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長塚節論 : 触目序歌の発想にふれて

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Academic year: 2021

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(1)Title. 長塚節論 : 触目序歌の発想にふれて. Author(s). 薄井, 忠男. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 14(1): 9-24. Issue Date. 1963-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3766. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道学芸大学紀要 (第一部A). 第 14 巻 第 1 号. 長. 昭和3 8年7月. 節. 塚. 一触目序歌の発 想にふれて-. 薄. 井. 忠. 男. TadaO Ust江 : An essay 。n Nagazul {a Taka shi. l.. 節短 歌 に 対 す る 評価. 長緑節の文学についての評価は, 今日ほぼ決定的なものとされている観がある. そのためか, 大正昭和のいわゆ る近代歌人としての茂吉, 赤彦ら の短歌に比べて等閑に附され, や ともすれ ば忘れられ勝ちな存在であり, かつ左千夫の位置 づけに比べても, その評価は過小に失するよう に思われる. 大正期の女学的青春を, 茂吉の歌集『赤光』のリリシズムに認めるのは常識だが, 『赤 光』 の汗情 を左千夫の混沌としたデイオニ ゾス的なものから の発展と見, 子規・左千夫・赤彦・茂 吉の系譜のとらえ方が一般化した結果, 節を埋没させた観がなくもないのである. ま た左千夫段 後, 茂吉たちの先師顕彰が, アララ ギ派短歌の完成期に活溌に行われたために, 門弟をもたぬ節 の存在を薄からしめた, しかし赤彦・茂吉によって確立された近代 短歌は, 必ずしも子規から の 直線的継承発展とは考えられない. 子規の趣向を重んじた写生は, 「自然に親しみ人生を傍観す 1 ) というところに成立したが,左千夫により 「人生に親しみ自然を傍観する」に至った間に, 既 る」 に子 規系譜のリアリ ズムの内容深化が行われた. 赤彦・茂吉らは,この左千夫を介在させることに より, 自然主義以後の混乱を人生と文学の接近に 努力することによって 現実主義諸派の文学に対 置せしめられ る近代短歌の完成を行ったのである, 左千夫の主惰性を脱皮して沈潜した歌風の樹 立がアララ ギ歌風の完成であったとすれば, 茂吉の第二歌集 『あら たま』 や赤彦の 『切火』 から 『太 虚集』に至 る歌風がそれに相当す る. この混沌から澄明への経過は, 左千夫的主情性から節約 客観性への移 行をも思わせ る, しかもそこには, 左千夫でもなく節でもなく, 自然主義をく ぐり ぬけた世代 の別な境地 が完成されていたのだと考えるべきであろう. したがって, 近代短歌の樹立者 である赤彦・茂吉の存在は, 左千夫・節から の遺産継承の方向 から とらえることがまず問われねばならない. 左千夫はその晩年, 赤彦・茂吉を中心とする 「新 傾向」 との間に意見の霜難 を来たし, 「強ひられたろ歌論」 「どう も気になる」 等一連の歌論を 精力的に発表し, 結果的には彼の中心論題である 「叫び」 説を完成せしめたが, 「新傾向」 の動 2 )左 向には, 節も無関心ではいられず, 「茂青に与る」「千樫に与ふ」等によって忠告を発している. 千夫殺後の一 時期は, 若手同人の混 乱した汗情の最もきびしい批判者としての節の位置は, 自然 子規直系の重要な 先輩として仰がれ, 茂吉が熱心に 『赤光』 の批評を希った如く, 彼らを節に接 3 ) しかし節は 「新傾向」 を根岸派の堕落と観じ 大正三年の「鍬の如く」は, 「僕の 近せしめた. , , 4 J といって 「平福百穂 島木赤彦 古泉千樫, 歌に対する考は先づかういふものかも知れない」 , , , 中村憲古, 斎藤茂吉等が殆ん ど毎日のように訪ねた」 のに対して提示されたのであっ た,.

(3) . 薄. 井. 忠. 男. 『あし び』『あかね』『あらら ぎ』と変遷して来た根岸派短歌とは , 正岡子規殴後, その門の歌人の 集合 であったが, 事実は左千夫中心 の集団となり, 旧根岸派のうち, 最後まで左千夫と行を共に ) これは左千夫 の性格によったので 5 したのはわずかに長塚節, 蕨真 の二名くら いのものであった. もあうが, 子規崇拝者であった同人が必ずしも左千夫を子規の後継者として見ていなかったのに もよるであろう. そのような事情のなかで, 左千夫と節 のみが性格は相反し, 年令も十五才もの ひらきがあり ながら, 最後まで親交を続け得たのは, 「お互に固隅なところがあった」 ことや, 「左千夫君からは少なからず得るところがありました」 というように 異質なものの中に吸収し , 6 ) 新同人が加わ って左千夫中心の観を呈してはいても それ ようとする点があったから であろう. , らもまた子規の文学に共鳴した人々が, 子規ゆかりの歌人 として左千夫門に加わった に す ぎ な い. 茂古 の作歌動機は, 神田の古書店に 『竹の里歌』 を見て, これならば自分にも歌ができると いう ぐらいの考えで, 友人渡辺草堂の奨めを受けて左千夫門に加わ った. 赤彦は, 子規在世中 の 『日本』 の投稿者であった. 後にアララ ギの強力な地盤となる信州同人は 赤彦の『ひむる』 がア , ララ ギに合併することにより移行したものである, だから彼ら の間では, 師匠としての左千夫は 必ずしも絶対なものではなく, 子規の投影を左千夫に求めたのである. ある意味 では子規に極め て近 い傾向をもつ節が, 彼ら の先達として仰がれたのはそういう意味 で当然であり, 同人から節 の作が特に重んぜられた時期があったとしても不思議 ではない, 7 ) を特徴としてとりあげ た茂吉の 『赤光』 は 同時代人の芥川 中野重治氏が, 「わかりにくさ」 , 竜之介や佐藤春夫ら から高く評価され た. しかし節が 「赤光書入れ」 で克明に批判しているよう に, 節には素直に受容できるものではなかった. 節の批判と 「わかりにくさ」 と の間にある高い 評価は, その意味で左千夫・節の直線的な発展継承ではなかった. そこに赤彦や茂吉の近代短歌 の位置がある. 赤彦が 「人生の寂審所」 を求めて鍛錬道を打ち立てて行ったように, 茂吉の 『あ ら たま』 にも既に一つの屈折ないしは挫折が見られるのであって, その歌風樹立には左千夫の「生 命」 主義的なものと, 節の後に説く 「冴え」 が融合的にとり入れられていると見られる. そして 象徴的なるものが完成するとき, そこには左千夫の象徴と節の象徴とが先行することを思わ ざる を得ない・ 従来, 節についての研究は比較的少なく, それも実作者としての歌人の評論的なも のが多い. 管見に入った主なものをあげると, 富 沢牧歌「歌人長塚節」(明治大正短歌研究) 斎藤茂吉編 『長 塚節研究』 橋田東声 『土の人長塚節』 藤川忠治 r長塚節 の芸 術論」 (国語と国文学八の一, 二, 三) 平輪 光三 『長塚節・生活と作品』 片岡良一 「土と長塚節の位相」(近代日本の作家と作品) 等 である, 節の短歌が一時期非常に高く評価されながら, それについての研究や評論が少なかった のは, 彼が実作者として終始し,歌諭や評論の類をあまり発表しなか ったことにもよるであろう. また左千夫の場合の如き, 直接の門弟をもたなかったこと にもよるであろう. さら に, 子規の明 治的革新動運と, 大正期の近代短歌完成との中間に, 過渡期的存在としてあったこと にもよるで あろう. そのためにややともすれば, 近代短歌史での位置が見失なわれ, 「土」 の文学として, もしくは農民文学としての固定評価ができ上ってしまったのではあるまいか. 農民文 学としての とらえ方は, 素材的な面に対する興味がかつて, 節の作品の必然性を内面からとらえることに欠 けるうらみがある. 小説 『土』 は, 農民文学 の典型として大正昭和を経た今日尚読むに耐えるものとされ, それに つれて土の子と しての節の短歌を農民の芸術と してとら えているのが一般である. 『新小説』長塚 節追憶号で, 橋田東声氏は農村指導者と しての節を紹介しており, 単行本『土の人長塚節』では , - 10. -.

(4) . 長. 塚. 節. 論. 「何故に, 私は, 節をかくまで崇敬するのであるか. なぜ, 節の人格にかく の如く 共鳴するので あろう. みずから考えて見る--第一は, 私が農村に生れ, 農村に育ち, 農村の芸術を成し み づから農業をも営んだところの, 節の人格乃至芸術に, 心の底から共感を有ち得る為である. 節 の芸術は徹頭徹尾土の芸 術 であって, これは都会生活者には 理解し難きものである」 と言って, 節に親炎する動機と 理由を述べているが, 農民芸術と してのとらえ方の代表的なものと言ってよ い. 富沢牧歌 氏の見解には, 「歌人としては勿論, 農民芸 術家と して, 田園生活者として 実に , 明治大正歌人中長塚節ほ ど多方面から論じ得らるる人は少ない」 として, 歌人と農民芸 術家を一 応切りはなした立場から論じ 結局は 「彼は土の子」 であったとこ ろに力点を置いている これ , . らの見解も正当なものであるし, この点から の評価もなお充分に行われなければならないが, こ こでは短歌作者と しての汗情主体の内面を別な角度から考えてみたいのである. 歌人と しての節を最も正当に理解し親炎したと思われるのは斎藤茂吉である, 茂吉は 『長塚節 歌集』 を解説して, 「節の歌風は万葉調であるが, 夙くから写生の歌を唱へ, 手堅い子規風の見 方, 表わし方に加ふるに, 万葉人の息吹と芭蕉等の感慨を 以てした. 晩年に 歌の 『冴え』 と い , うことを強調するようになってからは, 洋盗が尽くなくなり, 人生悲哀の深秘に触 る ふ に 至 っ た. 『病床雑詠』 『鍬の如く』 の幾十首の歌は即ちそれであ る. 叉彼は早くから, 東歌, 神楽, 8 ) と言っている 節の短歌 催馬楽等の調子を吟味して, おのづから長塚節調を創造するに至った」 . の本質をもっとも正確についた見解であろう. 近藤芳美氏はほぼ茂吉の説を受けて, 「当時の他 の『アララ ギ』 同人らと共に節にも多くの万葉集研究があるが, 彼の関心が万 葉集中の東歌研究 に 特にむけら れている事は, 作家としての方向を考える時に注意しなければならない. また彼が当 時その主情的浪漫的傾向のゆえ に世に絶讃された斎藤茂吉の歌集 『赤光』 に対して, ひとり冷徹な 客観写実主義の立場に立った批判をくわえていることも, 当時の時風の中に歌 壇に孤高を持し歌 人として一人の門弟を持 つことを も拒絶した潔癖な態度も, 彼を考える場合忘れて はならない」9 ) と言りて, その特色の基盤になるものを指摘している. 別に斎藤茂吉 は, 『続明治大正短歌史』の 「長塚節」 で次のように言っている, すなわち 「長塚節氏の発 育史及びその構成の内容はなかな か複雑で一口にいふことが出来ないが, ざっと云って見るならば, 正岡子規の指導があってこれ が大体の骨子 であった. それから万葉集がある. 万葉集の影響は全般的であるが東歌の調の影響 」 「それから芭 蕉 な どもあった, それから神楽歌催馬楽の影響な ども他の同人に先んじて受 けた。 蕪村子規等の俳譜がある」 と節短歌の内容の構成に触れ, また 「実際長塚さんの歌は明治三十二 年の春に正岡先生を訪ねて詠ん だ歌から大正四年一月 の 『鍬の如く』 に至るまで, 殆ん ど天然 に 向って自ら の生命を塗り込ん だ歌と謂っても可い程である」 といっている. そして 「天然に寄せ て堪へ難い情 を浮べている」 と言うとき, 節の短歌の本質はほぼ言い つくされてい ると言えよう. 自然を客観的に写生するという立脚点からはじまった子規のリアリズムは, 一方 では主情的な 左千夫によって人生傍観から自 然傍観に, 自然に直接することから人生に直接す る方向へ発展せ しめられた. それに対して節はあくまでも忠実に師説を継承 し, 自然に執すること強く, 自然に よせて好情するという方向を開いた, そこには環境の相違もあろうし, 世代的な違い もあり, 個 性の相反するということもあろう, だが 「天然に寄せて堪へ難い情を汗べている」 叙景歌に, 彼 の汗情の特 色があるのは言うまでもないことであって, その発想の根拠について考察される必要 があろう. 田山花袋が節の作品に 「低個したところがない」 点を指摘 し, ゾラの影響をよみとろ う と し て い る こ とや, 「私 は『歌 集』 (鍬 の 如 く) は 今 度 始 め て 見 た の であ る が,. そ こ では『土』で l o ) 接 した よ り 以 上 に そ の 真 純 さ と 真 面 目 と に 接 す る こ と が 出 来 る や う な 気 が し た」 と い っ て い る の. ー 11 -.

(5) . 薄. 井. 忠. 男. も示唆となる. それは彼の短歌作品にいわゆる写生の歌を超えたものをみている意見であっ て, r津遣が尽くなくなり, 人生悲哀の深秘に触れるに至った」 と茂吉のいっていることばに通ずる も の であ ろ う. 1) 明治4 1年1月 『馬酔木』 終刊号の消息, 2 ) 「新傾向」 ともいうべき若い一部の門人等は, 主として茂吉・赤彦らであって, 自然主義以後の頒唐風の 影響により一時混乱した歌を作った, 茂青の 「赤光」 や 「あらたま」 の前半がそれである. 3) 「『赤光』書き入れ」 (長塚節全集第7巻-河出書房版) 4) 斎藤茂吉編 『長塚節研究上』46頁. 5) 子規毅年の翌明治36年6月, 子規門の歌人相共に雑 誌馬酔木を発行した. 編集同人は, 伊藤左千夫, 香取 秀真, 結城素明, 岡麓, 平子鐸嶺, 蕨真, 長塚節, 安江秋水, 森田義郎であった. (斎藤茂吉 『伊藤左千 夫』) 38頁, 明治42年のころの左千夫の周囲の同人は, 斎藤茂吉, 民部里静, 蕨真, 石原純, 平福百穂, 蕨 桐軒, 山本董織, 古泉千樫, 土屋文明らであった. (同書12頁) 6 ) 「余と左千夫君とは性格の相違があるにもかかわらず晩年まで親交をつづけたのは, 畢覚お互の 園晒な性 ) 質が意気相投ぜしめたからであろう」 (大正2年 「アララギ」 左千夫追悼号 「伊藤左千夫君の追憶」 7) 中野重治 『斎藤茂吉ノート』 8) 日本文学大辞典 (新潮社版) 9) 現代短歌辞典 ると ) 田山花袋 「『±』の作者」 「新小説」 長塚節追憶号. 明治42年から節は 「ホトトギス」 に小説を発表す・ 10 共に, 下妻中学校の教員その他と回読会を作り, 中央公論, 早稲田文学, 三田文学, 白樺, 露西女学等, 雑誌の外, 単行本を選定, 大いに読書した. 中山省三郎は 「そのうち外国文学, 殊にツルゲーネフ・トル ストイ等ロシヤ文学に親しみ始め, その結果同郷の横瀬夜雨に日本の小説なんかをかしくて読む気になら ぬと漏すやうにな」 ったと言っている. (平輪光三 「長塚節」177頁). 2.. 師説 継 承 と 自 己 展 開. 節は明治三十一年二十歳の時, 竹の里人正岡子規の 「歌よみに与ふ る書」 を 『日本』 新聞紙 上 に読み, はじめて子規の女学に 触れている. 「歌ょみに与ふ る書」 を読ん で, 「如何に も愉快で たまらないので, 丁 寧に切抜いておいて頻りに人にも見せびらかした」 という心酔振り であった が, 既に旧派的な作品を作って雑誌に投稿していた彼には, 子規の百中十首は 「初めは変なもの 1 )のであったそして三十 だと思 うたが段々に面 白く感じて来てたうた う真似て見るやうになった」 三年三月 三十一日根岸庵に子規を訪うたときの席 上即景の十首は, 即事の歌とはいうものの子 規 の歌の呼吸をよく呑込ん でいて, 旧派的な傾向をほとん ど見せていない. 歌人の竹の里人おとなへばやまひの床に絵をかきてあり 荒庭に敷きたろ板のかたはらにふ る鉢なら び赤き花咲く 生垣の杉 の木ひくみとなり屋の庭 の植木の青芽ふく見ゆ 茨の木の赤き芽をふく垣の上にちひさき虫の出でて飛 ぶ見ゆ ガラス 戸の中にうち臥す君のために草前えいづ る春を喜ぶ 等がそれ である. そして三十五年四月 には, 万葉調を取り入れて次の如 き作をなしてい る. 青傘を八つさしひらく株構の木の花咲く春になりに たらずや 惚の芽のほ どろに春のたけゆけばいまさらさらに都し思ほゆ 荒小田をかへでの枝に赤芽吹き春たけぬれ ど一人こもり居 都辺を恋ひておもへば白樫の落葉掃 きつつありがてなくに 思ふこと更にも成ら ず枇杷の樹の落葉の春に逢はくさびしも 等で. これに は 「四月 の末には京に上ら むと思ひ設けしことの叶はずなりたれば心悶えてよめる 2 ) と褒めらて 歌という詞書があり, 病床の子規から 「この ごろ急に歌の上手になったのは長塚だ」 - 12 -.

(6) . 長. 塚. 節. 論. も満 いる, この年の九月 には, はやくも子規が残して居り, 節と子規との交渉はわずかに三年に・ たぬ短期間であったが,左千夫に 「理想的愛子」といわれた子規, 節の交渉は子規が節に送った「竹 村にかくれて生ふる山淑の芽のからくも君に恋ひ渡 るかも」 にもうかがわれ るこまやかなもので あった, 上掲の歌に対する子規の評は. 「未曽有の出来であ る」 と い い 「こ の 歌 を 誉 め る 人 で も, い ろ 或は序の句が面白いといふ人もある. 或は万葉調が面白いといふ人もあ. いろ誉めやぅが違うて, る, 予の見る所では, 勿論序の句も面白いけれ ど, 結の句が十分に働いて居る所が, 見 どころで ・ あると思ふ. 万葉調を模した歌 でも, 叉はその外の新派な どと いふ歌でも, 新聞雑誌な どに出て 居るのを見ると, いずれも結句が十分に働いて居らぬために, 皆尻軽の歌となって一つも面白い のがないやうに思ふ, それに反して節の歌は, 万葉の言葉を自由自在に駆使して一首の 結びをつ 3 ) というので 子規の指導を充分自己のものとし発 けた処は, 他に一頭地を抜んでて居 ると思ふ」 , ていたことが知られる. 子規毅後同人等と共に節も, 雑誌 『心の花』 や 『日本』 新聞等 に作品を 表していたが, その時期の節は忠実な子規継承と見てよい. しかるに三十六年 『馬酔木』 第÷ 号 に 「万葉集巻の十四」 を掲げて子規の万葉研究の態 度を一歩超えようとし, 三十七年の『馬酔木』 十二号では, 「歌の季に就いて」 論じ, 歌の本質論に触れ, 三十八年の 同誌十五号で 「写生の歌 に就いて」 を論ず るに至って節の個性的な面の画期が行われ る. さら に同第二巻二号及 び五号の 「枯桑漫筆」 三号の 「歌調抄を読みて」 は, 「写生の歌 に就いて」 に対す る左千夫の反論に対す る反駁である. 子規を忠実に継承しつつしかもそれを超えようとし, そのうえ詩人的素質からは 4 ) 全く異質な左千夫の反論を受けつつ影響され形成されたのが節独自の歌境であった。 1) 長塚節 「竹の里人」 「先生と自分」 子規入門当時のことは 「竹の里人」 にくわしい。 ) 正岡子規 「病豚歌話」 2 3 ) 同上, この連作については左千夫も 「奇想縦横声調温雅, 何等の妙趣何等の風韻. 而して叉吾人の理想に かなへるの連作, 従来同人の製作中絶えてその比を見ざるの逸品なり」 と激賞している, (楽々漫草) 4 ) 左千夫には 「『歌の季に就いて』に就いて」 がある.. 3 . 節的なるもの 子規にとって 短歌は革新せ ざるを得ぬものとしてその前 に存在していた. 子規が俳句, 短歌と いう伝統女学の改良に生命 を見いだしたのは, 松山藩の武士出身という出生にもかかわり があろ うし, 慶応三年に生れ, 文明開化期を呼吸し, 自由民権時代を中学生として過したとい う過程も 1 ) しかしそれにもかかわらず 武士的意識は相当以上に強く, そのエリ 見逃がす ことは できない. , ート意識が近代精神とはうらはら である点, たとえば国粋主義的な 『日本』 に拠った ことにもう かがわれよ う. 彼のリアリ ズムは, 二葉亭の追及した近代自我の内面よりは, 写生とい う方法に よって伝統女学の近代化を行 ったにすぎない, それが 「自然に直接す る」 という形で, 配合趣味 趣向趣味として把 握されていたから, 彼の内面は近代的矛盾によって傷つけられずに済んだ, 西 洋絵画の写生が, 技法としてとり入れられ, 万葉的な素朴性を高く評価したところに子規の立場 明治 と はあったので, それは明治の改良主義一般に通ず るものであった. したがって子 規には,・ 苦悩を象 盟友減石が個人主義的 ず いう急速に進められた近代化の諸面 における矛盾は感得でき , 徴的に生きた姿な どにも関係はない. いわば子規には思想はなかったので あって, 明治の光栄あ る時代を支配層の指導す る時代とともに生き, その最高潮に達す る三十七, 八年の戦役の直前 に 死ぬということにな る. したがって子 規の短歌は, 自然を趣向的にとらえ てありのままを写すと - 13 -.

(7) . 薄. 井. 忠. 男. いうことであったが, 病床六尺 に極限された世界の写生は, はからずも切実な生命感が表白され て近代短歌の歴史に一頁を画したのである. しかしこの子規の行 った表現上のリアリ ズムは, 一度は経過せねばならぬ過程であった. この 過程を経てはじめて近代 的人間の汗情は歌われたのであって, そこに左千夫, 節の位置があ る. 左千夫は, 子規より三蔵の年長であったから, 当然子規と同様に自由民権運動の洗礼 も受け, 時 代の波に乗ったロマンチストとして生きる べき世代であった. しかし千葉県成 東の農村の四男 と して生れ, 結局は養子となって他家を継 ぐか, 家を出て都会流入者となる外 生きる方法のない宿 命をも っていた. 家出同様にして上京した左千夫は, 京浜間の牛乳業者を転々とし, 「勉強家」 と自他共に許 した勤労を行し・明治二十二年二十六歳で本所区茅場町に牛乳搾取 業 を 独 立 開 業 し 2 ) これはまさに庶民的都会流入者の小成功者の典型であ つて 子規らの知的エリ ートの発想 と た. , は次元を異にしていた. 土屋女明の『伊藤左千夫』では, くり返しその合理主義 の欠如 を指摘 し, 西洋を通過しない教養の不足をいっているが, それは要するに出目と環境なら び に教養から くる 3 ) 左千夫が小成功者としての趣味的な 短 新時代に対する認識の不足を言ってい るのに他ならない. 歌観から近代的なものを意議するに至 ったのは, 子規門に入ってその指導を受けるに至ってから { ) しかし 子規を絶対的なものとして崇敬した彼 ではあったが 子規より三 歳の年長と であ った. , , いうハ ンデキャップは, 新しい時代の知識である子規を訪問 したとき既に三十七歳になっており , 5 ) そこに彼の主情的な.個性が, 子規の写 子規の理論をなか なかのみこめなかったのも当然である. 生の影響を受 けながらも 「叫び」 説へ結実する必然的な要因があった, だから左千夫が, 子規殴 後歌人としての自己を生きるためには 自然主義の時代と どう対処するかの問題があり, 子規の , 生きた時代とは次元の違う世界でその存在を試 みねばならなかった. 節は, 子規とも左千夫とも異 った過程をもっている. それは, 明治十二年茨城県下総国結城郡 岡田村国生に, 長塚源次郎の長男として生まれた出目から問題にされねばならない. 生家の長塚 家は 「山久」 という名で知られる地方の旧豪農で, 祖父の久右術門は国生村の組頭を務め戸長の 6 ) 旧家の常として 家族構成には複 機関与左衛門と村に於ける二大勢力をなしていたといわれる. , 7 ) 二十年には父源次郎が改進党の新進として県会議員に立候補し,当選, 雑なものがあったら しい. これにより三十歳の青年政治家として活躍, 改選の度毎に立候補し, 一生を県会議員として, 地 方政治 に参与 した. 鬼怒川に添った関東平野の 平坦な撲林に囲まれた僻村から, 常盤線の取 手 , ) 長塚家の村 S 町や水戸線の下館町へ出る十里ばかりは, 当時何の交通機関もなかったというから, 内における位置は推量に難くない. 節はまさに名望家の息子 であり しかも三蔵の時 早くも百 , , 人一首を十首 余り暗話 したり ぶ りであっ いろは歌を確実によんで人々を驚嘆させたりする早熟 , た, 一つ違 いの弟順次郎は幼時の想い出を語って 「一つ違いでありながら兄貴の方は九帳面 で,子 供の中から決 して着物を汚しません. 私の方は普通の田舎の子 で土をいぢる土をぶっつけるで始 終汚 してばかりいる始末 に, 余程大きくなってから でもよく母に『お前は どうしてそんな だらう, 兄 さ ん は 少 し も 汚 さ な い が』 と い っ て 度 々 叱 ら れ た こ と を 今 でも 億 え て ゐ ます」9 ) と言って いる .. 十六年五歳 で学令に達せぬうちに国生小学校に入学, 小学校を一番 で卒業し 中学も一番で入学 , した. このような品行方正学術優等式の典型的な模範児は, 長塚家の総領と して要求された外か らの圧力ではなかったろうか. 即ち村童の模範であ ることが要求されたのであろう.或はそれは , 自ら意識 した幼な心 であったにせよ, 他の村童とは違った存在を意識さ せられたには違いない . 生れながらに運命 づけられた節のこのような位置は, きわめ て孤独である, 一般 の村民や村童 と全く共にあると いうこと は許されない. 己を持し, 周囲を意識し 常に抜んでた位置にあらね , - 14 --.

(8) . 長. 塚. 節. 論. ばならない, これが節の精神 の根幹をなす一つの要素であったであろう. そして子規と の交渉の 間に, 人格主義的な子規の人生観や, 改革者としての指導者のあり方な どが呼吸されていった. 彼の謙遜な生き方が前 者であり, 村の青年層を指導した行き方が後者である. だが節が小学校に 入学した十六年から二十年にかけては, いわゆる自由民権運動の最盛期で, この時期に政談演説 めいたこを湧かしとばかりをやっていた中学生子規や, 太政官に建白書を奉った左千夫が幼 い血 ていた時代である. 節はだから近代国家初発の重大な時期には関りなく, むしろ父 の源次郎の青 年政治家として活躍す る時代であった. その意味で節は民権運動のアプレゲドル で, もはや華や かなロマンチストの時代は失われていた. 水戸中学に入学したのは明治二十六年であり, 四年級 で退学しているから, 丁度この間に日清戦争をはさんでいた. この戦中戦後にかけて精神形成の 時期を持った節は, その環境とと もに個性的な世界を形 づくっていくことと なった, 4巻角川書店版所収) 1) 山本健吉 「子規の第一歩」 (近代文学鑑賞講座第2 2 ) 伊藤左千夫 「家庭小言」 5周年記念号) 3) 中村憲吉 「アララギ前半期の思い出」 (アララギ2. 4 )斎藤茂吉 『伊藤左千夫』 上 5) 同 6) 平輪光三 『長塚節』 2頁. = 7) 節出生当時, 父母の外, 祖父母, 曽祖父母に養女が二人, 節の後弟順次良 , 整四郎, 妹とし子, はなが生 まれ外に奉公人が大勢いた, 8) 平輸光三 「前掲書」 3頁, 1月) 家節追憶号」 大正14年1 9) 長塚順次郎 「家兄の話」 (新小説 「長i. 4 . 節 の精神形成期と環境 脳神経衰弱のため二十九年 (十八歳) に中学校を中途退学した節は, あたかも日清戦争後 の国 粋主義高揚期に青春期 を迎えている. 二十年代の思想は, 民権運動 の挫折のあとを受けて, 星雲 1 ) 二十年以前 の国粋的なも 状況を呈し, 陸掲南や蘇峰の思想もとらえにくい多面性をもっていた. のは, 民権運動の一面にあって, 国民観念を推し進 めたものではあったが,掲南が明治二十二 年 ご ろから現実創造的な萌芽を失って現状埋没的な伝統主義に転落したのも, 当面 の目的たる国会と 憲法の実現の前に事終れりとす る思想 目的の終結があったから である, 国粋主義 の思想的持続性 は, 伝統 主義的発想に執着したことによって保持出来 たが, 近代的思惟に対 しては採長補短 の態 2 )そ 度から は抜け出られず, 子規が 『日本』 新聞と交渉をもつ のも, こうした点に意 味があった. の国粋 主義は, やがて嫁 峰が変節することにより, 論敵, 大井憲 太郎や陸錫南らと手をたずさえ て国民の関 心を外に向ける対外硬の運動に走るようになると, 二十年代の思想の方向が決定づけ られて来る。 すなわち十年代のナ ショナリズムが, 二十年代の国粋主義,平民主義 の媒介をへて, 3 ) 日清戦争による 「官民和合一般協力」 天皇制権力の 「国家主義」 へと呼吸されて行くのである, 三国干渉によ る 「臥薪嘗胆」 がその最初の指標であった. そしてこの時期に ブルジョア ジー の政 治的進出がようやく軌 道にのり 「…我々は…実業の発達を希うが故に陸海軍 の拡張を大いに主張 4 ) と いうような臥薪哨 :胆的軍備拡張に呼応して日本資本主義 の確立期に入るので するわけであ る」 5 ) いわゆ る 「田舎紳士」 としての豪農層は, この期に官僚制機構 の末端につながる村落支配 あ る. 者として, 体制イ デオロ ギーのなかに吸収されて行った. こうした時期に節は, 資産家の地方政 治家として名をなした父をもつ青年として成長していたのであった. その間水戸の下宿から中学に通うあいだに, 小説百家選のようなものに読みふけり, 同好の友 人と文章会をつくったりした点に,彼の文学への興 味をうかがうことができる, 発病前は水泳や機 - 15. -.

(9) . 薄. 井. 忠. 男. ) しかし神 6 械体操を得意とし蒲柳の質ながら健康に留意して体格は立派であったといわれている. 経衰弱症により中学校退学を余儀なくされ, 郷里に帰った節の心情は索莫 たるものであって, 「其 時私はまだ二十にもならなかった, 私は復た裸林に没却した此の静かな村の空気を吸はねばなら ぬこと になった. 全く孤独の境涯に移った, 日さえ明ければ田畑に出る百姓は私の相手ではなか った. 心身共に疲労した私と, 何時までも相対していてくれるものは樹木の外にはないものであ 7 ) と いう 状 態 で あ る. それからと いふものは厭だと思っていた榛の木もだんだん好きになった」 る. 明治二十三年, 県会議員に再選された父は, 二十五年, 二十七年, 二十八年と 改選の度に立 候補して当選し,いよいよその活躍が目立つと共に家を明け勝ちとなり, 次弟順次郎は高等学校に 進 み, 三弟整四郎は士官学校に進むと いうような間に, ひとり若い日を健康に恵まれず, 相手も ない田舎に無為に過さねばならない心情は祭すべきものがある. 留守勝な父にかわって家政を見, 時代の精神をある程度呼吸の出来た教育を受け, しもか話手もいない田舎に孤独な境涯をまもら ねばならぬ焦眺は, 病身という肉体条件とともに若い彼を失意の淵にか, 焦操感からくる狂乱へ まず であ る, と ころが三十三年三月 二十八日の記念すべき子規と の出会いは, 彼の人生 ′ かに導くi によい意味での転換をうながした, 子規傾倒は, 子規の人格に対する絶対的な信奉となり, 子規 を通して文学も人生をも考えるにいた る. 小年期に名門の子として村童の範でなけれ ばならなかった孤独の境涯は, 長ずるに及ん では病 弱という欠陥も加わって, 益々孤独となる. 子規を知 るに至ってある程度の転換を得たが, 郷里 における孤独の境地に変りはない. 度々上京して子規を訪ねる節に対して 「そこで僕の考えでは 君には大責任があ る, それは君は率先して村を開かねばならぬ」「委細は面会の節話すべし」 「君 は東京へ出て来ることを道楽か何かのように思って居るがそれは大間違いだ, 時々東京へ来て益 3 ) と戒めている 節が健康回復後 を得て帰るやうに努めなくてはならぬ」 , , 農村青年の指導 や, 肥料, 炭焼の改良, 竹林の栽培と農村の向上のために尽した功績は大きく, これら の仕事の一班 は子規の教訓にもよるものであろう. ところで節 のこうした農村指導 は, 村民に どのように受け 入れられていたであろうか. 青年会長であっ た節は, 盆踊りの風簾取締に関して 「小生参りて取 締り不致候ては風儀乱れ可申, 岡田村は青年男女の風大いに改まり, 殊に国生地内には田舎に珍 しく二十歳に達しての処女も有之様相成申候. それ故盆踊りと申せば此の回生に近村を集めて踊 らせ申候に, 男女の手を執り合うものも見受け不申候. 今日からも四晩眠きおもひ致すことに候 ) というき びしい 「取締り」 を行っている. 「炭焼日記」 には 炭焼釜改良 9 え ども致方も無之候」 , にいかに心を用 いたかが物語られているが, 奉公人や小作人を相手に自ら行ったと は言うものの 一番大きな竹薮 農家の忙しい間も これに熱中しているありさまである. 竹林栽培では, 茨城県で‐ を持つようになり, 県の補 助金を得るまでになったと いうが,節は屋敷に近い山林を開発し, 既成 畑に どんどんあたりかまわず竹林を仕立てたので, 附近の農家は相当迷惑し被 害を受けた. 節の 農村改良は, 地主としての位置から 行なわれたために, 小作人や使用人からは煙たがられ, 村民 から は敬遠されたのであった. 村民から敬遠され ざるを得ない節の農村指導の理念は, 村で最大の地主であ るところに生れた ものであった. したがって郷村の改良も子規の世代が知的エリ←トと して意識していた国家社会 の改良と いう方向と は異って, 家運挽回と いう個人的な利益につながっていた. 弟順次郎が 「私 共の父は政治が好きで, 若い時分から 死ぬ前までずっと県会に出てゐました. そのため大分, 先 祖から の資 産も減らしたものです. 兄はこれを非常に心配して, 母と相談していろいろ計画を立 o )と 言 っ て い る こと は こ の間 て て ゐ ま し た が, ふ と, 竹 と いふ も の が 良 いと 思 ひ つ い た の で す」l , - 16 -.

(10) . 長. 塚. 節. 論. の事情をを説明してくれている. 理想主義的な子規の世界観と節の現実主義が, 世代の相違とし てここに観取され るのであ る. しかし明治四十四年十一月 不治の病であった喉頭結核の診断を受 )家運挽回の け, もはや肥料の研究も, 農作物の栽培も, 竹林経営も, 婚約の話も惨い夢と なり,n すべての計画も死に直面しては放棄しなければならなくなった. そしてこうした絶望に当面して 触れた人生, 自然そして周囲の人々との交渉は, 芸 術に対す る欲求にのみ生かされる余地がある ことを知らされた. 絶望的な余命に向ってただ一つの希望が芸術の世界であつたと き, 彼の孤独 な生涯が悲痛な体験を通して沈潜され 「冴え」 の気品に至るのであった. 1) 色川大吉 「明治2 0年代の文化」 (岩波 「日本歴史」 近代1) 2) 山本健吉 「子規の第一歩」 3) 色川大吉 「前掲論女」 4) 前島省三 「ブルジョアジーの政治的進出」 (岩波 「日本歴史」 近代1) 5 ) 雑誌 『太陽』 は日清戦後 「実業家の政治家を使う時代が」 到来したと記している. (前掲書2 30頁) 6) 前掲, 長塚順次郎の女. 7) 「隣室の客」 の一節. 8) 明治35年8月19日附, この中には農学校などおこすべき事まで書かれている. 9) 門間春雄宛書簡. 「表面は地主の長男の青年会長に従っていたが, 蔭の批難や悪口や憎悪は甚だしいもの があった。」(平輪光三 「長塚節」)1 08頁, 10) 前掲, 長塚順次郎の女. ) 婚約の相手は黒田てる子といい, 節の発病により, 節から破約を申入れた, 「病中雑詠二」 はその間の事 11 情を歌ったものである,. 5 . 万葉集研究の方向 節は最も親しい友人の一人であった寺田憲に宛 てた書簡に, よ め, 万 葉 を よ ま ん も の は 日本 を よ め,. 「歌をよまんとするものは万 葉を. 子 規 の う た を よ め, 而 し て 明 治 の う た は な る べ し,」 (明. 治三十三年) と言っている. 子規によって万葉を教えられた節は, その作品も万葉調になり 切っ うけられるのである. 三十四年に入 ってから, 子規の教 ているのは, はやくもこの年の作品に見・ えによって万葉集の外に記紀歌謡な どの ,古典の研究を始め, 万葉集の中でも巻十四の東 歌や巻十 六の滑稽の歌等を精しく研究し, 進ん で神楽, 催馬楽の歌にまで及んだ. 節の万葉研究 は, 作歌 者の参考のためであって, 主として声調の上に主眼を注いでいること は当然であるが, その興味 が巻十四や巻十六に向けられたこと は注意 しなければならないお これらは作者未詳の 民 謡 的 な もので, 民謡は集団と しての民衆の感動が表現されたものである. 民衆と しての全体の集約され たろ拝情 である. そこには近代汗情詩のいわゆる個の表白はないのであるが, それだけに直接的 な素朴な詠嘆がある. 神楽歌にしても催馬楽にしても, その民謡的な詠嘆の中から節 の汗情表現 を作り出そうとするとき, 自ら特殊な節短歌の形式を思わざるを得ない, 「万葉集巻十四」 は三十フ 年六月 『馬酔木』 第一号に発表された, そこでは 「万葉十四は悉く 東歌にして短歌二百三十一首を以て成る. 試に数首を抄出すれば」 と して次の歌を抜いている. 筑波嶺の新桑繭の絹はあれ ど君がみけししあやにきほ しも つくば嶺に雪かも降らる否をかもかなしき児ろがにぬ干さるかも 武蔵野のを ぐきが雑子たちわかれ去に し宵より背ろに逢はなふよ 葛飾の真間の手古奈がありしかば真間のおすひに波もと どろに 足柄のおてもこてもにさす民のかなる間しずみ児ろあれ紐とく おふ横このもと山のま しはにも告らぬ妹が名かたに出でむかも - 17 -.

(11) . 薄. 井. 忠. 男. あらたまのきべの林に汝を立 てて行き がつましも妹さきだたね 等の歌に対 して, 「一見して直ちに常態と異なるものあるを知るべきなり. 今少しくこれに就き て吟味せむに 『筑波嶺』 の歌の二の句 『新桑繭』 は一つの造語とも見るべくこれを以て東歌の特 色と なさんか, 造語は万葉の特色なり. 未 だ以て東歌の特色となす べからず. 況やこの種のもの 極めて少きをや. 」と いって, 造語は東歌のみの特色ではないが, 万葉の特色として認めている. この種の農村風景事 物によって成される新造語は, 節の作品に反映して, 歌集中にいくらも指摘 で き る の で あ る.. さらに 「次の筑波嶺の歌内容の妙も頗る見るべ しと難句法の奇抜な ると ころ比簿すべきもの多 からず. 東歌中また一ありて二なし」と 句法について注目している. この句法, 声調は,節の古歌 研究の眼目であったから,それは 「様の芽のほ どろに春 のたけ行けばいまさらさらに都し 熟まゅ」 「筑波嶺の的面背面に見つれ ども霞棚引き国見しかねっ」. 「吾が心いた も悲しもともずりの黍の. 『むさし野』序歌としての巧妙なるは誇 秋風やむ時なしに」 な どに反映しているであろう. また 「 るに足るべきものあり, 東歌にはこの種のもの最も彩し」 と して, その数六十首 をかぞえ 「実に 総数の四分の-強たり」 として, 「序歌の巧妙なる」 点を東歌の一つの特色にあげている. 序歌 的な方法は, 節の歌の特色でもあって, 東歌の序歌は影響するところ大であったと思われる. 「東歌余談」 (三十六年十一月 「馬酔木」 第五号) では, 「用 いられてある物名に目を注いで」 「禽獣虫魚草木と分っていずれが最も多いかと いうにそれは草木即ち植物で, 禽獣虫魚即ち動物 は至って少い」 と いい, 「籾てこれが どう使用せられて居るかと いうに悉く序歌の材料になって いるので, その作品の価が どうかと いうに, それは決して悪いこと はない. 悉く巧妙であると称 揚するに禅らない」と物名序歌の価値に注目している, そしてまた「現在に於ける吾々の作は どう であろう. 東歌に在るような序歌の巧妙なものがあるであろうか」 と, 現在の短歌に序歌的方法 を示唆しているのである. 東歌の序歌も 「寄物陳思歌」 分類に入るのであるが, その民謡性を考 え るとき, 思 を述べること が直ちに個の汗情的発想と して見ることに問題が残る. しかしこの民 謡的な序歌か ら節が汗情詩としての発想を学ぼうとしたことは, 充分注目されてよい. 節は東歌 の序歌 を新しく 自己の歌に反映せしめたところに その研究の意義を感じていた であろうが, それ は触目の事物を写生的にとり入れて恩を托すと いう方法であった. 平安以来の歌人が, 固定した ‐ b 清 枕詞や序詞を歌の修辞と して用 いたのと は根本的に違っているのであって, もっと直接的な′ の表現であったのであ る, 子規の写生の忠実な実行者と目された節は, 実は写生を序歌的な発想 と してとらえていたのではなかろ うか. 子規から 「未曽有の出来である」 と いわれた三十五年の 「ゆく春」一連 の作にも序の句の成功した例が見られるのである. 子規の殺した時の挽歌 「ささ ぐ べき栗のここだも掻きあっめ吾はせしか ど人ぞいまさぬ」 にしても, 純拝情を自然景物に寄せて 感慨 をもらす手法であった. だから 「束歌に倣ふものは須らく東歌に倣へたろが故に佳なるもの た る べ し」 と いって単なる模倣を排してその創作の態度に倣うべきを言っているのもこの句 法声. 調 を通しての発想 を言っているものと考えられ る. 「万葉口舌」 (明治三十七年『馬酔木』第九号~三十八年第二巻第一号) は万葉集巻十六の研究 であって, 有由縁歌, 滑稽の歌, 雑歌に分類して述 べている. まず有由縁歌については, 「各の 歌の由て来ると ころの説明によって, 一際その歌に対する読者の感懐を深かからしめる点」 にふ れて詞書の重要性 を述べている. そして 「詞書を添へる段になると, 戒たけ離れて作るが肝要に 司書がなくてはならな い歌の方が変化せしめ なる. 詞書が無くても明瞭であ るという歌よりも, 喜 司書を考える場合の暗示と なるであろう, 節 易い」 とも言っている. この見解も,節の歌の優れた言 - 18 -.

(12) . 長. 塚. 節. 論. は詞書を歌に変化を与えるもの, 新鮮さを与えるものとして考えていた. それは後に俳語の季語 の問題にふれて, 季語のはたらきに相当するものと してこの詞書と序詞をあげているのによって も知 られ るのであって, 不即不離の関係で作品全体を活々させる彼の詞書はこのあたりから意識 言 }の方法と詞書 であ されたのではなかろぅか, いずれにせよ彼が万葉か ら得た大きな収穫は, 序言 ると 言 っ て よ いよ う に 思 わ れ る. 1) 巻16については既に子規の研究がある,. 6 . 序歌的発想について 或る意味では子規の忠実な継承者であった節は, 三十八年の 『馬酔木』 第十五号で 「写生の歌 に就いて」 と いう一文を載せやや唐突とも見え る論を述べて波紋を投じた. 子規の短歌は, 俳句 より出でて, 俳句的な客観主義を短歌に反映せしめたものであったが, 三十三年の坂井久良岐に 宛てた書簡で, 短歌の主観に適している本質を指摘して以後,客観は 「主観を表わすための方便」 1 ) その意味で序歌的な方法を万葉から学んだ節には, たしかに一頭地を抜いたものがあ となった, ったのだが, ではなぜ節は 「写生の歌に就 いて」 をことあらためて言わね ばならなかったのか. 「万葉集巻の十四」 ですでに 「余の如きも曽て記紀の歌, 神楽催馬楽を見て分別もなく之を模 したりき, 今に至りて顧るにその皮相の見に過ぎ ざりしを恥ぢ ざるを得ず」と 言っているように, 万葉古歌の模倣がようやく陳腐になった結果, 新境地を開拓す るための方法として 「写生の歌に 就いて」 は唱導されたものと思われる. そこでは 「万葉の歌は面白い. 万葉から出たものも亦面 白い.万葉の歌は主観的である. 万葉から出たものは随って主観的に傾くのは見易い道理である」 がしかし万葉的な歌に「飽きが来て居る」 以上それは新 しい傾向を開拓しなければならないと いう 前提を立てている. そこで 「俳句の基礎は全く写生であった. 歌が俳句と 甚だしく基礎を異にし て居べき理由はないやうに思う」 ところから, 「主観を表わすための方便が大分であった」 客観 を逆に 「主観と いふのも, 客観が主となるものを作りたい」 と主張するのである, 「秋冬雑言 永」 三十首は, こうした考えのもとに試みられたものであ る. その客観とは 「直ちに天然に接触して 2 ) と左千夫の駁論に報いているように天然自然を意味す 写生をす るというのが現在の急務である」 るのであった, そこで考えられることは, 子規の指導によった節の短歌は, 節の考えている写生 と は極を異にするものであったことで, 「写生歌」 以前 の節の客観的表現と は実は主観表現のた めの方便であり, それが序歌的発想に導かれていたと いうことであ る. 序歌についての節の見解を考えてみると, 「東歌余談」 において物名をと りあげ,. 「東歌二百. 三十一首の中にはまた種々なる品物が引用されてあ る, さうしてそれがまた賓位に据ゑられてあ る」 と いい, その物名は 「品物そのものを主にしてあ るのではなく, 大抵は作者の主観を表明す るに於てその方便の一として即ち片々ではその主観を助けるのと, 片々では組織の上に装飾とし て用 いられるものである」 と序歌の特色に注目している. その序歌 も 「平凡なる品物を材料とし たものに, 却て秀逸が指摘せられる」 として, 形式化した序歌と東歌の序歌とを区別するのであ る. また 「東歌余談P」 では 「外界の品物をかりて装飾をしなければ単に主観のみになってしま ふ所から, それは各人いくら づ っかの相違はあるにしても陳腐にいふ側に傾いてしま ふ の で あ る」 と歌の陳腐を救うために序歌的装飾の必要をといている, そして高浜虚子の叙景歌に季のな いのは物足らぬという意見に報いた「歌の季に就いて」では, 歌の俳句に対する特長をあげて 「同 じく季なきも序歌叉は比輪等によりて, 文字の上に装飾的語句を用 いて佳作をうろこ と が 出 来 - 19 -.

(13) . 薄. 井. 忠. 男. る」 と言っており, 叙景の作中に季のない例が多く 「却て叙情的の序歌に在って季のあるのは抑 も どういう理由であるか」 と 言い, 「万葉の作者の叙景は多く唯雄大なる, 荘漠たるものを選ん だため季の有るものが少ない. 叙情になると沈んだものが普通である. 思いに沈んで居る時に仰 いで壮大なる風光を観ること はなく, 手近のものを探るべきである. 随て序歌の材料が季を有 し に 成 る の で あ る」 と い うと こ ろ に 理 由 を 求 め たろ 秋 の 田 の 穂 と か, 麦と か いふ も の を用 ゐ る や う≧. ている. おそらくはこれは, 節の実感から来た解釈であろう. したがって節の序歌-序詞の使用は意 識 的になされていたのであって, 「宵に焚きてあげのま 3 )と だきの灰寒きまかま ど山は石白く見ゆ」 の自作にも 「こんな序歌でも写生をはなれない積り」 言っており, 茂吉も 「おもふこと楢のさ枝の垂花のかゆれかくゆれ心は止まず」 について 「この 序詞は作者の創意に成ったと いうべきものであ る. そしてこの創 意は後年の 『写生の歌』 に発展 4 ) と言っている 茂吉が節の序詞を創意と認めたのは, 古今集以後形式化し して行くものである」 . 固定化 した序詞に対 して, 触目的自在な方法に対 してであったであろう. その意味で序詞 は写生 であった, したがって序詞のみの写生を一首全体に押し及ぼすとき, 節のいわゆ る 「写生の歌」 が成立 し, 主観を殆ん ど沈潜せしめた純客観歌となる, 秋 の野に豆曳くあとにひきのこる秀がなかのこほろ ぎの声 稲幹に束ねて掛けし胡麻のから打つべくなりぬ茶 の木さく頃 秋雨の庭はさ び しも樫の実も落ちて泡だっそのにはたづみ こほろぎのころろ鳴くなべ浅茅生の どくだみの葉はもみぢ しにけり 桐の木の枝伐り しかぼそのえだに折り敷かれたる白菊の花 朝なあさな来鳴く小雀は松の子を食むとにかあら し松葉たち ぐく )節 「秋 冬 難 詠」 の 歌 で あ る. こ れ ら の 作 に よ っ て 自 然 に 「開 眼」 し たと いわ れ る も の で あ る が,5. の俳句に 「豆引いて秀はのこる秋の風」 の如きがあって,俳句的観照からの影響もうか がわれる, さてここでいわゆる序歌-序詞と, 節の用 いる序詞と の相違が考えられなければなら ない. 古 司は枕詞の長きものと いうのが契沖以来行われてき く序詞は枕詞と本質的には区別しがたく, 序言 た解釈である, 福井久蔵氏も これをうけて 「枕詞の如くに して上半の二句以上より成るものを序 詞と し, 枕詞との間に区別を置く」 と形式上より説明して おられる. そして 「上下相関的に用 ゐ た関繋は一派の学 者の所謂序詞との間に劃然たる差別はない. 唯一方は尋常の形容詞句叉は副詞 8 ) と 内容面から本質的な違い のないこと を言 句の如き観を呈し, 新鮮味の多いといふに過ぎない」 言 iについての最近の労作は土橋寛氏の 『古代歌謡諭』 であって, 氏は従来序詞は われ る, だが序言 「次に来る語を引出す ための形式的修辞」 とされてきたが, 序詞ははたして修辞法であ るか どう かと いう点から検討されている, それによれば, 歌論が成立する平安朝からは修辞法と しての考 えが生まれ, 枕詞と の本質的な違いが認め がたくなった, しか し万 葉集においては, 序歌は寄物 除歌と 対立するものと して把握されており, この三者 陳思歌の中におさめられ, 正述心緒歌や警ー は′澄清の表現形式に関する概念であったのだとされる. だから 「真野の池の小菅を笠に縫はず し て人の遠名を立つべきものか」 (万十一, 二七七二) の如きに しても, 「次に来る語を云 うため 音 iと いう形式的な序詞観は通用 しない」 と言われる. 序詞は必ず しも本 旨に対して従属的な の序言 関係にある修辞句ではないのである, 序詞に用 いられる景物は, 心情を比職的, 象徴的に表現す るような一般的景物が取り上 げられるものであり, これはもっとも表現効果の大きい優れた序で あって万 葉にはそのような秀歌が多い. しかし中には常 套的な様式化された自然の景物が用いら れた例もあ るのであって, 数から いうとこれが一番 多いかもしれない. さらに注意すべきは, そ -2 0-.

(14) . 長. 塚. 節. 論. うした一般的な景物の外に, 嘱目の景物ないし歌の場に即 した景物が用 いられているものもかな り多いとされている. 氏の結論は, 即境的発想から嘱 目的発想に発展するのが序詞の本来の形式 で, 即境的景物を提示し, そこから何らかの契機によって陳思部に転換してゆく発想形式だとす る. つまり嘱目の景物を出まかせに 叙述 してゆくうちに, ある語に行き当ると, それを 手がかり と して言おうとする主題に入ってゆくと いうことにな るのである. そしてそれは民謡的発想の典 型 で ある と す る の で あ る,. 7 ) 氏はそこでは 東歌の景物が東 大久保正氏は, かつて東歌の寄物陳 思歌の景物を論ぜそれた. , 国農民の農耕生活との関連から論 ぜられて, 季節季節の景物が農耕の季節変化とと もにとらえら れていること を指摘された, 東歌が民謡的な発想であることを思 うとき,これは充分考えられてよ い. したがって, もと景物の歌 は, 境地にかまわず触目の景を詠じて自己の心情をひきだす 時, それは自然が序歌と して 利用され る東歌の発想に最も 顕著なことがらとなって当然なのである・ 触目序歌の景が本来のものであっ た景物は, やがて女学意識の確立とともに固定化 し, いわゆる 修辞上の序詞と なったのであるが, 伝承に近い素朴な作にさかのぼるほ ど本来の触目序歌が生か されていたわけで, 東歌の民謡性については既に多くの指摘があり適説があるが, 民謡が集団の心 情と して歌われるために は, 共通 した心情のより どころである景物があるのである, それは農耕 に関連した四季もろもろの事象こそ, 生活的にも彼ら民衆の心情をとらえるものであ るから, 季 節にふれての触目景 物は,即ち民衆 の心情をおこす共通の場とな る, 民謡から拝情詩への展開につ いては, なお問題が多いであろうが, 民話が, 民衆の生活の規範 を示すものであり, 生活の知恵 の結集であったのと 同様に, 民謡は民衆のなげき であり感動であった. 多人数のもしくは部落 全 体の共に肯定すると ころの心情の表出である, であるとすれ ばそれは, 民話の場合と同じく民衆 の規範的なものたり得る内的生命をもつであろう. 大久保氏が指摘 した農耕生活との関連は, ま さにそのこと を示 しているといえよう. 時鳥の鳴く声を聞いて種子を蒔き, 初雁の飛来を見て収 穫にいそしむ農民の知恵は, また共 同の汗情と して歌われた民謡の中に暗示され, 示唆される 生 活の知 恵 であり心情であったのだ. だとすれば, 民衆が無意識に生活の規準と していた四時の転 回を, 意識的にとらえて心情を托する個人の好情 が成り立ち得ることも考えられよう. 節が万葉集に親しみ, その中でも東歌に興 味を感じたのは, 節自身が東国の人であり, 農業人 と しての親近感もあったに違いない. しかしここで, 節の 「思ひに沈んで居る時に仰いで壮大な る風光を観ること はなく, 手近のものを探るべきである」 という言葉を思い出さ ざるを得ない, 節は民謡的な触目景物を, 個の発想と しての汗情詩にとり入れたわけであるが, それは単なる模 倣ではなくして, 「手近のものを探る べき」 必然があったのであ る. その意味で, 彼の序詞の用 い方は, 先雌を考え ること なく作歌主体の感興に基づく のであって, 同じ万葉調の根岸派の中で も 「独自の創意」 とすることができ るのである. だとすれば 「思ひに沈んで居る」 ものの内容は 節の場合なんであったか. 茂吉の言葉を借りれ ば, 「天然に寄せて堪え難しv情を浮べている」 こ との必然は何であったかが問われなけれ ばならない, 節の短歌が農民文学と して評価されている こと は先にふれた. そしてその農民文学も, いわゆる農耕者と しての勤労者と しての農民文学と は立場を異にする点も先にいささかふれた. したがって 「堪え難 い清」 は民衆と してのそれでは なかった, む しろ 「耕さ ざる百姓」 の位置, 地主と しての位置からもたらされ た 「堪え難い情」 まある意味で拝情詩であ る短歌の本質に連なる 「なげき」 でもあっ たので であった. しかもそれ{ あ る.. われわれは汗情詩としての短歌を問題にす る場合, 作者の生い立ちや生活, 環境等を重視 せざ 一2 1一.

(15) . 薄. 井. 忠. 男. るをえない. 好情と は要するに集団を離れたというより集団の中における 「個」 の表白 であり, 「個」 は生い立ちや生活, 環境等の周囲の条件が刺戟, 影響し, 他 と区別される一個の存在とし て の完成を見るのである. いわゆる生まれと育ちと は, その個人にとってかけがえのない要素な のであるから, 個の表白はいいかえれば生れと育ち の中からの心情の集約 である. それ故にそれ は作者の分身であり, 表白の動機は周囲から の制約であり, 制約は自我意識の上に主体的に自覚 される. したがって節が表白せずにいられなかったものは, 政治的情 熱への挫折感から伝統詩歌 の改良に進んだ子規と はもちろん, 庶民的都会流入者としての左千夫とも本質的に異らねばなら ない. 幼い時代から名家の子弟として の湾持を持ち, 一般農民の子弟より秀れていなければなら なかった宿命は, 少年期にも家郷を離れて遊学の旅の空に過 ごさねばならなかった. また病を療 養するために 家郷にも どっても話し相手となる人 は周囲に見当らない. この孤独は, まさに節の 汗情の根本をなすものであっただろう. ただ眼に触れる天然自然のみは変らぬ愛情で彼を迎えた かも知れない. しかし自然そのものも, 「耕さ ざる百姓」 の彼にとっては, 注意して観察しなけ ればならぬ生活の対象であったのだ, 天然自然の変化の微妙を意識的にとらえ得るためには, 観 察をあえて行わねばならぬ指導層 の位置が必要であった点で, この限りでは古も今も変らなかっ たと いえるだろうか. 孤独の境に居ら ざるを得ぬ節 が, 「心身共に疲労した私と, 何時までも相 対していてくれるも のは樹木の外にはないのである」 と観念した時, 自然は彼の心情を托するに 最もふさわしい存在であったのだ. だから節の序歌は, 固定観念にとらわれること なく, 次々に 眼に触れる触目の景物を序歌として 「天然に拝情する」 ことができたのである, 節 の序歌的発想 にもとずく歌は, 非常に多数であるが数首を例示する. 桑の木 の木ぬれをはかる青虫のかがめ て居ればいたき足かも (三十六年) たらの木のもゆらくしろく我が薮の辛夷の花は散りす ぎにけり (三十六年) 折らゆればすなはち萌ゆる穫の芽のまたも逢ふべき人にあらなくに (三十六年) こほろ ぎのころろ鳴くなべ浅茅生の どく だみの葉はもみ じしにけり (三十七年) 我が庭の植木 のかへで若楓帰りか へらず待ちつつ居らむ (三十七年) 竹柵に花さく 梨のいさ ぎよくいひてしこと は母に申さむ (三十七年) 小夜更にさき て散るとふ稗草のひそやかにして秋さりぬらむ (四十年) 植草ののこぎり草の茂り葉のしトやこまやかに渡る秋かも (四十年) このわずか な例示によ っても, あからさまな序言 言 1の用法から, 「写生の歌」 を経て, 四十年の例 に至ると主観客観 の混然とした姿を見ること ができよう. 1) 「(前略)一昨年頃は俳句に詠み得る景色は何にても三十一文字に入れ得べきやぅに信じ候ひしかども, 実 際経験を積むに従ひ, 短歌は俳句の如く軽快なる微細なる景色を詠み難きを発明致候(後略) 」 2 ) 「歌諺抄」 を読みて. 3) 斎藤茂吉編 『長塚節研究』88頁. 4) 同上. 5) 同上14頁, 「この 『秋の野に豆曳るあとにひきのこる秀』 とい5写生に際し, はじめて写生ということが 分かったやぅな気がしたと作者自身告白せられたことがある」 (茂青) 6) 『改造社版短歌講座』 「修辞及文法篇」 。 7) 『国語国交研究13号』 「万葉集景物論の構想」. 7 , 節的客観 の世 界 節は自由民権運動から民間へ浸潤した革新的思想 陣営と は全く関係がなく , むしろ無関係に近 - 22 -.

(16) . 長. 塚. 節. 論. かった. 父が改進党系の地方政治家であったために, いくらかその方面から の知人 があったかも 知れぬが,それも単なる知人で積極的な意味はもって いなかったし, 子規と の関係で新聞『日本』は 読んでいたが, 思想的, 政治的な関心は示していない. 日清戦 争の時期に少年期を過 し時代の影 響は相当に受けていたはずであ るが, それについてのはっきりした反応はわからぬ. 日露戦争の 時期は, 彼の歌人として最も活躍した一時期であっ た. この戦争には, 三十七年に長歌短歌があ り, マカロフ戦 死, 海底問答, 億友歌等があり, ま た弟整四郎を詠んだ歌もあって, 「日露戦争 1 ) のではあ るが, そこに思想的なものを求め るの に際して吾不関藷的態度でなかったことが分る」 2 ) は三十五年一月 二十三日の青森歩兵第五 連隊 は無理であろう. さらに 「凍死 の兵士を悲 しむ歌」 の兵士 二百十二名が八甲田山に雪中行軍をを行って遭難した事件 を歌ったものであ る, 節の作品 中 では特異な存在ではあ るが, しかしここにも 「大君のとほ の御楯と丈夫の行きの進みに雪なみ っすも」 という反歌に見え る如く, 社会的思想的問題は表面的にしかとらえら れていない, いま 8 ) がある これは明治三十四年の作で, 足尾 一つ 「鉱毒地被害民の惨状を聞きて痛憤して作る歌」 , 鉱毒事件を歌ったものである. ここには節の烈々た る義憤の念が窺われ るものがあり, 先の八甲 田事件の歌と 共に, 節の歌としては社会的問題をあつかった希有の例として注目し て よい, しか しそれもまた 「いかなら む年の日にかも毛の国の民の嘆きの止む時あら む」 という 反歌に見られ る如く. 傍観者的同情の域を出でな い. それでは節にと って 「孤独」 と いう環境の制約以外に汗情を触発するものはなかったのか. そ れは, 炭焼を試み竹林栽培を試み, 作物の改良を試み たという意 欲の方向づ けの中に求められよ う, これらの試みが, 子規の世代のもったナショナリ ズム的ではあったが理想主義的な改良改善 主義と は異って, これによって家運を挽回しようと いう意義をもってい たこと は先に触れた. 「山 4 ) と村民が陰で批 久の小旦那も何かと 仕事を始め るが, 小作人を虐め るか鶏を殺す位が関の山だ」 難したとし ・う挿話は, 節の農事 改良のありかたを語っているであろう. 彼にとっては社会的, 思 想的, 政治的問題は傍観者的態度よりなかった. それよりも自己自身の家が問題であった, いわ ば子規とも左千夫とも異っ た次元での, 即ち農村の地主としての世に対 処する問題であった. 彼 の鋭い観察力は, こうした地主階級にして得られた観察力ではあるまいか. だから名作 『土』 に しても, 内部から の湧き出 る貧農の生活描写ではなく, 外から近づ いた自然主義と いう位置にと どま る のであ ろ う,. .三十八年十二月 十三日附の寺田憲 宛書簡に 「誰にも憂慮は免れぬ所に候へば是非なきこと なが ら多少の煩悶は起り申候. 小生な ども家運の衰頒には年来心の安ま る折も無之候.」と言って, 高 矛隼貸に他人の事のため差押を受けたこととその処理についての苦しみを述べ, 「絶対に何等の欲 念を去って仕舞ふこと を得ば, 幾何か可なるものあ るべけれ ど, 小生にはそれ程ま でには抑制い たし兼候」 と, 家名や資産, ひいて は世間に対す る体面を心配し, 執着を示している. 「苦心の 存ずる所は, 表面にいたくあらはれ ざる間に始末いたし度点に有之 候」 とは, この間の気 持を表 5 ) であった しかもこの苦労は わしてい る. 節 の母が言ったと いう 「政治家の子と生まれ た苦労」 . 形は変っても幼少の頃から 彼につきまと ったのであった. これを要す るに, 小 ブル ジョア的小市 民的苦悩と言う べきであろうか, であ るとすれば, 次の大正時代のアララ ギ的リアリ ズムの一面 を荷なうものであっ たと言いえよう. 節のこうした内面的傾向を小 ブル ジョア的なもの, 地主的 階級 の性格によって成立したものとすれ ば, その短歌作品に個の完成を希う 「冴え」 というよう な一種の精神主義の成立を見 るのも偶然ではないのであ る. 節の歌に対す る考えのよくうかがわ れる二三の文章を抜いて見 る. -2 3-.

(17) . 薄. 井. 忠. 男. ○人間といふも のは自分の天分を発揮する外に何もありやしません だから個性 のことは八釜 . 敷いふ のです. えら い天分を持ったも のはえらくなります . それは真似ることは出来ません. そのえらいえらくないも一様ではありません. 人の下男に終 っても百世 に伝へら るべき人間も ・ あります. いささかでも模倣は許されません. (大正三年 千樫に与ふ) , ○今の評論界 では只思想の方面ばかり論じて 品位と いふ事を閑却している 今の歌界には品 , . 位と いふも のが探しても無い. (大正三年 茂吉に与ふ) , ○大兄 の分水荘の如きも今 少しスカリと して 秋天の如き感欲しく候 其上貴人の別荘の如きを本 気になり て賛する事材料は新し けれ ど 其態度には賛成なり難く候今日 の元老貴人 の如き人一 , 人 の人格あるものを不見, (略) 小生は路傍 の一小草花にも 無限の尊敬と感謝 の念を禁 ぜざ , るべく候, (明治四十一年, 赤彦宛) 、 ○凡ての芸 術は 「冴え」 があって活きる, 短歌の雑誌を見る毎に此の 「冴え」 のある作品を発 見してさうして十分の尊敬を以て之に対したいと念 じている. (大正三年 茂吉宛) , ○何よりもアララ ギにはすべてを通じて澄んだとか , 冴えたとかいふ分子が殆ん ど発 見されな いこと を遺憾とします, (大正三年, 千樫宛) ○小生は一寸 「冴え」 といふこと を申送候も彼の人達には却 って反感を起しはせずやと存ぜら れ候, (大正三年, 平福百穂宛) 以上に言っている品位とは人間の心の至純至美 なるものを言ったのであろうし 「冴え」 は芸 術 , 6 ) それは地主として のもしくは小 ブル 的に純粋 であり, 澄明透徹 の境にいたったものであろうが, ジョア的位置から来る品格の尊重 であり, 人間的完成を目ざすも のであ る. その意味で品位や冴 えの主張は大正期 の人格主義に通じ, 左千夫の 「m l ・び」 からの生命主義と相ま ってアララ ギリア リ ズムの完成へ流れ込ん で行くのである. 1) 斎藤茂吉編 『長塚節研究』12頁. 2) 中山省三郎編 『長塚節遺稿』101頁, 長歌が二首あり, 一首には短歌が附いている意味の通じないところ があるが, 今はそのままとした. 3) 同上81頁. 4) 平輪光三 『長塚節』2 04頁, 2 08頁. 5 ) 中山省三郎 『前掲書』314頁, 6) 白井大翼 「長塚節」 (改造社「日本文学講座」和歌文学篇). -2 4-.

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