衆賢の剃那滅論証
松 島 央 龍
o
.はじめに
さて,この教えが説かれたとき,コンダンニャ長老に清浄な,汚れの 無い真理の眼が生じた。「およそ生じるものはなんであれ,滅するもの である。」と。(中略)そして世尊は次のように感興のことばを述べられ た。「まことにコンダンニャは理解した(アンニャータ) !まことにコン ダンニャは理解した!J と。こうしてコンダンニャ長老は「アンニャー タ・コンダンニャ(理解したコンダンニャ )J という名を得たのである。(
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Mahavagga 1
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1) 仏伝に従えば,仏弟子が初めて理解 (ã~jñã) した仏の教えは「生じるも のは必ず滅するものである」ということであった。これは「諸行無常」とし て,ニカーヤ・阿合の時代から大乗仏教に至るまで,あるいはインドから中 国,日本へと,仏教の歴史的,地理的発展を通じて説かれ,伝えられた,最 も重要な仏の教えのひとつである。 では, ものはいったいどのように生じ,どのように滅するのか。仏教の最 初の哲学的展開であるアビダルマ仏教の時代になると,こうした問題につい ても議論され,究極的には「ものは生じた瞬間に滅してしまう」という剃那 滅の思想が形成された。この時代における論争の項点を示すものは,世親に よる『倶舎論』であるが,世親はその中で「ものが滅するには原因を必要と しない」という減不待因説(滅無因説)を主張し,それに基づき弟JI那滅の論 -21-衆賢の剃那減論釦 証を行った。世親によって完成されたこの理論は r滅による剃那滅論証
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J (あるいは「古剃那滅論J) として,その後ダルマキ ールティによる「存在による剃那滅論証(
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J (あるいは「新 華J
I
那滅論J)の登場まで,長きにわたって仏教剃那減論の中心となった。 しかし,当然この立場に異を唱える学派もあった。その第ーは,世親作の 偶碩によりながらも, W {具合論』に批判的な註釈書 W}I国正理論』を著した衆 賢である o 衆賢は,同書における華IJ~~滅論証で,世親説をほぽすべて引用し ながら,それに批判を加えている。本稿は衆賢の剃那減論証を紹介するので あるが,衆賢がなぜ,そしてどのような点で世親を批判したかを示したい。 まずはじめに当該部分のシノブシスを紹介すると,次のようである。 1.表業に関する有部・正量部の主張 1 -1.上座の正量部説批判;身表が動であることは剃那滅の観点から否 定される1-2.
有部説;心等起の形色が身表である1-2-
1.身表の体が顕色・大種ではない理由1-2-2.
身表の体が善・不善ではない理由1-3.
上座の身表説1-3-
1.上座説紹介1-3-2.
衆賢の批判 1 -4.正量部の動身表説1-4-
1.正量部説紹介1-4-2.
衆賢の批判1-4-3.
大徳ラーマによる正量部批判1-4-4.
衆賢の大徳批判 1-5.剃那減論証 1-5-1.衆賢の剃那・有華J
I
那の定義衆賢の利那減論紅
1-5-2.
世間的な意味での剃那・有剃那1-5-3.
世親の剃那滅論証1-5-3-
1.世親説紹介1-5-3-2.
衆賢の批判1-5-4.
醤喰師の剃那減論1-5-4-
1.醤轍師説紹介1-5-4-2.
衆賢の批判1-5-5.
正量部・勝論の反論1-5-6.
乗JI那減論証総括1-6.
剃那滅と業果の感応の成立について 身表業の体は行動である, という正量部説を批判することから剃那減論証 に進むことは『倶舎論』と同様で、あるが,衆賢は,このなかで世親のみなら ず上座シュリーラータや大徳ラーマの説をも批判する為,議論はより詳細に なっている。このうち,本稿は上記1-5
の剃那滅論証を中心に見ていきた し、。 1.衆賢の剃那・有剃那の定義
W)I顕正理論』における華JI那減論証は,上記のシノブシスからわかるように, 衆賢の剃那の定義から開始される。しかし,これに先立つ「弁縁起品」にお いても剃那の定義が提示されている。 論じていう。優れた知恵によって諸々の色を分析して,一極微に至る。 したがって一極徴は色の最小単佐である。同様に,諸々の文(名)や時 を分析すると一文字と[ー]剃那とに至り,これを文と時聞の最小単位 とする。(大正2
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23-衆賢の華IJ那減論説 物質的存在や文の最小単住がそれぞれ一極微や一文字であるように,乗JI那 とは時間の最小単位であるという。これは世親も『倶舎論~ r世間品」にお いて同様の理解を示している。では,その一利那はどれほどの量をもつので あろうか。世親によると, (1)条件が揃った場合に法が自体を獲得(生起) するのにかかる時間。(2 )法がある一極微から別の(隣の)一極微へと移 動するのにかかる時間。また,アビダルマ論師の説として(3 )力強い男が 指をはじくのにかかる時間の六十五分のー,というo さらに,相対的な時間 と し て (
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剃那=1
但華JI那,といフようにして,一昼夜=
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万剃那 (1剃那=約0
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秒)とする。一方衆賢は,上の(1)に対し次のように 批判する。 このように註釈するのは論理的で、はない。法が生じる前の自体を有とす るのか,有ではないとするのか,明らかにしなければならない。[我々] アビダルマ論師たちは「条件が揃った場合に,法が生起ことはできるが, 自体を獲得することはできない。なぜなら未来の諸法もすでに自体を有 しているからである。」と説く。法の体がすでに存在しているならば, どうして再び生じるのか,と問うならば,条件が揃った時に, [法の] 体がすでに存在していても,その法が結果を引く佐(すなわち現在位) にいたり,作用を起こさせるので,それを生起と呼ぶのである。そして 現に生じおえ,結果を引き,結果を引くという働きを終えたものを過去 と呼ぶのである。(大正2
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世親が生起を「法が自体を獲得することである」としたのに対し,有部は 三世実有の立場から,法が現在住に到達することである,としたことは重要 な相違点である。有部教義においては,過去・現在・未来を通じで法は自体 を有しているため,世親のように法が生起するときに自体を獲得する,とい うことはできないのである。 さらに衆賢は,同じこの世親の定義からは,柔JI那の分量がどれほどである-
24-衆賢の華JI郡減論証 か決定できない,と批判し,次のように説く。 見婆沙師たちは,勝義によって r法の剃那の量は喰えによって明らか にするべきである」と説くのである。しかも,仏・世尊がかつて[剃那 の量を]説かなかったのは,それをよく理解できるものがいなかったか らである。しかし,学徒を啓蒙(開暁)する為に,醤喰(比量門)によ って示したのである。すなわち r力強い男が指をはじく間に六十五剃 那が経過する」と。(大正
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これは世親が(3
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)に説いた相対的な時間については,衆賢(および r大見婆沙論.1)も同様に認めている。 華IJ那減論証を開始するにあたり,衆賢は剃那を定義して次のように述べる。 [問]剃那とはなんであるか。 【衆賢答]極めてわずかな時間のことである。これはさらに前後に分析 をすることができないのである。 【問】では時間とはなんであるか。 [衆賢答】過去,未来,現在という状態 (avastha) の違いがある。こ れによってしばしば諸行の差異を知るのである。このなかで,極めてわ ずかな諸行の状態を剃那と名付けるのである。したがって,このように 説くのである。時間の最短であるから剃那と名付けるのである,と。こ こで剃那とは,ただ諸法の作用のある位を取るのである。すなわち現在 のみを[取るの]である。そして現在の法がとどまる分量(=剃那)を 有するのを有剃那と名付けるのである。[一ヶ月を有する子を]r[生後]-
25-衆賢の剃那減論説
一ヶ月の子(有月子/masika)Jというようにである。あるいは,よく
減し壊す (../k~an) から華IJ 那と名付けるのである。これ[柔IJ 那]が原因
となって諸法が滅する,という意味である。すなわち[剃那とは]よく 諸法を滅する無常相のことである。[したがって]これを伴う法を有利 那と名付けるのである。(大正
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ここでの衆賢による剃那の定義は二種である。(
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(?註(9
)参照);極めて短い時間であり,それはさらに前半・ 後半というように分けることはできない。我々は時間に基づいて過去・現 在・未来という三つの時を知るのであるが,その時間の最小単位を剃那と呼 ぶ。過去・未来に対しては剃那とは呼ばず,現在,すなわち法が作用する瞬 間のみを華JI那と呼ぶのである。また,この法が現在とどまるという剃那の分 量を有することを,有剃那であるとする。 ( 2) ..fk号an.剃那は無常相のことであり,この剃那が諸法を滅する原因と なるのである。そして,この華JI那すなわち無常相を伴うもの,すなわち有為 法を有利那と呼ぶのである,という。2
. 世 間 的 な 意 味 で の 剰 那 ・ 有 剃 那 次に衆賢は,世間的な用j去における剃那の意味を紹介する。 あるいは世間でいう有剃那とは,これは空しい(有空/キ釦nyaka)とい う意味である。すなわち現在位[の法]でよく保持して滅しない,とい う[性質を]もつものはない。決して留まらないから有利那と名付ける のである。 あるいは世間でいう無剃那とは,これは暇がない,という意味である。 すなわち他のことにかまけて,己に専念する暇がない,ということを無 剃那と名付けるのである。ただ現在時のみに必ずわずかな暇があり,自 p o q衆賢の華u那減論証 らの果を取るのである。したがって[現在を]有剃那と名付けるのであ る。しかるに,諸々の有為の相続の状態には,ラヴァ等のもろもろの時 間の差異がある。[これら]諸々の時間のなかで,剃那が最も短いので ある。[したがって]法として定めてこれ(剃那)を有するものを有剃 那と名付けるのである。(大正29,533b14-19) 世間的な用法では,剃那=空であるとし,留まるという性質を欠いている (釦
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を有剃那という。 また,剃那=暇という意味でも用いられ,唯一自らの果を取る暇(剃那)を 持つ現在を有剃那と名付ける。その反対に,暇をもたないことを無剃那と呼 ぶ。また,時間の単位の中で最小であるものを剃那と呼ぶ,とする。このう ち,剃那=暇という解釈は有部の理解に近いものであると思われる。そして 時聞の最小単位であるという理解は,上で見た(4)の,相対的な時間によ る剃那の定義と一致する。3
.世親の剰那減論証
以上の剃那の定義に続色衆賢は世親説を紹介する。 しかるに経主[世親]は述べる。「剃那とは何か。自体を獲得して直後 に滅することである(
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誕百)。この剃那の法を 有するものを,有利那と名付けるのである。たとえば杖をもっ人を有杖 と名付けるようなものである」と。(大正29,533b21-22またAKBh, p.193.2) ここで r自体を獲得して直後に滅することである」という剃那の定義を 紹介するのであるが,このうち「自体を獲得」することについて,有部はそ れを認めることはできなかったということは先に見たとおりである。-
27-衆賢の華JI那減論証 なお,この定義について,衆賢は有為の四相を説く筒所ですでに紹介・批 判しているので,それを引用したい。 まず,生相を説く筒所で 彼(世親)は有為法がただ自体を獲得するのを生と名付けると主張して いる。 と紹介し,さらに,住相を説く箇所では次のような議論がある。 しかし,上座は次のように説く。「諸行は留まる(住する)ことはない。 もしも諸行が留まり,極めてわずかな時間でも経過することができるな らば,なぜ[同様に]ー須央,一日,一月,一季節(時),一年,一劫 と留まることが無いのか。なぜなら, [留まることの]原因[すなわち 住相]に違いは無いからである。また,アーガマ(経典)も諸行は留ま らないことを教えているからである。『比丘たちよ,諸行がまさに滅す るとき,それらには住も無く減も無い。』と世尊がお説きになった知く である。」と。(大正
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上座シュリーラータは,諸行(有為法)が存続することを否定している。 たとえー剃那でも留まるとするならば,ー剃那の間留まるにも,あるいは一 年間留まるにも住するという原因に違いは無いのであるから,有為法はー剃 那をこえて長い間留まるはずで、ある,という。これに対して衆賢は以下のよ うに答えている。 さて,彼の説く「もしも諸行が留まり,極めてわずかな時間でも経過す ることができるならば云々」ということは,認めることはできない。 「極めてわずかな時間」とはー剃那のことである。もしも一挙IJ那でさえ も[有為法が]留まらないならば,その場合諸行はつまり無となるだろ う。もし r有為法は全く留まることがない。自体を獲得して直後に滅衆賢の剃IJII減論証 するからである。」というならば,その「自体を獲得」する時があるの だから,それこそが「諸行が留まる極めてわずかな時間」と呼ばれるべ きではないのか。「このような時があるとしても,それでも留まること は無い」と[答えると]するならば,その場合何について「留まること は無い」というのか。自体を獲得する時に[留まることが無い]とする のか,あるいは自体を獲得した後に[留まることが無い]とするのか。 「留まることが無い」と主張できるのはこのどちらかの時に関してであ る。もしも,自体を獲得する時に留まることが無い, とするならば,そ の場合すでに述べた過失(=諸行は無となる)を逃れることはできない。 もしも,自体を獲得した後に留まることが無い, とするならば,その場 合には[我々有部も]認める所ではないのであるから,批判は捨て去ら れる。(大正
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もしも一利那の上に住相が実在しなければ,すなわちもしもー剃那でさえ も有為法が存続しないならば,それは無と同じである, と衆賢はいう。有部 にとって、法が現在するとは[因果の]作用をなすことであり,法が生じるだ けで減してしまうならば,その法は結果を引くことができず,因果効力を持 たない。すなゐち,存在するとはいえないのである。対論者は「自体を獲得 する」というが,その時こそが有為法が住する時間である, というのが有 部・衆賢の立場である。自体を獲得する時にも住は無い, とするならば,有 為法は無となる,という過失が同様に生じ,自体を獲得した後に住は無い, とするならば,それは有部と同じ立場となり,論争は不要となる。経量部・ 世親は有為の四相をー剃那の上にではなく,相続の上に見ょうとした。しか し,部分をもたない点はどれほど並べた所で線とはならないように,住をも たない有為法は無となり,相続を形成することもできない。したがってこの 結論は相続を重視する経量部にとっても認められないものである。 また r自体の獲得」については以下のように述べる。 Q d 円 L衆賢の利型I1減論証 あなたたちがいう「自体を獲得する時」とは,我々が説く [有為法が] 住し結果を引くことのできる時のことである。我々は結果を号│いた後に は諸行が住するとは主張しない。どうしてあなたたちは諸行の住する時 を否定するのか。(大正
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対論者の主張する「自体を獲得する時」とは,有部にとって,有為法が結 果を引く時であり,すなわち両者にとって現在を意味している。有部も対論 者も現在の後には有為法の存続を認めていない。したがって,諸行の住する 時を否定することは,対論者自らの現在時である「自体を獲得する時」を否 定することとなる, と衆賢はいう。 このように,剃那減論証に入る前に,すでに衆賢は世親の剥那理解を批判 しているのであるが,剃那=杖,有利那=杖を持つ人とする世親の解釈に対 しても批判を向ける。 彼の解釈は理に合わない。杖のように人とは異なるものを[例として] 説くことはできないからである。[したがって杖と剃那という]喰例は 同法ではない(類似性がない)。体を獲得して直後に滅するという性質 について異なっている別な法があるのではない。どうしてこの有利那が 杖を持つ人のごとし,と説くことができるだろうか。 また相続に約して説く,ということもできない。[相続のように]体を 持たないものは体を獲得することはできないからである。あるいは非存 在の法を有剃那と名付けるならば,体を有するものに対して[名付けて いるの]ではないから,過大適用となる。 また,似ているが異なる説として述べることはできない。「杖を持つ人」 を引いて同除としているからである。(大正2
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世親は,剃那(=自体を獲得して直後に生滅するという性質)をもつもの が有利那(剥那滅)である,と解釈するが,特にその有剃那の理解に対して,衆賢の剃郁減論証 衆賢は批判する。剃那と有利那はどちらも同ーの性質であって,人と杖のよ うに別なものではない。また,世親は相続について生滅を説くのであるが, 相続は集合体であって,それ自体で存在する実体ではない。したがって,そ の相続が自体を獲得する,ということはできない。もしも相続に対して有剃 那と名付けるならば,それは非存在に対しての名称にすぎないことになる, というのが衆賢の批判である。そして次のように述べる。 あるいは,仮に似説門において有利那と説いて言うべきである。理とし てそうあるべきだからである。しかし,仮に有剃那と説くことは認めら れない。実[有]なる有華JI那が[世間的に]成立していないからである。 すなわち,もしも実[有]なる有剃郡があると認めるならば,のこり [の有剃那]も相似によって仮に説くと認められる。[しかし]既に所 似(有剃那)の実有がないのであるから,能似(有剃那)の仮も成立し ない。したがってアビダルマ(有部)では有為法を有剃那と説き,ただ ひとり理として過失がないのである。決して[世親のように]r体を獲 得して直後に滅することである。この剃那の法を有するものを有利那と 名付けるのである」と説いてはならない。(大正
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仮に説くならば比喰的に有剃那を説くべきであるが,それも認めることは できない。もしも有為法とは別に有剃那なるものが実在するならば,その実 在する有利那にもとづいて比轍的に表現することもできるが,有利那という 別な実体が存在するわけではないからである。したがって,アピダルマでは 有為法を有剃郡と説くのである。 つづいて世親の剃那滅論証を紹介する。 また r諸々の有為法はみな剃那滅であって,決して久しくとどまるこ とはない。諸々の有為は後には必ず尽きるからである」とはどうして知 られるのか。経主[世親は]これに対して次のように註釈する。「すな q o衆賢の華JI那減論証 わち有為法は滅するのに原因を必要としない。原因を必要とするものは 結果であるが,減は非存在(無)であって結果ではないから原因を必要 としない。[このように]滅はすでに原因を必要とせず, [有為法は]わ ずかに生じ終えてはすぐに滅するのである。もしも初めに減しなければ 後にもそう(減しない)であろう。後と初とでは性質が等しいからであ
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る」と(大正2
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。 世親は,滅は非存在であり,結果ではないから原因を必要としない,とい う「滅不待因説」をとる。そして,有為法は滅するのに原因を必要としない のだから,生じただけですぐに滅するのであるとする。このように世親の剃 那減論証を紹介した後,その批判に移る。 彼の解釈は理に合わない。「尽きる」とはまさに滅することである。仏 は「尽滅は有為の相である」とお説きになり(未詳), [また仏は] r有 為の相はこれは[有為法に]所有される法である」とお説きになったの である。したがって,経典に「諸行は無常であり,生滅ある法である」 (長阿含遊行経)と説き,また経典に「有為の生起は了知すべし,尽と 住異もまた了知すべし」と説いであるのである。[したがって,減は了 知することができるのであるから]もしも[世親が] r非存在(無)で ある法がなお色等のようによく原因となり,識等を生じる」というなら ば,その場合にはまた,非存在の法は[識を生じる原因であって,ま た]結果であると認めるべきである。この[原因と結果の]差異となる 原因は認識できないからである。どういう理屈で, [滅という]非存在 の法は[認識を生じる]原因であって結果ではない,とするのか。また 存在する法をみると,有為を先行させることは世間の常識である。原因 を有するものは結果である。あなたの主張する尽滅もまた有為を先行さ せる。必ず有為を先行させるものが,後にまさに無となるからである。 どうしてこの結果[すなわちあなたのいう無]が原因を有するとは認め-
32-衆賢の剃郡減論証 ないのか。[したがって滅は結果のはずである。]また,法が原因を持た ないならば,これは必ず常住であると認められる。したがって,滅がも しも常住であるならば,法は永久に生じてこないはずである。もしも [あなたが]r滅は無である。体を有するものではない。どうして結果 となるだろうか。」というとするならば, [反対にこう訊ねよう。]もし も体を有するのでなければ,どうして[先ほど仮定したように]原因と なって認識を生じることがあるだろうか。また, [滅が非存在ならば] これは有為相であるとは認められない。その成立を認めるように,これ (滅)もまた認めなければならない。(大正
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まず,滅は非存在であり原因を必要としない,という解釈に異を唱える。 さきほど r諸々の有為は後には必ず尽きる」といったが,ここで「尽きる」 とは「滅する」という意味であることを示す。ここから,教証により二種の, 理証により三種の反証を行う。 〈教証〉 (1)経典において減は有為の相であり,そして有為法に所有されるもので あると説かれていることを引用する。(
2
)別の経典で「尽と住異もまた了知すべし」と説かれていることを引用 する。滅は了知するべきものであるから,それが非存在ではあり得ない。 〈理証〉 (1)非存在も認識の原因となる,としても,その場合やはり認識の結果と もなるために r滅は非存在であるから結果ではない」とは主張できない。 ( 2 )滅といっても,まずそれに先立ち有為の存在が無ければならない。し たがって,誠は先行する有為法の存在を原因とする。 ( 3)法が原因を必要としないならば,それは常住となってしまう。その場 合,滅は常住となるから,法は永久に生じてこないという過失に陥る。 さらに r滅は体を有するのではないから結果ではない。」と仮定したとし ても,それは理証(1)で提示した仮定と矛盾し,やはり滅は原因/結果と-
33-衆賢の剃那減論証 なることを認めなければならない。
4
.警喰師の剃那滅論
つづ、いては警職師の剃那の定義を紹介する。 また,聾町議師は異端を起こし,未だ聞いたことのないような解釈方法に よって,有為の相は生起と無である,と主張する。このよう[に主張す る]ならば, [生・住異・滅の]三分類が成り立たなくなる。すなわち, [警職師は]有為法は体を獲得するのを生起と名づける。尽(減[の 相J
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と異相はこれはどちらも体は無である。後の剃那と前[の剃那] とは[性質に]異なりはない。所因(
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が不足するので,前に 既に論じたように,また有為法と説くことはできない。さて, [あなた の説く通りであれば]生起もまた同様に過大適用となるからである。す なわち,諸行の生起もまた原因を持たないということになるはずで、ある。 有為法はみなそうである,と執着するからである。したがって彼の[主 張する]異もまた体を持たない,という理が成り立つ。すなわち,無を もって有為相としているのである。 しかし, [これは]認めることができない故に,減は原因を必要としな いのではない。(大正2
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醤喰師は有為相のうち,住相を否定し滅相とは無のことである,とするた めに,有為相は生と無とであると主張する,という。実際にこのように主張 していたかどうかは不明で・あるが,上に紹介した上座説および世親説からは このような主張が導かれる。したがって,ここでなされる警轍師説批判とは, 世親説批判に他ならない。 こうして,有為相は生と無とである説を紹介するが,それでは有為の所因 すなわち三相あるいは四相を満たさないので,有為とはならない。また,そ衆賢の華11B~減量吉証 の場合には生起もまた原因をもたないことになってしまい,無=有為である という結果になってしまう。したがって,減もやはり有部の理解するように, 原因を必要とするものでなければならない。 では,衆賢はどのように剃那滅を説明するのであろうか。 したがって,私はこれについて,次のように註釈する。 現在存在している法は,滅するのに客因を必要としない。すでに客因を 必要としないのであるから,わずかに生じおえて,すぐに滅するのであ る。もしも初めに滅しなければ,後にもまたそう[に減しない]であろ う。後と初めとで,主因[すなわち滅相=無常相]は同じだからである。 すでに,後に尽きるのを見て,前にも瞬間瞬間に滅することを知るので ある。(大正
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ここで衆賢は主因=無常相として剃那減論証を行うのであるが,その文面 は『倶舎論』を強く意識したものである。いま,比較の為に漢訳の両テクス トを併記すると,以下のようである。 現有法滅。不待客因。既不待客因縁生巳即滅。若初不滅後亦臆然。以後 奥初主因等故。既見後有蓋。知前念念滅。(I'lIJ頂正理論』上述箇所) 待因謂果。滅無非果故不待因。滅既不待因縁生巴即滅。若初不滅後亦聴 然。以後奥初有性等故。既後有量知前有滅。(Il'倶舎論』大正2
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-21) [原因を必要とするのは結果である。減は非存在(無)であり,結果で はないから原因を必要としない。[このように]滅は原因を必要としな いのであるからわずかに生じおえてすぐに滅するのである。もしも初め に滅しなければ後でもまたそのよう[に滅しない]であろう。後と初め とで存在するものの性質は等しいからである。後で尽きることがあるの-
35-衆賢の華IJjJII減論証 で前にも滅があることを知るのである。] この対比によって,両者の相違点が明らかになる。まず滅について,世親 は「原因」を必要としない,としたのに対し,衆賢は「客困」を必要としな い, と言い換えている。そして,生じてはすぐに減じてしまう理由について, 世親は,初めの剃那と後の剃那では「存在性」に違いが無いから,とし,一 方衆賢は r主因=無常性」に違いが無いからである,という。このような 言い換えをしながらも,衆賢は論証形式としては世親にならったのである。
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.正量部・勝論の反論ー推論による剰那滅論証
正量部は,世親の「減は原因を必要としない」という説に対し,現量に基 づいて原因を必要とする滅があることを主張した。これに対し WJI憤正理論」 では同様に客因を必要とする減のあることを主張する。 もしも. [正量部が] 「そのようではない。[ものの減が客因を必要とすることは]世間で現 に見られるからであるo すなわち,薪等が先に有って,後に火という客 因と合した場合に,滅無にいたり,再ぴ見ることはない,ということは 世間で現に見られるからである。現量よりもすぐれた量は他には決して ない。したがって諸法が滅するのにみな客因を必要としないのではな 自団 い。」というとしよう。(大正29. 534a2-5) 正量部は薪が火と合する場合などのように,外的な原因(客因)によって 滅することがある例を挙げる。そして,これは実際に経験されることである から, ものの滅は客因を必要とすることもある, と主張する。この正量部の 主張は世親も取り上げているが,衆賢の反論方法は異なっている。以下にそ れを見たい。 p o η。
衆賢の利那減論証 [衆賢答]これはどうして鈴の音声や灯明の炎のようではないのか。 その音声や炎は,手や風がなくても,瞬間瞬間に主因によって滅してお り,手や風と合すると,さらに別には生じずに,それに後続する音声や 炎は無く,復ぴ認識することができないように,同様に薪等も主たる滅 因が瞬間瞬間に滅させるのである。[薪が]後に火と合するのは, [前の 剃那の薪がすでに]減した状態においてであり, [火は滅の為の]別の 原因とはならない。後で生じないのだから,復ぴ認識できない。 したがって,この義は比量によって成立するのであり,現量によって認 識されるのではない。(大正
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世親は,薪が滅して以後に存在しなくなるのは,自ら滅してしまうのか, あるいは火と合することによって滅してしまうのかを直接認識することはで きないため,比量によって決定しなければならない, としている。それに対 し衆賢は,薪は自ら滅しているのであり,火という客因にであうのはすでに 薪が滅した状態である,という。そして,世親と同じく,それは比量によっ て決定しなければならない, という。では,その比量とはどのようなもので あるのか。 比量とは何か。すなわち, [滅は]生起と同様に,因が無い,というこ とはないからである。有為法が客・主の二因を必要とせずに生起するこ とは見られない。すなわち,カララ(胎児の最初の 7日間)・芽・土 壁・識などは,必ず,それぞれ精血・水・土・感官等の外的な補助縁と いう資助を必要として,その後に生起することを得るのである。 もしも,客因を必要として薪等が滅するのであれば,その場合,有為法 は生起と同様にかならず客因を必要として,その後に滅することを得る であろう。 しかし,世間で実際には認識 (buddhi)と炎と音声とは客因を必要と せずに,主因によって滅することが知られる。 円 , e q ペ d衆望者の華IJ那減論吉正 したがって,一切の行の減はみな客因を必要としない。これゆえ,諸の 有為は生じおえてすぐに滅する。減の因は常に合しているために剃那滅 の義は成立する。(大正
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ここでの論証は次のような手順を踏んでいる。 まず,前提として生起は主因と客因を必要とすることを述べる。そして, (1)もしも減が客因を必要とするならば,主因の他に客因を必要とする生 起と同様に,どのようなものも客困が無ければ滅しない,ということになる。 ( 2 )しかし,認識や炎,音声などは客因を必要とせずに,主因すなわちそ れ自身の無常性によって滅することは世間でも承認されている。 ( 3 )したがって,すべての有為法の滅は客因を必要としない。有為法には 減の原因すなわち無常相がつねにともなうから,剃那滅が成立する。 この形式は世親に倣ったものであるが,世親が「減は原因を必要としな い」ということから論証を始めたのに対し,有部では有為法が生起するには, 客因すなわち外的な補助縁が必要となるため,衆賢はそれを前提として提示 した上で r滅は客因を必要としない」としている。したがって,もしも滅 も生起と同様に外的な補助縁を必要とするならば,あるときは減して,また あるときは滅しない,ということになってしまう。(2 ) か ら (3 )への流 れは世親同様であり,衆賢も帰謬論証を導入しているのである。ただし,こ こで注目すべきは,衆賢は生起が主因・客因を必要とすることを前提として 論証する為に,帰謬法としての整合性が増していることである。つぎに, ( 2 )で例としてあげた認識等についてとりあげる。 有る[人々すなわち勝論派]は r認識と音声とは,前のものは後のも のによって滅する」と主張する。また,有る人は r灯明の炎が滅する のは,住[する因]が無いことを原因としている」と主張する。また, 有る人[勝論]は r炎が滅するときは,法と非法(功徳と罪過)のカ による」と主張する。-
38-衆賢の剃那減論面E これらは皆合理的で、はない。 なぜならば, [まず勝論に対して]法の未だ[生じていないの]と,生 出岬 じおえたのとには,功能が無いからである。 しかるに[世親のように前と後との]二つは倶にありえない,とは説く べきではないからである。このような[世親の]非難は,他の[人によ る]批判を招くからである。 「二つは並び立たない, といっても,前の法が後[の法]の生起の原因 となることは認められる。二つが倶にありえないといっても,どうして 前[の法]が後[の法]によって滅する,ということを認めないのか。」 [これに対して]現在のみが有るという論者(=経量部)は理として答 えて[次のように]言うべきである。 「前[の法]は後[の法]の生起の原因となる。現[在の法の]体は有 だからである。[しかし]未来[の法]の体は未だ有ではない。どうし て前[の法]の滅する原因となるだろうか。」したがって,彼の立てる 理由とは,この説のごとくであるはずである。さらに,最後の滅はまた, 何を原因とするのか。 [上座世親のように]住[する因が]無いのを原因とする,というのも また,合理的で、はない。体をもたない法は原因とはならないからであるo [第三の勝論に対して]法と非法というのもまた滅の原因ではない。 [人のいなしつ空窟に炎が転じることが有るのを見るからである。 また,一切の有為法の中においても此の原因がある,とみな推測するこ とができるから,さらに火等は滅する原因を必要としないはずで、ある。 これゆえに,この原因の義を主張すべきではない。(大正29,534a18 -29) まず, (1)ヴァイシェーシカ学派の「認識や音声は先のものが後続する ものによって減せられる」という説, (2)ある人の「存続する原因が無い 為に滅する」という説,ふたたび(3 )ヴァイシェーシカ学派の「功徳と罪 Q d nべ u
衆賢の華JI那減論証 白 司 過によって滅する」という説を紹介する。 続いてそれらの説を反証するのであるが, (1)については,過去と未来 の法には作用が無いために成立しない,という。そして,世親の反証では更 なる批判を招くため,経量部ならば r未来の法は体をもたないのだから先, 行する法の滅の原因とはならない」と答えるべきだ,と論じる。(
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)につ いては,世親と同じく「何々が無い」というのは原因にはならない,とする。 ( 3 )については,人のいない場所での炎などは功徳も罪過も無いのだから, それが滅の原因とはならないとする。そして, もしも功徳や罪過を減の原図 として想定するならば,それは一切の有為法の中にもあると推測することが できるから,剃那滅を認めることになるのである, という。つづいて, もの は変化しながら滅するという説を取り上げる。 また,もしも薪等の滅が,火と合することを原因とするならば,熟変 (火の強さの変化)の中に,下・中・上とあるので, [熟変の]生起の 原因の体がそのまま滅の原因となるはずで、ある。 なぜか。すなわち,火と合することによって,薪等に熟変を生じさせる ので,中上の熟が生じて,下中の熟が滅する。つまり[ここでは]生起 の原因の体[すなわち火と合すること]はそのまま減の原因となるので ある。しかし,理として彼によって此がある,というのがそのまま彼に よって此の法が無となる,ということはありえない。 もしも,炎の生起は停住しないために,このような過失はない,という ならば,これもまた理としてそうはならない。 体の種類は異ならない。決定する理なし生や滅という二種の原因とな るからである。 ところで,火焔が異なって生起する中において,生起させると減させる との原因のちがいは推測しうるが, [火焔が] [剃那的でない]灰や雪・ 酸・日光・地(土)・水と結合して薪等を熟変して生起させる中におい ては,どうやって生や減の原因の違いを推測することができょうか。衆賢の華IJ那減論証 (大正29,534a29-b8) ここでの論点は,あるものを生じさせるものが,そのままあるものを滅す る,というのは不合理である,ということである。対論者の主張に従えば, 薪に対する火のはたらきは,先行する薪を滅する(変化させる)原因であり ながら,後続する薪の生じる原因ともなるからである。また,化学変化の生 じる場合については,原因がどれであるのかが見極めが難しく,説明するこ ともできない,という。 最後に,水を沸騰させた場合,水は徐々に減少して生滅してしまうが,そ の現象について説明する。 {問】もしそうならば,火を沸騰すれば,減じて,尽きてしまうのを実 際に見るが,この中で火との結合は何をしているのか。 [世親答]客体である火と結合することによって,主たる火界が増大す る。 火界がだんだん増大し,そうして水緊は徐々に徴劣になっていく水の原 因となるのである。火は水と性質が相違しているために,最後にはもう 後には[水が]生じなくなるのである。これが,火との結合がこの中で なすことである。(大正29,534b9-13) この説明は『倶舎論』からの引用である。以上で減は客因を必要としない ことを論証した。 したがって,諸法の滅は別は原因を必要としない。ただ主因により,諸 法は滅するのである。以上のような理由で,剃那滅の義が成立する。し たがって,身体に行動は存在しないのである。(大正29,534
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3-15) 有為法が滅するのには客因を必要としない。主因すなわちすべての有為法 - 41ー衆賢の華JI那滅論証 。 凹 がもっ無常相によって滅するのであるo 〈正量部の暫住説〉 以上のように滅は客因を必要とせずに滅することを論証した後で,正量部 の暫住説について論じる。 正法の内において有る人々(正量部)は次のように説く。 「身体と山などは,久しく留まって滅しない。したがって,経典に『あ るいは一類の身体あって留まること十年,乃至広説』と説き,また『七 日間カララ留まる』と説き,また『持地留まることー胡を経る』と説く のである。これによって,身体が久しく留まりうることが知られる。し たがって行動があり. [それが身]表となるという理が成立する。」と。 (大正29. 534b24-27) 正量部は経典をヲ│いて身体や山等は長い間存在しつつけることを主張する。 そして,行動は存在し,それが身表業であるという。これに対し:衆賢は次の ように反論する。 しかし,この義は正しくない。 まず,彼ら[正量部]も諸の心・心所は剃那滅であるということを認め ている。 これによって,彼が認めていないところの,身体および山等の剃那滅の 義を証明しよう。 [まず]次のように主張しよう。身体は華JI那滅である。 [理証
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心等にしたがって転変するのを見るからである。すなわち, 身のすがた(相)を見ると,苦・楽・貧・眠等を起こすときには心等に 従って[そのすがたも]転ずる。心等という時々刻々と滅する法に従う ので,身体にも転変がある。したがって[身体の]剃那滅の義は成立す る。衆賢の利型~減論証 [理証
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]また,身体と心とは平安と不安(安危)を同ーとしているか ら,すなわち身体は剃那滅である。[身体は]心に執受されるものであ るから,必ず安危は同一である。身体に識があるために[身体が]存続 することは多時にわたる。しかし識がもしも身体を離れたら,すぐにく さり滅する。身体も華J
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那滅である心と安危を同ーとするので,心と同様 必ず華IJll~滅である。 [教証]また r身体は識のごとくである」と述べているからである。 すなわち,経典に次のように説かれている。 「この心・意・識は剃那・ラヴァ・ムフールタ[に]別異に生じ,別異 に滅する」と。また,経典に「身体はそれぞれの剃那の佐において,哀 老・枯渇する」とある。また,経典に「比丘よ,諸行は留まることがな い。すみやかに壊滅に帰する」とあるo また, [経典に]こう言う。「比 丘よ,諸行は幻のようである。あるいは増し,あるいは減じ, しばらく 留まってすぐに滅する。」と。 また,経典に r若きバラモンよ,入胎の夜から乃至哀え老いるまで, 常にすみやかに過ぎ行き,留まることもかえることもない」とある。 これらの経典によって,証知するのである。諸行はみな剃那滅であり, 「久しく留まる」という理はない。しかも r留まる」というのはただ 諸行が相似して相続するのに関して, r (その相続は)違いは無い」と仮 に説いたので、ある。 また,ある経典に「心は留まることがあるというのは,心は留まり移転 することができない」というようなものである。また,経典に「心は初 静慮から第二静慮、等の中に移入する」とあり,また r心は調えばすぐ に上にゆくことができる」と説いている。(大正29. 534b27-cl7) 正量部も心・心所の華J
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那滅を認めている。したがって,衆賢はその前提に 基づいて,正量部が暫住を主張する身体も剥那減であることを論証する。ま ず[理証 1]では,身体は心のありように従ってその現れが変化するため, -43-衆賢の手IJjJIS滅輪日iE 心と同様剃那減であると論証する。[理証
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では身体と心とは安危を分け 合うものであり,識が身体を離れては身体も減してしまうことから,身体も また柔JI那減であると論証する。[教証]では身体/諸行は剃那剃那に生滅を 繰り返す識と同じようなものであることを示す。さらに,生滅変化しながら も同じような現れをする相続に対して「存続する」と考えではならないとし, 次のように論じる。 また,苦等が生じおえて相続し,多時にわたって留まる中において,仮 に故い受を説く。 また,彼は月輪が却JI[の間]留まることを認めながらも,しかも仮に 「新[月J
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という。仮に説いたものに対し,決定して「実有である」 と執着してはならない。 また,相が別であれば体も異なる, という義は成立する。同ーの体の中 に特徴(相)の別なものがあるわけではないのである。現に観察すると, 体が異なるものの相は別だからである。例えば牛にはたれた下顎があり, 馬には旋毛があるように, [相が異なるものは体も異なるの]である。 同ーの相続において相がすでに異なっているのである。これによって体 も必ず異なっていることを証知するのである。 [同ーの相続である]乳や酪のいろ(顕色)は相(すがた=ここではい ろ)が同じであるが,ともなうものが別であるから,必ず体も異なるの である。 すなわち, [乳と酪との]二つのいろはそれぞれ甘味と酸味という味を ともなうために,体は必ず[礼から酪になる]前後で別なはずである。 身体もまた同様のはずで、ある。すでに,前後の位では相が同じではない [ことを見た]。これゆえに,推論(比知)するのである。体・界・緊 を[例として]挙げて,前後で各々別となっている。したがって[それ らも]剃那減である,というこの理は成立するのである。(大正2
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44-衆賢の華IJDI!減論証 例えば苦や月など,世間的には存続するように考えられているものに対し, 「新しい」とか「古い」と表現するが,それは仮に説かれたものであって, それが実在すると執着してはならないという。特徴が異なるものは,その体 もまた異なっているからである。例えば牛と馬ではその特徴が異なっていた り,乳と酪ではその昧が異なっているのは,それらの体が互いに異なること を意味するように,身体についても剥那剃那にその相は異なっているのであ るから,やはり体も異なり,すなわち剃那滅が論証されるのである。
結 論
以上見てきたように,衆賢の華JI那滅論の基盤になったのは有為法を特徴づ ける有為相のひとつ,滅相すなわち無常性であった。また,その論証方法は 主に変化に基づく剃那滅であった。そして衆賢は『倶舎論』における論証形 式を利用したが,世親の剃那滅論証のなかで,衆賢が受け入ることができな かったことは,主に次の二点である。ひとつは剃那の定義についてであり, ひとつは滅が原因をもたないという点である。 まず,前者について,世親の剃那の定義からは有為の四相の実在が導かれ ない,とする。すなわち,世親・経量部は,すべての心不相応行法の実在を 否定し,有為の四相は相続の生滅変化という状態の各位に対する名称にすぎ ないとし,一剃那の上に住相が存在することも否定した。したがって,法は 生じただけで (matra) 滅するものであるとする。しかし,有部は,四相は ー剃那に実在するものであり,そのうち住相とは法が結果を引く間留まらせ るはたらきを意味した。そのため,法はわずかに (matra) 生じては,滅相 のはたらきにより滅するのである。ここで両者は matraについて見解を分 ち,世親は剃那をわずかな時間も持たない点のような存在として,衆賢はわ ずかな間存続するものとして理解したのである。 つぎに,法の滅する原因については,世親が原因不要としたのに対し,衆 賢は,有為法は必ず滅相・無常相をともなっているため,それが原因となっ-
45-衆賢の剃却I1減論調: て滅するのであり,外的な原因は必要なく,一方で噌原因をもたないものは永 遠に存続するものであるという立場をとった。また,衆賢の目には,世親の 滅無因説は,十二支縁起における生から老死の流れ,あるいは因果関係一般 を否定するもののように映ったのであろう。したがって,衆賢はその反論に おいて原因・結果ということを強調したのである。 こうしてみると,世親説を受け入れることのできなかったどちらの点も, その理由は衆賢が因果の道理を重視したからであった。世親の主張するよう に,有為法がわずかな間でも存在することができなければ,それが原因とな って結果をもたらすことはできなくなり,また,滅が原因を必要としないな らば,そこで因果の連鎖が途絶えてしまう,というのが衆賢の反論の根拠で ある。このことは,世親によるヴァイシェーシカ批判をほぽ引用する中で, 「これあればかれあり,これなければかれなし」という因果の原則を衆賢が 付け加えたことからも理解されるだろう。 衆賢・世親両者の立場の相違を明らかにするためには,さらにそれぞれの 因果論を考察する必要があるが,それは今後の課題としたい。 〈略号および使用テキスト〉 『大昆婆沙論If'阿毘達磨大毘婆沙論』大正新11智大蔵経 第27巻 町具合論~ : AKBh および『玄笑訳~ If'自主諦訳』
AKBh: Abhidharmakosabh~aJ?Z, P. Pradan ed., Patna, 1967
『 玄 笑 訳 阿 毘 達 磨 倶 合 論 』 大 正 新 情 大 蔵 経 第29巻 『 農 諦 訳 阿 見 達 磨 倶 舎 鰐 論 』 大 正 新 情 大 蔵 経 第29巻 1 f ')1闘 正 理 論 阿 見 達 磨 順 正 理 論 」 大 正 新 情 大 蔵 経 第29巻 〈主要参考文献〉 Balslev, Anindita Niyogi.[1999JA Stu
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01Time in lndian PhilosoPhy.2nd ed. N ew DehliCox, Col1ett. [1995JDi.
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衆貨の華JI那減論証
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ibid.,
p.98 n.216 (3) AKBh 176, 11,12. (4) AKBh 176, 12-14.また桂 [2002]p.261参照。 (5) AKBh 177, 7-20. (6) Rospat, ibid., p. 105 n. 237参照。 (7) すなわち r条件が揃って法が自体を獲得するJという[定義]では,どれ ほどの時間が経過するのかを決定して理解することはできない。また,法の利 那というのも世間では経験されない。したがって r一利那の量はどれほどか」 と問われたならば r華JI那の量はこれこれである」と答えるべきである。(大正 29, 521c7-9} (8) r大見婆沙論』にはこの相対的な剃司srや,弾指(ただし六十四剥那とする) のほかにも,様々な華JI那の定義が紹介されている。 ある人が説く。「そうではない。我々の[説く創部の]意味は,二人の力強 い成人男性が数多くのカーシー産の細い糸を[引きあって]裂く時に,その裂 かれた糸と同じ数の剃那が経過するのであるりある人が説く。「そうではない。 我々の[説く剃那の]意味は,二人の力強い成人男性が数多くのカーシー産の 細い糸を引きあっているときに,そこを[別の]一人の成人男性が中国製の十 -47-衆賢の利那減論証 分に錬成された万で俊敏に断ち切る場合,その断たれた糸と同じ数の剃司11が経 過するのである。」ある人が説く。「それでもまだ粗大である。それは剃那の分 量ではない。実際の剃那の分量は世尊もお説きにならなかった。どうしてそう 知られるのか,というと,経典に次のようにあるからである。『一人の比丘が あり,仏の居られる所に参り,仏の両足を頭でもって礼拝し,起きあがって一 方に座り,世尊に申し上げた。「寿行はどれほど素早く生滅するのでしょう か。」と。仏がお答になった。「私が説明しでも,お前は理解できないであろ う。J比丘が申し上げた。「では,響町議によってお示しになることはできるでし ょうか。」仏がお答えになった。「できる。では,今お前の為に説こう。例えば 4人のすぐれた射手がそれぞれ弓矢をとり,背中合わせに立ち,四方へ射ょう とする時に,一人の敏捷な男がきて彼らにこういう。『あなたちはいま一斉に 矢を放ってください。私はそれら[の矢]が地面に落ちる前にそれらをとらえ ることができるでしょう。』と。どうであろうか。この敏捷な男は速いのであ ろうか,そうではないのであろうか。」比丘が答えた。「世尊よ, とても敏捷で・ す。」と。仏は次のようにおっしゃった。「彼は敏捷で、あるといっても,地に住 するヤクシャには及ばない。また,地に住する[ヤクシャ]は敏捷であるが, 空に住するヤクシャには及ばない。空に住する[ヤクシャ]は敏捷であるが, 四大王衆天には及ばない。かの[四大王衆]天は敏捷で、あるが, 日月の輪には 及ばない。[日月の]二輪は敏捷で、あるが,堅行天子には及ばない。彼は日月 の輪車を導くものである。これらの諸天はそれぞれ敏捷であるが,寿行の生滅 はこれらよりもさらに素早く,需JI
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1に流転して少しも留まることは無いのであ る」と。』こ[の経典]によって,世尊は実際の華JI那の分量をお説きにならな かったと知られるのである。」と。[問]ではどうして世尊は実際の剃那の分量 をお説きにならなかったのか。[答] [それを]製解できる有情がいないからで ある。[問]舎利子もまた理解できなかったのか。[答]彼は理解することがで きたが,しかし彼にとって[利那の分量を知ることは]有益ではないため, [世尊は彼にも]お説きにならなかったのである。仏はむなしい説法はなさら ないからである。(大正27,701b15-c8 またPoussin [1936-1937J p. 141) (9) Rospat, ibid., p. 95 n.211 ( 10) ジャイナ教などにおいては剃那が時間の最小単位ではないとする説が伝えら れている。 Rospatt,ibid., p. 96 n.214参照。 (11) あるいは「直後に滅する自体の獲得(生起)のことである/atmalabho 'nantaravin話lJこの異読について桂ibid.,p.260およびRospatt,ibid., pp. 106-107n.239. 参照。「玄突訳~ r真諦訳』は,ともに「得瞳無関滅」として おり,漢訳からの決定は難しい。 ( 12) 407b19またCoxp. 318衆賢の剃置I1減論証 (13) Cox p. 344 (14) r得髄無関即滅故」とある。これはatmalabho 'nantaravina!iiではなく at -malabhad anantaravinasiか。ここでは二つの可能性が考えられる。まず, atmalabhad anantaravinasiとは上座による定義であり,それを世親がat -malabho 'nantaravinasiと書き換えたという可能性。次には世親もatmalab・ had anantaravinasiとしていた可能性である。 Rospattが指摘するように後 者の可能性は低いが,漢訳からは世親についてもこちらの読みも想定できる。 なお r得髄無関即滅」という表現は先に引用した世親による生の定義,そし て後に見る世親による剃那の定義「得髄無関滅」と近似しているため,この表 現によって世親を対論者と想定していたと考えられる (Coxは訳出に際しこ れは世親の説であると註記している)が,上座批判の文脈で引用されるため, 元来上座による定義であり,それが世親に受け継がれた可能性も考えられる。 ( 15) Cox pp. 344-345 ( 16) Cox p. 345 (1司似異説。原語が不明であり,具体的に何を意味するかつまぴらかではない。 なお, Rospattはwithregard to something seemingly differentと訳す。 Rospatt, ibid., p.108 n.243参照。 ( 1 助 Rospatt,ibid., p.107 n.241.参照。 (19) この議論は不明瞭である。 Rospatt,ibi・d.,p.108 n.243参照。 側 この筒所はサンスクリットと漢訳で多少異なっている。 AKBh,p. 193.5-10 『玄笑訳』大正29,67c17-21w真諦訳』大正29,225b21-26AKBhに近い。た だし,今は『玄笑訳』に従って訳出した。サンスクリットからの和訳は桂 ibid., p.262参照。
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)
世親の剃那滅論証の詳細は桂論文を参照されたい。 (2~ Rospatt, ibid., p.248 n.538 側 「倶舎論』にほぽ等しいが,わずかに異なる。 制 桂ibid.,p. 264-266参照。世親がここで帰謬法を導入しているが,その論証 には不備があることも指摘されている。 側称友によると上座世親であるが,彼以外の註釈者はシュリーラータとする。 側 通 常 「 功 能 」 はsamarthyaの訳語であるが、この場合は作用karitraを意 味する。 的 世親も全く閉じ順で取り上げ、それぞれに反論していることは桂1・'bid.,p. 266 -268参照。なお、(1)と(3 ) の 反 証 内 容 は 異 な っ て い る 。 相 手 をnigra・ hasthanaにおい込むという論争の終結方法は世親と同様である。 側 ほ ぽAKBh194, 1-8.に準ずる。桂論文p.268-269お よ び 舟 橋 口987Jp. 10参照。 -49-衆賢の華IJjJ~減論証 同 AKBh 194, 8-10.英訳では全くの同文であるが、サンスクリットとはやや 異なる。サンスクリッ卜からの訳については桂ibid.,p. 270および舟橋 [1987J p.10参照。 (30) 世親はものが滅するのは自らが持つ滅する性質による、とした。これは有部 の理解に近いが、彼は「無常相」という表現を避けている。桂ibid.,p.270 271参照。