トゥーリズムをめぐるネパール : ローカルな対応
著者 森本 泉
雑誌名 明治学院大学国際学部付属研究所研究所年報 =
Annual report of the Institute for International Studies
号 7
ページ 81‑83
発行年 2004‑12
URL http://hdl.handle.net/10723/469
81
トゥーリズムをめぐるネパール
――ローカルな対応――
森 本 泉
20 世紀半ば以降、トゥーリズムはグローバル化の進展と共に世界諸地域に広がっていった。トゥ ーリストの訪れる地域にトゥーリストエリアが創出され、自らは生まれ育った村から出たことのない 地域の人々をもトゥーリズム現象に取り込んできた。この過程で第三世界におけるトゥーリズム開発 はしばしば先進国の資本を誘致し、新植民地主義的状況を招来してきたといわれている。しかしなが ら、このような世界経済における非対称的な関係の構図において、第三世界におけるトゥーリズムの 展開状況、とりわけローカルな人々の経験している状況を十分に説明することはできない。また、同 じ第三世界でもカリブ諸島のようにトゥーリズム収入がGDPの80%を占める地域もあれば、ネパー ルのようにトゥーリズムが基幹産業に位置づけられながらもその収入の割合が GDP の 3%程度にと どまっている(2001 年推計)地域もあり、多様な第三世界を一様に語ることもできない。先進国か らのトゥーリストの来訪が前提となっている点では先進国に依存的ではあるが、第三世界の全ての地 域が特定の先進国とのいわゆる植民地主義的な関係においてトゥーリズム開発が進められているわけ ではないし、一方的にグローバル化に包摂されているわけではない。
本報告では、トゥーリズム現象の起こっているグローバルな世界経済を背景に、ローカルの人々が それにいかに対応しているのか、その実態の諸相を、ネパールの事例から呈示することを目的として いる。
ネパールはチベット高原とインド亜大陸の衝突地点、ヒマラヤ山脈のほぼ南斜面に位置する国であ る。高度差により、北部には標高の高い山岳地帯が広がり、中間部の丘陵地帯をはさみ、南部にはト ラやゾウがうろつく亜熱帯ジャングルが広がる。この多様な自然と、その自然に対応した多様な民 族・文化が、ネパールにおける重要なトゥーリズム資源となっている。ネパールにおけるトゥーリズ ムは、自動車道が通らないところでも歩けるところであればトゥーリストは出かけるし、より辺境を 志向することから、辺境に開発の機会をもたらしてきた。この点において、トゥーリズム産業はイン フラストラクチュアが整備された地域が指向される他産業の開発とは異なる開発のあり方を呈してい るといえよう。
1950 年代まで鎖国してきたネパールが公式に開国した背景に、世界最高峰を頂くヒマラヤ山脈に 向けられた西洋のアルピニズム願望があったことは否めない。開国後、一時中断はあったものの、世 界中のエリート登山家たちがエヴェレストをはじめとしたヒマラヤの高峰を目指してネパールを訪れ るようになったのが、ネパールにおけるトゥーリズムの始まりとされる。1960年代から1970年代に かけて、非西洋、非近代を求めるヒッピーと呼ばれる欧米の若者たちが、ネパールの首都カトマンド ゥを目指して集まってきた。1980 年代以降になると、ヒッピーではないトゥーリストたちが欧米か らだけでなく、日本をはじめとしたアジア諸国・地域からも訪れるようになった。トゥーリストの増
82
加、多様化に伴い、ヒマラヤの麓を歩くトレッキングや、ヒマラヤ山脈を南北に刻む川でのラフティ ング、南部の亜熱帯ジャングルで野生動物を鑑賞するジャングル・サファリなどのトゥーリズム形態 が導入され、地理的規模的も拡大し、質的にも多様化していった。この時期にネパールのマス・トゥ ーリズムが始まったといえよう。1980 年代後半になるとトゥーリスト数の増加を受けてトゥーリズ ムが基幹産業に位置づけられるようになり、外貨獲得手段としてはもとより、ネパールの経済開発計 画における緊急課題である雇用機会創出の手段として重要視されるようになった。1990 年にネパー ルの民主化が達成されると、並行して経済の自由化が進められ、企業の民営化や民間資本誘致策が積 極的に取り入れられるようになった。この結果、トゥーリズムをめぐる経済活動機会が創出され、多 くの人々がトゥーリズム産業に参入するようになった。
1998年にはVisit Nepal Year 1998を実施し、ネパールを訪れるトゥーリスト数が順調に増えていっ たが、1999 年を頂点に停滞していく。その背景にあるのは、1999 年末にネパール最大のトゥーリズ ム・マーケットであるインドとネパールを結ぶ主要空路でハイジャック事件が起こり、その後、当該 事件が起きたインディアン・エアラインが5ヶ月間、両者間のフライトの就航を取りやめたことが大 きい。これに加えて2001年6月、ネパール王室をめぐって王宮内で惨事が起こり、そのニュースは ネパール国内のみならず世界を震撼させた。また 1990 年代後半から活動を展開してきた反体制派、
マオイスト(毛沢東主義派)の活動が激化したために 2001 年に国家非常事態宣言が出され、インド 人だけでなく、他の外国人トゥーリストの足も遠ざかるようになった。これまで比較的平和であった ネパールのイメージがきな臭いものへと変わり、50万人弱のトゥーリスト数を記録した1999年に比 べて、2002年はその半分にまで減少することになった。
トゥーリズムが展開する過程で、特に 1990 年の民主化前から雨後の筍のようにホテルが開業し、
レストランや土産物屋、旅行代理店が軒を連ねるようになった。カトマンドゥにあるネパールでもっ とも過密にトゥーリズム関連産業が集積している地域では、1960年代から1970年代にかけてはその 集積が数十メートル程度の通りにしか見られなかったのが、今日では 1km 四方までに拡大した。そ のトゥーリストエリアで、ホテルやレストランを経営し、トレッキングやラフティングのトゥアーを 手配し、土産物屋を営む人々がいる。その多くがネパール出自の人々である。これらトゥーリストエ リアを形成してきたローカルな人々、換言するならグローバルなトゥーリズム現象に対応してきた 人々は、例えばホテルを経営する人々であれば、最初からホテル業の経営方法を身につけていたわけ ではない。1960年代から1970年代にかけて見られるホテル経営者は、自身の住居で使われていない 部屋をトゥーリストに提供し、いわゆる民宿形態で宿泊施設を経営していた。あるいは、チベットと インドを結ぶ交易街道沿いに住んでいた頃に交易の人々をもてなした民宿経営者が、1960 年代に入 って交易の衰退と共にカトマンドゥに移住し、外国人トゥーリストに部屋を提供することでホテル業 に参入したケースも見られる。この時期のホテル経営者は、特別な投資や知識を必要としていなかっ たといえる。1980 年代になると、1960 年代以降に貿易やカーペット産業など他産業で既に企業家と しての経験や資本を蓄積してきた人々が、ネパールにおけるトゥーリズムの成長に企業的機会を見出 し、トゥーリズム産業に参入するようになった。そして、その経験や資本を生かしてホテル業を質的 規模的に発展させ、ネパールにおけるトゥーリズムの発展を支えることになった。中には 1960 年代 以降の民宿経営で獲得した経験や資本を生かし、1980 年代にホテルを質的規模的に発展させ、今や
83 リゾートや高級ホテルを経営する一大ファミリーを形成したケースもあった。トゥーリズムの発展と 共に、ネパールのローカルな企業家たちもその技術や知識を発展させてきたといえる。
これらの企業家たちは、他方で西洋のまなざしに対応し、ネパールのイメージを再構築してきてい る。例えば、1950 年代以降、ネパールやインドに亡命してきたチベット人のイメージがネパールに 重ねられていることに対し、戦略的にチベット的イメージを演出するようになり、それらがトゥーリ ストエリアの景観を構成するようになる。本来カトマンドゥにおいては遠い地域であるチベットがネ パールに移住してきたチベット人難民と共に商品化され、ホテルやレストランの企業家たちはダラ イ・ラマやポタラ宮殿の写真を飾り、Free Tibet のステッカーを貼るなど、チベット色を積極的に売 り出すようになった。また、1980 年代後半以降のカシミールにおける紛争により、多くのカシミー ル人がネパールに移住し、土産物業を始め、高級ホテルの土産物店街にカシミール土産物店が必ず入 るほど勢力を拡大してきている。これらの現象は、かつては平和なイメージが重ねられていたネパー ルにチベット人やカシミール人が紛争を避けて移住し、そこで生活手段を求めた結果でもあるが、ネ パールが多様な民族・文化で構成されていることが受け皿になって、彼ら彼女らの活動を可能にして きたことが指摘できよう。もちろんその背景に、インドやチベットに物理的文化的距離が近いことか ら、ヒンドゥーやチベット仏教的なイメージをネパールに重ねてきた西洋のまなざしを看過すること はできない。トゥーリストエリアの路上に立つと、マルボロやコカコーラといった外国企業の看板や、
カシミールやチベットの土産物屋、またトゥーリストがネパールに求めてきたシャングリラ的な秘境 イメージが目に入ってくる。この景観は、いうまでもなくローカルな企業家たちのグローバルなトゥ ーリズム現象への対応の過程であり、結果なのである。