【念母】
莊公元年﹁三月夫人孫于齊﹂の公羊傳文に﹁夫人固在齊矣其言孫于
齊何念 ヽ母 ヽ也正月以存君念 ヽ母 ヽ以首事﹂とあり︑何注に﹁禮練祭取
法存君夫 ヽ人 ヽ當 ヽ首 ヽ祭 ヽ事 ヽ時莊公練祭念母而迎之當書迎反書孫者
明不宜也﹂とある︒この何注について︑兪﹃羣經平議﹄︿春秋公羊傳﹀
に﹁謹按何氏此解甚爲違失傳言正月以存君不言練祭以存君乃
曰練祭取法存君一失也練祭莊公主之非夫人主之乃曰夫人當首祭
事二失也經明書孫于齊傳亦但言念母不言迎母乃曰念母而迎之
三失也然則此傳當作何解曰接練時録母之變此穀梁傳之説公羊無
此説也莊公一篇先書元年春王正月繼書三月夫人孫于齊其書元年 春王正月者明國有君也所謂正月以存君也其書三月夫人孫于齊者
明君有母也春秋記載莊公三十二年之事以此爲首蓋推莊公之心無有
更先于此者也所謂念母以首事也是時夫人固在齊而曰孫于齊者猶
曰夫人在齊云爾亦猶公在乾侯之比紀其實也春秋雖託文見義然先
世事實豈容以意變亂若使夫人實於此時迎歸而反書曰孫于齊是則記
載失實甚矣何以爲春秋乎必於三月書之者是年三月以前無事其下
始書夏單伯逆王姫故欲書單伯逆王姫而先書夫人孫于齊正所謂念母以
首事矣﹂︹私が考えまするに︑何氏のこの解釋はひどくまちがっている︒
傳は﹁正月以存君﹂と言い︑﹁練祭以存君﹂とは言っていないのに︑〝練 跡見学園女子大学文学部紀要第四十九号︵二〇一四年三月十五日︶
春秋學特殊用語集三編︵一︶
岩本憲司
K e n j i I w a m o t o
越
越
A Glo ssary of T echni ca l T erm s for ch'un -ch 'iu Hsueh
(春秋学)Ⅲ‐1跡見学園女子大学文学部紀要 第49号 2014
祭取法存君〟といっているのが︑第一のまちがいである︒練祭は莊公が
つかさどるものであり︑夫人がつかさどるものではないのに︑〝夫人當
首祭事〟といっているのが︑第二のまちがいである︒經ははっきり﹁孫
于齊﹂と書き︑傳もただ﹁念母﹂と言っているだけで︑﹁迎母﹂とは言っ
ていないのに︑〝念母而迎之〟といっているのが︑第三のまちがいであ
る︒それならば︑この傳はどのように解するべきなのか︒﹁接練時録母之
變﹂というのは︑穀梁傳の説であり︑公羊にこの説はない︒莊公の一篇
は︑まず﹁元年春王正月﹂と書き︑ついで﹁三月夫人孫于齊﹂と書いて
いる︒﹁元年春王正月﹂と書いているのは︑國に君がいることを明らかに
したのであり︑これが﹁正月以存君﹂ということである︒﹁三月夫人孫于
齊﹂と書いているのは︑君に母がいることを明らかにしたのである︒︽春
秋︾は︑莊公三十二年間の事を記載するのに︑この記事を首︹はじめ︺
としている︒おそらく︑〝莊公の氣持ちとしては︑この事より優先する
ものはあり得ないはずである〟と推しはかったのであり︑これが﹁念母
以首事﹂ということである︒この時︑夫人はそもそも齊にいたのに︑﹁孫
于齊﹂というのは︑﹁夫人在 ヽ齊 ヽ﹂というようなものであり︑﹁公在乾侯︹昭
公三十・三十一・三十二年︺と同類であって︑事實を記したのである︒
︽春秋︾は︑文に假託して義を示すものだが︑先世の事實を勝手に改變
することは認められていない︒もしかりに︑︵何氏の言うように︶夫人は
この時︑實際に迎えられて歸り︑それを逆に﹁孫于齊﹂と書いたのだと
すれば︑記載が事實と全く違うことになる︒︵これでは︶どうして︑︽春
秋︾と言えようか︒他ではなく︑三月のところに書かれているのは︑こ の年は三月以前に事件がなく︑その下に始めて﹁夏 ヽ單伯逆王姫﹂と書か
れているからである︹もし︑三月以前に事件があれば︑その事件のさら
に前に書かれるはず︑ということ︺︒つまり︑﹁單伯逆王姫﹂を書きたい
から︑先︹直前︺に﹁夫人孫于齊﹂を書いたのであり︑これがまさしく
﹁念母以首事﹂ということである︺とある︒兪のこの批判は︑細かい
點では︑ピントがはずれているところもあるが︑大筋では當たっている︒
つまり︑傳の﹁事﹂は︑何休のように祭 ヽ事 ヽと解するべきではなく︑︽春 ヽ秋 ヽ︾
の ヽ記 ヽ事 ヽと解するべきである︑ということである︒このことは︑﹁正月以存
君﹂と﹁念母以首事﹂とを︑對 ヽとしてとらえ︑句作りを考えてみること
からもわかる︒というのも︑﹁正月﹂によって﹁存君﹂し︑﹁念母﹂によ
って﹁首事﹂するのだとすれば︑母は決っして﹁首事﹂の主語たり得な
い︑からである︹もちろん︑﹁存君﹂と﹁首事﹂の主語は︑いずれも孔子
︽春秋︾である︺︒かくて︑傳文は〝夫人はもともと齊にいたのに︑﹁孫
于齊﹂と言うのはなぜか︒母を思ったからである︒﹁正月﹂︵を書くこと︶
によって君の存在を明らかにし︑母を思ったこと︵を書くこと︶によっ
て記 ヽ事 ヽを ヽは ヽじ ヽめ ヽた ヽのである〟と普 ヽ通 ヽに ヽ讀むのが正解である︒ところで︑
莊公元年の左氏傳文﹁元年春不稱即位文姜出故也﹂の杜注に﹁文姜與
桓倶行而桓爲齊所殺故不敢還莊公父弑母出故不忍行即位之禮
據文姜未還故傳稱文姜出也姜 ヽ於 ヽ是 ヽ感 ヽ公 ヽ意 ヽ而 ヽ還 ヽ不書不告廟﹂とあ
り︑孔疏に﹁公羊傳曰夫人固在齊矣其言孫于齊何念母也正月以
存君念母以首事穀梁傳曰接練時録母之變始人之也其意言文姜
往年如齊至 ヽ此 ヽ年 ヽ三 ヽ月 ヽ猶 ヽ尚 ヽ不 ヽ反 ヽ三月練祭念及其母乃書其出奔非
越
三月始從魯去也左氏先儒皆用此説﹂とある︒この孔疏によると︑左氏
の先儒たちは︑公羊傳と穀梁傳とを合成したような説をとっていたよう
だが︑彼らは︑そして孔疏は︑件の公羊傳文を果してどのように讀んで
いたのであろうか︒本邦の加賀榮治氏は︑この疏を〝公羊傳に曰わく︑
﹁夫人は固より齊に在るに︑其の﹃齊に孫る﹄と言うは︑何ぞ︒母を念
えばなり︒正月に以て君を存し︑︹練祭に︺母 ヽの ヽ以 ヽて ヽ事 ヽに ヽ首 ヽた ヽる ヽを ヽ念 ヽう ヽな ヽ
り ヽ︵練祭は︑夫人が祭事に首となるべきもの︱何休注︶﹂と︒穀梁傳に曰
わく︑﹁練の時にあたりて母の變を録するは︑これをおもえばなり﹂と︒
其の意の言うこころは︑文姜はさきの年に齊にゆき︑此の年の三月に至
るも︑猶お尚お反らず︒三月は練祭なり︒念い其の母にいたり︑乃ち其
の出奔を書す︒三月始めて魯より去るには非ざるなり︒左氏先儒は︑皆
な此の説を用う〟︹﹃中國古典解釋史・魏晉篇・﹄勁草書房︑四七九頁︺
と訓讀している︒この訓讀によると︑左氏の先儒たちは︑そして孔疏は︑
いずれもみな︑何休と同じ讀み方をしている︑ということになる︹おそ
らく︑加賀氏自身には︑このような問題意識はなく︑單に︑何休に據れ
ばこう讀める︑というだけのことなのであろうが︺︒そこで︑﹃詩﹄齊風
︿南山﹀の序疏を見ると︑﹁何 ヽ休 ヽ及賈 ヽ逵 ヽ服 ヽ虔 ヽ皆以爲桓公之薨至是年三月
朞而小祥公憂思少殺念及於母以其罪重不可以反之故書遜于齊
耳其 ヽ實 ヽ先 ヽ在 ヽ於 ヽ齊 ヽ本 ヽ未 ヽ歸 ヽ也 ヽ︵中略︶服虔云蓋魯桓公之喪從齊來以
文姜爲二年始來﹂とあって︑先程の左氏疏と︑内容はほぼ同じだが︑今
度は︑﹁何休﹂﹁賈逵﹂﹁服虔﹂と︑固有名が舉げられており︑これによる
と︑左氏の先儒たち︹つまり︑賈逵と服虔︺と何休とは解 ヽ釋 ヽが ヽ同 ヽじ ヽで ヽあ ヽっ ヽ た ヽ︑ということになる︒問題は︑何 ヽの ヽ解釈が同じなのか︑ということで
ある︒そこで︑孔疏のテーマ自體を考えてみると︑それは︑左氏傳に關
する先儒の説と杜預の説との違いを明らかにすることである︹左氏疏の
﹁左氏先儒皆用此説﹂の下には﹁杜不然者﹂とつづく︺︒つまり︑先儒が
〝この時︑夫人はもどっていない〟とするのに對して︑杜預は〝この時︑
夫人は一度もどった〟︹杜注を參照︺としており︑この〝この時︑夫人
はもどっていない〟という先儒の解釋が︑何休と同じである︑というこ
となのである︒だから︑孔疏は︑公 ヽ羊 ヽ傳 ヽ文 ヽの ヽ解釋が︑何休と賈逵・服虔
とで同じである︑と言っているわけではない︹﹁夫人固在齊矣﹂とあるか
ら︑解釋の如何にかかわらず︑公羊傳文では︑最初から〝この時︑夫人
はもどっていない〟のである︒疏が公羊傳文を引いている所以である︺︒
それに︑賈逵は何休より前である︒何休が賈逵の説によって公羊傳を解
釋した︑とでも言うのだろうか︹ちなみに︑何休序に﹁至使賈逵縁隙奮
筆以爲公羊可奪左氏可興﹂とある︺︒それよりも︑﹁夫人當首祭事﹂とい
う特異な解釋は︑あくまで何 ヽ休 ヽの ヽオ ヽリ ヽジ ヽナ ヽル ヽであり︑賈逵は︑そして︑
おそらく服虔も︑公羊傳文﹁念母以首事﹂を普 ヽ通 ヽに ヽ讀んでいた︑と想像
する方がはるかに自然であろう︒その意味で︑先程の加賀氏の〝︹練祭
に︺母の以て事に首たるを念うなり〟という訓讀は︑〝母を念うを以て
事の首となす〟とでも直した方がよいのではあるまいか︹ただし︑孔疏
がどのように讀んでいたかは︑實のところ︑よくわからない︒趣旨と關
わりのない部分だから︑輕く讀み流されていたかも知れない︺︒なお︑加
賀榮治氏の﹃中國古典解釋史・魏晉篇・﹄は︑經學に關する數少ない貴
跡見学園女子大学文学部紀要 第49号 2014
重な專著の一つであるが︑春秋學については︑その第四章﹁杜預の春秋
解釋の方法・態度﹂に︑傳・注等の多數の文が訓 ヽ讀 ヽの ヽ形 ヽで載せられてい
て︑加賀氏の讀み方がほぼわかる︒そのうち︑筆者が疑問に思うものを︑
以下にいくつか指摘することにする︒まず︑隱公五年﹁螟﹂の公羊傳文
﹁何以書記災也﹂の何注に﹁灾者有害於人物 ヽ隨事而至者先是隱
公張百金之魚設苛令急法以禁民之所 ヽ致 ヽ﹂とあるのを︑加賀氏は〝災
とは︑人を害うこと有りて︑物の・事に隨いて至る者なり︒是れより先︑
隱公は︑百金の魚を張ることを爲し︑苛令急法を設けて︑以て民の致す
所を禁ずればなり〟︹四一九頁︺と訓讀しているが︑ここは︑〝災とは︑
人や物 ヽに ヽ害があり︑事に隨ってやって來るものである︒これより先に︑
隱公が百金の魚を網でとり︑苛酷な法令を設けて民を禁制した︑ことが招 ヽ
い ヽた ヽ結 ヽ果 ヽである〟と讀まなければならない︒というのも︑隱公三年﹁春
王二月己巳日有食之﹂の公羊傳文﹁何以書記異也﹂の何注に﹁異者非
常可怪先 ヽ事 ヽ而 ヽ至 ヽ者 ヽ﹂とあって︑﹁隨事而至者﹂は︑この﹁先事而至者﹂
と對照して讀むべきだからである︹なお︑﹁所致﹂の意味については︑別
に︻所致︼の項目を立てて︑詳述している︺︒次に︑桓公五年﹁大雩﹂の
公羊傳文﹁何以書記災也﹂の何注に﹁旱者政教不施之應先是桓公無 ヽ
王 ヽ行比 ヽ爲天子所聘得志益驕去國遠狩大城祝丘故致此旱﹂とあ
るのを︑加賀氏は〝旱は︑政教施さざるの應なり︒是れより先︑桓公は
王行無く︑天子の聘する所と爲るに比︹およ︺び︑志を得て益ます驕り︑
国を去って遠く狩し︑大いに祝丘に城く︒故に此の旱を致す〟︹四二〇
頁︺と訓讀しているが︑ここは〝旱は︑政教がおこなわれなかったこと の應徴である︒これより先︑桓公は︑王 ヽを ヽ無 ヽ視 ヽし ヽて ヽ行 ヽ動 ヽし ヽた ヽのに︑あ ヽい ヽつ ヽ
い ヽで ヽ天子に聘問されたため︑得意になってますます驕り︑遠く國︵都︶
を離れて狩をし︑大いに祝丘に城いたから︑この旱を招いたのである〟
と讀まなければならない︒というのも︑〝桓公は王行無く〟では︑意味
不明だからである︒また︑﹁比﹂︹しきりに︺については︑四年に﹁夏天
王使宰渠伯糾來聘﹂とあり︑この年に﹁天王使仍叔之子來聘﹂とある︑
からである︹なお︑﹁桓公無王行﹂については︑︻無王︼の項目を參照︺︒
次に︑文公九年﹁秦人來歸僖公成風之
﹂の
穀梁
傳文
﹁
秦人
弗
夫人
也 即
外之弗夫人而見正焉﹂の范注に﹁見不以妾爲妻之正﹂とあるのを︑加賀
氏は〝妾を以て妻の正と爲さざるを見す〟︹四一二頁︺と訓讀している
が︑ここは︑もちろん︑〝妾 ヽを ヽ妻 ヽと ヽし ヽな ヽい ヽという正︵道︶をあらわした
のである〟と讀まなければならない︹なお︑僖公九年﹁九月戊辰諸侯盟
于葵丘﹂の穀梁傳文に﹁毌 ヽ以 ヽ妾 ヽ爲 ヽ妻 ヽ﹂とある︺︒次に︑隱公元年の左氏傳
文﹁元年春王周正月不書即位攝也﹂の孔疏に﹁舊説賈服之徒以爲四
公皆實即位孔子脩經乃有不書故杜詳辨之釋 ヽ例 ヽ曰︵中略︶隱莊閔僖
雖居君位皆有故而不脩即位之禮或讓而不爲或痛而不忍或亂而不
得禮 ヽ廢 ヽ事 ヽ異 ヽ國史固無所書非 ヽ行 ヽ其 ヽ禮 ヽ而 ヽ不 ヽ書 ヽ於 ヽ文 ヽ也 ヽ﹂とあるのを︑加
賀
氏は
〝舊
説︑
賈・
服
の徒
は以
爲え
らく
︑ ﹁
四公
は︑
皆な
實に
即
位す
るも
︑
孔子の・經を脩せしとき︑乃ち書さざる有り﹂と︒故に︑杜は詳らかに
これを﹃釋例﹄に辨じて曰わく︵中略︶隱・莊・閔・僖は︑君の位に居
ると雖も︑皆な故有りて即位の禮を脩めず︑或いは讓りて爲さず︵=隱
公︶︑或いは痛みて忍びず︵=莊公︶︑或いは亂れて︹爲すを︺得ず︵=
襚
閔公・僖公︶︑禮廢せられ事異なれり︒國の史は固より書すべき所無し︒
其の禮を行なうに非ざれば︑而︵すなわ︶ち文に書さざるなり〟︹三九
六・三九七頁︺と訓讀している︒この訓讀については︑〝禮廢せられ事
異なれり〟を〝禮が廢せられた事情は︵それぞれ︶異なるが〟と讀み直
せば︑他に問題はないかのように見えるかも知れないが︑實は〝其の禮
を行なうに非ざれば︑而︵すなわ︶ち文に書さざるなり〟がおかしいの
である︒というのも︑杜預の自説の主張は︑その前で終わっており︑こ
こは︑舊 ヽ説 ヽへ ヽの ヽ批 ヽ判 ヽだからである︒つまり︑〝︵實際には︶即位の禮を
行なっていながら︑文には書かなかった︑というわけではない〟と讀ま
なければならない︑ということである︒最後に︑莊公十七年﹁夏齊人殲
于遂﹂の穀梁傳文に﹁殲者盡也然則何爲不言遂人盡齊人也無遂之
辭也﹂とあるのを︑加賀氏は〝殲は︑盡くるなり︒然らば則ち︑何爲れ
ぞ﹁遂人︑齊人を盡くす﹂と言わざるや︒遂無きの辭︵遂を主にしない
ことばづかい︶なり〟︹四〇五頁︺と訓讀している︒ここは︑訓讀自體
が問題なのではなくて︑﹁無遂之辭﹂に關する〝遂を主にしないことばづ
かい〟という説明がおかしいのである︒というのも︑一般に︑傳文に頻
見する﹁〜辭﹂の中身︹〜の部分︺は︑表記ではなくて内 ヽ容 ヽを ヽ言 ヽっ ヽて ヽい ヽる ヽ
ものだからである︹例えば︑文公八年﹁宋人殺其大夫司馬﹂の穀梁傳文
に﹁
司馬
官 也
其以
官稱
無君之辭也﹂とあるのは︑〝君がいない︵も ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
同然︶という表現〟という意味である︒なお︑︻起文︼の項目を參照︺︒
つ
まり
︑こ
この
﹁無
遂之
辭﹂
は〝
遂︵という國︶は︵もはや︶存在しない︑ ヽヽヽヽヽヽヽ
という表現〟と説明しなければならない︑ということである︒以上︑い ずれもみな︑加賀氏の論旨とは關わりのない細かい點だが︑古典の正確
な讀解を目ざす筆者としては︑どうしても氣になってしまうので︑この
場をかりて︑指摘した次第である︒
【代行】
成公二年の左氏傳文﹁郤克將中軍士燮將 ヽ上軍﹂︹阮刻本︺の杜注に﹁范
文子代荀庚﹂〝范文子︹士燮︺が荀庚に代わったのである〟とあり︑挍
勘記に﹁石經宋本淳熙本岳本足利本將 ヽ作佐 ヽ是也案四年傳尚云士燮佐
上軍至十三年傳始云士燮將上軍此時不得爲將明矣﹂〝石經・宋本・
淳熙本・岳本・足利本は﹁將﹂を﹁佐﹂に作っている︒これが正しい︒
考えるに︑四年の傳ではまだ﹁士燮佐 ヽ上軍﹂と言っており︑十三年の傳
になって始めて﹁士燮將 ヽ上軍﹂と言っているから︑この時には明らかに
將ではあり得ない〟とある︒この阮挍はとても合理的であり︑ほぼ定説
化しているが︑異説が全くないわけではない︒安井衡﹃左傳輯釋﹄に﹁衡
案下文士燮對晉侯曰庚所命也克之制也注云荀庚將上軍時不
出范文子上軍佐代行故稱帥以讓則此注代荀庚亦謂代行杜既
言代行則其所據本作將上軍若作佐士燮本職杜何言代也釋文正
義亦不言有異文則唐以前無作佐上軍者蓋荀庚不出士燮攝將以行
故言將耳文七年令狐之役上軍之將箕鄭居守荀林父以佐率上軍傳
云荀林父佐上軍不言將則佐獨率其軍亦有不攝將者蓋石經據下
文庚所命也及文七年傳改將爲佐而諸本沿之耳精究文義石經似
長但讀書之法疑以傳疑此當依杜舊本爲正﹂︹私が考えるに︑下文で︑