博 士 ( 農 学 ) 高 階 史 章
学 位 論 文 題 名
湿地・泥炭地生態系における CH4 , N20 収支に攪 乱が与える影響
学位論文内容の要旨
土壌 は温 室効 果 ガス であ るメ タン(CH4)、亜酸化 窒素(N20)の放出源であり、 それぞれ全球放出量の 4割 、6割が 土壌 由 来と され る。 土壌 中 でCH4は 還元 状態 で生 成し 、N20は 硝 化の 副産 物、 脱窒の中間 物 質と して 生成 す る。CH4丶N20収支 は 土壌微生物の 活性に影響を受け、土壌の 乾湿、地温、有機物含 量などにより 左右される。自然状態の湿 原生態系は過湿環境下で泥炭を蓄積し、泥炭地を形成している。
泥 炭地 湿原 は陸 域 面積 に占 める 割合 は 小さぃものの 、その炭素蓄積量は膨大で ある一方、自然湿原か ら のCH4放 出量 は全 球の 約2割を 占め る 。気候変動に 伴う環境変化の顕在化や農 地開発により、湿地・
泥炭地のCH4、N20収支は大きく変化する と考えられる。本研究は北方 、温帯、および熱帯の湿地・泥炭 地のCH4、N20収支に対する攪乱の影響を 明らかにすることを目的とし た。
1.北海道・石狩泥炭地の美唄湿原(43゜19 N、141'48 E)は周辺の農地開発の影響によルミズゴケ中心の 原 植生 へ のサ サの 侵入 が進 行 して いる 。ミ ズ ゴケ 区と ササ 区( 丈20cm)で2002年6月 〜2003年6月に 調査を おこなった。東シベリア・ 中央ヤクーティア一帯には約1万年前の永久凍土の融解・沈下で形成さ れたアラス(沼地を伴う草地)が点在する。ヤクーツク近郊のアラス(62°19 N、129°30 E)の沼地、湿潤草 地、乾 燥草地とともに周囲のカラ マツ林さらに森林火災跡地、伐採跡地で2004、2005年の生長期間(5〜 9月) に調査をおこなった。インド ネシア熱帯泥炭地帯では火災、農地開発による撹乱が進行している。
中央カリマンタン・パランカラヤ(2゜17 S、114゜01 E)の熱帯泥炭地の天然湿地林、火災跡地、転換農地
( 無施肥草地、畑地 )で2002年3月〜 2004年3月 に調査をおこなった。各地点 でクローズドチャンバー 法を用 いCH4、Nz0フラックスを経 時的に測定し年間(シベリア は成長期間)の収支を得た。CH4とN20を 比較するためC02換算した地球温暖化ポテンシャル(GWP)を求めた。
2.自然湿地のCH4放出は、ヤクーツクのアラス湿地で大きく(174〜864 kgCha‑1 y‐1)、カリマンタン・天然 泥炭湿地林(‑0.21〜0.34 kgCha‑l yIl)で北海道・ミズゴケ湿原(132士35 kgCha‑l y")に比べ小さかった。
これらは、文 献値の傾向(北方、温帯、 熱帯の泥炭地それぞれ0.75〜 552、132〜1320、0.18〜12 kgC h一lyIl)と北海道、カリマンタンでは一致していたが、ヤクーツクではやや大きかった。ヤクーツクでの乾燥 草 地、 森林 、森 林 攪乱 地で はCH4は 吸収 もし く はわ ずか に放 出さ れ ていた。北海道・ササ侵入 湿原の CH4放出 は ミズ ゴケ 湿原 よ りや や低 いが 有意 な差は無かった。カリ マンタンでは天然泥炭湿地 林のCH4 放出に比ベ森林火災跡地は同様に低いー方、農地は高い傾向を示した。
3.自 然湿地のN20放出はヤクーツ クのアラス湿地(‑0.034〜ー0.017 kgNha‑l y")、北海道・ミズゴケ湿原 (0.23土0.40 kgNha‑1 y")に比ベカ リマンタン・天然泥炭湿地林で大きかった(0.62〜4.4 kgNha‑1 y")。 ヤ クー ツ クで は湿 地が 乾燥 した地点でN20放出の増加(0.16〜1.7 kgNha‑l)が見られ 、北海道ササ侵入 湿原で はミズゴケ湿原と差はなか った。しかし、カリマンタンの畑地では著しく大きなN20放出を示し(21
〜 259 kgNh一ly.1)、これは既往の北方・温帯・熱帯の泥炭農地からの報告(それぞれ2.O〜37、4.2〜 165、‐111〜313kgNhオlゾ1)に比べ大きかった。
4. 北海道・美唄湿原 でのCH4、N20放出へのササ の侵入の影響は認められなか ったが、ササ区ではミズ
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ゴケ区に比べ土壌空気中のCH4、C02濃度が高く、N20濃 度は低下しており、より還 元的な環境が生成し ていた。このことは、ササ の侵入により湿原表面の泥炭の物理性が変化しガス拡散を抑制したためと思わ れた 。湿 原を 畑 地化 する とCH4放 出は 削減 さ れる がN20放 出が 増加 した 。 一方 水田 化す るとCH4放出 量が約5倍増加した。
5.ヤクーツクのア ラス沼地周辺湿潤草地から のCH4放出は湛水状況の違い により大きく変動し、湛水日 数と 放出量に有意な正の相関があ った。GPSにより沼地面積を 測定し季節変動を把握する と、融雪期に 沼地面積は最大と なり夏期間に減少し、降雨により一時的に増加していた。そのためヤクーツクでは春先 にCH4放 出量 が 大き いと 推察 され る 。本 アラ スか らの 総CH4放 出 量は 同面 積の 森林 に よるCH4吸収 の 374倍と見積もられ 、本地域のアラス面積割合は17%とされることから、本地域はアラスの存在によりCH4 の放 出源と斌っているとみられた 。また、ヤクーツクでのN20放出は生長期間中に湛水の 消滅した湿潤 草地 で 突発 的に 見ら れた が 、年 間の 温暖 化 への 貢献 をGWPで 比較 する と アラ スか らのN20放出 はCH4 放出に比べ極めて 小さかった。
6.ヤクーツクの火災、伐採による攪乱跡地でもカラマツ林と同様のCH4吸収もしくはわずかな放出であり、
有意 な差 は無 か った 。Nz0放 出も カラ マツ 林 同様 小さ かっ た。 火災跡 地、伐採跡地のCH4、N20放出 は カラマツ林と同程度であ り、森林撹乱のCH4、N20収支 への影響はアラスに比ぺて 小さかった。従って、
森 林 撹 乱 後 に 永 久 凍 土 が 融 解 し 沼 地 化 す る 場 合 に ( ニ 出 放 出 の 問 題 が 顕 在 化 す る こ と に な る。
7. カリマンタン熱帯泥炭地では 、森林火災跡地のCH4、N20放出は天然林と大きな差はな かったが、農 地 化 によ り大 きく 増加 す る傾 向に あっ た。GWPで比 較するとCH4よりもN20の方 が温暖化への貢献が大 きく 、無施肥の草地でもN20放出 が有意に増加していた(7.1〜23 kgNha‑l y")。N20フラックスは乾期よ り も 雨 期 に 高 く 、 土 壌 水 分 変 化 が N20放 出 の 季 節 変 化 の 制 御 要 因 で あ っ た 。 8.い ずれ の地 域 もCH4、N20と も に、 森林 火災や伐採、異種植物の浸入 による自然泥炭湿地の撹乱 の みで は大きな放出量の変化は認 められなかった。しかし、北 海道での例のように、土壌中の濃度分布が 変化 するなど、その放出のメカ ニズムは変化している可能性 が認められた。本研究ではCH4放出は熱帯 で小 さく北方で大きい一方、N20は熱帯で大きく北方で小さ いという逆の傾向を示し、CH4とN20放出に はト レードニナフの関係が認め られた。CH4放出が熱帯泥炭湿地林で北方湿地に比べ小さかった理由とし ては 、熱帯では水位の低下幅が 極めて大きく還元が進みにく く、またCH4生成の基質とな る有機物の質 も 嫌 気的 分解 を受 けにくい可能性があると 考えられる。対照的に北方の 湿地は湛水が維持され還元 的 に な りや すく 大き なCH4放 出が 生 じる 傾向 が認められた。永久凍土地帯 での新たな湿地形成は強カ な CH4の ソー スを 不 可逆 的に 増加 さ せる ため 、森林攪乱後の回復過程と湿 地形成の因子解明が求めら れ る 。 また 、N20放 出が 熱帯 の農 地 で大 きか った理由は、農地への化学肥 料や家畜糞尿の投入、排水 に よ る 泥炭 の乾 燥が 微生物活動の活発化を促 し、土壌中窒素循環速度が増 加した可能性が高く、今後 そ の原 因解明が求められる。
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学 位 論 文 審 査 の 要 旨 主査 教授 波多野隆介 副査 教授 長谷川周一 副査 教授 平野高司 副査 助教授 中原 治
学 位 論 文 題 名
湿地・泥炭地生態系における CH4 , N20 収 支に撹乱が 与える影響
本 論 文 は10章 か ら な り 、 図49、 表21、 引 用 文 献242を 含 む129ぺ ー ジ の 和 文 論 文 で あ る 。 他 に 参 考 論 文10編 が 添 え ら れ て い る 。
土 壌 は 温 室 効 果 ガ ス で あ る メ タ ン(CH4)、 亜 酸 化 窒 素(N20)の 主 要 な 放 出 源 で あ り、 そ の 収 支 は土 壌 微 生 物 の 活 性 に 影 響 を 受 け 、 土 壌 の乾 湿 、 地 温 、有 機 物 含 量 など に 左 右 さ れ る。 気 候 変 動 に伴 う 環 境 変 化 の 顕 在 化 や 農 地 開 発 に よ り 、 湿 地・ 泥 炭 地 の9轟 、N20収 支 は 大 き く 変化 す る と 考 えら れ る 。 本 研究 は 北 方 、 温 帯 、 熱 帯 の 湿 地 ・ 泥 炭 地 のCH4、N20収 支 に 対 す る 撹 乱 の 影 響 を 明 ら かに す る こ と を 目的 と し た 。
1. 北海 道 ・ 石 狩 泥炭 地 の 美 唄 湿 原(43゜19 N、141゜48 E)は 周辺 の農地 開発の 影響に よルミ ズゴ ケ中心 の 原 植 生 へ の サ サ の 侵 入 が 進 行 し て い る 。 ミ ズ ゴ ケ 区 と サ サ 区 ( 丈20cm)を 調 査 地 と し、 周 辺 の 転 換 農地
( 水 田 、 畑 ) で の 測 定 例 と 比 較 し た 。 東シ ベ リ ア ・ 中央 ヤ ク ー テ ィア 一 帯 に は 約1万 年 前 の 永久 凍 土 の 融 解・ 沈下で 形成さ れた アラス (沼地 を伴う 草地)が点在する。ヤクーツク近郊のアラス(62°19 N、129゜30 E) の 沼 地 、 湿潤 草 地 、 乾 燥草 地 と 周 囲 のカ ラ マ ツ 林 、 森林 火 災 跡 地 、伐 採 跡 地 を 調査 地 と し た 。イ ン ド ネ シ ア熱 帯泥炭 地帯で は火 災、農 地開発 による 攪乱 が進行 してい る。中 央カリ マン タン・ パランカラヤ(2゜17 S、 114°01 E) の 熱 帯 泥 炭地 の 天 然 泥 炭 湿地 林 、 火 災 跡地 、 転 換 農地( 無施肥 草地、 畑地) を調 査地と した。
各 地 点 で ク ロ ー ズ ド チ ャ ン バ ー 法 を 用 いCH4、N20フ ラッ ク ス を 経 時 的に 測 定 し 年 間( シ ベ リ ア は生 長 期 間 ) の 収 支 を 得 た 。CH4とN20を 比 較 す る た めC02換 算 し た 地 球 温 暖 化 ポ テ ン シ ャ ル(GWP)を 求 め た 。 2. 北 海 道 で は 湿 原 の 畑 地 化 でCH4放 出 は 削 減 さ れ る がN20放 出 が 増 加 し た 。 水 田 化 す る とCH4放 出 量 が 約5倍 増 加 し た 。 植 生 変 化 は 農 地 化 ほ ど 大 き な 影 響 を 与 え な か っ た 。 東 シベ リ ア で は アラ ス 沼 地 近 傍 湿 地 はCH4の 放 出 源 で あ り(174〜864 kgCha‑l y")、 北 海 道 の 水 田 と 同 程 度 で あ っ た 。 そ の 他 の地 点 のCH4、N20放 出 は 小 さ か っ た 。 イ ン ド ネ シ ア で は 天 然 泥 炭 湿 地 林 のCH4放 出(‑0.21〜0.34 kgCha‑l y一l)は 北 方 湿 地 に 比 ベ 小 さ か っ た 。 森 林 火 災 がCH4、N20収 支 に 与 え る 影 響 は明 確 で は な か った 。 農 地 化 に よ るN20放 出 増 加 は 北 方 よ り 大 き く 、 畑 地 のN20放 出(21〜259 kgNha" yll)は 泥 炭 農 地 か ら の 報 告例 に比べ 極めて 大き かった 。
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3.北海道の 泥炭湿地の水田化は水位上昇 に伴う(ニ出放出増加を、 畑地化は乾燥・窒素施肥に伴うN20 放出増加を引 き起こしていた。ミズゴケ 湿原では、ササの侵入に伴い 湿原表面の泥炭の物理性が変化し ガス拡散が抑 制されていた。また、湿原 極表層の泥炭分解がガスフラ ックスに影響を及ばす可能性も示 唆された。
4.東シベリ アのアラス沼地周辺湿潤草地 からのCH4放出は湛水状況の 違いにより大きく変動していた。
沼 地面 積の 季節 変 動を 考慮 して 見積 も られ た本 アラスからの総CH4放出量 は同面積の森林による吸収 量の374倍と 極めて大きく、本地域はアラ スの存在によりCH4の放出源 であるとみられた。湛水消滅後の 湿 潤 草 地 でN20放 出 が 一 時的 に見 られ たがCH4放出 に 比ベ 極め て小 さか っ た。 森林 撹乱 のCH4、N20 収支への影響 はアラスに比べて小さく、 森林撹乱後に新たなアラスの 形成が起こった場合にこの地域か らのCH4放出 量はさらに増加する。
5. イン ド ネシ ア熱 帯泥 炭 地で は、 大き なN20放 出は雨期に見られ、土壌水 分変化がN20放出の季節変 化 の 制 御 要 因 で あ っ た 。 高 土 壌 水 分 時 に は 土 壌N03‑Nも 農 地 のN20放 出 の 規 定 要 因 で あ っ た 。 6.北海道・ インドネシアともに、森林火 災や異種植生侵入による自 然泥炭湿地の撹乱のみではCIム、
N20収支 は 大き く変 化せ ず 、人 為的 な土 地利 用 変化 が最 大の 変化 要 因であ った。本研究ではC出放出 は北方、N20放出は熱帯で大きく、両者に はトレードオフの関係が認 められた。熱帯では北方に比 べ水 位 の低 下幅 が極 め て大 きく還元が進みにくく、 またCH生成の基質となる有 機物の質も嫌気的分解を受 け にく い可 能性 が あり 、C出放出増加の可能性 は低いと考えられた。一方、 熱帯の多量N20放出は多毛 作に伴う多量 施肥が一因と考えられるが 、それ以外にも様々な要因が 関与しているとみられ、今後その 原因解明が求 められる。
本 研究 は 、さ まざ まな撹乱を受けた北方、熱 帯の湿地・泥炭地のCH4、N20の放出に、人為的土地利 用変化が大きな影響 を与えていることを示したものであり、今後の土地利用のあり方に資するとともに、
学術 的に も 国際 学会 でポスター賞を受賞するな ど高い評価を受けている。 よって、審査員一同は、高 階 史 章 が 博 士 ( 農 学 ) の 学 位 を 受 け る の に 十 分 な 資 格 を 有 す る も の と 認 め た 。
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