民主主義の揺らぎとアイデンティティ
―グローバル化する国際社会の再検証―
倉 本 由 紀 子
*Identity and Democratic Crisis in the Globalized World
K
URAMOTOYukiko
This study aims to analyze why some democratic nations undermine democracy in the globalized world. The end of the Cold War and the rapid progress in information technology accelerated globalization in the world. We optimistically thought that globalization would promote democratization, and more people would be able to enjoy freedom of speech and political participation. Yet recently the democratic values have deteriorated in even long-standing democracies. What are the forces that contribute to the undermining of political rights? To answer this question, this article analyzes the role of identity in societies where democratic principles and norms are threatened. Building a collective identity in diverse societies should reduce the rise in political intolerance and protect democratic values.
キーワード:民主主義,価値観,アイデンティティ,グローバル化
【目次】
1.は じ め に 2.民主主義の揺らぎ
3.経済格差と民主主義の揺らぎ 4.アイデンティティと民主主義の揺らぎ 5.お わ り に
*中央大学文学部兼任講師
1 .は じ め に
冷戦終焉とインターネットの急速な発展によって,グローバル化は加速し深化した.国境を 越えるヒト,モノ,カネ,情報の増加による国家間の相互依存が深化した国際社会では,価値 観,規範やルールなどが,より多くの地域で共有されると推測された.特に冷戦で勝利した西 側諸国では,資本主義市場経済と民主主義の拡大が期待された.しかし,近年自由市場経済を 後退させる保護主義政策をとる国家が増加する一方で,自由や国民主権,人権,法の支配など 民主主義の中核的な価値観を否定する国家も減少していない.本稿は,グローバル化が急速に 加速した国際社会の現状を検証し,近年懸念される民主主義の揺らぎとアイデンティティの関 係について考察する.
2 .民主主義の揺らぎ
国際非政府組織(NGO)のFreedom Houseは 1941 年に米国で設立され,世界中に自由と民 主主義を推進するため「ウオッチドッグ」として活動している.国際社会において,人権や政 治的権利擁護,民主化運動を支援することを目的に,世界各国の自由度を調査し格付けした報 告書Freedom in the World「世界の自由度」を,1973 年から毎年発表している1 ).Freedom
Houseは,2018 年度の報告書で,2017 年は民主主義の過去数十年で最も危機的な状況であっ
たと警鐘を鳴らした.71 ヵ国で,政治的権利や人権などの自由度が低下し,12 年間継続して グローバル自由度が悪化しているという.2017 年に実施された選挙で,フランスやオランダ,
ドイツ,オーストリアで右派勢力が議会の議席数を増やし,中国やロシアは自国での圧政に加 え,非民主的な影響を他国へ及ぼしていると訴えた.また紛争や国内政治の混乱などで増え続 ける移民による影響への懸念を,大衆迎合主義(ポピュリズム)が政治利用し,市民の政治的 権利や人権を脅かしているとも警告する.メディアへの圧力や攻撃も増加し,世界中でジャー ナリストが殺害されるなかで,報道の自由に対する懸念も指摘し,米国がグローバル民主主義 のリーダーの役割を降りたとの大きな失望も隠さない.また,同報告書は 195 の国と 14 の地 域を調査対象とし,25 項目の指標を基に 1 〜 4 点の点数をつけ合計 100 点満点で,国と地域 の自由度を測った.次に各国・地域を,「政治的権利」と「人権擁護」の 2 分野で,それぞれ に 1 〜 7 で評価し,「自由」・「部分的に自由」・「自由ではない」に大別し,国別では,88 ヵ国 が「自由」,58 ヵ国が「部分的に自由」,49 ヵ国が「自由ではない」と評価している2). 冷戦によるイデオロギーの戦いで,自由民主主義は共産主義や社会主義に勝利し,東欧諸国
1) Freedom house,https://freedomhouse.org/about-us
2) Freedom house,Freedom in the World 2018. https://freedomhouse.org/sites/default/files
を含め多くの国が民主化するであろうと期待されたが3),冷戦終結後 30 年経った現在,中国は 未だ共産主義国で,東欧のポーランドやハンガリーでは民主化が後退する可能性も否めない.
しかし,世界の民主化の傾向は実際どのようなものか,国際社会全体の自由度をFreedom Houseの 2006 年から 2018 年度の調査を使用し確認する.前述のFreedom in the Worldでは,
各国の自由度を,政治的権利と人権擁護に分け指標化している.選挙制度や複数政党参加シス テム,政府機能,法の支配,団体活動の権利,言語の自由,市民の自律性や個人の自立などの スコアを加算し合計点を算出している.図 1 は,2005 年から 2017 年に調査が行われた 208 〜 210 の国・地域の自由度の平均値を比較したもので,グローバル自由度が着実に低下傾向にあ ると言える.2017 年の世界全体の平均値 57.62 は「自由度は部分的である」という評価であり,
国際社会の民主主義の度合いは高いとは言えない.しかし,低下傾向ではあるが,平均値を比 較すると 2005 年は 60.61 で,2017 年は 2.45 ポイントしか減少していない.
世界の平均自由度では見えにくい民主主義の価値観の後退は,図 2 によって明らかになる.
2006 年には 56 の国で自由度が改善され 59 ヵ国では後退したが,その後自由度が後退する国 の数が 2010 年の 49 ヵ国以外,毎年平均 50 ヵ国を超えている.特に近年では,2015 年は 72 ヵ国,2016 年は 67 ヵ国,2017 年は 71 ヵ国と過去最悪であった.Freedom in the World 2018では,過去 10 年間で,自由度を大きく後退させた国のリストも作成し,ワースト第 1 位 は,トルコ(34 点後退)で,中央アフリカ共和国(31 点後退),マリ(28 点後退),ブルンジ 共和国(27 点後退),バーレーン(25 点後退),モーリタニア・イスラム共和国(22 点後退), エチオピア(21 点後退),ベネズエラ(21 点後退),イエメン(21 点後退)と続く.Freedom
3)フクヤマ,フランシス『歴史の終わり』三笠書房 2005 年など.
56.056.5 57.0 57.558.0 58.559.0 59.560.0 60.5 61.0
(年)
(%)
2005 2006
2007 2008
2009 2010
2011 2012
2013 2014
201520162017 出所: Freedom House Freedom in the World 2018 データに
基づき筆者が作成
図-1 世界の自由度傾向 2005 年〜 2017 年
Houseが「自由な国」と評価するハンガリーも,過去 10 年で 20 点,リヒテンシュタインは 10 点後退している.民主主義大国の米国も 8 点の減点となったが,民主主義的価値観の享受 国で,なぜこのような民主主義体制の揺らぎが見られるようになったのだろうか.
3 .経済格差と民主主義の揺らぎ
まず,グローバル化による各国の経済格差の拡大が,民主主義の価値観を脅かしているとい う議論を検証する.グローバル化は,国家や国際機関,非政府組織,民間企業など多様なアク ターによって推進されてきた.特に,冷戦後の資本主義経済の拡大は,政府や多国籍企業によ る経済的相互関係の強化の影響が大きい.1989 年は 3.055 兆USドルであった世界の製品輸出 額は,2017 年には 17.82 兆USドルに,また製品輸入額は,3.137 兆USドルから 18.028 兆US ドルに増加した.世界のGDPにおける製品貿易額の割合も,1989 年は 30.5%,2017 年は 44.1
%であった.同貿易額がピークであった 2008 年には 51%を超えていた4).また,世界銀行グル ープThe Changing Wealth of Nations 2108は,1995 年から 2014 年における自然的資本や人 的資本を含む 141 ヵ国における「富」の推移を報告している.この報告書によると,世界全体 の「富」は 20 年間で 66%増加したが,格差は大きく,OECD高所得国のひとり当たりの「富」
は,低所得国の 3 倍になっている5 ).世界各国の経済格差については,Thomas Piketty の Capital in the Twenty-First Century「 21世紀の資本」6 )が長期にわたり分析をしている.
Pikettyは,増加する格差は,社会における不平等を助長し民主主義の深刻な脅威となると指
4)世界銀行経済データhttps://data.worldbank.org/topic/trade 5)世界銀行グループ,The Changing Wealth of Nations 2108.
6) Piketty, Thomas のCapital in the Twenty-First Century「21 世紀の資本」. 0
10 20 30 40 50 60 70 80
改善 後退
2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017
(年)
(国の数)
出所: Freedom House,Freedom in the World 2018.からの データを基に筆者が作成
図-2 世界自由度「改善」・「後退」の国際比較 2006 年〜 2017 年
摘する7).格差社会の不平等さは,民主主義の理念である自由と平等を脅かす要因になり得る からである.
では,近年の国際経済相互依存の深化による格差は,民主主義社会にどのような影響をもた らしているのだろうか.本稿は,前述のFreedom Houseの世界の自由度スコアを使用し民主 主義社会の変容を測り,世界銀行グループが算出した各国のジニ指数(GINI Index)との関係 を検証する.2005 年から 2017 年の期間にFreedom Houseが評価した「自由な国」の中で,
7)日本経済新聞「『格差は民主主義の脅威』 ピケティ教授,東大生に語る」2015 年 2 月 1 日 日経 電子版.
表-1 民主主義と経済格差の国際比較(2005 年〜 2017 年)
民主主義(自由度)の変化 経済格差の変化
国 名 2005 2017 自由後退指数 2005*1) 2016*2) ジニ指数の改善
アルゼンチン 83 84 1 46.6 42.2 4.4
ベルギー 95 97 2 29.3 27.7 1.6
チリ 94 96 2 48.2 47.7 0.5
コスタリカ 91 92 1 49.4 48.7 0.7
キプロス 94 95 1 30.3 34.0 3.7
デンマーク 97 98 1 25.2 28.2 3.0
エルサルバドル 73 75 2 48.5 40.0 8.5
エストニア 94 95 1 33.4 32.7 0.7
フランス 90 93 3 29.8 32.7 2.9
ドイツ 94 97 3 31.3 31.7 0.4
ギリシャ 85 88 3 34.6 36.0 1.4
ハンガリー 72 93 21 34.7 30.4 4.3
アイスランド 95 100 5 29.0 27.8 1.2
アイルランド 96 98 2 33.7 31.8 1.9
イタリア 89 92 3 33.8 35.4 1.6
ラトビア 87 89 2 39.0 34.2 4.8
ルクセンブルク 98 100 2 30.8 33.8 3.0
マルタ 92 98 6 28.0 29.4 1.4
ペルー 73 74 1 50.8 43.5 3.0
スロバキア 89 91 2 29.3 26.5 2.8
スペイン 94 95 1 32.4 36.2 3.8
スイス 96 99 3 33.9 32.3 1.6
英国 94 96 2 34.3 34.2 0.1
米国 86 93 7 40.5 41.5 1.0
*1) 2005 年の指数が入手不可能な場合 2004 年または 2006 年の指数を使用 *2) 2016 年の指数が入手不可能な場合,2015 年の指数を使用
出所: Freedom HouseのFreedom in the World 2018と世界銀行グループGINI Indexのデータを基に筆者が作成
自由度が後退した国のジニ指数の変化を調査した8).
表 1 で使用した世界銀行グループ独自の格差を測るジニ指数は,個人または世帯所得分配 を指標化し,100 が完全不平等で 0 が完全平等を示す.調査対象とした 24 ヵ国では 9 ヵ国で 経済格差が悪化したが,13 ヵ国では改善している.したがって,この調査からは,民主主義 への経済格差の影響はあまり見られない.では,民主主義は,他のどのような要因によって後 退するのであろうか.
4 .アイデンティティと民主主義の揺らぎ
本稿では,ヒトの国境を越える移動が増加することで,個人や集団のアイデンティティを喚 起し,異なる社会集団の「政治的権利」や「人権擁護」がリスクにさらされるのではないかと いう仮説をたて検証する.また,「世界価値観調査」の 1981 年から 2015 年の調査結果からも,
アイデンティティに深く影響する価値観と民主主義の揺らぎについて考察する.
4.1 アイデンティティとアイデンティフィケーション
社会学者Anthony Giddensによると,アイデンティティは「自分がどのような存在であり,
自分にとって何が意味をもつのかと関連する,個人ないし集団の性質の示差的な特徴.アイデ ンティティの主要な拠りどころは,ジェンダー,性的志向,国籍ないしエスニシティ,社会階 級が含まれる」と定義される9).アイデンティティは,心理学者のErik Eriksonが元来提唱し た概念で,個人が社会との関係において獲得する自己規定や帰属意識を指す10).「自己」は,「他 者」の存在を意識することによって,自分の所属する社会集団を確認することができる.アイ デンティティは間主観的な概念で,社会科学でも分野によって研究対象や研究方法が異なる.
例えば,社会学では「自己」と「他者」の関係から,エスニック集団や社会的マイノリティ が,どのように権利を主張し獲得するかを,アイデンティティ研究として調査する11).国際関 係論には,国家主体の行為を決定する要因として国益やパワーだけでなく,アイデンティティ も重要視するコンストラクティビズムが存在する.国家のアイデンティティの定義は多様であ
るが,Henry Nauは,個人的なアイデンティティの形成が外的な物理的・社会的要因と内的な
生物的・理性的要因で形成されるように,国家のアイデンティティも内的選好と外的関係によ って構成されると論じる12).内的なアイデンティティは,個人も国家も,他人(国)にどう見 8)民主主義が後退したと評価された国の中で,世界銀行グループのデータが入手可能な国を選択した.
9)ギデンズ,アンソニー『社会学 第五版』而立書房,2010 年,用語解説 1 頁.
10)アイデンティティの概念の定義については,大庭美枝「国際関係論におけるアイデンティティ」『国 際政治』第 124 号 2000 年 137 162 頁が詳しい.
11)長谷川公一・浜日出夫・藤村正之・町村敬志 『社会学』有斐閣 2015 年,438 439 頁.
12)ナウ,ヘンリー『アメリカの対外関与 アイデンティティとパワー』有斐閣 2005 年,25 6 頁.
られているかによって自己を規定するが,自我はつねに他者の認識の総計以上のものにな る13).アイデンティティの内的計測は困難であると認識しながら,Nauは,民主制または非民 主制を分類するFreedom Houseの自由度を諸国家のアイデンティティにおける違いに関する 分析に使用している.
国際関係論におけるアイディアやアイデンティティの影響を研究するAlexander Wendtは,
段階別にアイデンティティを 4 つに分類する14).1 つ目の個人または組織のアイデンティティ
(Personal or Corporate)は,身体や組織の存在から自動的に得られる「自己」であり,「他者」
や「その他」から構成の外部に位置する.そして個人または組織のアイデンティティは,「他」
との違いを前提としているが,その差異にあまり意義をもたない.2 つ目の類型(Type)アイ デンティティは,社会学では社会的カテゴリーまたはラベルと呼ばれるものである.自分と共 通する特色,例えば,態度,価値観,言語などのスキル,知識,意見,経験を共有する(また はそう認識する)ことである.また,この類型アイデンティティによって,国家主体を資本主 義国家,独裁国家,または君主国家などに分類でき,そのアイデンティティは,国内の社会構 成から構築されるのみならず,他国との関係から形成されることもある.3 つ目は,役割(Role)
アイデンティティで,他者や他国との関係においてのみ存在する.社会学者Meadが「I」が「Me」 との関係を提唱したように,社会における他者との関係や期待を考慮し,社会規範を内面化さ せる.この役割アイデンティティは,国際社会では,主権国家平等などの実在権利や内政干渉 の回避などの行動規範となる.また,国家間での「敵」や「味方」なども役割アイデンティテ ィに拠る認識で,相互関係や相互依存度に影響される.4 つ目の集団的(Collective)アイデン ティティは,「自己」と「他者」の関係が築く環境でのアイデンティフィケーション(Identifi-
cation)によって形成される.このプロセスは,相互の協力体制に依存することによって「他者」
が「自己」に組み込まれ,社会的に構築された「Me」を形作る.類型アイデンティティを共 有する集団や国家は,必ずしも集団的アイデンティティを形成していない.集団的アイデンテ ィティは,「他者」とアイデンティティを共有することで,「自己」と「他者」が融合し「利他 的」な行動に導く.例えば自由や平等の価値観を他国に拡散することで,民主主義の集団的ア イデンティティを共有することに成功すれば,争いや対立を回避することが可能になる.
Wendtは,アイデンティティの形成が,社会からの期待に対してどのように自己の行動があ
るべきかを学ぶ社会化のプロセスであると提起する15).本稿では,アイデンティティを調査で 操作化を可能にするため,アイデンティティの形成または変容過程を示すアイデンティフィケ
13)ナウ,ヘンリー『アメリカの対外関与 アイデンティティとパワー』有斐閣 2005 年,27 頁.
14) Wendt, Alexander, Social Theory of International Politics, Cambridge University Press, 1999, pp.224 232.
15) Wendt, Alexander, Social Theory of International Politics, Cambridge University Press, 1999, p.170.
ーションの概念を使用する.なぜならアイデンティティは,複雑な社会的相互依存のネットワ ーク社会で,絶えず展開,発展,成熟,または変容する可能性があるからである16 ).Bucher とJasperは,Acts of IdentificationをIdentityに代替することによって,体系的で実証的なア イデンティティ研究が可能になると主張する.アイデンティティは間主観的で観測が困難な概 念だが,形成過程のプロセスと社会環境や関係を包括的に検証することで,アイデンティティ の可視化を高めることができる.
4.2 民主主義の揺らぎと移民の増加
国連国際移住機関(IOM)によると,1990 年に約 1,500 万人であった出生国から海外に移住 した人の数は,2017 年には約 2,570 万人に増加している.また海外で学ぶ留学生の数も 2000 年の 200 万人から,2017 年は 460 万人と 2 倍以上に増えている17).
しかし,移民が求めた居住地は高所得国に集中し,国境を越えたヒトの移動は世界的にはあ まり増加していない.図 3 が示すように,低所得国への移住者の割合は,過去約 30 年の間,
低下し,中所得国でもほとんど増加はみられない.
図-3 所得別国内人口における移民の割合の推移 1990 年〜 2017 年
0 2 4 6 8 10 12 14 16
1990 1995 2000 2005 2010 2015 2017(年)
(%)
世界 高所得国 中所得国 低所得国
注:高・中・低所得国の定義は,世界銀行の分類による18)
出所:国連国際移住機関のデータを基に筆者が作成
16) Bernd Bucher and Ursula, “Revisiting ʻidentityʼ in International Relations: From identity as substance to identifications in action.” European Journal of International Relations. 23 (2)
pp.391 415.
17) United Nation Population Division Department of Economic and Social Affairs, Worldbook: UN Migrant Stock 2017, https://www.iom.int/global-migration-trends
18)世界銀行グループは,高所得国(GNI $12,056 以上),中所得国(GNI$ 997 〜 12,055)低所得国
(GNI$996 以下)と分類している.World Bank Groupの “Country Classification” による.
本研究では所得の高さにかかわらず,移民が増加した国の民主主義体制の揺らぎを検証する.
特に民主主義が比較的安定していた国で近年,民主主義的価値観を軽視する傾向がみられるの は,移民の増加により,人々のアイデンティフィケーションが起こるからではないかという仮 説をたてて検証する.異なる類型アイデンティティを共有する移民が増加することで,人々が 自分の帰属する類型アイデンティティを意識する,または再確認する(同一化)アイデンティ フィケーションが行われる.次に異なる類型アイデンティティを共有する社会集団間の対立や 排除を避けるために必要な集団的アイデンティティの構築に失敗すると,移民やその他のマイ ノリティの政治的権利や人権擁護を保障することを容認できず,社会的包摂が困難になる.「他 者」との交流が多くなれば,役割アイデンティティも強化され,「敵」・「味方」の集団に分かれ,
社会における小競り合いや衝突も深刻化する可能性がある.
4.3 仮説検証と調査結果
3 節で使用したFreedom HouseのFreedom in the Worldのデータが,民主主義が後退した と指摘する民主主義国と,近年の移民の増加についての相関関係を検証する.
表 2 は,Freedom Houseが民主主義的であると評価した 88 ヵ国中,自由度が 2005 年から 2017 年の期間に後退した民主主義国 37 ヵ国における移民の割合の変化を比較している.その 中の 32 ヵ国で人口における移民の割合が増加している.2005 年から 2017 年の間,世界各国 の移民割合の増加率の平均値は 0.5%19)であるので,民主主義体制が揺らいだ国では,移民の 増加が顕著だったと言える.地域別に見ると,ベルギー(2.6%増),キプロス(4.6%増),デ ンマーク(3.4%増),アイスランド(2.9%増),アイルランド(2.9%増),イタリア(3.3%増), リヒテンシュタイン(10.9%増),ルクセンブルク(12.4%増),マルタ(4.6%増),スペイン(3.5
%増),スイス(5.2%増),英国(4.1%増)と欧州の民主主義国での移民の増加が相対的に増 加していると言える.
図 4 は,表 2 のデータを散布図で表しており,「民主主義国における民主主義の価値観の揺 らぎ」と「移民の割合の増加」には,弱い負の相関関係が認められた(r= .279, p<.1).強 い相関関係が得られなかった理由には,各国の社会システムの違いによって,人々のアイデン ティフィケーションに差異があることが考えられる.したがって,移民の割合が増えれば,必 ず民主主義体制が揺らぐとは言えないが,移民の増加は,民主主義社会のリスク要因となる可 能性があると推測できる.移民の増加は「他者」の存在を意識するアイデンティフィケーショ ンを経て,自由と平等などの民主主義的価値観を「他」の社会集団と共有することが難しくな るからではないだろうか.
19) United Nation Population Division Department of Economic and Social Affairs, Worldbook: UN Migrant Stock 2017.
表-2 民主主義の後退と移民の増加割合の国際比較(2005 年〜 2017 年)
民主主義(自由度)の後退 人口における移民割合の変化(%)
国 名 2005 2017 自由度指数 2005 2017 移民割合の増減
アルゼンチン 83 84 1 4.3 4.9 0.6
バハマ 91 96 5 13.8 15.6 1.8
バルパトス 96 99 3 11.2 12.1 0.9
ベルギー 95 97 2 8.4 11.0 2.6
ベリーズ 86 88 2 14.6 16.0 1.4
ボツワナ 72 78 6 4.8 7.3 2.5
チリ 94 96 2 1.7 2.7 1.0
コスタリカ 91 92 1 8.4 8.4 0.0
キプロス 94 95 1 11.4 16.0 4.6
デンマーク 97 98 1 8.1 11.5 3.4
エルサルバドル 73 75 2 0.6 0.7 0.1
エストニア 94 95 1 17.2 14.7 2.5
フランス 90 93 3 11.0 12.2 1.2
ドイツ 94 97 3 11.5 12.8 1.3
ガーナ 83 84 1 1.4 1.4 0.0
ギリシャ 85 88 3 10.5 10.9 0.4
ハンガリー 72 93 21 3.6 5.2 1.6
アイスランド 95 100 5 14.0 16.9 2.9
アイルランド 96 98 2 14.0 16.9 2.9
イスラエル 79 83 4 28.6 23.6 5.0
イタリア 89 92 3 6.7 10.0 3.3
ラトビア 87 89 2 16.7 13.2 3.5
リヒテンシュタイン 90 99 9 54.2 65.1 10.9
ルクセンブルク 98 100 2 32.9 45.3 12.4
マルタ 92 98 6 6.0 10.6 4.6
ナウル 81 93 12 22.3 32.7 10.4
ペルー 73 74 1 0.3 0.3 0.0
ポーランド 85 92 7 1.9 1.7 0.2
サンマルク 97 100 3 14.4 15.7 1.3
セネガル 73 76 3 2.1 1.7 0.4
スロバキア 89 91 2 2.4 3.4 1.0
南アフリカ 78 88 10 2.5 7.1 4.6
韓国 84 85 1 1.1 2.1 1.0
スペイン 94 95 1 9.3 12.8 3.5
スイス 96 99 3 24.4 29.6 5.2
英国 94 96 2 9.3 13.4 4.1
米国 86 93 7 13.3 15.3 2.0
出所: Freedom HouseのFreedom in the World 2018とUnited Nation Population Division Department of Economic and Social Affairs, Worldbook: UN Migrant Stock 2017のデータを基に筆者が作成
4.4 アイデンティティと世界の価値観
この 4 節では,民主主義の揺らぎについて,アイデンティティとヒトの国境を越える移動の 関係を考察したが,アイデンティティの構築に大きな影響を与える人々の信条や価値観に関し ても検証する.世界の異なる国の人々の意識調査を 1981 年から実施している「世界価値観調
査(World Value Survey)」は,経済開発,民主化,ジェンダー平等の推進や目的が達成でき
る政治社会の実現に,人々の信条が重要な役割を果たしていると 35 年間の調査結果を公表し た20).政治学者のRonald InglehartとChristain Welzelが世界価値観調査のデータを基に作成し たInglehart-Welzel Cultural Mapは,「伝統的価値観」対「世俗・合理的価値観」,「生存の価値 観」対「自己表現の価値観」の主成分分析を実施し,世界の価値観の分布や変容を可視化して いる.「伝統的価値観」とは,宗教,親子の絆,権威への服従を重要視し,離婚,中絶,安楽死,
自殺を拒絶する.また自国に誇りを持ち,国家主義的立場をとる.「世俗・合理的価値観」は,
伝統的価値観と対照的で,宗教や伝統的な家族がもつ価値観,権威には重きを置かず,離婚,
中絶,安楽死や自殺を容認する立場をとる.「生存(Survival)の価値観」は,経済や物質的安 定を重要視し,比較的,民族中心的な態度をとり,信頼や忍耐が低い傾向である.「自己表現 の価値観」は,環境保全,外国人への寛容性,ジェンダー平等,政治経済分野の意思決定過程 への参加を要求することなどに,高い優先順位をつける21).
調査の結果,「伝統的価値観」と「生存の価値観」が強い社会は,ザンビア,モロッコ,ジ 20) World Value Survey,“Findings and Insights”. http://www.worldvaluessurvey.org/WVSContents.jsp 21) World Value Survey,“Findings and Insights”. http://www.worldvaluessurvey.org/WVSContents.jsp
図-4 民主主義の揺らぎと移民の割合の増加に関する散布図
-6
-4
-2 0 2 4 6 8 10 12 14
-25 -20 -15 -10 -5 0
移民の割合の変化
民主主義の揺らぎ(自由度指数)
(%)
出所: Freedom HouseのFreedom in the World 2018とUnited Nation Population Division Department of Economic and Social Affairs, Worldbook: UN Migrant Stock 2017のデータを基に筆者が作成
ョーダン,バングラデシュで見られ,「伝統的価値観」と「世俗・合理的価値観」が高いのは,
米国,多くの南米国,そしてアイルランドの社会であった.また,「世俗・合理的価値観」と「生 存の価値観」が重要視された例では,ロシア,ブルガリア,ウクライナ,エストニアが挙げら れ,「世俗・合理的価値観」と「自己表現の価値観」が高い国は,スウェーデン,ノルウェー,
日本,ベネルクス諸国,ドイツ,フランス,スイス,チェコ共和国,スロベニアなどであっ た22).
1981 年から 1915 年の期間で実施した 6 回の世界規模の調査から,InglehartとWelzelは,
世界全体の傾向として,「伝統と生存の価値観」に重きを置く文化から「世俗・合理的と自己 表現の価値観」の方向にシフトしているとする.この文化的変容は,信頼感や寛容性を含む民 主主義的価値観が国際社会で共有されつつあることを示唆する.しかし,哲学,政治,宗教に よって形成されるアイディアの影響は依然高い傾向にあり,グローバルな価値観の収斂が観察 されたわけではない.グローバル化の深化で,世界中の人々が同じ情報や娯楽を親しむことに なり,価値観が同質化するのでないかと推測されたが,実際にはそのようなことは起こってい ないと世界価値観調査は結論づける.グローバル化の進展した国際社会が,価値観の多様性を 残したまま縮小しているようである.この 35 年間の世界価値観調査結果を概観すると,前述
にあったWendtの集団的アイデンティティの共有には限界があり,争いが絶えない国際社会
から,民主主義的価値観などを享受する「グローバル社会」への移行は困難であると言える.
5 .お わ り に
冷戦終焉後,民主主義国においても,言語の自由や人権擁護の軽視を容認する動きが広がり を見せている.民主主義体制の構築過程で,ジェンダー平等の推進やマイノリティの権利の尊 重などを勝ち取るため,長い努力を積み重ねたにもかかわらず,人は,なぜ反民主化を許容す るのだろうか.本稿は,近年グローバル化が加速した国際社会における民主主義の揺らぎを,
アイデンティティの概念を中心に検証を試みた.国境を越えるヒト,モノ,カネ,情報の移動 は,「他者」を意識することにつながり,人々が元来もつアイデンティティを喚起する.
Wendtが定義した「類型アイデンティティ」の再確認を経て,人は,「役割アイデンティティ」
を「他者」の関係から形成する.帰属する社会集団の「敵」を規定することで,人々は「味方」
を増やし,移民などを含む社会的マイノリティの排除が進む可能性がある.「自己」と「他者」
を融合する「集団的アイデンティティ」が共有されないと,多文化社会における包摂が困難に なる.外国人労働者受け入れの増加を決定した日本でも,この研究結果は今後の課題のひとつ になり得る.グローバル化が進展した国際社会では,アイデンティティの「差異」を認め,山 22) World Value Survey,“Findings and Insights”. http://www.worldvaluessurvey.org/WVSContents.jsp
積するグローバル問題の解決に必須な「グローバル市民」のアイデンティティをもつことがま すます重要になると思われる.
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