城戸幡太郎の学校図書館界における活動
今 井 福 司
1. はじめに
2020年以降に施行される小学校、中学校、高等学校の学習指導要領にお いて、学校図書館の活用が総則の箇所を含め複数で掲げられている。しか し学校図書館の実践報告や研究で指摘されているように、学校教育での学 校図書館活用は充分に行われていない
1。なぜ活用が十分でないかについ て、人事配置や予算措置などの施策に問題を求めようとする研究とともに、
歴史研究の中から、その問題への知見を得ようとする研究がある。こうし た学校図書館史の研究においては、専ら制度設計や政策立案の研究
2や、
図書館関係者の研究
3が行われてきた。しかしながら、学校図書館に関わっ た学校教育関係者の検討については、検討は十分行われてきたとは言えな い。
こうした状況を踏まえ、本論では占領期の学校図書館改革において、学
校教育の側から学校図書館について発言を行っていた城戸幡太郎に着目す
る。城戸は後述するように、戦後直後、国立教育研修所(現在の国立教育
研究所)の所長の任にあった。この時期に城戸幡太郎は『図書教育』とい
う機関誌の編集長として、学校図書館が学校教育でどのように用いること
ができるかの模索を行い、学校図書館に関する記事を発表している。とこ
ろが、全国学校図書館協議会が機関誌『学校図書館』の発行を開始して以
降、学校図書館に関する記事が見られなくなり、『学校図書館』でもわず
か1回記事を寄稿しただけに留まっている。
城戸は戦前から戦後を通じて教育心理学をベースに、教育関連の著作を 数多く発表しており、卒寿記念としてまとめられた著作論文目録では、
527点の著作・論文が挙げられている。実際の目録を見てみると、教育心 理学だけでなく、社会教育、視聴覚教育、保育学、高等教育などその著作 は多岐にわたっている
4。この著作の多さや影響力のためか、城戸幡太郎 という個人を研究対象としている学位論文
5や、分野ごとの城戸の貢献に ついて指摘した文献
6も公刊されている。
ただし、城戸は学校図書館や図書教育に関する著作を残しているのにも かかわらず、これまで城戸の学校図書館への関与については論じられてき ていない。これらを踏まえて、本研究は文献研究を通して、城戸の占領期 前後における学校図書館への関与について、以下の2点を検討することを 目的とした。これらを明らかにすることにより、占領期の学校教育関係者 の学校図書館に対する態度の一端を明らかにすることができると思われ る。
1. 城戸幡太郎は学校図書館についてどのような発言をしていたか 2. 城戸幡太郎は実際の学校図書館運動や改革にどの程度関わっていた
か
なお,文章中の旧字体や旧仮名遣いは新字体や新仮名遣いに変更してい る。
2. 城戸幡太郎の経歴
では、城戸の経歴を振り返る。城戸幡太郎(1893-1985)は中等学校時代、
学舎で社会学の文献を読みあさったことから、社会学、特に社会主義への
興味を強く持ち、社会主義の理解には心理学を学ぶ必要性を感じたという。
そのため、1913年(大正2年)に東京帝国大学文学部心理学科選科へと入 学した。その後、卒業論文で「書の心理学的研究」で小学校の生徒を被験 者にしたところ、生徒の能力発達の大きな差に気づき、教育問題に興味を 持つようになったという
7。
その後、ドイツのライプツィヒ大学に留学し、法政大学教授、慶応義塾 大学講師や東京帝国大学講師を兼任しつつ、法政大学心理学教室に児童文 化研究所を設立し、岩波書店の『教育科学講座』編集に参加、その過程で 雑誌『教育』の編集に携わり、教育全般に積極的な発言を行っていた。
1939年(昭和14年)には『教育』を中心として開催されていた研究グルー プを総合して、教育科学研究会を結成したが、戦時体制の強化が深まるに つれて、1944年6月には城戸本人が治安維持法違反容疑で検挙・拘留され た。
終戦直前に釈放され、同年11月からは国立教育研修所の所員として招か れ、第一線へと復帰した。1948年から北海道大学教育学部創設準備委員会 委員となり、同時に米国教育使節団事業局事業部員、教育刷新委員会委員、
GHQ民間情報教育部専門技術員として、日本の戦後教育の確立に関わっ た。1951年からは北海道大学教育学部教授・同学部学部長として、北海道 を活動の中心として、北海道視聴覚教育研究会など各種団体の発足に尽力 した。1957年には北海道大学を定年退官後、中央大学教授、東洋大学教授 に着任、1963年には再び北海道の地に渡り、北海道学芸大学学長に就任、
北星学園大学教授を務めた後、1973年からは東京の正則高等学校長となり、
1982年に退くまで教育現場に携わっていた
8。
城戸幡太郎の業績は非常に多岐にわたっている。教育学一つをとっても、
生産教育、障害児教育、視聴覚教育、保育教育、言語教育、校長職を得て
からは高等教育の分野でも記事が散見される
9。また業績領域の広さや影
響力は、日本教育学会の理事、日本学術会議会員を務めた
10ことからも伺える。では、城戸は学校図書館に対してどのような発言をし、そしてどの
ような行動をしていたのだろうか。
3. 『生活技術と教育文化』における教具史観や児童文化の発展について
1939年、教育科学研究会を結成したのと同時期に、城戸は学校教育に関 する論考をまとめた『生活技術と教育文化』を著している。この著は「生 活と学校」、「教育と技術」、「文化と教具」の3編からなっている。
このうち、第一編「生活と学校」第2章「文化教育」の「二 児童文化 政策」で、城戸は文化とは自然に対する人間の技巧とし、児童文化は教養 の文化であり、歴史は現在に対して単に過去を物語る話として老人文化の うちに認められるものではなく、将来を想像する力として児童文化のうち に認められるとした。そして、児童文化は現代の社会に対して将来の社会 を発展させる歴史的創造力の涵養であると定義している
11。
その上で児童文化は将来の文化を発展させる未完成の文化であり、教養 を必要とする文化であること、そのため教育学の問題として考える必要が あり、発展させることのできる児童のための文化施設を含めたものとして 考えるべきだとした
12。そして、児童文化の発展のためには児童文化の普 及政策を要し、質の良い物を多くの児童に読ませるために悪質の物を禁止 し、良質のものを推薦するといった取り組みに加えて、読書指導を教育的 に考えることが必要であるとした。
城戸は、一般家庭に最初から児童の読書指導を要求することは困難であ るが故に、以下のように学校に完備した児童図書室を設ける必要があると している。
家庭に児童の文庫を作るだけの余裕のあるものでも、その読書指導
を誤れば却って濫読の弊に陥る恐れがある。しかし最初から一般の家
庭に児童の読書指導を要求することは困難であるから、それは先ず学 校においてなされるべきで、そのためには学校に完備した児童図書室 を設け、教師によって読書の指導がなされねばならぬ。学校の国語教 育は単に国語読本の教授に止まらず課外読本の読書指導をもなすこと ができなければ、真に児童の読書能力を涵養することはできぬ。しか しそれには児童が自力を以つて自由に読書することのできる読書の手 引として児童のための辞書と事典とが必要であるが、我が国にはまだ 児童のための便利な辞書も事典も編纂されていない。これは児童のた めの出版文化として大いなる欠陥である。一般の図書館でも辞書と事 典とだけは自由に使用させるように設置されているが、児童は教科書 で学習した文字の範囲だけでしか知識を収穫することができぬのであ る。学校の外に児童図書館を普及することも必要なことであるが、学 校の児童図書室さえ完備したならば、それを児童図書館として小学校 に敷設した方が良い。完備した少数の児童図書館があってもそれを広 く利用さすことができなくては児童文化のために大した意義は認めら れない。殊に農村などでは独立した児童図書館を設置することは困難 であるから、学校図書館がその役目を果たさなければならぬ
13。
このように、児童文化の普及政策として出版文化を取り上げ、その出版 文化の涵養について単に出版させるだけでなく、教師による指導、そして その指導のために学校図書館や児童図書館を設けるべきであるとの考えが 示されている。なお、この記述に引き続いて、城戸はアメリカの図書館学 者、L. C. Fargoが整理した学校図書館の機能を7つ挙げて紹介しており、
海外の学校図書館の文献についても検討を行っていたことがわかる
14。
なお、『生活技術と教育文化』は賢文館から1939年に出版されたものが
著名であるが、終戦後に同書が絶版となっていたこと、国民教育は国民生
活の問題と切り離して考えられなくなったことから、1946年に萬里閣から も再版で出版されている。こちらは1939年のものと比べ、城戸が1939年以 降に執筆した論文で関係あるものを取り出して追加している
15。例えば学 校図書館に関わる箇所としては、第二章「文化活動」に「図書教育の計画 化」という節が追加されており、次のように記述されている。
社会教育の方法として重要な役割を演ずるものは、出版、放送、映 画、演劇などであるが、ここでは特に社会教育の方法として図書教育 の問題を取り上げて見よう。印刷術の発達が教育に及ぼした影響とし てはなんと言ってもそれまでの教育方法であった口述、筆記に図書が 教科書として使用されるようになったことであるが、図書の教育的意 義はむしろ教科書以外の出版にあったといえよう。それは家庭の文庫 となり、学校の図書室、図書館となり、社会の図書館移動文庫などと なってあらわれたのである
16。
このように記した上で、城戸は図書教育としては教育的価値のある良書 の出版が第一の問題であるが、そのためには図書の選定や読書会の組織が 必要であるとし、読者群への指導や社会教育の計画化が求められるとして いる。この項目では、国民教育としての図書教育においてどのような取り 組みが求められるかが専ら述べられており、学校図書館については、指導 性を持たせることは社会教育においては難しく、「それが学校図書館でな い限り、それに指導性を持たせることは甚だ困難である」と述べるに止まっ ている。
以上を踏まえると、城戸は以下の3点から学校図書館が読書指導を担う
可能性を想定していたのではないだろうか。
1. 児童文化の発展には教養が必要であり、そのために読書指導が必要で ある
2. 一般の家庭においてそれを要求することが困難であるから、学校にお いて行うべきである
3. 学校で指導するために独立した児童図書館もしくは学校図書館が必 要である
これらの発想は、戦後の城戸が国立教育研究所で『図書教育』の刊行を 始めて以降、図書教育について発言する際の根拠となっていると思われる。
なお、『生活技術と教育文化』では初版から、城戸の教材や教具に対す る考え方「教具史観」が提示されている。これは教具を「教育の方法また は手段として使用される道具」であるとしながら、教材を教えるための補 助的な道具としてではなく、それ自体も教材となることを提示した。その 上で城戸は、『生活技術と教育文化』で次のように述べている。
而して道具の社会的意義には同時に歴史的意義が認められるので あって、道具の世界は個人の工夫によって創造されたのではなく、文 化の蓄積によって発展したものである。従って文化の歴史は社会生活 機関としての道具の発達に認められるのであって、文化史は要するに 道具史であるとも考えられるのである。而して教育が生活技術の方法 を教える方法であるとすれば、教育の発達は道具の使用を教えると同 時に教育の方法として新しき道具を使用し工夫することにあるといわ ねばならぬ。(略)教育の発達を考えるならば教育史は教具史として 観らるべきものであろうと思う
17。こうした考えに基づき、『生活技術と教育文化』の後半では教科書以外
の教具を用いた教育として、映画教育や放送教育を取り上げて論じている。
学校図書館は直接登場しないものの、様々な教具を用いて教育を行おうと するところは、学校図書館が多様な資料を提供して教育を支援する機能と 通じるところがあると言えるだろう。
4. 『図書教育』での発言や関与
占領期前後、城戸は治安維持法違反で検挙され、法政大学を追われる。
終戦直前に釈放され、城戸は国立教育研修所の所長として招かれ、教育刷 新委員会などの委員を務めた。戦前要職にあった人物の戦争責任を問う公 職追放の動きで、1947年12月に教育研究所の所長を辞職し、教育に関わら ないように注意を受けるものの、CIEの国語読み書き能力の調査に技術員 として関わるなど、教育分野に関わりつづけた。
このような状況の中で、発行されたのが『図書教育』という雑誌である。
国立教育研究所の初代所長の日高第四郎によれば、「従来、放送教育映画 教育等に対して全く閑却視されて来た「図書教育」の方法に関する研究部 門を確立すること」となったため、「図書教育研究協議会」を結成するこ ととなったという。同会の目的は“図書教育に関する研究調査をなしその 結果の普及に努める。図書教育に関係する機関、団体との連絡をはかり優 良図書の普及に協力する”とされた。同協議会の事業としては、調査研究 や優良図書の選定、雑誌『図書教育』の編集指導が挙げられている
18。『図 書教育』の編集は、同協議会の下部組織である図書教育研究会が担当して いた。雑誌発行者である目黒書店の存在があるにもかかわらず、集団編集 グループとしての図書教育研究会を結成したのは、雑誌発行と編集企画と を分離するためであったという。
この図書教育研究会において城戸は委員長を務めた。単に名義貸しとし
ての編集長ではなく、『図書教育』で寄稿するだけでなく、座談会の司会
をつとめるなど活発な活動を行っていた。城戸は創刊号の巻末で、『図書 教育』について次のように述べている。
図書教育の研究は自分が文部省教育研修所長在任中一早く構想した が実現を見なかったもの。今回国立教育研究所がこれを取上げ、図書 教育研究協議会を創設し、準機関誌「図書教育」の編集指導をするこ とになったことは、日本の教育研究に新しい分野を開拓する快事であ る
19。
城戸は第1巻第2号において「図書館で見る社会科学習の生態」と称す る、駿河台図書館長の坂本健二、再生児童図書館主事の大門潔との座談会 で座長を務めた。城戸自身は進行役であったためか、それほど多くの発言 をしていないが、社会科学習において現状では学校教育の側も図書館の側 でも十分対応できていないこと、学校で図書館の利用法についての教育が なされていないこと、出版事情による資料の不足などの発言を残りの二人 から引き出している
20。
その後、城戸は第2巻第1号で「学習指導と図書館」という座談会で今 度は中学校、高等学校の教員を招いて座談会を開催している。主たる目的 は坂本、大門による批判に答えるという内容だった
21。ここでも城戸は司 会役であったため、個人的な考えを述べる箇所は限られているが、何でも 図書で解決しようとする向きをとがめたり、学校図書館のための教員養成 が必要である、教員の側で図書を分類する際には高い教養が必要で一筋縄 ではいかないだろう、といった主張を行っている。
第2巻第3号では「いかに読むべきか」という記事
22で、自身の経歴を
振り返りながら、図書教育の問題において、生徒に何を読ませるべきかに
ついては、子供が何を読んでいるかの把握、児童読み物の歴史、読書指導
の計画、学校図書館館の経営など様々な問題を扱う必要があるが、現状の 大学における教員養成ではここまで取り扱うことが難しいという問題点を 指摘している。前2回の座談会とは直接関連はしていないが、図書教育を 取り巻く問題を何とかして解決できないかと模索している向きが見受けら れる。
ただし『図書教育』において、城戸が手がけた記事は以上であり、実際 の解決法が提示されるまでには至らなかった。根本彰が指摘するように
23、
『図書教育』では著名な教育学者からの寄稿が行われていたが、その内容 は自分の読書体験を述べる程度であり、図書教育の議論を深める目的は必 ずしも達成されていなかった。
そして、『図書教育』は第2巻第8号(1950年10月号)以降、編集人や 執筆陣が大きく変更となり、第3巻第2号(1951年2月号)をもって休刊 となった。目次や編集後記の記述を見る限り、城戸は第2巻第8号から編 集を離れたと思われる。
2ヶ月の中断を経た後に出版された第2巻第8号(1950年10月号)にお いては、都合により編集人が城戸幡太郎ら、『図書教育』を発行していた 目黒書店の目黒謹一郎へ変わったと記載され、編集体制や執筆陣が大きく 変更となった。それまで目次に掲載されていた図書教育研究会・図書教育 研究協議会委員の氏名一覧が、この号を境に姿を消している。原稿を寄稿 している執筆陣に関しては、少なくとも図書教育研究会・図書教育研究協 議会のメンバーは執筆していないし、それ以外の部分でも、小川芳男、阪 本一郎といった一部の重複はあるものの、ほぼ一新された。
この原因としては、城戸が依頼されていた北海道大学の教育学部開設が
本格化してきたことにより城戸が多忙となってしまったことが考えられ
る。城戸以外の図書教育研究会・図書教育研究協議会の城戸の人脈によっ
て寄稿していたと考えられる
24ため、大きく執筆陣を変更した上で、最終
的には休刊せざるを得なかったのではないだろうか。
これ以外にも『図書教育』の発行には困難があった。例えば、国立教育 研究所の予算不足で学校図書館への予算が獲得できなかったこと
25が分 かっている。また1950年から全国学校図書館協議会(全国SLA)が機関誌 である『学校図書館』の発行を決定したことで、『図書教育』の発行の意 義が薄れたこと
26も継続に際して問題となったであろう。
いずれにせよ城戸はその後、全国SLAが発刊した『学校図書館』には1 号の寄稿を除いては全く関わらず、北海道大学の教育学部開設や北海道で の教育活動に関わるようになっていく。城戸は北海道大学の教育学部開設 に関わり、その後も北海道教育に長く関わった
27。
5. 北海道大学教育学部長時代の城戸の活動
北海道教育に関わる中で、城戸は視聴覚教育に関して各種運動団体の設 立に関わった後、1954年秋には、北海道視聴覚教育研究会と放送教育研究 会北海道連盟、北海道学校図書館協議会の三団体が提携した、北海道図書 放送視聴覚研究協議会の設立に携わった。1955年2月には連絡協議会の機 関誌である『新しい教材』が『北海道視聴覚教育』を引き継ぐ形で刊行を 開始し、城戸は理事長発行責任者として名前を連ねた。
同誌創刊号(第3巻第3号)で城戸は様々な教材を生徒の生活経験と結 びついた第一次教材、経験する事柄のうちに一定の法則性を持つ第二次教 材、解決の方法を考えさせる実践的知識を含んだ第三次教材の3段落に分 け、“有効な教具を総合的に使用すること”の重要性・必要性を主張して いる。その上で、城戸は“学校図書館だけは充実していても、視聴覚教具 が十分に利用されなかったり、視聴覚教具は充実していても、学校図書館 が貧弱であったりしては、学習の指導は偏跛になり、教育は偏食されて、
生徒の教養はかえって栄養失調におそれがある”
28としており学校図書館
以外の設備も充実していることが重要だと述べていた。以上の記述では、
視聴覚教育と学校図書館における教育の結びつきが、学習効果を上げるた めには「縦割り」にしてはならないという言葉を付け加えて強く主張され ている
29。
『新しい教材』誌上では、城戸は下記の通り、僻地における学校におい て学校図書館が必要である旨を指摘している。おそらくは協議会に関わる 三団体への配慮があったと思われるが、自学自習のための読書指導や、そ れを支える私設としての学校図書館という点は重要な指摘だと思われる。
自学自習を訓練するには読書指導が必要であるが、それを効果的に するにはどうしても図書室の整備が必須条件になる。小さな学校を設 計するには最初は施設費を要しても、図書室だけは別に設ける必要が ある。教員を一人増員するよりも、図書室を設ける方が経済的でもあ り、教育的でもある。そして更に学習の効果をあげるために視聴覚教 具の利用が必要で、ことに放送を利用することは教師の手不足を補う には有利である
30。
ただし、この『新しい教材』も1年で休刊となる。城戸が“本道の視聴 覚教育と図書教育も地についてきたように思う。もう啓蒙やサービスの時 期では無いように思う”
31としていることから、別途結成する研究会の報 告を『新しい教材』に掲載しようと試みたようだが、少なくとも『新しい 教材』ではそのような報告は見られなかった。
「教育は偏食されて、生徒の教養はかえって栄養失調におそれがある」
とする主張については、城戸は1954年の『学校図書館』に対して行った寄
稿記事「学校図書館人に望む」でも同様の主張を行っている。
終戦後は中学校が義務制になったために校舎の増設が必要になった ところが新設の校舎を見ると、財政的な制約にもよるが、教室をマッ チ箱を並べたように造った学校が至るところにでき上がってしまっ た。
これでは新教育には図書館教育が必要だといってみても図書館の設 けようもない。
貧乏なら貧乏なりに、生活の設計に応じて住宅は設計されるのであ るが、学校は教育の計画とは無関係に設計されている。これは財政だ けではなく、教育が貧困だからであ
32る。この教育の貧困は教育の偏 食から教養の栄養失調をあらわすことになる。教科書さえ読んでれば それで教養は充分だと考えているのが現状であろう。教科書だけで学 習の効果がおさめられるのであれば、学校図書館などわざわざ設ける 必要はあるまい。
このことはいわゆる学校図書館人には、釈迦に説法であろうが、学 校図書館ができてもその運営には研究を要する問題は多い。ここで特 に注意しておきたいことは図書館教育が偏食教育にならないことで、
それには教科教育にしろ、生活学習にしろ、一つの教材を学習させる にはそれを充分に理解させるに必要な教具を有効に総合して利用する ことで、教科書だけでは充分に学習させられないものを補うと同時に、
新して教具によって新しい教材が考えられることにもなるのである。
ことに僻地の小さな学校での学習指導は図書館教育を中心とし、そ れに視聴覚教具を利用すれば教師の手不足を、補うこともできるであ ろう
33。
何か特定の教具だけを整備するのではなく、バランス良く整備していく
ことの重要性を主張していると言えよう。このように、城戸は戦前にL. C.
Fargoについての文献を検討し、現在の学習・情報センターの機能に繋が るような考え方を持っていた。その後の学校図書館界においても当然発言 が求められるような人物であったと思われるが、これ以降、教育一般、特 に高等教育について発言を多く求められるようになったためか、図書教育 ならびに学校図書館について積極的に論じた記事は見られなくなる。
6. おわりに
以上の検討の結果、城戸幡太郎は教科書以外の様々な教具を、総合的に 活用することを主張しており、学校図書館は自学自習を訓練するための読 書指導を支える場所と考えていたことが分かった。またL. C. Fargoの文献 に触れていたり、僻地の学校には図書室を設けるべきだとも主張しており、
おそらく、学校図書館に関しても一定の理解があったと思われる。そして、
各種研究団体の設置を行い、学校図書館研究を促す土台作りに携わってい たことも分かった。また、単に学校図書館のみの充実だけを強調している のではなく、国民教育の文脈であったり、自学自習の観点であったりと、
教育全体の文脈から、学校図書館を充実させるべきとしている点は注目に 値する。
一方、教育学全体での発言や貢献と比べると、城戸の学校図書館分野へ の貢献はそれほど目立ったものではない。全国SLAの『学校図書館』や、
その後の学校図書館法制定運動にも関与していないことから、学校図書館 界への影響はそれほど大きいものではなかったと言えるだろう。
しかしながら、当時の教育界で発言力を持っていた城戸が図書教育とい
う観点から、学校図書館に関心を持ち、一時は研究会を立ち上げるほどに
関わり何か特定の教具を特別扱いするのではなく、バランス良く整備して
いくことの重要性を指摘していたことや、教育全体の文脈において学校図
書館を位置づけようとして点については、当時の状況として踏まえておく
1 坂田仰, 黒川雅子, 河内祥子. 「補論 司書教諭の現状と教職員の司書教諭に対する 共同意識—問われる司書教諭の存在意義—」p. 185-192, 坂田仰, 黒川雅子, 河内祥 子(編)『学校図書館の光と影: 司書教諭を目指すあなたへ』 八千代出版, 2007.
2 中村百合子. 占領下日本の学校図書館改革—アメリカの学校図書館の受容. 慶應義 塾大学出版会, 2009.
3 野口久美子. 滑川道夫読書指導論の特徴に関する一考察. 日本図書館情報学会誌, Vol. 54, No. 3, p. 163-187, 2008.
4 鈴木秀一, 広川和市. 城戸幡太郎先生著作・論文目録-城戸幡太郎先生卒寿記念. 北 海道大学教育学部紀要, p. 91-109, 1984.
5 高橋智. 城戸幡太郎の教育科学と障害児教育理論の研究 — 障害児教育における
「近代化」と「現代化」の歴史的位相. 東京都立大学, 1998. などが挙げられる。
6 例えば,高桑康雄ら. 第2次世界大戦前における城戸幡太郎の映画教育・放送教育 論—視聴覚教育史上の城戸幡太郎-1-. 上智大学教育学論集, p. 40-74, 1992. など が挙げられる。
7 城戸幡太郎. 教育科学七十年. 北海道大学図書刊行会, 1978, p. 20-21.
8 吉田拓也「新学習指導要領を意識した学校図書館における教育の情報化の一考察」
『日本私学教育研究所紀要』Vol. 50, 2014, p. 105-108.
9 鈴木修一,広川和市. 前掲 10 城戸幡太郎. 前掲書, p. 275-276.
11 城戸幡太郎. 生活技術と教育文化. 賢文館, 1939, p. 46-47.
12 同上, p. 48-49.
13 同上, p. 55-56.
14 同上, p. 56.
15 城戸幡太郎. 生活技術と教育文化. 萬里閣, 1946. p. 4-5.
16 同上, p. 77-78
17 城戸幡太郎. 生活技術と教育文化. 賢文館, 1939, p. 145-146.
18 [図書教育研究会]. 図書教育研究協議会生れる. 図書教育, Vol. 1, No. 1, p. 48-49, 1949.
19 [図書教育研究会]. 編集会議. 図書教育, Vol. 1, No. 1, p. 58, 1949.
20 坂本健二, 大門潔, 城戸幡太郎. 図書館でみる社会科学習の生態. 図書教育, Vol. 1, No. 2, p. 40-46, 1949.
21 城戸幡太郎[ほか]. 学習指導と図書館(座談会). 図書教育, Vol. 2, No. 1, p. 23-32, 1950.
22 城戸幡太郎. いかに読むべきか. 図書教育, Vol. 2, No. 3, p. 5-7, 1950.
23 根本彰. 占領期における教育改革と学校図書館職員問題. 戦後教育文化政策におけ る図書館政策の位置づけに関する歴史的研究(平成14年度・15年度科学研究費補 助金(基盤研究C(2))), p. 1-31. 東京大学大学院教育学研究科図書館情報学研究 室 研究代表者 根本彰, 2005. p. 11を参照。
24 メンバーの多くは岩波書店の『教育』に関わった教育科学研究会のメンバーとも 重なっている。
25 この当時の国立教育研究所の研究予算は逼迫しており,1950年度の研究予算とし て学校図書館の研究も含めた予算案が要求されていたものの,実際には学校図書 館の研究については予算化されなかった(国立教育研究所. 国立教育研究所十年 の歩み. 国立教育研究所, 1961. p. 166-174を参照。)。
26 1950年3月の全国SLA創立研究大会の席で『図書教育』を機関誌とするのではなく,
自分たちで作った『学校図書館』を機関誌とすることが決定されたという(松尾 彌太郎ら. 座談会・全国SLA結成の頃. 学校図書館, No. 362, 1980, p. 11-24.)。
27 高桑康雄. 北海道大学時代における城戸幡太郎の視聴覚教育・放送教育振興の活 動−視聴覚教育史上の城戸幡太郎-2-. 情報と社会, No. 7, p. 11-26, 1997.
28 城戸幡太郎. 教材・教具・指導力. 新しい教材, Vol. 3, No. 1, p. 2-5, 1955. 発行:北 海道図書・放送・視聴覚・研究協議会. p. 5を参照。
29 もちろん,北海道という一地域を対象にした運動だったという限定はあるものの,
城戸幡太郎が視聴覚教育に限らず教育学全般に影響力を持っていた人物であった ことを考えると,この発言も当時の視聴覚教育の中では一定の影響力があったと 思われる。
30 城戸幡太郎. 僻地の学校と生活教材. 新しい教材, Vol. 3, No. 8, p. 2-4, 1955. 発行:
北海道図書・放送・視聴覚・研究協議会. p. 4を参照。
31 城戸幡太郎. 教育の研究はなぜ進歩しないか, Vol. 3, No. 12およびVol. 4, No. 1の 合併号, p. 1-3, 1956. 発行:北海道図書・放送・視聴覚・研究協議会. p. 3を参照。
32 本文では「でもる」とあるが「である」の誤植だと思われる。
33 城戸幡太郎. 学校図書館人に望む. 学校図書館, No. 51, p. 14-15, 1955.