九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
改稿 沾德年譜考証 : 元禄末年まで
白石, 悌三
http://hdl.handle.net/2324/4755957
出版情報:雅俗. 2, pp.110-140, 1995-01-10. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
寛 文 二 年 壬 寅 一 歳
0
江戸で生まれる︒姓は門田︑のち水間︵﹃水精宮﹄︶︒名は友兼︑通称は治郎左衛門︵﹃俳家大系図﹄︶︒追善集﹃水精宮﹄の仙鶴序︑﹃桑々畔発句集﹄所収の貞佐追悼句にいう享年六十五を逆算すると︑この年の誕生
にな
る︒
塚本虚明﹁水間泊徳墓碑改修成れるに就き﹂︵﹁倦鳥﹂昭和
13
.5
)
によれば︑大正大震災の後に再建された法恩
寺の墓の撰文に﹁泊徳者東府之人其先出自泉州水間而松瀬青々先生継母実属其後裔﹂とある由︑真偽を明らかにし
ない
︒ 延 宝 五 年 丁 巳 一 六 歳
〇調也︵露︱︱︱口︶に師事し︑そのお伴で︑このころ磐城平城主内藤義概︵風虎︶の江戸邸に参上︑嗣子義英︵露油︶の知遇
を得て俳号を賜る︒
竹内玄玄一著﹃俳家奇人談﹄に﹁水間次郎左衛門は江戸の人︒その磨工たりし時より︑俳諧を好んで︑露言を師
とす︒をりふしは風虎・露油の二公の御側にも列なりしが︑一年飛鳥井雅章卿︑和歌の事により︑奥の岩城へ左遷
の時︑露公その鬱悶を慰めまゐらす御伽のものを撰ばせらる︒しかれども皆荒々しき武夫の身ゆゑ︑公家上達の相
畠 油 徳 年 譜 考 証
I
元禄末年まで││
白
石
悌
手には応ぜず︒いかがすべきと思案のをりから︑次郎左術門を進むる者あり︒すなはち召出だされて︑爾々の旨語
り聞せ︑剃髪せしめて︑名を友斎と改めらる︒彼の卿三年ほど配所におはしけるに︑朝夕御側に侍りて和歌の道︑
古き事など憚りなく尋問せりとぞ︒ほどなく帰洛し給ふの頃︑友斎にむかつて曰ひけるは︑汝かならず和歌にたづ
さはるべからず︒ただ俳諧のみ修業すべしと︒その生れながらにして滑稽のオある事しんぬべし︒ただちに露公の
教へを受く︒はじめ露葉といひ︑後油徳と改む﹂とある︒
初号﹁露薬﹂というのは︑泊葉の誤り︒露薬は︑風虎の義弟諏訪忠晴の俳号である︒露油門の泊涼編﹃綾錦﹄に︑
泊徳は﹁露泊公門︑元露言門﹂︑露言は﹁露泊公門︑元調和門﹂とし︑﹁御表徳ノ両字一字宛露言・油徳二下ル﹂
と記している︒露言は風虎編﹃桜川﹄︵延宝二年成︶にも福田調也として入集しており︑調和門であることを示し
ている︒露言と号するのは延宝六年刊の﹃俳諧江戸広小路﹄﹃俳諧江戸通町﹄﹃江戸新道﹄からで延宝四年までは福
田政孝︵﹃続連珠﹄︶または調也︵﹃誹諧当世男﹄︶で入集している︒とすれば露・油の各一字を戴いて露言・泊葉と
号したというのは延宝六年ごろで︑露泊・泊槃の俳壇登場とほぼ一致する︒それ以前に調也に師事したといっても
手ほどき程度で︑入集歴などなく︑油葉が実質的な初号であろう︒﹃泊徳随筆﹄にも﹁露言が点に︑遊女名よせ俳
諧百韻来りしに︑或は吉野︑或は夕霧などといひて一句に俳言なきを︑名所にし︑霧を季に用ひたる︒俳言なくて
はと側の人問ひしに︑名にいひたるが俳諧なりと露言いひしは︑一代の発明なり﹂とあるのみで︑露言に師礼をとっ
たような記述はないし︑処女撰集﹃俳林一字幽蘭集﹄にも三二三人︑八ニニ句を収めて露言は一句︑総花中の一輪
でしかない︒にもかかわらず露言との関係を無視できないのは︑以下に見る泊葉時代の入集が︑露言と軌を一にし
て調和系の俳書だからである︒﹃綾錦﹄に﹁露泊公門﹂というのは露泊退隠後の記事であり︑当時の露油は当然な
がら宗匠的立場になかった︒露・泊の各一字を戴いても︑露言は調和門︑泊葉は露言門であることにかわりなく︑
露︱
一日
を唯
一の
窓と
して
泊葉
は俳
壇に
登場
する
︒
延 宝 六 年 戊 午
▽言水編﹃江戸新道﹄︵八月奥︶にFB油葉の発句二入集︒
延 宝 七 年 己 未
●十月十二日︑飛鳥井雅章没︒
﹃俳家奇人談﹄に﹁飛鳥井雅章卿︑和歌の事により︑奥の岩城へ左遷の時﹂というのは︑たとえば土肥経平編
﹃風のしがらみ﹄に︑﹁寛文元年大納言雅章卿関東下向のとき︑大磯にたれ名付けしにや鴫立沢といふ所あり︒こ
こにて︑︿あはれさは秋ならねども知られけり鴫立沢のむかし尋ねて﹀︒この辺にいとおもしろく住みなして侍る
僧にかたりよりて︑︿心あれやあるじゅかしく住みなして鴫立沢に結ぶかり庵﹀︒大納言帰洛し給ひて︑この歌ど
も叡覧に備へられしに︑西行法師の︿心なき﹀の歌は︑いづくにもあれ鴫の立ちゐし沢にて︑こことさしてよめる
にはあらぬを︑今この所を鴫立沢といふ名所になしてよめる事︑大なる僻事なりとて︑しばし出仕をとめられける
とぞ﹂と伝える事件に相違ないが︑寛文元年は油徳の生まれる前年である︒こころみに︑同二年から飛鳥井雅章の
没年までの動静を歌会記録に探ってみたが︑岩城左遷を裏付けるような三年間のプラソクはどこにも見出せない︒
ところで慶長十四年︑後陽成天皇の官女五人と公家七人の密通事件が発覚し︑公家の二人は死罪︑五人は流罪の
刑に処せられた︒その五人の中に飛鳥井雅庸の長男・次男がふくまれている︒長男雅賢は隠岐に流され︑寛永三年
その地でなくなったが︑伊豆に流された次男の難波宗勝は三年後の慶長十七年勅免となり︑名を雅胤と改め飛鳥井
家を嗣いだ︒三男雅章はこの兄の嗣子として育ち︑その跡を嗣いだ︒難波宗勝の伊豆配流には異説があり︑大須賀
次郎著﹃磐城史料﹄にみえる岩城配流説もその︱つで︑﹁配所は菊多郡上遠野にあり︵今︑円通寺の役寺前なる畑
を里老相伝へて飛鳥井圃といふ︑是なり︶︒⁝⁝相伝ふ︑少将配所にて庶女二人を儲けらる︒慶長十七年勅免帰洛
の時︑伴ひ帰らる︒別れに臨み一首の悲歌を便面に書して箕孵に侍せし女に与へらる︒其歌伝はらず︒惜しむべし︒
一八
歳
一七
歳
配所の徒然を慰めんとて時々伺候せし者共へは︑帰洛の時に︑汝等伊勢参宮に上らば︑必ず吾館へも立寄るべしな
ど︑懇ろに留別の辞ありしと﹂と︑口碑を伝えている︒もとより内藤家の岩城入国以前のことで︑泊徳は生まれて
もいない︒飛鳥井家十五代雅胤︵のち雅宜︶と十六代雅章の︑兄弟それぞれに有名な伝説が混同されたのである︒
﹃泊徳随筆﹄には﹁予おもふに︑むかし飛鳥井雅章卿の関東下向の頃︑︿かたりつぎいひつぐや誰をよぶべきこ
とのはもなき不二の高根は﹀といふ歌まことにしたはるるなり﹂という記述がある︒雅章は万治四年から寛文十年
まで武家伝奏を勤めており︑関東下向はその間のことである︒風虎には雅章の批点を受けた詠草があり︑岩城でな
くとも江戸で親灸の機会を持ったであろうが︑油徳は寛文十年には十歳未満で︑直接歌学を聞くには幼すぎたし︑
お伽に出るにもまだ内藤家との縁が結ばれていなかった︒﹃俳家奇人談﹄にいうところは誤伝である︒
0
このころ︑素堂の手引きで林家に入門か︒﹃油徳随箪﹄に﹁山素堂子︑去る中秋にみまかりぬ︒年行き指折りて驚く事あり︒予を入徳門に手を引きそめて
四十年︑机上の硯をあたへて三十年︑今に持ち来りて窓下に置く﹂という︒素堂の没した享保元年から遡って四十
年といえば延宝五年に当り︑油徳が内藤家の俳諧サロソに出入りを始めたころである︒素堂や幽山はそのサロソの
常連であった︒﹁入徳門﹂とは林家の私塾であった上野忍岡の孔子廟の外門で︑入門にはもとより内藤家の推挙が
あったと思われる︒林家門人帳﹃升堂記﹄には正獣先生︵林鳳岡︶の元禄六年の条に山口素堂︑同七年の条に水間
油徳の名が見えるが︑小高敏郎も延宝末年二十歳前後の入門とみて︑﹁升堂記に鳳岡門となっていても︑素堂と同
じく︑実はその父鵞
峰門
下で
︑
鵞峰没後になってその嗣をついだ鳳岡にも師礼を執ったと考えたい﹂︵﹃近世初期文
壇の研究﹄︶という︒﹁四十年﹂というのは概数であろうが︑素堂との出会いから起算すればぴたりと符号する︒
素堂は延宝六年夏から七年春まで長崎に出かけており︑江戸に帰って官を辞し不忍池畔に退隠し︑同八年から素堂
と号して先ず幽山編﹃誹枕﹄に序を記している︒とすれば︑林家入門に素堂の手引きがあったというのは延宝七・
八年のころであろう︒﹃誹枕﹄入集も素堂の取り持ちによる︒
辛酉 ▽調和編﹃富士石﹄︵四月序︶に
r E
油葉の発句六︵句引五︶入集︒
以後︑門田姓を見ない︒
▽オ丸編﹃麟坂東太郎﹄︵十二月序︶に泊葉の発句一
0
入集
︒ 延 宝 八 年 庚 申
0
このころ︑風虎の帰国に従い岩城に下るか︒﹃俳林一字幽蘭集﹄︵元禄四年刊︶の露油序に﹁かれは先年岩城にくだり︑此道にくるしみ侍りて風虎君の心を
うけつぎ﹂といい︑集中の油徳発句にも﹁岩城に住侍りし比︑江戸に来りて/夏山を出てあかるしもとの江戸﹂
﹁岩城に住侍りし比︑友にとはれて/君火をたけ我菜をつむも薮の中﹂という岩城滞在には︑﹃金剛砂﹄と﹃御田
扇﹄の間の空白期を当てることができる︒﹃金剛砂﹄の刊行年月は正確にはわからないが︑﹁岩城へまかるとて/
江戸を出てけふこがね原ぬのこ風﹂という泊葉発句が入集しており︑同集の編集以前に岩城に下ったことが知られ る︒このことは内藤家への出仕を意味するだろう︒門田から水間への改姓もこの時機に想定することができる︒
﹃水精宮﹄の仙鶴序に﹁弱冠のむかし岩城の大守風虎君に親灸して一道御伝受成けらし﹂というのも︑この間のこ
とであろう︒
▽幽山編﹃誹枕﹄に油葉の発句一入集︒
▽調和編﹃金剛砂﹄
J.
に油葉の発句五入集︒q
天和元年九月二十九日改元二
0
歳一九
歳
天 和 二 年 壬 戌
●九月八日︑山本春正没︒
﹃水精宮﹄に淡々・仙鶴両吟の自注半歌仙があり︑仙鶴によれば﹁淡子は油徳を以て句とし︑予は其角を以てこ
れに次ぎ︑互にかはるがはる師の在世を語りあひ行く﹂趣向という︒その淡々付句﹁磨出しの和歌の浦波わたり鳥﹂
の注に︑﹁徳ガ歌道ハ春正二学ブ︒上五文字ハ春正卜云ハソガタメナリ︒下五文字ハ春正ガ道︑琉球二及ブコトヲ
述ブ﹂という︒春正は蒔絵師としても知られ︑研ぎ出しの洗練された作風で︑春正派の祖と位置付けられた︒﹃俳
家奇人談﹄の﹁磨エ﹂説は︑このことと関係があるかもしれない︒﹁和歌の浦波わたり鳥﹂はその蒔絵模様に︑歌
道が遠く琉球に及んだことを言い掛けたものというが︑そのことは﹃文翰雑編﹄所収の自然法師や伊藤仁斎の春正
追悼文にもみえる︒入門は︑水戸徳川家と風雅の交わりをもつ内藤家の推挙によるもので︑素堂の手引きがあった
かもしれない︒春正没後は清水宗川に学び︑同門の原安適にも兄事した︒春正・宗川は水戸家に出仕して﹃正木の
かつら﹄の編撰︑万莱集校勘の業に従事し︑安適もその助手を勤めたという︒油徳は直接間接にかかわったこの両
大名家の風雅を﹁蝉鳴くやその人がらも水戸岩城﹂︵﹃金龍山﹄︶と追慕している︒
もっとも春正については﹃泊徳随筆﹄に﹁この歌︵おく山にたてらましかば渚こぐ船木も今や紅薬しぬらん︶を
以て︑春昌は船木と名字せしなり﹂と言及しているだけで︑実際には露油を介して宗川に学ぶところが大きかった
と思われる︒宗川は早くから雅章の門にあり︑同随筆に多い堂上歌壇の記事も宗川からの聞書きであろう︒﹃俳家
奇人談﹄の誤伝もこのあたりに発生の素地があった︒なお付言すると︑泊徳は和歌にも俳諧に対すると同様の趣向
性を重んじて﹁エにして力ある歌﹂を求めており︑﹁やすらかに幽言によむも︑作意なくてはよまれず︒先づ作意
を専らにする事なり﹂︵﹃油徳随筆﹄︶と説いている︒創作にも鑑賞にも︑古詩・古歌を転ずる工夫や見立てを強調
して︑歌壇の趨勢とは趣を異にする︒
▽心友編﹃御田扇﹄Jに油薬の発句三入集︒ 二︱歳
貞 享 二 年 乙 丑
●九月十九日︑風虎没︒内藤義孝︵露泊の異母弟︑露江︶襲封︒
露泊廃嫡により内々決意していたことだが︑油徳はこれを機に内藤家を致仕したと推定される︒﹃俳林一字幽蘭
集﹄の露泊序に﹁風虎君の心をうけつぎ︑予とおなじく道をたのしみ侍れば﹂というのも︑家督を嗣がず︑仕官を
続けなかったの意ではないか︒
代りに甥の水間伊六を新君に出仕させたか︒この甥については︑泊徳も一座する﹁仙台大崎八幡宮宝殿奉納
額誹諧歌仙写一巻﹂︵雄淵編﹃口破靡弓﹄所収︶の﹁額裏書﹂に︑
内 藤 下 野 守 露 泊 岩 城 城 主 内 藤 豊 松 泊 城 同 家 臣 池 田 団 次 郎 泊 荷 松 田 隼 人 芳 津 三 浦 佐 助 右 巴 中 嶋 定 八 油 梅
同 同 同
天 和 三 年 癸 亥
●二月二十一日︑露泊退身︒廃嫡が決まり︑麻布六本木の別邸に移る︒
▽調和編﹃誹諧題林一句﹄︵五月奥︶に泊葉の発句三入集︒
貞 享 元 年 甲 子 二 月 二 十 一 日 改 元
▽子英編﹃麟花時鳥﹄に泊葉の発句二入集︒
ニ四歳 ニニ歳二三歳
古
立 油薄
由 圃
之
︵ 以 下
︑ 略
︶
﹁享保三年八月十五日実政記﹂と署名する︒実政は︑一座の主催者とおぼしき大崎八幡宮別当﹁仙台龍 宝寺梅国﹂であるから︑信じるに足る作者付と思われる︒この連衆は享保七年の﹃誹諧大三ツ物﹄にも︑同八年
の其角十七回忌︵湖十編﹃月の鶴﹄にも︑同九年の露油古稀の雅筵︵﹃露油俳諧集﹄︶にも一座しており︑一瓢庵露
喬編﹃麟反古さかし﹄︵天明四年刊︶の﹁俳諧尊卑故人列伝﹂には︑
〇 御 門 弟 油 徳 甥 齢 六 十 ニ テ 卒 水 問 氏 千 香 洞 油 薄
源氏など是とする妻や後の月
夏切の今参り也蒼鷺の声
と記されている︒﹃磐城史料﹄に﹁油徳の甥︑水間氏紋太夫﹂というのは論拠を知らない︒
〇剃髪し︑俳諧師として立つ決意を固める︒
▽調実編﹃麟白根嶽﹄︵一月序︶に油薬の発句一入集︒
以後︑油葉の号を見ない︒再出の油葉は門人による襲号であるが︑大高子葉の初号と見なす稀書複製会本﹃ふた
つ竹﹄の解説は疑わしい︒
▼調和編﹃麟ひとつ星﹄︵十二月序︶に入集せず︒
油徳ははじめて露言と軌跡を分かって入集しなかった︒露油の廃嫡︑風虎の死去によって︑内藤家の俳諧サロソ
は解体し︑俳壇は蕉門世代を中心とする貞享新風へと移行しつつあった︒時に露泊三
0
歳︑露言五六歳︑油徳二四歳︒露油は以後︑積極的に蕉門と近づき︑露泊の動きに従えない旧世代の露言は︑調和が一時俳壇を退いて前句付
の点に専念したので︑鳴りをひそめ︑油徳は晴れて﹁露泊公門﹂としての行動を起こす︒
とあ
り︑ 同 同保生左太夫 同水問伊六
貞 享 三 年 丙 寅
0
歳旦吟﹁法鉢の翌年試筆/元日の法師は花の夫哉﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
歳暮吟﹁仇にくらしけふ門松の揃ふ迄﹂︵﹃泊徳随筆﹄︶貞 享 四 年 丁 卯
0
俳諧宗匠として立机し︑新たに油徳と号する︒前引の﹁机上の硯をあたへて三十年﹂を素堂没年から逆算すると︑この年になる︒﹃俳林一時幽蘭集﹄所収の闇
幽発句に﹁油徳万句し侍ける時︑巻軸の発句望侍りしかば申つかはしける﹂というのも立机披露の万句興行で︑風
虎一周忌も過ぎたこの年︑素堂の後見によって立机したことを意味するだろう︒もとより露泊の後援があった︒閾
幽は諏訪忠晴の嫡子忠虎︒母は内藤忠典の養女だから︑風虎の義理の甥にあたる︒泊徳号による初入集は其角編
﹃続虚栗﹄で︑素堂の序を有する︒其角との末永い提携も素堂の仲介に始まるものであった︒
0
歳旦吟﹁家にある蓬莱作り覚えけり﹂︵﹃泊徳随筆﹄︶0
﹁春興﹂の六吟歌仙に一座︒︹連衆︺露油・其角・油徳・露荷・嵐雪・虚谷︵﹃続虚栗﹄︶0
四月八日︑其角の母没︒追悼吟﹁眉ひらく為に手向よかきつばた﹂︵﹃続虚栗﹄︶0
九月︑露油邸にて芭蕉帰郷餞別七吟歌仙に一座︒︹連衆︺露油・芭蕉・油蓬.其角・露荷・油荷・油徳︵﹃伊賀餞別﹄︶▽其角編﹃続虚栗﹄(+一月十三日刊︶に発句四︑歌仙一入集︒
元 禄 元 年 戊 辰 九 月 三 十 日 改 元
0
歳旦吟﹁元日も旅人を見る大路哉﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
この夏︑露泊邸に信州諏訪城主諏訪忠晴︵露葉︶を迎え十三吟百韻興行か︒︹連衆︺露葉・露泊・江戸点 露言
・江
戸点
オ麿
.
二七歳 二六歳 二五歳
江戸
点立
志・
江戸
点山
タ・
江 戸 点 泊徳・宇八・露荷・魚子・大室油雨・岩泉・露芝︵西鶴・由平点﹁江戸点者寄合俳諧﹂︶
発句の季は夏︒オ麿は元禄二年の秋江戸を去り︑大坂に移住した︒それ以前の興行ということで︑露菓の参勤を
確認していないが︑仮にこの夏としておく︒西鶴の加点は元禄五年五月十三日︑由乎の加点も同じころだろう︒後
日︑露葉が大坂で点を請うたものらしい︒参考までに︑両点の句引を紹介する︒
西 鶴 点 由 平 点 付墨七十八︑内序七・珍重十七付墨七十六︑内長︱‑+
︵長
常吟
ニ・
長珍
一 ︶
・ 珍 重 十
︱
︱ ︱九 句 点 七
︑ 内 き
・ 珍 二 九 句 点 七
︑ 内
芝一
十 句 点 七
︑ 内 長 一 十 句 点 五
八句点七、内珍三八句皆点、内長三•長珍一・珍一
長ニ
・長 常吟 一・ 珍一 十 句 点 九
︑ 内 長三 珍二 十 句 点 九
︑ 内
長三
・長 常吟 一 八 句 点 五
︑ 内 長 三 ・ 珍 一 八 句 皆 点
︑ 内 八句点七︑内長一・珍︱︱八句点六︑内長ニ・長珍一
長 三 ・ 珍 一 八 句 点 六
︑ 内 長 ニ
・ 珍 一 八 句 点 六
︑ 内
露葉
露泊
露
l ‑
口
才麿
立志山タ
油徳
︵以
下︑
略︶
元 禄 二 年 己 巳
0
歳旦吟﹁今朝見れば発句にてはなし春の興﹂︵﹃油徳随筆﹄︶﹁拾遺愚草に︿今朝見れば歌にてもなし﹀と定家の書れしをとりたる也﹂と自解︒
0
三月二十七日︑芭蕉︑奥羽に旅立つ︒餞別吟﹁松島や名にとめられぬ春の旅﹂︵﹃俳林一字幽蘭集﹄︶0
﹃江戸惣鹿子﹄に俳諧師として︑芭蕉・幽山・オ丸・エ呻・蝶々子・調和・不ト・其角・山タ・嵐雪・露言・一晶・立志とともに﹁五郎兵衛町油徳﹂を登録︒
ニ八歳
工呻・蝶々子・山タ・嵐雪・立志・油徳の六名は貞享四年刊﹃江戸鹿子﹄にはなく︑本集ではじめて認知された︒
元 禄 三 年 庚 午 二 九 歳
0
歳旦吟﹁家をうつしてもなお市に遊ぶ︑今朝は又行く人の暖く歩むを/去年やけふ勉て休む牛車﹂︵﹃油徳随筆﹄︶﹃俳林一字幽蘭集﹄には﹁通り町に住ける比/去年やきのふつとめて休む車牛﹂とある︒旧年﹁家をうつして﹂
というのは︑通り町から五郎兵術町への転居か︑あるいはその逆か︒
〇来根川に遊んで︑﹁農家なる夜合をもらひて弊居にうつし﹂合歓堂と称した︒﹁市に出てねるを我名ぞ合歓の花﹂︵﹃俳
林一
字幽
聞集
﹄︶
芭蕉を植えて芭蕉庵と号し︑﹁此陰にあそびて風雨に破れやすきを愛﹂したのは︑素堂・其角を介してすでに親
しい桃青であった︒二人とも仕官の道に挫折してついに俳諧を業とするにいたる︑似たような過去を負っている︒
その芭蕉が﹁予が風雅は夏炉冬扇のごとし︒衆にさかひて用ふるところなし﹂といった厳しさはないにしても︑
﹁誰かすく用ひられぬを合歓の花﹂︵﹃俳林一字幽蘭集﹄︶と寓意をこめる油徳もけっして積極的な業俳ではなかっ
た︒﹃水精宮﹄所収の敬雨・仙鶴・巴人の追悼歌仙には﹁三十年来風雅の友たり︒平生清談の客たへず︑好事の乗
馬門に多し︒されど市中に閑をいだき︑常にねぶりをこのむ癖あり︒一とせ其角集に︿泊徳は枕もいらずのどかに
て﹀とものしけり︒さるゆへに︑ねぶの花を愛して堂を合歓と呼﹂の詞書がある︒俳席でも居眠りしたらしく︑
﹃花見車﹄︵元禄十五年刊︶に﹁つとめの内ねむらんせずばよかろ﹂と評されている︒﹁連歌俳諧の席にて殊に唾
のきざすはうるさし︒これらの座に限らず︑夜にても昼にても︑ふくべを木につるしたるやうに時ならずあたまを
ぶらりぶらりとふらめかすは︑其身の行跡ったなくおぼゆる﹂︵﹃京童﹄巻三︶と嫌われたものだが︑一方﹁睡癖﹂
は中国の文人趣味でもあって︑油徳の場合もその印象が強い︒乾什著﹁寝睡弁﹂︵寛保二年刊﹃庭の巻﹄所収︶に
は﹁泊徳翁は覚ずして点に妙あり﹂といい︑﹃東風流﹄︵宝暦六年刊︶所収の脇起し歌仙には︑
得 た る 哉 畑 う つ 男 眠 る 鶴 露 泊 長 閑 な り け り 水 間 油 徳 春 来
とあって︑伝説的な語り草となっている︒
0
九月十二日付︑曽良宛芭蕉書簡に﹁一︑安適老御逢御噂のよし添存候︒油徳集いかゞ出板候哉︑見申度候﹂の記事がみえる
︒
芭蕉は在膳所︒編集中の﹃俳林一字幽蘭集﹄の噂を耳にしたものか︒芭蕉は元禄六年四月二十九日付書簡でも︑
泊徳を素堂・安適ら﹁詩歌のすきもの共﹂と一括して記しており︑関心のほどが知られる︒
〇十一月上旬︑合歓堂に﹁七人百十五歳﹂を呼び集めて歌仙興行︒︹連衆︺泊徳・望月・且水・栢舟・泊化・泊帖・亀翁.
春水
︵﹃ 俳林 一字 幽蘭 集﹄
︶ 詞書に﹁予三十になり侍れば︑いまだ高年のたのしみうらやみてもはるかなり﹂とある︒
0
亀翁の﹁一夏花摘之句五十余︑寄路通坊之勧進﹂に其角序︵十二月二十五日︶︑油徳跛︒跛文中に﹁亀翁がとしは十四︑予がとしのなかばにたらず﹂とある︒
0
歳暮吟﹁世の師走見てぞこAろの 置処
﹂︵
﹃油 徳随 筆﹄
︶
▽嵐雪編﹃其袋﹄︵六月序︶に発句四入集︒
▽其角編﹃花摘﹄︵九月下旬刊︶に発句一入集︒
三 0
歳元 禄 四 年 辛 未
0
歳旦吟﹁嬉しさに寝兼て宵の年も明ぬ﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
一月二十九日︑露油邸月次興行︒参加者︑岩翁・岩泉・且水・亀翁・岩松・横几・探泉・油荷・虚谷・泊徳︒通題︑梅﹁折て後貰ふ声あり垣の梅﹂︵﹃俳諧勧進牒﹄︶
0
二月二十九日︑露泊邸月次典行︒参加者︑泊荷・其角・岩翁・路通・且水・亀翁・乙州・虚谷・油徳・横几︒通題︑余寒﹁庵の春に紙子借けり都人﹂︵﹃俳諧勧進牒﹄︶
〇春︑﹁燭寸﹂の八吟五十韻に一座︒︹連衆︺岩泉・岩翁・午竿・路通・横几・油徳・遠水・尺卿︵﹃俳諧勧進牒﹄︶
●四月十日︑露言没︒
0
四月中旬︑大津の乙州帰国︒餞別吟﹁野をしらぬ江戸思ひ出せ夏の海﹂︵﹃西の雲﹄︶一月十九日付︑正秀宛芭蕉書簡に﹁乙州江戸へ立候に付﹂とあり︑﹃嵯峨日記﹄四月二十二日の条に﹁乙州が武
江より帰り侍るとて︑旧友・門人の消息共あまた届﹂とある︒大津伝馬役の乙州は翌年二月にも母智月と江戸に下っ
てい
る︒
〇其角の﹃雑談集﹄にいう次の﹁油徳判﹂は︑この秋の句合か︒
此比︑落穂の題にて当座句合︑油徳判︑
卿 枕 畳 の う へ も お ち ぼ 哉 亀 翁 庭 鳥 の 卵 う み す て し 落 穂 哉 角
鶏を家鴨と直して持になりぬ︒予おもふに︑題に合せて穿義すれば家鴨よく叶へり︒一句の体をいふ時は鶏といヘ
る句がら宜しきなり︒句がらと趣向との狂へる所は予が未練にや︒
0
九月十九日︑風虎七回忌︒追悼吟﹁水の月汲てひろはむ梨葡萄﹂︵﹃俳林一字幽蘭集﹄︶0
九月︑立吟京へ移住︒餞別吟﹁関の秋うたへ往来の詞書﹂︵﹃餞別五百韻﹄︶〇十月二十九日︑芭蕉江戸帰着︒同行した支考参加の六吟歌仙に一座︒︹連衆︺其角・岩翁・支考・油徳・遠水・横几
︵﹃
流川
集﹄
︶
〇十二月九日︑露油邸にて豊後の西国歓迎の歌仙に一座︒
西俳
諧古
哲伝
草稿
﹄︶
︹連衆︺西国・露油・泊徳・未阻・遠水・油荷︑以下略︵﹃豊
元 禄 五 年 壬 申
0
歳旦吟﹁ほだはらや浜松がえの手向草﹂︵﹃泊徳随筆﹄︶0
二月十九日︑露油邸にて大津の智月・乙州歓迎の十一吟世吉に一座︒泊荷・乙州・其角・泊蓬・油徳︵﹃豊西俳諧古哲伝草稿﹄︶
0
﹃合歓堂秘訣全﹄と題する写本︵柿衛文庫︶あり︑前半は﹁俳諧口伝之秘訣﹂︑後半は﹁俳諧潅頂書﹂で﹁子時元禄 五壬申稔孟夏中望﹂の日付があり︑署名はない︒0
七月七日︑素堂母喜寿の賀筵に芭蕉・嵐雪・油徳・曽良・杉風・其角・素堂の七人して万葉七種の題詠︒泊徳﹁布に煮て余
りを
さか
ふ葛
の花
﹂︵
﹃韻
塞﹄
︶
0
九月下旬︑﹃俳林一字幽蘭集﹄︵露油序︑素堂漢文序︶三冊を江戸﹁通油町+︑泊徳一座の歌仙一・百韻一入集︒ 佐藤四郎右衛門﹂から刊行︒油徳発句九 ︹連衆︺智月・露油・西国・桃隣・尺卿・未阻
0
この年︑仙鶴入門か︒﹃水精宮﹄の序に﹁三世のちなみを結びて春秋己に六々に過ぎぬ﹂というのを逆算すると︑この年にあたる︒た
だし︑仙鶴の入集は元禄十年ごろから︒
▽順水編﹃麟渡し船﹄︵一月上旬刊︶に発句一入集︒
▽路通編﹃俳諧勧進牒﹄︵春跛︶に発句七︑五十韻一入集︒
▽友琴編﹃色杉原﹄︵七月刊︶に発句一入集︒
▽立吟編﹃餞別五百韻﹄︵九月下旬刊︶に発句一入集︒
▽ノ松編﹃西の雲﹄(+月中旬跛︶に発句二入集︒
▽其角編﹃雑談集﹄︵十二月奥︶に発句一入集︒
三一歳
貞門・談林・蕉門をとわず古今東西の三二三人︑八ニニ句を収める中に︑風虎編の三部書﹃夜の錦﹄から六十五
句︑﹃信太の浮嶋﹄から十七句︑﹃桜川﹄から十八句と︑﹁古き句中にも今好む心に等しき﹂を再録している︒そ
れら全発句を︑一字百題のもとに分類し︑情を等しくする詩歌の思いあたるものを句ごとに注記し︑巻首に﹁標出
引用之書﹂として漠書四十六部︑和書五十六部の目録と︑註字目録を掲げる︒詩歌の教養を誇示した趣向であるが︑
和書の中には﹁本朝詩英・羅山文集・本朝一人一首・史館若話﹂といった書目も見え︑性・心・情・志といった巻
頭の一字題には羅山の﹃性理字義諺解﹄によったと思われる註を付すなど︑林家に学んだ徴証もみられる︒
百韻には﹁発句たまふ君︵露泊︶あり︑附句たすけし友︵春絹・材種・遠水・未阻・学先・横几・寸竹・探泉・松斉.芭風・忘水・子堂・飢平・虎答•松嗚・飛泉・岩松・河裳・虚谷・午竿・芳津・友雅・百川・春耕・鵜水・魚水•松柏・喜水・寸好・揆魚・随好・泊荷・春魚・雅雀)あり。こAろざしおなじきをもて独吟となりぬ」の後
書きがあり︑油徳の立机と出版を支えた連衆の顔ぶれが知られる︒
▽句空編﹃北の山﹄︵夏序︶に発句一入集︒
三二歳
元 禄 六 年 癸 酉
0
歳旦吟﹁家厚しあほうも並び雑煮喰﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
四月二十九日付︑荊口宛芭蕉書簡に次の記事がみえる︒頃日は郭公盛に暗きわたりて︑人々吟詠︑草扉に音信侍りしも︑蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申伝え
たれば︑猶亡人︵桃印︶が旅懐︑草庵にして失せたる事も一入悲しみの便りとなれば︑ほとAぎすの句もエ案すま
じき覚悟に候処︑愁情なぐさめばやと︑杉風・曽良︑﹁水辺のほとAぎす﹂とて更に勧むるにまかせて︑ふと存寄
り候
句︑
声 横 た ふ や 歎
ほと
Aぎす声や横たふ水の上
と申し候に︑又同じ心にて︑
一声の江に横たふやほとAぎす
﹁水光接天白露横江﹂の字﹁横﹂︑句眼なるべしや︒二つの作いづれにやと推敲定め難き処︑水問氏油徳といふ者
とぶらひ来れるに︑かれ物定めの博士となれと︑両句評を乞ふ︒油曰︑﹁横江﹂の句︑文に対して之を考ふる時は
句量尤もいみじかるぺければ︑﹁江﹂の字抜きて﹁水の上﹂とくつろげたる句の︑にほひよろしき方に思ひ付くべ
きの条︑申し出候︒兎角する内︑山口素堂・原安適など詩歌のすき者ども入り来りて︑﹁水の上﹂の究めよろしき
に定まりて事やみぬ︒
許六の﹁自得発明弁﹂に次の油徳批判がみえる︒
右両句︑泊徳が判によりて﹁水の上﹂に究め侍るといふ色紙送られたり︒今にあり︒予︑その返事に︑徳といふ者︑
一生真の俳諧なし︒かれが判︑おぼつかなし︒予は只﹁江に横たふ﹂の方勝れりと返事せしなり︒案ずるに︑
﹁水の上﹂の句︑幽玄には聞え侍れども︑﹁水の上﹂要らぬ詞なり︒﹁声横たふや水の上﹂と一言も残さず言ひつ
めて︑しかも﹁水の上﹂といろへたる事を︑油徳はよろこべり︒これ俗のよろこぶ所なり︒﹁江に横たふや﹂とい
ふところにいろ︵の心をふくめたる事をしらず︒中/\俗の耳には落ちがたし︒⁝⁝この句にかぎりて︑油徳が
判を乞ふと労々へひろめ給ふ︒是︑子細のなき事はあるまじ︒油徳が判に究めたるといふ事を後代まで言はむため
と︑かくは記し給ふと見えたり︒
なお︑羊素編﹃玄々前集﹄︵享保二十年刊︶には﹁油徳の徳とも知るべきにや﹂と︑秀億編﹃葛藤﹄︵明和五年刊︶には
﹁宗因は猛彊の俳諧︑泊徳は判読の博士といひ︑其角は作中の作者︑嵐雪は換骨有心︑素堂は高絶︑その外はしらず﹂
と︑後世の語り草になっている︒百庵著﹃林薮余談﹄︵明和九年刊︶には﹁芭蕉が杜隅の句評に山口素堂・原安適︑詩
歌の文人来り︑泊徳を物定めの博士になしたる事︑支考が﹃笈日記﹄にも記せり︒芭蕉現在をばしらず︑素堂・安適・
泊徳・支考同時にして︑余よく知れり︒今おもふに︑油徳は豪傑なり︒されども︑それすら誤事多し﹂という︒
し▽冗峯編﹃副桃の実﹄︵五月跛︶に三ツ物一入集︒
▽露川編﹃流川集﹄︵初冬刊︶に歌仙一入集︒
▽巴水編﹃薦獅子集﹄︵冬序︶に発句三入集︒うち﹁春駒を優にのせたる堤かな﹂ ︹連衆︺嵐雪・冗峯.芙蓉
/
冗峯・琴蔵・泊徳/冗峯・其角・仝は住吉奉納の蕉門三十六句に加入︒
三三歳
元 禄 七 年 甲 戌
0
歳旦吟﹁礼数や海見る広間薮の梅﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
五月︑京の轍士歓迎の八吟世吉に一座︒︹連衆︺轍士・泊徳・尺卿・其角・東潮・介我・横几・子堂︵﹃七車集﹄︶0
六月二十四日︑﹁結麿河辺﹂の三吟歌仙に一座か︒︹連衆︺専吟・其角・油徳︵﹃句兄弟﹄︶0
七月十日付︑曽良宛芭蕉書簡に﹁泊圃歌仙珍重︑油徳も出合ひ申され候由︑感吟申し候︒京・大坂・膳所の作者︑目恥しき者ども見候間︑随分新意のかるみにすがり︑劣りなき様に勧められ候様︑御伝へ下さるべく候﹂とあるも︑泊圃・
泊徳出合いの歌仙は伝存しない︒誤聞か︒
〇十月十二日︑芭蕉没
︒
追悼吟﹁落葉見し人や落葉の底の人﹂︵﹃枯尾華﹄︶〇十月二十︱︱︱日︑其角の留守宅にて芭蕉追悼歌仙に一座︒︹連衆︺仙化・是吉・介我・柴雫・湖月・神叔・揚水・択風・
由之・全峰・油徳・李下︵﹃枯尾華﹄︶
▽東潮編﹃麟松かさ﹄︵一月一日刊︶に発句一入集︒
▽不角編﹃麟薦分船﹄︵六月下旬跛︶に発句一入集︒▽野披.孤屋•利牛編『炭俵』(六月二十八日奥)に発句一入集。
▽友鵡編﹃芳里袋﹄7︵七月跛︶に発句一入集︒
▽其角編﹃句兄弟﹄︵八月五日序︶に発句四︑歌仙一入集︒また跛を記す︒
▽泥足編﹃其便﹄︵八月序︶に発句三入集︒
▽轍士編﹃七車集﹄に世吉一入集︒
▽其角編﹃枯尾華﹄に発句一︑歌仙一入集︒
三四歳
元 禄 八 年 乙 亥
0
歳旦吟﹁四方拝母のまえにて先おかし﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
一月七日︑但馬豊岡城圭昼極高住︵駒角︶︑亡父三十三回忌追悼の一順歌仙を主催︒︹連衆︺駒角・湖春・調和・立志・山タ・正友・泊徳・秀和・不角・無倫・一蜂9.-
露言•松ロ・好柳・素堂・一鉄・露油・幽山・似船・信徳・如泉・言水・常牧・我黒・幸佐・晩山・助斐・来山・オ麿・万海・一礼・団水・尚白・任ロ・可心︵﹃面々硯﹄︶
●三月二日︑信州諏訪城主露葉没︒闇幽襲封︒
聞幽が初めて諏訪城に入ったのは元禄九年六月である︒﹁閾幽公の帰城を送り奉る/綺羅ほめて又寝るも有萩の
露﹂︵﹃文蓬莱﹄︶という油徳発句はこの時のものかと思ったが︑季が合わない︒元禄十一年か十三年の帰城であろ
ぅ
●三月︑露泊江戸を去り︑岩城高月邸に隠居︒
〇秋︑芭蕉画像開きの﹁新枢会﹂十三吟百韻に一座︒︹連衆︺桃隣.其角・嵐雪・介我・東潮・仙化・素狭・堤亭・神叔.
氷 花
・ 泊 徳
・ 芝 柏
・ 己 応
︵
﹃ 陸 奥 衝
﹄
︶
.
〇十月十二日︑深川長慶寺にて﹁芭蕉翁移墓回愁之吟﹂による八吟歌仙に一座︒︹連衆︺其角・専吟・泊徳・堤亭・紫紅・
彫棠・介我・山川︵﹃末若葉﹄︶また︑﹁燭寸﹂の七吟歌仙に一座︒︹連衆︺泊圃・素堂・泊徳・魯可・虚谷・文桂・
里圃
︵﹃
誹諧
翁卿
﹄︶
▽文車編﹃麟花蒋﹄︵二月上旬序跛︶に発句二入集︒
▽浪化編﹃となみ山﹄︵三月上旬奥︶に発句一入集︒
▽東潮編﹃麟渡鳥﹄に発句一︑﹁即席﹂の三吟歌仙一入集︒︹連衆︺泊徳・東潮・皆可
三五歳
元 禄 九 年 丙 子
0
歳旦吟﹁さまざまを覆つ載つ花の春﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
二月十六日︑松島に旅立つ︒﹃鱈ひらっAみ﹄によれば︑同じ朝︑東潮も大和に旅立つ︒子時元禄九年の春の半︑馬聖の跡に立ちて心のはへん始なり
初花や日本橋より夜もすがら
この暁︑砧徳も松島千賀の浦に旅行の事侍り︑同じ道︑等しき国ならでやと︑旬あへる︒
霞む日をあたらし笠のあかり哉
油徳の返答
東潮になりて南海をはかり︑君は油徳になりて東海の遊びを思へと︑左右の馬夫の引きわくる朝をいはく︑
我になれ君も海苔くふ浦ったひ
0
岩城をへて松島に至り︑仙台の千調に迎えられる︒ 拘 杞 の 芽 に 枝 の つ く 迄 待 に け り 千 調︵
﹃ 末 若 薬
﹄
﹃ 文 蓬 莱
﹄ 序
︶ 松 島 や 寺 あ る 島 は 山 ざ く ら 油 徳
︵
﹃ 末 若
葉
﹄﹃
文蓬
莱﹄
序︶
寝 が へ り は お し ま 也 け り 春 の 月 油 徳
︵
﹃ 末 若 葉
﹄
︶
処さだむべきものにあらねど︑十符の菅とて垣ゆひ廻したるに
菅 の 芽 の 垣 よ り 外 や 三 ふ の 分 油 徳
︵
﹃ 末 若 築
﹄
︶
百庵著﹃林薮余談﹄に﹁内藤君露油の招きしたがひて水間油徳奥州に赴くの時︑十婦の菅菰を案内して見せけ
るに︑その辺縄を張りおく︒妥と所を定むべき事にあらずと︑少しばかり詞書をして発句あり︒殊勝の事なり
油徳が岩城に逗留して︑はなむけの句なきを恨むるに 松 島 や 島 か す む と も 此 序 其 角
︵
﹃ 末 若 葉
﹄
︶
0
四月︑露泊邸に桃隣・助斐を迎えて八吟歌仙二巻を捌く︒︹連衆︺桃隣・露油・助斐・油徳・油荷・兎谷・芳津・油国︵﹃陸奥勧﹄︶︹連衆︺助斐・露油・桃隣・油徳・兎谷・芳津・泊荷・泊国︵﹃みとせ草﹄︶
0
四月二十五日︑内藤家より﹁俳諧之御相手水問泊徳五人扶持被下﹂︵内藤家文書﹃案詞﹄︑岡田利兵衛所引︶︒〇冬︑岩城を去り江戸に帰るか︒
徳子のかへれる比︑湯本といふ迄をくりて
ま ぎ れ ば や い つ そ 時 雨 て 旅 送 り 野 渡 沙 原 や 妥 に 落 葉 と 旅 別 れ 油 荷
︵
﹃ 文 蓬 莱
﹄
︶
0
歳暮吟﹁聟入を有明の月年暮ぬ﹂︵﹃油徳随筆﹄︶▽稲丸編﹃届呉服絹﹄︵一月下旬跛︶に発句一入集︒諧▽里圃編﹃誹諧翁卿﹄︵三月上旬奥︶に発句六︑歌仙一入集︒
▽東潮編﹃鱈ひらっAみ﹄に発句一入集︒
▽李由編﹃韻塞﹄︵十二月序︶に発句一入集︒
元 禄 十 年 丁 丑
0
歳旦吟﹁江戸橋や橋の海呑む初霞﹂︵﹃油徳随筆﹄︶ き﹂とある︒0
岩城に帰り︑滞在する︒莱 ﹄ ︶﹁花に来りて﹂の表六句はこの時の興行か︒
一六
歳
︹連衆︺露油・秋航・油徳・露江・兎谷︵﹃文蓬
︹連衆︺専吟・一十竹・泊徳・其角
0
五月下旬︑一十竹編﹃千々之丞﹄に跛を与える︒0
七月九日︑赤穂藩士子葉︵大高源吾︶︑江戸を発ち帰国︒その道中を記した﹃丁丑紀行﹄に次の跛を与える︒旅に公私あり︒旗篭ねぎりすてA仏閣の陰に一夜をものし︑あるは立どまる所々に往事をおもひ杖をひく旅にして︑
発句をもてなぐさむはかたし︒しかるに応命のいとま︑山川人世の境界をうか︵と見ざる間の妙︑うれしき事を
もなり︒殊に旧知芭蕉翁が墓をたづねられしことも︑道にふかき志なるべし︒遠境はやくも一軸にして予に見よと
ったへらる︒子葉子におゐてよく予をしれる人なり︒故馬楚猿のかなしみもなく無事に帰国のよろこびを︑此に書
そへ
侍る
︒ 今 頃 は 何 に し 秋 の 月 夜 数 油 徳
0
このころ︑紹廉︵初号︑魚輔︶入門か︒紹蓮編﹃知里乃粉﹄︵享保十二年刊︶に﹁昔︑合歓堂に入りて師に見えし時︑嘉樹甘棠次第春と五明のはしに書
きて授与せられしは三十年前なり﹂というのを逆算すると︑この年になる︒
0
歳暮吟﹁誰かいふ二日逢ねば年の暮﹂︵﹃油徳随筆﹄︶▽李由編﹃韻塞﹄︵元禄九年十二月序︶に発句一入集︒
▽其角編﹃末若葉﹄︵五月二日跛︶に発句六︑歌仙一入集︒
▽一十竹編﹃延命冠者﹄﹃千々之丞﹄︵五月下旬跛︶に発句一︑四吟歌仙一入集︒▽東潮編『先日』に五吟歌仙一入集。〔連衆〕泊徳・東潮•朝斐・全阿・仙鶴
三七歳
元 禄 十 一 年 戊 寅
0
歳旦吟﹁引附は是薬也医者の格﹂﹁へら鷺の箆にこたへや水も春﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
九月︑浅草の幽松庵に七月から滞在中の東行︑大坂に帰る︒餞別吟﹁おもひ起事安ければ︑かへる事も亦かろくして︑列子が風をまたぬ遊行也︒会せしも一日二日の酔吟にして︑みせぬ紅葉をかたり︑浅卿の庵に東行子を送る事を記す︒/
はつ茸の拾ひ買して生駒哉/しばし名残を惜むべきもかぎり有旅とや︑さらば/\︑﹂︵﹃東行撰集抄﹄︶
0
このころまでに泊州︵初号︑民丁︶入門︒0
歳暮吟﹁笑ひさげすむも顔に墨と身にこたへざる事を/寝たうちの墨と笑ふや年の暮﹂︵﹃油徳随筆﹄︶▽泊圃ら編﹃続猿蓑﹄︵五月奥︶に発句二入集︒
▽艶士編﹃みづひらめ﹄︵六月上旬刊︶に発句二入集︒
発句巻頭に﹁句列﹂として調和・立志・山タ・其角・油徳・嵐雪・挙白・秀和・不角・無倫・一蜂の順で各一句
が並び︑﹁句乱﹂として以下が続く︒
▽調和編﹃面々硯﹄に歌仙一入集︒
三八歳
元 禄 十 二 年 己 卯
0
歳旦吟﹁黙礼の稲荷も過ぬ年男﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
夏︑東潮庵一甫︑油徳方に﹁合歓の笠着た吾妻海道哉﹂︵﹃泊徳随筆﹄︶の一句を書き置いて上京か︒餞別吟﹁伊勢へよる手
の筋
もあ
り子
規﹂
︵﹃
えの
木﹄
︶
0
夏︑尾張の東鷲を迎えて五吟歌仙に一座︒︹連衆︺其角・東鷲・泊州・仙芝・泊徳︵﹃小弓誹諧集﹄︶其角の詞書に﹁尾張醒井の水のすめる代にためしとなる事︑旧紀略之︑隣国の山々みのやまの尾にはびこりける
を尾張となむいふよしも侍るなり︒東夷おさめ給ひけるみことの連ね歌もととして︑文武備りけるためしをもて︑
今さら尾州の鷲といふ名につかひ侍りて︑矢羽をそろへて虫干をのAしりあへり︒是︑泊徳に三たび笑を得て書す﹂
とあ
る︒
▽涼兎編﹃皮篭摺﹄︵三月中旬刊︶に発句四入集︒
▽白雪編﹃誹諧曽我﹄︵閏九月序︶に発句四入集︒
▽東鷲編﹃小弓誹諧集﹄︵閏九月刊︶に発句六︑歌仙一入集︒
▽等射編﹃麟伊達衣﹄に発句三入集︒
四
0
歳 三九歳元 禄 十 三 年 庚 辰
0
歳旦吟﹁旧年上方同国セシ事有/見ては又喰へぬ名所も神の春﹂︵﹃泊徳随筆﹄︶元禄十二年上京については確認できない︒
0
春︑﹁即興﹂の八吟歌仙に一座︒︹連衆︺朝斐・嵐雪・泊徳・序令・泊州・白獅・百里・新真︵﹃杜撰集﹄︶0
歳暮吟﹁年波のたAでは
をか
じ屏
風蔵
﹂︵
﹃泊
徳随
筆﹄
︶
▽勒文編﹃珠洲之海﹄︵三月序跛︶に発句一入集︒
▽東潮編﹃麟えの木﹄に発句三入集︒
▽其角編﹃三上吟﹄に発句一入集︒
元 禄 十 四 年 辛 巳
0
歳旦吟﹁蓬莱へ鹿も掛乞も戻りけり﹂︵﹃油徳随筆﹄︶﹁本歌︿あけぬとて野辺より山へ入る鹿のあと吹きおくる萩の上風﹀︒鹿は野に寝て朝山へ帰るものなり﹂と自解︒
〇其角発句﹁点印半面美人の字を彫りて琴形の中に備へたるを︑はじめて冠里公の万句の御巻に押し弘め侍るとて/春の
月琴に物書くはじめ哉﹂︵﹃五元集﹄︶による二十五吟百韻に一座︒︹連衆︺其角・湖十・楓子・百里・仙鶴・専吟.渭
北・泊徳・泊州・巴人・幸輪・丁東・朝斐・白獅・序令・甫盛・午寂・心水・指馬・花億・青流・景帝・大町・堤亭︑
以下
略︵
﹃二
のき
れ﹄
︶
元禄十五年説もあるが︑﹃宝井其角全集年譜篇﹄に従って仮にここに置く︒﹁冠里公﹂は備中松山藩主安藤信友︒
0
二月二十五日︑﹁北野聖廟奉納﹂の一順俳諧に参加︒︹連衆︺露油・油徳・油荷・芳津・油梅・野渡・蚊雷・露松・油薄・
路通
︵﹃
露油
俳諧
集﹄
︶
油徳の参加は文音によるものだろう。この年は聖廟八百年御忌にあたり、『きれ人~』に露油発句「辛巳の春天満天神万句の巻頭/世に高し八百枝の梅を神姿」、『乙矢集』にも東鷲ら、『二番鶏』にも言水・好春•松雨・了
我・轍士らの奉納発句が入集する︒
〇二月下旬︑了我︵のち貞佐︶を伴い上京︒途中吟﹁宿/\はふじの家中か桃の花﹂﹁大井川馬もあやをる柳かな﹂︵﹃文
蓬莱﹄︶二十五日ごろ︑駿州島田にて一順の俳諧に一座︒︹連衆︺如舟・泊徳・素堂・了我・白雪︵﹃きれ
0
三月︑東山にて竹宇主催の歓迎俳諧あり︒︹連衆︺油徳・竹宇・言水・好春・了我・我黒︵﹃誹諧二番鶏﹄︶﹃泊徳随箪﹄によると常雪も参加︒
〇在京中︑﹃文蓬莱﹄︵自序︶三冊の編集を終り︑井筒屋からまもなく刊行︒泊徳の発句四十三︑泊徳一座の三六句一・歌仙九•五十韻二入集。
三ノ物﹁夢想﹂︹連衆︺油葉・泊徳
﹁読和書有感﹂︹連衆︺凍雲・皆可・泊徳仙「迎松軒の会」九吟〔連衆〕露江•海屋・油徳・閑脚・居竹・膠船・梅橋・文杏・水也
﹁吐月渓の会﹂五吟︹連衆︺竹芭・泊徳・午寂・仙鶴・泊湖
﹁川岸の会﹂七吟︹連衆︺朝斐・油徳・序令・白獅・新真・油州・百里
﹁駿台の寒夜に友を得て﹂三吟︹連衆︺弁外・油徳・虎答
﹁子堂の会﹂六吟︹連衆︺皆可・油徳・凍雲・東潮・油州・虎答
﹁宇津の山を越し時﹂七吟︹連衆︺子薬・泊徳・洞泉・香山・春帆・泊州・仙鶴
歌
五十韻﹁合歓堂の会﹂+吟︹連衆︺林泉・泊徳・油湖・青峨・油葉・十流・仙芝・杏林・仙鶴・油州「序令亭の会」八吟〔連衆〕其角・序令•朝斐・白獅・油州・新真・油徳・百里
上巻は江戸連衆の題詠発句および四季発句︒中巻は︑油徳の俳話俳論︑地方連衆の発句︑総州古河の皆可編集の
熊沢蕃山追悼句文︒下巻は泊徳一座の連句︒句集の巻頭は︑上巻が露江︑中巻が閾幽︑下巻が露油︒入集者は油徳・
其角・嵐雪系が主体であるが︑他に言水・好春・鬼貫・オ麿・素堂・智月・乙州・油圃らが交じり︑大高子葉・富森春帆・神崎竹平・橋本進歩・茅野消泉ら赤穂藩士もみえる。俳話は季題解説と付句論評、俳論は用意•生句・論
句.感通・境界の五篇より成り注目に価する︒
●三月十四日︑江戸城中で赤穂城主浅野長矩の刃傷事件︒
〇在京中︑轍士主催の六歌仙に一座︒﹁白馬節会﹂﹁千本の花﹂﹁涼川﹂﹁梶の鞠﹂﹁放生会月﹂の各六吟︹連衆︺轍士・里右.泊徳•松雨・柳水・立吟、および「鉢敲」の七吟〔連衆〕油徳・柳水・轍士・了我•松雨・里右.立吟(『俳諧
菩薩
﹄︶
0
五月五日︑轍士・了我らと競馬を見る︒﹁附紐は埒を出たる手綱哉﹂︵﹃油徳随筆﹄︶0
六月︑了我を残して京を去り︑江戸に帰る︒餞別の一︱︱ノ物︹連衆︺言水・泊徳・了我︑歌仙︹連衆︺一林・泊徳・好春・武山・了我︑発句十八︵﹃誹諧一番鶏﹄︶あり︒また︑﹃ふたつの竹﹄︵元禄十五年刊︶に︑
法師をみやこにとゞめて
若 竹 の ち か づ き ふ え て 奄 り 哉 合 歓 堂 泊 徳
一対の筆の軸は二つにはなれ︑去年の夏︑油徳︑予を花洛にとゞめて一本の若竹をあたへ︑是にすがりてひた
すら翰墨の場にあそべと也︒実も葉ごとの雫つもりて硯潤ひぬ︒
相 応 に 風 も あ て た り こ と し 竹 了 我
〇折から上京中の尾張の東鷲に︑関寺辺まで見送られる︒﹃乙矢集﹄に次の付合がみえる︒
元 禄 十 五 年 壬 午
0
歳旦吟﹁氏寺の煎酒そAぎ神
の春
﹂︵
﹃泊
徳随
筆﹄
︶
四一歳 洛の納涼へ自然に泊徳とのぼり合せ︑過ぎし東武の交席を語りゆきて︑﹁憮鰹河原おもての洗ひ鯉﹂などと典じて︑いつ別るべき心もなき処に︑徳︑武を如月に出て既片風のたちぬと驚き︑下向のきざし頻るを見て︑かた人\より餞別のきこえける︑予も関寺辺迄見送りて︑
走 り 井 や 涼 し く 人 の 行 姿 東 鷲 一 篇 嗅 て ま は す さ ゆ り 葉 泊 徳
〇十月︑岩城に下る︒﹃ふたつの竹﹄に次の句文がみえる︒
とかくして長月末︑京よりあづまに赴かんとする時︑人/\名残を河東に会す︒
逢坂を切ッてはなすなさねかづら子葉 子菓をまちても閑談まれに︑予又岩城に赴く︒こAろ/\にあそべば︑雁よつばめよのわかれも勝手次第なり︒
水鳥のつA
き あ は で も 別 れ 哉 泊 徳
▽轍士編﹃俳諧菩薩﹄︵六月十五日跛︶に歌仙六入集︒
▽白雪編﹃きれ
f ¥
﹄︵六月序︶に発句五︑五吟一順俳諧一入集︒
▽東鷲編﹃乙矢集﹄︵七月奥︶に発句四︑付合一入集︒
▽十丈編﹃射水川﹄︵七月十二日序︶に発句二入集︒
▽了我編﹃誹諧一番鶏﹄︵﹃桑岡集﹄所収︶に発句一︑三ッ物一︑歌仙一入集︒
▽嵐雪編﹃杜撰集﹄に歌仙一入集︒
▽其角編﹃焦尾琴﹄に発句四入集︒
0
三月︑轍士編﹃花見車﹄刊︒泊徳は太夫に擬せられ︑﹁心だておとなしく︑三味線︵歌学︶もひかんすゆへ︑身うけもなされたり︒つもれる文蓬莱より都にも聞きおよびしが︑好ききらひのある風俗なり︒つとめの内︑ねむらんせずばよ
かろ﹂と評される︒
江戸で太夫に擬されているのは︑他に調和・桃青・嵐雪・其角・一晶・立志・山タ・不角・無倫・桃隣の十名︒
﹁身うけ﹂は大名家の禄を食んだことをいう︒歌学・睡癖については前述した︒
〇次の逸話は︑この夏のことか︒岩本梓石﹃五元集全解﹄に﹃一話一言﹄を出典として引いているが︑該書には見当たら
ない
ある時︑油徳暑気見舞に冠里公へ伺候申しけるに︑何ぞ珍しき句はなきかと尋ね給へば︑泊徳申すは︑其角が処へ ︒
立寄り候へば﹁皿鉢に駒の蹴上や心太﹂と咄し申し候といへば︑冠里公感心ありて︑これは﹁すゞしやと草むらご
とに立寄れば暑さぞまさる常夏の花﹂といふ歌の心なりと仰せられければ︑帰りに其角方へ寄りて︑如此仰せられ
しと云へば︑其角はその方は今気が付いたるかとて笑ひしとなり︒云々
0
七月上旬︑松島に向かう京の秀可を迎えて︑﹁太白堂興行﹂の六吟歌仙に一座︒︹連衆︺秀可・桃隣・泊徳・了我・豊竹・
指馬
︵﹃
東西
集﹄
︶
〇閏八月十五日︑仙鶴亭で﹁良夜﹂の三ッ物五巻興行︒︹連衆︺仙鶴・其角・序令/油徳・油州・専吟/其角・横几・了
我/泊州・仙鶴・秋色/朝斐・油徳・午寂︵﹃十二月箱﹄︶
〇十一月十五日︑貞徳五十回忌追善の九吟五十韻に一座か︒︹連衆︺朝斐・其角・泊徳・油州・序令・全阿・仙鶴・新真・
白獅︵﹃三家饒﹄に﹁貞徳五十回元禄十三庚辰年﹂として所収︶
〇十一月下旬︑子薬来庵︒蒲団を借りて帰る︒
子薬は十月十七日︑討ち入りの同志七人とともに江戸に下り︑茶匠山田宗偏から十一月二十三日の吉良家茶会を
聞き出した︒それが十二月六日に延び︑さらに十四日に延び︑日一日と寒気が厳しくなった︒もとより油徳はその
事情を知らない︒﹃油徳随筆﹄に次の一文がみえる︒
七年忌子葉をいたむこと葉
脱ぎ捨てぬは雨後の蓑︑脱ぎ捨てしは子葉が蒲団なり︒あAなげく哉︒その秋京より来て身をひそめ︑いづくにか
り寝せしぞ︒断猿の声耳にふれて︑山錦たAまくおしき夕も目につもり︑過ぎし八とせの霜月廿日余︑おもはず机
辺に来りぬ︒去々年洛下同酔の事など語りあひて︑﹁扱︑寒夜なれども秋より丸寝の境界︑今猶凌ぎがたし︒紙に
綿入れても︑綿に板つAみても︑寒夜の楯となる物許︑借あれかし﹂など︑たはぶれながら申し侍れば︑﹁一半西
窓無夕陽と云ひしは客と眠りしふとん︑閑居はおなじ場にして今以て十分の貧︑いかがはせん︑火撻に負し食次は
垢賦のあかづけるふとん也︒是にても見ゆるすべきや︒よし半夜入りて静坐するとも︑猫も載らじ︑竹もうたじ︑
その音は是ならん﹂と徳利さし出せば︑橘皮一振ふつて﹁残酒耳にあり﹂と三盃得て︑﹁薄綿ほどの活計︑今宵の
凌ぎ﹂と帰るを見れば︑武士なり︑編笠なり︒予立帰りて合歓堂にはらばひて︑仕官たる身の上を思ふに︑生涯を
君になげうつて︑その場を忘るA鉢に遊ぶは希なり︒かれに負けかれに劣りしの志は立つるとや云はむ︒妥に揺を
報ふ︑石心は父母の力をよばず︑妻子の網は引くに切るAのことはりにして︑一とせあまり時を待つ︒予が京の倣
居にあそび︑江都に帰れば濡草桂を柴門にぬぐ事︑花になり月になり︑﹃二の竹﹄といふ集を花洛にあらはして俳
名を世に鳴り︑いつまでかくても残せしは︑後に皆知る所なり︒武なくばかく問はれじ︑文なくばかく問はれじ︒
江都の俳士に七年を告げて︑今世にうたふ︒
過 ぎ け り な 世 に 白 魚 の 七 里 灘 泊 徳 この発句にて予が独吟歌仙︑略之o.
〇十二月十四日夜︑赤穂浪士吉良邸討ち入り︒十五日未明︑子葉よりの書簡届く︒
尚/\尤世に沙汰御座候迄は御沙汰被成被下問敷候︑以上︒
其後は彼是御無音背本意奉存候︒何茂様御堅固に御座候哉︒扱者︑私義所存之一筋難止︑今晩存立候趣御座候︒年
来御懇意に罷成候︑一道御伝︑御厘情彼是以生々世々に及申候事に御座候︒
山をぬく力も折れて松の雪春帆•竹平も同じ道にて候。涌泉は御存の如くにて御座候。御恩借の御蒲団は申談て其侭打捨置申候。御一句之引
這工
奉頼
/\
候︒
以上
︒ 十 二 月 十 五 日 子 葉 泊 徳 先 師
なお﹃油徳随筆﹄に﹁浅野氏家臣四十六人の内︑春帆︵富森助右衛門︶︑子葉︵大高源吾︶︑竹平︵神崎与五良︶︑消泉
︵茅野三平︶︑⁝⁝皆︑予が俳門に入りて秀作たり﹂とみえる︒
0
歳暮吟﹁行年を猶活計の秤かな﹂︵﹃泊徳随筆﹄︶﹁古今集真名序︿為乞食客活計媒﹀﹂と自注︒
▽了我編﹃誹諧二番鶏﹄︵春序︶に六吟表六句入集︒
同集の増補︵﹃桑岡集﹄所収︶に﹁仙鶴﹃月の粥﹄に云︑了我東に下る年や︑菅神八百年︑又貞徳五十年忌に当
る︒かれといひこれといひ折こそよけれ︑貞佐と変名せよと晋子がすAむるに任すと云々︒されば先師︑了我の名 をもて行ふ事︑此集をかぎりとす︒常に二三子の尋ぬるによりて︑今彼語を引てこAに証す﹂という︒貞佐七回忌
集﹃其砧﹄の午寂跛には︑より詳しく﹁在昔︑朝斐に会ありしに某︑其角といたれり︒油徳先にいたれり︒油徳い
へり︒了我いたらば俗となすべし︑朝斐に兼ねてしめして俗衣類を支度して置きたり︒其角︑よし/\︒是に於て
二子相話して以て貞佐と称す︒其角門人と雖も︑みづから泊徳親切なるがゆへに︑物故して油徳に小碑を同ふする
ものなり﹂というo,
▽子葉編﹃麟ふたつの竹﹄︵五月序跛︶に発句三入集︒
▽巨海編﹃瓢石見銀﹄︵元禄十四年九月序︑十五年五月跛︶に発句二入集︒
元 禄 十 六 年 癸 未
0
歳旦吟﹁人垣の里へ手を引霞哉﹂︵﹃泊徳随筆﹄︶﹁人垣︑辻固なり︒勅使などの義︑或は神社の様子なり﹂と自解︒0二月四日、赤穂浪士自刃。追悼吟「君臣の塩梅をしれる人はたれ、子葉・春帆•竹平也/なき跡もなを塩梅の芽独活哉」
︵﹃
類柑
子﹄
︶
〇二月十日︑赤穂浪士初七日︒追悼の七吟歌仙に一座︒︹連衆︺其角・応三・油徳・止止齋・周東・貞佐・堤亭︵﹃類柑子﹄︶
白露編﹃誹論﹄︵文化五年刊︶に次の記事がみえる︒脇•第三の亀鑑とすべき古人の句あまたなれど、中にも近世の名誉とせるは、元禄年中の奇事によって追悼興行の
誹諧ありける︒
故赤穂城主浅野少府監長矩之旧臣大石蔵之助四十六人同志異鉢報亡君之揺今絃二月四日官裁下令一時伏匁
斉屍万世のさへづり黄舌をひるがへし肺肝をつらぬく
う ぐ ひ す に 此 芥 子 酢 は な み だ か な 其 角 ち る 約 束 や 名 残 あ る 梅 応 三 船 頭 の け ん く わ は か す む ま で に し て 泊 徳
右︑其角﹃類柑子﹄に出たり︒脇句の本意違へず︑発句のあしらひかくはありたきものなり︒就中この第三は古今
の絶唱なりと古人も言伝へたり︒第三の本意とせるは︑発句・脇離れて離れざるを佳境とす︒行合ひの船頭が喧嘩
はすれど︑留まらざる船の上なれば只言合ふ迄にして︑高声には呼ばはれどはや上下に行過ぎ川浪をはるかに隔て︑
陸路より是を見れば春情にて霞たな引くのどかなるけしき︑大音声にていさかふ程の喧嘩もはや﹁霞むまでにして
跡なき﹂と言ひながし︑中七文字の内にて﹁は﹂ときめて︑﹁船頭の喧嘩はかすむ迄﹂なれど義士の遺憾を晴せし
は万世に残ると感じたる所︑離れて離れざる一句の仕立︑言語に絶えたり︒後世︑第三の亀鑑たるべし︒ 四二歳
油徳会﹂に午寂.其角・横几.凍雲・角呼・堵岩ら参加︒︵﹃類柑子﹄︶
︹連衆︺琴風・暁松・其角・堤亭・貞佐・油州・堵岩・止水・岩翁・専吟.昌貢・
0
三月四日︑赤穂浪士初月忌︒﹁追善0
九月十二日︑﹁暁松会﹂百韻に加点︒楓子︵谷沢尚一氏示教︶
〇十月二十一日︑其角加点の﹁箆影堂会﹂十四吟百韻に一座︒︹連衆︺夕全・堤亭・油徳・油州・甫盛・栢十・巴人・湖十・序令・吟松・白獅.貞佐・東潮・樹斗〔得点〕巴人39.泊徳28.堤亭25•湖十25以下略(「俳文芸」11号)
元禄年間
〇其角加点の百韻に一座︒︹連衆︺閾幽.既白・常陽・油徳・柏樹・幽独・幽意・油雨・散木・可言・幽雪・幽嘉・可喜
︹得点︺常陽
3 5
.油
徳 3 0
・闇
幽 2 6
以下略︵昭和六十三年明治古典会七夕大入札会目録︶
目録には﹁誹諧連歌資料二巻二枚﹂とあるが︑もう一枚は写真では見えない︒
0
梨節編﹃反古さらへ﹄に新三十六俳仙として︑左に芭蕉・オ麿・如泉・常牧・信徳・其角・鬼貫・伊勢園女・山タ・来山・万海・団水・文十・尚白・好春・立吟・一礼•松涛、右に湖春・一晶・立志・言水・我黒・嵐雪・秋風・智月・一鉄・子英・油徳・狐界・只丸・荷分・鞭石・心桂・林濡・挙白の各十八名を選ぶ︒油徳は右十一﹁青麦の奥ぞ昼なる鶏の声﹂︒
﹃油徳随筆﹄に﹁青麦の句など桃青が風義に似たる句なり︒桃青存在の時分なり︒芭蕉発句はよき句もあれど薄
し︒薄き所を得たる作者なり︒しかれども︑其角つよき程の句に芭蕉は力およばず﹂という︒﹁薄き・つよき﹂は
俳情の厚薄︑俳意の強弱をいう評語︒