(1)さかのぼりたずねるほどに
豊かさを増す歴史と文化に満ちた、
豊かな心を育むまち̶桑折。
奥州・羽州街道まちづくり懇談会
(2) 「こおり」は、飛鳥時代の大宝令(701年)で定
められた「国」の下位組織「郡」。この郡の中に50
戸で構成される「郷」があるというのが、8世紀頃
に定まった支配行政の単位でした。「こおり」とい
う地名は古代の「郡家(郡の政治を司る役所)」に
もとづく地名であるとみられています。桑折も信
夫郡の郷の一つ(伊達郷)でしたが、後に伊達郡と
して独立し、その中心地となったものと考えられて
います。
• • •
伊達郡は、1189年(文治5)の源頼朝による奥
州攻めで戦功のあった常陸入道念西朝宗が地頭
となりました。この地に入って伊達氏を名乗り、そ
の始祖となった朝宗は、高子岡(伊達市保原)に居
を定め、その後、桑折近辺に入って寺院を建立し
ていたことがわかっています。
戦国時代後期、14代稙宗は桑折西山城(高舘・
赤舘とも)を本城としました。このころ伊達氏は名
実ともに奥羽最大の大名となっており、家法とし
て有名な塵芥集もここで発布されました。
しかし、親子の内紛に端を発した「天文の乱」
(1542-48)で稙宗を抑えて家督を次いだ15
代晴宗(17代政宗の祖父)は本拠を米沢に移し
て、西山城は廃城となります(1548)。
伊達家のその後、独眼竜として有名な政宗の
代に盛り返し、会津をも攻め取り(1589年・天正
17)大大名となります。しかし秀吉による奥州仕
置を経て、伊達家の本拠は岩出山を経て仙台へ
と移ることになりました。
• • •
伊達氏が去ったあとの桑折は、蒲生氏、上杉氏
の支配を経て、江戸時代に入ると幕府領、福島藩
本多忠国領、また幕府領となりました。1700年
(元禄13)には桑折藩二万石松平忠尚の領となり
ますが、50年を経ずして再び幕府領となり、桑折
代官所(陣屋)が設けられ(1749)、明治時代ま
で続きました。
• • •
江戸時代を通じてこの地が幕府の直轄地であ
ることが多かったのは、半田銀山の存在。大同年
間に発見されたとも伝えられますが、その開発は
1598年(慶長3)頃より、上杉家によって本格的
に始められ、1660年頃までの間に隆盛を極めま
した。以降、産出が1950年(昭和25)の休山ま
で続き、日本三大鉱山に数えられるほどになりま
した。
一方、信達地方一円の養蚕業・蚕糸業も江戸
時代を通じて発展を続け、「奥州蚕種本場」の名
を得るに至っています。
こうした地理的・産業的背景とともに、明治に
入ってからも伊達郡役所が置かれる(明治16年
/1883)など、桑折は全国にその名を轟かせま
した。
町の西方に屏風のように山腹をめぐ
らせる半田山、ふもとの半田沼─この
信達平野北西の丘陵地帯から、町の南
から東北に回り込んいる阿武隈川を目
指して産ケ沢川・佐久間川・普蔵川の清
流がはしっています。阿武隈川左岸の
河岸段丘地にこれらの川がつくった扇
状地に桑折町はひらけています。
その母なる自然の美しさと豊かさのシ
ンボルは、半田沼を中心とした半田山自
然公園と、カジカガエルが鳴きホタルが
舞う桑折町の母なる産ケ沢川の「うぶ
かの郷」。その恵みのシンボルはモモ、リ
ンゴ、そして米など農の実り。そしてこの
地に生を営み、ふるさとの栄えと誇りを
築き上げた人々のシンボルは…? 縦横
に踏み幾重にもめぐった、先人たちの道
をたどってみよう!
献上桃の里から霊山をのぞむ(平沢地区) 旧伊達郡役所
半田沼公園
こおりの
あゆみ
(3)A
桑折宿エリア
羽州エリア
B
追分道標 7
無能寺と御蔭廼松(みかげのまつ) 7
西根上堰・下堰 7
北町(北町商店街)・法円寺の田植塚 7
大安寺 7
旧伊達郡役所(桑折町文化記念)・種徳美術館 7
安藤野雁の歌碑 8
陣屋の杜公園 8
伝来寺 8
桑折寺(こおりんじ)山門 8
諏訪神社 9
宝積寺 9
伊達朝宗の墓所 9
大五輪(おごりん)遺跡 9
つつじヶ丘遺跡 9
中屋敷観音堂跡 10
菅原神社 10
観音寺 10
万正寺の大カヤ 10
常称寺 10
桑折西山城跡 10
こおり温泉「うぶかの郷」 12
菅原神社・先明神社 12
香村こけし・弘法清水 12
国分薬師堂 12
輪王寺跡 12
早田牧場跡・早田の馬場公園 13
半田山と半田山自然公園 13
松原寺(しょうげんじ) 13
追分道標 15
駿河館跡 15
八幡神社 15
古矢舘跡 15
松野善之丞墓地・直住庵 15
妙蔵寺 15
定龍寺 15
厳島神社(柳の句碑) 15
半田銀山史跡公園・女郎橋跡 16
横山伝右衛門の墓(妙蔵寺) 17
早田伝之助邸 17
無能上人の庵跡(碑) 17
益子神社 17
泉田仙台茶屋跡 17
小坂地蔵堂 17
小坂宿 17
松蔵寺小坂観音 17
小坂口留番所跡 18
中ノ茶屋跡 18
伊達成宗墓地 18
松音寺跡 18
深山神社 18
鳥取観音 18
小坂峠 18
産坂(さんざか)と慶応新道 18
峠の不動堂 19
萬蔵稲荷 19
愛宕神社 19
半田銀山二階平坑口跡 19
歓喜寺 19
追分∼旧伊達郡役所∼桑折寺
羽州街道(追分∼御免町∼小坂峠)
自然の小径
奥州街道側
歴史の小径
歴史の小径(つつじヶ丘遺跡から北上)
A
桑折宿エリアA
桑折宿エリア
B
羽州エリア
B-27
B-26 B-24
B-25
B-19
B-17
B-18 B-23
B-15
B-22
B-14
B-13
B-12
B-11
B-6
B-10
B-4 B-5
B-7
B-8
B-3
B-1
A-1
A-1
B-30
B-16
B-21
B-20
B-29
B-28
A-27
A-27
A-28
A-28
A-26
A-26
A-23
A-23
A-22
A-22
A-21
A-21
A-20
A-20 A-18A-18
A-19
A-19
A-17
A-17
A-16
A-16
A-13
A-13 A-12A-12
A-11
A-11
A-10
A-10
A-9
A-9
A-7
A-7 A-6A-6
A-5
A-5
A-2
A-2
A-3
A-3
A-4
A-4
A-8
A-8
A-15
A-15
至A-29松原寺
至A-29松原寺
A-14
A-14
A-25
A-25
至七ヶ宿町
至白石I.C
至白石市
国見I.C
東北自動
車道
国道4号
国 見 町
桑 折 町
小坂峠
小坂宿
桑折宿
羽州街道
ふ じ た
こ お
り
福島県
国見町
桑折町
A-1
A-2
A-3
A-4
A-5
A-6
A-7
A-8
A-9
A-10
A-11
A-12
A-13
A-14
A-15
A-16
A-17
A-18
A-19
A-20
A-21
A-22
A-23
A-24
A-25
A-26
A-27
A-28
A-29
B-1
B-2
B-3
B-4
B-5
B-6
B-7
B-8
B-9
B-10
B-11
B-12
B-13
B-14
B-15
B-16
B-17
B-18
B-19
B-20
B-21
B-22
B-23
B-24
B-25
B-26
B-27
B-28
B-29
B-30
至福島飯坂I.C
至福島市
一般県道飯坂桑折線
B-2
A-24
A-24
B-9
慶応新道
旧羽州街道
(産坂)
一般県道国見福島線
一
般県道国見福島線
主要地方道
白石国見線
1:10000
0 100 500 1000m
(4) 街道通りから無能寺南の交叉点を役場の方に折れてすぐ左折する小路に入ると、水
路沿いの裏通りの風情となります。この水路が西根上堰で、福島市飯坂穴原の摺上川
から取水されています。米沢藩領だった寛永2年(1625)に、先に開削された西根下
堰(1618年・信達四郡役佐藤新右衛門家忠開削・総延長14km)に続いて古河善兵衛
が完成させた灌漑用水路で、梁川五十沢地区の先で阿武隈川に注ぐまで総延長
29km。当時西根郷と
呼ばれた阿武隈川西岸
一帯に黄金色の実りを
もたらしました。
※信達四郡役:上杉米沢藩
領下の信夫・伊達両郡(西
根・東根・小手・信夫の四郷
に区分された)を統治した
地方役人。大肝煎、大庄屋と
も称されました。
桑
折
宿
追分道標
A-1 A-2
無能寺と御蔭廼松
北上してきた奥州街道から羽州街道へ
の分岐点、桑折宿から終点の油川(青森
市)との間に58の宿駅を次いで北上南
下する羽州街道起点の記念碑。峠を越え
て南下してきた旅人には奥州街道との
合流点。大道に開けた桑折宿のにぎやか
な活気を感じて、長旅の疲れも和んだこ
とだろう。
大安寺
A-5
子どもたちに親しまれてきた寺で、歴
代の桑折町役等や桑折藩主・代官等が鋳
造に関わった梵鐘(町重要文化財)があり
ます。また、名代官としてうたわれた竹内
平右衛門信將の墓ほか、西根堰を開削し
た佐藤新右衛門家忠、歌人で国学者の安
藤野雁、弘前藩家老高倉相模藤原盛隆、
そして桑折町の教育功労者である角田
林兵衛や大森常助など、当地方の産業と
文化の礎を築いた先人らの墓があります。
北町
(北町商店街)
・法円寺の田植塚
A-4
街道と梁川新道通りの交叉点がある一
帯みが北町。その西側の町並みの奥にあ
る法円寺には、1689年(元禄2)に当地
を通った奥の細道行脚の芭蕉が詠んだ
「風流の初めや奥の田植唄」の真蹟が埋
められたという「田植塚」があります。芭
蕉を慕う桑折の俳人・佐藤馬耳(ばみ)が
享保4年(1719)に、その霊魂を祀り「芭
蕉翁」と刻んだ碑を建てたもの。馬耳は
本陣をつとめた佐藤佐五左衛門宗明(襲
名して第4代新右衛門)の俳号。芭蕉門下
の中心的存在だったといわれ、仙台藩主
伊達吉村とも交遊があった文化人です。
良然による創建当初(1596)は大光山正徳寺と称したが、江戸中期に高僧として名
高い無能(1683∼1719)が現れ、その弟子不能が師の徳をあがめて寺号を改めて
再興した寺。以後、厳しい戒律を守って生活する律院として発展、浄土宗奥州地方教化
の中心寺院となったといわれています。
境内にある「御蔭廼松(みかげのまつ)」は明治天皇が東北巡幸のときに命名された老
松。推定樹齢450年、樹高6メートル、根回り5メートル、枝張り16メートル。
西根上堰・下堰
A-3
旧伊達郡役所
(桑折町文化記念)
・種徳美術館
A-6
伊達郡役所は明治12年(1879)の三区会所(保原・桑折・川俣)合併により保原町に
設置されましたが、桑折町内有志の誘致運動により明治16年4月に桑折に移されまし
た。庁舎は同5月、陣屋跡地に新築着工、10月に竣工しました。総二階屋擬洋風、屋上に
塔屋もつ壮麗な明治様式庁舎として歴史に名を刻んでいます。国指定重要文化財。
隣接する種徳美術
館は、桑折町の篤志家
角田林兵衛氏が家伝
の書画二百余点と美
術館建設の寄付を申
し出て、昭和56年10
月に開館しました。幕
末から昭和までに角田
家が収集した東東洋・
亜欧堂田善など、近
世・近代の作品が中心
の収蔵作品を展示して
います。
歴史の小径
語らいの小径・彫刻通り
A-1
追分道標
A-1
追分道標
歴史の小径
A-1
追分道標
A-1
追分道標
22
こおり温泉「うぶかの郷」
22
こおり温泉「うぶかの郷」
23
菅原神社・先明神社
23
菅原神社・先明神社
25
国分薬師堂
25
国分薬師堂
26 輪王寺跡
26 輪王寺跡
2
無能寺と御蔭廼松2
無能寺と御蔭廼松
3
西根上堰・下堰
3
西根上堰・下堰
9 傳来寺
9 傳来寺
11 諏訪神社
11 諏訪神社
12 宝積寺
12 宝積寺
10
桑折寺(こおりんじ)山門10
桑折寺(こおりんじ)山門
13
伊達朝宗の墓所13
伊達朝宗の墓所
15
つつじヶ丘遺跡15
つつじヶ丘遺跡
14 大五輪(おごりん)遺跡
14 大五輪(おごりん)遺跡
4
北町・法円寺の田植塚4
北町・法円寺の田植塚
20
常称寺
20
常称寺
18
観音寺
18
観音寺
24
香村こけし・弘法清水24
香村こけし・弘法清水
21
桑折西山城跡
21
桑折西山城跡
至国見町
至福島市
東
北
自
動
車
道
東
北
新
幹
線
東
北
本
線
桑
折
一
般
県
道
国
見
福
島
線
一
般
県
道
国
見
福
島
線
19
万正寺の大カヤ
19
万正寺の大カヤ
17
菅原神社
17
菅原神社
至福島市
一般県道
飯坂桑折線
国
道
4
号
国
道
4
号
羽
州
街
道
5
大安寺
5
大安寺
6
旧伊達郡役所
(桑折町文化記念)・
種徳美術館
6
旧伊達郡役所
(桑折町文化記念)・
種徳美術館
8 陣屋の杜公園
8 陣屋の杜公園
7
安藤野雁の歌碑
7
安藤野雁の歌碑
16
中屋敷観音堂
16
中屋敷観音堂
A-1
追分道標
A-1
追分道標
A-1
追分道標
22
こおり温泉「うぶかの郷」
23
菅原神社・村先明神
25
国分薬師堂
26 輪王寺跡
2
無能寺と御蔭廼松
3
西根上堰・下堰
9 傳来寺
11 諏訪神社
12 宝積寺
10
桑折寺(こおりんじ)山門
13
伊達朝宗の墓所
15
つつじヶ丘遺跡
14 大五輪(おごりん)遺跡
4
北町・法円寺の田植塚
20
常称寺
18
観音寺
24
香村こけし・弘法清水
21
桑折西山城跡
19
万正寺の大カヤ
17
菅原神社
5
大安寺
6
旧伊達郡役所
(桑折町文化記念)・
種徳美術館
8 陣屋の杜公園
7
安藤野雁の歌碑
16
中屋敷観音堂
至国見I.C
至
福
島
飯
坂
I.C
桑折町役場
1:10000
0 100 500 1000m
桑折宿
(追分∼旧伊達郡役所∼桑折寺)
A
訪ね来たるを内にもてなし
出で立つ方に思いをつなぐ
元気街道こおり宿の心
古来からの奥羽の交通の要衝として、また中世には仙台藩伊達家の発祥の地として、そして江戸時代には
日本三大鉱山に数えられた半田銀山の隆盛を背景に栄えたまち、桑折。幕府の陣屋が置かれ、また仙台藩伊
達氏と関わりの深い本陣などがあった中心街の街並は、町内に点在する多くの史跡とともにはるかな歴史と
文化の遺風を奏でています。
宿場町としての桑折は奥州街道より分岐する羽州街道の起点の地であり、ここを宿泊や休憩の場とした奥
羽の大名は18家を数えるといわれています。
(5)諏訪神社
A-11
桑
折
宿
桑
折
宿
伊達氏が西山城を築いたとき、信州の
上諏訪・下諏訪の両神を勧請し城地守護
神として祀って以来、累代の尊崇を厚く
してきた神社。慶長3年(1598)に現在
地 に 遷 座 さ れました が 、明 治 2 6 年
(1893)に本殿・拝殿ともに焼失しまし
た 。現 在 の 神 殿・拝 殿 は 、大 正 1 3 年
(1924)に本格的に再建されたもので、
武の神・実業の神として人々の厚い信仰
を受けています。
宝積寺
A-12
大日聖不動明王と如意輪観世音菩薩
を本尊とする天台宗の寺(総本山は比叡
山延暦寺)。信濃善光寺様式の銅像阿弥
陀如来及び両脇侍立像(県指定文化財)
を安置しているほか、境内には不動明王
石仏立像があります。諏訪神社と隣り合
って一帯に歴史的佇まいの色濃い、落ち
着いた雰囲気をかもしだしています。
伊達朝宗の墓所
A-13
伊達氏の祖・朝宗の墓。伊達氏入部を
裏付ける遺跡として貴重なもの。源頼朝
から許された瓦葺き建物がありました。
この場所は伊達家4代政依が朝宗のため
に建てた満勝寺の跡といわれています。
つつじヶ丘遺跡
A-15
地形が高台になっており、中世の城館
のように、段丘崖面を人工的に切り落と
して形を整えた状況を良好に残した、歴
史的価値の高い遺跡。史跡公園として整
備されています。(駐車場有)
大五輪
(おごりん)
遺跡
A-14
満勝寺開山の墓所と伝えられています。長方形に積まれた石積み遺溝は中世の墳墓
特有の形態を持っており、伊達氏関連の貴重な遺跡です。
足を延ばせば…歴史の小径
桑折出身の国学者で歌人でもあった
野雁が、慶応3年に帰郷したときに歌った
「去国歌」(国を去る歌)が、直筆の原寸大
写しによって彫られています。旧郡役所
の庭に昭和53年に建てられました。
安藤野雁(ぬかり)は代官所役人・北村
新兵衛の子として文化12年(1815)に
誕生しましたが、7歳のとき父に死別。代
官の寺西封元、その子蔵太の養育され、
18歳のとき半田銀山役人安藤祐次政直
の長女須磨子3の婿養子となりました。
しかし23歳のとき、豊後(大分県中南部)
の日田に転勤となった寺西蔵太とともに
桑折を後にします。
日田では、妻の死、親とも師ともあお
いでいた蔵太の死などの悲しみが重なり、
27歳のとき日田をも去って東上。江戸
や駿河(静岡県中部)を拠点に各地を歩
いたようだが定かではありません。53歳
で亡くなる10年ほど前からは武州冑山
(埼玉県熊谷市)の根岸友山の家に寄寓
し、『萬葉集新考』『野雁集』などの代表作
を著しています。
幼いときは神童とと讃えられ、長じて
は本居大平(本居宣長の子)の門下生と
なり国学と歌道を学び、日田では碩学広
瀬淡窓との交わりがありました。さらに塙
忠宝(塙保己一の子)のもとで学ぶなど、
学者肌の人だったようです。維新直前の
慶応3年(1867)、桑折に帰郷するもの
の、一か月も経たぬうちに再び故郷を去
り、冑山へ。あと間もなくという駕籠の中
で、53歳の生涯を閉じました。
武州での野雁は、ボロ着をまとい縄を
巻くという身なりで、雨も中も傘を差さ
ずに歩き回り、人を意に介さないという
奇行の人だったといわれています。
※『万葉集新考』:草稿30巻から成る万葉集の注
釈本。一首ごとに簡明直截に説明したもので、国
学 はこの 本 から始 まったとい わ れる僧 契 沖
(1640-1701)の『万葉代匠記』以来の名著と
いわれています。
陣屋の杜公園
A-8
安藤野雁の歌碑
A-7
伝来寺
A-9
旧郡役所の西側の街区・道場前にある
この寺には、伊達家ゆかりの梵鐘があり
ます。文正元年(1466年)伊達氏11代
持宗が4代政依菩提のために鋳造し、そ
の菩提寺・東昌寺(政依が作った五つの
寺「伊達五山」のひとつ)に寄進した梵鐘。
後に片倉家に授けられ白石城内で使用
されていましたが、割れたので城主・片倉
景 長 が 再 鋳 造しました( 寛 文 元 年 /
1661)。これを当山が明治3年に片倉
家から譲りうけたものといい、銘文には
奥州伊達郡無為山東
昌禅寺鐘と刻されて
います。伊達氏・伊達
五山と当地とのゆか
りをたどる上でも貴
重な文化財となって
います。
旧郡役所東の国道4号に面して高台とな
っている一画は、かつて幕府直轄の代官所
(陣屋=江戸時代に郡代や代官が治政を行
った場所で、役所や役宅、御蔵などをまとめ
て「陣屋」と呼ばれていました)があった場
所。桑折代官陣屋は、本陣一軒、足軽長屋6
軒、銀山地役15軒、吹職5軒から成ってい
ました。その南側に隣接する所に、近代、角
田林兵衛家が別邸として整備した地があり、
現在は町民の公園として親しまれています。
※直轄領 徳川幕府の経済的基盤をなした幕府
直轄の領地。
桑折寺(こおりんじ)山門
A-10
伊達氏が米沢城に移るとき破却された西山城内にあった門を拝領して移築したもの
と伝えられています。丈が高く、簡素な蟇股や渦文の木鼻、台輪先端や木鼻などの鋭い
鎬などは、禅宗様の崩れの少ない時代の作といわれ、貴重な西山城内の遺構とみられ
ています。県重要文化財。
ぶん ご
(6)中屋敷観音堂
A-16
桑
折
宿
桑
折
宿
伊達家3代義広は三法に帰依し、ここ
にあった中屋敷に隠居しました。そのと
き、等身大の三十三観音を安置したもの
と伝えられています。
菅原神社
A-17
もとはつつじヶ丘にあったが天保9年
(1838)に神意によってここに移された
という天神社。もとあった祠は「天神森」
として伝えられたつつじヶ丘遺跡です。
伊達家4代政依は1283年(弘安6)、
桑折に伊達家最初の菩提寺・東昌寺を創
りました。このとき政依は、父(3代目義
広)のために観音寺を、母のために興福寺
を、初代朝宗のために満勝寺、その夫人
のために光明寺を、それぞれ建てたとい
われています。これが伊達家とともに仙台
の北山へと移って行った伊達五山のはじ
まりです(観音寺と興福寺は後に資福寺
が吸収、そこから覚範寺が別れた)。
観音寺は、伊達氏の来る前は信夫庄司
佐藤氏ゆかりの寺だったともいわれ、伊達
五山のなかで一寺だけ桑折に根付いた寺
として現在に至っています。県重要文化財
の聖観音坐像「坂町観音」(信達三十三観
音代9番札所)をはじめ、鎌倉・室町期の多
くの貴重な文化財を有するほか、観音堂
も近世社寺建造物としての価値が高いお
堂です。境内には、弘法大師が湯殿山を開
くとき(延暦元年/782)この地にとどま
って刻んだものと伝えられる観音菩薩像
を祀った「奥の院観音堂」もあります。
常称寺
- 枝垂れ桜が美しく、地元のお花見所と
しても有名。明治期に京都からもたらさ
れたという巨木があります。
桑折西山城跡
町西方に小高い山が連なる通称高舘
山に位置しています。高舘・中舘・西舘から
なる複郭式の平山城で、東側の南北に駿
河舘.常陸舘をともなった巨大な城郭を
なしていました。苔むした石塁、杉林に囲
まれた空堀などのほか、化粧道・大手先・舘
ノ腰などの地名の中に往時の風景がくっ
きり記されています。遺構は戦国大名伊
達氏の居城跡として歴史的価値が高く、
国指定史跡になっています。
万正寺の大カヤ
A-19
A-20 A-21
根本から60センチメートル上の幹回り
約7.5mの、日本一といわれるカヤの巨
樹(県天然記念物)。この地からは古瀬戸
等4点(県重要文化財)の出土品があり、
中に炭と骨片が入っていたとの伝承があ
ります。
観音寺
A-18
つつじケ丘遺跡から北上̶̶歴史の小径
伊達氏(伊達家)物語
文治5年(1189)、奥州合戦。平泉を
めざした源頼朝の軍と奥州藤原氏との
戦いの激戦地が石那坂(福島市)と厚樫
山(国見町)の信達地方でした。このとき
頼朝に従って合戦に加わり、信夫郡石那
坂の戦いで活躍したのがその功により
伊達郡地頭として入部し伊達氏を名乗
ったのが朝宗。これが伊達氏のルーツで
す。以降、宗村・義広・政依・宗綱・基宗・行
宗(行朝)と続き、さらに宗遠・政宗・氏宗・
持宗・成宗・尚宗・稙宗・晴宗・輝宗・政宗の
時まで約400年にわたって、伊達氏は
この地の領主でした。伊達氏の誕生とと
もに全国平定を成し遂げた鎌倉幕府政
権は、その後の北条氏が実権を握りま
す。
1333年(元弘3/正慶2)、政治の矛盾
の不満に端を発する乱れを突いて、醍醐
天皇が自分を中心とした政権を目指し
て幕府を倒し、建武の新政を開始します。
しかし政権は安定せず、南北朝の時代に
突入。天下はまた二つに割れることにな
ります。このとき伊達氏7代行宗(行朝)
は、南朝方の将軍北畠顕家の片腕となり
(式評定衆)、南朝方劣勢の中、霊山に国
府を移して奮闘を重ね勇名を馳せ、家名
を上げます。
足利氏室町幕府の時代になると、伊
達氏は京都の将軍家との結びつきを深
め、中央と対立していた鎌倉公方(室町
幕府の東国統括機関だった鎌倉府の長
官)と争う(九代政宗)などしました。以後
着実に実力をたくわえた伊達氏は14代
稙宗が陸奥守護職に(1523)、任じられ
るに至ります。しかし稙宗・晴宗親子は政
治姿勢の違いから争い、奥州を二分する
天文の乱(1542-1548)を引き起こし
ました。事実上この乱に勝利した晴宗は、
足利義輝(室町幕府13代将軍)の命に
より本拠を米沢城に移すことになります。
晴宗も奥州探題に任じられましたが、戦
後処理にその後追われ乱中に勢いをつ
けた家臣たちが謀版をおこすなど勢力
を弱めました。1584年に16代輝宗の
あとを継いで当主となった17代政宗で、
強硬な領土拡大主義で奥羽南部の大半
を配下に治めたのでした。
C O L U M N
伊達朝宗像
仙台市博物館所蔵
9代大膳大夫政宗像
仙台市博物館所蔵
伊達稙宗像
仙台市博物館所蔵
伊達晴宗像
仙台市博物館所蔵
御番所の蔵より見つかった
伊達家書状
観音寺奥の院
(7)桑
折
宿
早田牧場跡・早田の馬場公園
半田山と半田山自然公園
三冠馬ナリタブライアンを出した早田
牧場の本場はここ。御免町の早田家と半
田沼とのほぼ中間にあります。1917年
(大正6)にサラブレッドの生産を始めた
早田家は、1973年(昭和48)に農事法
人資生園早田牧場を開業。4年後は北海
道に新冠支場を開く。そして1990年代
ビワハヤヒデとナリタブライアンを相次
いで送り出し、競馬ファンの熱狂に包まれ
た。しかしその後の巨額投資などがもと
で、2002年の自己破産に至りました。
早田の馬場公園はその早田牧場の東
斜面に進められている公園。NPO花の郷
夢工房による桜の木200本の植樹が平
成17年3月に完了、眺望も素晴らしいこ
ころの遊牧場に生まれかわろうとしてい
る。植樹は20年計画で3万本を目指し、
今後も継続される予定。
ビワハヤヒデとナリタブライアン:日本競馬史上最
強の兄弟といわれる。ビワハヤヒデは菊花賞、天皇
賞(春)、宝塚記念に優勝、通算四度のレコード勝ち
などファンの期待をかきたてました。1歳下の弟ナ
リタブライアンは、JRA史上5頭目の三冠馬。JRA
主催「20世紀の名馬100」1位のスーパースター。
とくに三冠レースで見せた圧倒的強さは、過去の
三冠馬を凌駕すると讃えられました。当時の歴代
賞金王記録も更新しましたが、1996年、屈腱炎を
発症し現役引
退。1998年
腸 閉 塞 が 原
因で惜しまれ
ながら早世し
ました。
桑折町の西北部に、屏風のように切り立っ
た壁のような山容を見せる半田山。頂上
には千年以上の昔に押し立てられたのが
始まりという押立神社があります。現在は
明治35年に建立された風神・雷神・雨神の
三神を祀った祠があり(押立三社大権現)、
このことから押立山とも呼ばれていました。
山頂からは、眼下の瑠璃色に輝く神秘的
な半田沼をはじめ、信達平野を一望する絶
好の見晴らしが楽しめます。
その半田沼を中心とした一帯が半田山
自然公園で、春から秋をにかけて県北一
円から多くの人々が訪れるアウトドアの楽
園となっています。キャンプ場、散策遊歩
道、憩いの広場のほか、春の桜や新緑、秋
の紅葉など、四季の自然の美しい景観が
楽しめます。
福島市飯坂町に隣接する南西部松原
地区にあります。ここにある葛の松原碑
(町記念物)は、寺に納められた「葛松原和
歌集」とともに、近世における信達地方の
文芸・俳諧・和歌史を伝える貴重な資料。
高台にある松原寺周辺からの眺望も素晴
らしい。
葛松原碑は、この地に庵を結んだと伝
わる奈良興福寺の学僧覚英(権少僧都覚
英)の事蹟が忘れられるのを惜しんだ福
島藩板倉家の重臣・河原栄機が、松原寺
七世自明和尚と図って1768年(明和5)
に建てたもので、碑文は江戸三筆の三井
親和の書。覚英の歌「世の中の人には葛
の松原と呼ばるる名こそ嬉かりけれ」が
刻されています。河原栄機は同時に、広く
覚英追善の歌を募り「葛の松原和歌集」
一巻を編み、手向けとして松原寺に納め
ました。碑をおおうようにそびえる松の古
木は「葛の松原」名残の松といわれてい
ます。
歌人西行(1118-1190)の作と信じ
られてきた鎌倉時代の仏教説話集『撰集
抄』の伝えによると、松原寺の少し西の松
原諏訪地内に庵を結んで住み1157年
(保元2)に41歳で入寂したという覚英少
僧都は、興福寺一乗院の学僧だったとい
われています。あるとき突如姿をくらまし、
ゆくえが知れなかった。それが奥州への
旅の途上(西行の生涯二度目奥州下りは
1186年)ここを通り、偶然にその庵跡を
たずねあてたのだといわれています。
つつじケ丘から西南下
松原寺(しょうげんじ)
A-29
こおり温泉「うぶかの郷」
A-22 A-27
A-28
産ケ沢川の水と緑の美しい景色に囲ま
れた、温泉のある宿泊研修施設。休憩所
や地元の土産品などもそろっているので、
西山城跡散策や桑折宿めぐりの拠点とし
ても絶好です。温泉は疲労回復・健康増
進・虚弱児童・動脈硬化などに効く。日帰り
入浴はもちろん、宿泊、宴会、研修にと幅
広く利用でき、炉端を囲んで気軽に集え
る若者宿もあるユニークな人気施設とな
っています。
▲問い合わせ・申込先:桑折町民研修センター
うぶかの郷 TE L 024(582)4500
FAX 024(582)4600
-菅原神社
菅原神社(南半田字上)は、高舘城主
伊達氏が創始したものと言われていま
す。先明神社(南半田字内之馬場)は養
蚕の害となるネズミの天敵である「へび
神」を祀っています。ともにうぶかの郷の
近くにあります。
輪王寺跡
輪王寺は、伊達氏11代持
宗により梁川町に創建され
た9代政宗夫人の菩提寺。伊
達氏の躍進とともに桑折西
山・米沢・会津・岩出山・仙台と
移転を繰り返した(輪王寺の
六遷)。弘法大師が祀られて
おり、かつて輪王寺があった
ことを記すのは地蔵の脇に
建つ石碑だけとなっていま
す。
つつじケ丘遺跡から北上̶̶歴史の小径
香村こけし
独特の形をした招福こけしをはじめ、優
しく気品に満ちた芸術的なこけしを制
作。こけし館でその作品群を楽しむこと
ができます。またこの地から湧く「金剛
水」は、地形上、雨水や地下からの不純
物がいっさい入り込むことのない、非
加熱でくさらない水 として全国的にも
貴重。店内にはお休み処もあります。
(駐車場有り)
弘法清水
弘法大師空海の法力で湧き出したとい
われる清水
桑
折
宿
A-23 A-24
A-26
国分薬師堂
薬師堂は天文年間に建立
された伊達氏の祈願寺とい
われています。その本尊の薬
師如来は、伊達氏が仙台に移
るときいっしょに移そうとしま
したが、この地の守護仏だか
らといってどうしても動かな
かったと伝えられています。
A-25
(8)八幡神社
B-3
羽
州
街
道
南半田字八幡にある八幡神社は、もと
梁川にあった伊達氏勧請の社を移した
のがはじまりといわれています。また南
半田字内城にある内城八幡神社も伊達
氏建立のものといわれています。西山八
幡と称されたものとも、妙蔵寺の横にあ
ったが水害に遭いこの地に移されたとも
伝えられています。
病の父と弟のため精進を尽くしたのち正徳
寺(現無能寺)の無能上人に帰依、出家して直
往と称した松野善之丞(孝子善之丞)の墓地
(享保年間)とお堂があります。
1318年(文保2)に日尊上人
の法弟日伊上人によって開基さ
れたお寺。境内に桑折代官横山
伝右衛門や銀山役人らの墓、明
治期の銀山経営者五代氏の「猟
犬塚」などがあります。
現在の御滝山不動院の一帯は、戦国時
代の山城・桑折西山城の一角を成していた
駿河舘の跡と思われる。西山城はこの南西
に連なる小高い山(通称:高舘山)一帯に高
舘・中舘・西舘など複数の郭を持っていた平
山城で、駿河舘や常陸舘も合わせて巨大
な城郭をなしていたという。初代朝宗墓所、
桑折寺山門などとあわせて訪ねたい伊達
氏ゆかりの遺構の一つ。
根子屋(城下に築かれた住空間や曲輪)
を伴った大規模な中世の山城跡。南半田
氏の居館。(内城地区)
(写真/古矢舘跡付近から町内を望む)
定龍寺
境内に飯坂十綱橋での建設のため尽
力し、最期は橋の永遠を願って入水し人柱
となった(明治17年/1884)按摩・伊達
一の墓があります。縁起等は不明で、福島
市の真乗院所管の寺となっています。
厳島神社
(柳の句碑)
追分の北東・国道4号の東・大字谷地字北道場地内
境内に「柳の句碑」があります。もとは
奥州街道と羽州街道の分岐点・追分にあ
ったもので、「夕暮れに 心の通ふ 柳か
な」のト而翁の句が刻まれています(この
柳の句碑は追分の分岐点に移設予定)。
江戸時代には弁財天社と言
われていたこの神社は、谷
地村の修験和尚院宥照が
近江国(滋賀)厳島を詣でて
1437年(永享9)に勧請し
たものと伝えられています。
弁財天社厳島神社。
B-4
古矢舘跡
妙蔵寺
追分道標
B-1 B-2
駿河館跡
B-6
B-8
B-7
松野善之丞墓地・直住庵
B-5
北上してきた奥州街道から羽州街道へ
の分岐点、桑折宿から終点の油川(青森
市)との間に58の宿駅を次いで北上南
下する羽州街道起点の記念碑。峠を越え
て南下してきた旅人には奥州街道との
合流点。大道に開けた桑折宿のにぎやか
な活気を感じて、長旅の疲れも和んだこ
とだろう。
主要地方道
白石国見線
21 松音寺跡
26
萬蔵稲荷
26
萬蔵稲荷
24
小坂峠24
小坂峠
25
産坂(さんざか)と
慶応新道
25
産坂(さんざか)と
慶応新道
14 泉田仙台茶屋跡
14 泉田仙台茶屋跡
23 鳥取観音
23 鳥取観音
15 小坂地蔵堂
15 小坂地蔵堂
20
伊達成宗墓地20
伊達成宗墓地
17
松蔵寺
小坂観音
17
松蔵寺
小坂観音
19
中ノ茶屋跡
19
中ノ茶屋跡
18
小坂口留番所跡
18
小坂口留番所跡
6・10
妙蔵寺横山伝右衛門の墓
6・10
妙蔵寺横山伝右衛門の墓
9
半田銀山史跡公園・
女郎橋跡・弘成館精錬場跡
9
半田銀山史跡公園・
女郎橋跡・弘成館精錬場跡
11 早田傳之助邸
11 早田傳之助邸
12
無能上人の庵跡(碑)12
無能上人の庵跡(碑)
13
益子神社13
益子神社
28 愛宕神社
28 愛宕神社
29
半田銀山
二階平坑口跡
29
半田銀山
二階平坑口跡
30
歓喜寺
30
歓喜寺
22 深山神社
22 深山神社
1
1
2
駿河舘跡2
駿河舘跡
3
八幡神社
3
八幡神社
4
4 5
直住堂
5
直住堂
7 定龍寺
7 定龍寺
8
厳島神社(柳の句碑)
8
厳島神社(柳の句碑)
26
萬蔵稲荷
24
小坂峠
25
産坂(さんざか)と
慶応新道
14 泉田仙台茶屋跡
23 鳥取観音
15 小坂地蔵堂
20
伊達成宗墓地
17
松蔵寺
小坂観音
19
中ノ茶屋跡
18
小坂口留番所跡
6・10
妙蔵寺横山伝右衛門の墓
9
半田銀山史跡公園・
女郎橋跡・弘成館精錬場跡
11 早田傳之助邸
12
無能上人の庵跡(碑)
13
益子神社
28 愛宕神社
29
半田銀山
二階平坑口跡
30
歓喜寺
22 深山神社
1
2
駿河館跡
3
八幡神社
4 5
直住庵
7 定龍寺
8
厳島神社(柳の句碑)
至白石I.C
国見I.C
東 北自動
車 道
東 北自動
車 道
国道
4号
国道
4号
一
般
県
道
国
見
福
島
線
一
般
県
道
国
見
福
島
線
至福島飯坂I.C
至
白
石
市
21 松音寺跡
羽
州
街
道
16
小
坂
宿
至福島市
至七ヶ宿町
1:10000
0 100 500 1000m
羽州街道
(追分∼御免町∼小坂峠)
B
夕暮れに
心の通ふ
柳かな
羽州とは出羽(山形・秋田)の国のこと。その羽州街道は、桑折町を起点として小坂峠を越え、山中七ケ宿から西北へ奥羽山
脈を越えて山形県上山へ、さらに秋田を経て北上、青森県青森市の油川まで続く道です。後に羽州街道と呼び慣わされたこ
の道は、当時は、福島から山形を目指す人々は「最上道」と呼び、桑折周辺には「小坂通り」と呼ぶ人もいたといいます。その古
くからの道筋を江戸時代に、中心となって整備したのは秋田藩佐竹氏。そのため「秋田道」や「佐竹道」とも呼ばれました。
山形・秋田・青森各藩13大名の参勤交代や江戸との連絡のため行き来する武士たちの通行にはじまり、出羽三山参詣の旅
人など庶民の往来の増加とともに、山形・秋田と福島側の各地との文化・物産の交流・流通の基幹道となりました。
(9)半田銀山物語
C O L U M N
羽
州
街
道
羽
州
街
道
半田銀山史跡公園・女郎橋跡
B-9
旧羽州街道と東北自動車道が交差した
ところにある史跡公園。半田銀山の「ズリ
山」を横断して街道が通っていた場所で、
採掘した銀鉱石や鉱滓(ズリ)を運搬した
トロッコ線路の跨線橋の石垣が残ってい
ます。女郎橋の名は、桑折宿の飯盛女が銀
山稼ぎのなじみ客を石垣そばの小川にか
かる橋の袂まで送ってきて別れを惜しん
だことからという。
明治期の銀山経営社だった弘成館の精
錬場跡に明治天皇行幸記念碑が建つほか、
銀山鉱夫の墓など、周辺には近世から昭
和までの銀山遺構が多く残されています。
※弘成館は、初代大阪商工会議所会頭をつとめた
五代友厚が明治6年につくった全国の鉱山の管理
事務所。半田銀山は上杉藩領から幕領となり、明治
7年7月からこの弘成館の経営するところとなり、さ
らに日本鉱業(現ジャパンエナジー)へと引き継が
れ、鉱量枯渇とともに昭和25年(1950)に休山し
ました。
大同2年(807)に開かれたと言い
伝えられる半田銀山は、江戸時代初め
には本格的に掘り進められ、幕府直轄
として有力な財源となっていた時期も
ありました。元治元年(1864)になる
と産出量は大幅に減少し、幕府は経営
を放棄したものの、その10年後、明治
7年(1774)に薩摩出身の豪商五代
友厚の指導による近代鉱山として第二
のスタートを切りました。明治17年
(1884)に最盛期を迎えたものの、山
崩れや産出量の減少により昭和25年
(1950)に鉱山としての長い歴史に幕
を閉じました。
今では半田銀山の歴史を知る人も
少なくなりましたが、半田銀山で働い
ていた人の中には、地元農家の方たち
も兼業として数多く参加していました。
早朝から坑道で勤務する「一ノ晩」で坑
道に入り、汚れた体を大風呂で落とし
(地元の子どもたちが一緒に入ったと
いうエピソードも)、午後は自分の田畑
で働く…。厳しいながらも希望がきら
めいていた、そんな時代でした。
横山伝右衛門の墓
(妙蔵寺)
B-10
妙蔵寺は桑折代官・横山伝右衛門の菩
提寺。半田銀山の採鉱督励と幕領地の
治世に当たった代官の墓は宝暦年間の
ものです。
無能上人の庵跡
(碑)
B-12
早田邸の裏にある正徳寺無能上人の
庵跡。塞耳庵とも呼ばれた上人入寂の地
といわれています。
益子神社
B-13
早田邸の北にあり、縁起は坂上田村麻
呂の時代にさかのぼるといわれる神社。
延暦年間(782∼805)に坂上田村麿
蝦夷討伐の折り、この地で大竹丸の弟・
赤頭太郎(あかずたろう)を討ち、その場
所に社を建てたもの…といわれていま
す。その昔は赤瀬明神(あかせみょうじ
ん)と呼ばれていました。
小坂地蔵堂
B-15
小坂宿の入口となる町立小坂小学校
前にある小ぶりな地蔵堂。「子育て地蔵」
が安置されており、昔は11月に、地蔵を
箱の車に乗せて「小坂のお地蔵様いま来
たぞ∼い♪」と囃しながら桑折まで往復
する祭りが行われていました(昭和30年
頃まで)。子どもたちを中心に親たちも参
加して行い、夜店も出る、晩秋の小坂通り
の風物詩でした。
松蔵寺小坂観音
B-17
冨塚家の北にある信達三十三観音第
20番札所。
小坂宿
B-16
桑折宿追分から始まる羽州街道最初
の宿場。難所小坂峠を越えるための基地
としての機能が強化されていた宿であっ
たようです。また、二井宿街道を経て運ば
れてきた幕府領屋代郷(山形県高畠)の
年貢米を収める城米蔵も設備されてい
ました。
泉田仙台茶屋跡
御免町を出て普蔵川を渡った街道の右
手にあった茶屋。仙台からここに入ったの
でこの屋号を掲げたという(現在は営業し
ていません)。この近辺は今でも「仙台
屋」「鍛冶屋」「車屋」など、屋号で呼び合
う習慣が残っています。
早田伝之助邸
B-11
御免町(ごめんまち)にある江戸末期
の豪農屋敷。早田家は代々傳之助を襲
名、幕末期には一帯の北半田村名主を
勤めたほか、西根堰や藤田観月台溜池
の改良工事、小坂峠道の改修工事等、私
財を投じて地域事業に貢献した名望家。
一時は幕府が経営放棄した半田銀山の
経営も行いました。屋敷の北側には羽州
街道の旧道が残されています。
現代の(故)早田傳之助はサラブレッド
生産牧場早田牧場を興し、1990年代
前半の競馬シーンを沸かせたビワハヤ
ヒデとナリタブライアンの兄弟を生み出
しました。
B-14
女郎橋付近
銀山坑口
半田銀山全図
(10)羽
州
街
道
羽
州
街
道
伊達成宗墓地
B-20
小坂宿の西の国見町中切地区
に、伊達氏十二代成宗の墓標
があります。木立に囲まれた石
塁の上にあり、周囲に広がる果
樹園との緑のコントラストが美
しい。
松音寺跡
B-21
成宗墓地の西、寺家地区の竹林の中にある。
伊達成宗の菩提寺の跡地と言われています。
小坂峠
B-24
江戸時代、羽州13家の大名の行列が
参勤交代のためこの峠を上り下りした標
高441mの峠。福島側・宮城側どちらから
も「難所六丁」といわれた急な坂道です。
峠の不動堂
B-26
小坂峠の頂上近くにあるお堂。この街道を通る旅人が安全を
祈願し、羽州街道を往来しました。お堂は、佐竹氏が寄進したも
のといわれています。
萬蔵稲荷
B-27
小坂峠の頂上を越えたところにあります。峠越えの馬子だっ
た万蔵という人が、神に商売を助けられたとして稲荷神社を建て
たといわれています。参道はびっしりと立ち並んだ朱塗りの鳥居
のトンネルとなっています。
鳥取観音
B-23
信達三十三観音第21番礼所。小坂宿
に先行した中世の宿駅で、かつて関所が
あったといわれています。
深山神社
B-22
小坂宿の手前にある神社。境内には樹
齢500年以上の大カヤがあり、大藤がか
らむ姿がたいへん美しいと評判です。近
郊に伊達家家臣歌丸帯刀の居館跡があっ
たといわれています。
中ノ茶屋跡
B-19
小坂宿の北はずれにあった茶屋。一番茶
屋と二番茶屋の2軒あり、ところてんやう
どん、菓子などを出していました。また、万
蔵稲荷に詣る人が買ってゆく油揚げなど
も販売していました。二番茶屋は、その場
所の地名が山ノ神堂だったことから地元
では「山ノ神」と呼ばれていました。
小坂口留番所跡
B-18
松蔵寺手前に位置する小坂宿の出口となる口留
番所(人の出入りや商品の流通を監督した、江
戸時代の小規模な関所。他領と接する交通上の
要地に設けられた)跡。天明の頃(1781-88)
に役についた富塚良助以後、代々世襲して冨塚
家が番所役を勤めていました。そのことから
「御番所」と呼ばれていた冨塚家はかつて伊達
家に家老として仕えた家で、この地に来てから
も伊達家参勤交代の際の治安維持など、伊達家
の守護に勤めてたという。同家からは伊達晴宗
や政宗の書状が見つかっています。
産坂と慶応新道
B-25
小坂峠越えの道は時代とともに開削改
修が行われました。主な道筋は3つあり
ますが、旧道の産坂(さんざか)はいわば
直登コースで距離は最も短く急勾配で
す。その東側をゆるやかに登るのが慶応
新道で、北半田の早田伝之助によって慶
応年間に開かれました。そして「十三曲
がり」といわれる現在の県道は、産坂の
西側を通る車道です。
愛宕神社
B-28
天保11年(1840)に歓喜寺住職宥政
がこの地方守護のため菩薩を祀ったのが
始まりとされている神社で、蚕種(こだね)
の愛宕と呼ばれ養蚕の守護神として信仰
を集めていました。湯野・箱崎とともにこの
地方の三愛宕の一つ。銀山坑口近くの小
高い山(北半田字銀山・愛宕山)にあります。
早田家の西方には̶̶自然の小径
歓喜寺
国見に入る手前の東北新幹線高架脇の
西側側道の先にある(北半田字寺内)。
寛永10年(1633)の開基で、その際の
旦那は新田氏末裔の稲村清左衛門。上
杉家に仕え北半田字関ノ内に住んでい
た清左衛門が、父光清の菩提を弔うため
建立した寺はじまりといわれています。
現在の寺は昭和63年(1988)に新築
されたものです。
奥州街道側
半田銀山二階平坑口跡
半田銀山の当時の様子を色濃く残す坑口跡。平成10年の集中豪雨で倒壊したもの
の、現在は改修されています。国見町指定史跡。
B-29
B-30
(11)さかのぼりたずねるほどに
豊かさを増す歴史と文化に満ちた、
豊かな心を育むまち̶桑折。
奥州・羽州街道まちづくり懇談会