聖人伝、高僧伝と社会事業 : 古代日本、ヨーロッ パの高僧を中心に
著者 オーガスティン ジョナサン
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名: 日文研フォーラム, 開催地: 国際交流基金 京都支部, 会期: 2001年9月18日, 主催者: 国際日 本文化研究センター
ページ 1‑16
発行年 2001‑12‑25 その他の言語のタイ
トル
Charity in hagiographic texts シリーズ 日文研フォーラム ; 142
URL http://doi.org/10.15055/00005675
第142回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
■
聖 人 伝 、高 僧 伝 と社 会 事 業
一 古代 日本、ヨ ー ロ ッパ の 高 僧 を中心 に一
CharityinHagiographicTexts
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ジ ョ ナ サ ン ・ オ ー ガ ス テ ィ ン JonathanM.AUGUSTINE
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン ター
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあたり︑
一九入七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的は海
外の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにありま
す︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立ってい
るわけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議
論や情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒こ
のフォーラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究
者が自由なテーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマル
な﹁広場﹂を提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を機として︑皆様の日文研フォー
ラムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長山折哲雄
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聡謁
(火) 2001年9月18日
発表者紹介
ジ ョ ナ サ ン ・オ ー ガ ス テ ィ ン JonathanM.AUGUSTINE
国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 外 来 研 究 員 JSPSResearchFellow,Int'lResearchCenterforJapaneseStudies
略 歴 2001年3月 1995年9月 1997年2月 1998年10月 1999年4月
Ph.D.(プ リンス トン大 学) 中 国湖北 師範大 学英 米文 化講 師 プ リンス トン大 学 東洋学 部講 師 仏教 大学 文学 部非常 勤講 師 龍 谷大学 文学 部非 常勤講 師
著 書 ・論 文 等
・"KamonoChomeiandtheFoundationsofReclusiveIdeals
,"Princeton UniversityArchives,1995.
・ 「神 話 ・伝 説 ・昔 話 学 の 国 際 化 」 『世 間 話 研 究 』 第10号 、2000年
・"MonksandCharitableProjects
,"JapaneseReligionsNo.26,2001.
・̀̀ThePoliticsofCharity ,"Ph.D.dissertation,2001.
﹁聖人﹂と﹁菩薩﹂の称号
聖人伝や高僧伝は中世に入って組織的に集められて以来︑農民や商人から貴族階級の
人々にまで親しまれてきた︒ヨーロッパの﹁聖人﹂と同様に︑日本でも奈良時代から
﹁菩薩﹂や﹁菩薩僧﹂とよばれた人物がしばしば六国史や伝記のなかに登場する︒しか
し︑菩薩と称された人物は︑必ずしも社会事業に貢献しているとは言いきれない︒この
論文でとりあげる高僧伝は︑江戸初期の﹃本朝高僧伝﹄のような書籍だけではなく︑も
っと広い意味で︑民衆から高僧として崇拝されていた人物をとりあつかった伝記である︒
このように︑社会事業の観点から聖人伝と高僧伝を比較すると︑全く異なった文化の問
にも︑偶然とは思えないような共通点があるように思われる︒
ヨーロッパの聖人伝の殆どは脚色された大げさな伝記からなりたっているため︑多く
の歴史学者は研究対象にならないと言っている︒ここで考えたいのは歴史的事実ではな
く︑聖人伝の誇張やレトリックが当時の価値観や世界観をどのように反映しているかで
ある︒今日において︑伝記というものは主人公の短所をも叙述することが要求されるが︑
大部分の聖人伝は信者の奇跡に焦点をしぼり︑聖人同士の違いが殆ど見られないことが
多くなっている︒十二︑三世紀になると聖人伝は修道院のミサの中で朗読されるように
なり︑命日や誕生日になると特別な儀式が行われた︒また︑日本の往生伝や高僧伝と同
じように︑ヨーロッパの聖人伝も︑読んだり聞いたりすることによって︑功徳が得られ
ると信じられていた︒
古代︑中世ヨーロッパの聖人伝について言える事は︑描写されている聖人が必ずと言
っていい程︑なんらかのかたちで社会福祉に携わっていることである︒秀でたキリスト
教徒が聖人の称号を与えられるには︑ローマ法王の正式な認知が必要であったが︑一般
的には地元の信仰者が長旅をして︑司祭か他の高官にその聖人が行った善行について報
告することが必要であった︒十三世紀になるとヨーロッパ中の小さな町や村落などで︑
福祉活動に力を注いだり︑奇跡を起こしたりする者を﹁聖人﹂と讃え始めた︒しかし︑
イノセント皿世(一一六〇1一二一六)はこういった動きが︑曖昧な聖人をたくさん作
りだすと考え︑法王だけが中央主権的に聖人を選択することができるよう新たな法律を
定めた︒
日本の場合︑菩薩の称号を制限するメカニズムが存在しなかったせいか︑文献の中に
は幅広い人々が菩薩と讃えられている︒鑑真とともに唐から来朝してきた中国僧︑思託
は聖徳太子の生涯を上宮皇太子菩薩伝に記し︑現存する日本最古の僧伝集である﹃延暦
僧録﹄には二十四名の伝記が記述されている︒残念ながら︑その伝記は散逸してしまっ
たが︑現存する目次には︑上宮皇太子菩薩︑近江天皇菩薩︑行基菩薩︑勝宝感神聖武皇
帝菩薩︑天平仁正皇后菩薩︑沙門釈浄三菩薩︑長岡天皇菩薩︑感瑞広祥皇后菩薩︑広智
菩薩などといった多くの人々が菩薩の称号を与えられている︒この目録が興味深いのは︑
聖徳太子︑天智︑聖武︑桓武天皇︑光明皇后︑乙牟漏皇后といった俗人である皇族が菩
薩と呼ばれていることである︒確かに︑聖武天皇や光明皇后は布施屋や施薬院などの福
祉施設の建設にかかわっているので︑敬虔な仏教徒として菩薩と称されてもおかしくは
ない︒又︑行基菩薩のように朝廷から正式に与えられた尊称を記述している書籍も存在
す翫︒
日本で菩薩が社会事業と関連づけられるのは︑行基の長年における布施屋などの建設
であるが︑その化身としてまつられてきた文殊菩薩への信仰は︑平安初期に日本全土に
浸透していたようである︒大安寺の勤操が創始した文殊会では経典を読むばかりではな
く︑地元の農民や官吏も文殊菩薩の教えをまっとうするために穀物を寄付したと元亨釈
書に記されている︒天長五年(八二八)二月二十五日の官符によれば︑勤操が死欠した
後も︑泰善という僧が文殊会の存続を望み︑僧網も全国でこの会が行えるように申し出
ワ たと﹃類聚三代格﹄に記述されている︒
日本の菩薩号の特色は︑神仏習合思想を受けて︑七八一年に八幡神宮に八幡大菩薩の
称号を奉進していることである︒そもそも菩薩号というものは︑歴史上の人物だけでは
なく︑文殊︑普賢︑観音菩薩のように智慧や慈悲をつかさどる守護神として扱われてい
る︒初期キリスト教で︑このような役目を果たしたのは︑新約聖書に登場するガブリエ
ルなどの天使たちであろう︒民衆に親しまれてきた聖人も︑天地の仲裁者の立場を担っ
ていると︑神学者の問で考えられていたようだが︑守護神というよりは︑民衆と同じ立
場におかれた人物として描かれている︒
そして︑平安末期から鎌倉時代にかけて︑律宗を再建した高僧には︑朝廷から菩薩号
がおくられることが度々あった︒後醍醐天皇は覚盛(一一九四‑一二四九)に大悲菩薩
の称号を授与し︑忍性(一二一七ー二二〇三)を忍性菩薩と呼んでいる︒そして︑後伏
見天皇は叡尊(一二〇一‑一二九〇)を興正菩薩と称している︒この点では︑中世のロ
ーマ法王が︑候補者を聖徒の列に加えることと似ているが︑日本では高僧を選出したり︑
評価したりする複雑なプロセスは存在しなかった︒
日本最初の仏教通史である﹃元亨釈書﹄(]三二二年﹁元亨二﹂)は︑仏教伝来から鎌
倉時代末までの︑約七百年間にわたる高僧の伝記や史実を記録した極めて重要な資料で
ある︒虎関師錬は序章に梁や唐の高僧伝に倣って﹃元亨釈書﹂を編纂したと記している
が︑四百人あまりの僧伝の中で︑わずか四人だけが菩薩号の称号で呼ばれている︒しか
も︑その四人は︑叡尊を除くと︑全て奈良時代の僧や皇族であることが伺われる︒虎関
師錬は高僧に対して︑個人的な評価を加えたというよりも︑前例に倣って菩薩と記して
いたようである︒更に戦国や江戸時代になると︑禅師号︑国師号︑大師号といった称号
が頻繁に高僧に授けられたようであるが︑菩薩号は高僧伝の中で殆ど使われなくなった︒
﹁貧困者﹂とキリスト教
こうして考えてみると︑ヨーロッパの聖人伝は最初から社会事業と密接なつながりが
あったようである︒そもそもキリスト教では﹁貧困者﹂が大事な役割をはたしており︑
聖人にとって彼等はなくてはならない存在であった︒最近﹁貧困を一掃する﹂とか﹁貧
困にうちひしがれた人々を助ける﹂といったスローガンが︑世界の政治家の問で頻繁に
用いられるようになったが︑﹁貧困﹂という概念は曖昧なもので︑容易に定義できない︒
﹁富﹂は数えることができても︑﹁貧困﹂を量ることはできない︒特にいわゆる﹁先進国﹂
と﹁発展途上国﹂の間には︑二十一世紀に入っても生活水準に大きな差異があるため︑
﹁貧困者﹂というのは︑なおさら分かりにくくなってきた︒
一般的に現代人にとって﹁貧困者﹂という言葉は︑住居︑仕事︑財産を失った人々の
ことを指すが︑古代の日本やヨーロッパの社会にはかなり違った基準が存在していた︒
金銭がまだ広く使われていない時代には︑﹁貧困﹂というのは[富﹂や■財産﹂ばかり
ではなく︑社会的地位の最も低い人々を指していたのかもしれない︒
古代︑中世ヨーロッパのキリスト教信者にとって﹁貧困者﹂は侮辱や虐待の対象ばか
りではなく︑崇拝の対象でもあった︒町人文化が栄え始めると︑﹁貧困者﹂はもっと身
近な存在になり︑文学作品のなかにも度々登場するようになった︒読み書きできる人口
が増えていく中で︑聖書はもっとも重要な位置をしめていた︒特に新約聖書は︑民衆の
生活の中で絶対的な役割を果たしている︒その福音書が﹁富者﹂と﹁貧困者﹂を両極と
して扱っていることから︑﹁貧困者﹂というカテゴリーが︑現代の西洋人によって作り
上げられたものではないことが分かる︒
例えば︑ルカの福音書六"二五の中で︑イエスは本格的な説法を始める前に十二人の
弟子を山上に集め八福について説いた︒その第一福にイエスは︑﹁貧しい者は幸いであ
る︒神の国はあなたがたのもの﹂と語っている︒この﹁貧しい者﹂が︑具体的に誰を指
しているかは︑明確ではない︒けれども同じ福音書の中でイエスは︑﹁金持ち﹂と﹁貧
困者﹂のたとえ話を語っている︒ルカの福音書]七"一九‑三一を概要すれば︑あるお
金持ちの屋敷の門の前で︑ラザロという貧困者が毎日横たわっていた︒お金持ちはラザ
ロをかまってやらなかったため︑地獄に落ちてしまった︒お金持ちはラザロが天国でア
ブラハムの側にいるのを見て︑地獄から助けを求めた︒しかしアブラハムは︑そのお金
持ちの前世の生きかたを咎め︑地獄で罰を受けるしかないと言った︒興味深いことに︑﹁貧困者﹂に対しては︑ラザロという名前がつかわれているものの︑﹁お金持ち﹂には特
定の名前が与えられていない︒しかも︑ルカのたとえ話の中でラザロだけが名前のある
登場人物となっている︒このラザロは︑中世のヨーロッパの絵画の中で頻繁に取り扱わ
れ︑聖人として崇拝されている︒
イエス自身の活動も︑様々な[貧困者﹂の為に奉げられていることは言うまでもない︒
ルカの福音書は︑イエスがユダヤ地区の様々な町を訪れながら︑ハンセン病患者︑手足
の不自由な者︑悪霊にとりつかれた者の苦しみをも癒したと伝えている︒その社会事業
の範囲は︑あまりにも広く民衆の注目をあびたため︑最終的には権力者の反感を買うこ
とになった︒恐らくユダヤ人の司祭にとってイエスは︑従来の価値観をひっくりかえす
危険な人物だったのだろう︒
ラテン語で﹁貧困者﹂の意味を持ちえる言葉は豊富に存在する︒ぎ瞿睡皀窪ρ臼Φ⇒α㍗
︒⊆の(乞食)け日①膏⊆ω(空腹の)昌ロ含ω(裸の)巨のΦ蠢ぴ良ω(悲惨な)09・暮oω⊆ω(粗
末な装いの)などは物質的欠乏を指すが︑︒日コ①ωという語は弱者や身分の低い人を指し