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春秋學特殊用語集三編︵一︶

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Academic year: 2021

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(1)

【念母】

莊公元年﹁三月夫人孫于齊﹂の公羊傳文に夫人固在齊矣其言孫

齊何念 也正以存君 以首事何注に

法存君 莊公練母而迎

明不宜也﹂とある︒この何注につて︑﹃羣經議﹄︿春秋公羊傳﹀

に﹁氏此解甚爲違失傳月以存君不言祭以存君

曰練祭取君一失祭莊公主之非夫人主之乃曰夫人當首祭

事二失經明書孫于齊傳亦但言母不迎母乃曰念母而

三失也然則此傳當作何解曰接練時録母之此穀梁之説公羊無

此説也莊公一篇先書元年春王繼書三月夫人孫于齊其書 正月者明國有君也所謂正月以存君也其書三月夫人孫于齊

君有母也記載莊此爲首蓋推莊無有

更先于此者也所謂念母以首事也是時夫人固在齊而曰孫于

曰夫人在齊云爾亦猶公在乾侯之比春秋雖託文見然先

事實豈容以意亂若使夫人實於此時歸而反于齊是則

載失實甚何以爲春秋乎必於三月書之者是年三月以前無事其下

始書夏單伯逆故欲書單伯逆王姫而先書夫人孫于齊正所謂念母以

首事矣﹂︹私えまするに︑何のこの解釋はひどくちがっいる︒

傳は﹁正月以存言い︑﹁練祭以存君﹂とはってないのに︑ 跡見十九十五

春秋學特殊用語集三編︵一︶

岩本憲司

K e n j i I w a m o t o

A Glo ssary of T echni ca l T erm s for ch'un -ch 'iu Hsueh

(春秋学)Ⅲ‐1

(2)

跡見学園女子大学文学部紀要  第49号  2014

法存君〟といっているのが︑第一のまちがいる︒練祭は莊公が

つかさどるものであり︑夫人がつかさどるものではないのに︑〝夫人當

首祭事〟といって︑第二がいでる︒經はきり﹁孫

﹂とだ﹁︑﹁﹂と

ていないのに︑〝念而迎之〟といるのが︑第三のまちがいであ

る︒それならば︑このどのようべきなのか︒練時録母之

うのは︑穀梁あり︑公羊にこのない︒莊

は︑まず﹁年春王正月﹂と書き︑つい三月夫人孫于齊﹂と書いて

いる︒年春王正月﹂書いているは︑に君がいるこ

ので月以いうる︒﹁三月

齊﹂と書いているのはに母がいることを明らかにしたのである︒

公三間の事を記載す事を首︹はじめ

としている︒おそら︑〝莊公の氣持ちとしては︑こより優先する

ものはり得ないはずある〟はかったのあり︑これが念母

以首事うことあるの時はそもそも齊いたのに︑

于齊﹂いう︑﹁ ようのであり︑﹁公在︹昭

公三十・三十一・三十二年︺と同類であ︑事實を記たのである︒

︽春秋︾は︑文に假託して義をすものだが︑先世の事實を勝手に

することはめられいない︒もしかりに︑︵何氏の言ように︶夫人は

この時︑實際に迎えられて歸り︑それを逆に﹁孫于齊﹂と書いたの

すれば︑記載が事實と全く違うことになる︒︵これではどうし

秋︾と言うか︒他ではなく︑三月のところに書かれているのは︑こ の年は三月以前に事件がなく︑その下に始めて 單伯逆王姫﹂と書

れているからでる︹もし︑三月以前に事件があれば︑その事件のさら

に前に書かれるはず︑ということ︺︒つま逆王姫﹂を書きた

から︑先前︺に夫人孫于齊﹂いたのであり︑これさし

﹁念母以首事﹂ということである︺とある︒兪のこの批判は︑細かい

は︑ピントがはいるあるが︑って

つまり︑休のように と解するべきなく︑

と解するべきということである︒︑﹁正月以存

君﹂と﹁念母以事﹂とを︑ としてとらえ︑句作りを考えてみる

からかる︒というのも︑正月﹂によって存君﹂﹂に

って﹁首事﹂するのだとすれば︑母は決っして﹂の主語

い︑からであもちろん︑存君﹂﹁首事﹂の主語は︑ずれも孔子

︽春秋︾る︺くて︑傳文は〝人はもともと齊にいたのに︑

于齊のはな母をたからであ︒﹁﹂︵くこと︶

によって君の存在をかにし︑母たことを書くことよっ

て記 のである〟と普 讀むのが正る︒ところ

莊公元年の左氏傳文﹁元年春不稱即位文姜出故也﹂の杜注に﹁文姜與

行而桓爲所殺故不還莊公父弑母出故不行即位之

據文故傳姜出 不書不告廟

り︑孔に﹁公羊傳人固在齊矣其言孫于齊何念母也月以

存君念母以首事穀梁傳曰接練時録母之之也其意言文姜

往年如 念及其母書其出奔

(3)

三月始魯去左氏先儒﹂とある︒この孔疏によると︑左氏

儒たちは︑公と穀梁とを合成したよっていたよ

だが︑彼らは︑そして孔疏は︑件の羊傳文を果してどのように讀

いたのであろうか︒本邦の加賀榮治氏は︑この疏を〝公傳に曰わく︑

夫人は固より齊に在るに︑其の﹃齊に孫る﹄と言は︑何ぞ︒母を念

えばなり︒月に以て君を存し︑︹に︺

人が祭に首となるべきもの︱何休注︶穀梁傳に

練の時にあたりて母の録するはれをおもえばなり﹂と︒

其のこころは︑文姜はさきの年に齊にき︑此の年の三月に至

るも︑猶お尚お反らず︒三なり︒念い其の母にいたり︑乃ち其

の出奔を書す︒三月始めて魯るには非ざるなり︒左氏先儒は︑

な此の説を用う〟︹解釋史・魏篇・﹄勁草書房︑四七九頁︺

と訓している︒このると︑氏の先儒たちは︑して疏は︑

いずれみな︑何休同じ讀み方をしている︑ということになる︹おそ

く︑加賀氏身には︑こような問識はなく︑單に︑何

こうめる︑というだけのことなのであろうが︺︒そこで︑﹃詩﹄

︿南の序︑﹁ 及賈 皆以爲桓至是年三月

朞而小祥公念及於母重不可以反之故書遜于齊

耳其 ︵中云蓋魯桓之喪從齊

文姜爲二年とあって︑先程の左と︑内容はほぼ同じだが︑今

度は︑﹂﹁賈逵﹂服虔﹂有名が舉げられてこれよる

と︑左氏の先儒つまり︑賈逵と休と ︑ということになる︒問は︑ 解釈が同じなのか︑ということ

ある︒そこで︑孔疏のテーマ自體をると︑それは︑左氏傳に關

する先儒の説預の説との違いをかにすることである︹左氏疏の

﹁左氏先儒皆此説﹂の下には不然者﹂とつ︺︒つまり︑先儒

〝この時︑夫人もどい〟に對して︑預は〝の時

夫人は一度もどった〟︹杜注參照︺としており︑この〝この時︑夫人

もどっていない〟という先儒の解︑何休同じある︑というこ

となのであるら︑孔 解釋が︑何休服虔

とで同じでっているわけでないるか

ら︑解釋の如何にかかわらず︑公羊傳文では︑初から〝この時︑夫人

どっていない〟のる︒疏公羊傳文をいている所以︺︒

それに︑は何休より前ある︒何休が賈逵の説に羊傳を解

釋した︑とでもうのだろうか︹なみに︑何休序に﹁至使賈逵縁隙奮

爲公羊可氏可る︺︒それよりも︑﹁夫人當首祭事﹂と

う特異な解釋は︑あくまで何 であり︑賈逵は︑

おそら服虔も︑公傳文﹁念母以首事﹂を 讀んでと想像

する方がはるかに自然であろう︒その意味で︑先加賀氏の〝︹練

に︺母の以て事に首たるを念うなり〟という訓は︑〝母を念うを以て

事の首となす〟直したがよいのではあるまいか︹ただし︑孔

がどのように讀んでいたかは︑實のところ︑よらない︒趣旨

のない部分だく讀みていたかも知れない︺︒お︑

賀榮治氏の﹃國古典解釋史・魏晉篇・﹄は︑經學に關する數少ない貴

(4)

跡見学園女子大学文学部紀要  第49号  2014

重な專著の一つであるが︑春秋學ついては︑その第四章﹁預の春秋

解釋の方態度﹂に︑傳・注等多數の文が で載せ

氏の方がほぼわかる︒そのう疑問に思うのを︑

以下にいくつか指摘ることにする︒まず︑隱公五年﹁﹂の公羊傳文

﹁何灾者害於人物 至者先是

百金之苛令急法以禁民之所 ﹂とあるのを︑氏は〝

とは︑を害うこと有りて︑隨いて至る者なりれより先︑

は︑を張るこ︑苛令急民の

所をればなり〟九頁︺しているがは︑〝災とは︑

人や 害があり︑事にてやであるより先

隱公が金の魚を網とり酷な法令を設けて民をした︑

である〟と讀まなければならない︒というのも︑隱公三年﹁

王二月己之﹂の公羊傳文記異也﹂の何注に﹁異

常可 ﹂とあって︑﹂は︑の﹁先事

照しきだなお︑﹁所致﹂意味いて

︻所致︼項目を立ててている︺に︑五年

傳文﹁何以書旱者教不施先是桓公

行比 爲天子得志益驕國遠致此旱﹂

るのを氏は〝旱は政教施さざるの應なりれより︑桓公は

王行無く︑聘する所とるに比︹およ︺を得て益ます驕り︑

て遠く狩し︑大い丘に城く︒故に此を致す〟︹四二〇

頁︺とているが︑ここは〝旱は︑政教がおこなわれなかったこと の應あるれより先公は のに

天子に聘問されたため︑得意になってますます驕り︑遠く國︵都

を離し︑丘にたから︑であ

と讀まなければならない︒というのも︑〝桓公は王行無く〟では︑意

不明だからである︒また︑﹂︹りに︺については︑四年に

使宰渠伯糾﹂とあり︑この年に﹁天王使仍叔之子聘﹂とある︑

からでる︹なお︑桓公無王行﹂につい︑︻無王︼目を參照︺

次に︑來歸僖公成風之

外之弗夫人而見正焉﹂の注に﹁見不以妾爲妻之正﹂とあるの

氏は〝を以と爲さるを見す〟︹四一している

が︑ここは︑もちろん︑〝妾 という︵道︶をあらわし

のである〟讀まなければならい︹なお︑僖公九年﹁九戊辰

于葵丘﹂穀梁傳文に ある︺次に︑隱公元年の左

文﹁元年春王周正月不書即位也﹂の孔疏に賈服之徒以爲四

公皆實即位孔子脩經有不書故杜詳 曰︵中略︶隱莊

雖居君位有故而不脩即或讓而不爲或痛而不忍或亂而不

國史固無所書 とあるのを︑加

︑ ﹁

孔子の・經を脩せしとき︑乃ち書さざる有り﹂と︒故に︑杜は詳かに

を﹃釋例﹄に辨じて曰わく︵隱・莊・閔・僖は︑君の位に居

ると雖な故有り位の禮を脩めず︑或いりて爲さず︵=隱

公︶︑或いは痛みてびず︵莊公︶或いれて︹爲すを︺得ず︵

(5)

閔公・僖公︶廢せられなれり史は固より書すき所無

其の禮を行なうに非れば︑而︵すなわ︶文に書さざるなり〟︹三九

六・三九七頁︺と訓している︒この訓讀については︑〝禮せられ

異なれり〟を〝禮が廢せられた事は︵それぞれ︶異なるが〟と讀み直

︑他に問題ないかのように見かも知れないが︑實は〝其の禮

を行なうに非ざれば︑而︵すなわ︶ち文り〟がおしいの

る︒というのも︑の自説の主は︑その前で終わっており︑こ

こは︑舊 だかある︒り︑〝︵は︶即

行なっていなら︑文は書かなかた︑というはない

なければならないということである︒︑莊公十七年

﹂の穀梁傳文に﹁盡也然則何爲不言遂人盡齊人也遂之

﹂とあるは〝るなりば則ち

遂人︑人を︒遂無きの︵遂をにしない

ことばづかい︶なり〟〇五頁︺と訓讀している︒ここは︑訓讀自體

が問はなく︑﹁之辭る〝遂主にしない

かい〟という説明がおかしいのである︒というのも︑一般に︑傳文

〜辭中身分︺は︑

ものだからである︹︑文公八殺其大夫司馬﹂の穀梁傳文

也﹂は︑︵も

同然︶いう表現〟という意である︒なお︑起文︼項目を參照︺

︵とい︵もはや

という〟と説明しなければならない︑というこある︒以上︑い ずれもみな︑氏の論旨とは關わりのない細かい點だが︑古典の正確

な讀解を目ざしては︑どうしても氣になってしまうの︑この

場をかりてしたる︒

【代行】

成公年の左氏傳﹁郤中軍士燮 上軍﹂阮刻本︺の杜注に﹁范

庚﹂〝︹士燮︺が荀庚に代わったのである〟り︑挍

勘記本岳 作佐 是也案四年傳尚云士燮

軍至年傳始士燮將上此時不得明矣﹂〝石・宋本・

淳熙本・岳本・足利本は佐﹂に作っている︒これ正しい︒

考え︑四だ﹁士燮 上軍﹂とり︑十三年の

になって始め ﹂と言ているから︑は明らか

ではあり得〟とある︒この阮も合理的であり︑定説

化しているが説が全くないわけではない︒安井﹃左傳輯釋﹄

案下文士燮侯曰所命制也注荀庚將上

出范文子上軍佐代故稱帥以讓則此注荀庚亦謂代杜既

代行則其本作將上軍若士燮本職何言代也文正

亦不言有異則唐以前無作上軍者庚不出士攝將以行

故言將耳之役

荀林父佐上軍不言佐獨率亦有不將者蓋石經

文庚所命及文七年傳改將爲佐而諸沿之耳精究文義石經似

長但讀書以傳疑依杜舊爲正﹂︹私が考え︑下

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