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近代日本における能楽復興

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第 1 章 能楽の環境変化:江戸から明治へ

(1)近世における「式楽」としての能

 日本政治史もしくは日本政治思想史において、能楽(能)や謡 について取り上げられることはなかった。その要因をまずは探っ ていきたい。

 能は古くは平安鎌倉時代の猿楽にまでさかのぼる歌舞劇であっ た。足利義満による庇護を受けた観阿弥・世阿弥により「能」が 生まれたとされている。家康が将軍に任ぜられた際、将軍宣下能 が催されたのが始まりとなり、14代家茂まで代々行われた

1

。ま た、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らによって愛好されたという 史話が残されている

2

。徳川家康によって江戸を本拠とする江戸 幕府が創立され、二代将軍秀忠や三代家光も能を好み、特に喜多 流を樹立させ贔屓にしたことから、諸藩の大名が倣ったため喜多 流は全国的に広まった

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。大名家の多くが喜多流であることと繋 がる。能は家光と四代家綱の時代になると幕府の公式行事で演じ られる「式楽」として定着した。能役者は武士の身分に取立てら れる一方、俸禄を与えその技芸に対する厳しい鍛錬を積み、上演 演目も厳しい監督に置かれた。

 豊臣秀吉と並ぶ能愛好者と評される綱吉が世を去り 6 代家宣の 治世になると、将軍に任命される前から儒者として朱子学者新井 白石は、老中を超える政治的影響力を持つようになった。近世朱

近代日本における能楽復興

Reconstruction from Traditional Performing Arts Noh in Modern Japan: Pastimes of the Nobility to Exclusive Group

佐賀 香織

Kaori SAGA

(2)

子学の確立者藤惺窩の弟子である白石

4

は、武家諸法度の内容、

文体を改正し徳川将軍および諸藩大名家による儒学的な統治を規 定したといえる

5

。白石は礼楽を改革し、外交儀礼などの礼を重 視する一方、式楽の地位を得たばかりの能を夷狄の音楽と捉え、

雅楽を重視した

6

。これこそが、日本政治史もしくは日本政治思 想史において、能楽(能)や謡について取り上げられることはな かった原因であろうと考える

7

。能楽は江戸時代においては技芸 であり、あくまでも政治とは切り離された存在として認識されて いたのである。江戸時代の統治者であった徳川将軍家ならびに諸 藩の大名家は支配階層たる武士であり続けるために、武芸を修練 し続け、また社会に武士が登場すると同時にはじまった能は、武 士としての精神性や身体の動きを技芸として演じることが、江戸 幕府における式楽として地位を保ち続けたのではないだろうか。

能は武士を統べる者たちの嗜みと共に教養、儀礼であり、歌舞伎 や文楽という大衆芸能とは一線を画すものとなっていったと考え る。

 生活が保護されて芸を高めることに努力専心していた能役者、

能楽をとりまく環境は、明治維新を機に大きく変化した。幕府が 倒れたことにより、武家の芸能である能楽は、欧化政策を推進し ていた明治政府においては時代にそぐわない芸能として、他の大 衆芸能と同様に風紀を乱すことがないように厳しい管理下に置か れるようになった。能楽は他の大衆芸能と一括りに管理された

8

ことに対して抵抗や反対運動を起こすことはなかった。約250年 間にわたる徳川幕藩体制に順応していた能役者たちにとっては、

為政者に対して抵抗や反対することなどは考えられなかったので あろう

9

 本文では評伝の中で謡や能楽との関わりについての記述がある

中野武営と彼の師事した流派宝生流と喜多流の素養を藩校教育で

培い、梅若流にて稽古を再開した金子堅太郎に関する資料を読み

(3)

解いただけに留まっている

10

。今回の資料調査では、明治・大正 期において能楽・謡曲は華族の娯楽に止まらず、素人にも広がっ ていったと結論付ける。また、今回の調査では効果的な分析方法 を見出す事が出来なかったが、今後の課題としては、能楽・謡曲 の愛好家であった有力者の関係文書や個人文書、日記等から明治・

大正期の能楽および謡曲に関する記録や記述を読み解き、政治的 ネットワークや実業的ネットワークとして繋がっていく可能性に ついて明らかにしていきたい。

第 2 章 能楽を嗜む人々の変遷:大名から明治政府高官、実業家へ

 明治政府は江戸時代の身分制度を解体し、四民平等とするなか で、能役者は為政者から保護されていた士分から民籍に移された。

芸のために生活の保障を受けていた能役者たちは、生活に困窮す る事態に陥った

11

。それは観世、金春、宝生、金剛、喜多等の家 元も同様であり、慣れない農業や商業に従事するほか、かつての 保護者の伝手で華族の給仕などの職を得るなどした者もいた

12

。 維新の混乱が落ち着いた1872年頃から各流派は、流派復興のため の勧進能が催すようになった

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。1873年になると、東京では梅若 流で月に一度程度、定期能が開催されるようになっていた

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。明 治政府による管理は、演目や衣装等にも及び

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、1875年には演能 に対して課税されるようになった

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 大名華族は元々の保護者であり愛好者であったが、1876年に岩 倉具視邸で天覧能が

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、翌年には京都桂宮において天覧能が催さ れた。1878年に青山御所内に能舞台が設置されると、次第に公家 華族の間においても能楽の愛好者が増えていくことになった

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。 奠都後京都から東京青山御所に英照皇太后が遷御される際に能舞 台が設置されたことにより、「観世清孝、宝生九郎、金剛唯一、

梅若実、三宅庄市(和泉流狂言方)の 5 人は宮内省御用掛を命じ

られ、装束料三千円が下賜

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」された。この頃から華族のなかで

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能楽保護の気運が高まり、岩倉具視を中心として、皆楽社の結成 案が練られ、1881年に能楽社が設立された。能楽社は会員の稽古 能を催すために、愛宕山の紅葉館に隣接して芝能楽堂を建築し た

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 明治・大正期において能楽は華族のみではなく、政府高官や実 業家といういわゆる素人の人々の間でも愛好家となる人が増えて いった。素人の愛好家が増えたことは、即ち能楽が日本社会の中 で再び芸能として復活していったことを表していると考える。

 また江戸初期より謡〔能の舞に添えられる歌謡〕は謡本が次々 に刊行され、全国的に広まっていった。謡教授が生まれ、謡の師 匠として生計をたてる人たちによって、謡稽古のための組織が結 成されていった。寺子屋の教科書の内容として取り上げられ、商 売に失敗した者が寺子屋の師匠となっても難儀する事態もおこっ た。江戸後期になると素人の間に謡曲が広く普及し、(最近では 減少しているようであるが、)かつては結婚式で「高砂やこの浦 舟に帆をあげて」とうたわれる「高砂」が披露されていた。熱心 に謡の稽古をする人々が多く存在したということは、潜在的に能 に関心を抱く人が多かったといえるであろう。

 維新の混乱が落ち着くと、能の家元だけでなく仕手方や脇方だ けでなく囃子方までもが謡曲の稽古で生計を立てており、素人に よる謡曲人口が増大した。

 各流派による謡本の刊行規制が行われ、江戸時代に確立してい た家元制度が再度整えられることとなった

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第 3 章 能と謡 中野武営と金子堅太郎

(1)中野武営の場合

 能楽社が結成され芝能楽堂が建築された1881年当時、中野武営

は内務省山林局権少書記官からから農商務省山林局権少書記官へ

と転任した時期であった

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。農商務省着任後 2 カ月で書記局権少

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書記官に異動、上司である農商務卿河野敏鎌に仕事ぶりを認めら れた中野は、同年10月の1881年政変〔明治14年の政変〕の際、河 野と同省書記局大書記官の牟田口元学とともに下野した。下野後、

大隈一派といわれた河野を主幹に中野、牟田口元学〔東京馬車鉄 道社長・京釜鉄道社長〕、春木義彰〔長崎上等裁判所判事〕、中沢 文治〔東京上等裁判所判事〕、客員として北畠治房〔大審院判事〕

が加わり修進社が設立された。修進社設立後、中野は河野の娘の 月下氷人〔媒酌人〕をつとめ、結婚式の場で河野は得意の謡を披 露した

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。その場で河野に強く勧められ、列していた河野の謡の 師松林鶴叟に中野は謡の手ほどきを受け、帰宅後謡の稽古を始め たという

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。中野の謡曲仲間は河野、牟田口、春木、北畠の 5 人 で日本銀行の裏の手形交換所に集まり謡曲会を開いていた

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。  しかし、中野はその後、郷里で当時香川県が併合されていた愛 媛県会議員となり香川県独立運動に奔走、続いて高松市会議員、

香川県会議員としての活動、帝国議会議員活動と政治家としての 活動がはじまった。その一方で同時期は実業界でも活躍が始まっ た時期とも重なる。関西鉄道社長就任、東京馬車鉄道会社取締役 就任、東京株式取引所肝煎就任、東京商業会議所常議員就任など 実業家としても、政治家としても多忙な日々を送る中野は謡の稽 古を一時中断せざるをえなくなった

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 『謡曲名家列伝』によると、中野は1898年に謡の稽古を今度は

宝生流の命尾寿鹿(六)に師事して稽古を再開させた

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。中野の

謡に対する主義として、「謡曲は武士道の精華なり軽佻浮薄の精

神態度を以て苟もすべきに非す。謡は真剣に謡ふ可しとて、自宅

に於て令息相手に謡ふ時さへ、必ず着袴の上ならでは決して謡〔う

た〕は」なかったという

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。中野にとって謡曲は一種の宗教的意

味があり、精神修養の大切な勤行の一つであったため、朝夕の勤

行を怠ることはなかった

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。中野は宴席等で酔いに興じて謡を披

露することはなく、宝生流の本場である金沢に用務で出張の際は、

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あらかじめ謡会の催しに参加するなど稽古鍛錬を重ねていた。そ して、師である命尾宅での月次会(第一日曜

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)には必ず出席し、

中野の稽古に臨む厳格な態度は同会の会員に大いに影響を与え、

皆真面目に稽古に励み、娯楽の会というよりも武士の稽古場の雰 囲気であったという

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 中野は晩年に命尾会のうち特に熱心な同好者を七八人集めて、

水曜会という謡曲会を主宰した。水曜会には万障繰り合わせて出 席していた。水曜会での稽古が始まると、たとえ渋沢栄一からの 電話に対しても、「今日は日も暮れたから、用事は明日にして下 されと然う申せ

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」と一切謝絶、「威武も屈する能はず

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」の中野 の諸事に対する精神がいかんなく発揮された。中野の息子岩太に よる「水曜会」という覚書が残っている

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。水曜会では無本主義 の中野による、「全力で謡ひ、心で謡ふ為には先づ詞章を暗記す るが宜しい。節などどうでもよい。大体は気分を謡ふので、声な どは気にする要はない

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」と、一字一句を間違わぬように謡うこ とよりは、謡曲の番組ごとの心を謡うことこそが大切だという極 致にいたっていたことがわかる

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。中野自身の声は皆に悪声と言 われており

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、その悪声に最初の師である松林や生涯師となった 命尾も閉口していたにも関わらず、心で謡うことにより、番組に よっては悪声であっても心を表現する手段となることを証明して みせた。

 水曜会では稽古の終了後に参加者の皆で晩酌をするのが恒例と なっていた。晩酌をしながら門生の謡曲の批評や指導、激励を行 うほか、処世教訓もしばしば語るなど、気の合う仲間との社交で は平素は口数の少ない中野も胸の内を漏らすこともあったようで ある

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 毎月第一日曜日に師に稽古をつけてもらう月次会と、毎週水曜

日に自分が主宰していた謡曲会において中野の稽古に対する態度

は変わることはなく、厳粛な雰囲気のなか武士の修練のような稽

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古がされていた。中野の謡曲の稽古は己を律し精神を修練するか のようであり、心で謡うという謡の真髄を理解した中野の謡曲は 次第に玄人跣となっていった。

(2)金子堅太郎の場合

 福岡藩出身で中野より 5 歳ほど年少の金子堅太郎は、「私の子供 の時代には、武芸に学問に謡は藩で之を修める事になって居たか ら、私なども矢張り藩で謡を稽古した」と語っている。筑前の国 のほぼ全域を領有していた福岡藩は、黒田孝高〔如水〕を藩祖と する外様の大藩であった

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。江戸時代、外様大名家では能楽が盛 んにおこなわれており、福岡藩でも喜多流の能が盛んであった

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。  金子が藩校、猷修館で謡を稽古したという逸話は、福岡藩にお いて能楽が盛んであった能楽史の記録と合致するものといえる。

金子は1871年の岩倉使節団に同行した藩主黒田長知

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の随行員と して、アメリカに留学、18歳であった金子はグラマー・スクール に入学、飛び級でハイスクールに進学、1876年にハイスクールを 中途退学後、ボストンの法律事務所で後に連邦最高裁判陪席裁判 官となるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(Oliver Wendell Holmes, Jr.)に師事して勉強を続けた。1876年 9 月にハー バード大学法科に進学、1878年法学士の学位を取得して卒業した。

同年 9 月に帰国、1880年には元老院に出仕し、伊藤博文の知遇を 得て、金子は1885年第一次伊藤博文内閣の総理秘書官として明治 憲法の起草に参画した

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。このように、金子はアメリカ留学時代 に、ヨーロッパの知識をはじめ、欧米の法律および法制度を学び、

まさに日本の欧化政策の推進とともに活躍した人物であった。

 金子の稽古再開に関する資料は現在のところ『能楽画報』第12

巻第 5 号、金子堅太郎「明治初年の梅若実」しか見つかっていな

い。ここでは金子が梅若流で稽古再開するにいたった経緯が紹介

されているので、簡単に紹介するにとどめる。維新期に職を失っ

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たのは梅若実も同じであった。梅若実は他の能役者たちが新しく 農業や商業に従事するなど、それまでの生活の場から移転し生計 を立てるなか、東京に残り、装束や面などの道具も処分せず預け ながら、なんとか糊口をしのいでいた。このような状況を伝え聞 いた金子堅太郎は大変感銘を受け、梅若を助ける意味も兼ねて、

渡辺欽一郎、益田孝、松尾臣善、林直庸、天野仙輔、岩崎小次郎 らと共に梅若流に入門したという。彼らは入門理由を梅若に直接 伝えたところ、梅若は喜んで入門を認めた。稽古の謝礼は 1 日 1 円と決め、生活には月々30円ほどあれば十分だということで、金 子たちは 7 人で梅若の生活の面倒をみるために稽古を続けた。梅 若は天候の善し悪しに拘わらず稽古を 1 日も休むことはなかっ た。梅若の熱心な稽古の結果、 7 人の芸は上達し、次は能の稽古 をお願いしたいと梅若に伝えたところ、能の道具は他に預けてい るため、受け取るための費用や拍子方の費用に 1 日28円と正直に 告白されたため、 7 人で分担してこれを負担して梅若の窮状をす くったという。

(3)中野と金子を比較

 比較するにあたり、第一に資料の存在の有無がある。今回は『能 楽画報』を通読することにより、中野以外の能楽・謡曲の愛好家 たちの存在を確認するにとどまっている。政治家や実業家の評伝 でも個人の趣味や嗜みについては簡単に触れられるに留まってお り、資料的なものが発見できる可能性は少ないことも予想される。

中野家は息子たちも熱心に能楽・謡曲の稽古に取組んでおり、能 楽に関する資料をとりわけ多く収集することが可能であったこと が幸いした。今後金子に関しても詳細な調査を行っていきたいと 考えている。

 中野は高松藩勘定部長中野次郎兵衛武憲の長子であり、高松藩

校講道館では人後に立つことを潔よしとせず、文武ともに同輩か

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ら抜きんでていたという。高松藩は譜代筆頭格の溜間詰の家柄

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で彦根の井伊家や会津松平家と同じ格式で合議する地位を継承し ていた。将軍家との縁戚関係の近さから、歴代藩主は質素倹約に 努め奢侈を戒める風潮があったため、江戸においても、高松にお いても能楽を推奨することはなかった。そのことは藩校教育の中 で謡の稽古がなかったことからも明らかである。

 金子も藩校猷修館を首席で卒業、江戸に出て開成学校で学び、

未来を嘱望されていた。若くして家督を相続するも、藩主の随行 員としてアメリカに留学して法律や法制度などを修めて帰朝し、

第一次伊藤内閣において活躍していった。

 中野、金子とほぼ同年代の 2 人の謡との出会いについて比較し た。 2 人とも幼少期に藩政時代の藩校教育を受けているが、出身 藩において能楽をとりまく環境は大きく異なっていた。そのため、

藩校教育で謡を学んだ金子と藩校教育では謡を学ばず、成年に なってはじめて謡に出会った中野とは謡や能の出会いの時期はお おきく異なる。しかし、互いに謡の素養を身につけながらも、各 自の仕事の都合により一時、謡とは距離を置かざるを得なかった ことがわかる。明治初期において謡はまだそれほど政府高官や実 業家の間で浸透していなかったことがわかる。

(4)名士としての嗜み

 能楽会が主催した全国謡曲家投票では、中野より上手になって

いた息子の岩太が全国で72,622票を獲得して 8 位、中野は20票を

獲得するにとどまった

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。一位は35,692票を獲得した飯田巽

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であ

る。投票結果には、15,420票獲得し10位につけた古市公威の名前

を確認することができる。当代の元勲である山県有朋と井上馨の

如く、能楽界における飯田と古市の名は斯道〔能楽〕の元勲と称

されていた

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。両者は共に能楽の復興に尽力し、1875年に文部省

留学生としてパリ工科大学を卒業した古市は内務省において技師

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として雇われながら、帝国大学工科大学初代学長、東京仏学校を 創設初代校長に就任した。古市は近代土木界の最高権威として、

青山御所の能舞台建築や芝能楽堂の建築に関わった。13,249票獲 得し11位につけた井上角五郎や、7,997票獲得した益田孝、2,778 票獲得した團琢磨、850票獲得した山県有朋らの名前も確認する 事が出来る

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。素人出身の多くの謡曲家が育ったことにより、謡 曲の灯は消えなかったといえる。この投票結果は、当時の政府高 官や実業家たちが世界を舞台に活躍するようになるにつれ、日本 ならではの文化の紹介が求められるようになったことや政府の外 交儀礼として演能が行われたこととも関係が深いと考える。常日 頃の修練の結果の一端を表していると見受けられ、留学生となっ た者、政府高官や実業家たちも謡曲や能を嗜むことにより外国に おいても即興で日本文化の伝搬者としての役目を担う役割も果た し、名士としての立場と面目を保つ手段となっていたといえるの ではないだろうか。

第 4 章 貴族の娯楽から素人の娯楽へ

 中野の謡曲は宝生流であったが、宝生流宗家は保守主義で時勢 に適応しないきらいがあった。宗家による稽古をうけていない他 の宝生流の人々は宝生倶楽部を結成、謡曲の門戸開放を掲げ、他 の流派に圧倒されないように努力を重ねていた。中野は宝生倶楽 部を支援した。宝生流宗家と宝生倶楽部に集う人々の間で次々に 対立が重なり、家元宝生九郎の喜寿の賀に対立の原因となった人 物は招待しないという事態となった。社会においても仲裁・調整 役を担っていた中野は、自分の師事する謡曲の家元の対立問題に おいても仲裁役がまわってきた。中野は仲裁を引き受けたが、仲 裁の依頼者による「名ばかりでも宜しいので祝賀会の会長を引き 受けて欲しい」との依頼に対して、「名ばかりの会長はご免被る。

やるなら責任を有ってやります。さもないとお断りです。立派な

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会長になって名実ともに努力しましょう。無責任なことはやらぬ、

喜んでやりませう」と以後、宝生会の会合には出来る限り出席し て世話をした

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。家元の宝生九郎と中野は決して良好な関係では なかった。中野が指示した最初の師松林は宝生九郎の後見人で あったが、九郎は松林を認めず、遂には破門するに至り、中野は 破門された弟子と称していた。松林の没後、次に師事した命尾家 も宝生流にとってはなくてはならない家柄であったが、こちらも 九郎と肌が合わなかったという。祝賀能は九郎のために開くもの であり、流派の体面を第一に考える門下生にとっては、命尾先生 を招待するか否か、様々な思いが行き交った。中野は命尾門下生 であったが、私は祝賀会会長として、皆とは分離して一人となっ ても祝賀会には出席するという態度を示した。祝賀会はそもそも 九郎のための祝賀会なのだから、九郎が望まない人は招待しない と、とうとう師である命尾寿六を招待しないことに決した。この 決断を命尾も受け入れ、祝賀会はつつがなく行われたのである

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。  稽古を積んで能楽・謡曲の舞台に立つことがなかった大隈重信 をして「能楽は国民的娯楽なり

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」と言わしめた。大隈自身、能 や謡曲の稽古を経験することはなかったが、政府高官として展覧 能の陪覧、主催する会社の祝賀行事としての催能や、慈善能に参 加することも多かった。これは大隈に限らず、同時代の元老、政 府高官、実業家達に共通していた。展覧能の陪覧者に選ばれるこ とは誉れ高き事であり、各人に能楽の素養や謡の素養の有無につ いて確認されることはなかった。そこではもちろん、能楽を華族 社会の娯楽と切り捨てることなく、素人が能楽や謡に親しむこと により、日本の国民文化が貴族趣味の高尚なものに変化していっ ていると捉えられている。江戸時代に式楽であった能楽・謡曲は、

明治以降あくまでも娯楽として、人生における楽しみとしての芸 能という位置づけが大きくなっていったのではないだろうか。

 今回の資料収集の結果、明治・大正期において能楽・謡曲は華

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族の娯楽に止まらず、大正期に入ると多くの素人にも広がって いったと推察した。また、今回は能楽を近代国家形成期の文化政 策の中において、効果的な分析方法を発見する事が出来なかった。

今後の課題としては、能楽・謡曲の愛好家であった有力者の関係 文書や個人文書、日記等から明治・大正期の能楽および謡曲に関 する記録や記述を狩猟し、政治的ネットワークや実業的ネット ワークとして繋がっていく可能性について明らかにしていきたい。

 本文は2019年11月 3 日に東北学院大学で開催された日本政治法 律学会第 4 回研究大会における報告を基に加筆修正している。

【注】

1  表章、天野文雄『能楽の歴史』岩波講座能・狂言Ⅰ、岩波書店。1987年、

〔家康〕91頁、〔秀忠〕・〔家光〕・〔家綱〕97頁、〔綱吉〕110頁、〔家宣〕

119-120頁、〔家継〕120頁、〔吉宗〕123-124頁、〔家重〕128-129頁、〔家 治〕133-136頁、〔家斉〕141頁、〔家慶〕143-146頁、〔家定〕147頁、〔家 茂〕149頁。

2  織田信長は桶狭間の戦いの前夜に「人間五十年」と敦盛の舞を待った エピソード(『信長公記』)が有名である。そして、これを底本として 数多の演劇、小説、ドラマで取り上げられてきた。豊臣秀吉は自らの 生涯の事績を新作能として作能させ、宮中に献上するほどの愛好ぶり であった(天野文雄『能に憑かれた権力者秀吉能楽愛好記』講談社選 書メチエ、1997年)。能を好意的に捉えた織田信長と能の保護政策を打 ち出した豊臣秀吉の時代は、今日では能楽の転換期と捉えられている

(『表章、天野文雄『能楽の歴史』岩波講座能・狂言Ⅰ、岩波書店、

1987年80-89頁)。徳川家康も少年期より能を愛好しており、天下を掌 握したのちは能の家元格の四座(観世、宝生、金春、金剛)の役者を お膝元の駿府で保護した(野々村戎三『能の今昔』木耳社、1962年、

6 - 9 頁、前出『能楽の歴史』90-91頁)。

3  特に福岡黒田藩は初世と繋がりが深いことが『福岡県史』に詳述され ていることからもわかる(西日本文化協会編『福岡県史』通史編 1 、 福岡藩文化上、福岡県、1993年、頁)。他に喜多流を愛好したのは津軽藩、

仙台藩、水戸藩、彦根藩、紀州藩、広島藩、松山藩、熊本藩などである。

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4  丸山眞男『日本政治思想史』東京大学出版会、1952年、34頁〔本文で は1999年の新装11刷を参照している〕。

5  新井白石『新令句解』1710年、東京大学総合図書館蔵。

6  渡辺浩『日本政治思想史[十七~十九世紀]』東京大学出版会、2010年、

162-163頁。

7  近年、思想家・武道家である内田樹により身体論から捉えなおす能楽 に関する講演や論考が発表されている。そのいくつかを紹介したい。

養老孟司+内田樹「日本の「文化政策」文化論」『イグザミナ』281号、

2011年 2 月、10-12頁、内田樹「身体と瞑想」『Samgha Japan』Vol.11、

2012年 8 月、52-72頁、内田樹「武道化の能楽稽古」『芸術新潮』第63 巻12号、2012年12月、49-51頁、内田樹「美の随想 文化と階層」『紫明』

第33号、2013年10月、34-38頁、内田樹「観阿弥誕生六珀八十年 世阿 弥誕生六百語十年 能の大成者たち 世阿弥の身体論」『観世』第81巻 第 6 号、2014年 6 月、24-31頁、内田樹「江戸時代の知恵に学ぶ日本が 生き残る道」『潮』第671号、2015年 1 月、158-167頁、内田樹、小林哲郎、

基調講演「武道的身体知」『遊戯療法学研究』第15巻第 1 号、2016年 7 月、

107-122頁。いずれも能楽を政治思想として捉えたものではないが、武 道家としての視点から能楽を捉えており、今後の研究において更に深 く理解するための基礎となるのではと考えている。

8  「太政官布告第136号」1872年 4 月27日(『法令全書明治 5 年』内閣官報局、

1872年、 8 頁)。

9  前掲書『能楽の歴史』1987年、158頁。

10 薄田貞敬『中野武営翁の七十年』471-505頁。

11 古川久『明治能楽史序説』、わんや書店、1969年、13-14頁。

12 前掲書『明治能楽史序説』、10-13頁。

13 「告条」私共数代謡舞ノ家職ニ付此度能興行勧進相願候処本日十日願相 済 来ル二十一日ヨリ十日ノ間古来ノ面装束ヲ取出シ社中一同申合伝 授秘曲ヲ尽シ四方諸君ノ御見物ヲ奉希候 但席料上金一分二朱、中金 一分、下金二朱ツヽ申請候事。浅草御藏上口御構際 梅若六郎、観世 易銕之丞、『東京日日新聞』1872年 3 月14日。

14 「梅若の会」『東京日日新聞』1873年 7 月17日、 8 月 2 日、 9 月 2 日、

10月 4 日、10月24日、11月13日。

15 「教部省布達第15号」1872年 8 月23日(『法令全書明治 5 年』内閣官報局、

1872年、1282-1283頁)。

16 「1875年本布達第 2 号」俳優幷に音曲諸芸師の内寄席出稼ぎの者は結社 の鑑札請取り賦金取集め直に上納、又自宅にて営業在り鑑札無く賦金

(14)

扱所にて上納の二通りにて難渋に付以来出稼ぎ、自宅稼ぎの別無く悉 く皆結社加入の儀に付時宜に依り在籍問合せ、東京都公文書館所蔵、

1875年 1 月 8 日。

17 「岩倉具視邸の展覧能」『郵便報知新聞』1876年 3 月30日、 4 月 1 日、

4 月 4 日。

18 前掲書『明治能楽史序説』22-25頁。

19 前掲書『明治能楽史序説』159頁。

20 当日は皇太后が行啓在らせられ、岩倉右大臣、徳大寺宮内卿、万里小 路皇太后宮太夫、坊城式部頭、香川宮内大書記官、松田府知事と麝香 の間華族等が遊覧した(「芝能楽堂舞台開き」『讀賣新聞』1881年 4 月 17日)。

21 前掲書『能楽の歴史』163-165頁。

22 佐賀香織『国家形成と産業政策―中野武営の実業立国論』志學社、35-

41頁。

23 河野は以前から宝生流の第一人者であった鶴叟松林小三郎を師として 素謡の稽古を熱心に受けていた。河野は官界における宝生流の先覚者 とも称すべき熱心家で謡も熱心であり立派な芸であったと中野も語っ たとある(中野岩太談「松林鶴叟翁」『宝生流素謡の栞別冊』(非売品・

中野家蔵書)「先生の指示されたる人々」11-12頁)。

24 前掲書『中野武営翁の七十年』472頁。中野は河野の勧めによりはじめ は半分義理で学んでいたが、番数を重ねるうちに熱心家となり、朝に 晩に暇さえあれば謡っていた(齋藤香村「惜しまるる人々 噫中野武 営翁」『能楽画報』第12巻第12号、能楽書院、1918年12月、 8 頁)。し かし、中野の一度始めたことは途中で投げ出さない性格を認めた河野 は中野を真の謡曲家にしようと松林を師にするように手筈を整えたと いう。

25 前掲書『中野武営翁の七十年』473頁。

26 前掲書『中野武営翁の七十年』476-477頁。

27 齋藤芳之助『謡曲名家列伝』能楽通信社、1914年、84頁。

28 前掲書『謡曲名家列伝』84-85頁。

29 前掲書『中野武営翁の七十年』487頁。

30 前掲書『中野武営翁の七十年』485頁。

31 前掲書『謡曲名家列伝』85頁。

32 前掲書『中野武営翁の七十年』487-488頁。

33 前掲書『中野武営翁の七十年』40頁。

34 中野岩太『思い出の記』、中野家所蔵。

(15)

35 前掲書『中野武営翁の七十年』479-480頁。

36 註29に同じ。

37 中野が「俊寛」謡った際に、それを聴いた大隈重信に「俊寛と云ふ謡 は声を出さないで謡ふものかな」と冷やかされている(前掲書『中野 武営翁の七十年』477頁)。

38 前掲『思い出の記』。

39 西日本文化協会編『福岡県史通史編 3 』福岡県、1998年、181-196頁。

40 前掲書『能楽の歴史』327頁。

41 福岡藩最後の藩主となった黒田長知は、伊勢津藩主藤堂家の三男から 黒田家に養嗣子になったが、能楽を大変好み自ら能を舞うほどであっ たという(村田耕堂『明治・大正・昭和大功臣の親族姻族』白雲堂書房、

1934年、167-170頁)。藤堂家も藩祖藤堂高虎は能を重視した(前掲書『能 楽の歴史』328頁)。

42 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編「金子堅太郎」『新版日 本外交史辞典』山川出版社、1992年、185頁。

43 初代松平賴重は水戸光圀の兄であったことから、松平賴重の子綱重は 水戸藩二代となり、光圀の長子であった賴常が高松藩二代となった(前 掲書『国家形成と産業政策』12頁。

44 「全国謡曲家投票」『宝生』

45 前掲書『謡曲名家列伝』13-16頁。

46 前掲書『謡曲名家列伝』125-126頁。

47 「能楽画報主催全国謡曲家投票」『能楽画報』第 2 巻第 4 号、1910年 7 月、

32-35頁。

48 前掲書『中野武営翁の七十年』494頁。

49 前掲書『中野武営翁の七十年』495-496頁。

50 伯爵大隈重信「能楽は国民的娯楽なり」『能楽画報』第 1 巻第 4 号、能 楽書院、1909年 6 月、16-17頁。

【参考文献】

新井白石『新令句解』1710年、東京大学総合図書館蔵。

池内信嘉『能楽盛衰記』上巻、下巻、能楽会、1925年。

表章、天野文雄『能楽の歴史』岩波講座能・狂言Ⅰ、岩波書店。1987年。

太田牛一『信長公記』国立国会図書館蔵、国立国会図書館デジタルコレクション。

倉田喜弘『明治の能楽』日本芸術文化振興会(一)1994年、(二)1995年、(三)

1996念年(四)1997年。

(16)

齊藤芳之助『謡曲名家列伝』能楽通信社、1914年。

佐賀香織『国家形成と産業政策-中野武営の実業政策論』志學社、2015年。

薄田貞敬『中野武営翁の七十年』中野武営伝記編纂会、1934年。

中野岩太『思い出の記』中野家所蔵。

西日本文化協会編『福岡県史通史編 1 』福岡県、1993年 西日本文化協会編『福岡県史通史編 3 』福岡県、1998年 野々村戎三『能の今昔』木耳社、1962年。

古川久『明治能楽史序説』わんや書店、1969年。

丸山眞男『日本政治思想史』東京大学出版会、1999年(新装11刷)。

村田耕堂『明治・大正・昭和大功臣の親族姻族』白雲堂書房、1934年。

渡辺浩『日本政治思想史[十七~十九世紀]』東京大学出版会、2010年。

『宝生流素謡の栞』非売品、中野家所蔵。

外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『新版日本外交史辞典』山 川出版社、1992年。

『法令全書』

『東京日日新聞』

『郵便報知新聞』

『讀賣新聞』

『イグザミナ』

『潮』

『観世』

『芸術新潮』

『Samga Japan』

『紫明』

『能楽画報』

『宝生』

参照

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