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経 済 史 ・ 経 蛍 史 そ し て 会 計 史

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(1)

経 済 史

・ 経 蛍 史 そ し て 会 計 史

│ 大 河 内 暁 男 著

﹃ 産 業 革 命 期 経 常 史 研 究

﹄ に よ せ

l

i

産業革命の︹歴史的U研究には種々の接近法がある︒その多

くは経済史的研究であった︒﹁近代資本︑十義の確立過程におけ

る一の歴史的劃期としての︑あるいは近代国民経済の資本主義

的構成を決定的にした一つの謝矧としての産業革命)(高橋幸八

郎編

﹃産

業革

命研

究﹄

序・

I )

というようなとらえ方による研究

であ

った

産業革命は工場制度を成立させる︒色業貨本ば機械による坐

産体制を中心とする終営様式をとるが︑賃労働者の協業体制が

基盤にある︒これが形成の歴史的研究は︑個別資本の側面から

みた把握をすることで具体化する︒ここに経営史的研究の必然

経済史・経営史そして会計史

J

性が出てくる︒しかしこれのみにととめることでは不充分であ

る︒いまここに大河内教授の著書(岩波書庖・一九七八年一

O

月)を学ぶが経済史と経営史︑さらには会計史との﹁幸福な結

合﹂

(高

橋幸

八郎

編・

前掲

諮・

序V

︑も

ち論

大河

内教

援の

大い

なる

努力

があるが)をみると同時に︑これらそれぞれの研究においても︑

相互関連的な︑このような方法の必要性を強く感じさせるもの

であ

る︒

市民革命と産業革命をへて資本主義は確立する︒前者が﹁封

理的土地所有一関係に変京を加え︑資本主義が形成される条件

を政治的につくり出し︑工業化へのレ!ルを敷く︒﹁産業資本﹂

が成長してゆくなかで︑前者よりも︑より経済的な産業革命を

推進して︑賃労働と資本の対抗関係が工場制度の出現にともな

一四

(2)

経済史・経営史そして会計史

って具体化する︒ここに資本主義が産業資本を中軸とする経済

制度として確立する︒

このような過程を典型的に経過したのはイギリスで︑資本主

義の母国ともいわれる︒このイギリスに対象含求めて大︑河内教

授は研究を進める︒前著﹃近代イギリス経済史研究﹄(岩波書庖

・昭和三十八年)で︑副題を﹁国内市場の研究﹂として︑﹁イギリ

ス資本主義がいちおう完成した姿態を整えるに至る産業革命期

に先立って︑一八世紀半に︑その国内市場が如何なる程度に発

達を遂げており︑また︑その構造がどのよ︑7なものでめったか

を︑すぐれて実認的に解明しよう﹂(序i﹀とされた︒﹁この

時期は︑市民革命の成果が成熟した時であり︑産業資本が︑た

とえマニュブァクチャ

i

という形態にもせよ︑世界史よ初めて

無制約的に成長を開始した時代であった﹂(序日﹀が︑国民経

済の繁栄は︹単一︺国内市場を柔礎とした産業的発展によろ︒

大河内教授は産業苧命史研究のために︑その前提条件として国

内市場論を展開された︒その素材を金属工業部門に求めて分析

を進められたが︑この研究は﹁一面において︑あくまで国内市

場研究として構成されていると共に︑同時に他面では︑そうし

た国内市場論を基礎として︑再生産構造の視角から産業革命史

を構成するための序説でもある﹂ハ前著序⁝山)といわれている︒

大河内教授は産業革命史の研究に研究歴のすべてをかけてきた

ともいえるが︑ここに標題の研究が第二作として公刊された︒

教授は大塚久雄教授の門下であるが︑大塚教授の研究は資本

一四

主義発達史としてまとめられるが︑多くは市民革命をめぐる研

究であって︑産業革命への展望宏された時点までであったよう

に思う︒産業革命史論の展嗣は﹁大塚史学﹂において大河内教

授に一課せられた役割であった︒いまここに大きなみのりとして

﹁産業革命期経営史研究﹂が公刊されたのである︒

この十年ほど︑経営史はめきましい発展をとげた︒経済の高

度成長過程のなかで発展したのであるが︑経

w H 学

の高

揚附

加で

あった︒経営史学は経済史学と密接な連携のうえに展開するが︑

経済史は経営史の援助なしには発展しない︒産業革命湖︑発展

する資本主義の分析は経営史的方法を考慮することなしには経

済史の研究が進まない︒学問はこのようにして発展する︒

経済史の研究は奴隷制社会も︑また封建社会も学問の対象に

なっている︒経蛍史学の対象には封建社会ば入るか︑入らない

か︒封建社会は農業室産に基礎をおく︒農業経営にも﹁経営﹂

はあるであろうが︑経常史学の対象になってきたかどうか︒

経営史学は︑経済史と経営学に密按な関連をもって成立す

る︒経常学は産業資本が︑しかも資本主義の独占段階における

産業資本が対象となって形成されてきた︒このような経営学の

考え方が経営史学にも反映している︒この点︑会計史学は複式

簿記史から出発して︑十四・五世紀の北イタリアがすでに対象

のなかに入ってくる︒もち論︑今日の企業会計とは質を異にし

(3)

ており十四・五世紀と異なるところに大河内教授の本書後段の

問題に関連が出てくる︒経営史は経営学の考え方に規定される

が︑経営学を成立させる背景こそが経営史の対象というべきで

あろう︒しかし︑この両者は方法は同じか違うか︒

大河内教授は﹁さきに公刊した拙著﹃近代イギリス経済史研

究﹄ハ岩波書底)が産業革命を展望したのに対して︑本書は産業

革命期そのものを研究対象としており︑その意味では本書は前

著の続編をなしている﹂︑﹁しかし︑此の度は研究方法におい

て︑主として経営史の手法と対象とを選んでおり︑その点から

一一百うと︑単なる続編であるよりも︑むしろ新たな方向を目指す

研究である﹂(序臼﹀とされる︒この後段に問題があるが︑経

済史の進むべき一つの方向でもあろう︒このような方法なしに

は資本主義発達史の分析も不充分なものとなってしまう︒この

点については行論のなかでさらにふれたい︒

経済史︑経営史︑そして会計史にかかわる問題の展開である

が︑それぞれに深い造詣を持つ著者の力作である︒元来︑経済

史家は経営学︑会計学には無縁のところに育ってきた︒学問の

歴史において︑経済学に対して経営学︑会計学があまりにも実

学的な学問とみられた不幸があった︒今日においてはこのよう

な偏見は大分あらたまってきてはいるが︒このようななかで大

河内教授は大いなる勇気のもとに著作をものされたのである︒

経済史︑経営史を総合したかのごとくに見える方法に︑経済史

の︑また経営史の新しい在り方を知る︒本書は大塚久雄教授の

経済史・経営史そして会計史 言を借りれば︑﹁経済文学と経営史学の接合点し(大塚久雄著作集第九巻・四八四ページ)にたつ研究でもある︒

本書は二部よりなる︒第一部は﹁産業革命の経営構想﹂で︑

﹁産業革命期イギリスの企業者たちが︑自己の旦固かれた経営環

境の状況をどのように判断し︑自分自身の進路を定めたのか︑

個々の企業者の立場にできる限り接近して︑その主体性の実現

過程を明らかにしつつ︑手工業的経営条件を克服して工場制度

が形成させる経緯を追究した﹂(序

H H﹀ものである︒四章より

なる

第一章イギリス産業革命期の経営構想1117シュi ︒

・ボ

ルトンの場合││︒第二章アルピュアン製粉所││先駆的な

蒸気力工場の経営構想││︒第一二章ウィルトシア毛織物工業

における工場制経営の成立

! i

クラ

i

ク商会の場合︒第四章

社会的分業の状況から見たパlミンガム地域の産業革命︒

第二部は﹁産業革命期の固定資本問題﹂で︑﹁工場制生産体

制の実現は︑企業者のもとへの彪大な資本の集積を伴ったが︑

ことにその技術的特徴として︑経営内における固定資本の量が

急増を見た︒この事実は︑企業者にとって︑手工業段階とは異

なった資本調達および会計の問題を引き起こさずには止まない

ものであった︒そこで︑工場制度の創出に進んだ企業者が︑こ

の固定資本に係わる問題含どのように認識し︑解決したのか︑

一四

(4)

経済史・経営史そして会計史

その実態の追究を試みた

より

なる

︒ 第一章産業革命則の長期エ業金融︒第二章ヱ鉱業におけ

る作業場賃貸借制の展開とその意義︒第三挙産業革命期の工

業経世における固定資本概念︒第四羊工場制工業における減

仙償却の成立過程││ボウルトンU

ウォ

ット

商会

の事

例│

│l

﹁付録しとして﹁ボウルトン

1

ウォット文書について﹂があ

る︒著者は立教大学に在勤中に英国留学をされた︒その折に集

めた史料が本書の研究の骨組みになっている︒﹁パ!ミンガム

市民図書館で︑かのボウルトン1ウォット文書を蔵する書庫に

案内され︑ボウルトンlウォット商会の営業文書に直に手を触

れた時の興奮は︑未だに忘れ得ないが︑そこで限られた時聞を

あげて原史料と取り組み︑碩学ロウル以後は誰も見ていないと

いう文書の束を文字通り結いた﹂(序⁝山)︒大いなる感激であ

ったろう︒はるばる東洋の一瞬より来て目ざす史料にめぐりあ

えたことは幸いであった︒筆者もロンドンで同じような感激を

した︒それはイギリス東インド会社の会計帳簿に接したときで

あるが︑はるばる来た甲斐があったとつくっく思ったことがあ

る︒大河内教授にはこの留学がその後の研究に役立っている︒

東京大学に移られているが︑立教大学に大いなる感謝をささげ

られ

てい

る︒

以上のような構成をもった書物であるが︑以下︑若干の点に

ついて学びたいとおもう︒ 日)とされる︒これもまた四章

一四

八 四

産業苧命︒従米のマニュファクチャl期においては存在しな

かった新しい技術が発明され︑また新しい産業がつぎつぎと出

現する︒これはイギリスにおいてまず起ってくるが︑イギリス

の産業革命は︑世界史上はじめての︑まことに社会にとって

も︑企業者たちにとっても新しい︑まさに革命的な経験であっ

た︒大河内教授は﹁当時の企業者たちは︑

F H 八

刀の

経営

条件

をど

のよっに判断し︑いかなる理由か︑り︑またいかなる見通しのも

とに︑工場制度の創出という革新的経営行動に突出していった

のであうか﹂(三ページ)と︑まず↑産業革命と企業主の経営構

想﹂の問題を第一章で提起する︒

﹁一

七三

0

年代ころには︑マニュファクチャ!として︑技術

的に成熟の極限状態にまで到達していたし︒ご七一二

0

年代以降

の数十年同は︑こうした(イギリス産業全体をみると︑たとえば糸

不足

︑鉄

不同

此︑

輸送

手段

不足

とい

った

構造

的陰

路が

目立

つと

いう

││

木註)マニュファクチャl技術の欄熟期であるとともに︑問題

解決に向かう技術が生まれ出るための際酵とも言うべき時期で

あって︑この醸酵を経た一七六

0

年代に至ると︑マニュブァク

チャ

iを止揚するような新伎術や新程産業が︑社会的大量現象

として︑一斉開花したのであった﹂(四ページ﹀とみている︒

新技術を必要とし︑機能させうる経済的基盤ができていた︒

それは教授が前著で問題とした国内市場の形成であり︑その発

(5)

展は﹁生産者にとって企業機会か広範に存在したことを示すも

のである︑来るべき産業革命期に革新的技術が続出するための

社会的基礎宏形成するものであった﹂(五ページ)︒大量一一需要が

形成されるなかで︑マニュファクチャ!の技術ではそれに応じ

されず﹁終済的企業経営行動からの脱出が意味され﹂(五ペー

ジ)

る︒

﹁如

何な

る方

向(

工場

制生

産と

いう

方向

︑革

新的

販売

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規模

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求︑

得手

とす

る技

術領

域で

の擁

度の

専開

化な

どあ

ったと大河内教授はいう││茂木註)に日擦を定めて現マニュファ

クチ

l体制から脱出するのかということになると︑現状認識

から企業活動の将来を構想する企業者たちは︑各人各様に暗中

模索していたのであっても︑誰もがはじめから工場という技術

と経

蛍形

態を

構怨

して

いた

とは

︑と

うて

い一

一一

一口

い難

い﹂

︿五

ペー

ジ)のであったが︑このなかで﹁一部の者が機械や動力を用い

た工場制生産を実現しようと努めたことも事実であり︑その努

力こそが︑実は︑工場制度を実現してマニュファクテャl体制

を克服する突破口をなすものであったし︑またそれ以外には︑

工場制度実現の途はなかった︒そうした企業者の経営行動と︑

彼をかく導いた経営構想こそが︑工場制度を創出する牽引力だ

った

ので

ある

﹂(

六ペ

ージ

﹀︒

十八世紀の後半期にはすでに形成されていた単一国内市場に

おいて︑新技術︑新種産業の影響は波及速度は急速なものとな

った︒さまざまな革新がなされるなかで︑その事態に対処する

経済史・経営史そして会計史 企業者ζは︑激動する経営環境に対応する企業者としての性能

︹経営想構力︺が求められた︒大河内教授は成功した企業者で

ある﹁イギリス産業革命期の代表的な企業者の一人とされてい

ろマシナl・ボウルトンをとりあげて︑彼が一介の装身金具製

造業者から身を起こして︑イギリス随一の蒸気機関製造企業を

展開してゆく過程を︑分析することにしたい﹂(六ページ)とさ

れて︑﹁経営構想﹂に焦点をあてて第一章を展開する︒

マシ

I

・ボウルトンは父親から支けついたスノウ・ヒルの

作業場に大規模な作業場を建設しようと考えたが︑﹁大規模作

業場における大量生産方式の有利性を︑金属装身具製造業で実

現しようとした﹂(九ページ﹀のであった︒金属製バックル製造

業で収めた成功が背景にあるが︑一七六

0

年代はじめに﹁ボウ

ルトンはこの時すでに︑自分の必要に迫られて︑作業機の動力

源が工業経営にとって重要な問題であることを︑少くとも認識

していた﹂ハ九ページ﹀と大河内教授はいわれ︑作業機の動力源

の問題を重視する︒

装身金具類の製造・販売は犬衆需要は期待されないで上流社

会の購買力に依存する︒それば︑﹁ボウルトンにとっては︑た

しかに︑金銭よの収益だけが企業活動の目的ではなかったよう

に見受けられる︒彼は︑ソホウの新製品をよ流社会に売り込む

ことによって︑高級工芸金属製品の製造者たる地位を固め︑こ

れによって上流社会に自分の事業の定評を確立させ︑もって︑

キアハボウルトンの友人である

1

1茂木註)が指摘しているよ

一四

(6)

経済史・経営史そして会計史

うに︑企業者としての社会的名声と威信とを獲得しようとし

た﹂(ご二ページ)のであった︒身分を重視するイギリス社会の

一面をみるが︑大河内教授は床置時計製造計画などからみて︑

﹁ボウルトンのソホウ製造所構想が︑市場問題の知覚において︑

欠けるところがあった﹂三七ページ)という︒

﹁一七六二年にボウルトンば︑ヨーロッパ大陸の事情に詳し

い貿易商︑ジョン・フォザギルとパートナーシップを結んで︑

ボウルトン

1

フォザギル商会を設立した﹂(九ページ)︒過大投資

のために経営不振におちいった︒﹁工芸的響修品的性格のこと

に強い床置時計を︑ボタンやバックルと同じように大量生産大

量販売しようとして︑結局需要を把み得なかった﹂三八ペー

ジ)のである︒友人キアは﹁ソホウの生産体制が流行を追う工

芸的金属品の性質に適合していないこと﹂(一一一ページ﹀を指摘

して

いる

大規模生産︒過大投資ではあったが︑﹁この経営膨張政策

は︑一面において︑旧来のマニュファクナャl経営から︑水車

を動方とした大規模作業場による工場経世へと︑脱皮を目指す

努力として評価しうるものではあろう﹂(一七ページ﹀と大河内

教授はいう︒ただマ

l

ケッテインク問題がかけていたのであ

ボウルトンUフォザギル商会は失敗したが︑大作業場の管理 る ︒

運営と製品販売をボウルトン一人で統轄していたことに一因が

あったが︑大河内教授はすでに専門的経営管理者を必要とした

一五

O

状況にあったという︒すなわち﹁マニュファクチャl期までは

熟練親方のもとに統轄されていた生産と販売の管理機能が︑ソ

ホウ製造所という大規模経営の出現によっていまや一個人のも

とに結合してはいがたくなり︑それぞれ独立の管理機能として

人格的にも分離を必要とするような状態が出現したのである﹂

(二二ページ)と︒そこで一七七八年春にキアが製造部門の管理

監督にあたることとなった︒

キアは﹁それまでのボウルトンlフォザギル商会の経営管理

上の欠陥を衝いてさまざまの助言を行ない︑生産管理︑販売管

理︑市場調査などの必要を指摘した﹂(二四ページ﹀であろうと

し︑﹁キアの存在は︑専門的な経常管理者に他ならず︑ソホウ

製造所のごとき大規模経営でしかも直傭制の企業が成立する

と︑たちまち経営管理者が必要となること﹂(二四ページ)が示

されているという︒

一七七五年に蒸気機関製造を目的に発足したボウルトンUウ

ォット商会の成立︒そこで一七八一年にはボウルトン

17

ォザ

ギル商会は解散する︒

﹁ボウルトンは︑ソホウ製造所において︑これまでに例のま

れな大規模生産を展開しつつ︑伝統的なバックルや装身具類の

ほか多種類の新製品を世に送り出したが︑この過程で被は︑大

規模生産の実現には大量販売が必要であり︑新製品の販売には

新たな市場開拓が必要であるということを︑さまざまに経験し

た﹂(二七ページ﹀︒﹁そこには︑産業革命によってマニュファク

(7)

チャ

l期の伝統的商品体系が崩れ︑新種高品が次ぎ次ぎに登場

しつつある事態を限前に︑そうした事態の含む市場開拓︹新商

品︑

たと

えば

転写

器の

組織

的宣

伝に

よっ

て︑

潜在

的需

要を

作り

出し

て︑

有効需要とする働きかけといったもの││茂木註︺が鋭く知覚され

ている﹂(三一一ページ﹀とされ名︒﹁市場開拓活動とジェイムズ

・キアの貢献﹂である︒

一七七五年はボウルトンにとって画期的年次で︑ボウルトン

Uウォット商会の設立︑蒸気機関製造業へと活動分野を拡大し

た︒ウ才ツト式機関を製造したが︑ソホウ製造所の動力源不足

の経験は﹁急速に進行する作業場の大規模化が必ずや動力源問

題を広範に出現させるに違いない︑とボウルトンに知覚させる

に十分であった﹂(三四ページ﹀というQしかも︑動力源の安価

な供給が必要であった︒ウォットと会って﹁ボウルトンの申し

入れたことが︑それまで努力していた自家用蒸気機関の製造許

可ではなくて︑全国への市販を目的としたウ才ツト式機関の製

造だったという事実﹂(三五ページ)に大河内教授は注目する︒

市販への転回の大きな需要をみてとっていたからである︒

﹁ボウルトンが懐いていた蒸気機関事業の構想は︑全製造工

程を集中し︑十分な機械設備や)整えた大作業場において︑各種

の機関を一貫大量生産しようとするものであった﹂ハ三六ペー

ジ﹀が︑これが﹁革命﹂的であったのである︒﹁蒸気機関は多

数の部品を組立てて作り上げられるものだが︑これらの部品の

なかには︑既存の伝統的な鍛冶展や金物製造業者や水車大工な

経済史・経営史そして会計史 どの技術の守備範囲を外れたものが少なくなかった﹂が︑﹁蒸気機関という新種産業にとって︑その要求する新種熟練適合労働力が存在しなかった﹂ハ三六ページ﹀と説明し︑﹁新種産業の要求する新熟練の不足という問題への対応策として︑集中作業場による自主一貫生産を構想した﹂(三七ページ)とされる︒大河内教授は﹁蒸気機関の一貫生産というボウルトンの経蛍構想は︑彼が︑まさに産業革命を推し進める企業者として︑マニユアアクチャ

i

期の伝統的経験主義的生産体系を乗り越えようと

していたことを明示するものであった﹂(三七ページ﹀と評して

いる

Q

一七七六年一一一月に︑ようやくウォット式蒸気機関の第一号を

作り上げた(三八ページ)が︑採算的には困難がともなった︒だ

が︑﹁採算に合わない蒸気機関製造を放棄するどころか︑かえ

ってその経営に精根を傾けようとしだしたし(四五ページ)︒大

河内教授は続けていう︒﹁彼のかかる行動の基礎には︑ポンプ

用原動機としての蒸気機関が産業界の関心を集め︑需姿を期待

できそうだ︑という問題知覚と判断があっただけではなく︑い

ま一つ次のような重要な事情の展開があったのである︒すなわ

ち︑蒸気機関を回転原動機として用いる技術が︑一七七九

l

一年ころ完成したことによって︑蒸気料開閉市場は飛躍的に拡大

するという見通しを︑ボウルトンは得たのである﹂(四五ペー

ジ)と︒この見通しを得たことが企業家として成功するもとと

なったのである︒﹁企業者ボウルトンの経営構想力﹂が︑これ

一五

(8)

経済史・経営史そして会計史

をもととして発揮される︒

大河内教授は生産技術の自然科学的知識も豊富である︒経済

史も経営史も経済の生産出にかかわって展開されるが︑技術的

側面について充介な理解がなければならない︒産業革命期以降︑

資本主義経済︹史ゾは工業技術なしには発展しえなかったので

あって︑工学的技術について大きな注意を払わねばならない︒

ボウルトンの企業者活動を通覧してみるとき︑﹁これらの事

業のいずれもが︑機械を設備した集中作業場における大量生産

の実現という︑ボウルトンの経営理念に貫かれている﹂(五0ペ

ージ)とされる︒終局では回転機関の量産にあった︒その経営

型念のもとに﹁他人の技術を的確に評何する能力に恵まれて﹂

ハ五二ページ)︑ゥォット式機関を手に入れることとなった︒金

属装身具類の生産

1

量産からはじめて︑いまや蒸気機関の量産

へと﹁機械を用いた集中作業場による大量生産という理念を大

胆に持込み︑その実現に突進した﹂(豆三ページてそれは﹁自

分が経験した日常的必要性﹂から出発すると大河内教授はいわ

れ︑﹁自分が経験した企業経営上の必要性とその解決策とを︑

経営環境との関連において把握し︑その意味を読み取って︑企

業経営の進路を定めたボウルトンの経営構想力こそが︑彼の経

営せる食業をば産業革命の推進力たらしめることになった﹂

(五四ページ)とする︒大河内教授は彼の経営構想は︑企業者個

人の経験的必要の知覚を基礎に企業活動の新方向が規定されて

いるとし︑﹁ボウルトン的経営構想は︑産業平ム叩期イギリスに

特徴的であったと言えよう﹂(五四ページ)と結んでいる︒これ

が第一章の概要で︑やや詳細に紹介してきた︒

新生産技術である機械の生産力とその経済的効果を見抜いた

ところにボウルトンの企菜経営者としての資質があった︒そこ

には近代的工場制生産の岨念があった︒大河内教授は製品供給

者としての企業者の経営構想を中心に説くのであったが︑経営

史において経営状況というとき市場U需要問題はどのように位

置づけるべきであろうか︒消費問題は販売問題に関連してくる

が︑資本主義の党展過程においてとらえるとき︑市場問題が新

苛妥者階級である労働者階級の購買・消費力として︑盾の一面

として大きな問題となってくる︒

﹁蒸気機関の往復運動を直接に回転運動へ転換する装置が発

明されたのは︑前章で見たように︑一七七つ年代末のことだ

が︑この結果︑蒸気機関は揚水用原動機から機械運動用の原動

機へとその性格を一変した﹂(六九ページ﹀0これは技術︹史︺

的にも︑また経常︹山人︺的にも注目すべきことであった︒犬︑河

内教授は﹁先駆的蒸気力工場の経営構想﹂として﹁アルピュア

ン製粉所﹂を第二章でとりあげる︒一七八

0

年代に入ると産業

界で回転機関の需要熱が急速にたかまってくるなかで︑この製

粉L場が建設きれてきた︒この点を犬河内教授は﹁原動機を用

いた工場制生産という新たな経営構想が︑回転機関の出現号待

(9)

ちに待っており︑機関の登場とともに︑たちまち先進的な企業

者のあいだに工場制生産の企業があい次いだのだと言ってもよ

い︒彼らは工場制生産体制を意識的に創出しようとしていた﹂

( 七 0ページ)とされる︒一七八六年には︑ロンドンのテムズ河

の南岸︑セントポ

1

ル寺院が空まれるところの﹁ウォットの複

式回転機関を原動機として設置した工場で﹂︑﹁かつウォットの

自慢する平行運動連結器を装旦点した機関﹂を

L

つ工場が開業し

この製粉工場は﹁単に石臼を蒸気機関によって運転するとい た ︒

うだけでなく︑補助工程や運搬まで含めて︑蒸気力を利用した

機械化を大幅に取入れ︑しかも木製とくらべて優れた強度と精

度をもった金属製機械装置を採用して︑昼夜連続操業を原則と

するに至った︑革新的な工場として︑その姿を瓜わすことにな

る﹂

ハ七

六ペ

ージ

)︒

サミュアル・ワイアトはアルピュアン製粉所の企業経営者で

あるが︑大河内教授は彼のボウルトン宛の操業損益計算につい

ての書簡を紹介している︒革新技術の採用が有利であること認

識しているものであったという︒生産性は憾度にヒ昇したので

あっ

た︒

この製粉所は複式回転機関の性能︑したがって製粉能力が非

常に大きかったので︑機関製造業者であるボウルトンUウオツ

ト商会の名戸を高めたものであるが︑しかし製粉所の成績は振

わな

かっ

た(

八二

ペー

ジ参

照)

経済史・経営史そして会計史 営業成績不振の原因︒大河内教授は﹁ボウルトンは︑その原因を親方の経営管理の仕方に欠陥があるからだと考え﹂(入二ページ﹀たという︒穀物仲買商をはじめとする原料提供者たちとの対応にも問題があるが︑経常管理者の問題をまずあげ︑﹁ワイアトやボウルトシなど企業設立者

F H 身が必ずしも経常管理機

能を発揮できない状況にあったこと︑それに加えて︑空前の大

製粉所を経営するには︑旧来の製造所とは異なった管現者能力

が必要になった﹂(八三ページ﹀とする︒

大河内教授はさらに︑経営規模に問題があったとする︒機械

が予期以上の高性能を発揮した︒もち論︑機関そのものがその

初期には故障しがちであったが改良が加えられた結果である︒

﹁予期以上に大きな生産力が作り出されてしまったので︑その

量的変化がもたらす経営管理上の質的問題の変化﹂(八四ペー

ジ)が増幅された︒過剰在庫の問題も出てきて︑工場生辰によ

って質的に変化した経営管理の問題が登場する︒大河山川教授は

﹁アルピュアン製粉所の営業成績不振は︑革新的伎術によって

機械化されたヱ場の生産力を低く予想しすぎていたことに︑一

因があろう﹂(八五ページ)とされる︒

一七九一年三月二日に火災を起した︒この炎上の状況を本書

の口絵で示している︒ボウルトンUウ寸ット商会も損害をうけ

た︒この製粉工業はついに再建されなかったという︒

大河内教授の巧みな筆の運びに小説を読むような感をもつ

が︑産業革命期の経営者の一つの経験︑結果的には失敗した経

一五

(10)

経済史・経営史そして会計史

験であるが︑経営管理は供給U

生産の問題として具体化する

が︑需要といかに対応させるか︑それに見合った経営状態をい

かにつくり出すことにあるかを知︑りされる︒この背景には競争

の問題が︑市場問題として国民経済的問題に関連する︒

1;; 

蒸気動力工場熱に浮かされている産業的中心地域から離れた

地域で︑その動向を見守り︑それに意識的に適応しようとした

企業者の︑すなわち﹁彼らの経営行動は︑産業革命の進行に対

して︑主体的判断にもとづいた適応的参加の形﹂(九一ページ﹀

をとったウィルトシァの織元クラlク商会をとりあげ﹁ウィル

トシァ毛織物工業における工場制経蛍の成立﹂と題したのが第

三章

であ

る︒

大河内教授はいう︒﹁ウィルトシァの毛織物工業は︑研究史

上いわゆる西部型織元の問屋制前貸支配の広大な組織を基礎と

して︑一八世紀前半まで著しい活況を呈していたが︑産業革命

を墳に︑それ以降急速に産業的重要性を失うに至っている﹂

(九一ページ)とされる︒そのなかで﹁問屋制経営か︑り工場制経

営へと見事に転換し︑産業革命の波Jど乗りこなした﹂企業もあ

るが︑それがクラlク商会であったQ

﹁西部型﹂織元と﹁北部型﹂織元の対抗︒産業革命の進行す

るなかでの北部の優位となるが︑﹁そこでウィルトシァの織元

たちが選択した途は︑競争に耐え得るような合理化を行なうと

一五

してのでなく︑競争を避けて︑ヨークシァ毛織物(未仕上げ白

布や

中級

ない

し下

級の

粗毛

織物

li

茂木挿入﹀とは非競合的な高級

毛織物たるスペイン織に転向し︑そこに活路を見出すというも

ので

あっ

た﹂

(九

二ペ

ージ

﹀︒

スペイン織の織元であるクラlク商会の経営形態を︑大河内

教授は︑クラiク商会の会計帳簿

li

これはベギンセイルによ

って編纂された書物によっているが

li

を手がかりに︑工場制

生産への転換に射程を定めたジョン・クラI

クの

経営

構相

応の

現のされ方を明らかにする︒

﹁一

lク商会財産届録お八

O

五年十二月三十一日現在のクラ

よび利誌計算﹂ハ九五ページ││イギリス式貸借対照表形式をとるll茂木)が表示されているが︑数多くの直営作業場を擁してい

ることがわかり︑そこでの道具︑備品の金額が記されている︒

作業場建物とか土地はいかなる会計処理がなされたか︑これは

第二部で問題とされる点であるが︑賃借制経営になっていたこ

とが

わか

る︒

毛織物の製造工程において︑多くは直営作業場で行われた

が︑問屋制前貸なり︑委託加工に頼る部分(織布と縮紋﹀もあ

った︒一八

O

七年頃から︑クラ1クは紡糸工程の直営拡大とい

う構想をもち︑﹁当時すでに技術開発が進んで︑確実に高性諮問

を発揮しているジェニ

i

紡績機を用いた紡糸工程を︑クラ17

商会の直営作業場の中核に据え︑これを基軸に全経営を一編成し

よう﹂ハ九七ページ﹀とした︒さらに︑諸ヱ程の直蛍化を進める

(11)

構想を持ったが︑織布工程の直営化は計られなかった︒西部型

織一見の特徴であろうか︑織布工の打こわしを恐れてか︒﹁織機

を織元の作業場に多数集中することが︑おそらく極めて困難で

あり︑いわゆる黄金時代を謡歌ずる織布工との札様を増すに違

いない﹂(九九ページ﹀状況にあヲたので直営作業場と委託加工

の併用によっていた︒﹁しかしクラlクは︑商会の経営の進路

を見定めるにあたって︑こうした伝統的な問屋制織一元形態から

直営作業場中心の工場制経営へと︑大さな方向転換を構想し︑

一八一四年からそれを実行に移した﹂(一O

一ペ

ージ

Y

産業革命は進行する︒﹁クラlクは一八一五年に工場建設を

始めるが︑そのために︑彼は︑土地や作業場建物を賃借して経

営するという従来の経営方針を改めて︑一八一四年から土地の

購入に着手し︑自分の土地に自分の工場を持つことにした﹂

( 一

O二ページ﹀︒その当時︑工場制生産は紡糸を行って︑織布

は依然として問屋制前貸ないし委託加工として外注されてい

た︒大河内教授はいう︒﹁クラlク商会の大規模な工場制紡糸

工程と︑多数の零細な独立織布工による織布工程とが︑均衡を

作り出していたわけである﹂(一O

五ペ

ージ

)と

﹁固定資本の増大を避けろという傾向は︑マニュアァクチャ

i期までの工業'経営の技滑的特徴である﹂(一O

六ペ

ージ

)と

われるが︑ここに﹁固定資本﹂への資本投下がなされるように

なる︒大河内教授は﹁庖大な固定資本投下にもかかわらず︑工

場経営に踏み切った後の方が︑売上高利潤率が高まったという

経済史・経営史そして会計史 事実であろう﹂(一O九ページ)とされる︒産業革命によって経

済的富裕がもた︑りされた背景がある︒

﹁北部産の毛織物がイン︑グランドの市場を席巻する﹂ハ一二

ページ)なかで﹁クラlク商会は︑北部の毛議吻とぽ非競合的

な高級毛織物スペイン織の織元で﹂あったが︑﹁ウィルトシァ

の毛織物業界も︑一八世紀にはすでに︑全体として︑北部との

競争を遊けてスペイン織など高級織物に集中しつつあった﹂

(一二一ページ﹀︒そして︹西部︺一地域内での激しい競争と弱肉

強食へと向かわざるを得なかった一︒結一言的に大河山口教反は﹁西

部毛織物工業の衰退と一言われる現象は︑北部との競争は敗退し

た地域ぐるみの衰退という性質のものではなく︑当時二の地域

の毛織物工業が置かれていた特殊な状況のもとで︑クラl

クら

が推進した産業革命の結果なのである﹂(一一三ページ)といわ

れる︒経済的史にみて重要な指摘であり︑これを経営の内部よ

り︑経蛍史的に実証した注目の論椅で︑教授の豊かなえ計学の

知識をも充分に駆使した労作といえる︒

産業革命の進行において︑工場制大経蛍の続出と中小経営の

急速な没落という典型的な産業﹁革命﹂状況は︑産業革命発祥

の地においても悶式的にはあらわれなかった︒自らつくり出し

てゆく状況と産業革命の輸入による展開とは異なろう︒大河内

教授は︑産業革命における︑その展開の二大部円であるバlミ

一五

(12)

経済史・経営史そして会計史

ンガムの金属工業とランカシア綿業をとりあげられるが︑研究

史上︑前者の経営の小規模牲と後者のじ場制大規模経営性が持

色づけれているとする︒この点を︑技術論的に問題とされ︑製

造工程のうえで︑後者の紡績・織布で一程の大規模性経営は実は

中同生産物を製造するものである︒中間生産物は量産に適して

いるとされ︑軽工業の紡績工場に対比せらるべきは重工業の製

鉄所であるとされる︒対比についての研究史上の疑問をなげか

けられて︑中小企業者たちの﹁産業革命期パ

i

ミンガム地域に

おける経営特化﹂の問題をまずとりあげて︑﹁社会的分業の状

況から見たパ

i

ミンガム地域の産業草命﹂を第四章で取扱う︒

大河内教授は﹁歴史の上に名を留めることの稀な︑この地域

の中小金属工業企業者たちは︑激動しつつある経営環境にあっ

て︑円己の経営の進路に係わって︑どのような問題を知覚し︑

またそこから︑進路を如何に構想したのであろうか﹂(一一二ペ

ージ

﹀と

され

︑﹁

lミンガムUブラック・カントリ地域の企業

の極度な経営特化という︑研究史上よく知︑りれている事実が︑

企業者たちの経営構想に係わって有する意味について﹂(一一一一一

ページ)問題を山される︒そして﹁経常特化という地域的な経

営上の特徴を︑経済的に言えば社会的分業の実態を︑分析し

て︑これを手がかりに︑パ!ミンガム

1

ブラック・カントリ地

域における産業革命期の企業経営行動を方向づけた︑企業の経

営構想に遡ってみようし(一一一一一ページ)とされるのであった︒

さらに問題提起をされる︒﹁パ

12

ンガムは産業革命期に巨

一五

大な金属工業都市へ急成長しつつあったが︑その中味は金属加

工業に集中していると一立回ってよい﹂とされ︑﹁それではこの集

中的発遣を示した金属加工業は︑具体的にどのような種類のも

ので︑どのように専門化していたのだろうか︒そして専門化の

状態は︑産業革命を経ていかに変化したであろうか﹂︿一二五ペ

ージ)と︒大河内教授はスケッチリの﹃商工人名録﹄第三版(一

七六七年刊)と一八三五年のライトスン日ウェブの﹃商工人名

録﹄によって︑産業革命の開始期と終了期の状況を検出され

産業卒命の進行過程で鋳造業が急増したが︑さらに機械工業 る ︒

と工学が基礎となった新業種が出現する︒﹁当時︑鋳造口山を基

礎にした一部の金属加工業では︑エンジニアの指導のもとに︑

精密な原因による正確な切削加工を必要とするような製品︑つ

まり機械の生産を行なっていた﹂(一二八ページ)のであるが︑

﹁ パ

lミンガムの金属工業経営者たちが︑これら伝統的業種に

ついては見切りをつけた﹂(一二九ページ)のであった︒

機械製造の発達のなかで二八二四年の鉄道企業熱以来︑フラ

ック・カントリの金属エ業者は俄かに鉄道に関心をもっ︒鉄道

工業ともいうべき産業群の出現︒大河内教授は﹁鉄道工業が︑

イギリス産業革命の技術的成果を世界に伝える大役を担った﹂

(二一三ページ)といわれる︒外航風船舶の建造まで意図するこ

とにまで及んだが︑産業革命における﹁蒸気機関の発達は︑ブ

ラック・カントリの製鉄業にとっての険路を一挙に取り除くこ

(13)

ととなすた﹂(一三三ページ)︒製鉄業の大いなる発達︒

大河内教授は﹁製鉄業が発達した結果︑パーミンガムUブラ

ック・カントリ地域を全体としてみると︑原料採掘

i i

製鉄

(中間生産物)││金属加工会最終生産物)という一貫した分

業構造が地域内に作り出された﹂(二一一三ページ)とされ︑﹁イ

ギリス第一の生産手段生産部門の基地﹂が出現したという︒こ

れは経済史のいう社会的分業の問題が︑個別経営の次元におい

ては﹁特化﹂として現われたことを示している︒

金属加工業はパlミンガムで中小経営によるが機械化が進ん

でいた︒小規模経営でも独自の技術を開発して専門化した経営

活動をなしていたが︑﹁それぞれ専門機械を使用し︑原動機と

して蒸気機関をいち早く導入していた﹂(二一一四ページ)のであ

った︒その金属加工業の技術的頂点に機械製造業が出現した

が︑とくに蒸気機関の製造において︑製鉄業も発達してきた︒

また交通・運輸の発達がもたらされ︑大河内教授によって示さ

れた︿原料11中間生産物111最終生産物﹀の一二者の需給が社

会的に拡大均衡されることとなった︒これが経営特化指向と中

小規模経営の繁栄を可能にした産業革命期の︑そして発展する

資本主義のパラ色の時期をかたちづくる︒そこにおいては企業

経営者は﹁新技術が提供しうる豊かな企業機会を求めて︑ささ

やかな経営活動を進めただけにすぎない﹂(一三九ページ)が︑

﹁しかし︑彼らの経営特化という進路が︑技術開発︑生産性の

上昇︑専門製品の大量生産という︑産業革命の技術的特徴のす

経済史・経営口史そして会計史 べてを満たすものであったことは見紛うべくもない﹂(一三九ページ)と大河内教授は指摘され︑これが﹁パiミンガム型﹂の

産業革命だといわれている︒

以上︑企業者の主体性の実現過程について大河内教授にそく

して学び︑工場制度が形成される過程を勉強してきた︒この著

作は豊かな工学的︑技術的知識のもとにわが国の産業革命史研

究を豊かにした︒標題には﹁経営史﹂となずけられているが︑

資本主義発達史の研究に‑個の石を投ぜられたといえる︒

経営史学は経営学というよりは︑経済史学の発展のなかから

出て来た︒この場合︑近代U資本主義の発生史的研究が進むな

かで︑個別資本の動態分析を必要としてきた︒経営学にかかわ

ることとなるが︑経営学の方法は多様である︒これは利潤追求

の運動体である企業を対象としている︒企業の人格的体現とし

ての企業者の問題であるが︑ここが大河内教授の扱った企業主

体の経営構想の問題であって︑多分に経営学的アプローチが必

要であった︒

j¥ 

この項から第二部の紹介と論評に入る︒第二部は﹁産業革命

期の固定資本問題﹂と題するもので︑いままで考察した工場制

度の形成の経緯をうけて︑工場制生産体制のもとにおける経営

財務︑減価償却実践などの会計の諸問題の検討も加わり︑会計

史論にも関連する︒ここに﹁固定資本﹂を問題とするのは工場

一五

(14)

経済史・経営史そして会計史

制生産を技術的基盤とする工業経営企業を対象とするからで

︹前期的︺商業資本段階にはなかったものである︒

その第一章は﹁産業革命期の長期工業金融﹂であるが︑﹁固

定資産﹂││土地・建物など

1

lを設備するために長期資金を

準備しなければならなかった︒﹁産業革命期のイギリスの企業

者は︑こうした長期資金をどのようにして調達したのか︑その

資本形成の仕方が︑経営史からみた場合︑産業革命期の工業経

営の重要問題となる﹂(一四七ページ﹀︒

大河内教授は﹁これまで︑産業革命の研究史において︑資本

形成もしくは企業金融の問題として重視されているのは︑もっ

ぱら流動資本についてであった﹂ハ一四七ページ)とされ︑ヒー

トン︑アシュトン︑ポラlド︑クルゼ︑ハパカクの所説を紹介

され

る︒

大河内教授は︑ポラlドによりつつ︑﹁産業革命期の企業に

おいては︑固定資本と流動資本との区別は極めて陵昧であっ

て︑前者がしばしば後者と混同されてもいた﹂(一五0

ペー

ジ)

とされる︒両者の混同については︑流動資本日流動資産と考え

られるものの棚卸評価による資産の会計処理で︑損益計算的に

はこれでこと足りたのであった︒教授の指摘は近代会計実践の

中心にたつ減価償却形成史において︑その認識の端諸の問題と

して重要である︒投下資本の固定資本部分といわれるものの会

計的な少量性をあげる︒しかし︑固定資本的機能を果す実体は

大きいものを設備していると指摘される︒これは重要である︒

一五

﹁この当時の工業企業に広く見受けられた作業場等の賃借経営

に着目するならば︑企業が賃借によって確保し使用していた作

業場建物や製造装置など︑回定設備の実体は︑相当に大きなも

ので

あっ

た﹂

(一

0ペ

ージ

)︒

使用

U機能している実体と会計表

示の黍離について一つの問題が出てくる︒さらに大河内教授は

金融という内容を貨幣形態による資金調達と﹁固定資本の現物

形態での借入﹂もあるとされ︑後者の問題は﹁それはたいして

重要ではなかったとする定説は︑果して納得的なものであろう

か﹂(一五一ページ)とされるのである︒

産業革命期における投下資本の固定資本と流動資本の比率に

ついて﹁綿工業においては創業にあたって投下する総資本のう

ち︑少くとも半ば以上︑おそらくは六割程度が︑固定資本とし

て用いられていたものと考えて︑差支えないのではなかろう

か﹂三五六ページ)というのが大河内教授の主張である︒

﹁流動資本の場合は一般に分割投資が可能だが︑画定資本

は︑多くの場合︑あるまとまった金額を一挙に投下しなければ

ならないという技術的特性をもっている﹂三五五ページ﹀とさ

れ︑それ故に﹁工場経営のための企業者の投資行動は︑まず固

定資本投資を先行させ︑次いでこの固定資本の稼動に見合って

流動資本を漸増させてゆき︑やがて当初投下した固定資本の完

全稼動に必要な水準にまで達せしめる﹂三五五ページ﹀という

方途をとるとされ︑固定資本投資の先行性を指摘される︒この

固定資本分の投資態様として﹁既存の製造施設の転用﹂︑﹁企業

(15)

者自身ないしその一族の有する私財﹂の充用︑銀行よりの借入

れ││これは必ずしも好意的にはなされなかったがーーがあっ

た︒経営構想が具体化する︒

﹁固定資本調達のために工業企業者が広く利用した方法改︑

作業場や製造装量など固定資本たるべき固定設備を︑長期間に

わたり賃借することによって確保するという︑いわゆる﹃作業

場賃借制

= F 3 8

こ﹄の活用であった﹂︿一五九ページ)︒賃借制

では︑企業者に国定資産の一所有織はないが︑利用することはで

さる︒この利用は資本家からみれば面白た資本部分への投資の節

約でもあった︒ヱ場経営を志向した企業者は︑作業場を賃借す

ることによって︑より少ない資金をもって事業を始めることが

で き た 三 六

0ページ)とされるが︑これらが社会的に準備され

ていることが前提であった︒地主階級が︑資本家

1

企業者に現

物形態によるヱ共金融を行っていることは︑地主が用意できる

資刈を持っているからで﹁工業的発展に対する農業の貢献﹂で

もあった︒土地所有制度に関連している︒

大河内教授ほ研究史的に流動資本の調達に工業金融があると

映ずるのは︑回定資本部分の地主による準備と︑それの貸し付

け︑逆に賃借による方途があったためであるといい︑これがイ

ギリスの産業革命期の特徴だと鋭く指摘している︒固定資本財

の賃貸借制を地主による工業金融とみる点ば注目すべきであ

る ︒

経済史・経営史そして会計史

﹁作業場賃貸借制﹂は産業革命期における長期金融的機能を

冷たすと主張する大河内教授ぽ第二章で︑その成立過程を分析

する

賃借制はなにも産業革命期にのみ特殊な存在ではないとされ ︒

て︑歴史をさかのぼって中世からはじめる︒﹁この賃貸借は︑一

般に︑土地所有者との直接生産者たる工業企業者との直接の契

約関係であり︑しかも賃借目的が工業経営であるだけに︑そして

さらに︑一五世紀から一九世紀までの間には市民革命をはさん

でいるだけに︑なおいっそう︑賃貸借制が工業経営もしくは産

業資本の発達に対してどのような作用と意義とを有したのか︑

市民革命の前と後とでその内容に違いは無いのかという点が︑

経営史的ならびに経済史的に︑大きな関心事となろう﹂︿一六八

ページ)とされる︒市民革命の前後の比較からはじめる︒

大河内教授は︑作業場賃貸料の額︑賃貸借にともなう付帯条

件︑契約期間の三点をあげて比較される︒﹁市民革命以前の作

業場の賃貸借制は︑企業者のもとへの蓄積を封じるような︑高

額かつ怒意的な賃貸料︑生産量制限など厳しい付帯条件︑短期

賃貸

(長

くて

も七

年か

ら一

O年││茂木注﹀という特徴をもって︑

ぽぽ一五世紀ころから広く行なわれていたが﹂士七八ページ)︑

絶対王制期に漸時変容をはじめる︒﹁絶対主制期の末ともなる

と︑作業場賃貸借契約においては︑生産量の制限は多くの場合

一五

(16)

経済史・経営史そして会計史

撤廃されており︑契約期間は長期化し︑しかも︑賃借者が自由

に追加投資を行なう権利が認められるようになった﹂(一八0ペ

ージ

﹀︒

絶対玉制末期には賃借者l企業家にとって条件が有利となっ

たことを示すが︑この頃︑﹁工業経営で身をまでた企業者が︑

経営に成功するや︑作業場等の賃借を止めて︑その購入に向か

い︑さらには工業経営よりも土地所有へと走った﹂ハ一八二ペー

ジ)とされ︑その理由を問われる︒教授は﹁土地所有の経済的

および社会的な価値が︑工業経営のそれに優越していたことを

示す﹂という︒当時の社会的地位が地主層が産業資本家よりも

高かったことを一示し︑﹁ここに作業場賃借経蛍にもとづく産業

資本の発達に対して︑社会的限界の存在したことが一不されてい

る﹂

(て

八二

ペー

ジ)

とい

う︒

ついで一八世紀に入る︒﹁一八世紀から産業革命期の工業企

業において︑それが精錬業のような大規模工業であれ︑装身金

具製造のような小規模であれ︑炭坑業であれ︑繊維工業であ

れ︑作業場やその敷地を︑そして時には機械など製造設備一切

を︑賃借して工業経営を展開した事例が極めて多い﹂(一八主ベ

1ジ)とされるが︑産業資本は賃借制経営として出発した︒賃

借経営ではあるが︑﹁土地所有の利害は産業資本の利窓口に従属

している﹂(一八七ページ﹀ようになって︑賃借料の﹁支払者た

る産業資本が許容した利子率に準拠して算出され﹂︑主パーセ

ントという料率が社会的標準となってくることを一示す︒これが

一六

O

基礎にあろうか︑一八世紀に入ると二一年の契約期聞が一般化

する︒﹁市民革命以前の賃貸借が︑一般に極めて短期の契約で

あったことと比較するならば︑一八世紀以後の賃貸借は︑契約

期間の長期化したことが︑一つの特徴だと一言って差支えないし

ハ一九六ページ)と大河内教授はいわれるが︑工業化に向った社

会の投資機会の拡大が条件をゆるめることとなった︒

﹁企業者たちが︑市民革命以前の企業者と異なって︑作業場

や土地を自己所有しようとせず︑その賃借経営を続けようとし

たのは︑いったい何故であったのか﹂三九七ページ)といわれ

るが︑﹁作業場賃借経営の企業者的判断﹂が問題となる︒

大河内教授は一つの例としてゴウルブルックデfル製鉄所の

事例を紹介されるが︑賃借制から自己所有へと作業場︑土地を

購入しようとしたが︑﹁一七七0年代半ばにコウルブルックデ

ィル製鉄所で遊離資金が発生したのは︑当時の技術水準におい

て︑同製鉄所の経営規模がすでに適王規模にまで達してしまっ

ていた﹂(ニ

00

ページ)からで︑経営者ダ

1

ピコ

一世

はそ

れ以

の経営の拡大は不利と判断したのであった︒ぞとで経営拡大意

欲はありながらも遊休するほかはなくなった資金︹遊離資金︺

で土地︑作業場を購入したのであった︒大河内教授は︑﹁ここ

で取得した作業場や土地は︑経営者の立場から見れば遊離資金

の一時的休息形態しだとされ︑これらを﹁所有すること自体が

資金設下の本来の日的ではなかった﹂(一一00

ペー

ジ)

とさ

れる

ここにはすでに﹁賃借者に圧倒的に有利な諸条件で作業場賃貸

(17)

借制が存在していた﹂とされる︒

ついで自己所有による経営口拡張に努力したサミユアル・オウ

ルドノウの例を分析する︒﹁オウルドノウの資金投下の仕方

が︑土地購入および工場建物建設という不動産取得に著しく偏

っており︑これがため︑資金をあまりにも固定化しすぎていた

ことが︑特徴的である﹂

2 0

二ページ)と指摘され︑それ故に

失敗したのどという︒

大河内教授は不動産所有に固執することについて︑彼の﹁観

念では︑土地や不動産は未だ商品化されておらず︑商品よりも

上位の概念であった﹂C

二八

ペー

ジ註

一一

O﹀という︒問屋制前

貸人(商人﹀︑企業者のイギリス身分制へのあこがれがあった

ので

もあ

ろ︑

コか

また他面では自己所有経営者であるオウルドノウは︑自己所

有の作業場にたいして賃借料を計上している︒これを紡績原価

に算入しているという@大河内教授は﹁所有と使用を峻別した

うえで︑設れが作業場を使用するにせよ︑作業場を使用すれ

ば︑所有者に対して使用料を支払うべきだという考え方なので

ある﹂ハニO四ページ﹀とされる︒教授は続けて︑﹁そこで作業

場等の所有者たる資格からこの計算を見れば︑作業場建設や土

地購入に投下した資金は︑不動産の現物形態をとりつつ︑賃貸

料に相当する利子をもたらす資産だということになる﹂(一一O

四ページ)と指摘される︒この見解は歴史的過程で重要である︒

やがて収益をもたらすべき犠牲分としての資産概念(減価償却

経済史・経営史そして会計史 概念)が形成されてくるが︑教授は回定設備と土地に投下した資金の性格を区別してのべられるハ一二八ページ︑註二ごニ﹀︒土地という資産は今日︑減価償却の対象になっていない(償却不要資産)が︑その理由解明の一つの示唆をあたえられる︒

産業革命期においては︑﹁一般的に言って︑賃借経営が所有

経営よりも有利であった﹂と証明されるハごO

六ペ

ージ

Y

むす

びとして﹁作業場や土地の賃貸は︑現物形態にせよ︑貸付資本

を地主が工業企業者に貸付けること︑つまり工業金融であった

と言ってよい﹂(二O七ページ﹀といわれる︒一個の金融形態と

される︒ついで﹁当時における作業場等賃貸借制は︑マニュフ

アク

テャ

l期の階級分解の特徴的現象たる︑いわゆる社会的対

流現象の言わば触媒として︑そのと昇流を円滑化し︑産業資本

の小生産者的発展傾向を促進する作用をもっていた﹂ハニO

七 ペ

ージ

)と

指摘

され

る︒

さらに︑地主の工業金融の結果﹁企業者の回定資本負担は軽

減され︑同時に︑現金形態に解放された資金を持つこと﹂(ニ

O八ページ)さえもできた︒経営拡大の原動力がえられたが︑賃

借者に有利な賃貸借制であって︑市民革命前とは異なってき

た︒大河内教授は﹁この作業場等賃貸借制は︑産業資本に対す

る土地所有の従属形態であるといってよい﹂(一一O

八ペ

ージ

)と

され

る︒

このように土地所有ハ地主)と工業経営(産業資本﹀の対抗

関係という一面をもつものであるが︑資金供給関係としてみる

一六

(18)

経済史・経営史そして会計史

とき﹁地主は法定最高利子率なみの収益を保証きれた﹂(一一O

八ページ)のであり︑他の制度にまさる役割をしたことを指摘

されている︒﹁経済的に︑ぞれ故また政治的に︑産業資本と土

地所有とが迫携できる地盤が存在していた﹂(二O

九ペ

ージ

)と

いわれる︒この二階級と労働者階級との対抗として資本主義は

展開

する

﹁産業革命期から現われろ工場経営においては︑長期固定的

な不変資本たる同定資本が彪大化する点で︑まさに工業経営に

独自の資本構成を鮮明に備えることになる﹂(二二0

ペー

Y

廃大化した固定資本をめぐる資本調達の問題として前章までの

考察を続けた大河内教授は︑第三章︑第四章で会計問題として

固定資本をどう取扱ったか︑資本

1

利益計算にいかに関連きせ

るかに焦点を集めて研究を展開する︒会計学︑会計史的にいえ

ば減価償却形成史に属する分野でもある︒﹁産業革命を画期と

する︑このような工業経営に独自と言うぺさ固定資本の急増に

直面して︑当時の企業者たちは︑その事実をどのように認識

し︑会計上如何なる対応をしたであろうか﹂︿二一二ページ)と

問題を立てる︒この問題はイギリスにおいて産業革命をはじめ

て経験するものとして純粋に︑自生的に展開される︒

これに対するアプローチは会計史と経済史の両面からなされ

ていることを大河内教授は紹介する︒この第一の会計史的按近

一六

においては︑概して﹁産業革命の遂行と固定資本の減価償却と

いう会計技術の成立とのあいだに時間的なずれがあるという点

で︑いちおう一致した結論

μ

逮し

てい

る﹂

(一

一一

二ペ

ージ

)と

う︒減価償却成立史として木村和三郎教授は産業革命の完成・

確立期説を展開されるし︑成田修身教授は鉄道固定設備の減価

償却法実施期説宮とり︑また宮上一男教授は独占移行期説を展

開されている︒これらの会計学者の主張を検討している︒

﹁会計史の研史は︑会計書に記述されている減価償却の方法

なり︑制度として確立し法的に定められた減価償却を中心に︑そ

の歴

史を

追究

して

いる

﹂(

一一

一一

一一

ペー

ジ)

とさ

れる

が︑

まず

史料

判的に疑問があるという︒大河内教授は会計学者間の記述︑会計

実践の制度的法的整備以前に﹁ものの考え方として減価償却を

形成するような思考なり会計技術が︑必要に迫られた個々の企

業の

現場

で成

立し

︑工

夫さ

れた

﹂(

一一

一一

二ペ

ージ

)と

主張

され

る︒

当然に時差があるといわれてさらに産業革命期訟を主張され

る︒

また

﹁一

七二

一年代に早くも︑製鉄業などでは原価計算の

0

概念が成立を見ており︑経済理論的に言えば︑すでに生産価格

範臓が形成されていた﹂ハ三一三ページ││傍点・茂木)とい︑7・

経済史的接近において︑ポラjドは産業革命当時流動資本が

固定資本に対して比率が大さいこと︑また固定資本の調達のた

めに資金は銀行に依存することが少なかったとのべているとす

る公

一二

三ペ

ージ

Yポラ

i

ド的見地もまた減価償却・固定資本

の概念成立否定論であるが︑大河内教授は﹁企業の財産目録や

参照

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一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血

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経済学の祖アダム ・ スミス (一七二三〜一七九〇年) の学問体系は、 人間の本質 (良心 ・ 幸福 ・ 倫理など)

目について︑一九九四年︱二月二 0

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一○ ミルク及びクリーム︵濃縮若 日から平成一六年 トン 一○ ミルク及びクリーム︵濃縮若 日から平成一五年 トン. ○四○二・