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-二〇一九年までのドイツおよび日本の国法学の進展と停滞―カール

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(1)

The or ie de s Staatsr echts von C.Sc hmi tt , J.Ise nse e und R.Al exy -1998- 2019-

Masanori N AKANO

  一  少々長めの問題提起

憲法が規範的統一体であり︑何か絶対的なものであるという観念は︑歴史的に︑憲法が完結した法典と考えられた時代の事情から説明がつく︒フランスでは︑一七八九年に︑立法者の叡智に対するこのような合理主義的な信仰が支配しており︑政治的︑社会的全生活の意識的かつ完全なプランを定立することができると信じられてきた︒それどころか︑多くの者はその改正と修正の可能性を顧慮することすらためらったのである︒しかしながら︑国家の全体を把握した︑究極的に正しい︑完結した規範体系が実現できるという信念は︑今日ではもはや存在しない︒今日では︑あらゆる憲法の条文は︑憲法が成立した時代の政治的︑社会的情勢に依存する︑という右と反対の意識が行きわたっている︒なにゆえにある法規がほかならぬ憲法に書込まれ︑普通の法律に書込まれないかは︑政治的考量と政党連合の偶然性にかかっている︒しかし法典化と体系的統一に対する信念がなくなるとともに︑絶対的法治国家の自由理念が前提 としていたような憲法の純粋な規範的概念も消滅した︒このような規範的概念は︑市民的自然法の形而上の前提が確信されている限りにおいてのみ可能だったのである︒憲法は︑今や︑個々の実定憲法律の寄せあつめに変わったのである

︒1

このような問題点は︑戦前︑京都帝国大学教授の大西芳雄︵一九〇九

−一九七五年︶によってすでに﹃国家と法律学﹄

︵一九四四年︶においてハンス・ケルゼン批判として示されていたところである︒以下︑少々長くなるが大西の指摘を見てみることとしよう

2︑

︒3

カール・シュミットは︑一九二八年の有名な﹁憲法論﹂において︑すべての法体系は彼のいはゆる憲法制定権力を前提にすること︑すなはち政治的決断が法に優先することを︑主張した︒彼によれば︑憲法がそれ自身として一つの論理的・完結的な統一をなし︑この規範たる憲法が国家の統一性を与えるといふ考えは︑正しくない︒憲法が実定法として妥当するのには︑現実的な力︑もしくは権威であるところの︑憲法制定権力が之を定立したからである︒およそ一つの規範が妥当するのは︑それが内容的に正しいものであるためにか︵自然法思想︶︑もしくはそれが実体的に命ぜられたから︑すなわち現実在的な意志の力によつてか︑どちらかである︒しかるに規範は自己自身を規範として定立することはあり得ないのであつ

一九八九

-二〇一九年までのドイツおよび日本の国法学の進展と停滞―カール

・ シュミット、ヨーゼフ ・ イーゼンゼー

およびロベルト・ アレクシーの学説を素材に― 中   野   雅   紀

一九八九

−二〇一九年までの日独国法学の進展と停滞

    中野九

9

茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十九号

  ︵二〇二〇︶

  九︱三二

(2)

て︑実在的な意志から切りはなして規範の妥当性を主張するためには︑その規範の内容的な正しさのためにそれが正しいと認められる︑と言わざるを得ない︒従ってもしも憲法を根本規範な意志としてではなく︑最高の根本的な規範として妥当するのだと主張するならば︑その論理的︑道徳的︑もしくは何らかのその他の内容的な性質のため︑それが正しい命題の完結的体系を形成しているのだ︑と主張しなければならない筈である︒従ってケルゼンの様に︑憲法が妥当するのは︑その規範の内容的な正しさのためでなくて︑その実定性のためであるとし︑しかもそれが純粋の規範として︑純粋な規範の体系もしくは秩序を基礎づけると主張するが如きは︑全く矛盾だらけの間違いである︵

a.a.O.,S.9

︶︒

以上のようなカール・シュミット︵

Carl Schmitt

一八八八

− 一九八五年︶の診断によれば︑憲法価値・原理は﹁寄せ集め﹂である以上︑それらは諸価値・諸原理の矛盾・衝突に直面することとなる︒それでは︑わが国の憲法学は︑このシュミットの診断に基づいた憲法価値・原理をどのように解するのであろうか︒次に︑簡単ではあるが︑このことを見てみることにしよう︒そもそも︑﹁象徴天皇制﹂であったとしても﹁天皇制﹂は︑﹁国民主権﹂原理と矛盾・衝突することはないのか︒衝突するからといって︑﹁天皇制﹂は廃止されなければならないのか︒﹁民主制﹂は︑﹁基本的人権の尊重﹂原理と矛盾・衝突する場合がないのか︒すでに︑戦前からゲオルグ・イェリネック︵

Geor g Jellinek

一八五一

Das Recht der Minoritäten

の権利﹄ −一九一一年︶の﹃少数者

pou

れていたことは容易に理解できる︒あるいは︑﹁憲法制定権力 が国においても両者が場合によっては︑矛盾・衝突することは知ら は翻訳されていたことから︑わ4 未来の意思が異なる場合が考えられる

voir constituant

﹂であっても︑制定当時の意思と︑現在︑あるいは

ては︑よいかもしれない 絶対的なものとすることとなった︒それはそれで﹁基本指針﹂とし し︑﹁人間の尊厳の尊重﹂は︑それによって根拠づけられる人権を 本価値として採用したものとするならば︑なおさらである︒しか

Hominis Dignitati

然権思想を採用し︑﹁﹁人間の尊厳﹂の尊重﹂を基 多く︑そこに調整をはかる必要性がある︒とりわけ︑現行憲法は自 原理は︵現実的に︑あるいは可能性として︶矛盾・衝突するものは 底するならば︑現行憲法であっても︑その規定するところの価値・ ︒このように︑理論的に徹5

供されるのは り︑神風攻撃などのように個が国家のための手段とされ︑犠牲に ︒なぜならば︑﹁滅私奉公﹂が原則であ6

一七二四

Immanuel Kant

︑そもそもイマニュエル・カント︵7

る −一八〇四年︶の定言命法にも反するものであるからであ が︑﹁憲法の神様﹂と呼ばれた宮沢俊義︵一八九九 値・原理の矛盾・衝突を直截に認め︑その調整の必要性を説いたの の故事のように︑きわめて論理的に難しい状態に陥る︒この憲法価 ︒とはいえ︑このことは人権同士がぶつかり合うとき︑﹁矛盾﹂8

ある︒ここで︑宮沢の説明を補助線の設定のために概観する︒ −一九七六年︶で

﹁憲法規範が完結した法典でない﹂ことにより︑宮沢俊義は︑﹁義務の衝突﹂としての﹁抵抗権﹂を認める︒以下︑簡単に説明するならば︑宮沢には︑﹁抵抗権という言葉にそれが本来意味するところの︑実定法を破る権利という意味を与えるかぎり︑そうした抵抗権を実定法上の︽権利︾として認めることは︑論理的矛盾である︒

たとき︑﹁抵抗権﹂は︑﹁自然法を根拠として︑実定法上の義務を拒 つまり︑宮沢によれば︑実定法と自然法の間の﹁義務の衝突﹂が生じ ﹂とする︒9 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十九号

  ︵二〇二〇︶

一〇

10

(3)

否する権利﹂として成立する

10︒宮沢は︑菅野喜八郎︵一九二八

二〇〇七年︶などの﹁東北学派﹂とことなり︑法実証主義的観点から︑ここでいう自然法上の抵抗権を否認するわけではない

樹︵一九二一年 11︒小林直 笑し︑時には鉄槌を下すことになろう︒ 実の問題は未解決のまま残り︑それに目を蓋って見まいとする者を嘲 粋法理に徹しようとする余り︑非法の権利を視野から消去しても︑現 は︑乱暴な飛躍であり︑法現象の認識を著しく狭めることになる︒純 めないことから︑そのような法的意味をもった現実まで斥けること 価値を作り出すという現実までも否定するものではない︒自然法を認 は破れもするが︑時には後者を押しのけ︑その勝利によって新しい法 るのである︒自然法の否認は︑非法の価値が法的価値と衝突し︑時に 衝突し︑生身の人間が異なった権利=義務の緊張関係の中に生きてい 的・観念的な分離に過ぎない︒現実には法と非法の価値は︑しばしば するから︑衝突などは生じない〟と見るのは︑思考操作による抽象 −︶によれば︑﹁法と道徳の規範秩序が〝次元を異に

12﹂

次に︑基本的人権の衝突について︑宮沢俊義は以下のように説明している︒以下︑わが国の人権制約原理について︑既成の学説を定義し︑呪縛してきた﹃憲法Ⅱ﹄において宮沢が展開した人権制約︑すなわち︑基本権衝突を概観することとしよう

13︒

各人の人権の享有およびその主張に対して︑なんらかの制約が要請されるとすれば︑それは︑つねに他人の人権との関係においてでなくてはならない︒人間社会で︑ある人の人権に対して規制を要求する権利のあるものとして︑他の人権以外には︑あり得ないからである︒この社会においてそこに生きる人間をとりまく物心両面の条 件は︑個人個人によって︑いろいろなちがいがある︒その結果として︑各個人のあいだに︑意見や利益のちがいがうまれる︒ある個人の人権の主張は︑多くの場合において︑他人の人権と多かれ少なかれ矛盾し︑衝突する︒社会生活が維持されるためには︑こうした矛盾・衝突を調整することが必要である︒そして︑宮沢俊義は︑﹁絶対制﹂においては︑﹁天皇制﹂という﹁絶対価値﹂をもちだすことができたので︑人権の矛盾・衝突の調整を比較的容易におこなうことが可能であったが︑﹁民主制﹂においては︑この矛盾・衝突の調整をおこなうことは難しい︑とされる︒少々ながくなるが︑さらに宮沢の説明を引用することとしよう

14︒

ところで︑民主主義的考え方の下では︑事情はちがう︒ここでは﹃人間﹄が至上であるから︑人間は︑何よりも高い価値をみとめられる︒人権に対抗できる価値というものは︑そこにはあり得ない︒ここでは︑国家そのものすら人権に奉仕するために存するとされる︒ここで︑個々の人権に対抗する価値をみとめられるのは︑多数または少数の他人の人権である︒だから︑甲の人権と乙の人権をひとしく尊重しつつ︑両者のあいだの矛盾・衝突の調整をはかる︑というのが︑ここで憲法に課された重大な任務でなくてはならない︒

このように︑わが国においても﹁基本権の衝突﹂は︑﹁人権の内在的制約﹂として一般的に承認されてきたのである︒宮沢は︑まず﹁人権共通の特色としてあげられるのは︑人間の尊重の要請﹂である︑とする

厳﹂に求めることを意味している︒なるほど︑前述したように︑宮沢 15︒このことは︑自然法思想に基づき人権の根拠を﹁人間の尊

一九八九

−二〇一九年までの日独国法学の進展と停滞

    中野一一

11

(4)

は人権を﹁人間の尊厳﹂という﹁至上の価値﹂によって基礎づけているが︑同時に︑この﹁人間の尊厳﹂に基づく人権同士ですら矛盾・衝突することを認め︑その調整の必要性を説いている︒しかしながら︑矛盾の諺のように︑﹁人間の尊厳﹂という概念のもつ﹁絶対性﹂のため︑あるいは︑人権を制約する人権も︑制約される人権も共に﹁人間の尊厳﹂に基づくことで同ランクにあるため︑人権というものが絶対に侵すことのできない﹁天賦の人権﹂と理解されることになる︒このことは︑本来的には宮沢が後半で指摘していることを往々に無視し︑あるいは︑軽視する傾向につながっている︒たとえば︑別稿で指摘したのであるが︑その証左として︑わが国の人権制約論においては﹁内在的制約=内在的限界﹂と︑人権の﹁矛盾・衝突の調整﹂の区別が明確に意識されていないことをあげることができよう

ん︑佐藤幸治︵一九三七年 16︒もちろ あって︑それ自体としては何事も語っていないかのごとくである﹂

deceptively simple answer

義は﹃欺瞞ともいうべき単純な答え︵︶﹄で −︶のように︑﹁このような﹃人権﹄の定

17

と指摘する者もいるが︑そこからさらに踏み込んで︑人権の﹁絶対性﹂を批判的に検討する者はほとんどいなかった︒いずれにせよ︑今日においても長尾一紘︵一九四二年

クである﹂ことを指摘する学説 れらの語は︑その権利の重要性を印象深く強調するためのレトリッ 限の権利﹄︑﹃絶対の権利﹄なるものは︑実際には存在﹂せず︑②﹁こ −︶のように︑直截に①﹁﹃無制 いる︑といえよう る︑﹃人間の尊厳﹄は︑いまだわが国の﹁人権制約原理﹂を呪縛して

rhetoric

らも︑﹁絶対的人権﹂というレトリック︵︶の基礎となってい 18は︑決して多くはない︒その意味か

19︒

以上のように︑一般原理としての﹁憲法上の価値・原理﹂の衝突に ついては︑戦後︑一般理論とはいえ︑十分に意識されてきたといえるかもしれない︒しかしながら︑一般理論として憲法で議論されながら︑反対に法哲学・法理学ではあまりテーマとされない議論であったといわれている︒すなわち︑実定法としてはあまりに一般的であり︑基礎法としては不十分であるという中途半端なテーマであったのではないか︒この問題に再び光が当てられた一つの原因は︑英米法哲学を中心としたハード・ケースの問題をいかに解消するのかといった議論であり

し︑その対立が顕わになったからである とイスラム文化圏の宗教観を含めた価値・原理の衝突が実際上現出 もしれない︒資本主義と社会主義の価値の衝突︑あるいは西洋文明圏 20︑あるいは︑東西冷戦の終結や︑九・一一テロであったのか

紀に入って以降の︑わが国の憲法学説を長谷部恭男︵一九五六年 21︒そこであらためて︑今世

−︶

の以下の記述から探っていくこととしよう︒たとえば︑﹁ゲバラのように生きる﹂のなかで︑長谷部は以下のように言っている

22︒ 日本国憲法は立憲主義に立脚している︒立憲主義と絶対平和主義は両立しない︒︵⁝⁝︶憲法九条の文言を通常の日本語通りに理解すると︑たしかにあらゆる実力装備の保有を禁止しているように見える︒しかし憲法学者は憲法の文言をいつも通常の日本語通りに理解しているわけではない︒︵⁝⁝︶文字通りに理解すると憲法の立脚する立憲主義に反する結論が導かれるのであれば︑立憲主義と両立するよう︑憲法九条は︵⁝⁝︶単に結論を一定の方向へ導こうとする﹃原理﹄として理解すべきであり︑答えを

all or nothing

で決めている﹃準則﹄として理解すべきではない︒

ところで︑これは反対の意味で︑どこかで見たような記述である︒ 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十九号

  ︵二〇二〇︶

一二

12

(5)

そう︑以下のような記述をわれわれは︑先述の戦中の京都帝国大学大西芳雄の表現のなかに見るのである

念︑国体の方法論が明確にされていないのである︒ されていないよやうである︒すなわち一般概念としての国体の概 に何が問題とされ︑如何なる方法の下に問題とされるべきかが確定 要求するところとは必ずしも一致しないからである︒⁝国体論の下 することにもとづいているのであつて︑立憲主義の理念と現代戦の ていない︒それはわが日本憲法を依然﹁立憲主義﹂的に解釈し理解 法を現代的に運用するには如何にすべきかといふ風には問題にされ 触しないかどうかといふ点だけがもっぱら問題とせられて︑真に憲 が構想せられ︑又実現にうつされんとする場合に︑それが憲法に抵 のみ理解するところに存すると思われる︒新しい制度なり運動なり に対する制動的なる枠の如くに観じ︑消極的なる拘束条件の如くに ず︑それがはかばかしく行われない原因の一つは︑憲法を単に政治 治組織にも︑新時代的なる構想と現実が要望されるにもかかはら 今日国政の飛躍的なる刷新の必要が痛惑され︑政治運動にも︑政

23︒

戦後においても京都帝国大学から立命館大学に活躍の場を移した大西芳雄は︑﹃憲法の基礎理論﹄︵一九七五年︶に所収された論文においても自由主義と民主主義の原理的矛盾・衝突を衝く︒大西は以下のように言っている

24︒

日本国憲法の解釈学にとっては︑この二つの︵自由主義と民主主義︶原理の共通の要素を抽出して示すことではなく︑二つの原理の矛盾・衝突する点を意識的に強調することが大切であると考えられる︒こうすることによってわれわれは︑問題を自覚的にとらえるこ とができるし︑したがってその解決に自覚的に近づくことができると思う︵傍線

:

筆者︶︒

以上のように︑わが国においても憲法の価値・原理が衝突するという議論は︑一貫してなされてきたことが理解できよう︒しかし︑不幸なことにわが国においては︑その議論の中心となったのは長らく︑与党︱特に保守系政党︱と野党︱特に左派政党︱間の憲法九条論をめぐる平和主義原理であった︒極めて政治的な議論であったにも関わらず︑わが国においても戦後︑ひとつの憲法上の論点として語られ続けられてきた︒わたし自身は︑平和主義の原理をもっぱら議論の争点にすることは︑あまり生産性のないことであると考えている︒本題でないので詳述はしないが︑以下元社会党副書記長曽我祐次の証言は︑そのことを如実に示すものであると考える

25︒

護憲派の主力であった社会党内部でも︑実際は︑﹁今の憲法がパーフェクトで未来永劫これでいいのか?﹂という声はあった︒様々な事項を精査すれば︑改正が必要な部分もあるかもしれない︑と︒でも︑﹁九条は絶対遵守=憲法は絶対遵守﹂以外の意見は言えなくなった︒

理論的に考えると憲法の価値・原理が衝突するとするなら︑その反対もあるはずである︒すなわち︑価値規範と価値規範が衝突するとすれば︑その反対の極みは︑そのような価値規範が存在しない場合である︒とはいえ︑﹁法律が閉ざされた統一的な規範体系を形成することなどできなくても﹂

量﹂︑﹁恣意的な要素﹂を看過してはならない 26︑﹁あらゆる法決定において不可欠な自由裁

27︒すなわち︑カール・

一九八九

−二〇一九年までの日独国法学の進展と停滞

    中野一三

13

(6)

シュミットのいうように︑このような規範の判断においては﹁他の裁判官と同じように決定する﹂前提に還元されなければならないのである 欠缺についても論じているのが前述の大西芳雄である い︒あるいは︑表現すらないといえるであろう︒そのなかで︑憲法の のわが国の標準的概説書・基本書とよばれる書物の中では記述がな である︒ところが︑この﹁憲法の欠缺﹂の問題は︑すくなくとも戦後 ﹁憲法の欠缺﹂の問題は︑﹁基本権衝突﹂の問題と表裏の関係に立つの 28︒とすれば︑当然のことながら︑憲法上の規範体系においても

﹁概念法学﹂を批判した戦前の記述をあげることとする もいえるものである︒その証左として︑京大時代の大西がケルゼンの の議論は︑活躍の場を立命館大学法学部に変えても戦中の焼き直しと 29︒しかし︑そ

30︒

ケルゼンによればこの法規範の全体的体系はすなわち国家に外ならないのであるから︑いはゆる国家活動はすべてこの観念的なる規範の下降運動にすぎす︑いはゆる政治と評せられる事実活動は︑事実そのものとしては何らの国家的な意味をもたないバラバラの出来事にすぎないのであって︑それが法規と関係せしめて見られたとき︑すなはち抽象的規範から具体的規範への降下の契機であるとき︑換言すればその事実活動が抽象的規範の構成要件に該当するとき︑はじめて国家的な活動と見られ得るのである︒けれどもそれだからと言って︑これらの国家的といふ資格を与えられた行動は︑それで以て政治と評せられる国家生活の一領域を与えられ︑法の領域と対してこれに関係し或ひは交渉する独自の領域と認められたわけではない︒それはあくまでも法規の構成要件に該当する事実たるにとどまって︑政治なるものは上位法規範の下降過程︑すなわち法規範体系の規範論理的な自己運動に外ならない︒換言すれば法規範体 系の外に政治なる領域が存在するとされるのではなく︑従って法と政治の交渉・関係は問題となりえない︒⁝認識の対象たる国家が事実的存在の世界と隔絶した観念的なる規範の体系であると云ふ決論に達し⁝政治なるものは単なる法規の構成要件をみたす事実にすぎず︑政治の事実によって法が動かされると云ふが如き︑一般に規範的なる法と事実的なる政治との相互関係と云ふが如きものは︑観察の視野に入って来ないのは︑その観察の前提たる方法の当然の結果である﹂そして︑憲法の欠缺については︑﹁タートベシュタント︵

Tatbestand

︶の類推をもって﹂埋めよという︒

ここでは︑とりあえず大西芳雄の説明の可否は措くこととしよう︒このことを示したのは︑わたしが﹁基本権衝突の問題点﹂において﹁基本権構成要素﹂と訳語を当てていたのを︑﹁ドイツにおける狭義の基本権構成要件理論﹂において﹁基本権構成要件﹂に変更したネタ晴らしである

31︒

とは言え︑﹁同一憲法体系内に矛盾・対立する原理が存するゆえ︑憲法そのものを変えてしまえ﹂︑あるいは﹁解釈を変更してしまえ﹂との言に︑わたしは与するものではない︒むしろ︑矛盾・対立するからこそ憲法法解釈学はホットなのである︒いや︑より具体的には﹁絶対不可侵﹂といわれる人権が矛盾・衝突するからこそ人権解釈学はホットであり︑議論するに値するものである︑と考える︒表現のブライヴァシーの権利は衝突する︑環境権と経済的自由は衝突する︑喫煙権は非喫煙権と衝突する等々︑そうしたハード・ケースに至るまでの衝突事例が存在するからこそ︑われわれは憲法学に取り組むのであり︑予定調和的な結論があるのならば︑それは虚しいことである︒言 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十九号

  ︵二〇二〇︶

一四

14

(7)

うまでもないが︑ここでは仮に﹁ハード・ケース﹂とは︑法解釈が分かれていたり︑判例変更が求められる﹁難しい事件﹂のことであるとしておこう

32︒   二  カール・シュミット

本稿は︑このような︑ある意味では聞きなれた基礎理論中の基礎理論について第二次世界大戦後の︑しかも世紀の移り変わりの時期のドイツの国法学・憲法学の展開を概観・検討するものである︒しかしながら︑理論上の問題の他に︑用語︑概念など十分にわが国において理解されていないものも多い︒そこで︑本稿の採り上げる学説の主軸は︑﹁叩き台﹂としてのカール・シュミット︑そして現代においてはヨーゼフ・イーゼンゼーとロベルト・アレクシーの二人を中心に検討することにする︒

まず︑本稿は戦後︑とりわけ二一世紀の転換期のドイツ国法学・憲法学の諸学説︑それと関連したわが国の議論を検討するものであるが︑一方においては︑その議論の多くはヴァイマール共和国期の議論の積み残しの部分があることを認めた上で︑検討を進めていくこととする︒そうであれば︑それらは︑前述したように第二帝政期のポール・ラーバント︵

Paul Laband

一八三八

Geor g Jellinek

ルグ・イェリネック︵一八五一 −一九一八年︶や︑ゲオ

Hans Kelsen

しようとするハンス・ケルゼン︵︑一八八一 がある︒つまり︑ひとつの流れは︑この法実証主義を︑さらに純化 される法実証主義を克服しようとする二つの流れを意識する必要性 −一九一一年︶に代表

年︶のシューレと︑もうひとつは︑ケルゼンが排除した理念・価値・ −一九七三 一八八八

Politischen Carl Schmitt

﹂を取り入れようとするカール・シュミット︵ 政治に真正面から取り組むことにより︑自覚的に﹁政治的なるもの

Rudolf Smend

シュミットの他にルドルフ・スメント︵一八八二 で︑ケルゼンとの対比において分岐する学説であるならば︑ここで −一九八五年︶のシューレがあげられるであろう︒ところ

− 一九七五年︶︑あるいはヘルマン・ヘラー︵

Hermann Heller

一八九一

−一九三三年︶のシューレが挙げられようが︑ここでは対立軸や︑争 点を明白化するために︱あるいは︑シュミット・シューレとスメント・シューレの﹁国家

Staat

﹂と﹁社会

Gesellschaft

﹂の二元論と一元論の分離は︑すでに四半世紀以上まえから︑わが国でも詳細な紹介と検討がおこなわれ︑相当な蓄積もみていることから︱あえて︑ここでは﹁屋上屋

Ein Dachgeschäft

﹂を重ねることは省略する

明らかにしようとすることである

deviation

とがらを比較することによって︑その﹁偏差﹂から物事を ることが有効である︒これは︑本稿のひとつの狙いであるふたつのこ し︑シュミットと近い学説と︑シュミットと遠い学説を整理・分析す る︒それには︑純然たる意味でシュミットの弟子とは違うが︑しか レではなく︑その他のシューレの学説と対比させることがよいと考え て︑シュミットを叩き台とするならば︑かえってシュミット・シュー 33︒そし

34︒

戦後︑カール・シュミットは︑ナチスとの関係性を深めたことにより︑正規の意味で再建されたドイツ公法教授団の入会を拒否され︑そして大学という活動の場を失った

作ることはできなくなった はじまる︒これにより︑彼はアカデミズム界における正規の弟子を

San Cassiano

が言うところの﹁サン・カシアーノ﹂への隠遁生活が 35︒それ以降は︑シュミット自身

36︒したがって︑シュミット・シューレ

一九八九

−二〇一九年までの日独国法学の進展と停滞

    中野一五

15

(8)

の戦後筆頭格とされるエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデ︵

Ernst-W olfgang Böckenförde

一九三〇

W olff

一八九八

Hans Julius

クトル・ファーターは︑ハンス=ユリウス・ヴォルフ︵ −二〇一八年︶もド

Theodor Maunz

ツ︵一九〇一 て︑同じくナチスに理論提供をおこなった同僚のテオドア・マウン −一九七六年︶ということになる︒シュミットにとっ

−一九九三年︶や︑弟子のエルンスト・

フォルストホフ︵

Ernst Forsthoff

一九〇二

−一九七四年︶がそのまま

学界・大学に留まることが許されて︑自らが許されなかったことは得心のいくものではなかったであろう

37︒

※ミヒャエル・シュトライス︵

Michael Stolleis

一九四一年

問題﹂ですませられるものではない︒ んら態度表明しなかったからである︒このことは︑決して﹁過去の ぜならば︑ドイツ公法教授団は︑マウンツのこの行為に対して︑な めに長年執筆活動をしていた事実が露見したときに現れている︒な

Zunft

ト﹂体質は︑その死後︑テオドア・マウンツが極右政党のた ように︑ドイツ公法教授団は保守に寛容で︑左派に厳しい﹁ツンフ に硬く門戸を閉ざされたのは戦後の社会主義者たちであった︒この たのはシュミットとラインホルト・ヘーンの二名のみであり︑反対 べきであった︒さらに言えば︑結局︑ナチス関係者として遮断され い﹂というこの原則は︑カール・シュミットについてさえ守られる 批判している︒﹁﹁新入会員を政治的信条により排除してはならな このシュミットのドイツ公法教授団への入会の拒否を以下のように −︶は︑

38﹂

しかし︑このような不条理を感じつつも︑ナチスであれ︑なんであれ︑﹁歴史に対する支配力﹂を獲得しようと望む野心家であり﹁知的 冒険者﹂であるシュミットは︑積極的に政治的に行動するばかりか︑政治的に行動することに熱心であったのである︒ヤン

=

ヴェルナー・ミュラー︵

Jan-W erner Müller

一九七〇年

る憲法研究者がいるドイツの国法学者学界であるが である︒後述するように︑日本に比べれば明らかに﹁政治的﹂であ は終始︑﹁権力の座についている人々に接近﹂することを目指したの −︶によれば︑シュミット る 憲法研究家でこのような政治問題にコミットする者は少なくなってい

Historikerstreit

国においても﹁歴史家論争﹂時には︑アカデミズムの 39︑その連邦共和

︵一九二五年 校のエリート・コースを経て中尉として迎えた︑わが師・川添利幸 まりにも﹁政治的﹂に過ぎるのである︒たとえば︑終戦を陸軍士官学 もあろう︒そのような立ち位置からすれば︑シュミットの立場は︑あ を分離し︑﹁科学﹂と﹁実践﹂の分離しようとする立ち位置の反映で 40︒それは︑﹁国法学・憲法学﹂において﹁法律学﹂と﹁政治学﹂

−︶は 価値相対主義的立ち位置を採ることとし 41︑戦後の価値転換に際して徹底した懐疑主義・

川添は最後に以下のことを付け加えて講演を締めくくっている 42︒その最終講義において︑

43︒

実定法の解釈は︑﹁科学﹂ではなく﹁実践﹂︵解釈者の主観的価値判断︶だ︑という見解があります︒これが︑ほんの一部の学者の特殊な意見ならともかく︑かなり広く行われているようです︒もし︑この見解が正しいとすれば︑私は︑大学の教壇から︑客観的な学問ではなく︑主観的な意見を学生に喧伝する︑実践活動をしていることになってしまいます︒それでよいのでしょうか︒もちろん︑政治的実践であっても︑研究者が学問上の真理を踏まえて理不尽な政治権力とたたかうことは︑名誉なことです︒美濃部博士︑ケルゼン︑ラートブルッフといった人々が︑ときの政治権力 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十九号

  ︵二〇二〇︶

一六

16

(9)

の不法とたたかった行為は︑まさにそのような性質のものでした︒しかし︑いわゆる﹁学問﹂が︑実は本当の意味での学問ではなく︑主観的な主張に過ぎないものだ︑ということになれば︑話は別です︒教壇から︑純真な学生諸君に︑﹁学問﹂の名において︑自分の主観的な政治論を喧伝することになってしまうからです︒私は︑かねがね︑このような不安を心のどこかに持ち続けてきました︒

したがって︑本稿においては︑カール・シュミットは︑あまりにも﹁政治的﹂であることから︑﹁叩き台﹂の役割として議論の対象とすることとする︒すなわち︑本稿においては︑﹁法律家としてのカール・シュミット

Carl Schmitt als Jurist

﹂を語るのであって︑﹁政治家としてのカール・シュミット

Carl Schmitt als Politiker

るからである ちらの方もわが国においては先行業績が相当数あり︑議論の蓄積があ デに直接︑つなげて議論を続けようと考えている︒前者と同じく︑こ シューレを引き継いだエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェル が多いので︑それらの論文に譲ることとしたい︒また︑シュミット・ いのである︒また︑シュミットそのものの理論の研究は︑先行業績 44を語るのではな

45︒   三  ヨーゼフ・イーゼンゼー

しかしながら︑ここでカール・シュミットのように︑﹁国家﹂の先行性を説くことができる人物を求めることが必要となる︒たとえ︑自由な国家が中立性を必要としているとしてでもある

うな内容価値の選択・判断を委ねるとしても 自由な国家が宗教や倫理などの内容価値に中立的立場を採り︑そのよ 46︒なぜならば︑

47︑その前提には委ねる 芒﹂を迎えているなどという見解に ﹁国家﹂など語る必要なし︑とか︑﹁国法学﹂という学問が﹁最後の光 い﹁国法学﹂は︑国法学らしさを欠くからである︒もちろん︑ここで 側の﹁国家﹂が必要であるはずだからである︒また︑国家の出てこな

の対応も見る必要があるだろう の統一の時間軸と軌を一にするので︑あわせて︑カトリック教会側 は︑国王による中央集権化と︑ローマ教会からの独立という﹁内外﹂ ことは理解してもらえたであろう︒いずれにせよ︑主権国家の成立 48︑わたしが与するものではない 光夫︵一九三六 49︒詳細は︑ここでは省略するが前田

−一九九七年︶の説明によれば

PP . XIII

在位一八七八年

Leo

50︑レオ一三世︵

: Ioannes PP . XXIII

ン語在位一九五八 −一九〇三年︶からヨハネ二三世︵ラテ

集された第二ヴァチカン会議 −一九六三年︶によって召 な社会的価値形成と価値創出の担い手である﹂ い﹂基本価値を︑宗教と宗教団体が﹁今日にあっても依然として重要 教会︑ここでは公会議は︑﹁国家が創出し︑基礎づけることのできな 51に至るまでの六〇年間の間に︑ローマ

で︑⁝国家と協調する準備のあることを表明﹂したのである

Konkordat

トによって﹁教会の自立性と自律性の要求の要求と並ん 52とし︑コンコルダー

ゆる﹁帝権二論﹂ 53︒いわ のである︒ ﹁国家﹂の存在はいまだその協働の﹁相手方﹂として否定できないも とを前提に︑両者の協働をはかるものである︒そうであるとすれば︑ 54に即したものであるが︑国家と教会が存在するこ

以上のことにより︑本稿は︑テオドア・マウンツ系統のヴァルター・ライスナー︵

W alter Leisner

一九二九年

Josef Isensee

ゼフ・イーゼンゼー︵一九三七年 −︶の弟子であるヨー げることにする︒ちなみに︑テオドア・マウンツは︑カール・シュ −︶の理論を取り上

一九八九

−二〇一九年までの日独国法学の進展と停滞

    中野一七

17

(10)

ミットの弟子ではないが

である 55︑シュミットと同じく保守主義の国法学者

Nawiasky

一八八〇

Hans

56︒マウンツの師匠は︑かのハンス・ナヴィアスキー︵

−一九六一年︶である

一九二〇

Günter Dürig

三者効力﹂論において︑ギュンター・デューリッヒ︵ ライスナーは︑わが国においては戦後︑初期の第一次﹁基本権の第 57︒そして︑ヴァルター・

−一九九六年︶の﹁間接効力説﹂に対する批判で知られてい

るが

よう︒ アップしたのは︑そのこともあるが︑以下の二点を挙げることができ 守的な学統を引き継いでいる︒ここで︑イーゼンゼーの理論をピック である︒ヨーゼフ・イーゼンゼーも︑このシューレの系譜を継ぎ︑保 58︑骨太の﹁国法学﹂︑とくに﹁国家論﹂について論ずる研究者

第一に︑第二次世界大戦後の﹁若者の反乱﹂︑﹁基本価値論争﹂および﹁歴史家論争﹂︑その延長ともいえる﹁ドイツの再統一﹂のいずれにおいても︑ヨーゼフ・イーゼンゼーは︑﹁保守的﹂な立場から積極的に発言していることである︒そして第二に︑そのいずれの時代においても︑その時代を﹁ドイツ国民の歴史的・文化的アイデンティティの危機﹂とし︑イーゼンゼーは︑戦後定着した﹁憲法パトリオティズム

V erfassungspatriotism

﹂を究極的・完全な根拠とするのではなく︑そこでに﹁倫理的基礎をもった国家の先行性﹂を説き︑コンセンサス説を主張していることである︒これは︑他方の﹁憲法パトリオティズム﹂の主張者との対立軸として検討するのに有用であると考える︒なお︑第二点について︑若干附言することとしよう︒まず︑歴史家論争における彼の態度を見る前に︑一九六七/六八年の﹁若者の反乱

Studentenbewegung, Jugendrebellion, Generationenrevolte

﹂に対するヨーゼフ・イーゼンゼーの立場を明らかにしておくこととしよ う︒三島憲一︵一九四二年

−︶によれば︑若者の反乱は︑大連立政権 が提出した﹁非常事態法﹂案︵厳密には﹁非常事態に関する基本法﹂

Notstandsverfassung

と︑食糧︑水︑交通などの保全のための﹁個別的非常事態法﹂

Notstandsgesetze

から成る︶に端を発している

は︑﹁国民を隷属状態に堕とす﹂という批判がおこる が︑これはわが国にも見られることであるが︑このような非常事態法 し︑その穴を埋める国内法を制定する必要があったのである︒ところ ち︑ドイツ連邦共和国が主権を回復するためには︑この条約を廃止 しての権利は︑いまなお占領国に留保されていたからである︒すなわ 関する条約﹂において︑非常事態等におけるいくつかの緊急措置に関 あたって︑占領軍と結んだ﹁戦争及び占領から生じた諸問題の調整に 邦共和国における米英仏の連合軍による占領状態が正式に終了するに 復﹂という憲法の問題であった︒なぜならば︑一九五四年︑ドイツ連 法案の意味は︑まさに﹁連邦共和国﹂の独立︑すなわち﹁主権の回 59︒この ミングの悪いことに︑この時期はベトナム戦争︵一九五五 60︒また︑タイ

−一九七五 年︶のたけなわな時期であり︑そんなときにルートヴィヒ・ヴィルヘルム・エアハルト︵

Ludwig W ilhelm Erhard

一八九七

Johnson

一九〇八

Lyndon Baines

首相は訪米し︑リンドン・ベインズ・ジョンソン︵ −一九七七年︶

とになる︒このような︑学生運動は︑この当時世界的に広がっていっ い︒そうすると︑親の世代が何を言っても︑貸す耳を持たぬというこ 親の世代は︑ちょうどナチス期を青年期に過ごしたものも少なくな 建体制に対する︑学生の恨みとなり︑暴力となって爆発する︒彼らの 律﹂ではないかと訝るのは当然のことであった︒それは大学内部の封 らず︑知識人もこの法律が﹁新植民地主義・新帝国主義に合わせた法 助を約束されることとなった︒そうであれば︑血気盛んな学生のみな −一九七三年︶大統領と会い︑ベトナム戦争への援 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十九号

  ︵二〇二〇︶

一八

18

(11)

たものである︒とはいえ︑その当時︑わたしは幼稚園児であったし︑浅間山荘事件︵一九七二年︶の当時は小学校低学年であったのだが︱三菱重工爆破事件︵一九七四年︶などの過激化した左翼運動というかたちでテロを感じることはあった︱︒ある意味で︑大学に入学したころは︑学生運動は表面上沈静化しており︑わたしをはじめ多くの学生は︑所謂﹁ノンポリ学生﹂

うに言う 機︑エートスの危機に直面して︑ヨーゼフ・イーゼンゼーは以下のよ 部外者は措くとして︑このような暴力を伴うアイデンティティの危 61であった︒とりあえず︑わたしのような

62︒

法治国家の本質は︑さまざまな法技術的技巧からなる︑ひとつのシステムに尽きてしまうものではない︒法治国家たるものは︑ただ道具だけではなく︑それらが仕えるべく定められた目的も含んだものである︒第一に︑その目的は︑国家の活動を限界づけることによって︑個人と社会を保護することである︒その目標が国家に対する防禦と︑国家の最小化であるならば︑憲法は︑おおよそ国家というものは不必要であると言い︑国家が枯死するように規定するだろう︒しかし︑法治国家というものは︑個人の自由のための︑ひとつの積極的任務をも包含しているのである︒つまりそれは︑ある人の自由と他の人の自由が並存できる条件を定立する任務なのである︒この条件のひとつが共同体の内的安全なのである︒⁝⁝ナチスという全体国家の体験から刻み込まれた︑法治国家の通常の理解によれば︑国家から防禦するという消極的構成要素が絶対視される傾向がある︒しかしながら︑テロリズムと内戦に類似している諸現象に直面することによって︑近時安全という積極的構成要素が公共意識として想起されるようになったのである︒ もっぱら︑法治国家を技術的側面においてのみ考察する者は︑倫理学は法治国家と無関係であるとか︑法律の限界を順守する限り︑基本権上の自由の現実化は︑すべて等価値なものであると言い︑もっぱら市民の法律に対する従順さに見出す傾向がある︒しかし︑共同体というものは︑内容に無関係な自由と︑形式的法律への従順さのみでは基礎づけられるものではない︒まさに︑自由な国家は︑その市民の情熱とエートスで生活するものである︒すなわち︑この二つのヨーゼフ・イーゼンゼーの指摘こそが︑日比野勤︵一九五三年

−︶の諸論攷を読んだ者ならば記憶される以下の指

摘である︒﹁自由な国家の生活基盤は道徳的文化であるが︑国家は︑これを生みださずに前提とする﹂なのである

Thomas Hobbes

マス・ホッブズ︵一五八八 ではあるが︑イーゼンゼーが﹁若者の反乱﹂時において︑あたかもト な主張こそが︑彼の理論の面白みであり︑また難解さでもある︒そう 63︒このパラドキシカル

Behemoth: Or the Long Parliament

議会﹄ タン革命に際して︑﹃ビヒモス︱あるいはイングランドにおける長期 −一六七九年︶がピーリ ていくことになる

Pražské jaro

反乱﹂も一九六八年の﹁プラハの春﹂によって鎮静化し にいることは読み取れるのである︒三島憲一によれば︑この﹁学生の 64を書いたのと同じよな立場

legalisierte W iderstandsrecht . Das

章の説明に譲ることとする︒その間︑ヨーゼフ・イーゼンゼーは れることとなる︒なお︑この﹁基本価値論争﹂は︑博論第一部第三 代の﹁基本価値論争﹂を経て︑それに引き続く歴史家論争に引き継が リズムは継続してのであるが︑その後︑一九七〇年代から一九八〇年 65︒もちろん︑その後においても部分的には︑テロ

である︒ 66以来︑積極的な発言をし続けてきたの

一九八九

−二〇一九年までの日独国法学の進展と停滞

    中野一九

19

(12)

歴史家論争の争点は︑再統一の夢の遠のいた﹁暫定国家﹂に住み︑ヨーロッパ統合も国境の壁を取り払うものでないと悟った連邦共和国の国民が﹁国家が提供することができぬのであれば︑ドイツ人は自らのアイデンティ

Identität

を何処に求めるのか﹂という問いであったのである

ある

Blut und Boden

秩序から﹁血と土﹂という観念を洗浄したとしてでも 67︒それは︑ナチス﹁不法国家﹂の反省により︑具体的価値 依って立つ故郷を失い﹂ 68︒すなわち︑ナチス・ドイツの過去ゆえに﹁ドイツ人は自らの

能なパトリオティズム﹂は﹁憲法パトリオティズム﹂であるという も認めている︒このように︑イーゼンゼー自体も現在において﹁可 に自らの精神的統一を見出そうとする﹂とヨーゼフ・イーゼンゼー 69︑﹁連邦共和国のドイツ人は︑基本法のなか

おけるデセンサスの増大の問題である センサスは増大する︒﹂すなわち︑﹁憲法パトリオティズム﹂の解釈に 治主張が︑自らの正当性の基礎を基本法に求めるので︑それだけディ る︒イーゼンゼーによれば︑﹁憲法パトリオティズムは︑あらゆる政 問題は︑ドイツ国民の表面上の︑基本法に対するコンセンサスであ 70︒ の先行性である の﹂の復権を唱えたのである︒これこそが︑イーゼンゼーが説く国家 のにするために︑イーゼンゼーは︑﹁立憲国家における国家的たるも 喜ぶのではなく︑この国家の脱統合を防ぎ︑コンセンサスを確実なも 71︒ゆえに︑多元化を手放しに

語﹂という言語にもとめる論文も書いている ゼーは︑東西ドイツ人のアイデンティティとコンセンサスを﹁ドイツ 72︒このような考えから︑ドイツ再統一後︑イーゼン

た成立しえないからである︒

Res Public

﹁共和制﹂の国民のアイデンティティもコンセンサスもま 疎通︱が成立しないのであれば︑そもそもドイツ連邦共和国という ツ語﹂を通して行われる﹁コミュニケーション行為﹂︱相互間の意思 73︒なぜならば︑﹁ドイ    四ロベルト・アレクシー

三人目に採り上げるのは︑ロベルト・アレクシー︵

Robert Alexy

一九四五年

−︶である︒ちなみに︑アレクシーの師匠は︑国法学・憲 法学者というより︑法哲学・法理学者のラルフ・ドライアー︵

Ralf Dreier

一九三一

Matthias Jestaedt

イェシュテット︵一九六一年 興味深い︒また︑ヨーゼフ・イーゼンゼーの弟子であるマティアス・ とベッケンフェルデはシューレ的には同じ系統に分類されることは ス=ユリウス・ヴォルフである︒そういった意味では︑アレクシー エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの師匠でもあるハン −二〇一八年︶である︒実は︑ドライアーの師匠は︑

Kieler Schule

シーの弟子までを含めて﹁キール学派﹂ −︶によって︑アレク

ずることとする

Abwägungslehre

らの﹁比較衡量﹂論は批判されていることも後に論 74と呼ばれ︑彼

Günther Patzig

生時代に哲学者ギュンター・パッチッヒ︵一九二六 75︒加えて︑アレクシーは︑ゲッティンゲン大学の学

二〇一八年︶の下で論理学を学んでいることもあり︑その論文は論理学記号を多用して記述されることも多い

いう観点の関心もあるが︑以下の三点を挙げることができよう︒ うな原理論︵ここでは︑原理理論のことではない︶からアプローチと ろう︒ここで︑アレクシーの理論をピックアップしたことは︑このよ 説明してきた国法学者とは︑かなり異なったものであるといえるであ 76︒いずれにせよ︑ここまで 第一に︑ユルゲン・ハーバーマス︵

Jür gen Habermas

一九二九年

ためであった討議理論を︑立憲国家にも広く適用するよう鼓舞し﹂︑ −︶自身が言うように︑アレクシーは︑ハーバーマスの﹁道徳の 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十九号

  ︵二〇二〇︶

二〇

20

(13)

自身の理論を構築したことである

Begründung

﹂である

Die Theorie des rationalen Diskurses als Theorie der juristischen Theorie der juristischen Ar gumentation.

の博士論文﹁法的議論の理論 77︒この論文こそが︑アレクシー る は︑﹁法的平等と事実的平等の弁証法を理解するのに役立った﹂とす

Theorie der Grundrechte

レクシーの教授資格論文﹁基本権の理論﹂ 78︒それだけではなく︑ハーバーマスは︑ア

である の義務論的理解﹂を提案していることに︑一定の理解を示しているの 79︒さらに︑ハーバーマスは︑その論文の中でアレクシーが﹁規範 にするだろうと考える︒ く︑同時に︑アレクシーと︑ハーバーマスのその態度の違いも明らか の憲法上の﹁価値﹂・﹁原理﹂の衝突に対する態度の違いだけではな なる理論構成を行うことになる︒それは︑シュミットと︑アレクシー ﹁立憲国家﹂に﹁規範上﹂適用することで︑カール・シュミットと異 80︒以上のように︑アレクシーは︑ハーバーマスの討議理論を

第二に︑ロベルト・アレクシーは︑ロナルド・ドウォーキン︵

Ronald Dworkin

一九三一

Hart

一九〇七

Herbert Lionel Adolphus

ト・ライオネル・アドルファス・ハート︵ 哲学・法理論との交流をはかるものである︒アレクシーは︑ハーバー −二〇一三年︶の﹁原理理論﹂等の英米法 を ケース﹂の解釈についてドウォーキンが提唱した﹁原理理論﹂ −一九九二年︶との論争において︑特に﹁ハード・

た ちに﹁ルール/原理/手続モデル﹂からなる﹁原理理論﹂を確立し 81︑なお徹底性を欠くとして自らの﹁ルール/原理モデル﹂︑の

これまでのドイツ語圏に限定された議論のみならず︑英語圏・スペイ 訳がなされ︑議論の裾野が飛躍的に拡大したのである︒したがって︑ 82︒このような︑彼の理論は︑今世紀に入り︑英訳などの多くの翻 る

Mundlichkeit

る裁判を︑﹁口頭弁論﹂に基づく民事裁判においてい ことであるが︑連邦憲法裁判所の﹁憲法裁判﹂も︑その﹁原型﹂た 局構造を︑想定できるモデルを提示すべきではないか︒別稿で示した 決﹂を下すことによって︑事件を解決するのであれば︑そのような三 以上︑訴訟当事者AとBの論証に基づき︑第三者たる裁判所が﹁判 を生じさせると批判を加えた︒しかしである︒憲法裁判も裁判である 較量﹂は﹁司法権の拡張﹂を生じさせるとか︑全領域への﹁憲法化﹂ とになる︒これに対して︑アレクシーの批判者は︑このような﹁比較 煎じ詰めれば一方の原理Aと︑他方の原理Bの﹁比較較量﹂というこ として把握したことである︒ゆえに︑アレクシーの﹁基本権論﹂は︑ 憲法問題︑つまり基本権問題を終局的には原理を最大限実現する問題 理理論﹂において重要な点は︑簡単に言ってしまえば︑アレクシーが ン語圏においても盛んに議論されるようになっている︒そして︑﹁原

人権の基礎を﹁人間の尊厳﹂ けている︒すなわち︑それはアレクシーがそのような土俵において︑ としての関与者の﹁人権の平等﹂︑あるいは﹁平等の権利﹂を位置づ ば︑真のコンセンサスは得られない﹂として︑手続におけるその基礎 自分より劣っているからということで︑反論を認めないとするなら ス論証﹂から︑﹁自らの主張の理由づけが不充分なのに︑対話相手が ﹁ルール/原理/手続モデル﹂に依拠し︑アレクシーは︑﹁コンセンサ ても︑否︑現在であるからこそ︑その重要性を増している︒自らの 83︒このことは︑﹁公開性の原理﹂との結びつくことで現在におい

84や﹁人権の平等﹂

較衡量により基本権を確定するというものである

Spiel von Grund und Gegengrund

証と反対論証のゲーム﹄としての比 85におくことで︑﹃論 でに何回も言及してきた︑カール・シュミットの﹁価値による専断﹂︑ クシーの主張は︑当然のことながら︑批判に晒されるのであるが︱す 86︒このようなアレ

一九八九

−二〇一九年までの日独国法学の進展と停滞

    中野二一

21

(14)

あるいは﹁憲法の番人﹂論︱︑それ自体が争点を生むものであり︑また︑具体的な裁判と結びつくものであるので︑本稿で採り上げる意味がある︒

第三に︑わが国におけるロベルト・アレクシーの原理理論の導入の経緯の問題がある︒一九九〇年前後からわが国においてもアレクシーの﹁ルール/原理/手続モデル﹂に基づく基本権理論の研究が行われるようになり︑わが国の憲法学会においてもそれは現在︑一定の支持者を得ていることが挙げられよう︒その理由として︑初期アレクシー理論の紹介者である亀本洋︵一九五七年

判は当たらないとする︒ の正当化が合理的な法的討議を通じてなされるかぎり︑そのような批 決断の過程ではなく︑正当化の過程と捉え︑原理間の条件付優先関係 が再三再四提出されてきた︒これに対してアレクシーは︑比較衡量を 衡量が判決の合理的コントロールを可能にする方法ではないとの異議 値の比較衡量を支持する立場をとっているが︑それに対しては︑比較 なルールが確立される︒⁝連邦憲法裁判所も︑そうした原理ないし価 件の下でいずれの原理が優先するのかを確定することによって︑新た の原理相互が衝突する場合︑原理間の比較衡量を通じて︑いかなる条 の規範として把握し︑両者を質的に区別する︒個々の事件で基本権上 性に関する確定を含むがゆえに︑充足されるかされないかのいずれか れることを要求する規範︑他方︑ルールを︑法的可能性と事実的可能 が法的可能性と事実的可能性と相関的に可能なかぎり高い程度実現さ 紹介が大きな影響を与えている︒﹁アレクシーは︑原理を︑あること −︶の以下のような

テーマを︑連邦憲法裁判所の判例の分析と結びつけることにより︑実 の理論の紹介が︑本来的には法哲学・法理学に止まる可能性があった 87﹂すなわち︑アレクシーと︑亀本による彼 部信喜︵一九二三 然も大きく作用していると思われる︒戦後︑わが国の憲法学界で芦 国においてアレクシーの原理理論が採り上げられたのには歴史的偶 定法学者の関心をも引くことになったのである︒また同時期︑わが

れる 行う法原理的な決定に当事者が拘束されるという構造である﹂とさ 争うことを前提にして︑公平な第三者たる裁判所がそれに依拠して の当事者がそれぞれ自己の権利義務をめぐって理をつくして真剣に 部門﹂論であった︒佐藤幸治によれば︑﹁﹃司法権﹄とは具体的紛争 な影響力があった︒その中で︑一番の影響力があったのは﹁法原理 憲法的﹁人権﹂概念の基礎付けと︑実定法憲法の区別には年代大き してきた佐藤幸治の展開する﹁法原理部門﹂としての司法権論︑超 −一九九九年︶と共に︑合憲性審査基準論を牽引 るのは誰か﹂という基本価値論争の三つの問題点のうち かなる形体のものか﹂そして﹁国家がかかわる価値の内容を決定す 価値の領域とかかわりをもちうるのか﹂︑﹁国家がかかわる価値はい なった︒これは明らかに日比野勤が整理した﹁自由な国家はおよそ ら︑アレクシーの原理理論も司法権の説明において利用されることに とながら︑それは佐藤の﹁司法権=法原理部門﹂の説明であったか が国に紹介されたのがアレクシーの原理理論なのである︒当然のこ は難解な説明であると言われてきた︒この間隙を縫うかたちで︑わ 浸透しておらず︑この﹁法原理部門﹂とは何かということに対して 88︒一九八〇年代前半は︑ロナルド・ドウォーキンの原理理論が

Discursive democracy

緊張関係を﹁熟議民主制﹂を以って説明してい 例えば二〇一五年の雑誌論文において︑アレクシーは国民と議会の 二の問題点から第三の問題点へと争点が移動したことを示している︒ 89︑第一・第

Ar gument

ではなく︑﹁議論︵︶﹂も包摂したものであるとする︒この

Entscheidung

90︒この論文において︑彼は︑民主制が﹁決定﹂だけ 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十九号

  ︵二〇二〇︶

二二

22

(15)

ればならず︑その便宜のために本務校の紀要に︑その一部を基にした論文を発表させてもらった︒

この三〇年間のドイツの国法学をカール・シュミット︑ヨーゼフ・イーゼンゼーおよびロベルト・アレクシーのシューレの三派に分けて論述することは︑それなりの意義があったのではないかと自負するところである︒とくに︑後者の二人がどうして日本に紹介されるようになったかの経緯の紹介については︑口頭試問においても一応の評価をいただいた︒詳述は避けるが︑三人の紹介を通じて﹁市民法治国家パラダイム﹂↓﹁社会国家パラダイム﹂↓﹁共和制国家パラダイム﹂の移行過程と︑その現在の﹁処方箋﹂は示せたと自負するところである︒

最後に︑最近の翻訳書の﹁序﹂のなかで田中宏之︵一九八五年

−︶

はイーゼンゼーを﹁カトリック教徒にして︱いわゆるシュミット学派の系譜に連なる代表的論者である﹂

位置付けを考えるにも重要である︒ 年二月二四日に死去した︑シュミットシューレのベッケンフェルデの 大きいと言えるからである︒とりわけ︑それは平成最終年の二〇一九 官に求めることの多いドイツにおいてはこの学派の有する意味はなお なってきている現在︑それでもそのアイデンティティを大学や指導教 法学者においても若手の研究者がアメリカの大学で学位を得るように 流れを汲むシューレに属しているとしたい︒なぜならば︑ドイツの国 あるのだがやはりここは本論で示したように︑テオドア・マウンツの 95としている︒確かに︑そうでは

︵茨城大学教育学部社会科教育教室  令和元年八月三〇日受理︶ ようにして︑彼は﹁決断主義モデル﹂の有する問題点を回避しようと試みている︒特に︑ドイツ連邦共和国においては憲法裁判所が存在するだけに︑彼の地においてはこの問題は重要である︒なぜならば︑﹁国民の名において

im Namen des Volkes

﹂︵基本法二〇条一項︶

に堕する危険性を孕んでいるからである 基づいて連邦憲法裁判所が判決を下すことは︑﹁純粋な裁判官王国﹂ 91に 一九〇二

Martin Drath

らばこの問題は︑一九五二年のマルティン・ドラート︵ 92︒さらに︑考えてみるな

−一九七六年︶︱彼は︑ヘルマン・ヘラーの弟子なのである

が︱の﹁連邦憲法裁判所﹂と﹁学説﹂の役割分担の問題の言及とも関係してくることになる

シーを取り上げる理由である︒ 93︒以上のことが︑第三のロベルト・アレク   五  結びにかえて

本稿は︑昨年九月に京都大学から授与された博士学位論文  中野雅紀﹁基本権価値・原理の衝突とその規範分析︱基本権構造論の諸問題︱﹂

である︒博論公開は︑学位規則第九条第二項により要約公開 秩序論﹂をメイン・テーマとして学位論文を仕上げようと考えたから イツの﹁国法学﹂を振り返りつつ︑これまでの﹁基本権論﹂や﹁憲法 ﹁平成﹂から﹁令和﹂への移行期であり︑約三〇年間のわが国と︑ド 論﹂だけでもこの四倍から五倍あるからである︒執筆時は︑ちょうど 頁あたりを換算すると︑博士論文は全体で五百頁を超え︑また︑﹁序 のまま本稿にしているわけではない︒その最大の理由は︑本論文の一 94の﹁序論﹂を基にしている︒当然のことながら︑﹁序論﹂をそ

; 許諾条

件により要約は二〇一九

−〇三

−二三に公開となったが︑全体を見る

ためには国立国会図書館および京都大学図書館に出向いてもらわなけ

一九八九

−二〇一九年までの日独国法学の進展と停滞

    中野二三

23

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一九七四年︶二六 1カール・シュミット/阿部照哉・村上義弘共訳﹃憲法論﹄︵みすず書房︑

−二七頁︒カール・シュミットにとっては︑ヴァイマール

期の倫理︑およびそれに基づくヴァイマール共和国体制は︑﹁究極的・直接的な最終的なもののために︑無限に先送りするためのものに過ぎない︒﹂すなわち︑その倫理は﹁一種の総日的な価値相対主義に過ぎないのである︒﹂

︵一八九〇 2戦時中︑京都帝国大学法学部の憲法学講座を担当したのが森口繁治

−一九四〇年︶

門下の大西芳雄と︑黒田覚︵一九〇〇

−一九九〇年︶

であった︒京都学派は︑法実証主義的研究が支流であると思われているが︑大西は本文のようにそうではなかった︒ゆえに︑大西は︑﹁概念法学︑法実証主義に対する批判的見地に立って︑実定法の基礎にあるものに関心を向け︑比較法的研究等を通じて︑憲法の根底にある原理や憲法上の諸制度の理論的・機能的基盤を究明しようとした⁝佐々木に代表される京大公法学の学風とは異なる︑もう

百年史編集委員会﹃︻部局史編 一つの学風を象徴している﹂と評されることも多い︵京都大学

第一四四巻三号︑第一四五巻四号︑一九九八年︑一九九九年︶を参照のこと︒ 定権力論の日本的変容︱︱黒田覚に即して︱︱︵一︶・︵二・完︶﹂︵﹃法学論叢﹄ とウィーン学派の研究で知られる黒田の研究については︑須賀博志﹁憲法制 都大学︑一九九七年︶三二〇頁︶︒ちなみに︑純粋法学のハンス・ケルゼン

1

︼第四章大学院法学研究科・法学部﹄︵京

3大西芳雄﹃国家と法律﹄︵秋田屋︑一九四四年︶三二

−三三頁︒

gehalten in der juristischen Gesellschaft zu W ien, W ien 1898 Vgl. Geor g Jellinek, Das Recht der Minoritäten. Vortrag

一九四六年︶に所収︒   ゲオルグ・イェリネック︵美濃部達吉訳︶﹃人権宣言論外三篇﹄︵日本評論社︑ 4ゲオルグ・イェリネック︵美濃部達吉訳︶﹁少数者の権利を論ず︵一八九一︶﹂

メントと呼ばれるものである︒後者については︑拙稿﹁ジャン・ボダンの国 5いわゆる︑前者がオリジナル・インテントと呼ばれ︑後者がプリコミット 幣と通貨の法文化﹄︵国際書院︑二〇一六年︶二二一 家の貨幣鋳造権といわゆる〝プリコミットメント〟理論について﹂林康史編﹃貨

完﹂﹃法学論叢﹄一六六巻四号四九 ﹁原意主義の民主政論的展開︱︱民主的憲法論の一つの形︱︱︵一︶〜︵三︶ 訳されてきた︒この﹁法原意主義﹂については︑最近の著作として松尾陽  

I000007884220-00

なお︑オリジナル・インテント論は︑﹁法原意主義﹂と

https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-

一号・二号︑二〇〇七年︶︒ 法学におけるプリコミットメントの意義︵一︶︵二・完︶﹂︵﹃法学﹄第七一巻 おけるプリコミットメント理論についての優れた業績として︑佐々木くみ﹁憲 −二五二頁︒わが国に

−七五頁︑

同一六七巻三号九八

−一一七頁︑

同一六七巻五号四二

−六四頁   二〇一〇

−二〇一一年︶

  ①﹁連結︱絶対的保障﹂説玉蟲由樹︵一九七〇年 の学説に分類される︒ 6ただし︑この﹁人間の尊厳の尊重﹂の﹁保障領域﹂説は︑通常以下の四つ

  ②﹁分離︱絶対的保障﹂説玉蟲の説明によれば︑この説の代表的論者は︑ と動態︱﹄︵尚学社︑二〇一三年︶七三頁︶︒ 評価する︵玉蟲由樹﹃人間の尊厳保障の法理︱人間の尊厳条項の規範的意義 それゆえ︑玉蟲は直截に︑この説は﹁尊厳なき人間の生﹂を否定していると

Menschenwürde. An den Grenzen von Ethik und und Recht. Köln,2002,S.62f.

OtfrieoV Honnefelder , Ludger/Isensee, Josef/Kirchhof, Paul: Gentechnik und J.Isensee,Der grundrechtliche Status des Embryos. In: Höffe,

前提である︒﹂︵ 間の尊厳は︑あらゆる規範や法的価値の前提であり︑それゆえ︑基本権の とから︑その両者を分離することはできない︒イーゼンゼーはいう︒﹁人 があり︑また︑人間の尊厳やその生命の保障をとりわけ重要視しているこ イーゼンゼーの基本権理論は︑その基底にトマス・ホッブズ的社会契約論 この説の代表的論者は︑ヨーゼフ・イーゼンゼーである︒前述のように︑ −︶の説明によれば︑ 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十九号   ︵二〇二〇︶

二四

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