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明 治 一 の 地 租 軽 減 論 に つ い て
長岡新書
ーはじめに
地租軽減論.(または地租軽減運動)は'云‑までもなく明治二〇年代においてはじめて発生したものではない。明
治l〇年の減租をもたらした地租改正時の「農民夢擾」は'広汎な農民をまき込んだ地租軽減運動の激化形態にはか
ならないし'乱由民権運動は'地租軽減をつねにその主要な要求項目の一つとしてかかげていた。日清戦争後のいわ‖‖ゆる「戦後経営」期における地租増徴反対論も'・広い意味で瞥ヤはりそのようなものであったし、さらに下って大正
一〇年代になると'営業税改廃問題に関連して大正二年の全国農会大会にピークを見出す地租軽減運動が再発して㈲いる。
このよ‑忙'地租改正時より大正中期まで'その間一時的な衰退の時期を含みながらも底流においては一貫して持
続している地租軽減論=運動の中で'いま'せくに明治二〇年代'正確には'帝国議会開設(明治二三年)より日清戦、
争勃発前(明治二七年)までの地租軽減論をとりたてて問題としたいと思うのは'実は'この時期の地租軽減論は'こ
うした地租軽減論の歴史の中で'1つの艮階を劃すと思われるほどのきわだった特質を有していると考えられるから
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にはかならない.?少くとも'地租改正時より明治一〇年代までのそれと対比した場合、その点は明按に把握できる。
尤も、明治二〇年代の地額軽減論が'多かれ少かれなんらかの意味でそれ以前の地租軽減論と異った性格を帯びてヽJ3
いるということは、これまでもすでに気付かれて来たところであJ.初期帝国議会における民党の「地租軽減・民力休
養」のスローガンの意味について、これを農業生産の利益よりも土地所有に賦課される地租に細心をもつ寄生化した)4
地主の利益に基礎をおく制限選挙の下での地主層代表議員の要求、として準える見方は、中でも、明治l〇年代まで
とは異ったこの時期の地租軽減論の階殻的基礎を明らかにしたとい‑意味で注目に価する。
云‑までもなく、地租は土地所有者(自作農および地主)の負担するものである。したがって'明治二〇年代とい
う時期が、周知のごとく、地租改正によって法認されその一般的展開の方向を与えられた地主的土地所有が明治一四
年の紙幣整理期における広汎な農民層の「分解」を通じて日本農業の支配的ウクラードとして形成されつつあった時
期だとい‑ことを考え合せるならは、自作農の没落と地主制の展開という事静が、地租軽減論に何ほどかの性格上の
変化を与えたに違いないとい‑ことは、容易に予測し‑る。地租軽減論の推進主体の変化、とい‑前述の把握もそう
した点に基礎をおいている。だが'ここで注意すべきことは、このような捉え方は、実は、まだ、明治二〇年代の地
租軽減論をその内容に即して厳密に検討した上のものではない、とい‑ことである。仮に、地程軽減論の推進主体が
変化したとすれば、地租軽減論そのものも、内容上なんらかの変化を見せているに違いないのである。自作農の利害
と寄生化した地主の利害が一般的に必ずしも一致するものとは云いえない以上、そのよ‑に考えざるをえない。事実ヽヽヽヽヽヽわれわれは、明治・10年代の地租軽減論から二〇年代のそれに眼を移す時、そこに内容においていちじるしい相違を
示しているととに気付く。もしそ‑とすれば、少くともこの時期の地租軽減論に関する限り、地租軽減論そのものの'内容にまで立入って考察した上でなければ、評価は決して充分なものとは云い難いのである。したがって、明治二〇
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'<、′11ヽヽヽ年代の地租軽減論の歴史的性格の解明は'まず'地租軽減論そのものを'その内容に即して検討していくことから始
めなければならない。●以下'われわれは'こ‑した点に問題の中心をおきながら'考察を進めていきたいと思‑0ヽヽヽヽヽヽ
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厳密には地租軽減論と見ることはできない。つまり地租増徴反対論であって決して地租軽減論ではない。そしてまさにこの点に、われわれはこの時期の地租問題が明治二〇年代のそれとは襲った段階的特質を有していることを知る手掛りを見出すこと
ができるように思われる。
怖大正二年二月二四日、東京丸内、商工奨励舘で開催された全国貞会大会は'「‑・・・吾人ハ憂国ノ赤誠ヲ以テ奮然輿論ヲ喚
起シ農村振興′タメニ統一アル運動ヲナサザルヲ得ズ玄二全国農会大会ヲ開催シ敢テ天下二宣ス」との宣言を発し、さらに「
員業者ノ負担軽減二閑スル件」として次のような決議を行っている(「帝国農会報」第二一巻一二号、ニー四頁)0
現今農業者ノ負担スル租税其他儲公課ハ非常に過重ニシテ之ヲ商工業者二比較スルニ著シク権衡ヲ失スルモノアルハ世間
周知ノ事実ナリ殊二農地ノ負担ハ其極度二速シ為二塁村ノ有力者ニシテ都市転住ヲ望ムモノ益々多ク農村ノ経営上将夕農民
思想上真二憂慮二堪へザルモノアリ
然ルニ政府二於テハ近ク営業税ノ改廃ヲ行ヒ以テ商工業者ノ負担ヲ軽減セントスルニ農業ノ負担二関シテハ之ヲ不問二付スヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽルノ意志ナルヤニ聞ク近年農村二於テハ種々ノ難問ヲ惹起シ延イテハ国家ノ基礎二動揺ヲ釆サトンスルガ如キ地方農民ノ指ヽヽヽヽヽヽヽ一ヽヽヽヽ導上極メテ重大ナル時期二於テ更三層不公平ナル税法改正ノ行ハレントスルガ如キハ誠二遺憾千万ニシテ農業者ノ忍プ能
ハザル所ナルヲ以テ国民ノ公平ナル負担ヲ基礎トシテ農業者ノ負担軽減ヲ要望セントス
右の傍点の箇所からもおおよその推測はなしうるが、横井時敬「地租軽減は焦眉の急である」(「帝国農会報」第7三巻一
号)、福田美知「地租軽減間魔」(同上)等は'この時期の地租軽減論の歴史的性格を端的に云い現しているものと云ってよ
い。例えば、福田は地租軽減の効果に言及して次のように述べている。「‑‑・困窮せる地主の経済に於て小作者に均粛せしむ
べき幾分の余裕が地租軽減に依って生じ得たLしたならば寧ろ小作紛虜を緩和すべき地帯が出来たといって宜しい地租軽減の
結果が之に及ぶに至っては小作紛擾に対する甚だ妙諦たるを失わぬ」。すなわち、小作争議の増大に基く地主的土地所有の動
揺(地主の「困窮」)が、この期の地租軽葡運動の背景をなしていたことを察知できよう。この点にまたわれわれは、この時
期の地租軽減論が.明治二十年代の地租軽減琴また明治後期の地租増徴反対魚とも明らかに異った歴史約特質を有している
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ことを知ることができる。
土屋喬堆・小野道雄「近世日本農村経済史論」第二部明治維新胤後、我妻東策「明治前舶農政史の諸岡魔J.、小野武夫「地租改正史論」第二章、石島敏雄・守田志郎「明治前期はおける地主制度展開の地域的特質」(「経済評論」昭和二六年五月号)
小山博也「明治前期における地租軽減論の展開‑自由現をめぐって‑」(「社会科学研究」第七巻第六号)l等。たとえば
小野武夫氏は'「明治十五、六年頃の地租改正論が野もすれば地租改正当時の如く'扱術的間嶺に終始していたのに対し、明
治二十二年頃よりは全国的、財政的又農政的諸問題として取上げらるるに至った⁚⁚‑即ち地租間蓮は国民経済的立場から各方
面より論議せられることになったのである。」(二三三頁)と述べている。
古島・守田前掲論文(明治史研究叢書第五巻「地主制の形成」所収)九六‑九八百。
二地価修正論の姶頭と地租軽減論の分裂=対立
林有遠の地価地牡特別修正法案
明治二三年二月の帝国議会開設は、地租軽減論にとって一つの転期を意味していた。議会開設とともに衆叢院に
おいて民党は、第一議会以来、保安条例廃止、集会政杜法改正、新聞紙条例改正等による政治的自由の獲得への努力
と並行して、「民力休養」のスローガンの下に、地租軽減要求を議会に何度も提出していった。あるいは歳計予算に
大削減を加え、あるいは政府提出の府県監獄費国庫支弁案を排しながら、その剰余金をもって地租軽減をかち硬ろう.lH■lHlrHJ川U∵としていったのである。地租軽減論が、法案の形をとって、院外の地租軽減運動と呼応しながら、その要求実現の場
を国会に求めて大規模に展開されるに至ったという意味で、せれは、たしかに一つの転期をなしていた.だがそれば
かりではない。地租軽減論そのものが、この国会開設の時点をほぼ転期としてその内容にいもじるしい変化を示して
‑るのである。すなわち地価修正論の拾頭がそれである。