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真宗研究46号 015学会彙報、p.233

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(1)

芦之予 寸4

A

~

t』 Zミ 平成十二年度 ︿ 第 一 回 ﹀ か ら ︿ 第 三 国 ﹀ に 関 し て は 、 す で に ﹃ 真 宗 研 究 ﹂ 第 四 十 五 輯 に お い て 報 告 済 み 。 ︿ 第 四 回 ﹀ 平 成 十 二 ︵ 二

000

︶年十二月五日︵火︶午後五時より 場所龍谷大学大宮学舎西繁三階小会議室 議案一、﹃真宗研究﹄第四十五輯編集の件 二、第四十八回大会の件 二寸研究発表・記念講演・聖跡巡拝の件 四 、 そ の 他 ︿ 第 五 回 ﹀ 平 成 十 三 ︵ 二

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一 ︶ 年 三 月 六 日 ︵ 火 ︶ 午 後 五 時 よ り 場 所 龍 谷 大 学 大 宮 学 金 口 商 品 賞 三 階 小 会 議 室 議案一、大会日程について 二 、 研 究 発 表 者 の 選 考 三 、 記 念 講 演 に つ い て 四 、 聖 跡 巡 拝 に つ い て 五、木辺派門主奨学賞受賞者選考について 学 AE品集 報 平 成 十 三 一 年 度 ︿ 第 一 回 ﹀ 平 成 十 三 ︵ 二

OO

一 ︶ 年 五 月 八 日 ︵ 火 ︶ 午 後 五 時 よ り 場所龍谷大学大宮学舎西餐コ一階小会議室 議案一、大会スケジュールの最終決定 二、研究発表の司会の件 三、木辺派門主奨学賞受賞者選考の件 四、大会総会の進行及び議題の件 五 、 懇 親 会 の 進 行 の 件 六、史料展観・聖跡巡拝の件 七、新入会員の件 ︿ 第 二 回 ﹀ 平 成 十 三 ︵ 二

OO

一 ︶ 年 六 月 八 日 ︵ 金 ︶ 午 後 十 二 時 三 十 分 よ 議 場 り 案 所 龍 谷 大 学 大 宮 学 金 口 西 費 二 階 大 会 議 室 一 、 役 員 変 更 ︵ 理 事 長 交 代 ︶ の 件 二、平成十二年度事業報告の件 三、平成十二年度収支決算の件 四、平成十三年度収支予算の件 五、木辺派門主奨学賞受賞者の選考結果と授与の件 六 、 大 会 運 営 の 件

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学 ム耳且葉 報 七、次回大会の件 八、新入会員の件 ︿ 第 三 回 ﹀ 平 成 十 三 ︵ 二

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一︶年七月十日︵火︶午後五時より 場所龍谷大学大宮学会口西繁二階小会議室 議案一、第四十八回大会の会計報告の件 二 、 ﹃ 真 宗 研 究 ﹄ 第 四 十 六 輯 編 集 の 件 二 一 、 来 年 度 の 大 会 プ ロ ジ ェ ク ト の 件 四、新入会員の件 五、役員変更の件

第四十八回大会

平 成 十 二 一 ︵ 二

OO

一 ︶ 年 六 月 八 日 ︵ 金 ︶ ・ 九 日 ︵ 土 ︶ の 両 日 、 龍谷大学大宮学舎を会場として、第四十八回大会が開催された。 内 容 は 左 記 の 通 り で あ る 。 ︿第一日︸六月八日︵金︶ 一 、 研 究 発 表 ︵ 九 一 一 一 一

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十 一 一 一

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︶ ︵ 発 表 二

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分質疑五分︶ ︽ 第 一 部 会 ︾ 北 餐 二

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一 教 室 一 、 大 乗 菩 薩 道 と し て の 親 驚 浄 土 教 安藤章仁︵高田派︶ 二 、 本 願 為 宗 ・ 名 号 為 体 竹 原 了 珠 ︵ 大 谷 派 ︶ 三寸親鴛における﹁往生論註﹂受容の視点 ー回向論を中心として武田 四、浄土真宗における﹁教﹂の今日的意義 耳 目 ︵ 龍 谷 大 学 ︶ 四 五 親 驚 教 学 お け る 方 便 」ー の 考 島 察 加 来 雄 之 ︵ 大 谷 大 学 ︶ 義厚︵高田派︶ 六、真宗倫理再考 ﹁ 世 を い と ふ し る し ﹂ を め ぐ っ て 徳永道雄︵京都女子大学︶ ︽ 第 二 部 会 ︾ 北 餐 二

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二 教 室 一 、 戦 国 期 本 願 寺 報 思 議 を め ぐ っ て ー﹁門跡成﹂の一評価安藤 二、法然・親鷺と末法思想 伝道的視点からの一考察 高山秀嗣︵本願寺派︶ 一 二 、 存 覚 教 学 に お け る 幸 西 義 の 受 容 に つ い て 堀祐彰︵本願寺派︶ 弥 ︵ 大 谷 大 学 ︶ 四 、 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 ーその仏教的背景と漢文的背景| 張 五、悌光寺の名帳・絵系図について −特に物取り信心説を中心に| 藤谷信道︵例光寺派︶ 六、親鷲浄土教形成の思想史的背景 寺井良宣︵龍谷大学︶ 二 、 評 職 員 会 ・ 理 事 会 ︵ 十 二 一 二 一

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十 一 一 一 一 一 一

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︶ ︵ 西 繁 二 階 大 会 議 室 ︶ 二 一 、 記 念 講 演 ︵ 十 三 二 二

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十 五 一

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︶本館二階講堂 偉 ︵ 同 朋 大 学 ︶

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議題﹁現代真宗真偽論|真の真宗と偽の真宗|﹂ 講師龍谷大学名誉教授・文学博士信楽峻麿氏 四、総会︵十五一一五 l 十六一一五︶本館二階講堂 司 会 殿 内 恒 龍 谷 大 学 専 任 講 師 勤 行 挨 拶 岡 亮 二 理 事 長 祝 辞 龍 谷 大 学 学 長 上 山 大 峻 氏 来 賓 祝 辞 真 宗 出 雲 路 派 管 長 藤 光 永 様 議 事 一 、 座 長 推 挙 参加者の中から佐々木英彰氏が推挙される。 二、平成十二年度事業・会計報告 事務局より報告がなされ、いずれも承認された。 三 一 、 平 成 十 三 年 度 収 支 予 算 審 議 事務局より提案がなされ、承認された。 四、平成十二年度木辺派門主奨学賞授与 第四十七回大会における発表者の中から、理事会の推 薦によって木辺派の八力広超氏に賞状と奨学金が岡理 事 長 に よ り 手 渡 さ れ た 。 五、聖跡巡拝﹁本願寺及び宗祖ゆかりの史跡を訪ねて﹂の 案内 赤松徹真理事より、翌九日の聖跡巡拝の詳細が案内さ れ た 。 六、次年度第四十九回大会について 本願寺派津村別院︵大阪︶を会場として、平成十四年 戸 ん 寸→ 報 ム五且葉 六月七日・八日に開催されることが報告された。詳細 に つ い て は 後 日 決 定 の 予 定 。 七、大蔵経データベース化についての案内 渡漫隆生理事より、大蔵経データベース化についての 案内並びに援助依頼の報告がなされた。 八、役員変更︵理事長交代︶について 事務局より、岡亮二理事長が任期途中ながら平成十 四年三一月をもって龍谷大学を定年退職のため、平成十 三年七月をもって理事長を勇退し、浅井成海理事が残 る任期︵平成十四年七月まで︶の理事長をつとめる旨 の 報 告 が あ り 、 承 認 さ れ た 。 五 、 記 念 撮 影 ︵ 十 六 一 一 一 一

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十六一四五︶本館正面 六 、 懇 親 会 ︵ 十 七 一

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十 九 一

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︶ 龍谷大学大宮学会口清和館二階談話室において、来賓各位を はじめ会員約七十名の出席を得て、懇親会が開催された。 龍谷大学教授矢田了章氏の司会進行により、来賓・会員諸 氏のスピーチを交えてなごやかに歓談した。 ︻ 史 料 展 観 ︼ 本 館 一 階 展 観 室 本学会に協賛して、龍谷大学図書館特別展﹁シルクロード・ 中央アジアを巡った探検家たち|大谷ミッションを中心として ﹂ が 催 さ れ た 。 ︿第二日﹀六月九日︵土︶ 聖跡巡拝 午前九時、西本願寺総御堂︵阿弥陀堂︶に集合。参加者四 十人がそろい、総御堂にて勤行後、聖跡巡拝へと移った。 五

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学 業 報 A Z三 案 内 コ l デ イ ネ l トは龍谷大学教授赤松徹真氏、西本願寺 御影堂修復の解説は京都府文化財保護課中尾正浩氏、その 他の解説は龍谷大学専任講師岡村喜史氏、アシスタントを 龍 谷 大 学 の 大 学 院 生 が 行 っ た 。 九 二 一

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西 本 願 寺 御 影 堂 修 復 現 場 の 見 学 ︵ 約 一 時 間 ︶ 。 一

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二 二

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西本願寺飛雲閣においてお抹茶接待と見学 ︵ 約 三 一

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分 ︶ 。 一 一 一

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西 本 願 寺 書 院 の 見 学 ︵ 約 一 時 間 ︶ 。 二 一 一

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西本願寺開法会館において昼食休憩︵約一時 問 ︶ 。 パ ス に て 移 動 。 一 二 一 一 四

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日 野 誕 生 院 に 到 着 、 見 学 ︵ 約 三 一

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分 ︶ 。 徒 歩 に て 移 動 。 一 四 一 一

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法界寺に到着、見学︵約二

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分 ︶ 。 パ ス に て 移 動 。 一 五 一

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万 福 寺 宝 蔵 院 に 到 着 、 見 学 ︵ 約 三 一

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分 ︶ 。 バ ス に て 移 動 。 一 六 一

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二 一 室 戸 寺 に 到 着 、 見 学 ︵ 約 三

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分 ︶ 。 バ ス に て 移 動 。 一七二

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京 都 駅 に 到 着 、 解 散 。 この度の聖跡巡拝には、西本願寺ならびに各寺院の皆様に 格別のご高配を賜りました。ここに厚くお礼申し上げます。 またあわせてご参加いただきました皆様のおかげにて、意 義ある学会研修ができましたことを深くお礼申し上げます。

_.L. ノ、 当 日 配 布 史 料 ︵ 抜 粋 ︶ 大 西 本 願 寺 御 影 堂 ︿ 重 要 文 化 財 ﹀ 本願寺の御影堂は、親鷺聖人の廟所である京都東山の大谷廟 堂に起源をもっ。東山鳥辺野の延仁寺において茶毘に付された 親驚聖人の遺骨は、いったん大谷に納められたが、十年後の文 永九年︵一二七二︶冬、さらに吉水の北に改葬された。そして この廟所に聖人の木像が安置され御影堂へと発展した。本願寺 第八代蓮如上人の時の寛正六年︵一四六五︶、東山大谷の本願 寺は比叡山の衆徒によって破却され、聖人の御影はその後転々 とし、文明十一二年︵一四八こ山城山科の地に本願寺が再興さ れた。しかしそれも天文元年︵一五三二︶法華宗徒らによって 焼き討ちされると、大坂・紀伊鷺森・和泉貝塚・大坂天満と移 転した後、天正十九年︵一五九一︶豊臣秀吉の命により京都の 西本願寺の地に移った。移転当初の御影堂は、天満のものを移 築したため、文禄五年︵一五九六︶間七月十三日の大地震によ っ て 倒 壊 、 翌 年 再 建 さ れ た が 、 さ ら に 元 和 三 年 ︵ 一 ム ハ 一 七 ︶ の 火 災 に よ っ て 焼 失 し 、 寛 永 十 年 ︵ 一 六 二 一 三 ︶ 十 月 に 再 建 に 取 り 掛 か り 、 同 十 三 年 完 成 し た 。 現在、平成十年より修復工事がなされている御影堂は、桁行 七 問 × 梁 間 九 聞 の 入 母 屋 造 で 、 寛 永 十 三 一 年 に 創 建 さ れ て か ら 、 文 化 七 年 ︵ 一 八 一

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︶に大規模な修復が行われたのみで、その 時以来の修復である。今回の修復では、最新の技術を用いて修 復が行われるなど注目される点が多い。

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ム M 西本願寺飛雲閣︿国宝﹀ て き す い え ん そ う ろ う ち 西本願寺境内南東隅の滴翠園の槍浪池に面して建つ三層の楼 閣。一階は上段・上々段をもっ主室の招賢殿、八景の問、舟入 の聞及び、寛政七年︵一七九五︶西本願寺第十八代文如上人に い く じ ゃ く て い よる増築の茶室﹁憶昔亭﹂からなる。二階は内外の杉戸に二一 て き せ い ろ う 十六歌仙が描かれた﹁歌仙の閑﹂、三階は﹁摘星楼﹂と呼ばれ る。外観は変化に富んだ姿で、初層正面には破風と入母屋の屋 根を前面に張り出すように配され、二層・一一一層と上へいくにし たがい小さく造り、中心を東に持つ左右非対称の美しさを作り 出す。初層にある招賢殿西側の上段背後は、通常では障壁画が 描かれるところであるが、段差を持つ障子がはめられており、 特異な形である。三一層建築であるが柱は細く、周囲にはほとん ど壁を塗らず障子をはめているところから、あたかも空を飛ぶ 雲のような建物であるとされ、﹁飛雲閣﹂と呼ばれている。江 戸時代より豊臣秀吉が天正十四 l 十五年︵一五八六 l 八七︶に 京都に建築した緊楽第の遺構とされているが確証はない。ただ ﹁慶長日記﹄の慶長十五年︵一六一

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︶五月二十二日条に、 ﹁衆楽御減ノアトヨリ、御庭ノ石御引ナサレ候﹂という記述が あり、ここからくる伝承であろうか。なお本願寺では室町時代 から門主が近親の人びとを招いてもてなす﹁亭﹂と呼ばれる建 物があり、元和三年︵一六一七︶の火災では焼け残ったとされ、 飛雲一閣をこれとする説もある。なお西隣には渡り廊下によって つながれた浴室﹁黄鶴台﹂︿重文﹀がある。 主主ら ずー ぷ〉、 ヱミ 業 報 大西本願寺書院︿国宝﹀ 対 面 所 ︵ 鴻 の 問 ︶ ・ 雁 の 問 ・ 菊 の 間 及 、 び 白 書 院 な ど か ら な る 。 天正十九年︵一五一九︶本願寺は大坂天満の地より現在の西本 願寺の地に移転、その後伽藍の整備がなされたが、元和三年 ︵一六一七︶十二月二十日の火災によって堂舎のほとんどが焼 失した。その直後より諸堂の再興が進められた。翌元和四年四 月二十九日には対面所︵現・白書院︶の立柱がなされ︵﹃元和 日 記 ﹂ ︶ 、 さ ら に 寛 、 水 七 年 ︵ 一 六 三

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︶には、大広間・菊の問・ 雁の聞が建立された︵﹁党鐘々楼其外所々造営日時編輯記﹂︶ 0 宝暦十年︵一七六

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︶の﹁木版本願寺大絵図﹂では白書院と対 面所は別棟の建物として描かれており、元は別々に建てられた こ と が わ か る 。 対面所は百六十二畳からなる施設で、上段・上々段の正面に ちょうだいがまえ は、帳台構・大床・御成口・違い棚が一列に並ぶ書院造りの 様式である。このように一列に並ぶ書院造りは他に例がなく、 西本願寺独特のもので、対面所に真宗の御堂形式を採用したも のと考えられており、元々は東向きに建てられていたものを御 影堂再建に際して南面するようになったことから、当初は御影 堂の機能を備えるものとして使用されていたとも考えられる。 なお対面所西側に付随する形で菊の問・雁の間及び雀の聞が存 在 す る 。 白 書 院 は 東 よ り 一 の 問 ︵ 紫 明 の 間 ︶ ・ 二 の 問 ︵ 帝 鑑 の 間 ︶ ・ 一 一 一 の間︵孔雀の間︶の三一室が一列に並ぶ構成となっており、門主 が対面の儀式を行ったり、賓客の接待として使用された。 対面所および白書院などの西本願寺書院の障扉画には、金箔 七

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学 AE品案 報 を張り極彩色による絵が描かれており、これらは雀の聞が絵師 円山応瑞によって描かれたもの以外は、署名や落款などはない が全て狩野派の渡辺了慶とその絵師集団によって描かれたもの と 考 え ら れ て い る 。 なお白書院の北には、かつて天正九年︵一五八一︶の銘があ ったという﹁北の能舞ム巳︿国宝﹀が、また対面所南には、桃 山時代の様式を残す﹁南の能舞台﹂︿重文﹀が、さらに対面所 東には、御影堂の屋根を中国江西省の鹿山に見立てた借景とし、 緑泥片岩を使った枯山水式庭園の﹁虎渓の庭﹂︿特別名勝﹀が ホ

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吹 田 野 誕 生 院 ︵ 京 都 市 伏 見 区 日 野 大 道 町 ︶ 親鷲聖人は、藤原氏の流れをくむ日野有範卿の長男として承 安三年︵一一七三︶に誕生したが、聖人の誕生地は全く伝承さ れなかった。江戸時代後期になって親驚聖人の旧跡復興の気運 が高まり、聖人の誕生地が注目されることとなった。そこで京 都西南の﹁日野﹂が聖人の出自である日野氏の別業地で、日野 氏の菩提寺法界寺の境内には聖人の父有範卿らの墓所があり、 さらに聖人の﹁産湯の井戸﹂や﹁えな塚﹂などが存在したとさ れる。文政十一年︵一八二八︶、西本願寺第二十代広如上人に よって﹁日野別堂﹂が建立されたが、その後もこの地は法界寺 の境内にあったため、明治十一年︵一八七八︶、西本願寺第二 十一代明如上人によって日野別堂を法界寺より分離、ここに親 驚聖人の誕生地として独自のかたちが整えられ、次第に参詣者 J¥ が増加していった。さらに昭和問年︵一九二九︶には日野別堂 を﹁日野別堂誕生院﹂と改称され、同八年には堂舎が落成した。 現在の堂舎は、親驚聖人が誕生された平安時代後期の建築様式 を採用したかたちのもので、本堂を中心に回廊が巡る形式とな っている。本堂内には親驚聖人幼少の御影をはじめ、有範卿木 像 な ど が 安 置 さ れ て い る 。 大 法 界 寺 ︵ 京 都 市 伏 見 区 日 野 大 道 町 ︶ 真言宗醍醐寺派。日野資業が永承六年︵一

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五一︶に出家し て、日野氏の別業地である日野に、伝教大師最澄作と伝える先 祖伝来の薬師如来立像を安置したことに始まるという。資業の 子 実 綱 に よ り 永 保 元 年 ︵ 一

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八一︶に娘の菩提のために観音堂 が建立されるなど、次第に諸堂宇が整備されていった。しかし 承久三年︵一二二一︶の兵火をはじめ、戦国時代にもしばしば 戦乱による火災のために堂舎が焼失し、しだいに衰微していっ た。廃退した法界寺を憂いた西本願寺第十九代本如上人は、文 化六年︵一八

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九︶に庫裏の修造費として銀子二貫数百匁を寄 付しており、江戸時代後期には法界寺も日野有範卿の像などの 法物を各地において開帳して、真宗門徒の助成を受けている。 唯一現存する阿弥陀堂︿国宝﹀は、五間四面の主屋に吹放し の裳階と回廊をもっ檎皮葺きで、創建年代には諸説あるが、嘉 禄二年︵一二二六︶に再建されたものとするのが有力。堂内の 壁面などには飛天や飛揚の楽器などが描かれており、中央に安 置される定朝様式の丈六阿弥陀如来坐像︿国宝﹀とともに極楽

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浄土を具現化したものとして、平等院鳳風堂とともに浄土教建 築の遺産として代表的なものである。 大万福寺宝蔵院︵宇治市五ケ庄三番割︶ 中国の福建省福州の隠元隆埼禅師が承応三一年︵一六五四︶に 日本に渡り、寛文元年︵一六六一︶幕府の許可を受けて宇治に 開いたのが黄柴山万福寺である。万福寺本坊の北西にある宝蔵 院には、鉄眼道光によって天和元年︵一六八一︶に完成した ﹁大蔵経︵一切経︶﹂の版木︿重文﹀四万八千二百七十五枚が 蔵され、現在でも印刷が行われている。 鉄眼道光は、寛永七年︵一六三

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︶肥後国︵熊本県︶守山村 に生まれ、十三歳の時真宗の海雲について得度し、西本願寺能 化西吟に師事した。しかし明暦元年︵一六五五︶隠元禅師に参 じて禅に入ったという。寛文九年隠元禅師から贈られた明の ﹁万暦版大蔵経﹂をもとに開版をはじめ、印刷所として黄柴山 内に宝蔵院を建立した。この鉄眼によって開版された大蔵経は ﹁鉄眼版大蔵経﹂や﹁黄葉版大蔵経﹂などと呼ばれ、膨大な数 が印刷され全国の各宗派の寺院に納められており、日本の仏教 界に与えた影響は大きい。 女三室戸寺︵宇治市菟道滋賀谷︶ 本山修験宗。寺伝では宝亀年間︵七七

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七 八

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︶宮中の奇 瑞により志津川上流の黄金の観音像を安置するため御室︵建 物︶を移して寺を創建したことから三一室戸寺と称したという。 戸,. 寸ー ム 百 ι葉 報 康 和 年 間 ︵ 一

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九 九 ! 一 一

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四︶園城寺の修験僧隆明が中興し たとされ、この関係から天台宗寺門派の修験系となったものと 考えられる。藤原道長・頼通らをはじめ平安貴族が宇治などに 別業︵別荘︶を営み饗宴を催しており、三室戸寺周辺は紅葉の 名所として貴族たちの遊覧の地となっていた。 本願寺第三代覚如上人によって著わされた﹁御伝紗﹄には、 父日野有範卿についての記述は見られないが、本願寺第八代蓮 如上人の十男である実情によってまとめられた﹁日野一流系 図﹂では、有範卿について、﹁出家号三室戸大進入道﹂と注 記がなされており、有範卿は何らかの理由によって中央政界を 離れ三室戸において隠棲していたものとされる。有範卿は、藤 原氏一門ら平安貴族が都を離れた地に別業を構えた関係からこ の三一室戸の地に晩年を過ごしたものと考えられる。なお三室戸 寺本堂左手に﹁四十八願寺﹂の額を掲げ、日野有範卿墓と称す る 堂 が 建 て ら れ て い る 。 九

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主4 寸ー 幸

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ム五品案

平成十一一年度会計報告 収入の部 尚 子 会 費 真宗教団連合助成金 雑収入 前年度繰越金 収入合計 支出の部 第四十七回大会充当金 学会誌第四十五輯刊行費 会議費 事務費 交通費 人件費 雑 費 予備費 次年度繰越金 支出合計 平成十三年度予算 収入の部 学会費 一 、 二 七

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円 一 、

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円 二

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五 、 二 ニ 七 円 一 、 三 九 五 、 二 三 三 円 三 一 、 八 七

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、 三 七

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円 六 七 七 、 九 二 二 円 一 、 五 六 三 、 二 一 六 五 円 四 て

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五 五 円 一 五 六 、 八 六 三 円 二 一

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円 三 一

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円 八 、 八 二

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円 て一八二、三四五円 三 、 八 七

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、 三 七

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円 て 三

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000

円 真宗教団連合助成金 雑収入 前年度繰越金 収入合計 支出の部 第四十八回大会充当金 学会誌第四十六輯刊行費 会議費 事務費 交通費 人件費 雑 費 予備費 支出合計 第四十八回大会収支決算 収入の部 懇親会費 聖跡巡拝費 記念写真代 大会充当金 本願寺派新門様賛助金 収入合計 支出の部 記念講演謝礼 四 0 一 、

000

000

円 三

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円 一 、 一 八 二 、 二 一 四 五 円 三 、 七 八 二 、 二 一 四 五 円 一 、

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円 一 、 五

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円 二

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円 一 五

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円 二 五

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円 二 五

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円 五

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円 三 一 八 二 、 三 四 五 円 三 、 七 八 二 、 三 四 五 円 二 七 七 、

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円 三 て

000

円 八 五 四 、 六 三 二 円 二

O

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円 一 、 三 二 四 、 六 三 二 円 二 一

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懇親会費 聖跡巡拝費 昼食代 記念写真代 展観開催費 印刷費 通信費 事務費 雑 費 支出合計 三五

O

000

円 二

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問、六七五円 七二、五二五円 四

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、一一九円 九四、一八五円 二三人、四二五円 六五、二

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円 一

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九、四二三円 二 一

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円 一 、 三 一 二 四 、 六 三 二 円

今大会の記念講演は信楽峻麿先生にご出講いただき、その際 の講演録をここに掲載させていただきました。本文中に﹁私の 遺言﹂のお言葉もありますように、ここには信楽先生ご自身の 教学的視点が明示され、また教団論にも関わる種々の思い切っ たご指摘、ご意見をいただいております。但し、文中の﹁懐中 名号﹂︵一二二頁︶については、本願寺派参拝部としてはお守り 札 と し て 頒 布 し て い る の で は な い こ と 、 ま た ﹁ 還 浄 ﹂ ︵ 一 一 一 一 一 一 頁︶については、本願寺派当局としてはこの運動をすすめてい ないことを、会員諸氏の皆様には誤解のありませんよう申し添 えておきます。

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f司 ム古品葉 報 四

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簿

参 顧 与 問 ム f A 品 案 報 真 宗 十 派 法 主 本 願 寺 派 総 長 大谷派宗務総長 高 田 派 ク 仏 光 寺 派 ク 輿 正 派 。 木 辺 派 宗 務 長 誠 照 寺 派 。 出 雲 路 派 ク 三 門 徒 派 ク 山 一 冗 派 ク 龍 谷 大 学 長 大 谷 大 学 長 岡 朋 大 学 長 京都市女子学園長 武蔵野女子学院長 高 田 学 苑 長 一 冗 理 事 長 イ シ

F 信 幡 平 北 千 柏 田 j賓 高 沼 小 上 悌 阪 菅 波 永 秦 大 安 三 武 ♀ 多 寸 楽 谷 松 西 葉 原 中 島 谷 波 川 山 木 本 原 野 谷 谷 藤 浦 野 名

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享 真 正 義 光 以 省 麿 明 三 弘 隆 泉 麿 博 生 保 乗 峻 宗 温 弘 護 龍 静 博 淵 崇 徳 喧 乗 祐 和 義 辰 政 一 大 道 龍 メ入μ 峻 四

北 池 寺 川 岡 小 普 臼 浅

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’r ブじ 理 事 イ シ 砂 今 野 賢 井 野 典 勇 俊 和 亮 蓮 晃 元 教 生 諦 昭 敬 二 明 寿 成 信 畠 田 川 瀬 理 事 長 理 事 浅井成海・渡透隆生・赤松徹真・矢田了章︵本願寺派︶ 木場明志・大桑斉・神戸和麿・安富信哉︵大谷派︶ 稲 垣 不 二 麿 ・ 栗 原 広 海 ︵ 高 田 派 ︶ 田 代 俊 孝 ︵ 同 朋 大 ︶ 徳 永 道 雄 ︵ 京 女 大 ︶ 評議員 浅井成海・渡漫隆生・赤松徹真・矢田了章・浅田正博・武田 龍 精 ︵ 本 願 寺 派 ︶ 木 場 明 士 山 ・ 大 桑 斉 ・ 神 戸 和 麿 ・ 安 官 田 信 哉 ・ 草 野 顕 之 ・ 延 塚 知 道 ︵ 大 谷 派 ︶ 稲垣不二麿・栗原広海・松山智道・梅林久高︵高田派︶ 田代俊孝・庚瀬健︵同朋大︶ 徳 永 道 雄 ・ 佐 々 木 恵 精 ︵ 京 女 大 ︶ 山 崎 龍 明 ︵ 武 蔵 野 女 大 ︶ 浅井成海

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