〈 論文 〉
第二のキリストとしてのテス―愛のパラドックス、贈与と殉教
今川 京子 要約 Thomas Hardy は作品中、メタファーや枠組みとしてキリストの教えや聖書を用いた。 これは Hardy がキリスト教的倫理観を小説の中に持ちこもうとした結果ではなく、逆説 的にキリスト教がその出発点として持っていたような破壊的な力を小説において用いよ うとした結果と考えられる。キリスト教が支配する硬直した社会の中、普遍宗教としての キリスト教、制度化される以前のキリスト教のメタファーを用いることで、現代における 人間性の復権、根源的宗教性の復活を示すことが Hardy の意図であった。本稿は Tess of the D’Urbervilles(1891)の Tess に注目し、副題 ‘A Pure Woman’ に Hardy が込めた、 Tess という試金石を投じることで、目に見えないルールとして潜勢する社会コードを顕 在化させる意図を検証する。そしてキリスト教の道徳が制度となり硬直状態に陥った社会 で、結果的に社会のコードを破ってみせる Tess のトリックスター性のなかに、普遍的な 愛の在り方を行為の実践で説いた律法の破壊者としてのキリストの姿を見出し、さらに普 遍宗教としてのキリスト教的精神と Tess の位置関係の中で、イノセンスを逆説的に解釈 することを目的とする。 1. 序論 19 世紀後半からのモダニズム小説といわれる作品の多くは、人間の意識が実存的原罪 という問題と直面し、「失楽園」を肌で感じ始めたという時代の転換期を反映した。その 結果、小説の形式にも変化がもたらされた。それ以前の小説形態としては、外の世界を探 求することで人間の内なる問題も解決することを期待する、いわば単純な楽観的未来への 信頼に裏づけられたものだった。客観的に自然と人間との距離を測って物を見るという姿 勢が特徴だった。それが 19 世紀後半から外へ向かわず内に向かっていき心の中の闇を見 つめる視点へと変化の兆しが見え始める。ロマン主義的自然観が崩壊し、人間のあり様の 限界を人々は認識するに至った。この動きが急速に発達していくのが 20 世紀に入ってか らである。二つの相次ぐ大戦を経て、人間の中に内在する欲望の認識および、その欲望に 突き動かされることで社会が動いていくという、一種の欲望のアイロニーという発見が為 されたことが大きな要因となっている。 「失楽園」の現代における原罪とは一つのメタファーであり、これは人間が抱える実体 のある暗いものを示している。ハイデッガーの提唱した「わたし」という現存在の視点か ら世界を見る眼差し―人間を世界内存在としてとらえる基礎的存在論としての実存哲学― に見られる個としての存在へ意識が向けられるようになっていくプロセスが 19 世紀後半 から 20 世紀にかけての文学へも色濃く反映されていく。本稿では、このモダニズムの胎動を刻んだトマス ・ ハーディ(Thomas Hardy)の Tess of the D’Urbervilles(1891)に注目し、テス(Tess)の個としてのイデオロギー性とファ ウスト的イノセンスiの関係について検討する。
2. 社会コードとメンタリティコードの乖離の顕在化としての ‘Pure Woman’
この作品の副題 ‘A Pure Woman’ および物語りの結末に関しては、出版当時からテスの キャラクター性と併せて論議の的となってきた。ハーディは当時を振り返って自伝の中 で Abercon 公爵夫人のディナーへ招待された折のエピソードを次のように披露している。 「ディナーのテーブルではテスのキャラクターをめぐり論争になりました。二手に分かれ
て、一方の人たちはテスを ‘little harlot’ と呼び、彼女が絞首刑になるのは当然だと言って おりました。もう一方のグループの人々はテスに同情し、‘poor wronged innocent’ と言っ ておりました」(Life, 255, 258)。
この卓上での意見の二分化は、当時の社会コードおよびそれに従わざるを得なかった人 間のメンタリティーを顕在化、可視化させようとしたハーディの狙いが成功したことを物 語っている。そしてハーディ自身は手紙の中でテスの悲劇の原因を ‘paradoxical morality’ だと主張して彼女を ‘essentially pure – purer than many a so-called unsullied virgin’ と認 識している(Collected Letters, I, 267)。 ハーディが『テス』の中で行ったことは、『失楽園』の神話の読み替えとも解せる行為 であった。エデンの園における「知る」という問題を、ハーディは肉体的ヴァージニティ の喪失を「知る」テスへとシフトさせることで、いわばイヴの視点で語りなおす『失楽園』 を提示して見せた。ミルトンのイヴは禁断の果実を口にして「私が感謝したいのは、『経験』 よ、お前に対してだ!お前こそ最上の導き手であった。お前の導きに従っていなかったな ら、私は今でも無知なままでいたはずだ」と独白する。この独白は、ハーディの語りと融 合し、経験を得たテスの変貌振りを描写する場面へ引き継がれていく。
Almost at a leap Tess thus changed from simple girl to complex woman. Symbols of reflectiveness passed into her face, and a note of tragedy at times into her voice. …her aspect was fair and arresting; her soul that of a woman whom the turbulent experiences of the last year or two had quite failed to demoralize. But for the world’s opinion those experiences would have been simply a liberal education.(T, XV, 99)
ハ ー デ ィ が「 経 験 」 に 見 る 価 値 は、‘experience is as to intensity, and not as to duration. Tess’s passing corporeal blight had been her mental harvest’(T, XIX, 124) のフレーズにも凝縮されている。テスはヴァージニティの喪失に表される一つのエデン を失ったことを契機として別の意味で人生を知り、新しい世界へと投げ込まれていく。 知ったことを自分の財産として、負の経験を自分の中のプラスの経験として転換するこ
とで、テスは生まれ変わって成長を遂げていく。‘[T]he magnitude of lives is not as their external displacements, but as to their subjective experiences’(T, XXV, 154)この表現 が示すように経験という知との遭遇により、自己認識を深め精神的に成長していくテスの 心性をピュアとするか汚れと判断するかは、「知る」ことを汚れと見なす西洋文化の中で 社会のコードが決定しているピュアの問題がヴァージニティの問題と繋がっているところ から、社会のコードとテスのコードが衝突し、せめぎあいが生まれることを物語っている。 ハーディにとっては処女性の喪失の問題とは、単なる形だけのものであって、本質的に は「知る」ということに対するテスの能動性の無垢を問題にしていると解釈できる。それ はちょうど、2000 年前にユダヤ教のコードが法となり主となって人々を統制していた時 代の最中にキリストが出現し、旧約聖書に示される心を読むことを目的に再解釈してみせ た姿勢と相通じる要素がある。 「キリストが破らなかった法があるか」とブレイク(William Blake)も言ったように、 ユダヤ教のコードを尽く破ってみせて「心の革命」を目指した、ある種のトリックスター 性を帯びるイエス・キリストと同じく、テスをしてハーディは新しいキリストの到来によ り社会へ一石を投じ揺さぶりをかけたのである。 19 世紀の社会とは、無論キリスト教がコードを支配する時代である。しかし、このキ リスト教はキリストの行為を意味づけ理論化したパウロ的キリスト教である。つまり、ユ ダヤ教を解体する形で現れたキリスト教が、いつの間にか巨大なユダヤ教へと変貌して いったという現象が起きていたのだ。 このようにして 19 世紀、20 世紀当初は逆転したユダヤ教が世界的に繁栄していた時代 の最中、その中からテスという、いわばもう一人のキリストが現れたのである。テスの積 極的、能動的に世界を知ろうとする態度、社会のコードを次々に破ってみせる行為、その どれもが、世界のコードが硬直状態に陥ったときに、外から入ってきた人間が社会のコー ドの欺瞞を浮き彫りにしてみせるトリックスター的行為であり、同時に愛の実践を身を もって説いた殉教者としてのキリストの姿勢に通底する。これは、文字で書かれた律法と、 その心を読もうとする者の争いということになる。律法の心を読み、律法を成就すること は、むしろ律法を破ることでしか実現できない。その律法の心を守り忠実であろうとする 者は殉教する他に術がない。コードという名の立法を破りコードの心を体現し「心の革命」 の喚起を試みたテスは、能動的に自分の運命に対抗し、自分の意志力で生を構築していっ たという意味において、叙々にキリスト化していくといえる。 テスの生における積極性は、ストーンヘンジ(Stonehenge)で社会の法に引き渡さ れるクライマックスにおいても揺らがない。彼女は ‘I am almost glad – yes, glad!’(T, LVIII, 396)という言葉を残し、去って行く。この姿は、まさに「自ら十字架を背負い」 ゴルゴダの丘を登っていったキリストの姿である。ストーンヘンジというゴルゴダの丘で テスという新たなキリストは、自ら進んで十字架に身を捧げる選択をする。テスに見られ るこの意志力、敬虔さ故の知の殉教は、実存的無垢という意味でのファウスト的イノセン スの問題へと拡張されていく。
3. キリストの声なる教えへの信仰 若い時にキリスト教の教理への信仰を失い、ダーウィン(Charles Darwin)の『種の起源』 の出現によって更にその感情が加速化したハーディは、自らを不可知論者と見なした。彼 の作品に見るキリスト教へ注ぐハーディの眼差しは決して単純なものではない。制度上の キリスト教や教会、聖職者を描く時、ハーディの筆致は否定的であり侮蔑の色を滲ませる。 テスが我が子の臨終に際し自らが施した洗礼が有効か否か牧師に問う場面において、聖職 者を「商売人」に喩えるなど、ハーディの思想が現れている。
Having the natural feelings of a tradesman at finding that a job he should have been called in for had been unskillfully botched by his customers among themselves, he was disposed to say no. Yet the dignity of the girl, the strange tenderness in her voice, combined to affect his nobler impulses – or rather those that he had left in him after ten years of endeavour to graft technical belief on actual scepticism. The man and the ecclesiastic fought within him, and the victory fell to the man.(T, XIV, 96) このように聖職者の中に世俗性を見出し、その精神性における堕落を暴いて糾弾する ハーディの在りようは、かつてエルサレムの地で神殿を清めたキリストを意識していると 思われる。神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者、両替をしている者を見咎めたキリス トは、縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その 台を倒し、鳩を売る者たちに向かい「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家 を商売の家としてはならない」と諭したという(ヨハネによる福音書 2 章 13-22 節)。 イエスにとっての神殿とは自分の体のことだった。人間の肉体とは、精神の宿る家のよ うなものであり、その精神の中央には神への愛という信仰が祀られる祭壇がある。ハーディ は、神への信仰が息づくはずの精神の祭壇が俗化した結果、本来ならば「父の家」である はずの人間の肉体および精神が本来の姿を見失い、いつの間にか堕落の一途を辿っている ことを浮き彫りにしてみせる。 このように、ハーディは聖書からの引用を小説の転換点で用いるなど、真髄ではキリス トの教えを強く意識している。この問題についてシェウィック(Robert Schweik)は以 下のように分析する。
Yet although Hardy became an agnostic, he remained emotionally involved with the Church: many of his writings dramatize aspects of the pernicious influence of religious doctrines or the ineffectuality of institutional Christianity, but he could also evoke a wistful sense of the loss of an earlier, simpler faith, or affirm the lasting value of Christian Charity. In short, one thing that sets Hardy apart from many of his contemporaries was his capacity to hold the wide variety of “impressions” of
religion that inform his writings.
One manifestation of the way Christianity remained a persistent influence on Hardy’s writings is that his fiction is saturated with biblical allusions. Critics have disagreed on how effectively Hardy used them, as commentaries on his reference to Satan reveal, but scriptural and other religious allusions in Hardy’s fiction are distributed unevenly, and in some novels they form patterns that obviously play important roles. [Schweik 2007:55-56]
ハーディはキリスト教が人間の性のモラルにとりわけ不寛容であるという性質が、本来 の人間らしさにそぐなわず、調和を欠いているということを暗に示唆する。テスがトラン トリッジ(Trantridge)のアレック(Alec)の元を離れ、故郷マーロット(Marlott)へ の帰路を辿る途中で遭遇する聖句 ‘THY, DAMNATION, SLUMBERETH, NOT’ の描写に その歪められた不自然さが凝縮されている。
Against the peaceful landscape, the pale, decaying tints of the copses, the blue air of the horizon, and the lichened stile-boards, these staring vermilion words shone forth. They seemed to shout themselves out and make the atmosphere ring. Some people might have cried ‘Alas, poor Theology!’ at the hideous defacement – the last grotesque phase of a creed which had served mankind well in its time.(T, Ⅻ, p.79-80) このように、キリスト教の普及した教えが、人間の結末を悪意のある方向へ導いていく 過程を更に明確に書いていくのが『テス』である。制度として社会一般に広く浸透したキ リスト教を世俗化したある種、堕落した宗教と見るハーディの思想は、そのままテスに継 承されていく。ハーディ、テス、彼らの信仰する宗教は浄化されたキリスト教であって 既存のキリスト教ではない。ハーディはキリスト教社界が改善される夢を “the promotion of that virtuous living on which all honest men are agreed” そして “reverence & love for the ethical ideal”(Letters I, 136)と綴っている。
ハーディは人間性を抑圧する宗教へメスを入れる。そして社会のモラルコードと人間の 欲望が一体化した制度としてのキリスト教社会と、時代の試金石としてのテスが接触する ときに抽出される、モラルコードの悪と矛盾、そして人間が真の精神の自由を勝ち取る宗 教的なまでの瞬間に迫っていったと考えられる。テスがアレクとの間に設けた乳児に自ら 洗礼を施す場面は、神および宇宙が自らに課す運命の試練への反抗的挑戦と同時に、神の 慈愛に無限の信頼を寄せている証となる。
She had not thought of that, but a name came into her head as she proceeded with the baptismal service, and now she pronounced it:
‘SORRW, I baptize thee in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost.’ …Then their sister, with much augmented confidence in the efficacy of this sacrament, poured forth from the bottom of her heart the thanksgiving that follows, uttering it boldly and triumphantly in the stop-diapason note which her voice acquired when her heart was in her speech, and which will never be forgotten by those who knew her. The ecstasy of faith almost apotheosized her; it set upon her face a glowing irradiation, and brought a red spot into the middle of each cheek; while the miniature candle-flame inverted in her eye-pupils shone like a diamond. … She did not look like Sissy to them now, but as a being large, towering, and awful – a divine personage with whom they had nothing in common.(T, XIV, 94-5) ここでのテスの姿は、天啓的、啓示的なるものを受けた人間のそれである。直接語られ ているわけではないが、この荘厳な瞬間、人格を有した神から語りかけられた瞬間にテス の眼が啓ける。
She leant against the chest of drawers, and murmured incoherent supplications for a long while, till she suddenly started up.
‘Ah! perhaps baby can be saved! Perhaps it will be just the same!’
She spoke so brightly that it seemed as though her face might have shone in the gloom surrounding her.(T, XIV, p93-94)
ここに示されるのは、テスの覚醒の瞬間であり、彼女はある種エクスタシー状態にある と解釈できる。ハーディは、人間に対し無関心な Immanent Will と人間とを繋ぐ中心的者、 一神が介在し、その存在が人間へ呼びかける瞬間を間接的に描写してみせている。ここに、 ハーディのキリストを信仰する精神が現れている。 そして嬰児ソロー(Sorrow)が息を引き取った直後、テスは独自の有機的宗教観への 鍵となる考えに到達するに到る。
[I]f Providence would not ratify such an act of approximation she, for one, did not value the kind of heaven lost by the irregularity – either for herself or for her child. (T, XIV, 95-6)
このテスの想念はハーディ自身のそれである。彼女が今後、自然と感覚の調和を伴う、 より原初的なキリストの教えへ、その信仰心向けていくことを示唆する。奇しくもハー ディが『テス』を書く 43 年前のこと、フランスの地でアレクサンドル ・ デュマ ・ フィス (Alexandre Dumas)が、『椿姫』(1848)の中で書いている。
イエスは愛欲のために傷つけられた魂に対する愛に満ちあふれていた。そして喜んで その傷を癒すべき香料をとりだして手当てをしてやった。かくてキリストは罪の女マ グダラのマリアに向かって言った―《爾 多く赦さるべし。爾多く愛したればなり。》 と。崇高なゆるしこそはまこと崇高な信仰をよびさますというべきである。 われわれはなぜキリストよりも厳格でなければならないのか。世間というものは甘く 見られまいとしてことさら冷酷な顔をするものだが、そういう世間並みの考えを固く 守って、傷つき血にまみれて、その傷口からは病人の悪血のように自分の過去の罪悪 を吐き出しながら、手当てをしたり、心を癒してくれる親切な手を待ち焦がれている 魂を、情け容赦もなく振り捨てていい理由がどこにあろう。(『椿姫』, Ⅲ, 26) デュマ ・ フィスのこの問いかけを引き継いだかに思われるテスの真価への裁き。実際、 エンジェル(Angel)の両親はテスの罪を知ったとき、彼女に対する優しい気持ちを抱 くようになる。‘[T]heir Christianity was such that, reprobates being their especial care, the tenderness towards Tess which her blood, her simplicity, even her poverty, had not engendered, was instantly excited by her sin’(T, LIII, 371).
テスの真価をどう評価するのか。彼女の生の中に見出される凝縮された聖性は、社会の 中でコード化されたキリスト教の愛の形を凌駕するもの、2000 年前のキリスト教的愛の 在り方を問うてみせる。それがハーディの考えるキリストの教えの精髄だったと考えられ る。既存のキリスト教社会の中で、そのコードを破るという行為の石を投じてみせたテス は、社会と個人との狭間に横たわる深淵を暴き、人々の内に精神のジレンマを引き起こす ことで心の救世主としての殉教を果したと言えよう。 4. テスの表象―修道女から新しいキリストへ テス(Tess)という名前は、テレサもしくはテリーザの略称である。彼女の洗礼名 はテリーザ ・ ダーバヴィル(Teresa D’Urberville)だということが明らかにされる(T, XXX, 189, LV, 377)。 もともとテレサという名は、修道女の修道名としてしばしばつけられる名前である。例 えば、アビラの聖テレサ(1515-1582)や、リジューの聖テレーズ(1873-1897)、テレサ ・ ベネディクタ(1891-1942)そしてマザー ・ テレサ(1910-1997)などが挙げられる。彼 女らは皆、生前カトリック教会の修道女であり、死後にカトリック教会の聖人や殉教者、 福者として祀られている。 これを踏まえると、ハーディがヒロインのテレサという名前に込めた意図と ‘Pure Woman’ という副題に込めた思想は、一貫した魂の信仰およびその無垢性の声明ともなっ ている。テスの人生の巡礼の中にハーディが、まだキリスト教が異教視されていた頃の修 道女の殉教を見ていたとしても不思議ではない。 テスがエンジェルから求愛を受けていた農場での夜明けのシーンをハーディは ‘The spectral, half-compounded, aqueous light which pervaded the open mead, impressed
them with a feeling of isolation, as if they were Adam and Eve.’(T, XX, 130)と描 く。この夜明けの混沌とした神秘的時間帯をエンジェルはキリスト復活の時刻に重ね合 わせる。‘The mixed, singular, luminous gloom in which they walked along together to the spot where the cows lay, often made him think of the Resurrection hour. He little thought that the Magdalen might be at his side.’(T, XX, 130)このようにして、テスの 姿はイヴに、またマグダラのマリアの姿に重ねられながらも、聖女のイメージへと反転さ れていく。ここには、新約、ルカ伝福音書、第十五章十一節―三十二節に見る放蕩息子の 譬話に込められたキリストの教えのテーマを彷彿させるものがある。
テスの聖女としての逆転現象の一つ目は、エンジェルとの結婚初夜にアレックとの過去 を告白したが為にエンジェルから拒絶された場面において可視化される。夢遊病に侵さ れたエンジェルが ‘My poor, poor Tess – my dearest, darling Tess! So sweet, so good, so true!’(T, XXXVII, 247)My wife – dead, dead!’(T, XXXVII, 247)と無意識に言いつつ 僧院の境内にある空の石棺にテスを横たえる箇所である。
Against the north wall was the empty stone coffin of an abbot, without a lid. In this he carefully laid her. Having kissed her lips a second time, he breathed deeply, as if a greatly desired end, were attained. Clare then lay down on the ground alongside, when he immediately fell into the deep dead slumber of exhaustion, and remained motionless as a dog.(T, XXXVII, 249)
そして、夢うつつのエンジェルをテスが家へ導くとき、彼は ‘fancied she had risen as a spirit, and was leading him to Heaven’(T, XXXVII, 250)と描写される。ハーディはエ ンジェルによるテスの拒絶という現象の中に埋没させられた普遍的真実を解き明かす。
[T]his young wife of his was as deserving of the praise of King Lemuel as any other woman endowed with the same dislike of evil, her moral value having to be reckoned not by achievement but by tendency. …In considering what Tess was not, he overlooked what she was, and forgot that the defective can be more than the entire.(T, XXXIX, 265)
テスの聖性の顕在化としての今一つのシーンは無論、クライマックスのストーンヘンジ の場面である。この巨大な有史以前の遺構に辿りついたとき、テスは安息の地に辿り着き ‘So now I am at home’(T, L VIII, 393)と述べ真の意味で ‘Return of the Native’ を果す 瞬間である。
Tess, really tired by this time, flung herself upon an oblong slab that lay close at hand, and was sheltered from the wind by a pillar. Owing to the action of the sun
during the preceding day the stone was warm and dry, in comforting contrast to the rough and chill grass around, which had damped her skirts and shoes.(T, LVIII 393)
テスが身を横たえているのは祭壇の上である。古代の人々が太陽に犠牲を捧げた祭壇だ とエンジェルは説明する。二人の背後にそびえる神殿をハーディは次のように描写する。 The eastward pillars and their architraves stood up blackly against the light, and the great flame-shaped Sun-stone beyond them; and the Stone of Sacrifice midway. Presently the night wind died out, and the quivering little pools in the cup-like hollows of the stones lay still.(T, LVIII, 395)
犠牲の石の上で眠り、一条の強い光で目覚めるテスの姿に目を向けてみる。
He went to the stone and bent over her, holding one poor little hand; her breathing now was quick and small, like that of a lesser creature than a woman. All waited in the growing light, their faces and hands as if they were silvered, the remainder of their figures dark, the stones glistening green-day, the Plain still a mass of shade. Soon the light was strong, and a ray shone upon her unconscious form, peering under her eyelids and waking her.(T, LVIII, 395-6)
明るさを増してくる強い光の中で、テスが目覚める。これまで、テスが自然の中で眠り から目覚める場面は幾度か出てくるが、その何れの時も彼女は暗闇の中で目を覚ます。こ の時、初めて彼女は原始的なまでに崇高な光で目を覚ます。この光を神の慈悲、祝福のシ ンボルと解釈すれば、テスの魂は初期キリスト教の観点から見ると、その魂の真価に神が 祝福の裁きを与えたと考えられる。 また、テスが背負う罪の本質とは、彼女のみが原因で生じた罪過ではない。そこには、 アレックによるテスの肉体の蹂躙に始まり、彼女の過去を許せなかったかつてのエンジェ ルによる精神の蹂躙という問題がある。これら、他者により彼女に加えられた暴虐という 罪をも一身に背負い、死を以って罪を贖うテスの姿がある。己の罪という名の十字架を背 負ってストーンヘンジという原始の聖なる場所に辿り着いたテスが、犠牲の石の上で目を 覚まし、自ら進んで死を受け入れる姿は、異教の中にキリスト教の精髄が現れた瞬間であ る。 こうして原罪に始まる人間の罪を背負いゴルゴダの丘の上の十字架で贖罪の死を遂げた キリストの姿とテスの姿が重なり、一つに溶けあっていく。現にハーディは 1901 年に出 版した詩集 Poems of the Past and the Present の中で ‘Tess’s Lament’ という詩を書いて いるが、その第四節でテスと十字架のイメージを結びつけている。
And it was I who did it all, Who did it all;
‘Twas I who made the blow to fall On him who thought no guile. Well, it is finished – past, and he Has left me to my misery, And I must take my Cross on me
For wronging him awhile.(T, Appendix IV, 488) 5. 結論
テスが犠牲の石の上で受けた光は、異教的であると同時にキリスト教の中での洗礼を示 唆する。2000 年前のキリスト教的愛のコードによる、現在のキリスト教社会のコードを 凌駕する、より普遍的な愛の在り方 Christian Charity による愛の裁きがテスに下された 瞬間である。
おそらく、ハーディの心性としては、このクライマックスこそ ‘Justice was done’(T, LIX, 397)としてテスの魂の勝利を宣言したかった箇所かもしれない。その代わりに テスの絞首刑の完遂を示す黒い旗の意味を ‘Justice was done, and the President of the Immortals had ended his spot with Tess’(T, LIX, 397)と皮肉な調子で述べてみせる。
ここでいう ‘the President of the Immortals’ とは何を意味するのか。律法として立ちは だかる聖書の字面ではなく、その心を解釈したのがキリストであった。そんな彼を屈服さ せようと彼を死に追いやったのがユダヤ教コードとしての当時の法であった。それを思い 起こすならば、ここでの ‘the President of the Immortals’ とは、律法の心を読もうとして コードを破ったことで本質的な法の成就を体現したテスの中に罪のみを見て裁いた人間社 会に浸透する社会コードを示していると考えられる。コミュニティ的キリスト教の支配す る世界からテスが永久に解放されたことを証明する黒旗を前に、エンジェルとテスの妹ラ イザ ・ ルー(Liza-Lu)は暫しの間、身じろぎひとつせず、大地に身を伏して祈りを捧げる。
As soon as they had strength they arose, joined hands again, and went on.(T, LIX, 398) ここは、アダムとイヴがエデンを追われて地球へと孤独な旅に出るミルトンの『失楽園』 のクライマックスを彷彿させる。 『世界が、―そうだ、安住の地を求め選ぶべき世界が、今や彼らの眼前に広々と横たわっ ていた。そして、摂理が彼らの導き手であった。二人は手に手をとって漂白の足取り も緩やかに、エデンを通って二人だけの寂しい路を辿っていった。』(『失楽園』, 下巻, 308-09)
かつて知恵の果実を食べる以前のアダムとイヴになぞらえられていたのはエンジェルと テスであった。それが今では原罪を背負いエデンを追われた人間の象徴としてのアダムと イヴの喩えは、エンジェルとライザ ・ ルーへとシフトしていく。こうして贖罪を果したテ スの存在は、神の摂理のシンボルへと昇華する。ここに、新しいキリストとしてのテスの 表象が完成されるのである。 参考文献 Primary Source
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注
i 従来のファウスト的イノセンスとは、自らの魂を売っても手にしたいという欲望に身 を任せた結果、人間の限界を超える者の心性、支配と反逆に突き動かされる者の衝迫 を指す言葉である。本稿でテスの中に見るファウスト的イノセンスとは、彼女の生の 原動力ともなっている一種の挑戦的かつ破壊的衝動のことをいう。