大谷探検隊の一側面
│ │ 市 洋 諸 島 を 調 査 し た 龍 江 義 信 の 事 総 を 中 心 と し て │ │不
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はじめに
大谷線検隊のー側面 浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺、以下本願寺)第二十二世宗主、鏡如上人(大谷光瑞師、以下光端師)は、 第二十一世宗主明如上人(大谷光尊師)の長男として、明治九年二八七六)誕生した。識見高遁にして気宇壮 大、ニ卜八織で本願寺第二十二世の法燈を継ぎ、本願寺教団内における組織的強化、凶内外の問教・伝道展開を めざし、近代本願寺教川の発展に大きな影響を与えてきた。そして、克刷附は、考古学・地開学・地質学・民俗 学・気象学・雄築学・博物学等を援用し、諸外闘の仏蹟調査等を巳噂し引地に隊員を派遣させ多くの成果をあげ てきた。その輪特許として、インド地域の調査記録を写真図版で構成した﹃印度撮影帖﹄(一九O
凹年)や中央 アジア地域に限り三次にわたって調査した内容が、光瑞師の序文と共に記された﹃西域考古図譜﹄(一九一五年) が 刊 行 さ れ て い る 。 - 37-これらインド・中央アジア地域を調査した光瑞師及びその隊員の組織を総称して、現在﹁大谷探検隊 L と呼称 されている。そして、この大谷探検隊について、その時間軸・空間軸から細別し広義・狭義の意味で捉える考え ① 方が、三谷真澄氏・市川島文氏から提示されている。また、﹁大谷探検隊﹂の名称の語源についての問題に触れ大谷保検隊のー側面 考える 。 そ れ に は 、 隊以等の制査地域を明椛にする必要がある 。 そこで 明 治 二 │九年 から光州仰の側近として本願 寺に奉職し ての事総をみながら、 第
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氏 ・ 片山立雄氏 の論考もみ ② られる 。 さて、平成 二 卜 六 年 ( 二O
一 凹)は 中 央アジア地域を中心に調脅した古川 小 一郎が訓査を終え、その足で光瑞附 のいる神戸二楽荘に調査終結の復命を 打 っ た 大 ・ 止 三 年(一九 一 四 ) から 一O
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年日にあた る 。 こ の 節 目 に お い て 、 光端師や隊円以がこの仏政調有を何と呼 称していた の か 、 時系列的 にいっ頃か ら﹁大谷探検隊﹂と呼ばれたのか そ して、空間的に﹁大谷探検隊﹂の凋代 地 域を叫認識す べ き時期ではないかと ﹁ 大 谷 探 検 隊 ﹂ の呼称とその定義について論じていきたいと思っている。なお、文 中の倣 光 州 叩 川 の 命 で 山 川 洋 を 淵 有 し た 龍 一 試 義 信 に つ い 称は省略させていただいた 。 ご究恕 願いたい。そして、 今回の拙稿の 什 樹 木 資 料とな っ た 龍江義信仰の資料につい て提供頂いた、稲井県勝山 市 底思寺住職 の龍江義正氏 、また、龍江義信仰の孫にあた る香 山玲 子氏、新谷 口 叩 子 氏 には心よりお 礼 申し仁げる。龍江義信の事績
龍江義信は、明治七年二八七四)三月十五日、福井県大野郡勝山町中後(現勝山市)において慶恵寺第十七 世龍江性信と妻増恵の長男として誕生する。明治二十二年(一八八九)四月同町成器小学校高等科を卒業し、九 月に本願寺大学林の文学寮に入学する。そして、龍江は、名を義丸から義信に改名(明治三十年十一月十二日) @ し た 。 ( 第1
図 ) 大谷探検隊のー側面 本願寺文学寮時代 本願寺の教育体制は、伝統の宗学と一般普通学との関係を、宗門の教育制度中に、どのように編制するかの点 で、明治時代以降たびたび改革されてきた。龍一乱が本願寺文学寮に入学した時もその体制は流動的であった。 本願寺には二三O
余年の長い伝統を持つ教義宵得の学校である学林があった。しかし、明治政府の発布した学 制による一般学校の制度に準じ、本願寺は明治八年に学林の学制改革が行われた。そして、翌年には宗門の教学 体制が確立し、大学にあたる最高学府を大教校と定めた。そして、明治十七年大教校から普通学を分離し、新た に普通教校が新設された。明治二十一年大教枝から大学林に改名され、普通教校は文学寮と改称された。さらに 明治二十阿年、本願寺は寺法制則の更新にあたり、文学寮を大学林と分離・組立することになり、理年には松似 通大山町四人の新地に新校舎が落成、文学府民に武山篤初が任命された。 このような、本願寺の近代化に向け動き出した教育制度改革の渦中に、飽江は文学寮(当時大学林)子科から 文学寮に入学し、文学寮本科(三年)・高等科(二年)へと進学、全科すべて首席で卒業し向。 - 39ー龍江 二 十 一 歳 の文学 寮本科 三 年次(明治二ト七年) の ﹃ 生理学 ﹄ ( 内田 雄太郎口授) ・ ﹃ 心理学 ﹄ ( 桜 井 宣 正 円 の講義ノ
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トがある 。 墨特によ っ てγ
平に雑記された講義ノ ート には、随所に 授 ) ・ ﹃ 論理学 ﹄ ( 蘭 問 宗 忠n
授 ) 米 蛇 口 きで下線や出点 ・ 英数文字 ・ 註が 付 記され、特に驚くのは ﹃ 生 理 学 ﹄ の ノ ート である ( 第2
図)。繊細な線 大谷探検隊のー側 面 画 で人体図が描写され、技量と 共 に 授業に対する姿 勢が読み 取れる 。 ﹃ 心理学 ﹄ の ノl
卜の末頁には﹁第一学期答 案 意 提 出 A E 、 吾 川 壬 向﹂ ﹁悶果論﹂が数 頁 に わ た って記述され 寸 心理学答案 L 、 ている 。 ノートには龍江義丸の税口ヴである が記さ ﹁ 龍 唯 出 ﹂ 龍[[義)Lの本願.'I'文学寮l時代の講義ノート 第3図 本願寺コビ午:
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年代の親友 (J.:より総i[五iA・11守野山j也丘J'J1・阿部一毛・必J耳目E剖} 第2図れている。首席で卒業したことが、うなずける講義ノートの内容である。 大谷探検隊のー側而 しかし、決して勉学のみ励んでいたわけではなかった。文学寮本科在籍中の明治二十五年十二月冬期休暇を利 川して、親友凹名(龍江義九・沖野川地五郎・阿部一毛・恵美慶岡)は、・中 t の大江山連峰に校則した(第
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凶 } 。 また、龍江は体育会系の端艇部に所属していた。都内には本多恵隆(一八九六年高等科卒)・判倉明宣ご八九 七年高等科卒)・野村礼譲(一八九七年本科卒)も在籍していた。文学寮卒業直前の明治二十九年七月二十一日、 第二回琵琶湖聯合競漕会の時、艇に龍江も合み七人乗り込み、華々しく優勝を飾った。前年の惨敗もあり、一ヶ ④ 円前より琵琶湖辺に下宿し極練習したという。また、毎日の臼己体重の検食、対戦相手の偵察まで行った。当日 の競技状況は﹁第二川琵琶湖聯合腕別会﹂(﹃反省雑誌﹄第卜一年七号)に記されている。阿部一毛・佐々木芳照 をマネージャー格にあて、舵手原山篤永(了哲}・整調本多恵隆・津野凹地五郎(俊識で大菅止・井上秀範・和 歌月興仁(弘誓}、紬手龍江義丸がメンバーに選出され、見事優勝を果たした。この時、光瑞師が蒸気船を借り 受け応援にあたったという。なお、本多恵降のれ訪である徳正寺(長野県)には、端艇部七人の集合写真(龍江 北九・本多恵降他五名}が保管されている(第4
凶)。搬膨年記は不明であるが写込の人物から想定して、明治 二十九年に優勝した時の記念写真の可能性がある。なお、見事優勝を果たした思賞として光瑞師よりポl
ト二隻 の寄贈があったとい、川。さらに優勝したメンバーの胴上げが行われた折、胴上げされた龍江は、勢い余って、部 ⑤ 屋の天上を突き破ったという珍事があった。 明治二十九年八月二十三日、光瑞師が六 l 七噸のヨットを注文し、東京石川島造船所で進水式が挙行された。 点点には湯川島之助・凶香雲らが派遣され神戸まで海路附送することとなった。さらに、その先導役として純江 一行(龍江義丸・池山大患・本多恵隆・康調清徹・池田恵久・阿部一毛・朝倉明宣)七名は洋艇﹃揚風 L 第二号 にて、明治二十九年八月二十九日午前七時二十分須磨の浦を発し、和歌山沖にて合流する予定であった。しかし、-
41-八月三 十 円午前七時半頃淡路島塩田付近で天候が一 1伝 し 品 被 川 肌 . 山 と な り 洲 本 に 小 川 引 い た の 午 後 二 時頃であ っ た 。 池川 舵長は矧附に﹁タタイマツイタ﹂と先 屯 し午後六時須磨より﹁アンチャクヲシュクス﹂と返 屯があ っ た 。 そして、和歌捕にい熊本若きヨ ッ トを迎 ⑤ えたのは 九川上旬 であ っ た 。 ところで 明治 二 十九年七月十
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、文学寮卒業式 後、侍 的 省広正降が龍江義九 の 下街先 ( 田 川 旅 附 ) 大谷探検隊のー側節 に行し似わされ ﹁ 抗 ド の 仰側に仕 へ 去 l作付 こ 1 1 3 1 L と 言 われ 龍江は ﹁ 勉 予 を へ 出掛け る考へ無き 也 ﹂ 累ね度希望すれば其れかなふ様ならば御奉公致すべ し﹂と符えたと 言 う。さらに、第 二 阿 琵琶湖聯令競 大 谷 光 州 州 側 か ら 飽 汀 に ら う 一 名 文 字 山 吹 か ら 求めていることが作げ ら 札、悩 別会に向けて の 盆糾門 小 に をi
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は 郎 本 し 多 Tこ型、 と 隆 い を う:l11IE日
!j し さらに木多忠隆は阿部 一 毛 その後、龍江 ・ 木多 ・ 阿部 の 三名が 初めて本願 寺の百華同に入 っ た 時 、 百輩闘では 明治 三 十年 月五 日 の新年全が行われていた 。 郎 一 札は - Y 惑いを隠 〈 第二│型│琵琶湖I
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会の11寺の端般的i優勝メンバー(推定)(1向列~i'.から二番 11本$!!(除、後~I'I'央ftüiU童九}
し き れ ず 、 その時の印象を﹁一而に粗放の空気漂う﹂と記されている 。 会場で光瑞帥より賜った雑煮倒を五十個 @ 出 席 し た 者 の 中 で 一 番 と な っ た 。 さらに 食 後 六 貫目の鉄棒を 二 本両手に以内 ち 悶 内を泊遇したとい う 。 龍 平 ら げ 、 μ 川 等 科 を無事卒業した。 託 の人 制 を 説 わ せ る 内 山 什 で あ る 。 花 江 は文武 両 道 に 侃 限れた青年であ っ た 。 そ し て 、 h 川 等 科 一 年進級生 とし 同卒業生として本多忠除もいた 。 ( 第 十 二 学 年 ・ 十名) 明治 二 十九年七月十日文 学 寮 そ の 時 、 て、後に大谷 探 検 隊 に 附 わ る 朝 合 川 宣 ・ 市 川 述 謀 、 本 科 三 年進級生秋 山 頴人(祐穎)の名も述ねていた。 龍 江 が 行 咋 凶 に 人 り 本 願 守 に 奉 職 し て い た 時 ( 明 治 二 十 九 年 八 月 1 明 治 三 十 年 十 一 月)、本願 寺 境 内 の奥 向 ( 御 影 堂 ・ 阿弥陀立の凶側 一 刷物)は闘雌殿 ・ 南 御 殿 ・ 大 仲 間 ・ 小 仲 居 な ど 多 く の 建物併が挫ち並び、その境界を 筋 塀 等 で仕切られていた 。 そのため、各建物聞を間隔し、精神的にも疎開感を与えるため、光瑞仰と龍江は夜間 大谷探検隊の一側面 東京での集合写兵 (1リlifl29iF) ()正よリ ~UH縦)L.本長以険・阿部ー:屯) 第5図 人目を忍ひ幾日も費やし撤廃したそうであ
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-る 。 後 日、本願寺内でその出来事が問題と な っ たが 本願寺を昨然融和するという光 瑞 仰 の姿 勢 と 共に 1 1英 す る 姿 がL
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治 二 十 九 年 出 等 科 を - M T 業してから 東 京で 加拶された同窓生阿部 一 毛 ・ 本 多 忠除 ・ 花 江 義 丸 の写真(第5
図)がある 。 おそらく 本 山 に奉職する直 前に撒川服された写真とが J えられるが、端艇部を中心とした知友のつ ながりを一万す資料である。大谷線検隊のー側面 初期本願寺時代 龍江義丸(義信)は二十三歳の時、明治二十九年(一八九六}八月、本願寺奉任同(内事)に勤務する。そし て、九月には東京在駐を本願寺より命ぜられ、月俸三十円、家賃・諸費実費精算の中で、園内留学として東京帝 国大学理科大学(現東京大学理学部)人類学室聴講生となり、坪井正五郎につき人類学を学ヤこの状況につい て、既に-年後に海外調査(オーストラリア)する準備として、龍江に人類学などの知識を触収させるため、大 学に派遣させたことは、昭和六年七月一日付の龍江義信発信上原芳太郎宛書簡に配されてい旬。さらに川市仲間に は、光瑞師の指示で人類学の勉学の傍ら和蘭語の研究を進めるべく和前公使テスタ氏を訪ね榎本武陪と坪井信甫 の名を聞くが共に高齢のため願い叶わず、蘭語を諦め英語のみ極めた。また帆舷航海術を取得しようとしたが現 地の環境や費用面でうまくいかず、以前にオーストラリアに行っていた小嶺磯吉を指揮下に行くことになったと いう。また、聴講生の傍ら﹃反省雑誌﹄(前継﹃反省会雑誌﹄、後継﹃中央公論﹄}や英文雑誌﹃オリエント﹄刊 行の事務も担当していた。さらに、海外調査(オーストラリア)出発の明治三十年の夏、東京では阿郎一毛・上 ① 原芳太郎の滞在も確認できる。上原芳太郎は海外調査(オーストラリア)に伴う、事前調査として外遊経験のあ る陸軍大佐福島安正に、同僚知友の伊藤洞月を訪問し、熱帯地方旅行の心得を聴取した。また流行した麻疹に上 原がかかり、その看病にと龍江・阿部は病院に寝泊まりし、連悪く阿部も感染したという記載も見られる。 本願寺は日清戦争後の教線拡張計幽の必要から、明治三十年、アメリカへ宮本忠順・本多恵隆、明治三十-年 インド及ぴシンガポールへ土岐寂静・判合明町の諸氏を視察のため派遣した。そして、朝倉はシンガポールで和 樹郵船の繭領印度巡航の案内書を持って帰った。この案内書には蘭領ニュ
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ギニア北海岸へは十二週、南海岸へ は八週ごとに定期船が巡航していることが記載されており、このことが拡張を蘭領とするのか、英領を予備調査 し開拓するのかを決める大きな要点となった。また、明治三十年度の本願寺定期集会(明治三ト年十月三十日)大谷篠検隊のー側而 において、第五号第二案﹁海外聞教視察建議﹂が同年九月三日にハワイ視察から帰国した宵本恵順より提案され た。その建議案には、﹁夫れ彼れ外教徒が其所謂伝道宣教に於ける事業の施設を見る﹄に亦たその順序に外ならず 荷も移民の行く所、伝道師必ず之に随ひ一方にはその同家に対し教法伝幡の職責を査し、精神一たび到て其功を 奏せざるはなし﹂と陳弁され、日本人移民の保護のもと問教する重要性を強調した。そして、次年度の子第とし て南洋視察に約三千円、米国視察に二千円を提案、大多数で可決された。 このような本願寺の動向の中で、現地の地勢・民俗などを詳細に調査し、その伝道開拓の方向性を決める目的 で光瑞師の命により、本願寺関係者として胞江・上原芳太郎・阿部一毛、その他小嶺磯士川(長崎)・蝶子夫人・ 井上消秀(出版社﹁晩翠軒﹂)・阪本是儀(牧朴県農商務行水厳局長の親放)ら調査班計八名は、明治三ト年卜一 ⑨ 月オーストラリア北域を目指す。上原は渡航する年の夏に束京で小嶺に会い、志を語り合った。﹃行雲流水﹄に は上原と小嶺があった時、﹁私はクリスチャン、酒も煙車も聞いませぬ﹂と小嶺が言ったことに対して、上原は ﹁ 門 徒 物 知 ら ず 、 煙 草 も い 渦 J U 大好物﹂と言い、互いに大笑いしたという。そして、この年上版は小嶺夫妻と共に 長野県善光与にも訪れている。 F 円 U 第一回南洋調査明治=一十年十一月
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明治三+二年二月 明治三卜年(一八九七)十一月二十九日京都を出発し、出港の遅れもあり神戸を出港したのが十二川九日午後O
時三十分であった。門司を経由し香港に寄港したのは十二月十五日で、香港では領事館を訪問し、十八H
出港 しルソン沖を過ぎ、十二月二十七日ポl
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ウィンに到着、木曜島には十二月三十一日に上陸した。ポl
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ウィンでは、日本人一O
三名が在住し内七十名が採貝業者であり、当地では採貝業の鴫矢で﹁チャリ│﹂と呼 ばれ、上.ぬも而識のあった浜村伊助と調究班は会談した。本附向では、屯制限の確認と凋貸の拠点となる川川家を探大谷線検隊のー側面 ⑧ すべく日本人倶楽部を訪ねた。﹃南球之新殖民﹄(服部徹明治二十七年)によると、日本人倶楽部
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は明治二十六年一月に在留日本人によって設立され、その委員には石原鋼蔵(和歌山県)・回日亀太郎 (長崎県)・小嶺磁六(長崎県)・中川六三郎(兵雌県)・野波小次郎(向似胤)・波遁俊之介(広島県)・川本輿 之助(三重県て長漬常治(長崎県)・尾崎喜平・前地仁成・保科幸三郎・岡村音松・藤井亀次郎・山中亀吉・天 商生の十五名が選出された。木曜島では日本人倶楽部の委員である中川・田口そして、松岡好一(長野県)とも 会議し情報収集しながら、地元の宣教師からの紹介状を携え島守とも而会した。木臨烏の地で撮影された写真に は意気揚々の龍江の姿が窺える(第6
岡)。そして、木附向から約三二OM
雌れたヤマ品の調査機備を進めた. 明治時代、オーストラリアには多くの日本人が移民していた。龍江らが波濠した時期、木昭島でも一OOO
人 @ 以上の日本人が在留し、その多くは真珠貝採取業に従事していた。そして、陸奥宗光外務大臣より、日本貿易の 発展の可能性を管理査定する日的で委託され渡航した佐藤寅次郎の報舎によると、日本人が単独で採貝する船が 四十隻、制人が船を持たず年契約によって惜船する船が一一ニO
隻あった。仙川船の場合、船の貸貨のみ払い外は探 ⑩ 貝に従事した者の収入となった。当時、木昭島では、キリスト教が中心で、在留の柏木坦のようにトレス海峡諸 島で布教活動に従事していた英国国教会所属の2
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ロとの出会いによって貫教師になっ ・た人物もいる。そして柏木は切口n y
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とともに、在儲日本人向けのバイブルクラスを設けキリスト教の教え を説くようになっ旬。さらに﹃南球之新殖民﹄には、﹁宗教は英領地なるを以て重に新一款を賞ぴ、白人、日本人、 南洋諸島人の如きは、之れに信仰を凝らすもの多く﹂と記され、キリスト教徒優勢の感がある。その中で、龍江 以前に、明治三十年二月に本願寺から派遣された佐々木千重が木曜島で伝道活動を行っていた(後遺)。 龍江らは、卜凹・五トンの老採貝船を借り受けヤマ島に向け明治三十一年一月十日木附向を出港した.途中小 島を経山しながら一月十三日ヤマ島に上隙した。島守や税関を訪ね十四H
木昭島に帰航した。ヤマ向にはイギリス人が政庁と税関を設け、烏 には
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本人 の青 木 ・ 井戸川が在留し 、 ヤ マ 島 からの 帰航 の途中、船上で亀の鳴き戸を聞いたと 採貝舶の建造修理世未を営んでい 句。龍江 他調 査班はその青木の家に寄宿し 、知事 と用談したという 。。
い う エピソードもある。 ヤマねから木限向に帰 航 したのが 一 月卜七日であ っ た 。 二 卜一円には 向 山 寸 ﹁ ジョン ・ ダグラス﹂と会談した。 その後、必判所での得議 胤公を傍聴したり品内を散策したり、文化問山 ・ 経済状況などを調査した 。 そ の 問 、 河 て岐みちぎられる 川 米引もあ っ た 。- W
が熱病にけけされたことや引似したガラス乾板に蚊が無数に什析したこと そして フィルムゃん似知が蛾によ っ 三 川じけには松川好 と会談し 在即日本人の小でも紀 州山 身と他川 山身 との札牒があり、 川仙山木部の機能が低ドしている状汎やダイパ│ - 47ー ( ・ 以 山 山 県 ) 大谷保険隊のー側 I(U 日本人 オl
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烏での龍f[義 信 (1ド央) の い や 械 の椛下などを聴取した 。 そ し て 、 三 月 九円、官船メリl
・イングランド 号に使釆を 願 い 、 龍江と上原は一 件 びヤマ品に行 っ た 。 来 船していたニューギニア総監サ l -ウイリヤ ム ・ マクレゴルと島 内 で 日 本から焼、えた書 耐を付しニュl
ギニア開桁における土地所作 権等について会談した。 小 倣磯六の同体只艇で 木似 品 に 三 月十八日帰航した 。 そ の 後 、 上 限 第B図 は州 川 刊 の途に就き 国江 ・ 阿部等は伐印刷し制 点川 を続行した 。 そ の 後 、 阿部はブリスべンロックハンプトン・タウンズピルを巡阿し、龍江は小織と農場材木の本場ケアンズを観察し、サトウキビ業など @ 農刷業・移民の現状そして将米の開拓準備を担った。そして、明治三十二年ご八九九)二月に施江は帰朝し、 直ちに東京帝国大学理科大学に視察の報告を行い、その成果を評価され同大学より賞状を授与され句。この頃の 東京帝国大学理学部人類学教室は、イギリス留学から帰国(明治二十五年)した坪井正五郎が教授となり、寸土 俗﹂﹁風俗﹂などの生活習慣の研究に積極的怠義を見出し、日本以外の地域における人類文化全体を視野に入れ @ た研究を実践しようとしていた。 大谷探検隊のー側面 佐々木千置の事繍と南洋嗣査 佐々木千重(明治四年十月二十六日生、福井県今立郡北板下村高善寺、現越前市)は、本願寺大学林時代、基 球部(野球部)に属し海野普尭・花田凌雲・後藤環爾等と共に白球を追っていた。そこには、スポーツマンの側 両と学問に打ち込む佐々木の姿があった(第
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図)。明治二十六年には文学寮本科と文学寮予科を志す志願者に 対して反省会教育部が実施する授業の受持教員になり、学生を指導した。明治二十九年七月、無事大学林本科を 卒業す旬。そして、二十六歳の佐々木は、光瑞師の命により明治二十九年卜二川五日、南洋諸島の地勢・民俗な どの詳制を調査し、伝道附桁の方向性を決める日的で、オーストラリア木附向に向け神戸港を出発した。日本郵 船会社の第三定期航海船東京丸にて神戸港を出港し木昭島に到着する十二月二十六日聞の様子は、﹁南避目録﹂ (﹃反省雑誌﹄第十二年第二号)に詳細に記されている。 佐々木は当時の回顧として可ピンガイ黒人種の野性的生活を視察し、南洋特種の動植物など全然奇異なるもの @ のみを友として深︿熱帯地特有の情趣を味わった﹂と記している。一年余り木昭島を中心に調査に従事した佐々 水は、明治三十一年二円単身英船デュl
クチプパッキングガム号にてジャワ指向に寄港しながら、スリランカの大谷探検隊のー側面 コ ロ ンボでスリランカの仏教の復興と北 H A に 務めた大山 山 け 隆会会長ダルマパ!ラやパ !リ説 経 山 県の普及 に尽力してきた尚僧スマンガラ 大 仰とも 会談した。そして ベンガル向から イ 佐々木
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夫支ー ン ド のカ ル カ ッ タ に 祈 き 、 山 川在党山 など釈 迦 の 仙 沼 地 を巡作し 、 明治 三 卜 一 年六月帰朝した 。 その後 、 川 内 び泌 航 しシ ン ガポールで の 川 教仙 (シンガポール布教所駐花 M け h j , 打 r d E L M 円 U H H E -' l -一 , q T J 仏教 ・ 教育 月 1 明治 三 十 六 年四μ
)
として 49一 第7図 に ん を注 ぎ 、 教 会 ・ 山 下 校 の 恭踏 を造 り あげた 。 教場を設置(明治三十 二 年八 月 ) その 問 、 シンガポ ール のピィクトリア街に布 ⑫ し、応米語通訳生佐々木・芳照と共に運営していく。 さ ら に 、 カナダのパンク1
パ ー で の 川 教使(明治 三 卜 八作八 月1
大正 二 年 間ハ )として、布教活 動 、 英 川 川 佼中 校、武道飴の運営、移民の矯正庇哲、移民保設事務としての英語翻訳、通訳などの社会事 業 にも携わ っ た 。 大正 度の浅山を体 J 出 し て ト ︿. L
八 年川川 に 凱 旋 した 。 じ年にはロシア内戦において第 三 師同司 令部の従 軍命 救伎として 布 教の 悦 ら 削 訳泌訳の 事 務を 訂 い 小A
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四 卜 八 大正 十 一 年 ト 一 川 にはアメリカサンフ ラ ン シ ス コ 附 秋本部に 人り 、 大正十 二 年九 月 i 大正 十 四年 六 月までアメリ カ 問教 総長に従 事 した 。 大正十五年末、邪薬の 一 切を後任に引継ぎ、 北 海道の 小柿別院 愉罫と して小 神 双 山 公 災 科日 等火学校校長を兼務する 。 そして、地よ 江川 、 ニ ト 三 年間の外遊経 小 附 川 実 科 J川U 咋 女 学校から h H 川 咋 - K 学校へ と 日升絡すべく、文郎大山との辿 け の交渉の水、校 Am H 二 脱 出 伯 験を 活 かし て 、大谷探検隊の一世JI耐 設・教員の改善・設備の充実を基本として昭和二年三月二十八日付けで認可され、小得双葉高等女学校の設置を みた。認可の条件となった校舎増設にも、まず室内運動場を造ることなど、学生時分の体育会系クラブの思いが 伝わってきそうである。ーして、過去の経験を十二分に活かし、小樽双葉高等女学校第七代校長として昭和八年 まで枝務に従事し、学校の発展に多大な貢献をした。 佐々木は、自分の与えられた責務を着実に全うし、次のステップに止むことなく進む姿勢を貫いた人物である。 そして、その集大成が教育の場であり、生徒育成の場である小嶋双葉高等女学校であった。佐々木が還暦という 節
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に六十年聞を、﹁私の過去は在外二十三年の遍腰、徒らに地球上の寄生虫、人生の食客となって、今にいっ ⑪ 落ち着く術もない。流る、ま、に流れ続けて、命長ければ恥多しに終わるのではあるまいか﹂とM
顧 し て い る 。 後世に恥を残さぬように、できることを精一杯努力するという意気込みが伝わってくるようである。 佐々木千重の木繭向での活動は、以後の南洋問教の基礎をつくりあげ、その成果を後任の龍江義信に託したも のと言える。昭和十九年ご九四四}六月二十三日逝去(七十四議}。 第二回南洋嗣査明治=一+二年九月i
明治三十六年三月 龍江義信は、明治三十二年{一八九九)九月オーストラリアのクイーンズランドに同渡航する。そして、独・ 英・蘭の諸領ニュl
ギニアとトルレス海峡諸島、フィリピン品の一部を歴視し、農業・漁業及ぴ腰史・民肱・宗 教等の調査に従事した。龍江は、その拠点を木蹴烏として商臨﹁龍江商庖﹂を経営し帆船﹁パプアu Z
・ ﹁ ザ ブ ラ 号﹂の二隻を所有し、採員艇十六隻の代理業者となった・さらに、明治三十四年には蘭領ニューギニアを一周し、 ピスマルク諸島に行き小嶺と再会し、龍江所有の﹁ザブラ号﹂にてニュl
ブリテン島やニュl
アイルランド烏を 調査した。現地の様子は、体験談として雑誌﹃植民﹄に現地民の生活・風潤・習慣等が詳細に紐られてい句(第8
図 ) 。 龍江は人類学的な純然にも注杭し 二五O
点に及ぶ民族資料を将 来した 。 その学術的な報 告 は龍 江自 ら に学 術報告し が﹁ニュl
ブ リテン及びニ ュl
アイルランド十 J 人﹂として ﹃ 点 京人類学雑誌 ﹄ ( 第 二O
八ヰ 米 日 山 の 報 告 は ﹁ ニ ュ ーアイル ラ ン ドの貝殻出品川幣﹂と組し て 、 ぃ 米 京 人 知 学会総務幹事松 村服に よ っ て ヤ雑誌 ﹄ ( 第 二 一 二 号)に論考された。 ﹃ い 米 京 人制 一 ん、龍 江は木 附ね において 雑貨問﹁加江閥抗﹂を経 営 し 、 大陸前民合資 会社や和歌 山厚 生移民株式会社の陶 外業務代思人として英人船主と邦人漁民間の紛争の訓停に従事した 。 当時、木 M m 品には 附筒所 の 雑 貨 問 が あ り 、 @ そ の 内 ﹁龍江商応﹂と﹁ 柏木尚応﹂が名尚い府と紹介されてい る 。 ﹁龍江商仙﹂には食柏部・雑貨部 ・ 呉服部 ・ 美術品部等があった 。 大谷探検隊のー側而 組n
:
義信のニューギニア体験談が掲載 された雑託、 r植 民』 第8図 ﹃ 履歴書 ﹄ ( 昭和 五年記)に は公的 機関﹁日本人倶楽部﹂を創設、建物も新築 し さらに 、 部長に推薦さ れ タウンスビル時国領事館の 事務分掌を委嘱され日本政府との連絡係とな ったと記されている。 明治二十六年に設立さ れた﹁日本人倶楽部 L と同 一 の組織かどうか は判然としない 。 能江は三十歳 帰判を挟み六年間の南洋淵 査を果たし 明治 三 I 1六 年 ( 一 九O
一 一 一 ) 本願寺に示すべく開拓計画案(資金所要組附 地位八 十万 円 、 同拓位 二 十 二 万 川 )を抑えて ;1守 月帰朝し句。そして、この南洋調査を高く評価した光瑞師は、明治三十六年四月二十五日に、龍江をインド仏蹟調 査を行った隊員と共に東京地学協会会員に推薦し、龍江義信・上ぬ芳太郎・桜井義肇・麻岡駒之助・樹賢雄・井 上弘川・本多忠降・渡辺哲一信・足利義蔵(瑞義)が名誉ある会民となっ旬。 大谷探倹僚の一個商 ー須磨月見山別邸建築主任と佐渡丸遭難
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@ 明治三十六年(一九O
三)五月二十七日付で本願寺拳任局用係を申付られた龍江は、歴史一・民俗学の学術的側 面や経営的視点を総合的に判断できる洞察力を高く評価されたのであろうか、北海道の拓殖事情の調査のため出 張を命ぜられた。この時拳任局室内部長となった上原芳太郎と共に明治三十六年五月二十八日から六月二十四日 までの出張となった。さらに帰山後、インド仏蹟調査班の収集資料の整理研究の拠点となる、大谷家須磨月見山 別邸(神戸)の造営の主任を任される。純江三十哉の時であった。胞江は武郎郡須隣村{現神戸市観陪区)の三 万三OOO
坪に及ぶ山林の開発、建物・庭附などの施設造営の指抑にあたりながら、自ら洋館まで設計(二十八 @ 坪、二階建)し、明治三十七年その竣工に至っている。また、造営の傍らで、ニュl
ギニアの開拓及び購池資金 (百数円)の醜集運動も行っていたようであ旬。 一方月見山別邸の建築地では、天幕が張られ、インド仏蹟巡拝の編纂事業も進められていた。足利義蔵を主任 として日野尊宝・上原芳太郎・朝倉明宜・薗田宗恵・藤井官一正、さらに渡辺哲信・本多恵隆・姻賢雄・井上弘 円・升巴陸龍・秋山祐頴・島地大等・渡辺哲采・前山徳水・野村礼誠・戊野純一・士口見円蔵(以上明治三十六年 五月二十日付てそして、瀧川寛了・判日保寧(以上同年五日ニト一日付て東京高輪仏教大学を卒業した禿氏祐 梓らの総勢二十一名であった。 軌道に乗ったかのようにみえた編纂事業は、明治三十六年九月十日一面の﹃中外日報﹄に﹁テント引払ひ﹂と 南洋から帰朝後の本願寺在職時代題して、彼岸会後にはテントを引き払い、光瑞師自身本山に常駐する旨が報じられた。その背景には、日露戦争 勃先による本願与の戦時奉公・従市布教の版聞で、研究此もその職務に就くということがあった。そして、明治 三十七年一月からは各編纂員は布教使・軍隊布教員として海外に赴いたり、戦時奉公を統轄する臨時事務として 設置された本願寺臨時部の部員として本願寺常駐など、同年秋頃には須・憎での事業活動はほとんど休止状態であ ったと言える。他江もその例外ではなく、本願寺から明治三十七年六川、中凶の本願寺遼京市 γ 向臨時都支部(大 連)賛事として従軍布教事務所の監督を担当するように告げられた。そして、遼東半島に向か、ヲため、明治三十 七年六月十四日、龍江の乗船した﹁佐渡九﹂は広島宇品港を午後六時に出港し、翌十五日午前六時三十分頃岡崎閑 海峡(閑門海峡)を通過し、常時九と平行して航海していた。 阿日午前十時頃、龍江の乗船していた﹁佐渡丸 L は沖ノ島沖を航行中、突如ロシアのウラジオ艦隊に遭遇し攻 撃を受けた。その後の船上での避難の様子は壮絶であった。龍江は本船から水船(飲料水運搬用小船)に乗り移 り一命を取り部めた。そして二日間の夜の附闘を附唱え楳流三十二時間の木、英同市船ダンパ
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に救助され、六 月十七日午前七時長崎湾に者き、水路綱同導船向日川丸に移来、長崎に上陸した。明治三十七年六月十七日午前十時 四十四分のことであった。龍江が無事であったことは、即日本願寺臨時部に電報された。そして、龍江は二十一 日午後九時三十分七幌駅者の汽車で一時帰山する。そこにおいて本願寺記者が龍江自身から聞き取った記事が、 避難から救出までの一部始終を詳説に五頁(約五OOO
字)にわたって綴られてい匂(第9
図 } O また、本船からの避難の様子は、危機一髪水船に飛ぴ移った龍江と同乗者の記録がある。寸阿船は碇泊部所属 の飲料水運搬用満水二十六 Hすといふ小船にて俗に之を団平船といふ長山間半、幅じ尺にして同船は本船佐渡九の 右舷に釣卸されロl
プは其侭本船甲板上の鉄柵に縛り付けられたり。晦て避難者はロl
プを体りて乗込む事、制 りなり。瞬間にして船内立錐の飴地なき迄多数の人員に上り尚続々乗込まんとする形勢なれば、斯くては折角の 大谷』軍検隊の一個1面- 5
3ー
大谷探検隊のー側面 れ な り ﹂ @ と記している。 九死 に一生を行た龍江は 港 よ り い 叫 ぴ大辿に 向 か っ た 。 避難者も 位 険の協あればとて思慮に広める一良は平くらロ ー プ を 切断し本船 を述く 雌 れんとせり。﹂とある。 H U K さ七
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、川 ニm
ほどの 小 船に救 出時じ 卜 % の 遭難者がひしめき A H っていたのである。 さらに 本船か らの離脱 時に小船に かなりの航似が生じ以水の恐れがあった。 ﹁ 巾 収 は 一 一 政 似 に撒水に げばされ即磁の恐あれば一一同は交替して必.北とな り て之が以 出 し に 努 む 。 中 には波労せるもの 或は船叫せる ものは船底の 水槽 に 下り て 休 養せるが何れら顔色無かりき 。 加ふるに蛤内狭臨にして互に重り A H ふ械なれば空気の流通 必しく為に幅吐或は顕焔阪地するも のあ りて殆ど半死半生 の体なりき。﹂と 船内様子 が克 明に 詳説されている。そし て、精神的 ・ 肉体的にも極限に達し、﹁遭難者 の多くは H 中に は左程神仏に只助を祈らざりしが、伎に入り殊に激浪 に出ふては 叩 臨ん 蝉 門 ハ 管 神仏 の 加 設 を 祈 り 、 比 ( の 宗 門 の 泉 るに応じ 或 は念 仏 或は組U
を 川 へる等科伝 仰 のあると こ ろ に鎚りて慰安しつつありしに人生 の半 耐 ら税ひ知られてぷ 明治三卜七年七 月五 H 従 市 ・ 慰 問 活 動 に 従 ぃ 中 す る た め1
"
1
大谷保検隊のー側面 関東別院輪番時代 日露戦争に際して、本願寺は奉公事業として多くの従市布教使を中岡に派遣した。その布教執務は市人軍属に 対する説教法話、死亡者に対する葬儀及び追悼法要、傷病者の慰撫等であった。そして、日露戦争後日本は、ロ シアから満州の権益を掌握し、関東総督府や南満州鉄道株式会社を中心に総合的な満州経営を展開することにな る。そのような動向を見蝦え、本願寺では、多くの日本人移民者を母附として楠瓶的に滑川の問教を拡大してい く。明治三十七年二九
O
四)四月大谷尊山(積徳院)は、日露戦争従軍布教監督として渡清し、明治三十八年 ( 一 九O
五)十二月まで大連を中心に従軍布教使を統制した。その問、明治三ト七年七月一日付の﹁教示第十九 ザ寺法細則前一章第二怖﹂により消川背泥部(大辿)に別院を設前し、﹁関東別院﹂と称することが発布された。 そして、龍江は、明治三十七年七月に本願寺遼東半島臨時部支部(大連本願寺出張所、関東別院)に賛事として 赴任し、十月一H
に関東別院輪番を申しつけられ句。 日露戦争の開戦によって、本派本願寺派は教同全体を戦時奉公に向かわせる刺織として臨時都と出張所を設置 し、戦地へ従軍布教使を派遣すると共に戦地に慰阿部を設置した。この慰問部は、兵士に対する布教・法要の執 行ばかりでなく、﹃親を捨て妻を捨て子を捨て財産を捨て、凶家の為に一身を献げて民る市人を慰藷する為め奥 @ 宗本派本願寺の設置した所﹂とする兵士慰労の社会的活動でもあった。この慰問部は当時大迫・遼鴎・奉天に設 置されていたが、大連では、龍江の発案でこの慰問部の拡蝶機能施設として大連倶楽部(大連北公園内)が設置 さ れ た ・-
55-大連倶楽部は龍江就任後七ヶ月後の明治三十八年二月二十四日、開場式が挙行された。大連倶楽部の建物は西 洋風建物二棟で、その・中の一番広い部屋には仏像が安置されていた。室内には音楽室(オルガン・アコーディオ ン・尺八・少年衆隊の楽器等)・新聞縦覧室・凶碁将棋室-R
突室・喫茶室・活同舶(幻灯機)などが完備され、大谷探検隊のー側面 東京での集合写真(明治38年
3H)
{左よ1)九作!!(-f.-i品川良之助・大谷完了.~a江.IHì.大谷武子. IU"ll尾.W1~) 第10図 屋 外 にはテ ニ ス コート ・ 繋 剣 山 切 ・ 角力場が設置さ @ れていた。そして、その総則によると、大述倶楽 部には大弓部 ・ 庭球部・背楽部・戯球部・図書部 等数部を置き、 別 に娯楽 H討を備え時々講話会を聞 くと記されてい 旬 。 明治 三 十八年 三 日 に は 一 時期 帰朝していたよう で 、 東京で搬彬 された集 A H 写其がある(第 叩凶 )。 それは 、京京 芝新シ 怖 の九木利防の写兵館で蹴彬 さ れ 、 九燦忠 子 ・ 湯川良之助 ・ 大谷詩子 ・ 龍江義 信 ・ 大谷武子 ・ 老 女 長 足 立 口 英 が 写 っ ている 。 龍 江 の 臼切である庇恵 寺に保管されているこの写只に は、表 組 として﹁御荊義 巾 上ルノ岡﹂とある 。 一 年後 の 明治 三 卜 九 年 ご 九O
六)五月 二 十 円、宗祖大 師 降誕祝賀会と共に仏堂新築に伴う大 辿倶楽部上 版 式が 挙行され、その主任として龍江 が役割を 組 つ 九 時 。 北 京に出張中の龍江を待ち、五 月十五H
に祝賀会 ・ 上棟式 の 役割等が準備された 。 当 円新築 さ札た 仏立 において龍江の調野にて法要 は挙 行された 。法宴後散餅の振舞い 七 十 余名の大谷探検隊のー側面 角力大会 -t H 楽堂では十三台のオルガン・ピアノを据え、慈善券を作り抹茶の接待も行われた。そして、龍江は 北米大震災に伴、ヲ被災お紋怖のため山臨したビヤホール・雑貨陪・煙山午前・うどん届・おでん屈などで品物を買 う場合、事前に慈善券(十銭)を必要として、応の売上利益の全額と共に義損金に当てることを地元商庖と交渉 した。このパザ
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は慈善パザ!と称して人気を博し、慈善券の売上げだけでも五O
問O
枚 が 売 れ た と い 、 刊 。 関 東 別院職員の八件慈薫は、その時の峨悦ぶりを次のように記し、﹃戦後の渦州、遺山本の一角に於いて、盛大に執行 さられ、宗祖大師が﹁世の中安穏なれがし、仏法弘まれかし﹂の遺志に想ひ及んで、吾人無量の快感にうたれざ るなきを得んや、げにと刊明一なるは満州問教の前途 L と締めくくっている。 施江が関東別院に就刊して二年、大辿を拠点とした満州問教は飛蹴的に発展・拡大した。その削の龍江の熱意 は日を見張るものがあった。満州各地の出張所に大連の状況を説明し、明治三十九年七月七日以降一ヶ月問、鉄 嶺・撫順・奉天・蓮陥に赴き、八月十三日以降は旅順に、嗣月二十問日以降は鉄揃に出張している。また、龍江 不在中には日本から来た修学旅行午{姫路中学校、神戸商業学校、三重師範学校、東京師範学校等)の対応に、 関東別院宗務員一同が行いその礼状をみるなど、関東別院職員・布教使(龍江義信・阿部拍琳・谷日常之・一福岡 行思・網代照降・花岡制成・八尋慈熊、明治三ト九年十一月現在)一九となり稲々の問教活動に取り組んでいる 様子が窺える。そして、毎週水・土臨日に龍江白ら部員のために音楽教授の任にもあたった。さらに、龍江の発 案によって関東写真研究会を開設した。その総則には﹁写真術に依り相万一に崇高なる品性と快活なる娯楽を得せ しむるを以てH
的とす﹂とあり、芸術に宗教を、宗教に芸術的趣味を加え相瓦歓楽の中で、小札.必作議 H の動機を与 える意味があっ句。 その他、陸海軍将校や知名紳士紳商との宗教談話を行い、自らの修養を重ねる円的で道友会が開設(明治三十 九年八日}され、満州仏教育年金(川泊三十九年十川、会副龍江義信)、大迫仏教婦人会(明治三十九年十月て -57-大谷探検放のー側面 教育事業として大辿女子技芸学校{明治三十九年十一川予定、明治問十年六月間闘て外国語研究部(前身外凶 語研究会、明治三十九年四月、教授龍江義信・花田頓成・谷口常之他)本願寺経営の大連幼稚園(明治四十年四 月)なども設置され、それぞれ活動が行われた。そして、関東別院で展開された各種開教活動に伴う事業は、各 支部の手本となっていく・その後、龍江は、制州各地を巡遊していた仏教留学者井上川了と共に、明治三十九年 十一月二十四日横浜丸にて一時帰朝の途に就いた。 @ 翌年の明治四十年四月十一日、龍江は、光瑞師の清岡巡遊に伴う大連歓迎準備で早々大連に戻った。四月二十 六日午後
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時五十分、光瑞師・大谷鱒子裏方・大谷尊出をはじめ、随行以本多恵降・剃賢雄・兼安一出来・福井端 華・谷清輝・叩斐和里子・谷政子・野村栄三郎諸等が大連に到着した。同年五月八日には、清国間教総監付焚事 @ @ 兼任韓国開教総監付費事親授一等・堀賢雄の後任として清国間教総長に就任する。そして、龍江は、南満州各地 及ぴ山海開・天津・北京・上海・香港を巡歴し、樟国龍山・仁川・釜山の各出張所を巡視した。 その後、百円帰判し、明治四十年七月十二日梢徳院(大谷尊由)の福井・吉崎・富山・金沢の四別院及び第二仏 @ 教中学の巡視に堀賢雄と共に随行する。明治四十年七月十六日大連消印の絵葉書(水曜会一同発信﹀には、龍江 宛に宛先住所として﹁須磨月見山大谷家内﹂と記されていることから察し、龍江は一時期月見山別邸にも滞在し ていることが考えられる。この時則、大谷家の川見山別邸の売却の問組が浮上し、町内省側との折衝の末、武庫 離宮の選地と費用が決まった段階であったことから、月見山別邸造営に関わった龍江自身、それに関連した事務 処理として滞在していたのではないかと推測される。 明治四十一年一月十三日清同問教総監付総民事長心得を命ぜられるが、在任のまま日本勤務となり営織委員も兼 務することとな旬。龍江資料には封筒にコ一栄荘﹂と墨書された大谷家別荘である二楽荘本館の写真十一枚が遺 存する。本願寺の営繕にも関わっていることから二楽荘建築にも関与していた可能性もある。なお、明治四十一,大谷際倹隊のー側面
イド貯[i守|民J .Jl~別|涜の~イト写真
(中央は大谷坊山、 その/ずが自Uil:~を灯、 liíj列イ{より網 (\:J!(l~品・削 ~IIJ(1fl~・)jj!賢1:10
第 11図 年三月 二 十八日光瑞師 の随行として 龍 江と 禍 @ 瑞超は 二 楽荘に赴いて い る 。 こ の 頃 、 一 一 山 本 北 机 で は 山 卜 い に 木材が迎 び込まれ 本船 の 挫築 仁 引が進行 小 、 二 栄 作 れ 本 館 竣 -し の 一 年仰のこと であった 。 H 川 ム H H M E l r -ド ﹁ H U -Y ‘ ,
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八 ) 同 川 I J ' r ' ・ 川 1,
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制井 川 以 か ら 川 県 所M
とし て米議 院議以に ・ 止 候 補 ( 第 十 四 )するが百票の差で草地す 旬 。 糸 、 'し て、加江は自ら の 落選を地五新聞に謝罪文と - 59-して広告掲載したという 。 同年 卜月二十三 円 京 伺 大 川 六五O
回大遠忌準備事務所委員を命 @ ぜられる 。そ の後、龍江は、明治 四十 二 午 、 一 米 京 府 東 京 市 下 谷 区 ( ム 円 点 以 い ) の γ札 卜胤千代 の と姉 馴 す る 。 松の 二 火山 ( 明治 二 ト 一 年生)m u
札 にと っ て 三 卜瓦歳とな る 明治問十-年(
一
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八 ) は、人生の岐路に立つ 時則 で 色々な思いを試す時期 でもあり 、今までの山 分を け ん つめ直す時期でもあ っ たようである 。大谷探検隊のー伽l嗣 還 俗 龍江義信は明治四十二年一月二十五日{三十六歳)、本願寺を退職し還俗する。龍江の孫にあたる喬山玲子・ 新谷品子によると、還俗した理由について光瑞師から進言されたという。光瑞師が龍江を抜擢し、本願寺在職時 代から龍江の力量・性格を熟知していた光瑞師が進言したことを否定するには消極的にならざるを得ない。龍江 は、光瑞師が大正三年二九-凹)五月に本願寺住職並びに浄土真宗本願寺派管長を辞職したことについて可近 米世間に光瑞法主の還俗を云為する者あるが、然し﹃宗祖も門徒は仰に非ず俗に非ず﹄と言はれて居るのだから、 光瑞法主が還俗されたからとて、何も騒ぐ事はあるまいと思ふ。法主本来の理想を現実さる、には却って還俗さ ⑥ れた方が宜しいと息ふ﹂と語っている。この龍江の語った光瑞師評が、光瑞師ではなく龍江自身に置き換えられ るような気がしてならない。 その後、拙江は明治四十二年二九
O
九)、南湖州鉄道株式会社と並ぶ二大同策会社であった東洋殖産株式会 社の植民調査主任として入社し、大正四年(一九一五)同枇朝鮮沙恩院出張所主任、大正六年同社本応(東京) 事業部勤務を経て、同年、日本における唯一の移民会社となる海外興業株式会社の創立に伴い常務監査役に就任 し、昭和十一年五月に同社を締任するまでの十九年間(大正十二年1
大正十三年社長)にわたって事業に専念し、 その発展に武献した・その刷、拓殖事情調査のためフィリピン昨向(大正七年三川て製糖引業の調査のためフ ィリピンネグロス烏(大正八年十一月}北米経由南米ペルl
・アルゼンチン・ブラジル(大正十年四月て南米 ブラジルの事業地視察調査から北米経由、ヨーロッパ諸国を視察(昭和四年三月)した。特にブラジル移民事業 では、大正十年以降内務省より補助金が下附され、移民奨励の印刷物の配布、活動写真粧の巡回や農産物の陳列 等さまざまな方法で移植民地の事情の宣伝活動を行い、交通曲・乗船港滞在費など移植民の負机を可能な限り軽 減する方法も取られた。これらの移民政策は龍江の発案、行動に依るところが大きかったと脅える。また龍江は移民取扱事業の他に商事貿易﹁アルマゼン海興﹂や銀行業務﹁海興銀行﹂を営み、サンパウロ市郊外では土地分 譲事業も行った。そして、海外興業株式会社に席を出きながら京印度起業株式会社取締役(大正八年)・東洋協 会評議委員(大正九年了川年六月海南厳業株式会社創立取締役(大正九年)・日本雄旬亜米利加協会理事(大正 十年て秘露綿花株式会社創立取締役(大正十五年}・南米土地株式会社取締役{昭和二年}・東洋協会評議員 @ (昭和十一年)財団法人あそか会理事長(昭和十二年)・南洋協会評議員(昭和十二年)などを歴任する。 還俗後の龍江の諸活動は、本願寺夜職時代のスキルと自身が持ち得た技最を最大限に活かしたものであったと 言える。特に会社創設に伴う多くの事業や移植民事業は、その好例である。昭和二十八年(一九五三)七月二十 九 日 逝 去 ( 八 十 歳 ) 。 大谷鐸検隊のー側面
﹁
大
谷
探
検
隊
﹂
の呼称とその定義
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所 制 大 谷 探 検 隊 を ト に 揃 押 し た し 入 谷 光 瑞 附 は 、 こ の 探 凶 恨 の こ と を 自 ら ど の よ う に 呼 称 し て い た の か 。 明 治 三 十 六 年 五川二日大谷本剛において行われた仰蛾奉行会法要において時代門主の仏前で光瑞師が朗読した表白文には、 ﹃拝霊蹟於鷲峰採遺経子鹿苑﹂と記し﹃如此探検﹂と結んでいる。また、大正四年同﹃阿山崎考古岡繕﹄の序文 には、中央アジアにおいて仏教東漸の経路を探った行為を﹃腰訪﹂・寸探究﹂・﹁捜索 L ・ ﹁ 踏 査 L という語葉で表現 している。さらに光瑞師の英文著作間gEOE
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z c a ) に は ﹁ 円 宮 内 国 O 口 問 者 間 口 } 二 w u 向 。 。 己 主 。 ロ ﹂ と 記 さ れ て い る 。 そして、各隊員の認識はどうであったのか。それは、各隊員の日記や書簡、談話記事、講演会収録書に現れて いる。渡辺哲信﹃渡辺哲信日記﹄・本多恵隆﹃本多恵隆日記﹄(共龍谷大学大宮岡書館蔵)には﹃探検﹂、藤井宣大谷線検僚のー側面 正﹃印度霊穴探見日記﹄(真宗寺蔵)には表題他に﹃探見﹂、本多恵降﹃中張旅行記﹄(徳正寺歳)には﹁中亜旅 行﹂と記されている。さらに明治三十六年四月十五日発行の﹃教海一棚﹄一六五号
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掲載された﹃聖蹟御巡錫記 事中央亜細亜・印度御巡錫随行員手記﹂には可巡錫﹂・﹁視察探究 L ・寸探険﹂と記されている。手記本人の氏名 は明記されていないが、内容から判断して同年三月十四日本願寺帰着したインド隊の升巴陸龍である可能性が考 えられる。なお、ニの文章は﹃仏教文芸﹄第一巻第四号・﹃史学界﹄第五巻第五号にも転載されているが、表題 には可大谷光瑞師等仏蹟探険記﹂・﹃光瑞師仏蹟探険﹄と変更明記されている。明治三十六年五月五日に神戸に帰 着したインド調査班の井上弘円の談話記事が﹁大谷光瑞師一行支郡印度の探険﹂一 1 四(﹃神戸又新日報﹄明治 三十六年五月二十日l
)
にあり、表題他に寸探険﹂として明記されている。また、明治四十五年六月五日に神戸 に帰着した橘瑞超は、同川十八け東京神田青年会館で行われた国民新聞主催の講演会の講演録(﹃新組探険記﹄) の中で﹃旅行﹂・﹁探険﹂という単語を使用している。インド調査班に加わった清水黙爾の追悼文集である﹃紫風 全集﹄(明治四十年)には、各隊員の追悼文がみられ、その中で川野噂宝﹁法主般の印度探検班﹂、桜井義蟻﹃大 @ 谷光瑞師中央弧細亜大探検﹂、井上弘円﹁仏蹟探険﹂、島地大等﹃印度型蹴探険﹂の詩集がみられる。 このように﹃険﹂と﹁検 L の違いはあるが、学術的調査と言う意味合いで、所鞘大谷探検隊を大略﹁探検﹂・ ﹁ 探 険 L と認識していたのではないかと推測される。それは、各隊員帰凶後、十数年を経た後の書簡や報告書に も そ の 意 識 は 薄 れ ず ﹁ 西 域 探 険 ﹂ ・ ﹁ 遺 跡 探 検 ﹂ ・ ﹁ 踏 査 ﹂ ・ ﹁ 仏 蹟 視 察 L ・ 1 遺蹟探査﹂と記されていることからも判 断できることである。 さて、主導者や隊員の所開大谷探検隊の認識のもとで、日本における報道はどのように扱われていたのであろ うか。光瑞師がインド・中央アジア等の仏蹟調査にむけて英国を発った明治三十五年八月十六日以降、日本での 報道は留学中の光瑞師との打合せを主目的としてロンドンに向かった本願寺執行松原深論(随行佐々木至剛}の帰国を待ってから(十月七日横浜着、十二日京都者)散見される。早い報道として松原深諦談を取り付けた京都 新耐がみられる。十月二十日の紙面では松原深諦の英着までの旅程とその後の行動が語られ、光瑞師の﹃大旅 行﹂・﹁巡拝﹂についての旅程が述べられている。同月二十三日の国民新聞には表題﹁大谷光瑞師の中央蝋細咽探 検﹂のとおり﹁探検﹂と記されている。未見ではあるが同二十三日には京都新聞に﹁繊錫除緋(本派本願 h 寸 法 嗣 大谷光瑞.帥の壮凶)松原深論議﹂と題して掲秘されている。さらにこの表題と同題そして同じ新聞社名が記され た文章が﹃教海一湖﹄可聖蹟御巡錫記事(其一)﹂{第一五四号明治三十五年十二月二十五日)に掲載されてお り、同一内容の記事と推測される。そして、卜月末になると全国紙・地方紙の各新聞紙面に散見されるようにな る 。 こ れ ら の 紙 面 で は 、 ほとんどが﹁宗教視察﹂・﹁霊場巡拝﹂という語葉を用いており、各報道記者の認識と光 大谷鍔検隊のー側面 瑞川・隊員の﹁探検﹂・﹁探険﹂という怠識とは、多少違っていたのではないかと忠われる。このよ、ヲな一般報道 の中、本願寺は公式に卜一月瓦
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﹁嗣法規下小山火組制張、印度、緬旬、支郎、御巡錫子定﹂、十一月十五日﹁刷- 6
3一
法規下の大陸探険﹂と題して﹃教海一湖﹄に発表する。その後、各隊員から本願寺に送信される近信を﹁聖蹟御 巡錫記事﹂として連載され、表題の﹁巡錫 L や﹁探険﹂を使っている。 さて、海外報道関係者や日本の研究者は所謂大谷探検隊をどのように促えていたのだろうか。所謂大谷探検隊 がロンドンを出発して約一ヶ川後に報道されたJ
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開 対 立 O ﹃ 忠 一 。 ロ 宮n
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め 開 一 対 立 O ﹃ 忠 一 。 ロ ﹂ と 表 記 さ れ て い る 。 そ の 朝 日 の 発 行 の 週 刊 新 聞 ﹃ 叶y o
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開 M ℃ 耳 目 的 ﹄ ︿ 。 -・ 凶 巳 ︿- z
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吋 山 口 凶 作 田 ﹄ と 問 題 と ほ ぼ 同 文 の 記 事 が 扱 わ れている。同年九月十五H
発行の月刊誌﹃1 3
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﹀ ロ 也 。 H ﹄ 白 司 一 包 括 的 ゅ の 忠 良 古 ﹄ に は ﹁ ↓y o
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﹂と﹁日本人の考古学的探検﹂と訳せる表題が付けられている。そして、イギリス王立地理 wア 会 が 発行する地理学雑誌﹃4
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四)三月二十四日に大谷光瑞師がスヴェン・へディンに宛てた英文書簡 @ に は 、 ﹃n
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ル調査、大谷尊重・渡辺哲信 のアフリカ・インド踏査(明治四十一年)も該当するであろ、1
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一間)は、大谷探検隊の中央アジア調査班(第三次)古川小一郎が、神戸港で桶瑞超・柱 本瑞使・中川糠三郎が迎える中で帰国し、光瑞師のいる二楽荘において復命した時(大正三年七月十日)から一OO
年目になる。大谷光瑞師の一事業である大谷探検隊の全貌を把握するには、そこに携わった多くの調査員の 事績を明らかにしていくことも、重要であることに気づかされる。 最後になったが、この拙稿を執筆するにあたり、以下の方々に数々のご指導・ご鞭撞・文献の閲覧・複写でお 世話になった。末筆ながら記して深甚なる敬意を表したい。判官浄順・大.ぬ実代子・片山章雄・木.トかな・香山冷子・酒生文彦・佐々木正信・聡浦