デューイにおける成長としての教育の概念
関 勤
(1980年10月20日受理)
On the Concept of Education as Growth
16J・hn Dewey
Tsutomu SEKI
(Received October 20,1980)
1 デューイ教育思想における真髄
『民主主義と教育」の第二四章「教育哲学」において,著者デューイは,教育哲学概論と副題をつ けている本書の論理的構成をつぎのように整理している。まず,第一章より第五章までの諸章は第一 部としてまとめられるものであり,そこでは,社会の必要および社会の機能としての教育の問題が論 じられている。つぎに第六章より第一七章までの諸章は第二部としてまとめられるものであり,そこ では,民主的社会の発展のための教育は,経験の連続的な再構成あるいは再組織としての教育である ことが明らかにされている。さらに,第一八章より第二三章までの諸章は第三部としてまとめられる ものであり,そこでは,第二部において提示された教育の民主的標準の実現を,現在制限しているい ろいろの観念がとりあげられている。
以上は,きわめて形式的に,また概括的に,デューイ自身による『民主主義と教育』の論理的構成 についての説明を叙述したのであるが,本書の第二四章の冒頭において,デューイが自己の著書の叙 述をそのように整理してみせた理由について,大浦 猛博士は,「教育に関する組織的な論述はほぼ 前章までで終わり,以下は哲学的な論議の場所であると考え,ここで長い考察を総括するために,ホ
1)一ソが踏襲したような区分を示したのである」と解釈せられている。
さて,第一部,第二部,第三部のそれぞれにおいて,デューイは何を主張しようとし,また,自ら 何を明らかにしえたとするのであるか,もう少しくわしくこの哲学者の説明をきくことにする。
第一部においては,社会の必要および社会の機能としての教育の問題が論じられていることは前述 したとおりであるが,これらの諸章の目的は,「社会集団がその存在を維持するための過程としての 2)
ウ育の一般的特徴を概説することである」とされ,つづいて,そこでは,「教育は,一一方では成人と 年少者との通常の交際,すなわち,相互交渉に附随するところの,また,他方では社会の連続性を維 持するために慎重に制度化されたところの,伝達の過程による経験の意味の更新の過程であることが 示された。この過程には未熟な個人,および彼がその中に住んでいる集団,の両者の統制と成長とが 3)
モくまれる」ことが明らかになったと述べられている。なお,デューイは,社会の必要および社会の 機能としての教育に関する以上の論述はあくまでも,教育についての形式的な考察の結果であり,教育 についての一般的な特徴の概説であり,一般論であると認めている。そこで,この形式的な考察の結
果,概説された一般的特徴,すなわち,一般論が適用されるべき社会の性質に関しては,「単に既成 の慣習を保存することのみを目的とする社会から区別されたところの,進歩的であることを意図し,
4)しかも,非常に多様の相互に共有された興味を成員に与えることを目的としている社会集団」と規定
し,前述の一般論がこのような性質の社会に適用されることによって,特別の意味をもつのであると 主張している。この場合,このような性質の社会をデューイは,民主的な性質の社会と判断するので あるが,その理由として彼は,そのような社会は「上層階級の支配の下で作用する慣習の力に主に頼 るようなことをせずに,構成員に一そう大きな自由をゆるし,意識的に社会化された関心を一人ひと りにいだかせることの必要を意識しているヨから,質的に民主的な社会であることが分かると説明し ている。以上,第一部において展開されたデューイの教育思想の中心と呼ぶべきものは,民主的社会 の発展にとって適切である教育ということであり,それは,『民主主義と教育』において,このあと,
彼が教育についてのより詳細な分析をする場合の標準として最も明白に意識しているものである。
第二部においては,民主的社会の発展のための教育は,経験の連続的な再構成あるいは再組織であ ることが明らかにされていることは前述したとおりであるが,この命題の意味はつぎのように解釈さ れている。より詳しく教育を分析するための判断基準としてやくにたつ民主的社会の発展に適するよ うな教育を求めて,民主的な基準に基づく分析を進めてゆくと,民主的な社会の発展に適するような 教育のあり方は,結局,経験の連続的な再構成あるいは再組織という理想を暗示している。そのうえ この経験の連続的な再構成あるいは再組織は,「一般に認められている経験の意味,すなわち,経験 の社会的内容を増し,経験の再組織を指導する管理者として行動する個々人の能力を増すような性質 6)
フものである」ことが明らかにされているとするのである。なお,デューイは,経験の再構成あるい は再組織にふくまれる二つの性質,すなわち,一般に認められている経験の意味(経験の社会的内容)
を増す性質と経験の再組織を指導する管理者として行動する個々人の能力を増すような性質,の区別
(特質)を用いて教材および方法のそれぞれの特性を概説したと述べている。また,デューイは,こ の区別(特質),すなわち,経験の再構成あるいは再組織にふくまれる二つの性質,社会的意義と個 人的能力との二つの性質は,教材と方法との両者を統一するものであると言う。なぜなら,この基礎,
すなわち,経験の社会的内容を増すことと個々人の能力を増すこと,に基づく研究や学習の方法は,
意識的に指導された経験の内容の再編成の動きにほかならないからと認めるのである。彼は,この観 点,すなわち,教材と方法との統一という観点から,学習の方法および教材の主要な原理を展開する ことができたとまとめているのである。
第三部においては,第二部においた提示された教育の民主的標準の実現を,現在制限しているいろ いろの観念がとりあげられていることは前述したとおりである。この教育の民主的標準の実現を,現 在制限している観念として,この碩学によって指摘されたものは,「経験はさまざまの,互いに分離 した領域あるいは関心から成り立っており,また,それらの領域あるいは関心は,それぞれ自体の独 自の価値,材料,および方法をもっており,また,それぞれが他のすべてを抑制しており,さらに,
それぞれが他のものによって適当に制限されているならば,教育における「力の均衡」といったもの 7)
ェ構成されるという考え」,である。これは,デューイによって,誤っている経験についての観念で あると烙印をおされたものである。そこで,デューイは,このような誤れる経験観がいかにして生じ たかについて分析を進め,実際的な面では,多かれ少なかれ,厳密に区別された社会階級や集団に社 会が分裂していること一言い換えれば,十分で柔軟な社会的相互作用や人間関係が阻害されている こと一に原因があることが分かったとしている。さらに,このような社会的連続性の断絶は,この ような断絶を合理化するために,さまざまの二元論とか二元的対立一労働と閑暇,実践的活動と知
的活動,人間と自然,個性と共同生活,教養と職業,等の対立一という知的な,系統的な論述や表
現をとっていることが知られる。そして,これらの現代の論点が,単に現代の論点としてのみあらわ れたものではなくて,遠く古典的な哲学体系の中で構成されていた系統的論述として,その片割れを もっていることが洞察されている。しかも,これらの片割れは,精神と物質,肉体と精神,個人とそ の他者に対する関係,等のごとき哲学の主要な問題をふくんでいることも認識されている。かくして,デューイは,これらの種々の分裂や対立の基底にある基本的仮定(それは誤っている経験観の基本的 仮定でもある)は,物質的諸条件や身体的諸器官や物質的諸装置や自然的諸事物をふくみこんでいる 活動から精神を切り離すことにあること,を明晰判明なものとして把握しえたとしている。このよう な古典的哲学に対する批判的見地に立つことによって,デューイは,自己の主張する新哲学を,「環 境を制御する活動の中に,精神の起源や位置や機能を認める」哲学として,提示することになる。な お,デューイは,この自己の主張する新哲学を,本書の第二五章「認識の理論」において,認識の方 法についての理論であると認め,それをプラグマティズムと呼んでもよいとし,その本質的な特徴は,
「認識と,環境を意図的に改変せんとする活動との連続性を維持すること」にあると明言している。
これまで,『民主主義と教育』の第二四章にあらわされている,デューイ自身による本書の論理的 構成についての説明,あるいは,自己の論述についてのデューイ自身の整理の仕方に関して述べてき たわけである。なお,第二四章においてデューイが論及しなかったことは当然であるが,第二四章か ら第二六章までの終わりの三章は,第四部としてまとめられるものであり,それは彼の教育について の哲学の解説を内容として構成されている。
以上のr民主主義と教育』の論理的構成を個条書にして示すとつぎのようになる。
第一部,(冒頭の五章まで) 社会の要求・社会の機能としての教育
第二部,(六章から一七章まで) 民主的社会の発展のための教育は,経験の連続的な再構成あ るいは再組織としての教育であること
第三部,(一八章から二三章まで) 教育の民主的標準の実現を制限している観念 第四部,(二四章から二六章まで) 教育の哲学
上記のような『民主主義と教育』の論理的構成についてのデューイ自身の説明,あるいは,自己の 論述についてのデューイ自身の整理の仕方に対して,前述した大浦 猛博士は,
「せっかくのデューイのまとめ方ではあるが,彼自身の思想の教育学的な要点を一般に理解させる ためには,少し修正を加えた方がよいと私は思う。例えば,最初のまとまり(社会の要求・機能とし ての教育)の中に第四章(「成長としての教育」)が入っているけれども,その論点は独自のもので あり,それと密接に関連して第五章,六章が続いているから,この部分を初の三章から分離すること が考えられてよい。また,第二部として括られたところでは,デモクラスィの概念を検討した後に,ま ず教育の目的を考え,続いてそのための方法が探究されている。そしてその方法の問題は,第三部と されているところでも論ぜられており,その第三部のねらいとされていることも,厳密に言えばここ だけのものではない。
そこで,私は次のようにまとめてみた。一,社会生活と学校教育との関連(冒頭の三章),二,教 育のあり方(第六章まで),三,民主的な社会生活と教育の目的(第九章まで),四,教育の方法,
8)五,教育の基底における哲学的な問題,である」
と批判および修正案を提示せられ,そのまとまりごとに,デューイの独自な主張をはっきりさせてゆ きたいと述べられている。
いま,r民主主義と教育』の論理的構成に関するデューイ自身の説明,あるいは,自己の論述につ
いてのデューイ自身の整理の仕方に対する大浦博士によって提示せられた修正案の可否について論評 する資格を筆者はもっていない。なぜなら,『民主主義と教育」の論理的構成に関し,デューイの整 理の仕方と実際的内容との対応関係を全体的に厳密に検討する作業を行っていないからである。した がって,大浦博士の提示せられた修正案について全体的にその可否を論ずることはさし控えねばなら ない。だが,しかし,デューイが第五章までを第一部としてまとめ,さらに,第六章を第二部にふく まれるものとして整理したのに対して,大浦博士が修正をほどこして,一,社会生活と学校教育との 関連,(冒頭の三章まで),二,教育のあり方(第六章まで)と括りなおした点については,全面的 に賛意を表することができる。第一章「生活の必要としての教育」,第二章「社会機能としての教育」,
第三章「指導としての教育」の諸章は,大浦博士の修正案にしたがって, 「社会生活と学校教育との 関連」を論述したものとみることもできるし,あるいはまた,デューイ自身が整理した「社会の要求
・機能としての教育」を叙述したものともみることができる。しかし,第四章「成長としての教育」
と第五章「準備説・開発説,および形式陶冶説」とは,デューイの整理の仕方にしたがって,第一部
「社会の要求・機能としての教育」の範疇に所属せしめることには,どうしても違和感がともなうの をまぬかれない。内容が違うのである。さらに,第六章「保守および進歩としての教育」を第四,五 章から切り離して,デューイのまとめの第二部に編入することは,最も不自然である。たしかに,第 六章の第三節では,再構成としての教育の本質が語られ,デューイが整理した第二部の内容一民主 的社会の発展のための教育は,経験の連続的な再構成あるいは再組織であること一と一致している のであるが,第六章は第四章,第五章とまとめられて,切り離すことのない一連の文脈の中でその意 味が探究されるとき,はじめてその真意を把握することができるのである。したがって,大浦猛博士 の提示するように,「教育のあり方」(経験の連続的再構成)を説く部分とされるのが妥当と思われる。
さらに,『民主主義と教育」におけるこの第四,五,六の三章の占める意義を積極的に言うならば,
デューイの独自の教育観が見事に浮き彫りにされている部分と認められるということである。それ以 前の諸章の内容とも,それ以後の諸章の内容とも異なるデューイ教育学の本質がこの三章に凝集して いることが感得せられるということである。もちろん,本書における各章の叙述,あるいは,前述し た各部の叙述が全体として脈絡一貫したものであり,統一と系統性を保持しているのであるが,特別 にこの三章においてはデューイの教育観の面目が躍如としていることが感じられるのである。具体的 な内容は後述するとして,デューイは,第四章において,自己の教育観の中心,あるべき教育の姿を
「成長としての教育」と規定してその真姿を率直に主張している。この章における「成長としての教 育」観の主張が,転じて第五章における他の諸教育学説の批判,すなわち,準備説,開発説,形式陶 冶説の批判を行う場合の標準や立場を提供するのである。さらに,第四章における「成長としての教 育」観は,第六章においても,精神の形成としての教育説,および反復および回顧としての教育説の 両説を批判する場合も標準や立場として自己の主張点を明確にしており,それが「再構成としての教 育」として明瞭に表現されることになるのである。デューイにおいては,「成長としての教育」と
「経験の連続的再構成あるいは再組織としての教育」とは,本質的には同一のものを意味しているの であろう。しかし,デューイは,自己の教育についての定義を,とくに専門的な定義とことわって述 べたとき,「教育とは・経験の意味を増加させ,,≠の後の経験の進路を方向づける能力を高めるよう に,経験を再構成あるいは再組織することである」と断定しているから,デューイにおける教育の定 義は,「経験の連続的再構成あるいは再組織」,略して「経験の連続的再構成」と表現されるのが正 当であろう。経験の連続的再構成という教育概念こそ,デューイ教育思想における真髄であると思わ れる。そして,それの基本骨格は,『民主主義と教育』の第四,五,六の三章に全容がおしみなくあ
■
らわされていると思われるから,この三章は切り離すことなく一体をなすものとして検討されなけれ ばならない。
皿 「成長としての教育」と「経験の連続的再構成としての教育」
これまでの論述において,デューイの教育学の主要著作と目される『民主主義と教育』においては,
第四章「成長としての教育」,第五章「準備説,開発説,および形式陶冶説」,第六章「保守および 進歩としての教育」の三章が,「教育のあり方」を説く部分として整理され,それは実質的には,「成 長としての教育」観および「経験の連続的再構成としての教育」観を表明する部分であることがたし かめられるとされてきた。
さらに,この三章は,デューイの独自の教育観が見事に浮き彫りにされている部分と認められると 積極的に附言されたり,デューイ教育学の本質が凝集していることが感得される部分であると認めら れたりしてきた。そして,結論として,この三章に述べられている教育概念,すなわち,成長として の教育の概念や経験の連続的再構成という教育概念こそ,デューイ教育思想における真髄であると認 定されてきたわけである。
われわれは,この三章の内容の検討を通して,成長としての教育の概念や経験の連続的再構成とい う教育概念,すなわち,デューイ教育思想における真髄を明らかにしたいと思う。
成長の意味と条件(未成熟観,児童観)
デューイは,後代の社会の性質と現代において子どもたちの活動が受けつつある指導とは,緊密に 結合し連続し,前者は後者によって規定せられるとの見地から,「後に現われる結果に向かって進行 10)
キるこの行動の累積的変化こそ成長の意味するものである」と説き,成長の意味(概念規定)を簡潔 に示したうえで,ただちに,「成長の第一の条件は未成熟である」と,成長の条件の分析へと論述を 直進させている。この場合,デューイの強調点は,未成熟期(幼少期)をどう認識するかの基本的態 度,基本的観点の問題に傾注されている。すなわち,それは,未成熟を成長の可能性を意味するもの
として,換言すれば,現在積極的に存在しているカー発達する能カーを表現するものとしてとら
えるか,それとも,未成熟を単なる欠如とみなし,成長を未成熟と成熟との間の間隙を埋めるものと みなすか,の二者択一の根本問題である。それは同時に,いかなる児童観をもつかの基本問題でもある。もちろん,デューイは,前者の観点を堅持し,それを強力に主張する立場をとっているが,彼の 論理の展開が常にそうであるように,まず対立する理論を姐上にあげて批判的に料理し,つぎに自己 の理論の正当性を主張する方法が採用されている。
後者のごとき誤まれる未成熟観の背後には,つぎのような不当な児童観のあることの指摘から,デ
ゴー
Cは話しをはじめている。未成熟を単なる欠如とみなす観点は,児童期を他のもの(成年期)と の比較において(本質においてではなく)とらえようとする児童観に立脚している。それは成年期を 固定した標準として児童期を測定しようとする観点である。この観点に立てば,子どもたちが現在も っていないもの,一人前になるまではもつことのないものにのみ,注意が限定されることになる。こ こで,デューイは,静的な目的を理想や基準として設定した場合におこる幣害を考察すれば,未成熟 の可能性をこのように消極的なものとして仮定しているこの観点のもつ危険性は明白であると論証し ている。すなわち,成長の完遂が,完成された成長,すなわち不成長,もはや成長することのなくなった何ものかを意味するものと考えられるとき,成人はみな,もはやそれ以上成長する可能性がない ときめつけられたことを不快に思うし,また,自分に成長の可能性がなくなっていることに気づいた 場合には,その事実を自分が力を失ったことの証拠として嘆き悲しむのだ。どうして,子どもと成人
とに異なった尺度を使うのであろうか,と批判をしているのである。
これに対して,デューイのいだく未成熟観,あるいは児童観の特色は,「比較的に考えるかわりに
それ自体として(絶対的に)とらえるなら,未成熟は積極的な勢力ないし能カー成長するカーを
意味するヨ)という根本認識に端的にあらわれている。子どもには,生まれながらにして強く激しい活 動力が存在する。成長は,それらの活動力に対して外部からなされた何ものかではない。成長は,子 どもが生まれながらにもっているその活動力がなすところのものである。デューイにおいては,この 子どものもつ強く激しい活動力こそ,未成熟という言葉で表現されているものであり,そして,この 未成熟の二つの主な特性は,依存性(dependence)と可塑性(plasticity)という具体的な姿になっ てあらわれているのである。依存性
一般的な概念としては,消極的で,むしろ本質的な能力の欠如を示すような意味をもつ依存性とい う言葉が,デューイにおいては,積極的なもの,建設的なもの,本質的活動力をもつものとして,意 味を逆転せしめられていることは,その児童観の一つの特色である。この教育学者は,「人間の幼児 は,かれらの社会的受容力(social capacity)をもつことによって,肉体的な無能力にもかかわら 12)
ク,生きて行くことができるのである」と述べて,人間の幼児のもつ未成熟性のあらわれとしての依 存性が,積極的な活動力,成長する能力にほかならないと肯定し,依存性という積極的な社会的受容 力を,社会的素質,他人の協力的な心づかいを求める驚くべき力,社会的交わりに必要な第一次的能 力を附与されているもの,等をもつものとみなすのである。
「社会的観点から見れば」とデューイは観点を変え,「依存性は弱さよりも,むしろ力を意味して いる。それは相互依存を意味している。個人の独立性が増大するにつれて,個人の社会的受容力が減 少する危険が常に存在する。個人がより自立的になるにつれて,その個人はより自己満足的になる。
つまり,冷淡や無関心になることがある。そのため,人は,しばしば,自分と他人との関係について,
非常に無感覚になって,自分ひとりで生活し,行動することが実際にできるかのように思う幻想を発 達させるようになる一それは世界を悩ましている治療加能な病苦の大部分の原因をなしている名も ない一種の狂気なのである」と解釈を述べ,人間の幼児のもつ未成熟という積極的な力のあらわれと しての依存性が,すなわち社会的受容力であり,それは,きわめて建設的なもの,健全なもの,社会的 諸関係を維持するのに必要なもの,であることを強調し,むしろ,片寄った個人的独立性の増大によ
って,社会的受容力(依存性)を減少させた現代社会における成人にこそ,社会的無関心や無感覚と いう根本的病弊(狂気)がはびこりひろがることを指摘しているのである。
可塑性
つぎに,デューイは,幼児の未成熟を積極的な活動力として,成長する力として認識しなおしたと きに,依存性とならんで重要視される特性としての可塑性について論じている。未熟な人間の成長に 対するこの特殊な適応性(adaptability)こそ,人間の可塑性を構成するものであると前提し,その 力の人間の成長にとっての重要性を,「それは,本質的には経験から学ぶ能力である。すなわち,一 つの経験からそれ以後の状況のいろいろの困難に対処するのに役立つものをひき出して保持する力で ある。これは,前の経験の結果を基礎として行動を修正する力,性向を発達させる力を意味するので ある。それがなくては,習慣の獲得は不可能である」と説いている。われわれは,デューイの教育観
の本質を,「成長としての教育」としてとらえている。また,それを別の,より専門的な定義として のとらえ方としては,「経験の連続的再構成としての教育」として概念している。この二つの教育観 は,一見別個の概念として表現されているように思われるけれども,その本質においては一体のもの と認められている。この立場に立って考察するとき,可塑性は経験から学ぶ能力であるという命題は,
成長としての教育と経験の連続的再構成としての教育との一体性,あるいはその結合性を示すものと して重要な意味をもっている。前述したように,成長の第一条件は未成熟である。未成熟は「比較的
に考えるかわりに,それ自体として(絶対的に)とらえるなら,積極的な勢力ないし能カー成長す
るカーを意味する」と認識されている。子どもの中に生まれながらにして強く激しい活動力が存在しており,実はこの活動力が未成熟といわれるものである。この未成熟の二つの主な特性は,依存性 と可塑性である。依存性は社会的受容力として認められる活動力をもっている。可塑性は経験から学 ぶ能力であると,いま認められたばかりの活動力である。一つの経験からより以後の状況の諸困難に 役立つものをひき出して保持する力である。これは,前の経験の結果を基礎として行動を修正する力,
性向を発達させる力を意味する。成長は依存性や可塑性を第一条件として発現し,経験から学ぶ能力 は可塑性という活動力である。したがって,成長としての教育といっても,経験の連続的再構成とし ての教育といっても,どちらも,人間の生命力としての未成熟,すなわち依存性や可塑性を原動力と
して尊重する教育観であって,本質的には一体,同一のものであると考えられる。
なお,デューイは,可塑性のもつ意味,すなわち,経験から学ぶということの意味を,「ある行動 を出来合いのものとして与えられるのではなくて,それを学習するとき,人は,状況の変化にしたが って,その諸要素を変更したり,それらのさまざまな組み合わせをつくったりすることを必然的に学 ぶのである。ある行為を学習しているときに,他の状況においても役に立つ方法が発達するというこ とによって,ひき続く進歩の可能性が開かれるのである。なおいっそう重要なのは,人間が学習する 15)
K慣を獲得するということである。人間は学習することを学習するのである」と説いている。これ
は経験から学ぶということ,また,経験の連続的再構成ということ,この二つのことのまことの意味を明らかにした説明である。デューイの教育観においては,成長の第一条件は未成熟ということであ り,それは強く激しい積極的な建設的な活動力であり,依存性と可塑性として生きてはたらく力であ
る。
成長と習慣(デューイにおける習慣論の特色)
デューイにおける習慣論には二つの特色があらわれている。その第一は,可塑性と習慣形成との結 合を明確に認めたことであり,その第二は,受動的習慣に対して能動的習慣の重要な価値を指摘し,
それが「成長そのものを構成する」とまで積極的に肯定されていることである。第二の特色は,能動 的習慣の獲得こそ,経験の連続的な再構成の能力の獲得と同一視されるという主張である。
第一の点,可塑性と習慣形成との結合
これまでにも述べたように,デューイは,可塑性を「先行の経験から後続の活動を修正する諸要素 を獲得して保持し,もち越す能力である」と定義している。そして,この論述をさらに発展させて,
この可塑性こそ習慣を獲得したり,一定の性向を発達させたりする能力を意味するのだと述べて,可 塑性の存在と習慣形成の結合の関係を明らかにしている。この点は,実はいまさら新しく言い始めら れたものではなくて,すでに可塑性を経験から学ぶ能力として説明したときに述べられたことである。
繰り返すことになるが,ある行動を出来合いのものとして与えられるのではなくて,それを学習す るとき,人は,状況の変化に応じて行動を変えることを学ぶ。ある行為を学習しているときに,他の
状況においても役に立つ方法が発達してくる。人間が学習する習慣を獲得するということ,人間は学 習することを学習するということ,はなおいっそう重要であると述べられていたのである。いま,こ こで,経験から学ぶ能力のあらわれとして表現された習慣の意味は,より高次の意味の習慣,すなわ ち,受動的な適応(馴化)としての習慣に対する能動的な適応としての習慣を意味していることは当 然である。しかし,この論定には,可塑性と習慣形成との結合の関係が明確に論証されている。可塑 性は成長のための積極的な活動力なのであり,それは経験から学ぶ能力を具備しており,したがって,
習慣を獲得し,一定の性向を発達させる能力を具備しているものである。
第二の点,能動的習慣は経験の連続的再構成の能力を意味する。
『民主主義と教育』の第四章の要約において,デューイは,習慣について論及し,「習慣は環境を 制御する力,環境を人間の目的のために利用する力を与える。習慣は,慣れという形,すなわち,有 機体の活動と環境との全般的で持続的な均衡状態という形もとれば,また,新たな周囲の状況に対処 するために活動を適応しなおす能動的能力という形もとるのである。前者は成長の下地を提供し,後 者は成長そのものをつくり出すのである。能動的習慣は,新たな目的に能力を適用するための,思考 力,発明力,独創力をふくんでいる。それらの能動的習慣は,成長の停止を特徴づける常習とは反対
16)のものである」と叙述している。彼は,要約におけるこの結論にさきだって,「習慣とは自然の諸条
件を目的達成のための手段として利用する能力を意味する。それは,行動の諸器官の制御を通じて,
17)
ツ窺を能動的に制御する力である」と,習慣についての彼の独自の観点による定義を明らかにしてお り,また,「適応は,結局,環境に対してわれわれの活動を適応させることである,のと全く同じく らい,われわれの活動に対して環境を適応させることである」という,相互作用の観点に立つ適応観 を論示している。
デューイの習慣論の背景にあって,それを支えるこの適応観は,彼の経験観や状況観と共通の哲学 的立場に立つものである。主体と環境との相互作用としてあらわれる適応は,王体の側の全く一方的 な環撞への従属でも,また,環境の側の全く一方的な主体への従属でもなく,この二つのものが相互 に影響しあい,作用しあうという観点に立つものである。デューイは,かかる観点に立って,適応を 受動的な適応と能動的な適応とに分類し,前者をむしろ「馴化」と呼ぶべきものであるとなし,その 性質を,固定した外的諸条件(環境)にわれわれ自身を合致させることであると言っている。後者の 性質は,環境の制御という目的を達成するために,手段(われわれの身体)を制御することであると 考えられている。この能動的な適応こそ,彼が能動的習慣と称するものであって,それは知的および 情緒的性向の形成までも意味としてふくんでおり,人間の連続的成長,すなわち,経験の連続的な再 構成と,実質的には一体のものを意味するものとして論定されている。習慣の獲得は,われわれの生 まれながらの可塑性,すなわち,適切で効果的な行動様式を発見するまで反応を変えて行くことので きる能力によるからである。そのような能力は,別の表現によれば,経験から学ぶ能力であり,経験 を連続的に再構成して行く能力にほかならないのである。
発達概念の教育的意味(デューイにおける教育概念の特色)
デューイは,第四章の第三節「発達概念の教育的意味」の冒頭において,第一節「成長の条件」や 第二節「成長の現われとしての習慣」についての考察に必然的にともなわれてくる教育上の帰結とし て,教育についてのつぎのような有名な命題を述べている。 「教育は発達である,といわれるならば その発達をどのように考えるかで,すべてが決まってくる。われわれの正味の結論は,生活は発達で あり,発達すること,成長することが,生活なのだ,ということである。このことを,それと同じ意
味をもつ教育的表現に翻訳するならば,それは,(D 教育の過程はそれ自体を越えるいかなる目的も
もっていない,すなわち,教育の過程は教育の過程そのものの目的である,ということ,㈲ 教育の 19)
過程は連続的な再組織の,再構成の,変形の過程なのだ,ということになるのである」。
この命題は,デューイの教育観あるいは教育思想の根本を示すもの,彼の教育認識の真髄を示すも のとして,きわめて重大な価値をもつものであり,われわれがこれまでみてきた「成長としての教育」,
「経験の連続的再構成としての教育」そのものの内容でもある。さて,この命題は,根本的主張とし ㌧
て,生活と発達と成長と教育とを本質的な同一性においてとらえている。この場合,生活は生命とも 解釈されるし,生命の活動とも解釈される。人間の子どもが本質的に内在させている活動力の発現そ のものが発達ということであり,成長ということである。これは逆に言うなら,発達すること,成長 することは,人間の子どものもつ本質的な内在的な活動力の発現(生命の活動・生活)なのだという ことである。生活という言葉を,われわれの日常的な,常習化された,単調な生活と解釈すると,真 意が出てこない。生命力の躍動している子どもの生活,生命の活動状態と解すべきである。以上のこ
とは,これまでの論述においても一貫してとりあげられてきたところである。
これまでに,デューイの基本的主張点として把握されてきたことは,子どものもつ未成熟について,
それを積極的な勢力ないし能カー成長するカーを意味するものとしてとらえることであった。そ
れは,成年期を成長の標準として固定化し,子どもの未成熟をそれと比較して考える観点を清算し,未成熟をそれ自体として(絶対的に)とらえる場合にのみ認識しうる意味である。子どもには生まれ ながらにして強く激しい活動力がある。成長は,それらの活動力に対して外部からなされる何ものかで はない。成長は子どものその活動力(生命力)がなすところのものである。この活動力こそ未成熟と いうものの実態である。この未成熟という名の活動力の二つの主な特性は依存性(社会的受容力)と 可塑性(経験から学ぶ能力)である。一般的な概念としては,消極的で,むしろ本質的な能力の欠如 を示すと思われる依存性ということが,デューイにおいては,積極的なもの,本質的活動力をもつも のとして解釈せられている。また,可塑性(経験から学ぶ能力)については「それは,本質的には,
経験から学ぶ能力である。すなわち,一つの経験からそれ以後の状況の諸困難に対処するのに役立つ ものをひき出して保持する力である。これは,前の経験の結果を基礎として行動を修正する力,性向 を発達させる力を意味するのである。それがなくては,習慣の獲得は不可能である」とすでに述べら れていた。この可塑性は上述の説明に明らかなように,経験から学ぶ能力であり,また,経験の連続 的再構成の能力であり,能動的習慣の獲得の能力である,と考察されたのである。
われわれは,これらの論述から結論として,成長の基本条件は未成熟であり,未成熟の二っの特性 は依存性と可塑性という強く激しい活動力(生命力)であり,経験から学ぶ能力としての可塑性は,
経験の連続的再構成の能力であるという論理の文脈を構築してきたのである。そして,前述のように,
「成長としての教育」と「経験の連続的再構成としての教育」との本質的同一性,または,一体性を 説明しようとしてきたわけである。
さきにかかげたデューイにおける教育概念の特色を示すものと見られる命題において,生活と発達 と成長と教育とは本質的な同一性においてとらえられていると述べた。また,それを論証するために,
われわれがこれまで考察してきたデューイの基本的主張点として把握されたものをふりかえってみた のである。その結果,「成長としての教育」も「経験の連続的再構成としての教育」も「生活と発達
と成長と教育を本質的同一性においてみること」も一体であることがほぼ認められるのである。
彼は,第四章の要約において,「成長は生命に特有のものであるから,教育は成長することと全く 20)一体のものであり,それはそれ自体を越えるいかなる目的ももたない」と,教育と成長との一体性,
あるいは両者の本質的同一性を簡潔に主張している。この主張の意味を資料に語らせることにする。
デューイは,成長ないし発達についての誤った考えは,「それが固定した目標に向かって進む変化
21)
だ」と考えられていることに関連しているとして,批判の対象にしてきた誤った成長観,発達観をつ ぎのように整理している。それは,(1),未成熟を単に欠如的なものでしかないとする考え,②,適応 を固定した環境への静的な適応とする考え,(3),習慣を硬直したものとする考え,の三つである。こ れら三つの考え方の特色は,成長は,それ自体が目的であるとは認めることができず,成長とは別個 の目的をもつものとみなされていることにある。これら三つの誤っている成長についての観念に対応 している教育上の片割れを見ると,それは,第一に,子どもたちの本能的な,生まれつきの能力を考 慮しそこなうこと,第二に,新たな状況に対処するための独創力を発達させそこなうこと,第三に,
本人自身の認識を犠牲にして自動的な熟練を獲得するような練習やその方策を過度に強調すること,
の三つのものである。
ここに述べられたことは,デューイによって箇条書きにして示された誤った成長観ないし発達観で あり,また,それと対応していると考えられた教育上の片割れの特色である。デューイの叙述は,あ る場合には,きわめて抽象的であり,また,ある場合には,きわめて具体的で精緻である。したがっ て,時には,デューイの論述の核心あるいは真意がどこにあるのか,その把握に困難さをともなうこ とがある。成長観や教育観の叙述についても同じことが言われうるであろう。しかし,ここでのまと め方は簡にして要をえたものであって理解に困難はない。デューイは,これらの誤った成長観ないし 発達観の根底にある観念を,「成長を固定した目標に向かって進む変化だ」とする考え方にあるとし ているが,それは,まったく同じ考え方を示すものとして,「成長は,それ自体が目的であるとは認 められないで,成長とは別個の目的をもつものとみなされている」考え方が指摘されている。いずれ も成人の環境が子どものための標準とみなされること,外的標準への一致を成長と考えることと関連
しており,デューイは,これらに対し,再三再四にわたり,その不当性を批判している。
デューイがこのように誤っている成長観やその教育上の片割れに対して,批判的なかたちでそれを 描写したのに比較して,自からはその提言する成長観や教育観をどう要約しているであろうか,記述 しておくことにする。第一は,成人が身につけている能力や知識との固定的な比較によって未成熟を 定義しようとする企てをやめよということである。そうすれば,望まれている特性が欠如しているこ とを示すものとして未成熟を考えることもやめざるをえない。すなわち,未成熟を強く激しい活動力 をもつものとして,積極的な力をもつものとして認めることになる。第二に,生命とは成長を意味す るのだから,生物はどの段階においても同様に,同じ内的充実と同じ絶対的権利をもって,真に,積 極的に生きるのである。それゆえに,教育とは,年令にかかわりなく,成長すなわち十全な生活を保 障する諸条件を与える事業を意味するのである。第三に,生命が成長であるということを真に理解す るならば,われわれは,児童期の理想化などといわれながら,実際には,だらしなく甘やかすことで しかないようなことに陥らないですむのである。第四に,より以上の成長以外に,成長が対比される ものは何もないのであるから,より以上の教育以外に,教育が従属するものは何もないのである。学 校を卒業するとき教育が終ってはならない,ということは陳腐な文句である。しかし,このことには 教育に関する重要な提言がふくまれていて,それは,学校教育の目的は,成長を保障する諸能力を組 織することによって教育の継続を保障することだ,ということを意味している。生活そのものから学 ぼうとする,そして,すべての人がその生活の過程で学ぶことになるように生活の諸条件をととのえ
ようとする意欲こそ,学校教育の最も立派な成果なのである,ということを意味している。
デューイは,1938年に出版された『経験と教育』(Experience and Education)において,教
育的過程は成長と同一の意味だとする主張に対する反対論を,「成長は多くのさまざまな方向を採り 得る。例えば,強盗としての生涯に出発するものは,その方向に成長することができる。そして実践 を重ねるにしたがってきわめて熟練した強盗になり得る。したがって,成長では十分でないというこ とになる。われわれはそれと同時に,成長の成立する方向,またそれの志す目的を明白にしなければ ならない,というのであった」とまとめている。そして,この反対論の結末を決定する前に更にも少 しこの事例を分析することが必要であるとし,「人が,強盗として,あるいは無頼漢として,あるい は敗徳の政治やとして,有力に成長し得るということは,疑うことができない。しかし,教育として
の成長一また成長としての教育一の立場からすれば,問題は,この方向の成長が一般的に成長を
促進するか,遅滞さすのか,どうかの点にある。成長のこの形式が更にその上の成長のための条件を 創造するかどうか? あるいはまたそれが,この特殊な方向において成長した人に,更に新しい方向 において成長を継続するための刺激や機会を封じてしまうような条件を供給するかどうか? ある特 殊な方向における成長が,他の筋道での発展のために通路を開くような独得な態度や習慣に対して,22)
ヌのような影響を与えるか?」が問われなければならぬと述べ,自分としては「ただ特殊な方向にお ける発達が成長の連続に役立つ場合,ただその場合においてのみ,その成長としての教育の標準に適 合する」ということだけを附け加えておくと答えているのである。
なお,デューイによって執筆され,1920年に刊行された「哲学の改造」(Reconstruction in Philosophy)において,かれは「一般に受け容れられてはいるが,十分に論ぜられることの稀な右の 二つの観念は,成長,すなわち,経験の絶えざる再構成を唯一の目的と見る考え方と対立するもので ある。年齢とは関係なく,或る人がまだ成長過程にあると私たちが認めるならば,教育は一副産物 としては別であるが一後に起るもののための準備ではない。現在から得られる限りの程度および種 類の成長,そこに教育があるのである。これは,年齢とは独立の,永遠の機能である。正規の学齢期 のような,特別な教育の過程の理想を言えば,それによって生徒に将来の教育に堪える力を与えると いうことである。成長の諸条件に敏感たらしめ,それを利用する力を与えることである。技術を習得 し,知識を所有し,教養を獲得するのが目的ではない。それらは成長の証拠であり,成長を継続する 23)
闥iである」と叙述し,「成長としての教育」と「経験の連続的再構成としての教育」との同一性を 認めたうえで,われわれがいままで論述してきたことを肯定し,要約し,そしてその教育観の真髄を,
「現在から得られる限りの程度および種類の成長,そこに教育がある」と総括している。
皿 諸教育学説に対するデューイによる批判 1.生活準備説に対する批判
デューイは,生活準備説に対してばかりでなく,教育実践に有力な影響を及ぼしたと見られるいく つかの教育学説に対して批判(自己の見解との対照の明示)を行なっているが,その場合,自己の見 解とするものは,「教育の過程は,連続的な成長の過程であり,その各段階の目標は成長する能力を さらに増進させることにある」という主張だとしている。このデューイの見解は,教育の過程は成長 の過程と同一の意味のものであり,われわれがすでにデューイの教育思想における真髄として把握し てきた「成長としての教育」観や「経験の連続的再構成としての教育」観そのものである。
生活準備説とは,「教育とは準備の過程,すなわち用意をする過程だ,という見解であり,何に対 して準備がなされるべきかといえば,それは,もちろん,成人の生活に伴う責任と特権に対してであ
る誓)と論定されている。生活準備説に対して,も少し普遍的な説明を加えるとすれば,それは,「教 育の主要な目的はおとなの生活への準備にあるとみる教育説で,ふるくから伝統的教育の基本的前提 とされ,こんにちでも保守派の教師と民衆のあいだにひろく信奉されている。スペンサーが完全な生 活への準備を強調し,ボピットやチヤーターズが社会の必要を科学的に分析し,これをただちにカリ
キ。ラムの内容としたのは,生群備説の典型といってよレ習というのは妥当であろう。
デューイは,この学説は,「成長は消極的で欠如的な性格をもつという考え」(すでに批判済みの 考え)の別の表現であるから,批判を繰り返すのはやめて,これに基づいて教育を理解することから 生ずる有害な諸帰結について考察するだけにしたいと述べている。要点のみ摘記することにする。
第一,生活準備説に立つ教育は原動力を喪失させている。動機となる力が利用されない。単なる未 来としての未来には,緊急性も具体性もない。それが何であるかも,またその理由も分からずに,あ る何事かのために用意することは,現存する力を捨て去って,漠然とした見込みの中に動機となる力 を捜し求めることである。
第二,躊躇や因循が奨励されることになる。未来は遠く,それが現在となるまでに多くの時間がか かる。なぜそのような未来のために用意を急ぐのか。後回しにしたいという誘感が大いに強められる。
なぜなら,現在というこの時点が非常に多くの素晴らしい好機を与え,冒険への素敵な誘いを呼びか けるからである。当然,注意や精力はそれらの好機や誘いに向かって行く。
第三,教授を受けている各個人の特有の諸能力に関する基準の代りに,期待や要求という型にはま った平均的な基準が代置される。個人の長所や短所に基づく厳正で明確な判断の代りに,多少とも遠
く隔たった未来に一年度終りの進級時,大学への進学時,実生活の業務開始時とか一青年たちが
平均して,どんな人物になることが期待されるか,ということに関する漠然とした不安定な意見が代 置される。第四,快楽や苦痛という外来的な動機の利用に大々的にたよらざるをえない。未来は,現在の可能 性から切り離されているときには,刺激し,方向づける力を全く欠いているから,それを作用させる ために,それに対して何ものかを連結しなければならない。褒美の約束や苦痛を与えるという威赫が 使われる。当面の理由のために生活の一要素として行なわれる健全な仕事は,大部分無意識的なもの である。刺激は,人が実際に直面している状況の中にあるのである。
総括,間違いは,将来の必要のための準備を重視する点にあるのではなくて,それを現在の努力の 主要動機とする点にある。絶えず発展しつつある生活のために準備をすることは大いに必要なのであ るから,現在の経験をできるだけ豊かに有意義にすることにあらゆる精力を傾注することが絶対に必 要なのである。
Z 開発としての教育(Education as Unfolding)説に対する批判
この説は,「発達を,連続的な成長過程とは考えないで,潜在的な能力がある一定の目標に向かっ て発現して行くことだと考えるのである。その目標は,成就,完成と考えられている。まだこの目標 26)
フ達成に至っていないどの段階での生活も,ただその目標に向かう発現過程でしかないのである」と デューイによって規定されている。この説は,発達という観念に基礎をおいていると自ら公言しなが ら,一方で言い出したことを他方で取り消してしまう教育観である。この学説は,論理的には生活準 備説の一変形にすぎないと断定されている。両者の実質上の相違点はつぎのごとくである。準備説の 支持者たちは,人がそのために準備しつつあるところの,実際的で職業的な任務を重視する。これに 対して,開発説は,発現しつつある原理の理想的で精神的な性質を強調している。なお,この学説は,
27) 28)
セ治以降我が国で行なわれた,「開発教授法」や「開発教授」の内容と直接に関係するものではない ように思われる。
この学説は,生活準備説の一変形にすぎないとデューイによって断定されているので,生活準備説 に対する批判が,そのままこの説に対する批判としても妥当するであろう。したがって,批判はさし 控えて,この説のあしき特色のみを指摘することにする。
第一,成長や進歩は究極的な不変の目標への接近にほかならぬと考えるこの説は,静的な生命観か ら動的な生命観への過渡的の思想であって,後者の論法を真似る。一方で発達・過程・進歩を重要視 すると公言しながら,他方で,これらの活動は,みな過渡的なもの,それ自体の意味を欠いているも の,今進行しているものから離れた何物かへ向かう運動としてのみ意味をもつものと考えられている。
成長とは完成された存在へ向かう運動にほかならないのだから,究極の理想は不動なのである。抽象 的で漠然とした未来が,現在の能力や機会を軽視する意味をもつものを暗示し,それらすべてを使っ て支配力をふるうのである。
第二,究極的な不変の目標,完全な目標,発達の基準がかかげられているが,それは非常に遠く に在り,厳密に言えば,到達不可能なほどに,われわれを超越している。したがって,それが現在の 指針として役立つためには,その代りをする何ものかにそれを翻訳しなければならない。子どもの示 すある特定の態度または行為が理想的な目的に近づきつつあるのか,それとも遠ざかりつつあるのか を判定するための,その理想的目的を具現している明確な判定基準を設定しなければならない。その ために,実際に役立つ代用品が設けられる。通常,それは,大人が子どもに習得させたいと思ってい る何かの観念である。
デューイは,哲学思想の領域には,絶対的目標の代りとして実際に役立つ代理物を提供する二つ
の代表的な試みがあったとして,ヘーゲルの場合の歴史的制度と,フレーベルの場合の主として数学的 な象徴の呈示をあげ,両者の教育に対する貢献とその限界とを相当綿密に論じているが,ここでは,そ の論述をさし控えることにする。ただ,「フレーベルとヘーゲルの理論において仕上げられたものは,準備説と全く同じ程度に,有機体の現在の諸傾向と現在の環境との相互作用を無視するものとなって 29)いる」という批判だけは記述しておくことにする。
a 形式陶冶説に関する批判
ロックを代表者とするこの学説に対しては,拙稿の「学習一子供の能力や活動と教材は分けられない 30)一状況」と題する見出しのもとで,若干の論評を試みたことがあるが,体系的な叙述でなかったので,
あらためて論述することにする。デューイは,この学説を,「精神は生まれたときから一定の知的能力,
すなわち,たとえば知覚,記憶,意志,判断,一般化,注意,等の力をもっており,教育とは,これ 31)
轤フ能力を反復練習によって訓練することである,と考える理論」と論定し,この理論の長所として,
それが一つの正しい理想をめざしていることをあげている。すなわち,教育は,その一つの結果とし て,いろいろな事を成しとげるための特殊な諸能力を創出すべきだ,という主張には賛意を表する。
しかし,この理論が,それらのいくつかの能力を単に成長の結果とみなすだけでなく,教授の直接の,
しかも意識的な目標とみなす点,および,それらの能力が,まだ訓練されていない何かの形で,すで に存在していると仮定する点については,容赦のない批判をあびせている。
第一,観察,想起,意志,思考等の諸能力を人間が本来もっていると仮定することは,全く架空の ことだ。練習され,そしてそれによって鍛えられるのを待っているそのような既成の能力なぞはあり はしない。実際にそこにあるのは,中枢神経組織内の神経細胞の本来的連絡ということに基礎をおい
たところの,多数の本来的,生得的諸傾向,本能的な行動の様式である。
(1>,これらの諸傾向は,相互にはっきりと区別された少数のものではなく,際限なく多様なもの であって,ありとあらゆる微妙な仕方で相互に織り合わされているのである。
②,それらの傾向は,完成されるためには練習しさえすれば足りる潜在的・知的能力なのではな くて,環境の中で起こった変化に対して一定の仕方で反応し,さらに別の変化をひき起こそう とする傾向である。環境の統制力が生ずるのは,生活環境の中に起こった特定の変化に対する 反応としての,有機体の活動の特定の変化によるのである。
第二,われわれが本来もっている衝動的活動力の訓練とは,筋肉が実際に使うことによって強化さ れるように,「練習」によって達成される洗練や完成ではないのである。
(1)その訓練は,むしろ,一定の時点にひき起こされたばらばらに散らばった諸反応の中から,
その刺激を利用するのに特に適しているものを選び出すことにある。
② 同様に重要なのは,ひき起こされる反応のいろいろな要素の特殊的調整である。
第三,反応と刺激の相互の適応(というのは,活動の順次的連続を考慮に入れれば,反応が刺激に 適応しているだけでなく,刺激も反応に適応しているからである)が特殊化されればされるほど,獲 得された訓練は,融通性を減じ,有効範囲が狭くなる。その訓練に付与される知的ないし教育的な質 が低下する。反応が特殊化されればされるほど,それを練習し,完成することで獲得される熟練は,
他の行動様式に転移しにくくなる。
第四,問題の根底まで掘り下げて言えば,この理論の根本的な誤りはその二元論である。すなわち 活動や能力をそれらの対象から切り離していることである。漠然と一般的に見たり聞いたり,記憶し たりする能力というようなものはないのであって,ただ,何物かを見たり,聞いたり,記憶したりす る能力があるにすぎない。精神的能力にせよ肉体的能力にせよ,その能力を行使する過程にかかわり のある対象を離れて,一般的に,ある能力の訓練について論ずることは無意味である。
第五,したがって,観察力,想起力,判断力,美的鑑賞力というような,そういう能力は,生まれ つきの活動的傾向が一定の対象にたずさわってきたことから生じた諸結果の有機的に組織されたもの を意味している。
総括,この説に対しては,「実際上,この説がもたらす効果は,独創力や発明力や再適応カーこ れらの性質は,特殊的な諸活動の相互間の広範囲にわたる連続的な相互作用に依存するのだが一を 32)
]牲にして,偏狭な特殊化された熟練の諸様式の訓練を不当に強調することになる」と,決定的な,
きびしい批判が行われているのである。
屯 精神形成としての教育(Education as Formation)説に対する批判
この学説に対して,デューイは,能力心理学が主張するような諸能力の存在を否定し,知的および 道徳的性向の発達における教材の独特の役割を強調した型の教育の学説であると,その基本的な性格 づけをなしたうえで,「この型の学説によれば,教育は,内部からの開発過程でもなく,また,精神 そのものに内在する諸能力の訓練でもない。それは,むしろ,外部から提示された教材で一定の連合,
すなわち,内容の結合をつくりあげることによって精神を形成することなのである。教育は全く文字 通りの意味にとられた教授,すなわち,外部から精神の内部への一種の構築作業によって,進行する 33)
フである」と,この学説の本質を論定している。そして,この型の学説の最もすぐれた歴史的代表者 として,ヘルバルトの名をあげ,彼の教育学説の要旨,および,その偉大な功績を叙述称揚している
34)のである。しかし,にもかかわらず,この学説の根本的な理論上の欠陥は,つぎの点にあることを,