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シ ュ プ ラ ン ガ ー の 教 育 改 革 論

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(1)

シ ュ プ ラ ン ガ ー の 教 育 改 革 論

中 泉 暫 俊

1

ま え が き

「シ′ユプラyガ ーの教育改革論」 と題 したが ,本稿 では , i/ユプ ラ ン ガ ー

( E.S p r a n g e r , 1 8 8 2

‑)が第二次世界大戦 後発表 した教育学関係の論文集 F教育 学的展望

』 ( PADAGOGI S HE PERS P EKTI VEN3Au f l a g e ,1 9 5 5 )

に焦点をおい て考察を進めたい と思 う

。1 9 5 7

年 同書 を入手以来 ,教育学演習用 テキス トとし て使用 してい るか らで あるシ′ユプラ ンガ ーが ,同書 で戦 前の ドイツ初等教育 の欠陥を どの よ うに指摘 し,そ してそのた桝 こどの よ うな方 向に改革を示唆 し てい るか を解 明す るのが , この小論 のね らいであ る

2

戦前の ドイ ツ初等教育の欠陥

シュプラ ンガ ーは ,大戦後い ち早 く, ドイツの破局 を新 しい 国民教育に よっ て救済すべ きことを強調 した。かれに従えは ,教育の兵の更新は,すべ て心の 中に "生活の よ り高い見方"をめざす ことか ら出発 しなければ な らないが ,そ

1 のた めには, "完全 に破零 した 国民道徳 の再建''と "人格的良心の再覚醒" と が先決問題であ る。 ここでは,後者に関す るかれ の見解にスポ ッ トライ トをあ てて考えたい。

シ ュプランガ ‑に よれは ,昔 の ドイツ庶民学校 の綱 領

(Pr o g r a mm)

は ,千 どもに内在す るすべ ての力‑ 思考,感情 ,意欲‑ を基礎か ら具案的に発達 させ ること,いいか えれば ,道徳的 ,宗教的 な仕上げを もつ一般的 な純粋 な人 間陶冶

( a l l ge me i ner e i neMe ns c he nbi l dung)

を 教育 目的 とす る ものであ っ た。 しか し現実には , この尊敬すべ き綱領に しば しは一致 しないで,知識は並 立的 に行われ る個 々の教科に分 類 され ,各教科 の教授が 眼 目とな っていた。知

‑ 1‑

(2)

.L.Fl..:'. J/

./}J....4..㍗..一・.).〜..‑..........I.・J.1・・..〜:.

I. . J

I , J̲..

誠 と並んで唱歌 ・図画 ・体操等の技能が育成 されたが,それ らもほ とん ど結合 され ることな く,は らは らに授け られていた。 この よ うな欠陥の所在を 5'ユプ ランガ ←は, 「現代の庶民学校

」( Di eVo l k s s c hu l ei nuns e r e rZe i

t)の中で ,

若い人格は個 々の活動領域に分轄 されていた。各活動領域は,教育学的 にば らば らに と り一扱われていた。 これ らの断片の総和が ‑全体を生ず る といわれ ていた。 しか しその成果は,長い間現われなか った。学校は生活 にあ ま り関係のない知識を伝達 した。 それ らは,貯蔵物 として詰めこまれ た。 けれ どもその意味は,実際生活に対 して しば しば光を与えなか った ‑ 各教科は,それぞれ一つ一つの表象圏に とどまった。それは,応用 されな い うちに, しば しは沈んで しまった。生活に対す る学校数控の無効果性 と い う昔か らの嘆 きは,そこか ら生ず るのである. (F教育学的展望

』7 4

貢) ときび しく指摘 してい るかれに従えは, ドイツ初等教育最大の欠陥は, 日常 生活か ら遊離 したば らば らな知識の伝達 に終始 して,全体的 な 人 間 性

( g a nz e Me ns c hl i c hk e i t )

の陶冶に無頓着 であ った ことである。すなわちそ こには, 〟 全人 としての教育 〟と〝学校教育 の生活化 ^/とい う近代教育思潮にみ られ る二 つの基本原理が,閑却 されていたわけである。 この点に関 して, i,ユプランガ

ーは鋭 く警告を発 してい るのである。

3 教育改革の原理

それならば,この よ うな初等教育の欠陥に対 して. 5'ユプランガ ‑は どの よ うな改革案を提示 してい るであろ うか。かれは前記の論文の中で,

新 しい学校の根本思想は,今 日しば しは開かれ る全体性 とい う合言葉に まとめ られ る。相互に無関係な断片か ら構成 され る寄せ集 めではな く,有 機的な全体性 とい った方が, もっと適切であろ うなぜなら,有機的に成 琵して絶えずそれ以上に成長す る能力のある,精神の統一的形態のみが陶 冶の名に価す るか らである。 (『教育学的展望

』74

頁)

と述べて,現代の新 しい庶民学校は,全体性

( Ga n z he i t )

の原理に よって貫か れていなければな らぬ旨を強調 している。かれ の説 く全体性の原理は,①郷土

‑2‑

(3)

,離 <</肇J〜rL .hrllT/J・R1iJI/{ Ji;I/':モノ二 '′

.:‑:.:・

科 の原理,⑧労作の原理,⑧共同社会の原理,④ 丙的世界覚醒の原理に分析 さ れ る。 この うち前三者はすでに昔か ら流布 されてきたのであるが,今 日新 しい 光に照射 されなければな らない, とかれは考えている.それならは,この三原 理に対す るかれの新解釈は,いかなるものであろ うか,ここで一瞥を与えてお

きたい と思 う。

0

0郷土科の原理

( da she i ma t k nndl i c hePr i nz i p)

シ ュプラyガ一に よれば,この原 理はペスタロ ッチ

(J . H. Pe s t a l oz z i ,1 7 4 6‑

1 8 27 )

の 『隠者の夕暮

』 (DI E ABENDSTUNDE EI NES EI NSI EDLERS

1 7

80) にその根源を有 し,教育学的には,子 どもの狭い精神的成長をその身近 な環境に よって養い深めよ うとす る努力を意味す る。そ して子 どもに と って 日

2

常起 こることの意味

( Be de uhng)紘,第一 に家庭で母親 を通 じて知 らせ られ

第二に郷土に よって知 らせ られ て,精神的に成長 してい く。人間の最初の環境 であ り,事物の全体的な生活意義が説明されてきた郷土に,子 どもは根をおろ し,そ こで安全感

( Ge bo r ge nhe i t s ge f t i hl

)が与え られなけれ ばな らない。安 全感を もたない ものは,内的世界

( I m e nwel

t)を 発 展 させ ることができない

と考え,

多 くの避難民の子 どもたちに とって,始 まりつつある意味解釈が突如中 断され て しまった今 日,それがいかに重要であるかを誰 もが認識 しなけれ ばならない。学校は,多 くの ものをかれ らに と りもどしてや らなければな らないが,お くればせなが ら郷土をつ くってや らなければならない。 しか しそれは ,人 々が学ぶ課業ではな くて,知 ることに理解 と愛 とを加え ること を求めるものである。心の こもった交わ りか らは,知識以上の ものが生ず るのであって,すべての知識は,後に非常に無味乾燥 な仕事や使い方を必 要 とす る時でも,決 して完全に失 うことのない,いわばみずか らの霊を獲 得す るのである。全体性 とは,このよ うな意味で語 られたのであ り,そ し てこのよ うな始ま りのみが兵に陶 冶的なのである. (「現代 の庶民学校

」 冒

教育学 的展望

』7 6

頁)

と主張 してい る。すなわちかれの説 く郷土科の原理の本質は,子 どもたちの初

ニE 3 ‑

(4)

.pS>つ、準照写、'<</i'.一i,I‑ :辛. :':/:lbt

期 の環境の もつ教育的作用を板蕗的な もの とみて,それに よって子 どもの心情 の形成に培お うとす るものである。吉葉をかえれば,郷土科

( Hei ma t kunde )

に よってあ くまで も子 どもの内面性を啓培す ることをめざす ものである した が って学校 と地域社会 との結合を緊密化 し,学校教育を通 じて地域社会 の生活 改善に寄与 しよ うと意図す るアメ リカの地 域 社 会 学 校

( c o mmuni t y s c hoo

l) の思想 とは,著 しく類を異に してい ることがわか も。

⑧労作 の原理

( d

a

sAr be i t s pr i nz i p)

労作原理 も決 して新 しい ものではな く,すでに第一次世界大戦前にガ ウデ ッ

( H. Gaudi g ,1 86 0 ‑1 9 2 3)

シャイ70ナー

( 0. Sc hei bne r ,1 87

7‑)紘,生 徒 の自由な精神的労作

( f rei ege i s t i geAr be i

t)を主 張 した。 ことに ケ/レジェ

y

シュタイナ

ー ( G. Ke r s c hens t e i ne r ,1 85 4 ‑1 9 3 2 )

は,ペスタロ ッチの 自己活動 の原理に基づいて手工的労作

( Handa r bei

t)を力説 し〃学習 学校の代わ りに労 作学校を,単 なる書物 学 校の代わ りに 労 作 学 校 を

〃 ( Ar bei t s s c hul e ge ge n L

e ms c hu le,Ar bei t s s c hul ege ge nbl o s s eBuc hs c hul eT . )と叫んで,労作 学 校

運動を推進 した ことは著名であるシ′ユプランガ ーほ, 〃労作の原理を もっと 本質的に進めなければな らない ^Jとい う信念を も って,労作教育を よ り強力に

3 推進す ることを主張す るが,

私は二つ の結論を出そ うわれわれの地方の学校は現在 よ りももっと農 業的にならなければならない とい うことと,われわれの都市の庶民学校は 現在 よ りももっと手工業的にならなければならないだろ うとい うこととで ある。 しか し人 々はそれを物質的な意味に とってはな らない。あ くまで も 精神的,道徳的 な もの,すなわちまさしく精神生活の源がそれ と結びつい てい る人間性の二つの基本活動が 肝 要 なのであ る。 (同前,前掲書,

7

7頁) とい って,労作の精神的 ,道徳的意義を強調 し,さらに

学校では,技術的な労作を も含めてあらゆ る活動を徹底的に神化,霊化 す ることが肝要である。人 々は,抽象的な,庶民に縁のない思考ではな く て,生活につなが り,労作 と結びついた思考‑ それは最 もよい意味にお いて形成力ある思考 と呼ぶ ことができる‑ を学び とることができるので

‑ 4‑

(5)

・ ∴ 1

::il;'.'ll、l.予、・.一一‑∴ ‑:1

ある。 (同前,前掲書

,7 8

頁)

と論 じて,労作 の教育的価値を実用的 と精神的 との二面か ら考えてはい るが, 精神的,道徳的意義を基本的な もの と認めてい るいいかえれば,生活的な も のを通 じて精神的陶冶を行お うとす る意図が うかがわれ る労作 の手工業的意 義 を 強 調 し,生 活 的,社 会 的 な観 点か ら労作をみた,デ ューイ (∫

.De we y.

1 8 5

9

‑1 9 5 2)

の労作原理 とは著 しい対照を示 してい る.

(S)共 同社会の原理

( da sGe me i ns c ha f t s pr i nz i p)

yユ70ラyガ ‑のい う共 同社会 の原理 とは,生徒が,単に教師 との一面的な 関係においてではな く,つねに共に働 き,共 に生活す る共 同社会の成員 として 絶えず 自己を意識す ることを意味す るのである。かれは 「現代の庶民学校」 の

4

中で,

古い学校は,すべ ての生徒か ら教師に向か って一つ の光線が出てい き, 逆に教師か らもすべての生徒に向か って光線が出てい くとい う形で,象徴 的に考え ることがで きよ う。 これに対 して新 しい学校は,すべての生徒か らすべての生徒へ と結びつ きの糸が張 られてい る, と考え ることがで きよ う。 しか もこの網全体は,教師 の人格の まわ りに張 りめ ぐらされ てい る。

かれはその綱を 自分 の手 に握 っていて,決 して手放 さないのである。

(前掲書,8

0

頁)

と,古い学校 と新 しい学校 との人間関係の相違 を比較 して,前者においては生 徒 同志が互に競争相手 として他を意識 し,孤立 して共 同意識がないので,誤 っ た個人主義やゆがんだ競争心が養われ,不健全な名誉欲や権勢欲への土台がつ

くられ るか ら,学級に健全な 〃われわれ 〃意識 ("

Wi r " be wuβt s ei n)が生 じ,

共 同社会精神に充ちた共 同社会 として学級が成 り立つ ことを主張す るのである 実に個人主義の克服 と共 同精神 の育成 とが,かれのね らいである。そ してかれ 紘,秩序 ある共 同社会

(e i ne geor dnet e Ge mei ns c haf t )に必要な要素 として

分 業

( Ar be i t s t ei l ung),協 力 ( Ar bei 【 s ve r ei ni gung),規 範 ( Nor me n),

責任意識

(Ve r a nt wor t ungs be wuβt s e i n),公共 心 (Ge mei ngei s

t)の

5

つ を あげ,青少年に健全な名誉感情を喚起す ることの重要性を論 じてい る

シスプ

‑ 5‑

(6)

...I‑ .I..1..・.・.I,

,.冒 .

..・.・..I,I...I,I.̲..・....i.......I..I;:一̲・i';‑●

∵‥鳴 、JI/∵ ! てt ・ト、・Jl!YI:'

ラ ンガ 一に従えは,学校教育において重要な こ とは,学校 で議会を開いた り, みせかけの 自治組織 を もっ ことではな く,子 どもた ちが将来民主社会 とい う大 きな社会に入 ってい くた めに必要 な,最 も素朴な取源体験

( ei nf a c hs t e sUr e r ‑ 1 e bni s )杏,学 校 とい う小 さな社会 において経験す るこそ であ る。かれの この

構想は,学校を一つ の小型 の社会

( mi ni a t ur es oc i et y)た ら しめ,そ こで十分

な社会的経験 を子 どもた ちに積 ませ よ うとしたデ ューイのそれ と,同工異曲で

5

ある。

(

4)内的世界覚醒の原理

( da sPr i nz i pde rl nnenwe l t e r wec kl ung)

上述 の三原理は, シ ュプ ランガ トに よれば,未成熟 者の外界に対す る関係, す なわち郷土世界 ・労作世界 ・共 同社会世界に対す る関係であ った。 それ は生 活 の意味へ の初歩的 な導入にす ぎなか った。 しか しそれは,小 さい意味領域か らよ り大 きい領域へ と拡大 してい くはか りでな く,表面的意味領域か らよ り奥 深 い意味領域 へ とつ き進 んでいか なければならぬので ある。 ここに,人間形成 におけ る全 く新 しい次元を意味す る内的世界覚 醒の原理が成 り立つ。覚醒 とい う言葉が暗示す るよ うに,その効果を評価 し得 るよ うな教育学的技術や ,天才 が思 うままに使え るよ うな教育技術が肝要 なのでな く,ただ敬慶 な献身(

f r o m‑

meHi nga be)

にのみ与え られ るよ うな,真の恩恵

(e i ge ndi c he Be gnadung

)が始 まるのであ る。 シ′ユプランガ ーは,

学校の 目的は,冷た くて蒼 ざめた知識 の習得 ではな く,われわれ が近づ き得 る価値世界 ,すなわ ちわれ われに関係 のある価値世界へ の生 きた導入 であ る。 ‑‑・教育は,それが若い人た ちの価値体験能力を拡大 し,深化 し ょ うとす るものであ ることに よって,単 な る教授 とは区別 され る。教育は 青少年 の知識世界 の構成に従事す るだけでな く,価値世界 のそれに も従事 す る。 ・‑・その価値 内容が長 くまた深 く青少年 の魂の中に作用 し続け る場 合にのみ,いいか えれ ば,価値 内容が そ こに板をおろす場合にのみ,期待 され る効果がか ち得 られ るのである.

(

現代の庶民学校」教育学的展望3 84頁)

と考えて,教育におけ る価値体験

( W e r t e r l e bni s )を重視 し, さらに

‑6‑

(7)

i‑I ‑ L ‑ I.: : : / ̀ L・L L1‑‑..、こ

精神が究極的な もの と最 も価値高 きもの,すなわ ち霊の現世的な ものへ よ りも神的な ものへ の関係が, よ り多 くその中へ現われ る。聖 なるものに 出会 う, とい うことである。教育はそのために,門を拡げ よ うとす る。

(同前,前掲書

,85

頁)

と道破 して,青少年の内面的価値の陶冶

( Bi l dungde si nne r l i c he sWe r t e s )

内面性の覚醒

(Ⅰ nne r l i c hke i twec ke n)こそ教師の 目標 であ り, したが って教

師が子 どもの内面性一般を開 くべき鍵を得 よ うと努力す ることが肝要である,

と主張す る。 それゆえ また ,/

人間性を救済 しよ うとす るな らば,人間性が まず第一に神的な もの と聖 なるもの との内において整え られ ,次の世界が高所か ら形成 され ,醇化 さ れ るとい うことを,われわれは意識 しなければな らない。われわれ の学校 は,人間性をそ こまで内面的に覚醒す る とい う課題を,ぜひ とも立てなけ ればならない。 (同前.前掲書

,85

頁)

と,人間教育におけ る内面性覚醒の必要 を極力叫ぶのである。

4 内面性の覚醒

上述 のよ うに,シ ュプランガ ‑は 「現代 の庶民学校」 の中で, ドイツ初等教 育の欠陥が,は らは らな知識の伝達 に終始 して生活や社会か ら遊離 しがち とな り,全体的な人間性の陶冶に欠け る ところにあった ことを指摘 し,その救済策 として内面性の覚醒を問題 として と りあげたのであった。かれは この間題を,

「内的学校改革

」 ( I nne r eSc hul r e f or m)及び 「

人間性へ の教 育

」 ( Er z i e hu

ngz urMe ns c hl i c hkei t )の二文において も,深 く追 求 してい る

「内面 的 学 校改革 」においてかれは,

学校が その教育の場 としての気高 さを得 るのは,なん として も学校が, 成長 しつつあ るものの精神的存在の根底をつかみ,かれか ら生活 の嵐の中 で もび くとも しない倫理的 な力 と志操 とを引 き出 し,人間のな し得 る一切 の ものを,輩 固な 性格陶冶にふ り向け る場 合 においてである

(

教育学 的展望

』5

8百

‑h l ‑・

(8)

聯 滞 狩t‑̲1C1 . 1 \L'.

i.,

1. :.;I :7fr

/:.・∴.・・・..{・.・∵,.I と説き,さらに 教育は,両親の文化的所有物を,成長しつつあるものに単に伝達することではない。かの財は,むしろより高い文化能力一般を発展させるべき媒介であるにすぎないそのためには,内的なもろもろの態度,すなわち志操・価値態度・真善美という理念的なものへの結びつきが,徐々に形成されなければならない。要するに,変化され,高貴化された人間が,生まれてこなければならない。もしも教育がこのような深みにまで入りこまないならは,それは其の教育ではなくて,せいぜい教授にすぎないのである。 (前掲書

, 62

頁) ,異の教育

(eigentlicheErzielmng)

と教授(Unterricht)との差別を述べ,内面性覚醒教育の必要なゆえんを強調し,そのために教師は永久に生徒の全人格を規定し,それを精神化し高貴化するまで,深く青少年の魂の中に沈潜させる技術をもつべきことを主張している。シ′ユプランガ一によれは.真の教育とは,輝かしい文明にも拘らず,人間が非人間性へと堕落していく危険を救済するために,未成熟者の内面の世界,自我の奥底にまで働きかけるものでなければならない 7

それならは,かれの強調する内面性

(hnerlichkei

t)とは何か。人間が他の動物に優るゆえんは,かれをとりまく事物について考案し,それを一つの世界に統合して考えることができ,さらに自分自身についても考察し,そうすることによって,一つの内的世界を自己のうちに発見できるということである。いいかえれば,自我が分化し,第‑の自我を監視し,それに対して上級審判の役割を果たす第二の自我が現われるのである,とかれは考えるのである。「人間性の教育」の中の言葉を借りると,クこの内部における分化過程とともに,間の内部の人間

(derMenschimMenschen)が始めて兵に目覚めるクのであ

る。 この裏に 目覚 めた 自我

(I c h)が内面性にはか な らない。

この よ うな内面性は, どんな方法で形成 され るであろ うか。 シ'ユプラ yガ ‑ に従 えは,第一の準備的段 階は, 自己省察 への導 き

( Anl e i t ungz urs el bs t be‑

s i nnu n g)であ

る .自己省察 とは, 自分 白身 とと り組み, 自分 自身 とひそかに

.8‑

(9)

撃謂野野 襲撃琴

対話を交わす ことである。 この ク自己 とのひそか な対 話 ,

, ( s t i l l e s el bs t g色I s pr ac he )は ,

第二次世界大戦後驚 くほ ど増大 した現代 の恐 るべ き活動性に よっ て,阻害 され ている人間は危機の時代において も.やは り自分独 りだけにな ることがで きなければいけない。それゆえわれわれは, この内面的集 中

( i nn‑

e r eSa mml ung),自己 及 び 内面の神 的 閃 きとの対 話 ( Aus e i na nde r s e t z ung ni ts i c hs el bs tundmi tg6t t l i c he nFunke n)へ と,若い世代を導いていかな

ければならない。第二の艮階は,自己尊敬

( Se l bs t a c ht ung)

と自己批判 (

Se l l bs t kr i t ik)への教育である。 自分 自身になんらの価値を認めない人は,は じめ

か らよ り高い人間性を見失 っているのであるカ y ト (Ⅰ

・Ka nt ,1 72 4 ‑1 8 04)

の無上命 令

( ka t e go r i s c he rl mpe r at i v)を,われわれは ク汝みずか らを 尊 べ

( Ehr edi c hs e l bs t ! )

とい う言葉に公式化す ることがで きる。 しか しわれわ れは 自己を敬す る とともに,真剣に神の前に立つ時に, 自分を単に未熟な もの としてでな く,微小な もの と感 じ怖れ るのである。 ここに自己批判がみ られ る 自己省察は 自己批判にまで導かれなければ,実践的成果を生 じない。 この 自己 批判か ら,個人的良心へ の途が開かれ るのである。第三 の艮階は良心

( Ge wi s

s e n)である。 目覚めた良心な しには,人 間 性 は考え られない

. y ユプ ラ ンガ ーは, 「人間性へ の教育」 の中で,

促 した り,思い とまらせた り,罰 した りす る良心の働 きの中に,ゐれわ れはわれわれのよ り高次 の自我を遺 して. 自我をわれわれに理解 させ よ う

とす る神その b/のをみ る. (教育学 的展望

』1 3 2

百)

と述べて,良心の目覚 めはやが て神への道であることを示唆 し,続 いて 神の前に立 てる良心‑ ‑この人間性におけ る固有の宝石‑ の覚醒 と喚 起 な くして,人間性への教育はあ りえない。 (同書

,1 33

頁)

l

と,良心の滴善 (

Ge wi s s e npf l e ge )

は きわ めて困難な問題であるが,人間性の 教育にとって不可欠な ことを強調 してい る.

第 四 の艮階は責任感

( Ve r a nt wor t ungs be wuβt s e i n)である。人は事柄に対

し,人間に対 し,小集団 もしくは全民族の よ うな非常に大 きい集団に対 して.

つねに責任を負 うべ きものであ る。責任は,精神によって彦透 された人格を と

‑ 9‑

(10)

:.∵・ナ二'∴∴了 ,∵十 丁宣 ・+;:tt.'it:LL/.

̲I.J

'・・..、・',.I..1・J・:・・,.〜.1.:I.・・・.・.I..・..I..⁚・...,,I.

もな う責任の厳粛 さについてなに も知 らない ものは,人間性に まだ 目覚めて いない,といわ ざるをえない。〃民主主義 とは責任の学校 であるク(

De mo kr a t i e i s tdi eSc hul ede rVe r a nt wo r t u nge n. )とい う命題は, まことに妥 当 な 言 葉

である。第五の段階は,愛への教育

( Er z i e hung 2 ; urLi e be

)であるが, これ は きわめて重要 な命題である。人間愛及び博愛 とい う表現においては,人は も はや責任 とい うことを とくに考えないのである。人間性へ の教育が人間愛(M‑

e ns c he nl i e be)及 び 博 愛 ( Nac hs t e nl i e be )にまでの 教 育であるとい うことは

単 なる個人主義や利己主義に対す る明凍 な反対であ ることを示す ものである

上に略述 した よ うな五段階の教育方法に よって,内面性の覚醒が喚起 され, 全体的 な人間性の教育がは じめて完遂 され るとい うのが, シュプランガ ーの見 解 である。かれは, 「内面的学校改革」 の中で,その教育改革の結論をつ ぎの

よ うに結んでいる

私の結論は,恐 ら く〃学校改革ではな く〃む しろ内部か らの最 も決定的 な学校改革であ り,決 して単なる組織的な処置ではない !その課題は限 り な くむずか しい。 しか し困難な時代は,単に教案や時間表を処方す る教師 ではな く,真実 の教師,すなわち永遠 との結合 と創造的思想 とを もった教 師を必要 とす る。 この ことは,あ らゆる艮階の学校にあては まる。 とりわ け庶民学校 とい う美 しい名称を もつ学校にあてはまる。 (F教育学的展望』

71貢)

yユ70ランガ ーの教育改革論 は,一言で尽 くせば,教育制度の改変を主 とす る形式的 な陶冶組織論

( The or i e de rBi l dungs or ga ni s a t i on)ではな くて,人

間の内か らの根本的変化をね ら う陶冶内容論

( The o r i edesBi l dungs ge ha l t )

であ り,真実の教師

( wa hr haf t eEr 2 : i e he r )を渇望す る教師論である, と断定

して も過言ではあるまい。すなわち,魂 の内面的覚醒に よって道徳的及び精神 的に高貴化された全人を陶冶す ることこそ.かれの教育改革論 の中核をなす も り と認め られ る

‑1 0 ‑

(11)

: ‑ 一 、 一 粥. ' ‑ ∴‑ ′ ‥:■ √

誓、:I:!:'31・‑.. /,.己1. ' 'IL:A'‑7∴十 一A'A■ ■・一二

5

あ と が き

まえが きに記 した よ うに, シュプランガ ーが ドイツ初等教育の欠陥を どのよ うに指摘 し,かつ どの よ うにその改革を方 向づけたかを,私は一通 り考察 し終 えた。敗戦 とい う冷厳 な現実の試練を経 て生 まれてきた,かれの教育改革論の 焦点は ,結局人間の内面性に向け られ ,人間性の内面か らの開発育成を もって教 育の本質 とみ.教育におけ る究極的 な ものを神

( Got t )

に求めているところに その特色がみ られ る。 しか しこのよ うな発想は必ず しも独 りシュプランガ ーに 限 られ るものではな く,思弁的 ,内省的な ドイツ観念論 ・ドイツ理想主義に共 通 した思想的基調をな してい る例えは/、ンブル ク大学教授 フ リッ十ナ

ー( W.

Fl i t ne r ,1 8 8 9

‑)ち

,

正 しい精神への覚醒が教育の 目標 とな り,良い価値観へ 目 覚 めることが,教育過程 の核心である旨を強調 してい る。

9

またす でに冒頭で触れた よ うに,知識伝達主義の ドイツ初等教育の欠陥を是 正す るた めに, シュプ ラyガ ーは人間性の全的陶冶 と教育の生活化 とを主張 し たが,プラグマテ ィズムを基調 とす るアメ リカの経験主義 の教育思潮 とは,普

しく異なるものがあ る。かれ の見解には,教育 と社会生活 との結びつき,現実 問題の解決に よる正 しい判断力 と実践力 との養成 の必要をあま り説いていない 点に.いささか迫力を欠 く憾みをまぬがれ ない。 もっと明断な社会認識 と歴史 認識 とに立つ ,徹底 した考察を望みたい ものである。

とはいえ, ク最 も内面的 な ものの内に,地上的 な ものを越 えた超越的 な もの へ の道が開かれ ている クとい う固い信念に立 って,人間性の開発を説 き,内面

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性の覚醒を叫んで, ドイツ教育の根本的建て直 しにひたむ きの情熱を燃やす , 老教育学者 シュプランガ ーに対 して,私は心か らなる敬意を表 したい と思 う.

1 Vo l ks mo l alu ndGe wi s s e na l sEr z i e hungs m註 c ht e,i n"BI LDUNG UND ERZI EHUNG.S. 9

2 Di eVo l ks s c hul ei nuns e r erZe i t ,i n " PADAGOGI SHE PERSPEKTI

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S.85

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参照

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