ 熟 練 シ タ ル 主 簿 ヲ傭 役 シ 常 二 正 シ ク諸 帳 簿 ノ帳 合 ヲナ サ シ メ
シ ア ゲ
以 テ完帳前 ノ出納 ノ景況 及出納 ノ金 額等 ヲ知 ル ヲ必 要 ナ リ トス,又 諸商家 二於 テハ 毎 月⊥度乃 至数度諸帳 簿 ノ帳 合 ヲナス ベシ,殊 二銀 行 二於 テハ毎 日事務 ヲ終 ル時 二 怠 ラズ帳合 ヲナスベキ也
商家 ノ大帳 ニハ勘定 向 ノ事 ヲ夫 々委 シ ク記載 シアル故此大帳 ノ帳 合 ヲ見 ル トキハ何 時 ニテ モ ソノ出納 ノ実 況 ヲ知 リ,加 之所 有物 ノ増減 貸借金 ノ多寡 ヲ確知 セ ン トスル ニ当 リー 目瞭然 ナ リ,政 府 ノ帳簿 モ右 等 ト同様 ノ訳 ニテ只 出納 ノ大 ナル ヲ異 ニスル
ノ ミ
官 署,銀 行,商 家 ニ テハ 日々 出納 金 ノ差 引勘 定 ヲナ サ ぐル可 カ ラズ,而 シ テ金 銀 出 入帳 ト大帳 ト突合 フ トキハ ソノ勘定 正確 ニシテー モ遣脱 ナキ ヲ証 ス
総 テ帳 面上 ノ諸勘定 ハ何 レモ互 二相平均 セザ ル可 ラザル モ ノ故,之 ヲ平均 セ ン ト欲 セパ宜 ク腺売 ノ金高 ヲ合 算ス ベシ,而 シテ桁桁 ノ勘定夫 々相平均 シテ過不足 ナキ ト
シァゲ
キ ハ 則 完 帳 二至 ル ナ リ'
ヨ ス シ メ
金 高 ヲ記 ス 数 字 バ ー 列 二 認 ム ベ シ,然 ル トキ ハ 之 ヲ寄 ル ニ甚 容 易 ナ リ,締 高 互 二平
、
106 商 学 討 究 第25巻 第1・2号
サ ン チ ガ ヒ
均 スル トキハ 謬 算 ナシ ト知 ルベ シ,若 シ又平均 セザル トキハ能 々吟 味 シテ謬算 ノ 廉 ヲ見 出スベ シ
商家 ノ大帳 ト日記帳 トハ恰 モ商売取 引 ノ由来 ヲ記 シタル モ ノノ如 シ,故 二此 帳面 ノ 首 二見 出 シ ノ丁数 ヲ記 シ置 ク トキハ其丁数 二従 テ帳面 ヲ調 べ何時 ニテモ会計 ノ実況
ヲ確知 スベ ク,又 後年 二至 リテ事務取 扱 ノ証拠 トナ リ当時 ノ事跡歴 然 トシテ紛 乱 ス ル 「ナ シ
凡 ソ主 簿 タル モ ノハ諸取 引向及 ビ夫 々 ノ利得 有品 ノ種 類等逐 一 二部 ヲ分 テ帳面 二書 留,確 実 ナル書上 ヲナス トキ ニ当 テ ソノ帳面 中僅 ニー一 枚 ノ書留 ヲ見 ル ノ ミニテ直 二 之 ヲ書上 ル様 ニナ シオ クベキ 「ナ リ
商 法学校 ニテ脩業 セ ン ト欲 スル生徒 ハ習字,筆 算,読 書 ノ三事 ヲ心 得ザル可 カラズ 此学 校 中 ニハ夫 々局 ヲ分 チー局 ハ銀行 一局 ハ船 問屋一局 ハ製造 品問屋 トシ ソノ他 諸 商 売 ノ為 ニー局宛 ヲ設 ヶ各 局 二生 徒 ヲ置 テ各 々 ソノ商業 ヲ掌 ラ シム,而 シテ仮 二紙 幣 ノ形 チ ヲ造 リ之 ヲ生徒 二授 ヶテ品物 ノ売 買 ヲナサ シ メ恰 モ真 二営 業 シアル ガ如 ク 校 内 二於 テ銀行,商 会,船 問屋等 ノ取 引向 ヲ行 ハ シム
右 ノ如 クスル トキハ生徒 等実地 ノ経験 ヲ得 テ終 ニハ各 自二取 引 ヲナス ニ至ル ベ シ 校 内教授 ノ科 目ハ大略左 ノ如 シ
運上所 ノ事務0品 物 ノ輸 出入法O為 換 取組方 ○掛 合状,掛 取状,仕 入状,積 荷送 状 ノ認方 ○荷物 ノ請負方0商 物質入方0金 談 ノ仕方0引 当物 ノ取方 ○引負金内払 ノ仕 方0荷 物庫 預 ヶノ仕方 ○荷物 引受人 ノ勤方 ○庫入預 リ手形 ノ功用0仲 買商法
○請 負又 ハ無請 負世話料 ノ割合方 ○証 書裏書 ノ仕 様 ○証書 調印 ノ仕方O証 書 ノ利
バ ネ
害並 其当務O船 積荷物 ノ 内運漕 中損失 ノ分 取扱 方O海 上擾 荷 ノ節総平均 ノ仕方
○請 合料取立方,損 失 ノ証拠 用意 ノ仕方 ○銀行差配 人貸金談 判 ノ仕 方並銀 行諸役
シ メ ギ
ノ勤方0搾 ニテ書状 写取方O書 状 ノ書方,折 方,封 方,封 印 ノ仕方 ○郵便税 ノ払
フ テ ウ