イギリス資本主義成立史上の「生産者の資本家への 推転」(3)
その他のタイトル The Way in which "The Producer becomes a Merchant and Capitalist" (III)
著者 矢口 孝次郎
雑誌名 關西大學經済論集
巻 2
号 2
ページ 54‑84
発行年 1952‑06‑15
URL http://hdl.handle.net/10112/15860
生童手段の集中について
マ——ュファクチュアの成立の基本的條件の一っは、何よりも、
と︑或はこれを毛織物工業に関して特に狭く解釈すれば︑大塚教授の強調される如く︑織元の﹁家*の中に数々の機
械﹂の集中されることである
0ところで前に述べた十六●七批紀の小織元︵貧乏な織元︶の場合においては生産手段
としては﹁紡車・一組の剪毛鋏
w a l k e r s h e r e s
及びしばしばーつの染色壼一
e a d ,
﹂ な ど の 外 に
︑
機があるのみであった
0然るに彼らの間から出現してきた﹁富裕なる織元﹂の場合に至ると︑漸次に他の生産手段も
ま え が き
t i '
一︑独立小生産者層 I 小織元︵以上詢々号︶ 二`狐立小生産者層の分解
==︑マニュファクチュアの検証︵以上の中︑
阻︑十八批紀における癸展
五︑﹁生産者の・商人への上昇的推進﹂
一 部 詢 号
︶
︵ 以 上 本 号 ︶
一台乃至二台の織 ー資本家の直接所有の下に生産手段が集中されるこ
マ
︱
︱ ュ フ ァ ク チ ュ ア の 検 証
︵ つ づ き
︶ 矢
口 孝 次 郎
イギリス資本主義成立史上の
﹁ 生 産 者 の 資 本 家 へ の 推 膊
﹂
( 三 )
五四
染色済羊毛一四ストーン
0羊毛洗漁用牛酪五ストーン
0染色用明癖ークォークー半︒
. . . . . .
また別に︑染色済羊毛
二七ストーン°糸屑・羊毛屑若干
0未染色羊毛一五ストーン
0杭 毛 樺 七 組 ︒
ダズン毛織物︑ーニ反︑価格三四膀
0剪毛台覆︑一個︑ニニ志︒
. . . . . .
また別に︑紡毛工の手許にある織糸 y 岡
n e
イ ギ リ ス 査 本 主 議 成 立 史 上 の ﹁ 生 産 者 の 査 本 家 へ の 推 轄 ﹂
仕事場及び織機小屋の内にあるもの 主屋の一室内にあるもの
五五 数多く集中されてきたのであって︑それは﹁彼らの主たる関心が織物を大量に生産することに存する﹂に至ったこと
プロード・ルーム を示すものである︒すなわちその職場には﹁ノーザン・グズンを織る広幅機械︑羊毛を染色する染色壼︑縮絨後の毛
シェア・ポード 織物の表面を剪毛し生池を細かくなめらかにするための剪毛台と剪毛鋏﹂等の外に︑﹁染色後の羊毛を干すための
ヘ ッ ヂ テ ン ク ー
・ フ レ ー ム
羊毛干垣︑縮絨後縮んだ織物を必要な程度まで延ばすために拡げる木綬の張布枠﹂等が集中されていた︒
H e a t
o n ,
一 Y
o r
ぽ
h i r e
,
認﹃︱云庄転巴これらを見れば︑織布●染色●剪毛その他仕上げの各工程に要する用具が一通り揃つていたと考
えられる°然し単に一応の生産手段の集中のみによってはマー—ュファクチュアは検証されないのであって、そのため
には︑それらを労働雇傭との関連において考えてみなければならないが︑ここにその目的のために適切な一史料があ
る︒それはヒートンが﹁富裕なる織元の性格を理解し得るもの﹂として引用する一五七六年の一史料の中に記録され
た一人の織元の財産目録であるが︑それは大塚教授においても農村の織元の一例として引用されている︒
( 8 紅
丘 匹
r e,
ァ ッ ピ ー ・ ミ ド ル であって︑彼は織元の中の中層の
p p
,
97‑8,
大塚氏﹁一それはすなわちリーズの織元ジョン・ボゥソン
J o h n P a w s o n
序 晩
﹂ 一
ー ー
ニ 六
ー 七
頁
クラス 上部にある者であった。その財産目録の中、生産用具•製品・原料等の主要なものは次の如くである。
︵ 一
部 省
略 ︶
イギリ
k賓本主議成立史上の﹁生産者の賓本家への推韓﹂
‑ 0
ストーン及び羊毛五ストーン︑︐八謗五志°織機一台 g e
l o m e .
湯桶︑薪︑呼子笛︑紡車そ
染色場︑納屋及び裏庭にあるもの
一 個
︒ . . . . . .
樽︑四個°若千の織糸︑籠︑張布枠用軸木︑張布用枠の綱 o
. . . . . . (その他家禽•家畜若干)
さてこのように列挙された項目を見て︑われわれはただその経営が相当の規模であったという点だけに留意すべき
ではなく︑生産用具と襲品︒原料との関係を注意しておかねばならない
0先ず最も注意すべき点は︑原料としての多
量の羊毛の外︑撰品としての広幅織物ニ︱反︵価格三四碗︶の手持を有するほどの資力と経営の規模にもかかわら
ず︑織機が僅か一台しかなかったということである︒これに反し準備工程及び仕上工程に関する用具は殆んど完備さ
れている︒このことは富裕なる織元への生産手段の集中と称しても︑それは織布に関するものではなく︑むしろ準備
工程︑特に仕上工程に関するものであること︑換言すれば︑織布は紡毛と共に殆んど大部分が紡毛工●織布工に委託
されていたことーー家内努働形態ーーを推測せしむるものである︒この推測は紡毛に関しては殆んど艇いない
0それ
は前記の史料において多量の羊毛が紡毛工の手許に
a t t s p y n n e r s
仕掛品乃至仕上り品︵織糸︶となつていることに
示されているが︑このことは︑問屋制に基くランカシアの一経営者の等しく財産目録において︑羊毛や織糸が家内努働
者の手許にある﹁仕掛品﹂として
" o u t a t s p i n n i n g ̀ ●
9 よ
' y a r n i n t h e w e a v e
r ︑
s h
a n d "
記録されていることを想わせる
も の で あ る ︒
次に織布工程についてみるに︑前述の如く︑織機一台の所有にもかかわらず手持
W a
d s
w g t F
g g o n )
( T r a
d e ,
p.8 8
製品の多量なることの反面解釈からも︑そこにおいては家内努働形態が支配的であったことは推察されるが︑更に彼
染 色 壼 ︑
の 他 附 属 品 ︒
a t t s p y n n e r s
五 六
( 1 )
七六頁註
( 2 )
参 照
五七
d i s , が僅か三名の徒弟ー すなわち後述する如
lー然も自宅から通うーー←を雇つていたに過ぎぬことに明白に示されている
0く︑大規模な織元に雇傭される織布工の大部分は︑その自宅において努働し︑出来高払の支給をうけることが一般で
︑ ︑
︑ ︑
︑
あった。ところで、以上は富裕なる一人の織元の例ー~然し典型的な例ーーーであるが、そのような形態が例外でなか
つだことは︑他の観点からも理解される︒すなわち︑後に脱<如く︑既にかなりの資本の集中の行われた十八泄紀中
頃以後に至っても︑ いわゆる職場織元の富裕なものの経営においては︑自已の仕事場への機械の集中に比べて︑職人
の自宅に設けてある︐
s t a n d i n g a n d b e i
n g ' i n t h e i r w o r k p e o p l e ' s h o u s e s
織機が意外に多かったのであるが︑当
時の事情からみて︑時代を遡るに従つてかかる分散形態が著しくなることは推測して誤りではないと考えられる︒
のみならず︑そのことは以下に述べる屈傭関係からも裏付けられると見なければならない︒かくして︑この時代にお
けるいわゆる職場織元の経営の資本制様式への発展の展望を︑恰も小生産者としての在りし日の﹁職場﹂ーー・特に織
︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 布を中心とする﹁職場﹂ーーーが︑そのまま拡大されたものの如く描くのは︑史実によっては疑問とされねばならな
唸むしろ︑以下に述べる諸点と綜合して考える時は︑この移行段階においては︑狭義のマ=一ュファクチュア︵職場︶
と不可分に結び付く資本家的家内努働の形態が予測以上に強く現われていることを認めざるを得ない︒従ってこの場
合の織元の経営は︑家内工業乃至家内努働の組織︑すなわちいわゆる﹁分配事務所﹂
r a z d a t o c h n a y a k o n t o r a ,
︹
1
]
t r i b u t i n o f g f i c e
の組織をも明白に併せ有するものであった︒
ところで︑大塚教授はこの時期におけるこれらの生産者織元︵職場織元)の資本家的上昇に関して︑
イ ギ リ
k
査本主義成立史上の﹁生産者の究本家への推轄﹂ ﹁+五批紀以降
イギ
9k
賓本主議成立史上の﹁生産者の賓本家への描韓﹂
就中農村地域を中心立地として一般に展開し来ったかの﹃国民的﹄中産生産者層﹂の中から﹁+六批紀半から十七批紀
半に亘る期間に至れば・・・・・・そこここに典型的マニュファクチュア経営者としての﹃職場主﹄織元が﹃国民的﹄な相綿
を以てすくすくと成長しつつあるのを到るところかなり明瞭に看取することが出来る﹂
( f
心 五
I 母 m ﹂)という展望を
示し︑それが典型的マー一ュファクチュアであるとする根拠を史実の中に求めて︑若干の條例の中に﹁農村地帯に住め
る﹃織元﹄たちにして裕かなる者が﹃彼等自らの家家のうちに
( w i t h i n t h e i r o
w n o u h s e s )
数数の織機を設けて日
雇職人や不熟練の者たちをして之を使用せしめる﹄とか︑或ひは﹃彼等の家家の内で
( i n t h e i r h o u s e s
) 毛織物撰
造︑織布︑仕上などの諸の職業を兼営む﹄などと一云ふ事実﹂が述べられていることを再︳︱‑あげられる︒(﹃
i ‑ 1 5
年
正研踪︶然らばこれらの史実の例証を如何にみるべきであろうか︒それらの條例は一般に包括的に﹁織布工條例﹂
W e a
‑ v e r A s c t s
と称せられるものであるが︑いまの湯合特に重視される一五三四年の﹁ウースクーシァ内の織元に関
ー TudorEcono 且 cD~1- m g t s ,
I .
p p
.
1 7 8
‑ 5
す る 條 例 ﹂
A n A c t e f o r C l o t h i e r s w
疇
i n
t : &
e S h i r e o f W o r c e s t e r
(
25
H
e n . V l l l , C . 1 8 .
及び一五五五年の﹁織布工に関する條令﹂
A n A c t e t o u c h i n W g e a v e r s (
2
a n d
3
P h i l i p a n d ・
・ M a r y , c . 1 1 .
ー
罪 1
知︶についていえば︑それらは︑主として西部乃至東部の地域の農村︵特に都市の郊外︶に資本家織元 r
G a
しろ
m e r c h a n t e m p l o y e r s )
が出現し︑大規模の経営を組織し始めたことに対して︑旧来の特権都市の産業の衰退を防ぐ
ために︑かかる﹁農村の大資本家の発生を阻止し﹂︑且つそれによって狭立を奪われようとする小生産者を擁護する目
的のために発せられたものである︒これらの條令がこのような意図を有するものであったことは︑既にアシュ
1 1 ︑
ヒートン︑アンウィン︑ マントゥー︑リプソン等によって明らかに認められており︑その点は既にわれわれが他の機 五八
ィギリ
K賓 本 主 義 成 立 史 上 の ﹁ 生 産 者 の 賓 本 家 へ の 推 轄 ﹂
とすらいわれている︒ 属するものではなかった︒
五九 会に説いた如くであるが︵呻臼
8 8 8 頑 咋 認 屈 虹 い 立 B
8 紅翡業︶最近におけるドップの解釈もまたそれと異なる
ものではない。 (g駐~ご
p.1 8
0)
従ってこれらの史実を通じて資本家たる織元の経営の規模乃至様式を析出 L ようとす
れば︑それは﹁西部の織元﹂或は問屋織元の性格を有するものでなければならない
0換言すれば︑この場合﹁家家の
中に数数の織機﹂を集中したといわれるものはいわゆる商人的雇主乃至
c o
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c a p i
t a l i
s t s
であったと考えら
れる︒それらの者の多くは︑ギルド的規制
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e g
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i o
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を避けるために特櫛的都市から農村にのがれ︑そこに
C 1
>
おいて経営上の自由
E g
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e l a
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i t y
を確保せんとしたのである
0かくて彼らは等しく農村を立地とし乍
らも︑決して小織元の経上ったものではなく︑従つて大塚教授のいわれる如き典型的マ=一ュファクチュアの経営者に
( 1 ) R
H . T
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y , I
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な お こ の よ う な 見 解 は
E . P o
w e r ,
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( P e l
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1 5 9
ー6)
に も 認 め る こ と が 出 本 る ︒ ま た 前 掲 拙 稿 参 照
︒
然るに織布工程に対比する時は︑むしろ仕上工程において集中の行われることが一般の傾向であった︒このことは
前掲の代表的史料において見得るのみならず一般に織物工業を通じていい得ることであって︑技術的條件からみても
半工場状態に最も適合していたものは仕上工程であったといわれる︒すなわち﹁限りなく工程の分化している織物工業
においては、家内工業制が原則であったが、仕上工程ーー染色・縮絨•艶出
gl e
n d
a t
i n
ーーにおいては︑それと結 g
び付く半工場状態︵マニュファクチュアー筆者︶が︑ 中批においてすら︑普通考えられるほどの例外ではなかった﹂
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ー ︒ 悶
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d 然るにこのこと g5)
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1 6 4 0 .
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. 1 9
8 4 .
p . 2 1
お い て も
﹂ ︑
は︑単に技術的観点から推定されるのみではなく︑後に述べる如く仕上工程における努働者の賃銀が殆んど凡て時間
払制であったこと︑また彼らの努慟時間が法規によって統制されていたこと等によってもまた推定され得るのであ
協業規模について
次に富裕なる織元の経営の性格を検証するについて問題となる点は協業の規模であるが︑それに関しては先ず雇傭
の人数が問題となる
0織元がその経営規模を拡大するに従って︑
ないが︑それが如何なる程度のものであるかを一般的に決定することは困難である°然しいま︑
る 例 に よ れ ば
︑
リーズにおける最大の織元は当時二十人以上を雇傭したといわれ︑また一六二九年の一訴願によれ
ば︑等しくリーズの織元の多くは﹁日々約四十人の貧しい人々をその製造業に働かしめつつ﹂あったといわれる︒
( H
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n ,
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k s h i
r e ,
p .
99)
然らばこれらの人々の雇傭関係は如何なるものであったか
0大塚教授は後者の場合に関し
大塚氏﹁序晩﹂二九 0 頁
て︑﹁右の四十人の一部分が自宅で加工の下請を行う事を想定し之を除外すると去う極めて控へ目な観定・・・・・・の下に
﹁=‑=‑+人程度を雇傭してゐる典型的マ=一ュファクチュア﹂の拾頭を推定することが可能であるとされ
る
0のみならず︑この程度の人数を協業規模として解釈するための傍証として︑
‑ 5
r d
K e
n y
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M
M S .
ー
H e
a t
p n
,
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. p
p .
1 0 8
ー9)
それによれば︑リーズ地区におけ
大 塚 氏
︑
﹁ 序 説
﹂ 二 竺 ー ニ 頁
教区の一織元の証言をあげられる︒
る広幅物ダ.スンの製造及び^リファックス地区におけるカージーの製造に関する必要労働者数が次のような比率で算 る ︒
イギリ
k
賓本主箋成立史上の﹁生産者の賓本家への推轄﹂
ー五八八年の一史料におけるリーズ かなり多数の労働者を雇傭するに至ったことは疑い 六 0
ヨークシァにおけ
あ ろ
う ﹂
右の比率︑特に前者に関連して大塚教授は︑
剪 毛
六人︵この中二人は他のものの助手︶
織 布
八 人
四 0 人 六人 一週間にカージー+反を製造するに要する努働者︵六 0
人 ︶
紡毛及び副毛
織布及び剪毛
︱ ︱ 1 0
人
雑役︵紡毛工への羊毛の運搬︑縮絨湯への織物の運搬︶
選毛及び除塵
紡毛及び刷毛
﹁かやうな形の分業比率が経験上知られてゐたと去ふ事実は︑右に見
た や う な ニ ︱
︱ ‑
+ 人 程 度 の 典 型 的 マ ‑ l
ュファクチュアがかなりの程度に拡延してゐたことを一層有力に推定せしめるで
(‑一臼噸正︶とされ︑また更に﹁毛織物製造の諸工程全体に必要な努働者の数を機械一台について略略二十五
人の割合だとか︑時には・・・・・・四十人の薗合だとか去ふやうな指摘﹂も右の推定を可能ならしめるものであるとされ
る︒︵ぢ翌︶
3
イギリス賓本主義成立史上の﹁生産者の賽本家への推轄﹂ 六人
︳ ︳ 一 人
︵ こ の 中 恐 ら く 四 人 が 剪 毛 エ ︶
選毛︑除塵及び染色
‑ 1
一 人
一週間にダズン四反を襲造するに要する努働者
q ^ 0 人 ︶
定 さ れ て い る ︒
. . . . . . , .
、
イギ
9k 賓本主義成立史上の﹁生産者の賓本家への推韓﹂
︑ ︑
( 1 )
わが國においては︑このようた推定矛
1
綾に承認されて︑その結果︑この時期に涵ける典型的な﹁農村の織元﹂の経営規
模乃至﹁自由な﹂﹁自生的マニュファクチュア﹂の規模は︑二十人乃至ーーエ・人を﹁職湯﹂において糧傭したものである︑と
︑ ︑
いうこと薪譴翫にまでなっている︒
果してそうであろうか
0先ず右の諸史料における二十 A 乃至四十人という罹傭の人数は︑当時の條例その他の文書
において常に用いられているところの︑人々を﹁就業せしめる﹂"器 t
o n w o r k ' , ' s e a w t o r k '
` 虻
"
ti~g c u p a
t i o n '
̀ m 邑
n g i n
‑
︾
t
s p
`とかいう意味において単に雇傭している努働者数を示すものであって︑
必らずしも狭義のマ=一ュファクチュアにおける協業努働者数を示すものではない
0そのことは︑同様なる用語が問屋
制における家内努働者ー例えば悶
, t r t
i m e
の努働者である女子紡毛エさえもーの雇傭に関しても等しく用いられてい
C1)
ることによっても直ちに理解される︒大にノーザン・グズン及びカージーの製造に関する前記の必要努働者数の比李
は︑単なる比率の例示であって︑雇傭の関係乃至協業の規模を暗示するような意味は含まれておらない
0むしろ︑こ
れを引用したヒートンの説明によれば︑逆に︑その工程において大した協業の存在しなかったことをすら推澗せしむ
るものである
0すなわちヒートンはこの比率の引用を以て︑当時の﹁織物製造の諸工程における技術の幼稚であった
こと﹂︑及び﹁就業の人数・消費される時間と努力等に比較して生産される織物の数量が極めて僅少であったこと﹂
ーすなわち職場における協業が少<努働の分散的であったことーを示さうとしたのである︒︵咋胡咋
Y o
r ば
耳
e,
)
もし
推測されるほどの協業が行われていたとすれば︑就業の人数︑消費される時間と勢力に比ぺて生産高は更に増大し
ていたであろう︒なおこの点に関する一般の見解として︑例えばドップは﹁この段階においては︑仕事場の中におけ
る努働の細分︑或は︵努働の︶集中の結果としての並置されたチーム・ワークの機会は殆んどなか 9
た ﹂
︵ 貯 五 註 祖
0 0)
ヽ ヽ
と カ
﹁ 雇 つ て い る
﹂
六
( 1 )
例えば大塚敦授は
S i r
E d
w i
n Sandys
の首としての「 1 台の織機は四十人に生計を立てしめる」•
o n
e l
o o
m m
a i n t a i n e d
f o r t y p e r
緊
m
s .という指摘をあげられる︒また
R
R e
y c
e の記述︑すなわち﹁毎週大幅毛織物二十反を製造する者が労働せ
しめる
s e t
a w o r
k . "ところの人数は五百人を下りえない﹂という計算に基いて﹁之を織機
1
台に平均すれば二十五人という
数字をうるわけである﹂と推定される︒︵﹁序説﹂二九四頁︹ 9
︺︶然しこれらの言葉のうちの
m 巴 n g 甘
或 は 器
t a
w o
r k
e
と
は︑むしろ全工程を溺じての[全体としての雇い入れ関係を意味するものであることは明らかである
0
c f .
L i
p s o n
E c , o n .
H i s t
. o f E n g
. ,
I t
p .
17
. ;
U s h e
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I n d u
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H i s t
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o f
E n g l a n d , p .
221
; U n w i n ,
S t u d
i e s ,
p .
28 0
雇傭闘係及び條件について
元来毛織物工業は、十五•六泄紀以降ィギリス国内の殆んど全般に拡散した工業であり、地城によって品種●艘造工
売 ︶
程にも多くの偏差があり︑そのそれぞれに男子︒女子・子供らが種々の関係において雇傭されていた︒従ってそれら
の間の雇傭関係及び條件を一律に解釈することは困難であるが、ここに一般的•基礎的工程に関連せしめて概観する
先ず準備工程としての選毛
g r t i n g
及 ( び 除 襄
d r
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s i
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)
についてみるに︑それは初期においては︑例えば一
五五四年の一條例の中に﹁この仕事の経験は︑織元の妻及び女子傭人の如き女子にのみ見られるところである﹂
イギリ王査本主義成立史上の﹁生産者の査本家への推轄﹂
ならば︑それは凡そ次の如くである︒ 一層明白にされるであろう︒
, ,
.
、
と考え︑またヒートンはそのような形態は十八批紀末まではむしろ稀であり︑例外であったと考えている︒
({0冠 耳
i r e ,
p .
858
̀ D
o b
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s )
然しそれはとにかく︑少くとも以上の史料を以てしては︑いわれる如きマー一ュファクチュアは検証で
S t u d
i e s ,
p .
きないと考えねばならない
0然るに︑そのことは更に︑厭傭される努働者の埴位及び雇傭條件を考えることによって
ー 名
︒ 百
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W o r s
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u s t r i e s ,
p .
84
雇傭努働によって行われる湯合︑ と述べられている如く︑女子によって家庭内で行われた
0然し乍ら織元の
その雇傭関係が如何なるものであったかを示す史料は少なく︑例えば後に述べる﹁
賃銀裁定﹂においても︑選毛工の名はあげられておらない
0それが何故であるかは明らかにすることはできないが︑
織元の経営ーー特に努働の関係'~において、他の工程に比べて、大した重要性をもたないことは推定するに難くな
い
0そしてそれを推定せしめるーつの理由として︑時と共にこの工程が専業化しむしろ羊毛商の管轄に移つて行った
という事実を考えることが出来る
0というのは︑毛織物工業が全国的に拡大するに従って︑各機業地においてはかな
C 2
)
り遠隔の産地の羊毛を原料として使用する如くなり︑然もその原毛
f l g
c e
の中には穂々の品質の羊毛ー̲'時には八
乃 至
一
0
種 類 に 及 ぶ ー ー ' が 含 ま れ て い た た め に
r それぞれの織元に適するように予め選毛を行うことが羊毛商人に望
まれるに至ったからである︒そしてこのことが`織元をして必要とする品質と量の羊毛を購入することを可能ならし
め︑また無用の羊毛をも含む原毛を購入する不利を脱れしめた
0勿論織元自らが選毛を行う場合は︑特に大織元にお
︑ ︑
︑ ︑
︑ ︑
︑ ︑
︑ ︑
一般の傾向としては︑選毛は織元の手を離れた専業となったと考えられる
0なお︑織元の直接雇
傭する努働者によって行われる場合においても︑十八批紀に至れば︑その大部分は男子によって行われる如くなり︑
( I . ︑
P i n c
h b e c
k ,
W o
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W o r k
e r s d g
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1750ー,
18 51 )
疇
19 80 ,p .1 86
女子の努働は前者の不足時における補足的のものとなるに至った︒
( 1 )
以下
E P
8 n
﹄
W
o o
n g
I n d u
s t r y
と略記
( 2 )
例えばノーファク産の短い羊毛が冨ークシアで用いられ︑リンカーンシァ及びレスクーシア産の長い羊毛がノーウィッチ で用いられた︒また^リファックスの人々は主としてリンカーンシプ産の上質の羊毛を使用して︑自らの土地で産する粗毛
はロッチデールの人々に販賣していた︒
u p
g n ,
E c o n
. H i
s t . &
E n g .
, I
. p .
2 1 .
い て は 多 か っ た が
︑
イギ
9k
賓本主義成立史上の﹁生産者の賓本家への推轄﹂
六 四
による織糸の供給が必要であった﹂
6 3 )
以下
p i n c
巳 8
k ,
W
o m e n W o r k e r s
と略記
及び紡毛
s p i n n i n g
に見出されるが︑特に重要なものは︑いうまでもなく紡毛である︒
六五
﹁ 極
め て
C1 )
かくて織元の経営下における工程の出発点は基本的には刷毛 c 爵
c l i n
g ー
ー ' 椋 毛 工 業 に お い て は 椀 毛 c o m b i n
ー ー g
'
さて紡毛ーー刷毛を含めてーーが毛織物工業の上において占める重要性は︑就中その努働関係に見出すことができ
る
0先ず前にあげた毛織物襲造工程における必要努働者の比奉においても見得る如く︑ノーザン・グズンの製造にお
いては六十人中︳二十人︑カージーの襲造においては六十人中四十人がこの工程に必要であった
0換言すれば必要なる
全努働者の半以上が紡毛工程において占められていた︒またこのことは﹁一台の機械のためには五人乃至六人の労働
︵一五八八年︶という事情が殆んど十八泄紀年まで変らなかったことによっても
知り得る
0然るに更に注意すべき特質は︑その努働が全国に亘る﹁凡ての貧しい人人﹂^
a l l t h e p o o r ' , ' a l l o f t h e
G 3 )
B 3 t c l
a s s ' , ' l a b o u r i n g p o o r '
特に家庭の女子・子供によって担当されたこと︑従つてまたそのエ賃が
悪 い
﹂ ' n o t o r i o u s l y s m a l l ̀ `
" t h e m o s t s p a r i n g l y p a i d for•
こと︑及び殆んど常に出来高払
p i e c e r a t e
で あ
り .
︑
またしばしば現物支給制
t t u c k
system を伴つていたこと等の点に存する。「+七•八批紀においてはイギリス最大
の産業は苦汗努働
s w e a t e d l a b o u r
の上に築かれていた﹂︵ H
競 諄
﹄ ︷ コ 痒 紅 g
翡 臼 か [ . 咋
; 1 a s )
という事情は一批紀 を遡つても誤りではない。このように紡毛努働者は、特別の場合ーー・例えばウィンチコームの大マー—ュファクチュア
の如き場合ーーを除いては︑生産者織元においても︑問屋織元においても︑家内努働制に基いて雇傭されていたと考え
られる︒このような事惰ーー特に根本的には家庭における女子・子供の雇傭ーーが︑毛織物工業の努働者全般に全機構
イ ギ リ
K
賽*主義成立史上の﹁生産者の賓本家への推轄﹂
イギ 9k
賓本主奉成立史上の﹁生産者の賓本家への撫韓﹂
﹁其の多くが原料の問屋制 的にみた影響を及ぼすことになった
0すなわち︑先ず女子・子供による牧入は家庭牧入の相当部分を占め︑時には単
なる補充的牧入以上の重要性を有していた
0例えば︑はるか後年に至つても﹁夫と息子達の牧入は家庭における食料
︑
︑
︑
.
を確保した︒これに対し妻と娘達︵それは実に七オと五オの娘達である︶が紡毛に・・・・・・よって腺いだものが︑その家 庭に毛織物や亜麻織物及びその他の必需品を供給していたのである。」(中釦●立匹ばが On"[ { H註群 5g50 立止畔咋.~
項 ~45) 従つて家庭を有する男子努働者にとつては、彼らの存在ーー毛織物工業への雇傭'ー_は不可欠であり、後年
に至つて彼らの雇傭の機会を失わしめるような工場制度が発展した際︑職人殊に織布工は激しい反対を試みたのであ
る
0然し乍ら、実はその点に毛織物努働者の全機構的に見た弱点'~賃努働者としての立ち遅れー~があった 0 それ
は彼らの生計が土地からの牧入と結びついていたことにも関連するのであるが︑このように家庭努働による他の牧入
の源泉のあることが︑賃銀交渉において男子努働者︑特に織布工の立場を常に不利な状態におき︑全時期を通じて農
っ
4
)
耕努働者や鉱山努働者より低額な賃銀に満足せしめられたのである︒
さて以上の如く織元の経営において紡毛工の占める立場を︑努働者の側からみるならば︑織布工程のみを特に重視
してそこにおける生産手段及び努働の集中のみを楡調することは︑ーー'それすら必らずしもーつの場所に集中したも
のではないがーー織元の経営の全構造の把握によつてそこにおける資本関係の意味を理解しなければならない立場か
らは不十分である
0とはいえ︑大塚教授において︑紡毛工程における雇傭関係が無視されているというのではない︒
例えば一般に織元︵いわゆる職場織元をも含めて︶の経営における紡毛工程に関して︑
﹃ 前
貸 ﹄
p u
t t
品 i
o u
t
によって貧しい紡毛工に下請せしめられたと一云ふ事﹂或は﹁全体として紡毛工程においては 六六
かったと認めざるを得ない︒
六七 然しそこに等しく前貸の形態が認められる場合︑問 ﹃問屋制前貸﹄が特徽的に顕著であったと云ふ事実﹂は認められている︒
( f
直
⇒↑ 序 翫 ﹂
︶ 然 る に 一 考 す べ き こ と は
︑
いわゆる農村の織元乃至職場織元の場合における紡毛工程の問屋制前貸に関しては︑﹁問屋制的に支配する家内工業
︵乃至家庭努働︶は此の﹃職場﹄経営に従属し之を補充するところの︑謂はば外業部に過ぎなかったと見るぺきであろ
同上マとして︑とにかくその存在の積極的意義を認めているのに対し︑問屋織元の場合に関しては﹁彼等に う﹂︵塁四頁
対する﹃問屋﹄織元の原料前貸の條件は⁝苛酷であり︑エ賃も劣悪且つしばしば所謂﹃現物工賃制﹄
t r u c k s y s t e m
を伴ったことは史実の示すところであり︑ のちの用語を以てすれば︑所謂﹃膏血努働制﹄
s w e a t i n g s y s t e m
とでも
よぶ事ができるであらう﹂︵頭
d l
頁︶となしていることである︒
屋織元のみが特にその條件が苛酷であったと解するのは何故であろうか
0ヨークシアにおいては︑富裕なる織元も初期
の段階においては西部の織元ほど経営の規模が大でなく︑また後に至っても一般に小織元の分散がこの地域の産業構
造の特質をなしていたので︑紡毛における問屋制前貸の不当なる條件が顕著に現われなかったことは事実である°然
しョークシアにおいても︑大経営においては︑紡毛工の賃銀が甚しく悪く︑全般的に賃銀裁定の保護をうけていなか
ったことは少しも変るところはなかった︒一
g o ぼ ; g 戸
︾ ・
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) かくして紡毛工程における問屋制前貸の形態及びそこに
おける雇傭関係は︑他の條件を別にすれば︑いわゆる職場織元と問屋織元との間において本質的に異なるものではな
( 1 )
楡毛工業
w o r s
t e d
i n d u
s t r y
は紡毛 H 業
w o o l
l e n
i n d u
s t r y
と異なり︑その初発から大賓本殊に商人査本によって組織され
た 0
磁つて西部の織元の経営と類似する性格を有する︒また従って︑労働雇傭の関係も︑ここに取扱っている小生産者から 頭夭上昇した賓本家の場合と異なるものがある︒特に楡毛工程についていえば︑紡毛が女子・子供の労働であったのに対し
イギリス賓本主義成立史上の﹁生産者の賓本家への推韓﹂
イギリ
k査本主義成立史上の﹁生産者の査本家への推韓﹂
て︑それは橋毛職場の閉ぢこめられた熱い戸内の労働であったために﹁頑頭な男子のみか従事︐し得る作藻であった﹂と
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︒
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( 18 61e d
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( 2 )
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d , p .
1 0 8
然しこの比率の算定は人により時代によって種々異つている︒マントゥーは織機
1
台に要する紡毛
工を`ヒートンと等しく五人乃至六人となしているが
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目 t o u x ,
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年頃において六人乃至八人と計算し︑ピショップは僅か四人と算定している︒
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18 5)
( 3 )
この比率も適確に決定することは困難である︒然し紡毛エが他の労働者を圧倒的に超えていたということ︑然もそれが基 本的に女子・子供の労働であったということは疑ない︒一七一四年の一つの推計によれば`雇傭の比率は男子一人に対して
女子・子供は八人であったといわれる°尤もこの場合︑後者はいわゆる
P丹 t
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であったことを忘れてはならない︒
( P i n
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12 4)
( 4 )
織布工の中の偉れた熟練工︑成は縮絨 H と雖も︑熟練鉱山労働者や高給の農場使用人ほどの賃銀をうけず︑また乾草や穀物
の刈取の労働者よりも低額であった︒
H e a t
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91 4.
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226
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7 )
;
Y o
r k s h
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p .
1 1 3
次にいわゆる基幹工程としての織布工程においては雇傭関係及び條件は如何であったか
0織元の経営において織布
がその中軸的部分をなしたことは疑いないが︑特に生産者が資本家となった場合の織布工程の様式は果してマ=一ュフ
アクチュアであったか否か
0ここにはそれを努働者 0 織布工の雇傭の関係から考えてみたいと思う
0そのためには賃
一般的に十六・七泄紀の織物工業の賃銀統制の基準は一五六三年の﹁職人條例﹂
E l i z
. c .
4)
及び一六
0 1 ︱
一 年
の ﹁
最 低
賃 銀
條 例
﹂ An
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(1
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s
1
c
6)に見出される
0
然し現実には︑前者は 銀支払の形式を先ず考察しなければならない︒
﹁その適用は殆んど全く農業努働者及び建築労
T h
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A
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s
(5
六 八
ィ そ 9k 賓 本 主 義 成 立 史 上 の ﹁ 生 産 者 の 賓 本 家 へ の 推 韓 ﹂
働者に限られ︑真に織物業の問題を考慮したか否かは疑わしい﹂とされており︑また後者は明らかに織物業をもその対
象の中に含めてはいるが、最初は、「ウでスト•ライディング地方においては然心に実施されていなかった」とされて
いる︒︵咋託匹
r e ,
1 ).
no) かくて当面の対象であるウ:卜•ライディングに関しては、
卜 法
廷 ﹂
P o n t e f r a S e c t s s i o n s
において決定された﹁賃銀裁定﹂
A s s e s s m e n t o : f W a g e s
に至って︑始めてその準
拠を得るわけであるが︑そこには毛織物努働者の賃銀は次の如く規定されている︒
﹁如何なる織布エ・仕上工●剪毛工または染色エも︑その賃銀として︑
w i t h M e a t n a d D r i n k e
四志以上を︑また食事抜きの場合は八志以上を得てはならない︒震'ぎめで傭われる場合は︑こ
の職における極めて熟練した努働者については︑年額三謗を得て差支えない︒また普通の織布エ・仕上エ・剪毛工・縮絨
C 1
︺
工及び染色工は賃銀として年に一一謗一 0 志以上を得てはならない﹂
見 ら る る 如 く ︑ そこには各職種の賃銀が一率に︑
六九 このことは染色 0 仕
(cf•
H e
a t
o n
,
Y o r k s h i r
e ,
p p
.
1 1
1
ー
2,
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1
9 1
4 .
p
p .
223
,~
然も時間払
t i m e r a t e
で規定されている︒
上・縮絨●剪毛等に従事する者に関しては︑彼らの仕事の性質上出来高払が困難である以上︑当然のことといい得
る
0のみならず︑そのことは彼らの作業が多くの場合雇主の仕事場においてその監督の下に行われた事実︑及び法定
の努働時間が適用された事実
( t
o 咋 芦
︑ e ず
p .
1 1
2 )
と適合するものであって︑そこには明白に労働の集中︑ご一ュファクチ
ュア形態を推定し得る︒ところが︑織布工の場合は︑その大部分は雇主に雇傭される場合においても︑自已の居宅
においてその作業を続けていたのであり︑現実には出来高払の支給をうけていた
0すなわち︑例えば一五八八年の一
記録によれば︑カージー一反に対して一志八片︑またリーズ池城においては︑ダズン一反に対して三志四片が賃銀とし
︵ 一
H につきー筆者︶︑食事付きの場合は 一六四七年の﹁ポンテフラク
イギリス査本主泰成立史上の﹁生産者の査本家への推轄﹂
て支払われていたが、それは一六七六年に至っても変るところはなかった。 (5~ 琵耳丘糧旬玲。}•-安)とすれば、前
記の﹁裁定﹂において︑織布工の場合も時間払の形において規定されている事実を如何に解すべきであるか︒これに対
してヒートンは結局次のような解釈を与えている︒すなわち﹁裁定の数字は︑織布エが出来高払によって支払われる
場合にうけとる金額を考慮に入れ︑一定の関係をもたせて計算されたものである﹂と︒︵注紅 i 廷
芦 戸 [ . 芹 } { 哀
93
器
︶
このように解することによって時間払という︒一見展主の監督の下に雇傭されているが如く解せられる︒﹁裁定﹂の
G2
il
條件も︑現実における出来高払制と矛盾なく理解出来る︒また前にあげた富裕なる織元の一例としてのボウソンが︑
自宅には僅かに一台の織機を有し︑また三人の徒弟を雇うのみで︑然も多彙の原料・資材を手持ちし︑且つ二十一反
( 1 )
この裁定において注目すべき︱つのことは︑そこに規定された凡ての職種の労働者ー農業労働者︑建築労働者`織物労働
者、鉱山労働者ーを通じて會何れの場合も最高賃銀を規定してあることである。すなわち「:•以上を得てならない」 "Shall
n o t
t a k e
a
b o
v e
"
ということが︑この布告の某調となっていることは︑当時の賃銀統制の性格の
1
端を示すものである︒
( H e a
t o n ,
c E
o n
. J
o u r n a l ,
J u n e
,
1 91 4.p .
22 5)
( 2 )
出木高彿は雇主宅に傭われた労働者に対しても行われたが︑それは家内工業において︑より適合的であった︒
最後に剪毛
s h e a r i n g
縮絨
f u l l i n g
等のいわゆる仕上工程についてみるに︑前にも述べた如く生産手段の集中に
ついてみても賑傭関係についてみても︑それが雇主の仕事場において行われたことが普通であったと考えられる︒か
くて織布工程に関しては家内工業形態が多く見られたのに対して︑仕上︵縮絨︶工程に関してはマー一ュファクチュア
が支配的であった︒この意味においてドップが﹁家内︵工業︶生産とマー一ュファクチュアとは︑多くの場合において︑ にも及ぶ在庫品を有していた事情も理解される︒
七 〇
四︑十八批紀における発展
元のみに認められる如く考えるのは史実に合致しない︒
同一産業の異った段階において密接に結合していた﹂︵写蹂 5 ︑
1 4 4 p .
)
と称するのは︑むしろ史実に帥して織元の経営
の実態を把握し︑然もマニュファクチュア範疇を滴切に適用したものであるといわざるを得ない
0なおそのことに関
して︑他の︱つのことが推論される︒それは仕上工程は︑更に︑経営の拡大とともに販売と直結するのであって︑富
裕なる生産者織元が経営の拡大とともに仕上工程を直接支配の下に集中的に掌握するに至ったことは︑彼の機能にお
C 1
)
ける商業的機能の比重が増大してきたことを意味する︑ということである︒この点に関してヒートンが﹁ヨークシア
の織元ーー̲いわゆる職場織元ーー・といえども︑テューダ 1 及びステュアート期に至って︑その営みが盛大となり︑生
産高が大となるに至れば︑西部の織元と極めて近似のもの︑すなわち産業的というよりもむしろ商業的となるに至っ
と称するのは︑生産者が商人となる途の意味を暗示するものである
0仕上工程におけるマ
I一 ュ H e a t o n ) た ﹂
( Y o r
k s h i
r e ,
p .
92
ファクチュアの存在は︑その意味において︑生産者が商人になる途の前提でもあった︒従つて史実に基く範疇の適用
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
を離れて︑仕上工程におけるマ=
lュファクチュアを以ていきなり系譜的にみた問屋制商業資本の凝集点であるかの如
︹
2
︶<断定するのは︑単なる範疇論の滞結に過ぎない︒
( 1 )
大塚敬授が仕上工程を以て﹁トラフィーク的工程﹂といわれるのは正しい︒
( 2 )
この点もわが國においては︑恰も通説の如く説かれている︒
イ ギ リ
k
賓本主義成立史上の﹁生産者の賓本家への推轄﹂
七
︵ ﹁
序 翫
﹂ ︱
︱ 1
0 0
頁 ︹
9 ︺ ︶ 然 し そ れ が 問 屋 織
以上においてわれわれは小生産者層の中から漸次資本家に推転した織元の経営様式を︑十八批紀への展望をもち乍
な ら な い
︒
いての叙述が教える以上に︑ シァの状態が考えられなければならない︒
イギリ
k
査
本 主 義 成 立 史 上 の
﹁ 生 産 者 の 賓 本 家 へ の 推 韓
﹂
に つ
一 人
の
らも、主として十六•七批紀に中心をおいて考察してきたが、それは十八批紀すなわち産業革命に直結する時期にお
いては︑如何なる様相を以て展開してきたか︒この場合においても︑前に述べたところに照応して︑主としてョーク
先ず古くからこの地方に根をおろしていた紡毛工業においてみれば︑数においては依然として一応は独立した小生
︹
1
︺産者が支配的に存在していた
0然も彼らの経営規模は︑前時期におけるものに比較して著しくは拡大しておらないの
である︒すなわち﹁父親が市場へ赴いて羊毛を買入れる°妻と子供達が刷毛を行いそれを織糸に紡ぐ
0もし適当な織
糸が自給できない場合は︑羊毛の一部を紡いで貰うために近隣の小屋︵小屋住の人ター筆者︶
息子︑或は徒弟乃至職人の助力を得て︑織元は︑羊毛を染め上げ︑それを反物に織り︑縮絨場へ持参し︑
で未仕上げのまま市場の自分の売台
s t a l
l
へ 渡 す ︒ そ し て ︑
かくて生堆
へ持ち運ぷか、或は毛織物取引所の自分の売場 stand へ運ぶ」 (~::i~hlre,
アという営みが繰返されていた
0またその生産高も一週間二反を超える者は殆んどなく多くは一反の製造に止ま
p .
293
つていた︒︵誼●
i r
臼 穿 吋
v e r y
m a n )
然し乍ら︑このような独立小生産者は︑外からみれば古い時代と変らない相貌を
有していたかの如く見られるが︑既にこの時代に至れば︑内部的には商業資本の支配が相当に食い込んでおり︑従っ
て﹁小織元は依然として多数存在していたが︑彼らは時とともに商人の注文に応じて働く者の地位に移りつつあっ
た﹂︑また﹁この種の商人資本家は︑ ペン=ーン織物工業地城においては︑家内工業制︵独立生産としてのー筆者︶
一般に存在していた﹂︵匹叶彗
o o 5 0
t t o n
)
と解されていることを注意しておかなければ
七
七
( 1 )
例えば
7 ^
o n 一年において︑ウエ︷ト・ライディングで織られた凡ての織怖の中︑僅か十六分一が査本家の支配する大工
楊で生産され、残り全部、すなわち約阻―― 10• 0
00
反 は 独 立 織 布 工 の 仕 事 場 で 作 ら れ た と い わ れ る
︒
( R e p
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0 5
d
byM a n t
o u x ,
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u s t r
i a l
R e v o
l u t i
o n ,
p . 2 7 3 )
然しその独立生産者の地位
については本文で示したようなウォズワースの指摘があるのである︒
然し乍ら"まわれわれの注意すべきものはこれらの小生産者ではなく︑それらのものの中から上昇した﹁富裕なる
織 元
﹂
1 1 資本家的生産者の経営の規模及び様式が︑この時期において如何なるものであったかということである°然
し乍ら︑この時期に関しても︑前の時期におけると等しく︑彼らと小生産者層との閻に現実に明確な断層を見出すこ
とは出来ない
0とはいえ︑互視的には凡その展望が不可能であるわけでもない︒そこで先ず︑中間階層ともいわるべ
一人は︑徒弟から職人となり更に織元に経上ったプルーク
E l i j
a h B r o o k e
であるが︑彼は自宅には一台の織機を有し︑これを息子或は一人の徒弟の助力を得て働かし︑またその織糸
は娘達によつて紡がせていた°然るに一方︑彼は十二人の職人を雇傭していたが︑それらは何れも各自の居宅におい
て紡毛乃至織布に従事しており︑また出来高払の賃銀を得ていた︒次にエリス
J.
E l l i s
の場合は︑自宅に一台の紡
毛機と三台の織機を有していたが︑その三台の織機によつて︑彼自身及び彼の雇傭する一人の徒弟及び一人の職入が
織物を製造していた
0その他織元の家では︑男子一人とその妻が紡毛に従い︑ニ︱︱一人の子供が選毛を行ったが︑それ
以外に女子一人がその自宅で紡毛に従事していた︒
0 "
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﹁
5
臼 且 已 立 臼 叫 租 誼
I
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)
このようにして︑雇主或は努働
者自身の宅で努働に従う八人乃至十二人の努働者を雇傭する織元はその他にも多数あったとされているが︑これらを
通じて知り得ることは︑各工程を通じて家内工業形態がその半︑或はそれ以上の比率を占めていたことである
0然 ら
イ苓lJK賽本主職成立史上の﹁生産者の賽本家への推韓﹂ き者の経営を見るに︑ここに二つの実例が存する︒
ていたことである︒例えば︑
ご一ュファクチュアと家内工業︵努働出制とを並存せしめつつ行
( 1
︵ 自 >
0
苔
dbyH e a t
o n ,
Y g ぼ 臣
e
p .
29
6,